つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

刃を皮膚に立てられて

2014-04-18 16:06:47 | 日記
展覧会に出品する作品を先生に見てもらう。
今回は、3枚の紙を合わせて、159×234cmの作品。

先生は何人かいるけれど、今回私を指導してくれる先生は私がこの教室に入ろうと思ったきっかけの先生。
150cmくらいの小柄な女性の先生で、恐ろしいまでの迫力のある字を書く。
先生が書いている姿は、好きな音楽を聴いているときのように、身を乗り出してどきどきする。

書いている詞の内容にはほとんど触れずに、作品の全体感についての指導をしてくれる。
「月明かり」はいいけれど「爆撃機」はちょっと…、というような書の世界ではあると思うが、私はもう「リンダリンダ」と書いてしまっているのでそれに怖気づくことはない。

大きな作品を教室で並べて、「こっちの方が締まる」「この組み合わせの方が空間がきれいに出る」などと意見をもらう。
小柄な先生は、いきなり椅子の上に上ったと思ったらそのまま机に足をかけて、机の上に仁王立ちに立った。
「ほら、あなたも上って見てごらんなさい。机上がっていいから」と言われて私も椅子から机へと上った。

家で書いていると紙が大きすぎてこんなふうに俯瞰して眺めることができない。
何度か書いて、良かれと思う風に修正を加えて書き直すのだけれど、結局こうして全体像を客観的に眺めてみると最初の方に書いたものの方が良かったりもする。
詞に気を取られて書いたり見たりしすぎることは、一方で書作品としての良さをないがしろにしていることにもなりかねない。

書は、その線質もさることながら、空間を重んじる。
文字は、言ってしまえば紙に対する“模様”のようなもので、「字はデザインではない」とよく教わるのだが、字形にも空間にもデザイン性も多分に含まれている。
連綿(字と字が墨でつながること)ひとつにしても、そうなってしまった場合も多々あるけれど、本来意図して作品作りをすべきものだ。
これを言っては興ざめな部分もあるかもしれないが、字本体だけでなくわざと墨で紙を汚すことだってもちろんする。

だから、ある程度の技術が先に立って、気合いとか思いが乗る。
しかし技術やデザインを考えすぎると、今度は気合いも思いも中途半端になってしまって、それは明らかな本末転倒となる。

ここにも在るのが“自由と自在”の話だ。
技術を体に覚えさせる自在さと、その上でどんな発想にも捕らわれない自由さ。
どちらの習得も、それはたぶん何かを創る人は皆、満足することなど一生ないであろう。

私は、例えば“あの人が音楽を愛しているように”、書道を愛しているだろうか。
“あの人が音楽を愛しているように”は、私は書道を愛していないかもしれない。

私は確かに書が好きだ。
1クラス30人いたら一番好きだと思う、それくらいは自信を持って愛していると言える。

とりあえず、出品できそうな作品も決まってひと安心。
展覧会会場で、漏れ出でる何かを感じることができたら、それは作品として成功である。


とりあえず比較的に簡単に書けるものとして、当面百人一首をアップすることにする。





稚い涙の夢

2014-04-17 01:17:29 | 日記
重たいスプーンをずっと探していた。
100円ショップに売っているようなペラペラのスプーンでなくて、ずっしりと重いステンレスのスプーン。

100円ショップのものは、スプーンにしてもフォークにしてもフライ返しにしても、ペラペラで薄い。
ペラペラでも問題ないコーヒーフィルターとか、床掃除用のシートなどの消耗品は十分だけれど。

重たいスプーンをずっと探していた、と言っても、ペラペラのスプーンを使うたびにそのことを思い出し、そういうキッチン用品がある売り場に出向くときにはすっかり忘れているのが常だった。
先日無印良品に寄った際に、偶然重たいスプーンを見かけて、偶然重たいスプーンが欲しかったことを思い出した。

重たいスプーンが欲しいと思い始めてかれこれ1年くらいだろうか。
やっと私は重たいスプーンを買うことができた。
ペラペラのスプーンは容易にスプーン曲げができるけれど、この重たいスプーンは本物の超能力がないとスプーン曲げはできない。

