つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

ホワイトチョコレートを差し入れ

2014-11-19 19:58:43 | 日記
あまりにも部屋が寒い。
この部屋の冬は2年目で、去年も漏れなく寒さに打ち震えていたのだけれど、乗り切ってしまえばそんなことは忘れてしまう。
電気ひざ掛けと毛布を出して、これで家にある暖房具は残すところエアコンだけになった。

ふとしたきっかけでスマートフォンで「昨夜のカレー、明日のパン」のドラマを観ている。
とても良い、非常に面白い。
映像も会話も物語もとても丁寧に、手触りのあるように作られ、編まれていて、それでいてお茶目。
私はかなり、お茶目なものが好きである。

鹿賀丈史も良いのだけれど、このドラマの雰囲気は仲里依紗が牛耳っているように見える。
彼女は、正統派の美人、という顔をしていないような気がするけれど、非常に存在感がある。
とてもナチュラルに描かれているけれど、仲里依紗によって引っ張られている部分がかなり大きい。

タイトルからするとかなり料理自体に重きが置かれているのかと思ったが、そんなこともなく、料理は重要なシーンにただそこにあるものとして出てくる。
特別においしいということが描かれるわけではなく、「生きている人間はいつも食べなければならないし、お腹が空く」という延長にただ食べ物がある。

仲里依紗が何の気なしに作った感じのとても美味しそうなお弁当も、溝端淳平が買ってきたコンビニの唐揚げ弁当も同列に描かれる。
仲里依紗が泣きながらもくもくと食べ物を口に入れる姿は、なんとも心が絞られる。

死に支配されているこの物語の生は、ひとつは食べ物、ひとつは幽霊が見える溝端淳平の「岩井さん」を象徴して描かれる。
死を拠点にしてしか物事を考えられないのは、死を身近に体験した人に限られることではない。
みんな当然に死ぬことに向かって生きているのであり、それは至極当然で、私はそれをとても大事なことだと思っている。

私にとって父の死はとても大きな意味がいくつかあるけれど、結局回りまわって、今はなんとなくひとつの考えに達している。
そういう意味においては、父の死を一部飛び越えてしまった感すらある。
だから私は死をテーマにした物語に触れても前よりかなり大丈夫になった。

いるとかいないとか、生きているとか死んでいるとか、心には生き続けているとかいないとか。
そんなこととは関係なく続いていく日常とか、幸せとか。
このドラマは、物語や発想自体が奇想天外とかそういうものではないのだけれど、微細な心理状況や日常の皺みたいなものがライトなタッチで、格言を含みつつ描かれていて、そこが面白い。

「ギフ」とか「ムムム」とか「宝」とか、それ感じだけでも私はかなり好きなのだけれど。

あと3話。
楽しみである。

ついでに最近「リーガルハイ」の再放送がやっていて、土曜日にはスペシャルが放送される。
あぁ、楽しみである。


スノッブなあなたと食べるドライフィグ





通信

2014-11-17 01:13:57 | 日記
孫のいる横浜を越えて、けいこが東京までやってきた。
「双子は平等に育てないといけない」とけいこは本当に思ってきただろうことは、小さな頃から感じている。

しかし最近は孫のかわいさに負けて、私のところへ来る回数といもうとのところへ行っている回数に差が出てきた。
仕方がない、孫はかわいいのだから。
私だって、姪はかわいいと思うのだから。

しかし私にも会っておかなければと、私が土日に仕事をしていることを知っていながら、柿やらパンやらを持ってやって来た。
特に何をするでもなく、よく食べる姪と、やんちゃな甥の話を二人でする。
彼らが生まれてくれたことは、“家族”にとって良いことに他ならない。

昼は外で、夜は家でご飯を食べる。
夜のメニューは、鉄板のお味噌汁、鶏肉とねぎを醤油とみりんで煮たもの、鶏肉ともやしの温サラダ、小松菜のおひたし、ご飯、柿。
私としてはいつもより少し肉の量が多いが、お互いに変わりばえしない晩ご飯を食べる、私が仕事で出かけていたので別々の時間に。
「久しぶりに食事に行くのだから焼肉にしよう!」などとは決してならない。

