毎木曜掲載・第156回(2020/4/30)
コロナ危機を乗り切る「劇薬」
井上智洋『ヘリコプターマネー』(日本経済新聞出版社、2016)/評者:菊池恵介
新型コロナウィルスの感染拡大に伴う医療崩壊や雇用危機に対処すべく、現在、世界各地でさまざまな対策が講じられている。ただちに大規模な財政支援を打ち出さなければ、無数の人々が仕事を失い、路頭に迷うことになるだろう。だが、その財源を一体どこに求めるべきか。その切り札の一つとして、目下、欧米などでにわかに議論されているのが、いわゆる「ヘリコプターマネー」である。以下では、2016年に刊行された井上智洋さんの本を手掛かりに、その要点を見ていこう。
ヘリコプターマネーとは「政府や中央銀行のような公的機関が、空からヘリコプターでお金をふらせるかのように、貨幣を市中に供給すること」を意味する。語源としては、「ショック・ドクトリン」で悪名高い経済学者のミルトン・フリードマンが1969年の論文で「ヘリコプターで空からお金を撒くように、世の中に出回るお金を増やしたらどうなるか」という思考実験を行ったことに由来している。ここでの重要なポイントは、財政出動の財源となるのが、税金や「仕分け事業」などで捻出したお金ではなく、アメリカ連邦準備制度や日銀などの公的機関が発行する貨幣だという点である。
●デフレのメカニズムと金融政策の限界
ヘリコプターマネーが、近年、再び世界的に注目されるようになった背景には、リーマン・ショック後の長引くデフレ不況がある。デフレとは、世の中の需要不足によって引き起こされる現象である。一般に不況になると、人びとは支出を抑制することで、将来に備えようとする。だが、誰もモノを買わなくなれば、企業の売上は上がらず、所得も低迷するので、人々はますます消費を控えるようになる。こうした悪循環をたどることで、不況がどんどん深刻化してしまうのである。
したがって、デフレを脱却するためには、かつてケインズが主張したように、世の中に出回るお金の量を増やし、需要を作り出していく必要がある。それを大規模に実行できる唯一の主体こそ、政府や中央銀行といった公的機関にほかならない。問題は、この間の金融緩和が必ずしも十分な効果を発揮してこなかった点だ。たとえば、各国の中央銀行は、金利を引き下げることで民間企業にお金を借りやすくしたり、国債や社債を買い上げることで、世の中に出回るお金を増やそうとしてきた。しかし、それらの資金は市中の民間銀行のレベルで「ブタ積み」となってしまい、その先の企業へと流れていかない。しかも、企業の側も投資を抑制し、内部留保を溜め込んでしまっていて、その先の家計へと流れていかないのである。
このように金融緩和によって流通するお金を増やしても、民間銀行や企業でせき止められ、消費需要が冷え込んでしまっている場合、どうすべきか。そのときは、政府が中央銀行から借金をし、公共サービスや社会保障、あるいは給付金などの形で、家計にお金をばらまくべきだというのが、ヘリコプターマネーの考え方である。これまでの金融緩和の流通経路が、中央銀行 ⇒ 民間銀行 ⇒ 企業 ⇒ 家計 という流れだったとすれば、ヘリコプターマネーは、財政政策と金融政策を組み合わせることで、中央銀行 ⇒ 政府 ⇒ 家計 ⇒ 企業 という新しい流通経路を作り出していこうというわけだ。
●財政ファイナンスは破局への道か?