1本800円。
生活の質はこのようにじわじわと染め物をするように上げていけたらいい。

そう言えば、以前タオルの質を上げようと思って2枚のタオルを買ったのに、未だ“バシバシ”のタオルが捨てられずそっちを使っている。
質の向上に馴染まないものもある。

重たいスプーンを使うために、久しぶりにカレーでも作ろうか。


第2回句会の締め切りぎりぎりに投句を行う。
春の歳時記をぱらぱらと眺めて、掲載されている句たちのその巧さに時々心を奪われながら。

私は元々の言葉数が多いので、俳句のような短い言葉の中に当てはめるのは苦心する。
ここ数日、日常に俳句のことを持ち込んで考えていたのだけれど、やはり“ながら”でできるものではない。
日常に持ち込んだ上で、腰を据えないと作れない。
PCかスマートフォンと歳時記とで、あれこれの言葉の意味を確かめながら、微細な表現を探す。

生みの苦しみ、とまではいかないけれど、ぬるぬるっと言葉が生まれてくる瞬間と言うのは面白く楽しく気持ちの良いものである。

これを書きながら、エリッククラプトンのアンプラグドを小さい音で流しているのだが、小さい音でもやっぱりだめだ。
つい、引っ張られてしまう。
そしてそちらに対する考え事を始めてしまう。
書き物は生活雑音くらいの無音状態でないとできない。


春も進んで、夜明けが早い。
朝5時過ぎにごみを出しに行くと、白んだ曇り空に春の匂いがした。
しっとりと、微かに甘い霞の匂い。

“がんばる”という言葉が程遠過ぎて逆に浮かんでくる。
意識も体も溶け出でて、すべてをうやむやにしてしまうような芯のない空気。

思い出の中のようなぼんやりとしたその光景に、かつて行ったベトナムのハノイを思い出す。
ハノイの空気もちょうどそんなで、可愛げのある洋風のゲストハウスの白い階段が同時に思い出されたけれど、そこでした会話が何一つ思い出せない。

家の前の街路樹の脇に、白いフリージアが咲いている。


マインド、ソウル、ハート、スピリット、こころ。
もう一度、どこかの大学で英語の先生をしているあのおじさんに会いたい。




スパゲッティ屋の名前が思い出せない

2014-04-14 05:19:56 | 日記
展覧会の作品締め切りが4月末なので、重い腰を上げて取り掛かる。
重い腰も、やり始めれば夢中になれるし、3時間くらいは続けていられる。

今回の作品は「月の爆撃機」
「月の爆撃機」も「ナビゲーター」も「歩く花」もそうだけれど、ヒロトの描いている詞の世界は、“ひとりでない”ということが読み取られがちだと思う。
ともすれば体として恋愛ソングの成りをしているものもあるから、余計にそう取られがちだと思う。

もちろんマーシーの存在も、ヒロトの誰か愛する人の存在もとてもとても重要なことではあるけれど、しかしながらヒロトは、“ひとりなんだ、自分なんだ”ということを一貫して歌っている。
マーシーが体制について叫んでいるときも、ヒロトはずっとそれについてを歌っている。

本人に聞いたことはもちろんないけれど、私のその解釈が大きく間違っていることはないのではと思う。
“ひとりなんだ、自分なんだ”ということは良いとか悪いとかも越えて、ただもうそういうことであって、圧倒的な孤独さの同情を買われるのも少し変だ。
根源的に、基盤的に、愛情に枯渇している人間であるかもしれないことを認識したり想像したりもするけれど、もっとより深層根底にただただ圧倒的な静かさで存在している透明な真水みたいなものだ。

まだ踏ん切りがつかないけれど、彼らの詞を展覧会の作品で使うのはこれで最後にしようかなと思っている。
展覧会でなくてもさんざん書いているわけで、ようやく少しばかり飽きてきたというのもあるし、これをやっている限り私は前に進めないと思うことが一番の理由だ。

飽きてきたと言っても、やっぱり全然飽きていない面もあって、もうこうして文章に書くのも飽き飽きなほど、私は彼らの詞を書くたびにぎゅうっとなる。
だってもう、それがそういうことなんだから、となる。

彼らの詞を借りて書くのは、私にとっての写経や読経のようなものでとてもありがたい。
本当は、展覧会でなくても書かない方がいいのかもしれないと思ったりもするけれど、現段階の小心者の私はそれを止めることはたぶんできない。

