つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

評論家になりたくて?

2014-11-09 13:49:47 | 日記
寒いのを目の当たりにすると、怒りに似た感情が沸いてくる。
寒いのが嫌いである。

クローゼットの奥底にしまってあった布団乾燥機を取り出す。
温風で温まった布団の中は安易に天国と表してしまいたくなるけれど、次第に乾燥して火傷をするほどの熱さになるのでそれは地獄的である。

perfumeのライブがかっこいいとある人の家で見せてもらい、その動画は2時間のライブ全容だったので1時間だけ見て帰ってきた。
家で続きを最後まで観る。

私はまだまだ物事を偏見に満ちた目で見ているので、自分のドストライクに入って来たものした感知できないという至極残念な目線しか持っていない。
だから誰かが何か勧めてくれるタイミングでは、まっさらな気持ちでそれと向き合いたいと思っている。

テクノは好きじゃない、女のボーカルは好きじゃない、アイドルは関係ない、なんていうのは本当にダメである。
全部ぜんぶ、一旦引いたフラットな目線で見ることができなければ、その本質を、あるいは自分の本質を見ることなんてできないだろう。
「偏見をなくすことは分子を破壊することより難しい」と言ったのはアインシュタインで、大きいものから小さいものまで、自覚的なものから無自覚なものまで、まあ大半が無自覚なもの、やはりきれいさっぱり偏見と悪癖と先入観を取り払うことは難しい。

でも、perfumeのライブは本当にカッコよかった。
もう全く歌ってないし、ダンスについては音楽よりも分からないのだけれど、想像するに恐ろしくハードなダンスを3人完璧に、極めて涼しい顔して汗もかかずに、しかもヒールで踊っている。
彼女たちはマラソンランナーよりもタフなのではないだろうかと思うほど。
後半、前半よりダンスは少しだけ粗くなるけれど、かっこいい無機質さが消えて観客も取り入れた人間味がフォーカスされてライブは盛り上がる。

汗ふりまいて必死な顔してダンスされるのも、私はたぶんそっちのほうが分かりやすくて好きなのだけれど、それでもあんな風にショーとして完璧なものを普通の人間がやっていることを見せられるとウッとなる。

そうさせられるのは、たぶん彼女たちの“意志”によるものなのかなと思う。
彼女たち自身が曲を書いているわけではないし、もちろん音楽も舞台演出も、何から何まで大勢のプロフェッショナルたちが総力を上げて作り込んだものだろう。
しかしそこには彼女たちの描くイメージがあるのだろうし、それを表現したいという“意志”があるのだろうと思う。
私は全く読んでいない漫画、ジョジョと奇妙な冒険の第七部に「漆黒の意志」という言葉が出てくるらしいが、イメージ的にそんなものがあるのだろうと思う。

アルバムを借りようと思ったらほとんどレンタル中であった。


曼珠沙華炎のピンクスパイダー





小学生みたいに

2014-11-07 01:27:49 | 日記
句会仲間であり、ブログ仲間であり、大学の先生であるたかじさんに俳句の書を渡しに行く。

今日私は、たかじさんに向かって二度の暴言を吐いた。
一つ目は、俳句を共著で出したら面白いですねという話のくだりで「何の共通点もない人と出すのはいいですね」と言ったこと、二つ目は、月末の展覧会に来て下さるということでそこでお会いする約束をしたというのに「良いお年を」と帰り際に言ったこと。
こんなに共通点が多くて、そしてかつての社会学の師であるというお方に。
「良いお年を」というには早すぎる11月初旬に。

私は、自覚的にも無自覚的にも失礼なことを言ってしまうことがよくある。
相手に突っ込まれた場合や自分で気が付いたときは、どうか、どうかお許しくださいと念じながら帰ったりする。
まったくの無自覚で、相手にも何も言ってもらえなければ、もう悩むことすらできないけれどたぶん自覚している件の4倍くらいあるのだろうなと思う。

たかじさんの句を私が書に起こして、研究室に飾っていただく。
書籍で埋もれた研究室は、見た目にも文字が溢れているので、書はよく合う。
ちなみにポップでキッチュでモロカンで花と観葉植物が多い私の部屋には、書はとても違和感があって景観を乱すので、ひとつも飾っていない。

額に書を収めると、途端に立派になる。
そのものだけで独り立ちできる良さを持っていることがその前提条件ということにしておきたいが、それにしても額の力はすごい。
“作品”になる。

私の作った句ではないので、それほど恥ずかしさはないのだけれど、やはり自分の書がそのように独り立ちして誰かに見られていることを思うと「嬉し恥ずかし」という気分になる。
そして私は、自分の言葉で自分を喋ることがどうにも恥ずかしくて怖いと思っているのだということも思ったりする。

「冬近し会いたき人の二三人」の句は、“二、三人”というところがミソで、私は「社交的な私とて、本当に会いたい人は二、三人くらいなものですよ」という意味合いで解釈していた。
この場合、別に“五、六人”でも良かったわけだけれど、“五、六人”より“二、三人”とした方が「それが誰なのか作り手しか知り得ないけれど、とにかく数少ない大切な誰か」というニュアンスが出るような気がする。

