詩人PIKKIのひとこと日記&詩

すっかりブログを放任中だった。
詩と辛らつ日記を・・

尾崎放哉句集(抄)

2019年12月31日 | 犯罪

  島の明けくれ

道を教へてくれる煙管から煙が出てゐる

病人花活ける程になりし

朝靄豚が出て来る人が出て来る 

迷つて来たまんまの犬で居る

山の芋掘りに行くスツトコ被り

人間並の風邪の熱出して居ることよ

さつさと大根の種子まいて行つてしまつた

夕靄溜まらせて塩浜人居る

已に秋の山山となり机に迫り来

蛙釣る児を見て居るお女郎だ

久し振りの雨の雨だれの音

都のはやりうたうたつて島のあめ売り

厚い藁屋根の下のボンボン時計

三味線が上手な島の夜のとしより

障子あけて置く海も暮れ切る

山に大きな牛追ひあげる朝靄

畑のなかの近か道戻つて来よる

畳を歩く雀の足音を知つて居る

あすのお天気をしやべる雀等と掃いてゐる

あらしがすつかり青空にしてしまつた

窓には朝風の鉢花

淋しきままに熱さめて居り

火の無い火鉢が見えて居る寝床だ

風にふかれ信心申して居る

小さい家で母と子とゐる

淋しい寝る本がない

竹藪に夕陽吹きつけて居る

月夜風ある一人咳して

お粥煮えてくる音の鍋ふた 

一つ二つ蛍見てたづぬる家

早さとぶ小鳥見て山路行く

咳き入る日輪くらむ

  野菜根抄

雀等いちどきにいんでしまつた

草花たくさん咲いて児が留守番してゐる

爪切つたゆびが十本ある

来る船来る船に一つの島

漬物石がころがつて居た家を借りることにする

鳳仙花の実をはねさせて見ても淋しい

夜の木の肌に手を添へて待つ

秋日さす石の上に脊の児を下ろす

浮草風に小さい花咲かせ

隆子の穴から覗いて見ても留守である

朝がきれいで鈴を振るお遍路さん

入れものが無い両手で受ける

朝月嵐となる

秋山広い道に出る

口あけぬ蜆死んでゐる

咳をしても一人

汽車が走る山火事

静かに撥が置かれた畳

菊枯れ尽くしたる海少し見ゆ

流れに沿うて歩いてとまる

海苔そだの風雪となる舟に人居る

とんぼの尾をつまみそこねた

麦がすつかり蒔かれた庵のぐるり

墓地からもどつて来ても一人

恋心四十にして穂芒

なんと丸い月が出たよ窓

ゆうべ底がぬけた柄杓で朝

風凪いでより落つる松の葉

雪の頭巾の眼を知つてる

自分が通つただけの冬ざれの石橋

藪のなかの紅葉見てたづねる

ひどい風だどこ迄も青空

  寒空

大根ぬきに行く畑山にある

麦まいてしまひ風吹く日ばかり

今朝の霜濃し先生として行く

となりにも雨の葱畑

くるりと剃つてしまつた寒ン空

夜なべが始まる河音

よい処へ乞食が来た

雨萩に降りて流れ

寒なぎの帆を下ろし帆柱

庵の障子あけて小ざかな買つてる

師走の木魚たたいて居る

松かさそつくり火になつた

風吹きくたびれて居る青草

嵐が落ちた夜の白湯を呑んでゐる

鉄砲光つて居る深雪

霜濃し水汲んでは入つてしまつた

一人でそば刈つてしまつた

冬川せつせと洗濯してゐる

  仏とわたくし

昔は海であつたと榾をくべる

寒ン空シヤツポがほしいな

蜜柑たべてよい火にあたつて居る

とつぷり暮れて足を洗つて居る

昼の鶏なく漁師の家ばかり

海凪げる日の大河を入れる

働きに行く人ばかりの電車

雪の宿屋の金屏風

わが家の冬木二三本

家のぐるり落葉にして顔出してゐる

墓原花無きこのごろ

山火事の北国大空

月夜の葦が折れとる

墓のうらに廻る

あすは元日が来る仏とわたくし

掛取も来てくれぬ大晦日も独り

雪積もる夜のランプ

雨の舟岸により来る

山奥の木挽きと其男の子

夕空見てから夜食の箸とる

