つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

お金で買えるもの

2011-10-22 23:40:38 | 日記
墨を磨る。

私は必要に迫られないと墨を磨らない。
面倒だからだ。
墨を磨る行為、というのは書道というと結構シンボリックな行為なようだが、私はいつも面倒だと思ってしまう。

でも磨り墨の作品は乾くのが早いからいい。
筆を洗うのも墨汁を使う時よりも断然楽だ。

以前に祖父が山奥で買ってきてくれた硯を出す。
十何万円かと聞いているその硯は想像するよりもずっとずっしりと重く、するするすべすべの石肌をしている。

使う墨はもちろん、磨るスピードや力加減で墨の粒子の粗さが決まり、そして筆・紙の種類やその日の湿度によってもその滲み方が異なる。
墨色が良いとか悪いとか言うのだが、まず「良い墨色」というのを知るところからだ。
「思い込み」や「先入観」「既成概念」といったものを取り払って、「新しさ」と認めてくれる風土はあるが、決して何でもいいわけではない。

「良い」とは何か、を決めないと「良い作品」は生まれない。

最近、私は書道について偉そうなことを考えてばかりいて全然手が動かない。


見たくないものを半分自分から見てしまって変に尾を引いてしまった。

所謂サークル活動のようなものがあまり得意ではない私にとって、より自分自身や自分のやり方に自信を持たなければ生きづらくなる。
コミュニケーションの在り方が心地悪い。

自分自身に自信は、あるし、ない。

「じぶんのリーダーは、じぶん」と糸井重里さんが言っていた。
「私が“私”と他人だったら、私は“私”を友達もしくは恋人にしたいですか」と酒井若菜さんが言っていた。
胸張って、したい、と言えるようになりたい。



周波数

2011-10-19 21:16:57 | 日記
NUMEROやELLEやVOGUEなどの海外系雑誌とwebを頻繁に見るようになって、そこから行ったところや買ったものが結構ある。
写真や絵画などの展覧会や個展、映画や化粧品。
私は見事にそれらの雑誌のターゲットの中にいるのだと思う。

特にNUMEROはコンテンツがまさに私に突き刺さってくるものがたくさんあった。
フラワーアーティストの東信の作品に出会ったのもNUMEROだし、烏賀陽弘道や中野裕太のコラムやHandmanなどのコンテンツが好きだ。
眺めるだけの雑誌ではなくて、読み物としても楽しめる雑誌。

雑誌が月刊で出ることの意味や、雑誌ってこうやって読むのか、と相当に遅ればせながら知った。
編集長の田中杏子さんのことまで少し調べてしまった次第である。

言葉の相性、というところの話かもしれないが、ライターによって生み出される文章はその人が言葉を自分のものとして扱っているかという点によって“読ませる”ということが可能になるのだと思う。
ただ雑誌そのもののコンセプトによってライターは自分の思い通りに書けない、ということもあるのかもしれないが、やはり書き手が主導を握ってほしい。
もちろん、一貫した世界観、というのは重要だと思うし、全体の世界観の中でのライターの芯、といったところだろうか。
私はNUMEROのその全体の世界観がまず好きだ。

雑誌にブランド物の付録をつけて売上を伸ばす策はいいものの、買い手に雑誌本体は要らないので付録5個買えませんかとか言われてしまう本末転倒な昨今、私のような存在は雑誌の作り手からすると雑誌冥利に尽きるだろう。

もちろん、売れることは大事だ。
というよりそれが大半の意義であるし、売れなければ最終的には打ち切りになってしまうだろう。

雑誌が流行を創るのか、流行を雑誌が後押しするのか。
両方の要素を持ち得ると思うし、より売れる方、という選択は正しいと思うが、私は作り手の意志や頑固さを見たいと思う。
消費者ありき、の上で、作り手の趣味・嗜好、想いも見たいと思う。

透明な水に赤いインクを溶かすと水の量で色の濃さが決まるように、あまりに広く遍くのターゲットにしてしまうと、内容は薄まってしまう気がする。
NUMEROのターゲットが狭いかどうかとか作り手の趣味・嗜好が強いかとか実際のところは知らないが、今の感じなら私は折を見て買うだろう。