私の家庭は、家族そろっていただきますをする家庭ではなかった。
「お父さんが帰ってきたら」とか「料理が全部できてから」とかでもなかった。
けいこが作った大皿料理を席についた順から食べていく方式だった。
ついでに言うと、けいこは家族の料理を作らされていると感じている節が常にあって、晩ご飯のときは結構な頻度でイライラしていた。

4人もいる兄弟で、野蛮な取り合いこそさほどしなかったけれど、遅れをとればおかずがなくなるのでご飯の前では「待て」ができない。
それは作り手のけいこも同様で、とりあえずお腹が空いたら人のことは気にせずに食べる。
今日のお昼だって、私が10~15分遅れると連絡すると、「お腹が空いたのでどこか入って先に食べています」とメールの返信があった。
さすがにこれには私も少々びっくりしたのだけれど、まあ本当に全然構わないし、そうしていてもらいたい。
もちろん、東京だからと言って“東京らしいもの”を食べたいともならない。

私は普通の夜の時間には寝られないので、当然好きな時間に寝てもらう。
シャワーはいいから顔だけ洗いたいと言われ、独立洗面台はお湯が出ないのでキッチンの方でお湯を出すよというのに、お湯を一杯沸かして洗面台に水と混ぜて溜めて洗うからいいと言われる。
そっちの方が面倒だと思いながら渋々電気ケトルでお湯を沸かしてけいこに渡すと、水を入れ過ぎたようで冷たい冷たいと言いながら顔を洗っていた。

寝支度を終えてテレビを見ながら、吉田山田というデュオの詞がいいよとけいこは言っていた。
私はなんとなくしか聞いたことがないけれど、私は「ふーん」とだけ言っておいた。

オーストラリアの写真をスマートフォンで見せていたら、ふと私が書いた書が出てきて「梵我一如」というのを気に入っていた。
「色即是空空即是色」よりも「梵我一如」の方が書として良いと言っていたが、それは私も同感である。
あげようかと思ったけれど、あいにく現物は捨ててしまっていた。

けいこは早々に私のベッドに入っていった。


久しぶりに詞を書きたい気持ちに駆られて筆をとる。
超有名な曲らしいが私はこの曲を知らなかった。
居酒屋で、初めてYouTubeで聴いて、久しぶりにぎゅうっとなった。
そういうのは、甘えなのだろうか。


こっそりと紅さすその手は初紅葉





予定あり

2014-11-14 23:02:42 | 日記
起き抜けにシャワーを浴びて、白菜を煮る。
今冬は何株食べるだろうか。

ついでにほうれん草もどうにでも使えるように下茹でをする。
ほうれん草はとても栄養がある、というのは本当で、青菜の中でも好きだけれど、下茹でするのが面倒くさい。
というか、湯から上げて冷やし、水気を絞る時点で手が荒れるので嫌だ。

荒れる、というほどまで頻繁にほうれん草を茹でないからいいけれど、1回だけで手の水分がだいぶ持っていかれてしまう。
たぶん私の手の皮膚が弱いのと、ほうれん草のアクでそうなるのだと思う。

同じ理由で、サツマイモやじゃがいももあまり触りたくない。
かぼちゃが平気なのは皮を剥かないからだ。
にんじんも平気だけれど皮は剥く、にんじんはアクが少ないのだろうか。

手が荒れる荒れないに関わらず、包丁で何かの皮を剥くのは好きだし得意なのだけれど。

自分で作るものが一番美味しい、というのは、結構本当である。
自分で作ったものが必ずしも美味しいとは限らないけれど、自分が自分のストライクゾーンを知っているわけだから、外で食べるよりもストライク率が高い。

だからといって、私は人に料理を振る舞うことは全然好きではない。
私は世間的な平均値から比べて薄味を好むようだから、多くの人に味が薄いと言われそうだし、薄味で劇的に美味しい、ということは難しい。
誰かに振る舞うとき、一発で美味しい方が楽しいから、見栄を張って安定的な濃い味のものを作っていたことがある。
肉やにんにくやルウや牛乳やチーズに頼ると、確かに一発で美味しくなる。
しかし、私が慣れられないのだ。

