《12・21予防訴訟をすすめる会による最高裁要請行動から》
最高裁判所第一小法廷裁判官殿
「報告集会での横田教授のミニ講演」 《撮影:平田 泉》
第三に、第二の論点に関わって、このような強制を伴う制約が、意図的ではない「間接的な制約」に留まると言えるのかである。
そもそも特定思想を狙い撃ちする「直接的な制約」であれば、それは誰にでもわかることで、従って、その評価基準は一般人目線に置いてもその不当性は明らかになる。
それに対して判決の言う非意図型の「間接的制約」は、正にそれが間接的であるがために一般人目線からではその痛みがみえてこないのである。そこでは本人目線に視点をおくことではじめてその不当性がみえてくるのである。
この点で、一連の処分事案に関わる貴裁判所の判決は正に思考のミスマッチを犯していると言えよう。
と同時に、本件通達の前提となっているとされる現行学習指導要領における国旗・国歌条項の次のような記述をみたとき、本件通達の内容とそれに基づく職務命令の適用が、単なる「間接的制約」に留まるものと言えるかという問題もある。
即ち「日本人としての自覚を養い、国を愛する心を育てると共に、生徒が将来…信頼される日本人として成長していくためには、国旗及び国歌に対して一層正しい認識をもたせて、それらを尊重する態度を育てること…」
そして本年5月30日の第2章法廷判決における補足意見において須藤裁判官はいみじくも次のように述べることで、その直接的な制約の意図性を吐露していることもこのような疑問を強める理由となるとなるところである。
即ち、「起立斉唱という国旗、国歌への敬意の表明の要素を含む行為を契機として、日常の意識の中で自国のことに注意を向けるようにすることにあり、そのために、卒業式という重要な儀式的行事の機会に指導者たる教員に、いわば率先垂範してこれを行わしめるものといえる。」「実際、高校生は、やがて、国の主権者としての権利を行使し社会的責務を負う立場になるのであり、また、自らの生活や人生を国によって規定されることは避けられない。公共の最たるものが国であり、国は何をする存在なのかを知り、国が自分のために何をしてくれるのかを問いかけることも、自分が国のために何をなし得るのかを問いかけることも、大切なことと思われる。そして、そのためには」「職務命令において高校生徒に対していわば率先垂範的立場にある教員に日常の意識の中で自国のことに注意を向ける契機を与える行為を行わしめることは当然のことともいえる。」「上記の契機を与えるための教育の手段としては、様々なものがあり得るから、『日の丸や『君が代』を用いてこれに対して敬意の表明の要素を含む行為をさせることは唯一の選択肢ではないものの、これらは、国旗、国歌として国を象徴するものであるがゆえに、直裁で分かりやすく、これに敬意の表明の要素を含む行為をすることが、日常の意識の中で自国のことに注意を向ける契機となるものと思われる。」「以上によれば、本件の卒業式において、『国』のことに注意を向ける契機を与えるための教育の手段として、『日の丸』や『君が代』を用い、教員をして、いわば率先垂範してこれに対する敬意の表明の要素を含む行為をさせることには、必要性及び合理性が認められるといえる。」
ここからは、既に一定の人格の型をもつことを生徒に求め、そのための装置として学校行事が位置づけられていることが明瞭に窺知されるのである。
そのためのいわばツールとして特定の定型行為を教師に求める本件通達は、その効果において著しく「直接制約的」型に近いものと言えよう。
第四に、ではそのような制限がなお「必要かつ合理的」なものと言えるかである。
民主主義社会において人格の核心に関わるような価値が、確かにある場合には社会がどうしても必要とする営為の前に制約を受けることは考えられる。そしてそれが本人にとって職務として強要される場合には、本人は強い緊張と葛藤の中に置かれることになる。
しかしその場合には「服従の法的限界」を常に見据えるだけの場がそこには合法的に設定されていなければならない。所謂「共に考える(mitdenken)服従」(批判的服従)の問題である。
従ってこのような制度的手当を全く欠く本件の強制による制約は、決して「必要かつ合理的」という基準を充たすものではない、と言えよう。
以上、貴第一小法廷は、本件に関し来るべき判決にあたっては以上の諸点を十分斟酌の上、とくに憲法13条、19条、26条の今日的意味に立ち帰り、「諸自由が花開く場」(freedom of liberteis)としての学校における教育という営みにふさわしい判断を示すことを切に願うものである。
最高裁判所第一小法廷裁判官殿
◎ 要 請 書 [後編]