私はもともと雑誌は全然読まなかった。
流行にあまり興味がないので、年に2回くらい暇つぶしに買うくらいだった。
コンサバな雑誌には共感できないし、そのようなもので参考になったりどきどきするような服やデザインやコンテンツがない。

ただそれは単に私が雑誌について無知であったというだけで、本当は昔から面白い雑誌というのはあったのだと思う。
それと、私自身が好きなもの、が確立されてきてアンテナが立ってきたのだろうし、そのアンテナが利くようになってきたのだと思う。

ちなみにブックオフでNUMEROのバックナンバーが売っていると買ってしまう。


今日は5時くらいに空が幻想的に夕焼けていた。
オフィスから見える狭い空。
和紙で透かしたようなぼんやりとしたオレンジ色。
そこからの淡いパープルへグラデーション。
息を吹きかけたらグラデーションの具合が動きそうな。

明るくないけど、暗くない。
辺りは時間がまっすぐ進んでいないかのような不思議な色合いに包まれた。

それはほんの一時のことで、透け感が次第になくなっていった。
夜が濃度を増していく。



前提

2011-10-18 22:49:29 | 日記
私には眠期(ねむき)とノン眠期(のんねむき)の2つの時期があって周期は不定期に繰り返される。
やたら眠い時期と、あまり眠くない時期。

眠期は朝目覚めが良くない、昼下がりもやたら眠いし、電車でも寝る。
眠期の方が思考は働かないのだが、眠るという行為が心地いいので私は好きだ。
ちゃんと起きていられるときはたくさん寝ている分、身体も軽い。
疲れて帰ればベッドに染み込むように眠れるし、眠期の休みの日の朝はとろけるような幸せを感じる。

秋、眠期、休日、朝、予定なし、曇りか雨。
この条件が重なったら結構高レベルな幸せを味わうことができる。
ちなみに眠期とかノン眠期に関わらず気圧が低い方が眠い。

今の私はノン眠期で、寝つきがよくない。
疲れて帰ってもPCを開いて何かにはまってしまって寝るのが遅くなってしまったり、にも関わらず朝はアラームの前に時計を見てしまう。
もともとが眠れない体質ではないので、ノン眠期でも結局アラームまで二度寝するのだが眠りが浅いためか身体がだるい。
ノン眠期といいつつ、ちゃんと眠れていないので昼間眠くなったりするし、血の巡りが滞っている感じがする。

所謂女性ホルモンに関係があるわけではなくてもう少し長いスパン、たぶん季節に関係がある。
季節の変わり目は眠期なことが多い。
今は、秋、という季節に完全になったということで、交感神経、とか、副交感神経、でいうと今は交感神経が勝っている時期なのだろう。


ほぼ日はやっぱり面白い。
というかやっぱり糸井重里さんが面白い。
言葉を自分のものとして扱える人は尊敬してしまう。

日曜日から始まった『南極大陸』を継続して観ようか迷っている。
まったくもって予想外の、という展開は描けないが熱さや純情さで言えば『海猿』みたいな楽しみ方ができる気はする。
観るとすると、日曜日が「ドラマ曜日」となるのは何年ぶりだろう。
見逃してもネットで観られてしまうところが昔のような「ドラマ曜日」の楽しみ感を妨げている。



アップル&エラー

2011-10-16 11:14:57 | 日記
「将来人に教えたり、自分の個展を開いたりしたいとか思うの?」
と書道の先生に聞かれて初めて思ったのだが、私はそういうことのために書道をやっているわけではない。
人に教えることはできるのであればいずれありかとも思わなくもないが、今は書道を勉強すればするほど教えるなどおこがましいと思うし、まして個展を開いて誰かを集めて見てもらいたいなどと考えたこともない。

趣味としてこんなことをやっているということを分かりやすく伝えるために作品の写真を見せたり、高い出品料を払ってもったいないという理由で展覧会に友人を連れて行ったことはある。
しかし基本的には筆で字を書くことそれ自体が気持ち良かったり、先生や他の人の発想に見とれたり、“創る”ということの訓練だったりのためにやっている。