そんな解釈をしている私にたかじさんが「あなたもこの二、三人に入っているんですよ」、と言われたので私は少し照れてしまった。
毎年書作展の季節がこの時期で、たかじさんは毎年見に来て下さるので恒例的なものではあるのだけれど。
と、照れたところで、たかじさんはこの“二、三人”というところに私がしている解釈ほどの意味は持っていないようであった。

少し話は飛ぶけれど、「誰かの数少ない大切な誰か」に私がなれるとしたら、その誰かさんには、極めて独立的に、極めて勝手に、その誰かさんのメリットだけを考えてそう思ってもらえたらとても嬉しい。
ただ「誰かの数少ない大切な誰かになろうと努めること」はできないし、されたくもない。


出品していた東京書作展の結果通知が来た。
結果は「特選」、今までで最も上位賞である。
約3000点のうちの50番くらいには入ったことになる。

ヒロトの詞もマーシーの詞も展覧会ではもう書かないと決めて、中原中也「憔悴」という詩を書いた。
私の中での今回のテーマは、あの公募展における「技術力」への挑戦だった。

もちろん今までも技術力については私なりの研鑽をしてきたけれど、「思い」の表出の方を優先してきた。
出来得る限りの「思い」が滲むといいなと思って書いてきた。

同じ詩文を形違いで2点出品して、2点とも賞が付いていた。
その程度にはあの公募展における「技術力」が身についてきたと言ってもいいだろう。
ただ今回は明らかな目的の下にやっていたので、結果一歩及ばずと言ったところで残念な気持ちもしている。

とはいえ、「憔悴」という詩も気に入って書いたものだし、「思い」が入っていないというわけでは全然ない。
いつも、いつでも消せない自分はそこにいるし、そもそも完全に消そうと試みたわけでもないので、私という何かは無論滲んでいるものになってはいるはずだ。

展覧会に出品するものは事前に写真に残していないので私も作品の全貌を忘れかけている。
展覧会場できっと、思った以上に技術力より思いの方が出てしまっているではないか、ということになる気がする。


会期が短いですが、もしよろしければお足を運んでいただけますと幸いです。

○東京書作展
平成26年11月26日(水)~11月30日(日)
サンシャインシティ展示ホールA
東京都豊島区東池袋3-1-3ワールドインポートマート4階

※通常入場料が500円かかりますが、ご希望の方がいらっしゃればご招待券をお送りいたしますのでお知らせください。


桃缶とリップクリームの美味しさよ





効果が分からなくて美味しくないもの

2014-11-04 22:29:25 | 日記
ゴミの日にゴミを出し損ねると、とても落胆する。
ティッシュをポケットに入れて洗濯機を回してしまったときくらいに。
3日後にまたゴミの日になるけれど、翌日に自転車で近隣の地域のゴミ置き場に出しに行こうと思うくらいに。
汚いけれど、言いようもない残便感を感じずにはいられない。

前まで13時頃の燃えるゴミの収集がなぜだか少し早まったらしく、12時に出そうとしたらゴミ置き場のこみ達がもう忽然とない。
実際には何時になっているのかが分からない。

マンションのゴミ室がない場所に住んで1年半。
ゴミがいつでも出せないストレスはさほど感じなくなったものの、こういうことがあると、もう本当に深い深いため息を漏らしたくなる。


総入れ替えをしたiPod shuffle。
新曲はいいんだと入れたクロマニヨンズの「キスまでいける」と「突風野郎~愛のテーマ~」
不意のヒロトの声に、抱きしめられたような気がして泣きそうになる。
初めて聞いたのではない。

彼らから「卒業しかけている」のようなことを言いながら、私自身、自分に向けて「なんだよ・・・」と思った。
まだそこにいるのと、人は笑うかもしれないけれど、私にとってこれだけは迷えないのだなと思う。

「ちゃんと戦いなさい、ちゃんと負けなさい」とある人から現実に言われ続けて、その意味が分かるようで分からないようで分かるようで。
私が抱いている根深すぎる恐怖心と羞恥心。
それをちゃんと乗り越えなさいと、14歳の少年に言うような意味合いで、ヒロトにも言われたような心持ちがしたのだった。


美容室で俳句を考えていた。
元々美容室の会話は好まないけれど、特に放っておいて欲しかった。

私は表現について、真意の凝縮が最高、というような考えがどこかにあったのだけれど、そして今でももちろんその節が全くなしの表現が響くとは思っていないけれど、案外真意の凝縮なんてこともないんだなと思ったりする。
真意の凝縮の上澄みだったり、むしろ真意と逆の描き方だったり(まあそれは真意の凝縮といっても良いと思うが)、真意に色んなものを巻き込んで複雑化された何かだったり、洗練された技術の公開だったり、単なる言葉遊びやギャグだったり、そのとき思いついたことだったり。