~生徒に一定の人格の型を持つことを求める装置としての学校行事の直接制約性都留文科大学教授 横田力(よこたつとむ)
「報告集会での横田教授のミニ講演」 《撮影:平田 泉》
第三に、第二の論点に関わって、このような強制を伴う制約が、意図的ではない「間接的な制約」に留まると言えるのかである。
そもそも特定思想を狙い撃ちする「直接的な制約」であれば、それは誰にでもわかることで、従って、その評価基準は一般人目線に置いてもその不当性は明らかになる。
それに対して判決の言う非意図型の「間接的制約」は、正にそれが間接的であるがために一般人目線からではその痛みがみえてこないのである。そこでは本人目線に視点をおくことではじめてその不当性がみえてくるのである。
この点で、一連の処分事案に関わる貴裁判所の判決は正に思考のミスマッチを犯していると言えよう。
と同時に、本件通達の前提となっているとされる現行学習指導要領における国旗・国歌条項の次のような記述をみたとき、本件通達の内容とそれに基づく職務命令の適用が、単なる「間接的制約」に留まるものと言えるかという問題もある。
即ち「日本人としての自覚を養い、国を愛する心を育てると共に、生徒が将来…信頼される日本人として成長していくためには、国旗及び国歌に対して一層正しい認識をもたせて、それらを尊重する態度を育てること…」
そして本年5月30日の第2章法廷判決における補足意見において須藤裁判官はいみじくも次のように述べることで、その直接的な制約の意図性を吐露していることもこのような疑問を強める理由となるとなるところである。
即ち、「起立斉唱という国旗、国歌への敬意の表明の要素を含む行為を契機として、日常の意識の中で自国のことに注意を向けるようにすることにあり、そのために、卒業式という重要な儀式的行事の機会に指導者たる教員に、いわば率先垂範してこれを行わしめるものといえる。」「実際、高校生は、やがて、国の主権者としての権利を行使し社会的責務を負う立場になるのであり、また、自らの生活や人生を国によって規定されることは避けられない。公共の最たるものが国であり、国は何をする存在なのかを知り、国が自分のために何をしてくれるのかを問いかけることも、自分が国のために何をなし得るのかを問いかけることも、大切なことと思われる。そして、そのためには」「職務命令において高校生徒に対していわば率先垂範的立場にある教員に日常の意識の中で自国のことに注意を向ける契機を与える行為を行わしめることは当然のことともいえる。」「上記の契機を与えるための教育の手段としては、様々なものがあり得るから、『日の丸や『君が代』を用いてこれに対して敬意の表明の要素を含む行為をさせることは唯一の選択肢ではないものの、これらは、国旗、国歌として国を象徴するものであるがゆえに、直裁で分かりやすく、これに敬意の表明の要素を含む行為をすることが、日常の意識の中で自国のことに注意を向ける契機となるものと思われる。」「以上によれば、本件の卒業式において、『国』のことに注意を向ける契機を与えるための教育の手段として、『日の丸』や『君が代』を用い、教員をして、いわば率先垂範してこれに対する敬意の表明の要素を含む行為をさせることには、必要性及び合理性が認められるといえる。」
ここからは、既に一定の人格の型をもつことを生徒に求め、そのための装置として学校行事が位置づけられていることが明瞭に窺知されるのである。
そのためのいわばツールとして特定の定型行為を教師に求める本件通達は、その効果において著しく「直接制約的」型に近いものと言えよう。
第四に、ではそのような制限がなお「必要かつ合理的」なものと言えるかである。
民主主義社会において人格の核心に関わるような価値が、確かにある場合には社会がどうしても必要とする営為の前に制約を受けることは考えられる。そしてそれが本人にとって職務として強要される場合には、本人は強い緊張と葛藤の中に置かれることになる。
しかしその場合には「服従の法的限界」を常に見据えるだけの場がそこには合法的に設定されていなければならない。所謂「共に考える(mitdenken)服従」(批判的服従)の問題である。
従ってこのような制度的手当を全く欠く本件の強制による制約は、決して「必要かつ合理的」という基準を充たすものではない、と言えよう。
以上、貴第一小法廷は、本件に関し来るべき判決にあたっては以上の諸点を十分斟酌の上、とくに憲法13条、19条、26条の今日的意味に立ち帰り、「諸自由が花開く場」(freedom of liberteis)としての学校における教育という営みにふさわしい判断を示すことを切に願うものである。
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