ひそかに波よせ明けてゐる

冬木の窓があちこちあいてる

窓あけた笑ひ顔だ

  虚空実相

夜釣から明けてもどつた小さい舟だ

児を連れて城跡に来た

風吹く道のめくら

旅人夫婦で相談してゐる

ぬくい屋根で仕事してゐる

絵の書きたい児が遊びに来て居る

山風山を下りるとす

裸木春の雨雲行くや

をそくなつて月夜となつた庵

松の根方が凍ててつはぶき

舟をからつぽにして上つてしまつた

小さい島にすみ島の雪

名残の夕陽ある淋しさ山よ

故郷の冬空にもどつて来た

一日雪ふるとなりをもつ

みんなが夜の雪をふんでいんだ

山吹の花咲き尋ねて居る

春が来たと大きな新聞広告

雨の中泥手を洗ふ

枯枝ほきほき折るによし

静かなる一つのうきが引かれる

山畑麦が青くなる一本松

窓まで這つて来た顔出して青草

渚白い足出し

久し振りの太陽の下で働く

貧乏して植木鉢並べて居る

霜とけ鳥光る

久しぶりに片目が蜜柑うりに来た

障子に近く蘆枯るる風音

八ツ手の月夜もある恋猫

仕事探して歩く町中歩く人ばかり

舟から唄つてあがつてくる

元気な人ばかり海へ働きにゆく

  最後の手記より

あついめしがたけた野茶屋

どつさり春の終りの雪ふり

森に近づき雪のある森

肉がやせてくる太い骨である

一つの湯呑を置いてむせてゐる

やせたからだを窓に置き船の汽笛

婆さんが寒夜の針箱おいて去んでる

すつかり病人になって柳の糸が吹かれゐる

春の山のうしろから烟が出だした

憲法生かす市政を!/八王子市長選(1/26投票)に白神優理子さん立候補

2019年12月31日 | 犯罪
皆様

 お早うございます。朗報です。
 八王子市長選挙で、白神優理子弁護士が立候補することになりました。すでに
公表され、ホームページも立ち上がっています。
 白神優理子候補のホームページ http://sirayuri.waterblue.net/

 「ごあいさつ」が素晴らしいです。多くの方に知らせて、拡散してください。
 活動開始は4日からになりますが、可能な限りご支援をお願いいたします。

五十嵐 仁

ーー以下、白神さんのHPよりーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ごあいさつ

(1)弁護士の白神優理子(しらがゆりこ)です。2020年1月26日の八王子市長選挙に挑戦します。
 私は八王子の地で弁護士として6年間活動してきました。多くの民事事件・刑事事件に加え、労働事件や行政事件も数多く手がけてきました。解雇・過労死・原爆症・老齢年金・障害年金・住民訴訟などです。日本国憲法のうたう基本的人権をまもることが、日々の仕事です。

(2)いまの八王子市政を憲法の眼でみると、多くの問題があり、ぜひ憲法をくらしに生かす市政に変えたいと思います。
 命綱である国民健康保険税の値上げをやめ引き下げます。保育は待機児童をなくし給食費も無償に向かいます。子どもたちの学ぶ環境としても災害避難場所としても体育館のエアコン設置を急ぎます。

公契約条例をつくって市の仕事をする人たちの賃金を底上げし民間の賃金の引上げをリードします。学生の家賃補助をして学生の勉学や消費をサポートします。大型店の出店にブレーキをかけて商店街をまもります。マルベリブリッジ拡大や北西部幹線道路など急ぐ必要のない大型開発を減らして財源をつくります。

 市民が主人公だという立場で、市民の声を聞き、市民の声を生かします。若者や女性が政治に参加しやすくするためにあらゆる努力をします。
 市政にのぞむ基本は「八王子八策」です。さらに市民の声を聞いて充実させます。