何かを創作したいという欲求は露出願望、つまり自分のことを見せたいという欲求にあたると思うのだが、私の場合まだ創作という域に達していないのだと思う。
お手本があって、真似をすることで私の中の満足に達してしまうのだ。

創作物に自分が投影され練り込まれているほど観客を必要とするのだとすると、私も自分の発想で創作をするようになればもしかしたら個展を開きたいと思うようになるのかもしれない。

アートというのはその道に精通している人か、もしくは作り手に興味があるとかその感覚にヒットする人以外は、観客を困らせることがあると思う。
だから決して押しつけてはいけないものだと思うし、感想はあくまで観客の自由であり、作り手はそれを見せるのであれば謙虚である必要があると私は思っている。
と同時に、自分が練り込まれいるものであるほどに期待してしまい評価も気になるもので、褒められればそれはそれは幸せなことだろうと思う。

完全に自己完結できるアートというのはとても健全でとても貴重であると前に書いたが、やはり創作欲求のある人は露出狂的な部分がある気がする。
自己完結できるアートも素晴らしいが、観客があって初めて作品として完結する、というあり方も、どちらかというとこちらの方が自然であるのかもしれない。


夜道を音楽聞きながら自転車で走るのが気持ちよくて、昨日は小雨が降っていたけれど、いつもの隣の隣駅までの遠回りの道をもう1周した。
PANGだったりレディーガガだったり、斉藤和義だったりPUSHIMだったりsuperflyだったり。
そんなことが最近気持ちがいいと友人に言ったら目を細めて「いいね、そういうの」と言って喜んでくれた。
私には所謂かっこいい熱い男が言いそうなことをいう女友達がいたり、当たり障りのある話をできる人がいる。

なんて恵まれているんだろうと思う。
他者がいて完結する自己と自己によってのみ完結される自己。
どちらも、本当だ。



白くて蛍光な空

2011-10-14 20:32:07 | 日記
私はたぶん、五感の中で嗅覚が一番秀でている。
次は聴覚。
最も劣位は間違いなく視覚だ。
触覚と味覚の順位はよくわからない。

嗅覚が鋭くて得したことはあまりない。
買った柔軟剤の香りが気に食わなくて1回で使えなくなったこともあるし、香水は自分が酔ってしまうのでつけることができない。
また、すれ違う人の香りでよからぬことまで思い出してしまうし、嫌かどうかを別として、匂いのするものに対して鼻が完全に慣れてしまうということがない。

聴覚もたぶん割と利く方だと思う。
というより、視覚や思考よりも聴覚が優位に働いてしまうので、私がうるさいところで本を読めなかったり、音楽と一緒に勉強できなかったり、テレビをつけながら電話ができなかったりする集中力のなさは聴覚優位からきているものと思われる。
だから聴覚優位といって人の話を漏らさず聞いているかというとそうでもなくて、周りにいる他の会話まで聞こえてきてしまうのでこれもまた集中力がないというところに収まる。

視覚が一番当てにならない。
視力はもともと低いのだが、メガネやコンタクトレンズをしていてもだめだ。
身の回りのことを細かく見ていたりはしないし、私の映像記憶は全然鮮明でない。
また、私が極彩色のような強い色やコントラストを選ぶのはもしかすると視覚が弱いからなのかもしれない。

しかし最近、朝の気分がいいとJO MALONEのNectarine Blossom & Honey Cologneを一振りすることがある。
ハワイで出会って、一目惚れならぬ一鼻惚れをして、私は初めて自分で香水を買った。
ピーチの薄ピンクの甘い果実の香りがしながら剥きたてのフレッシュ感があって、すうっと体に溶け込んでくる。
JO MALONEの透明感さはきちんと立っていて、無理やりな合成な感じが一切しない。

もちろん慣れられないので、その香りをまとったら一日中私はその香りを気にすることになる。
今も私の周りをぽわんと香っている。
窓から入ってくる炒飯のような匂いと合わない。

“香”という字の“日”の部分を“甘”と書く異体字がある。
少しだけ線を突き抜けるだけで、素敵な意味を想像させる文字になる。

今日はかぐわしい一日だ。