それならば楽しめる間は十分に楽しんだらいいか、とも思う。


久しぶりにみかんの缶詰を買った。
私はみかんの缶詰がすごく好きなのだけれど、皮を何か薬剤で溶かしていると聞いてからあまり食べなくなった。

その皮を溶かす薬剤が将来的に体に悪いかなど到底知り得たことではないし、オーガニックにこだわりがあるわけでも健康オタクでも全然ないし化学調味料は大好きだけれど、どうしてもみかんの皮だけきれいに溶かす薬剤のことが奇妙で危険に思えてしまって避けるようになった。
大量のみかんが得体のしれない白濁した奇妙な薬剤に浸けられて、5分もしないうちにみかんは味も風味も損なって、丸裸になって、みかん風味の甘いシロップと一緒に缶詰めに詰められている一連の映像が私の頭の中で何度も再生されるのだ。

そのことを考えるといつも小川洋子の小説の世界観を思い出す。
もうしばらく彼女の小説を読んでいないけれど、そのうっすら埃をかぶったアンティークの家具のような奇妙な手触りが、私の中のみかんの缶詰のイメージに通じてしまう。

何はともあれやっぱりみかんの缶詰が好きで、久しぶりに食べたくなってしまった。
缶切りで開けると、オレンジ色の裸のみかん。
とろっとしたシロップは缶の内側の色が染み出たみたいにうっすら黄金がかった色をしている。

みかんそのものの味なのか、シロップの味なのか。

その奇妙さは、現実にはみかんの缶詰の思い出はほとんどないはずの子ども時代の奇妙さへもリンクする。





小さくて鮮明

2014-04-13 03:00:49 | 日記
好きなことをそれなりに一生懸命追いかけていると、ある程度のところまでは誰でも行ける。
それは例えば、自分が大好きなその人やものの知り合いに会って直接話を聞くことができる、とかそういうこと。
確かにここまで来るのも、色んなものを漁って漁って、行動を起こして起こして、やってくるわけなのだけれど。
まあでもそれは努力とかそういうものではなくて、何かを見つめるとか考えることも必要なしに、それを好きだという活力だけで行ける領域。

木村充揮さんはやっぱり圧倒的存在感だった。
マーシーの「ハッピーソング」はもうすっかり木村さんに乗っ取られていた。

声も、ギターも、パフォーマンスも、確固たる“木村充揮”がそこにいて、“木村充揮”のショーをやっている。
そのことは回りまわってどんなに難しいことであるだろうか。
ギターが自在に弾けることよりも、もしかしたら難しいことなのではないかと思う。

ライブ中もお酒の席も、木村さんの屈託のない顔のような話を延々するわけだけれど、この人には確かに大衆に伝えたいことがあって、それはとてもとてもシンプルなひとつのことだということがよくわかった。
性癖のような本人的な満足はさておいてとしても、音楽に乗せて発射したいメッセージがある。
メッセージがあるから、ステージを下りたって、今度は音楽に乗せずにそのメッセージを発する。

時代の力とか、風潮の後押しとか、もちろんそういうものもあるわけだけれど、もっともっとゆるぎない普遍的な概念。
どんな時代の、どんな場所でも、同じように見える、そういうもの。
私はそういう概念に憑りつかれているのであって、その概念が好きなのであって、それが乗っているものだったら、ロックでもパンクでもクラシックでもジャズでも、ライブでもDVDでもYouTubeでも、絵でも書でも詩でも花でも、映画でもドラマでも漫画でも、とにかく何でもいい。

「自分が自分であること」は想像以上に困難だし、想像以上に面倒だし、想像以上に辛い。
それでもその概念が好きだからその道に行こうとするわけで、しかし道中で飽きてしまったり怖くなってしまったりもするわけだ。
そしてたぶん、「自分が自分であること」を諦めることは、高みを知りながら低空や中空を飛行することであって、そうなれば私は自分が大嫌いな終わらない愚痴を言うようになるだろう。
自分が大嫌いな自分、なんてどうやっても選べない。

今のところほとんど進めていない私にとって、勇気ある人を見て勇気をもらうのは少しの慰めでもある。
「解放」というテーマにおいては、ちょっと木村さんは参考にならないほど高レベルな人ではあるけれど。


普段から朝に寝るくせに、朝帰りすると次の日まで調子が悪い。
大して飲んではいないのに、翌日を全て持っていかれた。

そしてものすごく着ていた服と自分がタバコ臭い。

私は今まで1本もタバコを吸ったことがない。
でも、タバコを吸う人やタバコのあるシーンが結構好きだったりする。
タバコの箱も、火のついたタバコも、落ちそうな灰も、揺れる煙も、灰皿の吸い殻も。