触りたくない食材、下処理が面倒などと言っている時点で、私は料理という分野にさほど情熱と愛情はない。
だから今後もたくさん白菜を煮るだろうなと思う。
ときどき、気が向けば、餃子やコロッケなんかも作ることが、ひょっとすると、起きるかもしれない。
あのときのハンバーグのように。

こんな風に書くと超粗食に思われそうだが、別にそんなこともない。
甘いものも好きだし、唐揚げも好きである。
「好きな食べ物はその日によって変わるんですけど」と言っていた伊集院さんは偉大だなと思う。


週末、けいこが来るというので、掃除をしなければと思うものの体が動かず「カイジ」の続きを全部観る。
漫画版がどう終わりを迎えたのか知らないが、たぶんクライマックスの内容というのはどうであれさほど重要ではなかったんだろうな、と思う。

「週間ヤングマガジン」に連載されていた少年漫画。
所謂“男子感”が満載だけれど、“男子感”を超えたところの格言集のようなものに見えた。


金髪が頭擡げた厚物菊





もうないかな

2014-11-12 15:34:57 | 日記
私は漫画を読むのが苦手なので、かれこれ1年以上「賭博黙示録カイジ」を勧められ続けても聞き流してきた。
小説などの字ばかりのものは借りたら読むけれど、漫画は全然慣れられない。

しかしあまりによく話に出てくる「カイジ」と「ジョジョの奇妙な冒険」。
ならばと、違うものであることを十分に認識しつつアニメの「カイジ」を観てみることにする。

第1シーズンのオープニングテーマが「未来は僕らの手の中」であったことにまず引っ張られる。
ブルーハーツが歌っているものではなく誰かのカバーだったけれど。

「カイジ」を勧めてくれた人との会話の中に、「途へ傍へ」「クズ」「指示待ち人間」「愉悦」「ベットする」「強制労働施設」「矜持(プライドでなく)」という単語が、ごく普通にとてもよく出てくる。
今でこそ耳慣れてしまったのでいいけれど、私はこれらの単語を最初耳慣れないと思って聞いていた。
これらの言葉は私の辞書で開かれることはほとんどなく、少なくとも自ら自ずと発したことはないかとても少ないと思う。

特に「クズ」という言葉は多分今までに私から発したことはほぼないと思うけれど、その人から私に向けられることがあって、それをその人から言われる分には何か光栄にすら感じている節がある。
「クズ」とか「底辺」とかはネット界ではよく使われる言葉であるが、私は自分のことを「クズ」とか「底辺」であると考えたことが本当になくて、全くもって自分には該当しないものだと思ってきた。
しかしこれらには言葉そのもののニュアンスと異なるニュアンスを持つ余白があって、その人が使うと文脈によっては敬意や愛情を含み得ることがある。
しかしまた、ストレートな意味で「クズ」であるとも言っているだろうし、私自身も最近は少なからずその自覚があったりもする。

「カイジ」を観ているとこれらの単語が頻出していて、もはや「カイジ」を抜けてその人の言葉に昇華されてはいるけれど、元は「カイジ」のものだったのかととても合点がいった。
それだけその人は「カイジ」に影響を受けているのだろう。
それに、「カイジ」で使われている言葉は一般口語とは少しずれていて、それでいてとても的を射て洗練されているので耳に残りやすい。

その人が漫画や何かから拾っているのは、おそらく言葉そのものではなくて、日常レベルの人生哲学における概念を射抜く言葉、あるいは概念そのもの、である。
他にも「敬意」は「ジョジョ」から来ているのだろうし、「東洋哲学的・西洋哲学的な理解」は飲茶さんの本から来ているのだろう。
私はその人のことを、常々変わった語彙や難解な言い回しをチョイスする人だと思っていたけれど、そういう言葉づかいの2割くらいは納得がいった気がする。

もちろん人は誰かや何かの影響を受け、その組み合わせで喋っていて、人それぞれよく使う言葉に多少の差はあると思う。
しかし、だいたい一般的に使われる単語と言うのはおよそ幅・範疇が限られていて、それからはみ出た言葉を一時的でなく多用されるのはその人を印象付けるのに十分である。