(3)国の政治も、憲法の理想からかけ離れています。著書「弁護士白神優理子が語る日本国憲法は希望」に書いた内容で、市長として国の政治にはっきり意見を言います。
 消費税の増税はくらしを直撃しています。消費税の税率引き下げを求めます。憲法9条を変えることに反対します。兵器の爆買いをやめるよう求めます。オスプレイが八王子など横田基地周辺を飛ぶことをやめるように求めます。地方自治に反する沖縄辺野古への基地建設の中止を求めます。IRとしてのカジノに反対しIR疑獄の徹底究明を求めます。「桜を見る会」の私物化や資料廃棄の徹底究明を求めます。核兵器禁止条約への参加を求めます。大学入試は民間委託せず国と大学の責任で公正に実施するように求めます。
 市民連合と立憲野党が共同して作成した2019年参議院選挙のときの13項目の政策のすべてに賛同します。私はすべての立憲野党のみなさんに共同を呼びかけます。

(4)私は36歳とまだ若く、女性です。これまでの八王子市長選挙ではなかったことでしょう。しかし世界では、グレタさんなど高校生が環境保護の運動をリードしています。フィンランドでは、34歳の女性の首相が誕生しています。私が挑戦することで、日本でも、若者や女性が声をあげてよいのだと、希望をひらきたいと思っています。

軍旗はためく下に(抄)

2019年12月30日 | 犯罪
司令官逃避
  ――陣地は死すとも敵に委すること勿れ。(「戦陣訓」より) 〈陸軍刑法〉

第四十二条 司令官敵前ニ於テ其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ隊兵ヲ率ヰ逃避シタルトキハ死刑ニ処ス。

 註

 司令ニ任スル陸軍軍人トハ苟クモ軍隊ノ司令ニ任スル以上ハ其ノ団体ノ大小、任務ノ軽重ヲ問ハス又司令ニ任スル者ノ将校タルト下士タルトニ論ナク総テ茲ニ所謂司令官ナリト解セサルヘカラス。

 昭和十九年末、太平洋戦争における日本軍はすでにサイパン、グワム、テニアンを奪われ、陸海軍の主力を結集したフィリピンのレイテ島でも惨敗を喫し、十二月十五日には陸海空の圧倒的な戦力をもった米軍がルソン島の南、ミンドロ島に上陸、フィリピン防衛を担う第十四方面軍司令部の置かれたルソン島の中心マニラ市街は連日の空爆に曝されていた。特攻機はつぎつぎに基地を飛立っては還らず、内地では沖繩決戦、本土決戦が叫ばれていた頃である。

 そのような情況下の十二月二十八日、台湾の高雄を出航した輸送船団が、米軍の戦闘爆撃機や潜水艦を警戒しながらバシー海峡を渡り、無事にルソン島北部の北サンフェルナンドに着いたのはほとんど奇跡的だった。マニラに入港する予定を、沈没艦船が多くてマニラ湾へ入れないので北サンフェルナンドに変えたのだが、無事にルソン島の土を踏めるかどうか、凍るような気待で危ぶんでいたのは戸田上等兵だけではなかった。

「しかし同じことさ。どうせおれたちは助からない」
 昼夜兼行の荷揚げ作業にへばった様子で、小休止の煙草を一服つけると、永野上等兵が投げやりに言った。現役で張切っている若い兵隊たちと違って、戸田も永野も支那事変に従軍し、今度で二度目の応召だった。それまではふたりとも徴用工だったし、年齢は戸田が一つ下の三十四歳、体つきは柔道三段という永野のほうが逞しいが、東京の場末で育った環境なども似通っていた。

「どうせ助からないか」
 戸田は鸚鵡返しに呟き、おれの声も大分投げやりだなと思った。入港後間もなく敵の戦闘爆撃機P38の猛攻をうけ、船団十隻のうち八隻が撃沈され、その残骸のマストが入江のあちこちに夕日を浴びていた。

 ――いや。
 戸田は心の中で首を振った。リンガエン湾に映る燃えるような夕日を眺め、感傷的になっている自分が気に入らなかった。戦争は負けるだろう、だから戦死するかもしれない、しかし、まだほんとうに死ぬとは思っていない、永野も感傷的になっているだけではないのか。