「一服」しているその姿は気持ちよさそうだし、簡易的な悦楽のようなものなのだろうと想像する。
まあデメリットがありすぎて自分が吸おうとはならないけれど、私の周りにはタバコを吸う人が多いからひとりそのシーンを楽しんでいたりする。

しかし、タバコの煙で空気が悪いことや、自分がタバコ臭くなってしまうことは好きではない。

昨日の度合いは酷かった。
着ていたすべてのものにファブリーズをふりかけて寝たけれど、翌昼ストールを嗅いでみるとタバコの匂いとファブリーズの匂いがきっちり半々で残っていた。
仕方がないのでストールなど洗えるものは全て洗濯機に放り込む。
洗えない革ジャンにはもう一度ファブリーズをふりかけて干す。


パキラが新芽を芽吹いてきた。
すかすかの木が、夏にはわさわさになってくれたら嬉しい。





ひるのおんがく

2014-04-10 18:08:28 | 日記
暖かくなってくると、ごはんを作るのが面倒になる。
そんな気がする。

料理をするということは、たいてい熱を加える。
寒い時期は、何か温かい物でも作って食べて温まろうという気が自然と起こるからだろうか、自然と煮物をたくさん作っていた。
寒くもないのに、温かな料理をこしらえる作業自体が面倒になってしまうのかもしれない。

そうは言うものの、やはりごはんは家で食べたいので買い出しに出かける。
野菜が高いなと思いながら、葱やらピーマンやらキャベツやらを買う。
今冬ひとり数株を消費した白菜もいよいよ季節が終わってきたので、これからの季節のメインになる野菜を見つけたい。

きのこ類は冷凍すると良いよ、といういもうとの発言から、えのきだけとシメジを2パックずつ買って、石づきを取って、せっせとほぐしてフリーザーバッグに放りこみ、冷凍庫に入れる。
冷凍保存で旨味が増す、という説があるらしいが、たぶん感じられるほどは増さないだろうなと思う。
他にも、ベーコンやウインナー、油揚げ、とけるチーズ、ごはん、コーヒー、カレールウなどが冷凍されていて、私の小さな冷凍庫はフリーザーバッグばかりで満杯である。

これは昔からそうだけれど、自分が食べる分を合理的に溜め込んで、合理的に消費していくというその感じが好きである。
何か作りたい気分のときは軽く料理をして、全然そんな気が起きないときでも何か食べるものはある、そんな状況。
外食が嫌いというわけでもなく、料理が好きと言うわけでもなく、自分的に美味しさと温かさがある“気まぐれ合理的健康ごはん”みたいなことができたとき、私は結構高度なハッピーを感じているかもしれない。

そしてこの場合、誰かがいてはだめだ。
誰かがいると、いろんな理由で、ごはんの味がよく分からなくなってしまうのだ。
誰かとごはんを食べる良さというのは、私にとって、ほとんど味でもなければ、場所でもない。
食べ物は会話の彩りのようなものだ。

裏を返せば、私が誰かにごはんを作るとき、確信的に見栄で作ってきたということがあって、見栄の外でのごはんを私は家族以外の誰かと一度もしたことがないのかもしれない。
そして全く見栄を取り払って誰かにごはんを作ることは、たぶん今後も難しいのではないだろうかと思う。
そして、たぶん、誰かと一緒にごはんによってのみの高度なハッピーを得ることも。

自分の暮らしに向き合って、自分を食べさせていく。
今日も明日も明後日も。
ずっとずっと決して放棄することのできない、普通の、ごく普通のこと。

閃光のように見えた真実というのは、「最も自分らしい普通のこと」のような気がする。


お味噌汁に飽きたから、中華スープにする。
昆布で出汁を取って、買ったはいいが使い道の分からないお麩を入れて、葱を刻んで、最後に溶き卵。
ごま油をたらりと垂らして味見をすると、なんとなくパンチが足りない。
黒胡椒を挽いて、唐辛子も1本入れておこう。

久しぶりに買った手羽元をフライパンで焼きつけて、きのこと豆腐と葱と一緒に煮込む。
醤油とみりんとお酒で味付けして、生姜をすりおろして、さらに煮込む。
肉があれば、たいていは美味しくできる。

「あまちゃん」の続きを観ながら食べる。
このドラマも、私の心を大いに量りかけてくる。
もう分かっていることなのに、私の幼き心は黙っていてくれない。


仕事を始める時間が遅すぎて、太陽がさんさんと降り注ぐ中ベッドに入る。
暗いうちに眠りたいと思ってはいるのだが、これからの季節、ますます難しい。