つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

甘美なエスプレッソ

2011-12-07 21:49:31 | 日記
レストランで「食後のお飲み物は一緒にいかがですか」
と聞かれると、特にそうは思ってなかったとしてもたいていの場合は断れない。

美容院で終わった後に鏡で後ろ髪を見せられて「どうですか」と言われて「ここがもう少し短い方が・・」
なんていった試しがない。

「これ欲しいですよね?」「これでいいですよね?」という意味合いを含んだことを言われると無下にできない。
断っておけば・・とか、意見しておけば・・と後悔することもままある。
断ってはいけないことも、意見してはいけないことも本当のところないのはわかっている。
なんとなくそれができないのは「嫌な奴」と思われたくないから、なのだろうと思う。

根が小心者なのだ。
ある程度、衝突を楽しめるとわかった人には強くも出る。
私にとってはそれは信頼の証で、できる限り特に職場ではそうありたいと思っている。

しかし相手のことがわからない場合に私は私を貫くことができないことも多くて、衝突しそうだと思ったら全力で避けに行く。
ときにそれは人に対して優しくないし、強くもない。

自分以外の他人あふれる社会の中に生きているから、他人への依存はどうしても避けられなくて、でも、何せ自分以外は皆他人なものだから、依存はときに期待による不安感を生む。
他人との関わり合いという意味で、ある程度の依存はあって然るべきものだ。

私が避けてしまった関わり合いを、私は他で求めているような気がして、なんだか納得のやり場がない。
依存と、してもいい甘え、の境目が今自分でわからない。

関わりあうことで影響しあうことも素敵なことである。
それでしか得られないものもたくさんある。
しかし、芯の部分で独立していなければならない。
迎合が生むものは、のちの空虚であるように思う。

他人を寄せ付けない独立っぷりではなくて、他人を受け入れられるような柔らかさを持ちつつ、私が確実に私であると胸張って言える独立っぷりを身につけたい。

昨日、たまたま見たNHKのドラマ「カレ、夫、男友達」
治子がとった行為は私には解せないけれど、治子にとって本当のことは本当であるのだとは思う。

足りないものがなんとなく見える。
仮にそれが足りたときにも、自己を確立し続けることとアンテナを立て続けておくことできるくらい独立しておかなければと思う。

自分のことをばりんばりんに叩き割って、割れた破片を淘汰して、もう一回作り上げるくらいとかそういうたいそうなことではないけれど、明らかな揺らぎの中にいる。
お昼のレストランの食後のコーヒーから、膨れ上がった揺らぎの中。






確認作業

2011-12-05 21:11:25 | 日記
よからぬ夢を見た。
私は夜に考えていることが夢に入ってきやすい。
そしてなかなか寝付けない夜ほど、夢を見やすい。
またついているテレビ番組の中に入り込んでしまうことも多い。

昔、コナンがやっていて自分もその中に入り込んでしまい、私は単なる傍観者ではあったが、随分怖い思いをした。
コナンは恐ろしいイメージはないのだが、やはり殺人事件だから、実際になると怖いものだのだという実感があった。

今日のはとにかく、気持ち悪い夢だった。
そんなことを自分が考えているのかとうんざりな夢だった。

邪念や身震いするほど嫌いなものは、振り払おうとすればするほど、付きまとってくる。
今日の夢ではないが、だから私は人よりも蛇の想像をすることが多いと思う。
蛇の夢を見ることも人より多いと思う。

12月5日。
何の日でもないけれど、年の瀬を日付で確認する。
3月や4月もそうだけど、否応なく世間の波で気忙しくなったりするのが嫌いだ。
気にしなければいい、という強さを持ちたいとそっぽ向いてみる。
気になる、気にしない、見ない、見えてしまう、のいたちごっこ。


自転車に乗ろうとしたらいつもよりサドルが高い気がして、誰かに乗られたんだろうかと一瞬びくっとした。
同じ思いをしたことが何度かある。
単に私がヒールのないフラットシューズを履いていたからというだけのことであるが、毎度びくっとしてしまう。
鍵はかかっているのだから、誰かに乗られて勝手にサドルの高さ調整をされるなどありえないのだが。

