つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

ミンクちゃんとピンクビール

2011-12-18 16:56:56 | 日記
一人の書道の先生の最後の授業の日。
先生は各生徒さんたちと忙しそうに抱き合ったり話したりしていたから、私は最後に挨拶をしようと思っていた。
そしたら授業の途中、先生から私のもとに来てくださった。

先生は私の手を握って私の目をじっと見つめて、ひとつのメッセージをくださった。
書道とは全く関係のない、あるひとつのメッセージ。
人生においてこうしなさい、というひとつのアドバイスだった。

いつも先生がくれるアドバイスはただ一言で私に刺さっていた。
最後のアドバイスは、私が少し遠のけていたことに対することで、私は息が詰まるくらいその言葉が響いた。

温めたいからここには書かない。

それをすることによって「あなたはもっときれいになる。いい女になる」と仰った。
続けて「大丈夫、それをしても私みたいな生き方もできるから」と。

私は目に溜められるだけいっぱいの涙をためて「ありがとうございます、そうします。先生の作品、また見せてください」と言った。
帰りの電車、まだ泣きそうな私はシーンを切り替えるようにiPodのスイッチを入れた。


夜、大晦日に行くジャズライブの予習に行く。
銀座、SWING CITY。
類家心平さんというトランペッター。

ロックとジャズとレゲエとR&Bと、違いも説明できない私がただ単に気持ちよさを求めて手を広げていたら、フラワーアーティストの東さん経由で、文筆家としてだけ知っていた菊地成孔さんに行きあたった。
東さんプロデュースの会場で菊地さんのジャズを聞きにいったのが1ヶ月ほど前。
そこで聞いたジャズがあまりに気持ちよかったものだから、一緒に行った友人が以前から好きだった類家さんのライブに行くことになった。

年越しのタイミングで2人が同じ場所で演奏してくれる。
なんという贅沢。
後から知ったが、類家さんは大の菊地さん好きらしい。
あまりにも齧り始めで私は何の知識も前情報も持っていないのだが、私の知らないところで、でも私の線上でいろんなことがつながっている。
最近本当にそんなことが多い。

類家さんは、クリアな音を出すことももちろんできるのに、くぐもったかすれた音を出す。
ドラムよりもトランペットの方がエロティックに感じられるのは、息がそのまま音になるからだと思う。

私はセクシーな音の重なりの中で陶酔していたが隣の友人は私よりももっと恍惚としていて、これはエクスタシーだと目をうるませていた。
人が本当に嬉しそうな姿を見るのは幸せなことだ。

音楽は生が一番だ。
花も生が一番。

友人宅にあった奥ゆかしい淡い桃色をしたチューリップ。
透けるように白い肌の人が寒い冬に風に吹かれて、毛細血管が見える感じで赤く染めた頬みたいな、ピンクではない桃色。
上から撮ったら、ぼんぼりのように自分で光を灯しているみたいだった。
魅惑的な中身。



2日間プログラム

2011-12-17 14:47:52 | 日記
ハーゲンダッツから意図せず遠ざかっていた私だが、最近またハーゲンダッツが近づいてきている。
けいことハーゲンダッツを食べたあの日くらいからだろうか。

私はハーゲンダッツはもらうものだと思っているので、自分ではめったに買わない。
だからそのときの一つひとつのハーゲンダッツにはそれぞれエピソードが付いている。
不意に買ってきていただいたハーゲンダッツに満面の笑みを浮かべてありがたくいただく。

ハーゲンダッツエピソードがまたひとつ追加。

もう今年もあと半月で、「忘年会」という言葉が好きではない私は「年納め会」と称して友人とディナーに出かける。
今年の夏に私たちは7年ぶりに再会した。
7年間の空白をものともせず、高校生の頃持っていたファクターにさらに今の大事なファクターを追加して、一緒にいると高校生にも戻れるし、26歳としても話ができる。
お腹がよじれるくらい笑っていた次の瞬間、一転場面転換をするようにシリアスな話だってできる。