「ほんとうに助からないと思ってるのか」
「まず助からんね」
「あんたも死ぬのか」
「おれは大丈夫さ。絶対に死なない」
「なぜだ」
「おれは運がツイている。支那でも、普通なら死ぬところを、おれは何度も助かってきた。クジ運もいいし、たとえ部隊が玉砕するようなことになっても、おれだけは生残る自信がある」

 永野は生真面目な表情で、自分に都合のいい解釈をしていた。額の広い長い顔で、徴用工の前は化粧品会社に勤めていたというが、戸田に較べれば遥かに楽天的な男らしく、性格も多少ズボラだった。戸田は洋画の配給会社に勤め、アメリカや西欧の映画が輸入されなくなってぶらぶらしていたところを徴用に引っぱられ、軍需工場でプレス工をやらされていたのである。

 北サンフェルナンドは、緑の椰子並木に縁どられた小さな港町だった。しかし、先着していた守備隊の兵士の話を聞くと、住民の大半は何処へか逃去り、残った住民も初めの頃は友好的だったが、米軍優勢の噂が高まるにつれて日本軍兵士に侮蔑的な態度を示すようになっていた。軍票が日ましに下落して、町外れの露店て売っているバナナが一本三円から五円、黒砂糖一塊三十円、正価十五銭の煙草「金鵄」が一箱二十円から三十円もする。煙草や罐詰などは軍の横流し品で、月給二十四円の上等兵にはむろん手が出ない。また、家々の柱に「かつかしぬるか」というペンキ書きの平仮名が至るところで眼についたが、それが「勝つか死ぬるか」と分ったときは、

「厭なことを書きやがるな」
 永野上等兵も不吉を覚えたように言った。先着部隊が決死の覚悟を促すために書いたらしいが、全部平仮名にしたのは漢字の読める華僑がいたせいだという。

 いずれにせよ、無事に入港したものの上陸した途端に爆撃をくって、それから数日は穏かに過ぎたが、年が明けて正月五日の夜半、大隊本部へ命令受領に行った小柴兵長が飛ぶように戻ってきた。

「いよいよ来やがったぞ。無線将校が復誦しているのを聞いたんだ。敵の船団がポロ岬沖に現れた。すぐそこだぜ」
 小柴兵長は息を切らして、声が上ずっていた。

 ――わたしは少し酔っています。話が前後したら注意してください。しかしまだ大丈夫、杉沢中隊長のことでしたね。分っています。あんたもどうぞ遠慮なく飲んで、お互いに手酌でやりましょう。

 敵の艦砲射撃が始ったのは翌六日の未明でした。砲弾音で眼が覚めたんです。中隊は住民が逃げたあとの空家を宿舎にして、分隊ごとに分散していましたが、艦載機のグラマンも蜂の大群みたいにやってくるし、その機銃掃射の怖さといったら、腰が抜けたようになって逃げられない兵隊がいたくらいです。とにかく伝令がきて山のほうへ退避しろというので、泡をくって逃げました。どういわけか、逃げるのは海軍のほうが早くて巧かった。わたしたちが外へ飛出したら、海軍の兵隊がどんどん逃げてゆく最中だった。わたしたちのほうはてんでんバラバラです。マンゴーや椰子林の斜面を無我夢中で逃げた。それでも、多少は安全と思われる山の中腹で一息いれたら、不思議に中隊の者がまとまって、砲弾に吹っ飛ばされて欠けた者はいましたが、ほかの隊の者は一人も紛れこんでいなかった。あとで考えると、みんな無意識のうちに中隊長の動きについていたようです。

 温厚な、実にいい中隊長でした。部下を叱りつけるときでも、決して大きな声を出さなかった。わたしより三つか四つ年上だったでしょう。支那事変で北支に従軍してから予備役になり二度目の応召まではカメラ会社に勤めていたと聞きました。甲幹出身の中尉です。子供が三人いるということも聞きました。ちょっと渋い感じの男前で、臆病なひとだったとは思いません。

 しかし、中隊全員の素質はあまりいいと言えなかった。装備もひどかったし、三十歳過ぎの補充兵と、沈没した船から這上った丸腰の海没組ばかりで、生のいい現役兵は海没組の中のほんの僅かだった。上陸してから臨時に編成された特設中隊ですが、僻む奴は半端な兵隊を寄せ集めたようだなんて言ってました。
 もちろん、だからといって杉沢中隊長が半端な将校だったわけじゃありません。

