つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

アイワズドリーミング

2012-05-18 14:03:05 | 日記
「夜は無音じゃないと寝られない」とずっと思ってきたのだが、案外そうでもなく、微音にして流すといつもよりも安眠できることを体感している。
寝られない、といっても私はおそらく不眠には遠いところにいる方なので、今までのところ何日間も不眠で困ったことはない。

スマートフォンでYouTubeサーフィンをしながら最終的に寝てしまうのも心地よいのだが、光を放つ携帯画面はやはり神経的には寝る方向ではない。
弱く漂う音を部屋に立ち込めて、暗闇に身を預けると、アルバム1枚分を流し始めて3,4曲目で既に意識がない。
つい先日までブルーハーツを流しながらでも寝れていたのだから何ともいえないが、ゆるかったり静かだったり、洋楽だったり歌詞がなかったりする方が当然ながら眠りには心地よいようには思う。
曲はその時の気分によって、音による静寂か、音による平穏か、を選択する。
昨日は平穏であり、Jazztronikであった。

ちなみにテレビをつけたまま寝てしまったりすると私は夢の中でテレビの中に取り込まれてしまうことがよくある。
殺人系の話に取り込まれると結構恐ろしい。
火曜サスペンスもコナンのときも以前に怖い思いをした。

ノーミュージック、ノーライフ
とはよく言ったものだが、今まで私は特にそう思ったことはなかった。
音楽の話題をされると、特にこれといった感想を持っていなかったものだから「当たり障りのない音楽が好きだ」と答えていた。
birdは今でも大好きだけど、私にとってbirdが好きだと言うことはそれをよく象徴している。

私がここまで音楽を聴けるようになったのは、自らの「好き」を自らの心で判断する術を得てきたことによるのだと思う。
音そのものと、音と一緒に存在する作り手や歌い手の心を聴くようになった。

いかに、恥ずかしいことを突っ切ってやり抜けるか。
「恥ずかしい」というのは、他者に対しての自己ブランディング外のこと、というようなことだと思うが、ある気持ちよさ、の中には往々にして、恥ずかしさ、というものが含まれているような気がする。
逆も然りで、ある恥ずかしさ、の中には、気持ちよさ、が含まれているようにも思う。
だから、自己の欲求は理性の中の自己ブランディング内に留めていると、気持ちよさが体感できない。
しかし、この状態は在り様によっては、人に対して無意識に攻撃的であったり残酷であったりしてしまうものだから、人に対しての迷惑だけは頭の片隅に置いておきたい。

これはあくまで私の完全なる主観と嗜好のところの話ではあるものの、その恥ずかしさを突っ切ってやり切れた人が、かっこよさ、を作るようにも思うし、アートだとも思う。

ただし、突っ切ってやったところで間違っていた、ということも仕事などにおいてはたぶんよくある話だ。
仕事において、気持ちよさの追求を図ろうとは毛頭思わないものの、それでも突っ切れない限りは、あるはずの100の影響のうち、30くらいしか及ぼすことができないだろう。


お会いできるのを楽しみにしています。
素敵な言葉だな、と思う。



カラーアソート

2012-05-15 22:33:32 | 日記
気分のいいときに気分の悪い人の気持ちが想像が難しいのと同じように、気分の悪いときに気分のいい人の気持ちは想像しがたい。
それは自分自身に対しても言うことができる。
気持ちというのは、その気持ちでなくなってしまったときには、自分でさえも本当に正しく思い出すことはできないものだ。
移ろってしまったあとは、本当に嬉しかったのか、本当に悲しかったのか、その瞬間の大きさと重さでは再現できない。

確かに嬉しかったことや、確かに悲しかったこと。
でも今嬉しいことや今悲しいことには勝てない。

あの音楽はいつどういうタイミングで聞きたくなるのだろうと思うものがあって、調子のいい時にそんなことを考えていた。
状態に関係なく否応なしに入り込まれて、極めて前を向いているときにでも、水面に墨を落とした時のようにさーっと黒いものに表面を覆われる。
でも、曲調が暗いだの明るいだのに関わらず何の影響も及ぼさない音楽もあることを思うと、確かに私の内部のある部分をつつかれているような気がして、それ以来身体から遠退けていた。
あまり気にしないふりをして、つつかれていることも分かっていたので、そのとき1回だけは私は自身を黒く染めてアルバム全部を聞いたのだった。

