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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

横田力教授『要請書』(1)

2011年12月23日 | 日の丸・君が代関連ニュース
 《12・21予防訴訟をすすめる会による最高裁要請行動から》
 最高裁判所第一小法廷裁判官殿
◎ 要 請 書 [前編]
 ~良心的行為の表出に対しては、規範設定者の側こそが一定の配慮をする制度的義務を負う
都留文科大学教授 横田力(よこたつとむ)

 2006年9月21日東京地裁判決、2011年1月28日東京高裁判決を経て現在貴法定に係属している、都立高校教職員(元を含む)に対する2003年10月23日都教育委員会による職務命令(正確にはこの本件職務命令としての通達を根拠とする各校長による各教員に対する職務命令)に基づく学校儀式における全員起立による国歌斉唱義務不存在確認請求及び懲戒処分発令に対する予防的不作為請求の訴え等に対する審理の在り方につき憲法学の立場から以下の要請をするものである。
 本年5月30日の貴裁判所第二小法廷判決を嚆矢とする一連の不起立・国歌斉唱・伴奏拒否処分事件の判決において貴裁判所の判決の特徴は次の所に共通に見いだすことができる。
 即ち第一にイ、原告等の「君が代」「日の丸」に体現される国歌・国旗の意義を消極的に解し、それを忌避する態度(起立・斉唱の拒否)及び、
 ロ、原告等の子(生徒)の教育を専門職としてあずかる立場から、教育課程の一環である学校行事という特別教育活動の場で、国家を表象するとされるシンボルをそれに対する客観的理解とその理解に基づく判断を抜きに教育活動の当事者に強要することは、その強制を通して明らかに生徒にもその効果が及ぶ以上、教育条理上認められるものではない、とする職業人としての人格の核心に関する価値意識とその表明(起立・斉唱の拒否)に対する評価について窺えるものである。
 即ち、イ、に関しては、そのような考え、信条は社会における一つの考え方・選択の問題であってそれを職務命令で制約したからといって、「一般的には」その人の信条を制約したことにはならないとする。
 そしてロ、に関しては、そのような行為(行事における起立、斉唱)は、今日では広く行われていることであって、「客観的にみて」当然の教員の職務行為として期待されているものであるとする。またそれは教育公務員としての職務の公共性と全体の奉仕者性から見ても当然のことである、とする。
 第二に、そのような禁止による制約は、当該行為に出た者の信条を理由に個別的な不利益を課そうとするものではなく、教育という社会的に有用な行為を組織的に実行、確保する上で生じるいわば止むを得ない制約であって、「間接的制約」にすぎない、とするものである。それは誰の目にも明らかな思想差別とそれに基づく不利益取扱いを意図した「直接的制約」ではないとする点である。
 そして第三に、従ってそのような制約と措置(強制に伴う処分)は「必要かつ合理的」なものであって、当人にとっては内面強制、自己の良心装置における葛藤という事態(自由侵害)を生起したとしても職務の公共性と必要性から正当化できる、という点である。
 以上、三つの特徴をもった論点は、本件第一審判決の翌年2007年2月27日の貴裁判所第三小法廷における所謂ピアノ伴奏拒否訴訟における判決の趣旨を巧みにふまえたものとなっているが、以下の点でこれらの論旨、判決には大きな問題と疑問を感じざるを得ない為、次にその理由を述べることとする。
 先づ、第一の論点のうちイ、について、そもそもある対象(この場合は国家)を表象するシンボル(国旗・国家)に対する評価・考え方は各人にとり社会認識と価値観の核心に関わるものであり、そのような内心の核心部分(一つの思想)を「一般的」に評価し、「一般的な」基準から強制を伴う規範を定立することは、本年6月6日の貴裁判所第一小法廷判決における宮川裁判官反対意見が語り、そして本件第一審判決が本件通達と職務命令の違憲、違法性を判断する際に明快に語ったように多数者の価値判断をこそ至上のものとして、「良心的行為の自由」がもつ本人にとって究極的意味をみないものと言えよう。
 そもそも憲法一九条の思想の自由は、それが広義説に立とうと狭義説に立とうと、良心の自由と結びつくことではじめて意義をもつものであり、各人の内心の中で確立した思想が、社会の外部規範と対立・拮抗したときに、それは「良心的行為の自由」として外部に一定の範囲で表出するものである。
 この自由の表出に対しては規範の設定者の側(「一般的な」視点から規範を定立する側))こそが、一定の配慮をする制度的義務を負うのが民主主義社会の基本であるが本件ではそのような措置は全く講じられていない。
 第二に、第一の論点のロに関して、ここでは、学校行事における起立斉唱、伴奏行為が、本人の人格的実存をはなれて、それと無関係に今日わが国で教育公務員である教員の当然の職務行為として外形化し、非人格的行為として定型化しているといえるのか、という論点についてである。
 先にも述べたように、本来国家観という人格的価値の中心に関わる事柄は職務行為の定型性にはなじまないものであるだけではない。それは教員の職務行為というレヴェルで論じたとしても、そこには重大な問題が潜んでいる。
 即ち教員にとっての職務・職責人格の形成途上にある生身の人間としての子どもの発する問いと呼びかけと問題関心に対する応答(response)にあるのであって、この応答関係は1976年の所謂旭川学テ判決もいうように「直接的な人格的接触の中で行われなければならない」ものである。ここに教育の直接責任性とそれに基づく教育の公共性があるのであって、強制によるシンボル操作を用いた思考のバイ・パス(ショート・カット)は、例えそれが教師に対するものであったとしても、生徒である子ども達に対する心理的な影響は甚大なものがある。
 1943年のアメリカ連邦最高裁のバーネット判決も述べているように、「今現在ここで問われているものは…国旗敬礼の意味が何であるかをゆっくりと手間ひまかけて学校が教えるべきだというに留まらず、学校が国旗敬礼を強制することで思考のショート・カットを行ない、そのことで右のような知的過程を代置しでしまうことが合憲法的になしうるか否か」なのである。
 正に教師に期待されている「客観的な」職務とは、このように生徒の問いに答える応答としての知的行為を「手間ひまかけて」誠実に行うことでありであり、その限りにおいてそこに公共性が語り得るのである。
 (続)

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