 山の中腹から見下ろすと、北サンフェルナンドの沖合は敵の艦船が、まるで観艦式に集ったみたいに百隻以上も浮かんでいる。わたしは夢を見ているようで、信じられない気持だった。

「凄えな」
 永野上等兵も呆然としたように言ったが、それが夢ではない証拠に、艦砲射撃を滅多やたらにぶちこんでくる。一息入れるどころじゃありません。大隊本部へ連絡を出したけど、何処へ行ってしまったのか、砲撃でやられたのか、それっきり戻ってこない。通りかかったほかの隊の者に聞いたらバギオヘ行くというので、わたしたちも這上るように山をのぼってバギオヘ向いました。バギオは松の都といわれたくらい松林の多い避暑地で、当時は山下大将の方面軍司令部や大使館員などもマニラから移ってきていました。海抜千五百、東と北の岡にしゃれた教会があり、白い壁に赤や青い屋根の別荘ふうな家が点在し、緑の芝生に囲まれた美しい湖もありました。目抜き通りには喫茶店や映画館もあったようです。しかし、わたしたちが行ったときはもちろんごった返していて、

「何をしに来たんだ」
 連隊副官の藤巻という大尉が、杉沢中隊長の顔を見るなり怒鳴りました。眼の窪んだ平べったい下品なつらで、呉服屋のおやじだったという四十歳過ぎの男ですが、えらそうなひげを生やして、北サンフェルナンドヘ戻れというんです。中隊長もずいぶん無茶だと思ったらしいけど、命令では仕様がありません。上官の命令は天皇陛下の命令と心得よですからね。わたしたちはぶつぶつ言いながら引返しました。

 ところが、北サンフェルナンドは連日の艦砲射撃と空爆で全く見るかげもない。ナパーム弾で椰子林も丸坊主に焼きつくされ、杉沢中隊は山あいに陣地を構えましたが、ろくな装備もない有様で、陣地といっても壕を掘っただけです。砲弾がとんでくるたびに壕へもぐって、友軍機がやってくる日を待つばかりだった。敵はすでにリンガエン湾に上陸していたし、友軍機はほとんど特攻隊で潰滅状態だったのですが、それはあとで分ったことで、兵隊たちはどこで噂を聞込んでくるのか、祭提燈のようにリンガエン湾に浮かんでいる敵船団の灯を眺めて、

「あれは日本海軍に湾口を封鎖されて出られないせいだ」
「アメリカ兵はパンがなくて、カレーライスばかり食わされているっていうぜ」

「二月十一日の紀元節を期して連合艦隊の大攻撃が始るので、友軍機がこないのは、そのときのために満を持しているらしい。ここにいれば高見の見物で、コテンパンに敵がやられるところを見ることができる」

 などと、のんきなことを真顔で言合っていました。そんな状態でも、かならず日本が勝つと信じている者が大部分だったんです。こっちはカレーライスどころか、乾パンも食えないでいたのに、今考えるとおかしいけれど、アメリカ兵のカレーライスを羨しがる者はいませんでした。いえ、結構です。ほんとに結構、わたしは手酌が好きなんです。近ごろ血圧が高いし、あまり飲めるほうでもありませんが、ほかに愉しみもありませんからね。どうですか、この漬物は。割合さっぱりしてるでしょう……。

 ――青いバナナは渋くて食えません。でも昼間は敵の観測機が空をまわっているし、爆撃の目標になるから火を使えないが、ゆでると渋味がとれて大根みたいな味になります。それに塩を加えると甘くなって、バナナの木の芯も食べました。生のままか、煮て食ったこともあります。食べられる部分はほんの親指くらいで、味は殆どありません。パパイヤは実がなかったけれど、幹を輪切りにしてぐつぐつ煮るんです。堅い筍みたいでちっともうまくないが、何しろ腹ぺこでしたからね。食べられそうな物は何でも食べました。ぐつぐつといえば、軍靴や革帯を三日も煮込んで食べたこともあります。これは大分あとのことで、栄養があると思ったんです。しかし靴はやはり食べる物じゃありません。スルメみたいにしゃぶっただけですが、まあ関係のない話はよしましょう。

