「夜は無音じゃないと寝られない」とずっと思ってきたのだが、案外そうでもなく、微音にして流すといつもよりも安眠できることを体感している。
寝られない、といっても私はおそらく不眠には遠いところにいる方なので、今までのところ何日間も不眠で困ったことはない。
スマートフォンでYouTubeサーフィンをしながら最終的に寝てしまうのも心地よいのだが、光を放つ携帯画面はやはり神経的には寝る方向ではない。
弱く漂う音を部屋に立ち込めて、暗闇に身を預けると、アルバム1枚分を流し始めて3,4曲目で既に意識がない。
つい先日までブルーハーツを流しながらでも寝れていたのだから何ともいえないが、ゆるかったり静かだったり、洋楽だったり歌詞がなかったりする方が当然ながら眠りには心地よいようには思う。
曲はその時の気分によって、音による静寂か、音による平穏か、を選択する。
昨日は平穏であり、Jazztronikであった。
ちなみにテレビをつけたまま寝てしまったりすると私は夢の中でテレビの中に取り込まれてしまうことがよくある。
殺人系の話に取り込まれると結構恐ろしい。
火曜サスペンスもコナンのときも以前に怖い思いをした。
ノーミュージック、ノーライフ
とはよく言ったものだが、今まで私は特にそう思ったことはなかった。
音楽の話題をされると、特にこれといった感想を持っていなかったものだから「当たり障りのない音楽が好きだ」と答えていた。
birdは今でも大好きだけど、私にとってbirdが好きだと言うことはそれをよく象徴している。
私がここまで音楽を聴けるようになったのは、自らの「好き」を自らの心で判断する術を得てきたことによるのだと思う。
音そのものと、音と一緒に存在する作り手や歌い手の心を聴くようになった。
いかに、恥ずかしいことを突っ切ってやり抜けるか。
「恥ずかしい」というのは、他者に対しての自己ブランディング外のこと、というようなことだと思うが、ある気持ちよさ、の中には往々にして、恥ずかしさ、というものが含まれているような気がする。
逆も然りで、ある恥ずかしさ、の中には、気持ちよさ、が含まれているようにも思う。
だから、自己の欲求は理性の中の自己ブランディング内に留めていると、気持ちよさが体感できない。
しかし、この状態は在り様によっては、人に対して無意識に攻撃的であったり残酷であったりしてしまうものだから、人に対しての迷惑だけは頭の片隅に置いておきたい。
これはあくまで私の完全なる主観と嗜好のところの話ではあるものの、その恥ずかしさを突っ切ってやり切れた人が、かっこよさ、を作るようにも思うし、アートだとも思う。
ただし、突っ切ってやったところで間違っていた、ということも仕事などにおいてはたぶんよくある話だ。
仕事において、気持ちよさの追求を図ろうとは毛頭思わないものの、それでも突っ切れない限りは、あるはずの100の影響のうち、30くらいしか及ぼすことができないだろう。
お会いできるのを楽しみにしています。
素敵な言葉だな、と思う。
寝られない、といっても私はおそらく不眠には遠いところにいる方なので、今までのところ何日間も不眠で困ったことはない。
スマートフォンでYouTubeサーフィンをしながら最終的に寝てしまうのも心地よいのだが、光を放つ携帯画面はやはり神経的には寝る方向ではない。
弱く漂う音を部屋に立ち込めて、暗闇に身を預けると、アルバム1枚分を流し始めて3,4曲目で既に意識がない。
つい先日までブルーハーツを流しながらでも寝れていたのだから何ともいえないが、ゆるかったり静かだったり、洋楽だったり歌詞がなかったりする方が当然ながら眠りには心地よいようには思う。
曲はその時の気分によって、音による静寂か、音による平穏か、を選択する。
昨日は平穏であり、Jazztronikであった。
ちなみにテレビをつけたまま寝てしまったりすると私は夢の中でテレビの中に取り込まれてしまうことがよくある。
殺人系の話に取り込まれると結構恐ろしい。
火曜サスペンスもコナンのときも以前に怖い思いをした。
ノーミュージック、ノーライフ
とはよく言ったものだが、今まで私は特にそう思ったことはなかった。
音楽の話題をされると、特にこれといった感想を持っていなかったものだから「当たり障りのない音楽が好きだ」と答えていた。
birdは今でも大好きだけど、私にとってbirdが好きだと言うことはそれをよく象徴している。
私がここまで音楽を聴けるようになったのは、自らの「好き」を自らの心で判断する術を得てきたことによるのだと思う。
音そのものと、音と一緒に存在する作り手や歌い手の心を聴くようになった。
いかに、恥ずかしいことを突っ切ってやり抜けるか。
「恥ずかしい」というのは、他者に対しての自己ブランディング外のこと、というようなことだと思うが、ある気持ちよさ、の中には往々にして、恥ずかしさ、というものが含まれているような気がする。
逆も然りで、ある恥ずかしさ、の中には、気持ちよさ、が含まれているようにも思う。
だから、自己の欲求は理性の中の自己ブランディング内に留めていると、気持ちよさが体感できない。
しかし、この状態は在り様によっては、人に対して無意識に攻撃的であったり残酷であったりしてしまうものだから、人に対しての迷惑だけは頭の片隅に置いておきたい。
これはあくまで私の完全なる主観と嗜好のところの話ではあるものの、その恥ずかしさを突っ切ってやり切れた人が、かっこよさ、を作るようにも思うし、アートだとも思う。
ただし、突っ切ってやったところで間違っていた、ということも仕事などにおいてはたぶんよくある話だ。
仕事において、気持ちよさの追求を図ろうとは毛頭思わないものの、それでも突っ切れない限りは、あるはずの100の影響のうち、30くらいしか及ぼすことができないだろう。
お会いできるのを楽しみにしています。
素敵な言葉だな、と思う。
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