それが一転、無性にその音楽が聴きたくなった。
どちらかというと歌い手の声が聴きたくなった、といったほうが近いかもしれない。
寝る前のyoutubeサーフィンの代わりに、いつもの大音量ではなく、極めて小さな音で、電気を消して流す。
こういうタイミングで聞きたくなるのか、と合点がいった。
励まされもしない、かと言って、調子のいい時に凹まされた音ではあったが、突き落としもしない。
あからさまに優しくもない、でも、ちょっとだけ優しい。
そして、一緒に静寂になってくれる。

自分の状態を揺さぶりもせず、一緒に静寂を作ってくれたその音楽は、強烈にロックなヒロトの音楽と共に寝ていたときと同じくらい、安眠をもたらした。
無音よりも静寂。

無理をしないフィット感は、陰でも陽でも、気持ちのいいものなんだと知る。

音楽っていいね、って、真顔で言う。



スコーンと合計10匹の魚

2012-05-13 19:44:06 | 日記
値段の高かった立派で分厚い布団カバーから、中の布団が透けそうなくらいペラペラの生地のチープな布団カバーに変えた。
これから夏だから、というわけではない。
カバーを洗うとき、とても吸水性が高いようで洗濯機が脱水のときにものすごい音を立てて本体がガタガタと揺れる。
結構尋常ではなく、洗濯機自らが何センチか移動してしまいそうなくらいだ。
洗濯する度にお隣から苦情が来ないかと心配していた。
その上、吸水性が高いだけに朝に干して夜までに乾かない。

高かったこともそうだし、やはり見栄えのするお気に入りだったので踏み切れずにいたのだが、少しネットで探していたら何度もリマーケティングで追いかけられてついには買ってしまった。
リマーケティングの効果を実体験である。

早速一度洗濯をして干すと、薄いだけに半日で乾いた。
付け替えてみると、寝ているときの布団がとても軽い。
おしゃれは我慢、というが、毎日のものに関してはやはり利便重視だ。

久しぶりにこのあたりに引っ越してきた頃によく行っていたいくつかの雑貨屋さんやセレクトショップをハシゴして歩く。

アップルズインステレオやフリッパーズギターは家ではとてもよいが、外出するにはやっぱりパンクロックがよい。
ハスキングビーとかとかペンパルズとかリディムサウンターとか。
リディムサウンターはパンクロックではないか。
みんな外国人だと思っていたが、みんな日本人だった。
なぜ英語で歌うのだろう。

私はトルコやモロッコのエキゾチックな柄ものや、ビビッドな原色カラーのものが大好きで、ついふらふらとつられてしまう。
どんな服を来ていても考えずに持てる汎用性のあるバッグがほしいと思いつつ、最近買ったバッグは緑か赤か地図柄かだ。
服だってストールだって、柄や色に惹かれてどれもが脇役に収まれない主張の強いものばかり買ってしまう。

ポイントとなる色やデザインのものばかりに目がいってしまって、汎用性のあるベースのものがなかなか買えない。
そう思って財布だけは去年の夏に真っ黒の革のものにしたのだが、今なんだかとても物足りない。

最近のそんな自分の状態を認識しつつ、抑えつつ、時々意のままに柄ものや色ものを手にする。
エキゾチックなピアスを2つ、するとほんとに満たされた。

母の日の今日、混雑している花屋さんで、新緑の枝と黄色のユリを連れ帰る。
けいこには妹からフラワーアレンジメントを送ってもらった。
テレビが見にくいくらい背丈の高いのをそのままに花瓶に生ける。
新緑が部屋に来た。

残っていたアンチョビとエリンギとリボン型のショートパスタでペペロンチーノを作る。
久しぶりに優しい味の料理、でないものを自分で作った気がする。
塩加減がちょうどで、作って良かった、と思った。




凪ぎ

2012-05-10 22:12:31 | 日記
竜巻、突風、あられ、ということを知らずに、布団カバーを朝から洗濯して干してしまった。
急に夕方のように暗くなってきた空の下、坂を駆け下りて家に戻る。
坂の途中でお昼ご飯のお弁当を買う。

洗濯ものは無事で、そのまま家でお昼にする。
平日の昼間のテレビ番組は、なんだかとても違和感があって、自分の部屋が異空間に思えた。
今は、ここは、どこなのだろう。
世界は全部嘘かもね、とちょっとしたファンタジー体験に身を預ける。

