つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

新しい時刻

2014-08-08 13:16:56 | 日記
夜、自転車に置いてある場所でバッグから自転車の鍵を取り出そうとしたところ、ない。
4か所あるバッグのポケット隅々をまさぐってみたけれど、ない。
いつものことだから落ち着いてと、スマートフォンのライトを付けてバッグの中を照らしてみるけれど、ない。

自転車の鍵だけならばまだ良いのだけれど、そのキーホルダーには家の鍵も引き出しの鍵なども一緒になっている。
このことをある人は「リスク分散」したほうがいいよと言っていたけれど、なるべく一元管理したい私はそのことも聞かずにすべての鍵を一緒くたに、自転車に乗っているときはすべての鍵を晒して走っている。

3分ほど冷や汗をかきながら、この後の身の振り方に思考を巡らせる。
大家さんに電話をして、合い鍵を取りに行って・・・自転車の鍵は確か家にスペアがあったはず・・・引き出しはそもそも鍵を閉めていない・・・。

と、自転車の前で思っていたら、鍵束は自転車の鍵穴に刺さっていることを発見した。

これも今までに数度ある。
自転車の鍵を閉めて、抜き忘れてしまうのだ。
どこの家かもわからない鍵が欲しくなかったとしても、自転車で乗り去ろうととする人には一発で持っていかれてしまう。
幸いそのようなことは今までないのだけれど、よく起こる事象なので、家の鍵を閉めるとき同様に、自転車の鍵を閉めるときには聴いている音楽を一旦止めるように意識してやっている。つもりだ。

しかしまた起きてしまった。
しかも今回は、自転車の鍵が閉まってもいなかった。
つまり鍵を閉める行為すらもせずに自転車を置き去りにしたことになる。
あるいは、誰かが乗って鍵を閉めずに元の場所に戻したということも、可能性としてはなくはないかもしれない。
幸い、また自転車はそのまま元の通りにそこにあったから良かったものの、夜遅くに家に入れなかったら困り果ててしまう。

「鍵を閉めるように、そして鍵をきちんと抜いて持っていくように意識を高める」というのは何かこれ以上の方法があるのだろうか。
確かに鍵を分けて「リスク分散」することはあるのだけど、バラバラになった鍵を管理するリスクも発生してしまう。

そしてまた、いつもと同じように悠長に自転車を走らせて家に帰る。
対策は「これまでよりも鍵付近の行動意識を高める」ということになりそうだ。

こういうドジ談を私はたぶんたくさん持っている方なのかもしれない。
しかしそれを人に話すと、口を揃えて「意外」と言われる。
それは人のドジに対してのある種口をついて出る無意識の常套句なのかもしれないけれど、いや、でもたぶんそんなこともない、そういう類のことを言うとき人を選んで言っているように思う。
「シャキっとしていそうなのにね」とかもよく言われるから、そういうイメージの顔とか態度とか物言いが多分に影響しているのだと思う。

奥田民生が言っていたけれど、「人のやることは人の顔に寄っていく」。
それを打ち破ろうとしてなお、そういうテイストは最終的にも消せないものなのだと思う。
ひとつとして、顔は「じぶん」のシンボルである。

まあ自転車の鍵の閉め忘れから昇華するには飛躍がすぎるけれど。


神戸のパスタ屋さんでつるむらさきのペペロンチーノがひどく美味しかった記憶があって、それからつるむらさきが好きになった。
メジャーな野菜ではないのでスーパーにない場合も多いのだが、近くの八百屋さんに売っていた。
さっそく、ゴーヤとナスと一緒に焼き浸しにする。

夜中の3時に仕込んだそれは、冷蔵庫でキンキンに冷えて、私の昼下がりのブレックファストになる。





小さなペリー

2014-08-04 13:55:37 | 日記
ゴーヤとナスがあと3日でもうだめかもしれない、という風にしなっとなっている。
急遽それを全部刻んで、豆腐と卵を入れてゴーヤチャンプルーを作る。

豚肉が欲しかったけれど、冷蔵庫にある豚肉は生ハムしかなかった。
まあいいかと出来上がったゴーヤチャンプルーに生ハムを乗せて食べる。
一応生ハムの塩気を考慮に入れた味付けにしたのは良かったけれど、食材各々の水切りが甘かったようで、ゴーヤチャンプルー自体が水っぽくなってしまった。

サラダもお浸しも野菜炒めも、水っぽいのはだめだ。
瑞々しいのと水っぽいのは、水分がたっぷりという点で似ているけれど全然違う。
味はふやけてはいけない、塩梅も水分量も“ピタリ”でないといけない。


結構久しぶりに筆を持った。
こんなに期間が空いたのは、会社を辞めてから初めてかもしれない。

必要に迫られることもなく、何かに触れたいわけでもなく、体調が悪いということもなく、書く時間がないほど忙しいということもない。
しかし何だか食指が動かなかった。
他のことに私の食指が動いているということもある。
しかしながら、それにとても精力的かというと全然そんなこともない。

久しぶりだからと、墨を磨る。
墨を磨るのは肩が凝る。
なぜ磨り墨を売ってくれないのだろうと思うのだけれど、たぶんそのままでは腐ってしまうし、防腐剤などを入れたら色がでなくなってしまうのだろう。
それだけ技術が追い付いていないというか、そういう技術を開発する人がいないのかもしれない。

「あさぎり」という細筆を買ったので、それを試してみる。
細筆は墨をほんの少量しか含まないので、続けて文字を書くことができない。
かと言って、掠れさすほどの毛量もないから“遊び”を付けづらい。

しかしこれならば、七夕の短冊ほどの大きさの紙にも体よく書けそうである。
百人一首を個人的に半紙に書いていたけれど、百首全部をどのような形であれ統一した形で書いて提出しなければならなくなったので、今回は小さいものでやってみようかなと思う。
紙も墨も少なくて済むし、紙も筆も違えば今までとは違う何かが見えるだろう。


“そのそれ”自体には全然飽きないけれど、“そのそれ”への過程は何度も触れていると飽きてしまう。
使い過ぎて擦れてしまう。
ただ“そのそれ”の軌跡を持っておきたいから、「ノーゲームノーライフ」の今出ている全6巻を、借りた人に返したにも関わらず、買ってしまった。

「心の燃費が悪い」とある人に言われて、とても納得しているけれど、最近輪をかけて心の燃費が悪い気がする。