ヘリコプターマネーの発動には、二つの懸念が表明されてきた。ひとつは、中央銀行による財政ファイナンスが常態化すれば、財政規律が失われ、悪性のインフレが生じるというものだ。たとえば、政府が人気取りのためにダムや道路をどんどん建設したり、戦時期の日本のように軍事費を際限なく膨張させていけば、市場に出回る資金が過剰となり、ハイパーインフレになる可能性がある。いわゆる「国債の(直接の)引き受け」が財政法5条で原則的に禁止されているのも、そのためだ。したがって、財政ファイナンスを実施する上での重要な課題は、その濫用を防止するルールを整備しておくことだ。たとえば、現在、日銀が行っているように、インフレ目標を設定し、インフレ率が一定の水準を超えたら、それ以上の資金供給を行わない仕組みが守られれば、ハイパーインフレも防止できるはずである。
もう一つは、国債の乱発により、政府の公的債務が膨張することにより、財政破綻するのではないかという懸念である。実際、日本の公的債務は1100兆円を超えていることから、その不安は根強く、緊縮政策が支持される根拠ともなっている。この点に関して、本書は二つの論点を指摘する。ひとつは、日銀が保有する国債に関しては、永久に借り換えることができるという点である。政府が発行する国債は、日銀の金庫に入るが、その償還期限が来れば借り換えが行われる。この操作を繰り返すことにより、国債の返済期限を永遠に先延ばしにすることができる。これは日銀が保有する国債が、事実上の「永久債」となっていることを意味する。二つ目は、政府が日銀に支払っている国債の利子は、「国庫納付金」として政府に還元されている点だ。たしかに、財政ファイナンスが行われれば、政府は国債の利子分を日銀に支払わなければならない。しかし、日銀は、こうして儲かったお金から職員の給料や必要経費などを差し引いた上で、残りを「国庫納付金」として政府に納付する仕組みになっている。
本書の比喩によれば、これは「一つの家庭の中でお父さんがお母さんに借金をしているような状態」なので、実質的にタダでお金を借りているに等しい。ここからもわかるように、国債に関しては、それをだれが保有しているかが決定的に重要である。民間銀行や投資家が保有している場合、債務の増大とともに、利払いの負担が増大するので、財政が圧迫されるが、中央銀行が保有している分には、永久に借り換えられる上、利子も返金されるので、なんら国民の負担にならないのである。現在、日銀は金融緩和によって、民間銀行が保有する国債をどんどん買い取っており、その総額はすでに500兆円に迫っている。日銀が保有するこれら借金に関しては、もはや償還期限も利子もないに等しいのだから、事実上、この世から消滅したも同然なのである。
以上を踏まえると、ヘリコプターマネーがいまのわたしたちにとって、いかなる武器になりうるかが見えてくるだろう。もともと本書は、バブル崩壊後の長期デフレ不況の打開策を提言すると同時に、近未来におけるAI普及による大規模な雇用破壊を見据えた上で、来るべきベーシックインカムの財源論として構想されたものである。しかし、ここで展開される「財政ファイナンス」に関する議論は、近未来の話ではなく、いまここにある危機への処方箋としても読むことができるだろう。IMFの予想によれば、コロナウィルスの感染拡大に伴う世界的な景気後退は、リーマン・ショック後の世界同時不況を上回り、1930年代の世界恐慌に匹敵する規模に達する可能性がある。したがって、この未曾有の危機を乗り切るためには、平時の景気対策とは異次元の財政出動をすることが求められるだろう。ヘリコプターマネーは、その「劇薬」となりうるかもしれない。
*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・渡辺照子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美、根岸恵子、杜海樹、ほかです。
コロナ危機を乗り切る「劇薬」
井上智洋『ヘリコプターマネー』(日本経済新聞出版社、2016)/評者:菊池恵介
新型コロナウィルスの感染拡大に伴う医療崩壊や雇用危機に対処すべく、現在、世界各地でさまざまな対策が講じられている。ただちに大規模な財政支援を打ち出さなければ、無数の人々が仕事を失い、路頭に迷うことになるだろう。だが、その財源を一体どこに求めるべきか。その切り札の一つとして、目下、欧米などでにわかに議論されているのが、いわゆる「ヘリコプターマネー」である。以下では、2016年に刊行された井上智洋さんの本を手掛かりに、その要点を見ていこう。
ヘリコプターマネーとは「政府や中央銀行のような公的機関が、空からヘリコプターでお金をふらせるかのように、貨幣を市中に供給すること」を意味する。語源としては、「ショック・ドクトリン」で悪名高い経済学者のミルトン・フリードマンが1969年の論文で「ヘリコプターで空からお金を撒くように、世の中に出回るお金を増やしたらどうなるか」という思考実験を行ったことに由来している。ここでの重要なポイントは、財政出動の財源となるのが、税金や「仕分け事業」などで捻出したお金ではなく、アメリカ連邦準備制度や日銀などの公的機関が発行する貨幣だという点である。
●デフレのメカニズムと金融政策の限界
ヘリコプターマネーが、近年、再び世界的に注目されるようになった背景には、リーマン・ショック後の長引くデフレ不況がある。デフレとは、世の中の需要不足によって引き起こされる現象である。一般に不況になると、人びとは支出を抑制することで、将来に備えようとする。だが、誰もモノを買わなくなれば、企業の売上は上がらず、所得も低迷するので、人々はますます消費を控えるようになる。こうした悪循環をたどることで、不況がどんどん深刻化してしまうのである。
したがって、デフレを脱却するためには、かつてケインズが主張したように、世の中に出回るお金の量を増やし、需要を作り出していく必要がある。それを大規模に実行できる唯一の主体こそ、政府や中央銀行といった公的機関にほかならない。問題は、この間の金融緩和が必ずしも十分な効果を発揮してこなかった点だ。たとえば、各国の中央銀行は、金利を引き下げることで民間企業にお金を借りやすくしたり、国債や社債を買い上げることで、世の中に出回るお金を増やそうとしてきた。しかし、それらの資金は市中の民間銀行のレベルで「ブタ積み」となってしまい、その先の企業へと流れていかない。しかも、企業の側も投資を抑制し、内部留保を溜め込んでしまっていて、その先の家計へと流れていかないのである。
このように金融緩和によって流通するお金を増やしても、民間銀行や企業でせき止められ、消費需要が冷え込んでしまっている場合、どうすべきか。そのときは、政府が中央銀行から借金をし、公共サービスや社会保障、あるいは給付金などの形で、家計にお金をばらまくべきだというのが、ヘリコプターマネーの考え方である。これまでの金融緩和の流通経路が、中央銀行 ⇒ 民間銀行 ⇒ 企業 ⇒ 家計 という流れだったとすれば、ヘリコプターマネーは、財政政策と金融政策を組み合わせることで、中央銀行 ⇒ 政府 ⇒ 家計 ⇒ 企業 という新しい流通経路を作り出していこうというわけだ。
●財政ファイナンスは破局への道か?