自分の子ども時代が好きではなく自分という存在が気持ち良くなかった私が、初めて心地よさを覚えたのが高校生のときだった。
それは「話す」という行為であって、ときにそれは一種のエクスタシーだったことを私は後から知る。

しかしあのとき私には「ロック」というファクターを持ち合わせてはいなかった。
年末になって急激にロックやらジャズやらレゲエやらに心掴まれる機会に恵まれ、やっと私は音楽に触れ始めた。
彼女はもうずっと前からロックが大好きだったようで、私の今さらの目覚めで彼女との話にもまた一つの厚みがもたらされた。

私は今ここで、一年を振り返りたくなってしまったが、それはあと2週間余りを過ごしてからにしようと思う。
まだ駆け込むように新しいものを仕入れているし、まだ今年の一大事になるくらい心が動くようなことがあるのかもしれない。


死んだ人を蘇らせてもいいものか。
そんな文章が成り立つ時点で、本当に死なせてはいなかった。



果肉も真っ赤なストロベリー

2011-12-14 20:05:11 | 日記
ランチに時々行くインドカレーのお店にある書道の作品にきゅんとする。
それを見るという思い先行で、インドカレーを食べにいこうかなと思うくらいだ。
うまく説明がつかないけど、きゅんとする、心をつかまれるということに意味がありそうで。

私はいつも今さらにしか流行を追えないのだけど、もうこれは今までの今さらよりも更に今さらだけど、ブルーハーツやエレファントカシマシ、サンボマスターなどのロックな人たちが狂ったように歌っているのに心をつかまれている。
ロックは斉藤和義から入ったといえばそうで彼のことは大好きなのだが、彼とは違うもっと思いの爆発的な表現に心震わされる。

私は昔彼らが歌うのを見て、全く理解できないと思ったし近づきたくないと思っていた。
あー狂った人もいるものだ、とそのくらいに思っていた。
私とは関わりのない人だし、なんだか怖いとすら思っていた。

だからずっと避けてきたし、目に耳に入れないようにしてきた。
だから全くと言っていいほど、彼らの超有名な曲を私は知らない。

最近になって、私がyoutubeで検索するその関連動画に非常によく彼らが出てくるので少しの怖いもの見たさでリンク先に行ってみた。
夜寝る前に電気を消した後、スマートフォンでそんなものを見て、どきどきしてしまって次から次へとその関連動画に飛んでしまう。
もう寝ないとと思って見るのをやめると、どきどきを引きずりつつもどすんと眠りに落ちる。
必然的に寝るのが遅いので、朝目覚ましが聞こえない。

「ブルーハーツってほんと最高だね!」だなんて、何を今さら、と呆れられる。
私だってこれまでの今さら以上に今さらであることはわかっている。
それでも私は今彼らのことが少しだけわかるようになって、わかるというよりは理解しようとする姿勢になれて、「ほんといいね!ほんとすごいね!」と今言いたい。
ビッグバンみたいな表現に私は釘付けで、ともすれば泣いてしまいそうなくらいで、自分のそんな状態はなんでだろうと理性的な私が後ろから追ってくる。

“ほんと”の定義は難しいけれど、“ほんと”のことが知りたいと思う。
魂とか情熱とか、むさ苦しいと思っていたけれど、そしてもうちょっとスマートな私を装っていたい気もするけれど、強い魂とか熱い情熱を持っている人が好きだし私もそうありたいとやっぱり思う。


amazonに注文していた谷川俊太郎の『夜のミッキーマウス』が届いた。
夜の紺をイメージしたカバー。
先生のブログから買った本4冊目。



KKK

2011-12-11 16:39:09 | 日記
予定の前に、久しぶりに上野以外で買い物をしようと早めに家を出たもののなぜか異様に疲れてしまって、近くのカフェに入った。