10分もしないうちに雷が轟き始め、音を立てて雨が降ってきた。
ファンタジーに浸かったままでもいられないので、早々にお弁当を食べ終えて、テレビを消し、雨の中傘をさして乗ってきた自転車を置いて坂を上る。
坂の途中、さっきのファンタジーを思い出してひとり笑っているところを工事のおじさんに不審そうに見られる。

結局、夕立みたいな雨は通り過ぎて、雲のない夜空となった。
家と会社を往復し、さらに歩いて帰らないといけない面倒と、洗濯物が濡れて2度洗う羽目になる面倒は、どちらが勝つだろうと思ったが、ファンタジーの勝ちだな、と腑に落ちた。


すべてはくだらない、なんてない。
すべてはくそったれだ、なんて違う。

そう思う方がたぶん楽だし簡単で、そう思うことはたぶん自分のプロテクターになる。
でもそう思うことで、あるはずのエクスタシーも、降ってくるラッキーも取り逃がしてしまう。

迷惑をかけまいと耐えようと思う反面で、手伝ってくださいと素直に言えた方がたぶん健康だと思う。



ポップパークサイド

2012-05-07 15:16:34 | 日記
念願のピンポン菊。
黄色と白と緑。
ピンポン玉みたいな、満月みたいな、卵の黄身みたいな、ドラゴンボールみたいな、大福みたいな、ヨモギ団子みたいな。
球体に人為的にカットしたかのようなポンポンと丸い花のピンポンさん。

ゴールデンウィーク最終日は思う存分、いろんな細かな用を済ませて、いろんな好きなことをした。
途中あられに降られて足元がずぶ濡れになってしまったけれど、やっぱりこの方がいいやと思うのだった。

少しだけ実家に帰る。
ベンフォールズに影響、などとはおこがましいにも程があるが、少し前から無性にピアノが弾きたくなって、思い立って帰る。

私のピアノはまるで習い初めの小学生のような覚束ない指どりだ。
およそ曲に聞こえるのが5曲くらいなもので、2日間で2時間あまり、なんだか随分と弾きたい欲が満たされた。
それまでキーボードを買ってしまうかもしれない、どこに置くのだ、と自分に聞いていたのだが、買わずに済みそうである。

おじいちゃんとおばあちゃんはまた、私が帰ったことを泣きそうなくらいに喜んでいた。
おじいちゃんはいつも帰り際に私に握手を求める。
長年の友人が、朝起きて来ず奥さんが様子を見に行ったら亡くなっていた、なんていう話も世間話のような年寄りの世界では、まさに次の瞬間に終わってしまうかもしれないということが常に手に触れられる場所にある。
しかしながら、父が死んでもう丸5年、生きながらえていることもまた事実だ。
「またすぐ来るから」と、本当のことを言って昔暮らした家をあとにした。

ピアノが弾きたいのとおじいちゃんとおばあちゃんに顔を見せる以外に私はもう一つ帰った理由があったのだが、それはできなかった。
新緑の山々から吹き抜ける緑の風は、乾いていて涼しい香りがした。
1年前や2年前や3年前、私は本当にこんなに感じやすくなかった。
あれが起こったのは去年だっただろうかと思うほど、色を増してきている。

いろんな素晴らしい興奮に出会えて、手放しに嬉しい瞬間に立ち会えるようになって、悲しさや寂しさもその大きさをその大きさのまま全部受け止めなければいけなくなったようだ。
そんなの全部受け止めてやるよと確かに私はロックに生きてはいるものの、未だその全容が把握できない。
分かろうとすることが間違いだと思ったり、あと少しで突き抜けられるような気がすると思ったり、きれいにだったり汚くだったり、私の中に渦巻いている色々は混迷を続けている。


以前DVDを借りて観た『阪急電車 -15分の奇跡-』がTV放送していた。
私、この映画大好きだ。

5月の終わりにはヒロトに会える。
6月の初めには宮本さんに会える。

なんてスペシャルな初夏のはじまりだろう。
両方とも遠出だからできれば晴れてほしいが、土砂降りだって構わない。
目先の楽しいことに目を奪われ続けていたい。

ELLEGARDENの細美さんもすごい。
私なんかより何百倍も彼を待ち続けている人たちがたくさんいるようだけれど、もしELLEGARDENが再結成なんてことになったら私もライブに是非とも行きたい。