当然と言えば当然のことだし、私の過去の書作や俳句ですら軽い気持ちや妥協ももちろん含んでいる。
というか、そもそも“真意”って何、という話からすれば、端からおかしな話でもある。
そしてそう言って尚、少なくともそのときの私にとって“真意の凝縮のようなこと”ができればなとも思うのだけれど。

何はともあれ、俳句は色々と私にちょうど良くて、少し日常に食い込ませて考えられているので「やる」と宣言して良かったなと思っている。
不定期更新なのもちょうどいい。
何より、楽しいのである。

しかし、私の句にはカタカナが出てきがちなのだが、書にするときカタカナは非常にやりづらい。
表情が付けづらいし、表情を付けようとすると字を逸してしまう。


冬支度パンチパーマのトイプードル





子犬に騙され

2014-11-02 22:57:33 | 日記
久しぶりの海外ドラマ「ブレイキングバッド」は、アメリカのテレビドラマらしいテンポの早い何ともジャンキーな刺激物であった。
ジャンキーというのはこの場合、薬物中毒の意味ではなくて、視聴側を驚かせるための仕掛け、演出とでも言おうか。

しかしファーストシーズンを見終えて、この後を観るか躊躇っている。
セカンドシーズンまで借りてしまっているので、それもどうするか。
観てもいいけれど観なくてもいい、という感じ。
既に5シーズンまで出ている。

肺ガンで余命2年ほどを宣告された主人公ウォルター(高校の化学教師、50歳)。
障害をもった息子と40歳手前にして身重な妻が家族。
死ぬ前に金を作ろうと、かつての教え子の麻薬売人と手を組んで覚せい剤を作り始める。

薬品で死体を溶かして天井ごと抜けたり、むしゃくしゃしただけの腹いせで高級車を爆破させたりする。
そのどんちゃん騒ぎに余命いくばくかの家族物語も指し込まれているのだから大変である。
その上、主人公の妻の妹は盗難癖があったり、その夫は麻薬取締官だったりする。

結局最後は迷いながらもファイナルシーズンまで観た「デスパレートな妻たち」も同様のジャンキーさを多分に含んでいた。
同じくらい痛快で無茶苦茶なのだけど、「デスパレートな妻たち」の方がポップであって示唆に富んでいたように思う。

私が好んで観てきたアメリカの海外ドラマ、「グレイズアナトミー」や「Lの世界」などは、テンポの早さと私にとっての示唆を含んでいるものを面白いと感じて観てきた。
要は、たとえ物語と関係なくとも、「良いこと言うなあ」という感じが欲しいのである。
しかし「ブレイキング・バッド」にはそれが少ない。
余命を描く家族物語はありきたりだし、ジャンキーさもファーストシーズンにして慣れられるくらいだった。

あと、これは昔からそうだけれど、私は暴力シーンが苦手ということもある。
絶対に見られないということもないけれど、暴力シーンで痛快さを感じることは全然ない。
あと、ガンで余命が迫っているという状況もやはりあまり見たいものではない。
否応なく未だ思考は飛んでしまう。

もったいないという理由で、セカンドシーズンは観るだろう。
しかし、その時間、他のことに余すことなく費やせるならそちらの方が良い気もしている。
しかし、観てしまうだろうと思う。


「オモクリ監督~O-Creator’s TV show~」という番組が思いがけず面白かった。
特に千原ジュニアが作った料理番組VTR。
誰かがYouTubeに上げてくれたら、いもうとに送ってしまうと思う。

今まで特に観たいテレビ番組というのはあまりなかったのだけれど、最近スケジュールにまで入れて観ている番組がいくつかある。
ドラマはまあ見逃しても後から見られるからいいとして、他の番組は逃してしまうと観られないことも多い。
それに、借りるほどでもないけれど暇なら観たい映画なども録っておけたらいい。
それに、テレビってやっぱりすごいな、と思ったりもする。

キーワードを入力するだけで録画してくれるのが当たり前の昨今で、私は未だ「ドラマ曜日」に走って帰る、みたいなことをしている。
見逃したドラマを先輩に頼んで録画してもらって、それを借りたら再生できず、先輩のディスクはブルーレイだったことに3日後に気が付く、みたいなこともしている。
huluなどのネット配信で借りる・返すなどしなくても多くのものを観ることができることも知っているけれど、ツタヤに通ってレンタル期限に迫られて睡眠不足になり、挙げ句その内容もあまり入っていない、みたいなことにもなっている。

ガラケーを使っている友人が、妹のスマホを使って電車の乗り換えを検索し、それを自分のガラケーで写真を撮って保存しているということを聞いたときに私は友人のことを笑ったけれど、私も似たようなものである。
そういえば昔、MDが出回って久しい頃、MDを初めて手に取った私は力づくでMDの中の丸いディスクのようなものを取り出そうしたことがあるのも同じ友人であった。

テレビの外付けハードディスクについて、誰かに相談しようと思う。
こういうものを買うとき、一人で適切な物を買える気がしないし、一人でセットできる気もしない。


良い句だなあ、なんて。

新米とロックンロールを夢に見て