カフェヴェローチェの飯田橋店。
神楽坂のこじゃれたカフェは混んでいて入れなかった。
店舗にもよると思うがここのヴェローチェは広い。
そして、なんだかとても居心地が良い。
本が読みたいのだが、生憎バッグを替えて読みかけの本を置いてきてしまった。

勉強している人、たぶん学生ではなくて資格を取ろうとしている社会人。
子どもを連れてお喋りに興じる奥さま方、これ以上にないほど笑い転げている少女二人。
ジャンパーを着たまま談笑するおじいさま達。
何かバイトの面接か説明をしている40代くらいの男性と10代だろう女の子。
東野圭吾の『白夜行』を読み耽っている小柄な女性。

バックに流れている音楽が聞こえないほど声は結構なボリュームがあるのだが、いい具合に全体に響いて分散しているから一つひとつの会話はわからない。
オレンジ色の証明は、温かみをもたらすと同時に全体をぼんやりさせている。
真ん中で大きな地球儀がゆっくりと回っている。

散る直前の、一点でかろうじて枝に繋がっている黄色い木の葉。
それまで幹や枝と同様、「自分」の一部としての存在たったのだが、来る厳しい冬に備えて本体の存続のために末端は栄養を止められて切り落とされていく。
これは単なる私の勝手な見方であって葉っぱの気持ちなんて到底わかるはずもない、
人間でいう、髪の毛や爪みたいなものだとしたら気持ちも痛みもない。
それに私はまた葉が芽吹く季節には、そんなことは忘れて、力強さや生命力を感じずにはいられないのだ。

自然の摂理と自然の営み。
意味は人間が与える。
その意味は与えた人間にのみ適用される。


ドラマ曜日と決めた日曜日。
途中からどうにも面白くなくなった『南極大陸』
代わりに『蜜の味』は帰るとちょうどやっていることが多いので飛ばすことなく観ている。



真夜中の晴れ

2011-12-11 01:34:36 | 日記
自分にとって都合の良いものが、特に自分にとってだけ一方的に都合の良いものが、いつまでも変わらずに自分に都合よくあると思っていてはいけない。
一方的に都合が良くて、相互関係をあまり持たないものだと、感謝はほとんど生まれないしその都合の良さが当たり前のようになってしまう。

私の通っている書道教室の一人の先生が退職をされるらしく、次回が教場最後の勤務だという。
その先生の書く字はとても独特の流れと雰囲気とリズムがある。
私が書道を始めてから、どうしてもその先生の字は真似ることすらできなかったし、私自信好みではなかった。
しかし、最近になってようやく先生の凄味が分かるようになって、特に先生の書く楷書を見るときゅんとするようになった。

背の高い女の先生で、65歳とは思えないパワフルさを持ちながらも品も高い。
真っ赤なマニキュアをして、いつもお洒落な感じで、私はいつも先生を見て孔雀を想像するのだった。

私は教室では物静かな生徒なので、顔と名前はさすがに一致しているだろうが、先生にとって印象のない生徒のうちの一人だと思う。
そんなに会話を交わしたこともないけれど、私は先生の言う一言の言葉で何がいけないのか理解をすることが多かった。
一瞥しただけで、本当に的確なアドバイスをしてくれた。

「もうちょっときゅっとするのよ、一文字を」
「しなやかさ、あと、たおやかさ」
「気脈がずれてるのね」

あるときに私の号をいろんなバリエーションで書いてくれた。
「ほら~、こんなにかわいい」
と自分で書いた字をかわいいと形容した。
私もすごくかわいいと思ったから、女の子が光り物を見た時のように、「かわいい~」と目をとろんとさせて言った覚えがある。

退職の理由は定年ということで、詳しくは知らないが、それなりにゆっくりされるのだろう。
来週、ちゃんと「ありがとうございました」と言おう。

大事な人がみんな、明日いなくなってしまうわけではないけれど、その可能性というのは決してゼロではなくて、一緒に時間を過ごすことや感謝を伝えることをしたい。
距離とか深度を図ってしまうものだけど、堂々巡りはもうやめて。