最近あまりCDを借りていなかったけれど、立て続けにローリング・ストーンズやらザフーやらジミ・ヘンドリックスやドアーズやらジャムやらセックス・ピストルズやらビートルズやらのミュージックDVDを観ていたら、またふつふつとそういう気持ちになった。
1度にレンタルできる最大枚数の20枚を一気に借りる。
私が最初に影響を受けたヒロトやマーシーが影響を受けた人たち。
私を照らした彼らが照らされた人たち。
その光の素たちは、私にはよく分からない、分かりたいけれど、どうにも分かるとは言い難い。
と思っていた。
「ヒロトとマーシーがあんなに好きなバンドたちだから私にだって良いはずだ」という無茶苦茶な論理の下で聞いて、自分がすっかり洗脳されているのかと思いきや、割と正しく私の心は反応するもので、「これのどこに震えているのだろう」という正直さを持っていた。
私はもう丸ごとヒロトとマーシーのことが好きで、それはそうなのだけれど、「自分のことは自分に聞いて、自分の回答を出す」ということはおよそできているようだ。
私がロックンロールから受けた一番のメッセージは、“自分であれ”ということだったのだからこれはとても自然なことだし、嬉しいことでもある。
しかし、しかし、もっと多くのロックミュージックに、ロックミュージシャンに震えることができたとしたら、それはとてもとても良いことだから、分かるようになりたい。
もう長いことそう思っている。
彼らの予備知識をウィキペディアで読んで、インタビューなどもYouTubeで見て、ドキュメンタリー映像も見て、ライブ映像を見る。
先日買ったロック全集のような分厚い本も眺めてみる。
今回初めてローリング・ストーンズのライブ姿をDVDで見た。
すると確かに、あ、と心がくっと動く感じがした。
よくわからないけどそういうことか、という感じ。
微動、といった感じだけれど、確かな微かさで。
見たのはたぶん比較的最近のライブで、嵐の東京ドームコンサートのような壮大さと派手さがあるようなもので、彼らが“はだか”を見せている感じもほとんどしなかったのだけれど。
ミックジャガーは肉体を露わにするような小さなパツパツのトレーニングTシャツのようなものを着ていたし、キースリチャーズはヒョウ柄のコートとか着ていたけれど。
そこには確かに動いた私の心があって、私は不意に胸のあたりの服を掴んだ。
ふはは、と心の中で笑う。
これは嬉しい。
音楽を聴くのに、その創り手の生い立ちも込められた思いも垂れ流される身体的なパフォーマンスも、必要ないという人がいるかもしれない。
ただ私は、そういうものを取り入れることによってその曲たちを聴く感じ方までもが変わってしまうし、そうやって好きになれたものも、本当に好きだと思える。
それが私の勝手な解釈と後付けだろうと何だろうと、創り手ががんばってがんばってがんばって自分の内部を露出して形にしたロックンロールが愛おしくて愛おしくてたまらない。
私にも好きな音の種類や心地よいビートというものはある。
しかし、純粋な音楽についてはほとんど物申すことはできないし、しない。
その代わり、創り手の思いが、何であれその人自身ができる限り他人の価値観を排除して創ったものに打たれるのだと思う。
「全部自分だ」という発想の下で。
借りたCDの中の1枚、オアシスの「ヒーザン・ケミストリー」
オアシスは直接私を照らした。
CDを取り込んでいるときに聴いてみると、私はやっぱりどうにもオアシスは好きみたいだ。
悪い意味でもなんでもなくて、彼らの曲はどれも同じ風合いである。
それはオアシス解散後のノエルギャラガーのバンドの曲にも同じことが言えて、つまり私が好きなのはノエルギャラガーが生み出すその風合いであるということになる。
どうか飽きてしまいませんように、と祈る一方で、当面大丈夫そうだと思ったりする。
誰かとロックンロールの話がしたい。
茶香炉のキャンドルを点けようとして、ライターの火で爪のマニキュアが溶けて少しの煙が出た。
デスクライトにノートPCの端が当たっていて、ライトの熱が集中したらしくPCの端が少し溶けた。
どちらもプラスチックが焼けている変な焦げ臭い匂いがした。
火は上に上がるんだな。
ライトでもプラスチックは溶けるんだな。