ヘリコプターマネーの発動には、二つの懸念が表明されてきた。ひとつは、中央銀行による財政ファイナンスが常態化すれば、財政規律が失われ、悪性のインフレが生じるというものだ。たとえば、政府が人気取りのためにダムや道路をどんどん建設したり、戦時期の日本のように軍事費を際限なく膨張させていけば、市場に出回る資金が過剰となり、ハイパーインフレになる可能性がある。いわゆる「国債の(直接の)引き受け」が財政法5条で原則的に禁止されているのも、そのためだ。したがって、財政ファイナンスを実施する上での重要な課題は、その濫用を防止するルールを整備しておくことだ。たとえば、現在、日銀が行っているように、インフレ目標を設定し、インフレ率が一定の水準を超えたら、それ以上の資金供給を行わない仕組みが守られれば、ハイパーインフレも防止できるはずである。
もう一つは、国債の乱発により、政府の公的債務が膨張することにより、財政破綻するのではないかという懸念である。実際、日本の公的債務は1100兆円を超えていることから、その不安は根強く、緊縮政策が支持される根拠ともなっている。この点に関して、本書は二つの論点を指摘する。ひとつは、日銀が保有する国債に関しては、永久に借り換えることができるという点である。政府が発行する国債は、日銀の金庫に入るが、その償還期限が来れば借り換えが行われる。この操作を繰り返すことにより、国債の返済期限を永遠に先延ばしにすることができる。これは日銀が保有する国債が、事実上の「永久債」となっていることを意味する。二つ目は、政府が日銀に支払っている国債の利子は、「国庫納付金」として政府に還元されている点だ。たしかに、財政ファイナンスが行われれば、政府は国債の利子分を日銀に支払わなければならない。しかし、日銀は、こうして儲かったお金から職員の給料や必要経費などを差し引いた上で、残りを「国庫納付金」として政府に納付する仕組みになっている。
本書の比喩によれば、これは「一つの家庭の中でお父さんがお母さんに借金をしているような状態」なので、実質的にタダでお金を借りているに等しい。ここからもわかるように、国債に関しては、それをだれが保有しているかが決定的に重要である。民間銀行や投資家が保有している場合、債務の増大とともに、利払いの負担が増大するので、財政が圧迫されるが、中央銀行が保有している分には、永久に借り換えられる上、利子も返金されるので、なんら国民の負担にならないのである。現在、日銀は金融緩和によって、民間銀行が保有する国債をどんどん買い取っており、その総額はすでに500兆円に迫っている。日銀が保有するこれら借金に関しては、もはや償還期限も利子もないに等しいのだから、事実上、この世から消滅したも同然なのである。
以上を踏まえると、ヘリコプターマネーがいまのわたしたちにとって、いかなる武器になりうるかが見えてくるだろう。もともと本書は、バブル崩壊後の長期デフレ不況の打開策を提言すると同時に、近未来におけるAI普及による大規模な雇用破壊を見据えた上で、来るべきベーシックインカムの財源論として構想されたものである。しかし、ここで展開される「財政ファイナンス」に関する議論は、近未来の話ではなく、いまここにある危機への処方箋としても読むことができるだろう。IMFの予想によれば、コロナウィルスの感染拡大に伴う世界的な景気後退は、リーマン・ショック後の世界同時不況を上回り、1930年代の世界恐慌に匹敵する規模に達する可能性がある。したがって、この未曾有の危機を乗り切るためには、平時の景気対策とは異次元の財政出動をすることが求められるだろう。ヘリコプターマネーは、その「劇薬」となりうるかもしれない。
*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・渡辺照子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美、根岸恵子、杜海樹、ほかです。
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