 とにかく紀元節を過ぎても、日本の連合艦隊はいっこうにやってこない。砲弾は相変らず飛んでくるし、フィリピン人のゲリラも活溌になって、全滅させられた小隊もでてきた。敵の陸上部隊が攻め上ってきたら、もちろん突撃して玉砕するほかないので、中隊長もさすがに覚悟を決めていたようです。もうカレーライスの噂をする奴なんかいません。わたしなども、覚悟というほどではないが、ここで死ぬんだと思っていました。  

 ところが、北サンフェルナンドの裏山にこもって一か月ほど経ったとき、ふいに大隊から伝令がきて、バギオヘ転進することになった。

「助かったな、おい」
 永野がほっとしたように言いましたが、内心はみな同じ気持だったと思います。バギオまで山道を約一週間、日中は谷間に隠れて眠り、行軍はもっぱら夜です。ゲリラを警戒するためで、その点、中隊長は非常に慎重で、部下を大切にしていました。負傷した部下を置去りにして、先へ行ってしまうような隊長とは違っています。

 しかしバギオに着いて、助かると思ったのは束の間でした。最初に行ったときの松の都という美しい印象は爆弾とともに吹っ飛んで、どこもかしこも焼跡だらけ、方面軍司令部のあった綜合病院もやられて退避壕にもぐっている始末です。わたしたちが着いたときも、どこがやられているのか、地ひびきのような砲声が聞えていました。そして、ようやく着いた杉沢中隊に与えられた次の任務は、バギオ防衛のためグリーン・ロードのキャンプ・3を死守しろという命令です。

 バギオとマニラの間は約二百キロありますが、マニラから平坦なルソン平野を北上して、急な坂道をバギオに至る十キロの道路がグリーン・ロードです。平地から一キロごとにキャンプ・1、キャンプ・2というように道標が立っていて、キャンプ・10まであるうちのキャンプ・3です。曲りくねった道は片側がジャングルで、反対側が崖になっている。その最前線の守備に、最も装備が悪く、ロートルの補充兵と丸腰の海没組ばかりの杉沢中隊が命じられたわけです。隊員は百六十人くらいいましたが、装備は擲弾筒三筒に兵隊の三八式小銃だけ、軽機関銃もなければ無線も有線もない。もちろん海没組は小銃も持っていない。特設中隊はいつも継子扱いで、いちばん割の悪い役ばかり押しつけられる。大隊長にしてみれば、子飼いの中隊が可愛いというのでしょう。とにかく杉沢中隊はキャンプ・3の道標辺を中心に展開し、第三小隊が右側高地、指揮班と第一、第二小隊が左側の高地にこもりました。

 それでも、初めの頃はマニラから退却してくる部隊や、水を汲みに下りてくる兵隊が往来して、糧秣の補給もどうにか続いていました。しかしそれも二月末頃までです。往来がなくなると同時に、補給のほうもぱったり跡絶えてしまった。マニラ方面に残っていた部隊は退路を断たれたんです。バギオの主力部隊も動きがとれなくなっていたらしく、糧秣受領に行った兵隊は、自活しろと言って追返されてきました。自活しろと言われたって、食い物があるような所じゃありません。仕様がないから交替で、山岳地帯のジャングルを三里も四里も這いつくばってイゴロット族の芋畑を探し、その晩は芋畑の小屋に泊り、翌日帰隊するという生活を何日かつづけました。イゴロットは山岳部族です。畑になりそうな所を切拓いて火をつけ、その灰と腐葉土を肥料にして芋畑をつくり、土地が枯れ、芋を食いつくしたら次の畑へ移動するらしい。彼らは豚や犬も飼ってたようですが、わたしたちが見つけたのは食いつくされた跡の芋畑ですから、残り芋の屑ばかりで、たいした収穫があったわけじゃありません。敵の観測機は一日じゅう空をまわっているし、友軍機は依然一機も現れない。連絡兵が帰らなかったり、水汲みに下りた兵が機銃でやられたり、マラリアで死ぬ者もでて、その心細さといったらありません。