最近以前に増して高いヒールが好きで、たまにバランスを崩して足首をひねってしまう。
常に軽い捻挫気味だ。



生もの

2011-12-02 20:01:10 | 日記
秋の初めごろ、いつも夏の終わりを憂えて憂えて悲しくてしょうがなかったけれど、今年は寒いのも少し受け入れられるような気がしていた。
寒いのも楽しめるような気がしていた。

が、この2日間の寒さで寒さにいら立っている自分がいる。
寒さを楽しめるような気がしていたのは、本当に寒いということをその時点で感じていなかっただけのことであって、秋の少し肌寒いくらいの心地よい空気に浮かれていただけだ。
今まではその心地よい初秋の空気さえも憂えていたのだから、自分の許容の幅は広まったのだが、急に寒さが強まった今、やはり冬が嫌いだと改めて言いたい。


ハワイで初めて、口紅を買った。
色のついたグロスではなくて口紅。
艶があるタイプではなくわりとマットな口紅。

CHANEL ルージュ アリュール

真っ赤な口紅もいつか、と思うが最初なので無難な、でも口紅をつけているという感じは出る色合いを選んだ。

夏につける気にならなくて、まだ一度も使っていない。
色好きな私は服やらバッグやら爪やら、どこかに差し色をしていないと気が済まない。
それに元の唇の色がない方でもないし顔のつくりが派手な方だし、アイシャドウが好きなので、一応、メイクは引き算、と聞いたことがあるのでチークすら一度も持ったことがない。
色好きな私も顔をパレットにするのはどうかと思うし、一番の理由は化粧が面倒だからという理由かもしれない。

紅をさす

なぜだかわからないけれど、私はこの雅やかな表現が昔から好きで、口紅に対しては恐れ多いものを感じていた。
実際には口紅だけでなく、頬紅やアイシャドウなど紅い色でお化粧をすること一般にこの表現は使うようだが、私は特に口紅には憧憬にも似た思いを持っている。
今は分不相応だけれど、紅をさす、その行為をしてもいい年齢と雰囲気を持てたら、紅をさそう、と思ってきた。

ルージュをひく

なんて言い方も、おめかしする女の子が背伸びしたい程度ですることではない感じのする言葉である。
おままごとでは、口紅は塗れるけど、紅はさせないしルージュもひけない。

最近、赤みが通わなくなってきたような気がする。
そろそろそんなことをしてもよいお年頃なのかもしれない。



疑問符の応酬

2011-12-01 01:22:01 | 日記
美しい言葉を使う人が好きだ。
自分の言葉を使える人が基本的に好きだけど、ごく稀に美しいと思える言葉を使う人がいる。

作家や文筆家がそうであることは、あって然るべきである。
それでも私好みの美しい言葉を使う人がそういるわけでもない。
でもそれは当然のことで、単に私に響くか響かないかは感覚によるところが大きくて、私に響いていなくても誰かに響いているものだと思う。
完全なる私個人的な好みの問題だ。

今日の美しさはビジネス上のメールにあった。
働き始めて5年目、私がメールで美しい言葉を使うと感じたのは2人目だ。

私はよく言葉のニュアンスが伝わりやすい(と私が思っている)ことを「言語を同じくする」といったりするが、そういうこととも少し違って、ここでいう「美しさ」とは今のこの状態にこれ以上にない、と思える適切さや的確さ、また簡潔さの中に存在する。

限りなく簡潔で、でもクッション言葉がないわけでもなくて。
相手のことを思いやるからそうしてくれているのだと分かる表現。
でもそれを決して押しつけない姿勢が見える文体。
的を射抜く適切で的確な表現と順序、論理的展開。

以前そう感じたメールはトラブル対応のときの強気で、慮ることを重視しない内容だった。
伝えたいことを誤解なく的確に、しかし非の打ちどころなく、姿勢を崩さない態度すらも示していた。
エクセレントだ、と思った覚えがある。


明日は、今年初めてのヒートテックだ。