言葉の話になってしまったが、「カイジ」のストーリーもとても面白い。
象徴的な擬態語である「ざわ、ざわ」とかはアニメではああするしかないのだろうが、いただけないなと思いつつも。
ビルとビルに架けられた鉄骨を渡っているときの孤独の話には泣きそうになってしまった。


iPod shuffleを入れ替えるようになって、最近いろいろと聴いている。
掃除のときも料理のときも書道のときも聴くけれど、やっぱり外出中のiPod shuffleが一番聴きやすい。
凝り固まったものばかり聞いて満足し、新しいものが取り入れられないなとずっと思っていたのだけれど、こうやって聞けば良かったのだなと思う。

iTunesにはビートルズのアルバムが10数枚入っていて、ビートルズだけは神話のように入れ替えても違うアルバムを入れるようにしている。
なぜだか今日は有名すぎる「Let it be」がとても響いて、何度リプレイしたことだろう。
ギターソロはこんなにかっこ良かったのか。

パティスミスの曲は全体的に灰が降っているみたいである。
Blurはいつ何のタイミングで入れたのか覚えていないが、やはりあまり好みでない。
結局クラッシュのような王道パンクは大好物。
ユーミンの歌も沁みる。
ビルエヴァンスという人のジャズもとても人がそこにいる感じがして良い。
キリンジは夜の絵本をめくっているようである。
AC/DCはちょっと奥田民生のような感じが香ることがある。順序的には逆だろうけど。


冬近し紅いコートを脱ぐ準備




わたくしもです

2014-11-10 15:35:16 | 日記
今朝は地震があったのだろうか。
起きたとき、緩やかに、けれど酷く大きく揺れた記憶が頭の奥に残っていた。

たぶんこういうのは酔っぱらって寝たときの夢であることが多い。
事実、過去の地震情報をインターネットで調べてみても、遠く沖縄で震度1程度の地震情報しか載っていない。

テレビをつけたまま寝ればその番組の中に取り込まれたような夢を見るし、トイレに行きたければ洪水の夢を見たり、酔っぱらっていれば地震の夢を見る。
私は結構夢に現実が取り込まれやすいらしい。

東日本大震災以来、酔っぱらっていなくても、地震の夢をしばしばみる。
それは現実の地震とは違って、揺れがものすごくゆっくりで大きくて、建物が回転したり撓んだりして、世界が歪む。
巨大な眩暈に取り込まれたかのように。

起きたときには、波が引いた後のようにうっすらとでも確かな感覚を持った夢の記憶になっている。

幼いとき、私は地震にとてつもない恐怖を感じていた。
抗えない天災、というのはいつの時代も恐ろしいものではあるけれど、夜に地震が来ませんようにと祈りを捧げていたほどである。
微震程度の揺れでも、対処できない未知の恐怖を覚えてひとり泣きそうになっていたものだ。

今は現実の地震でだいぶ揺れていても、揺れているな、くらいにしか思わない。
それに、夢で世界が歪んでも撓んでも、恐怖感というのはほとんどない。
おおおお、というふうに思うくらいだ。

もちろん現実に何かが倒れてきたとかガラスが割れたとか、そういうことがあれば怖いと感じるとは思う。
ただ、想像で自分の恐怖を煽る趣味はない。
いやしかし、地震ではないけれど、別のことについては想像で煽っている恐怖もあるような気がする。


昨日まで元気だったひとつの観葉植物が、いきなりすべての葉っぱを垂れてしまっていた。
力なくくたんとした葉っぱを見ると、何ともやるせなく悲しい気持ちになった。

花は枯れていくものと知っているから心の準備ができているけれど、観葉植物は季節により成長の度合いが違うとはいえ基本的にはいつでも伸びていく過程にあると思っているので、不意に元気がなくなったり枯れてしまうのはとても悲しい。
それに、やはり私の責任についても少しばかり感じてしまう。

まあでも、植物にも寿命はあるのだろうし、それを全うできているのならいいけれど。
まあでも、今回は昨日まで青々ピンとしていたのだからそういうことでもないだろうけれど。

寒いのが原因だろうかごめんねと思いながら、ダメかなと思いつつもぬるま湯と活性剤をたくさんあげてみる。

15分後くらい、何の気なしに振り返ってみると、なんと元の通りにピンと葉っぱが立っている。
え、と目を疑う。

あぁもうなんだか、とにかく、よかった。


二歳児と長葱飛び出す遊歩道