「いつまでこんな所にいろというんだ」
「軍司令部も連隊や大隊本部も、とうにバギオをずらかったんじゃねえのか」

 苛立ったように言う兵隊もいました。夜は厭な声で猿が啼きます。もう誰も不安を隠せなかった。楽天家で喉自慢の永野さえ、全然下手な歌を歌わなくなりました。「勘太郎月夜唄」なんていうのが得意だった男です。

 そのうち迫撃砲の大きなやつがぶちこまれだして、敵の遊撃隊と出遭ったのは確か三月十三日と憶えていますが、萱の藪っ原にいた指揮班の七人が自動小銃をくらって全員戦死、翌日はキャンプ・1の反対側の山中でわたしの所属していた小隊がやはり敵の遊撃隊とぶつかり、自動小銃の攻撃でたちまち半数以上がやられた。重いばかりで骨董屋に売りとばしたほうがいいような三八銃と、バリバリ撃ちまくる自動小銃とではまるっきり勝負にならない。逃げるのが精いっぱいで、戦う余裕などありません。どこをどう逃げたのか自分でも分らない。夢中で逃げました。この日は第一小隊も敵と遭遇して十二、三人戦死しています。敵は眼前に迫り、このままでは死を待つようなものです。わたしたちは中隊長の判断で、飲水のある沢へいったん退避しました。部下を犬死させたくないと思ったら、ごく当り前の行動でしょう。

 ところが、それまで中隊を放ったらかしにしていた連隊副官の藤巻大尉が、部下を三人つれてふいに現れたんです。そしていきなり、守備地点を勝手に放棄したというので怒鳴りだした。有無を言わせません。中隊長が弁解しようとしたら、「口応えするのか」と言って、わたしたちが見ている前で、軍刀で滅多打ちです。顳顬に青筋を立てて、まるで気ちがいだった。「きさまはそれでも帝国陸軍の軍人か、恥を知れ、恥を。敵に遭ったらなぜ死ぬまで戦わんのだ。上官の命令を何と心得ている。ここで腹を切るか、さもなければ軍法会議にかけてやる。きさまのような将校は連隊の名折れだ」罵詈雑言を浴びせながら、殴り放題です。

 中隊長は黙って殴られていました。奥歯を食いしばるようにして、じっと殴られていました。「畜生!」思わず唸った兵隊がいます。わたしも中隊長を助け、副官を叩っ殺してやりたい衝動に駆られました。しかし副官の部下は軽機を敵に対するように構えていたし、上官の命令は絶対だった。中隊長が我慢しているなら、わたしたちも我慢するほかどう仕様もなかった。分りますか。わたしは口惜しくてたまらなかった。中隊長はもっと口惜しかったに違いない。呉服屋のおやじだった野郎が、階級が一つ上というだけで、国のために召集された中隊長を殴っているんです。厭ですね。つくづく軍隊が厭だと思った。連隊本部で楽をしている副官などより、中隊長のほうが遙かに危険な前線で命を懸けていたんです。ほんとに畜生! と思いました。あんたはそう思ったことがありませんか。厭でしたね。どうにもこうにも腹が立ち、厭でたまらない気持だった……。

 ――いえ、わたしはまだ酔っていません。毎日飲んでいても、酔いのまわりが早いときと遅いときがある。その日の気分によって違うようです。まわりが早いから気分がいいとは限らない。きょうは遅いけど、非常に快適な気分です。あんたはあまり召上りませんね。お見受けしたところ痩せていらっしゃる。太っているより痩せたほうが健康らしいが、もう少し太られたほうがいい。そのためには何より酒です。ビールやウィスキーは駄目、やはり日本酒です。わたしが飲むようになったのは、戦争に負けて還ってからですが、煙草も麻雀もやらない代わりに、酒だけは欠かさない。わたしから酒をとったら何もなくなってしまう。酒とつるんで生きてるようなものです。酒の機嫌で河内山、あれは面白い芝居でしたね。でも酒の機嫌で河内山というのは講談の文句ですね。それとも浪花節だったかな。浪花節だとしたら、虎造ではなくて勝太郎でもなくて、確か木村友衛でしょう。浪花節の声色が巧い兵隊がいたけど、そいつもフィリピンの山ん中で戦死しました。いえ、副官の藤巻大尉は酔っていたわけじゃありません。戦況が悪化して気が立っていたかもしれないが、正気で殴っていたんです。そしてさんざんぶちのめしてから、「きさまを軍法会議にかけてやる。別命あるまでは守備地点に戻って、一歩も動いてはならぬ」と言捨てて引揚げました。