色々、注意力を持って暮らさねばならない。
今回の書は、まだブログ掲載における準備が諸々できていないので、前展覧会の「情熱の薔薇」。
1度にレンタルできる最大枚数の20枚を一気に借りる。
私が最初に影響を受けたヒロトやマーシーが影響を受けた人たち。
私を照らした彼らが照らされた人たち。
その光の素たちは、私にはよく分からない、分かりたいけれど、どうにも分かるとは言い難い。
と思っていた。
「ヒロトとマーシーがあんなに好きなバンドたちだから私にだって良いはずだ」という無茶苦茶な論理の下で聞いて、自分がすっかり洗脳されているのかと思いきや、割と正しく私の心は反応するもので、「これのどこに震えているのだろう」という正直さを持っていた。
私はもう丸ごとヒロトとマーシーのことが好きで、それはそうなのだけれど、「自分のことは自分に聞いて、自分の回答を出す」ということはおよそできているようだ。
私がロックンロールから受けた一番のメッセージは、“自分であれ”ということだったのだからこれはとても自然なことだし、嬉しいことでもある。
しかし、しかし、もっと多くのロックミュージックに、ロックミュージシャンに震えることができたとしたら、それはとてもとても良いことだから、分かるようになりたい。
もう長いことそう思っている。
彼らの予備知識をウィキペディアで読んで、インタビューなどもYouTubeで見て、ドキュメンタリー映像も見て、ライブ映像を見る。
先日買ったロック全集のような分厚い本も眺めてみる。
今回初めてローリング・ストーンズのライブ姿をDVDで見た。
すると確かに、あ、と心がくっと動く感じがした。
よくわからないけどそういうことか、という感じ。
微動、といった感じだけれど、確かな微かさで。
見たのはたぶん比較的最近のライブで、嵐の東京ドームコンサートのような壮大さと派手さがあるようなもので、彼らが“はだか”を見せている感じもほとんどしなかったのだけれど。
ミックジャガーは肉体を露わにするような小さなパツパツのトレーニングTシャツのようなものを着ていたし、キースリチャーズはヒョウ柄のコートとか着ていたけれど。
そこには確かに動いた私の心があって、私は不意に胸のあたりの服を掴んだ。
ふはは、と心の中で笑う。
これは嬉しい。
音楽を聴くのに、その創り手の生い立ちも込められた思いも垂れ流される身体的なパフォーマンスも、必要ないという人がいるかもしれない。
ただ私は、そういうものを取り入れることによってその曲たちを聴く感じ方までもが変わってしまうし、そうやって好きになれたものも、本当に好きだと思える。
それが私の勝手な解釈と後付けだろうと何だろうと、創り手ががんばってがんばってがんばって自分の内部を露出して形にしたロックンロールが愛おしくて愛おしくてたまらない。
私にも好きな音の種類や心地よいビートというものはある。
しかし、純粋な音楽についてはほとんど物申すことはできないし、しない。
その代わり、創り手の思いが、何であれその人自身ができる限り他人の価値観を排除して創ったものに打たれるのだと思う。
「全部自分だ」という発想の下で。
借りたCDの中の1枚、オアシスの「ヒーザン・ケミストリー」
オアシスは直接私を照らした。
CDを取り込んでいるときに聴いてみると、私はやっぱりどうにもオアシスは好きみたいだ。
悪い意味でもなんでもなくて、彼らの曲はどれも同じ風合いである。
それはオアシス解散後のノエルギャラガーのバンドの曲にも同じことが言えて、つまり私が好きなのはノエルギャラガーが生み出すその風合いであるということになる。
どうか飽きてしまいませんように、と祈る一方で、当面大丈夫そうだと思ったりする。
誰かとロックンロールの話がしたい。
茶香炉のキャンドルを点けようとして、ライターの火で爪のマニキュアが溶けて少しの煙が出た。
デスクライトにノートPCの端が当たっていて、ライトの熱が集中したらしくPCの端が少し溶けた。
どちらもプラスチックが焼けている変な焦げ臭い匂いがした。
火は上に上がるんだな。
ライトでもプラスチックは溶けるんだな。
色々、注意力を持って暮らさねばならない。
今回の書は、まだブログ掲載における準備が諸々できていないので、前展覧会の「情熱の薔薇」。