 そのあと、心配して見ていた小隊長や下士官が駆寄りましたが、杉沢中隊長は、
「済まん」
 とひとこと言ったきりだったそうです。副官に対してはついに謝らないで、部下に済まないと謝ったんです。僅かひとことに、万感の思いがこもっていたに違いありません。

「軍法会議にかけられたら、どうなるんですか」
 小柴兵長が人事係の青柳曹長に聞いていました。
「死刑さ」
 青柳曹長は寝そべったまま答えました。自動小銃で両足をやられ、体を起こせなくなっていたんです。中学で国語を教えていたという、おとなしい曹長でした。

 その日は戦友の遺体を埋葬したり、負傷者の応急手当などで日が暮れ、小柴兵長とわたしが附添って、分隊長の三浦軍曹をバギオの野戦病院へ後送する命令を受けたのは翌日です。負傷兵でも動けない者は仕様がないが、三浦軍曹は崖から落ちて左腕を折り、迫撃弾の破片で右足もやられていたけど、ビッコをひきながら歩けないことはなかった。背中いちめんに見事な刺青を彫って、親の代から大工の棟梁だったという威勢のいい軍曹です。いくら威勢のいい棟梁でも、左腕が肩の附け根からブランブランで、ビッコをひいていたのではサマにならない。後送されるのは、戦友を見捨てるようで厭だと頑張っていましたが、中隊長の命令で承知しました。前の日の戦闘で小隊長が戦死し、本来なら三浦軍曹が小隊長に代わるところだったから、責任を感じて頑張ろうとしたのでしょう。しかし実際の話、ろくすっぽ武器も食糧もないのに、負傷兵は足手まといになるだけで、それに中隊長の気持としては、どうせキャンプ・1は守りきれないのが分っているから、なるべく多くの部下を後方へ逃がしてやりたかったのだと思います。軍法会議にかけられれば自分は死刑、残った部下はアメリカ軍の餌食です。だから後送を命じられたのは三浦軍曹のほかにも何人かいて、それぞれ二人ずつ兵隊が附添いました。わたしなどはお蔭で助かったようなものです。

「うまくやったな、戸田」
 永野上等兵はわたしにそう言いました。露骨ですが、真実をついてます。わたし自身、キャンプ・1から一歩でも離れれば、それだけ命が延びた気がしました。

「すぐに戻るさ」
 わたしが永野に答えたのは強がりに過ぎません。小柴兵長と交替で三浦軍曹に肩を貸し、グリーン・ロードは空爆が危いので、予め探しておいた野牛の通るジャングルの小径を、疲れて息が苦しくなっても休む時間が惜しく、早くバギオヘ行きたい一心で山道をのぼりました。後送が決ったら、三浦軍曹も同じ気持だったんです。喘ぎ喘ぎ二キロくらい這上ったとき、ふいに銃声がひびきました。ダダダダ……、という自動小銃の音です。そのときの三浦軍曹の素早さには驚きました。傷の痛みに耐えて、ビッコをひいてようやく歩いていたのに、「敵だ!」と叫ぶなり、転がるように沢を滑り下りて岩蔭に隠れた。小柴兵長もわたしも夢中で彼のあとから岩蔭にもぐりましたが、手榴弾が爆発するような音が聞えたのはその直後です。それっきり何の物音も聞えない。わたしたち三人は顔を見合わせたまま、しばらく口がきけなかった。岩蔭から出るに出られない気持ですが、いつまてもじっとしているわけにもいかない。フィリピンの三月はいちばん気候のいい乾期です。日ざしは熱いが、湿気がなくて、特に山中では日蔭に入るとひんやりするほど涼しい。空を見上げると、バギオ山系の稜線がくっきり浮かんでいる。空の色は吸込まれるような青さです。つい何分か前に銃声が聞えたなんて信じられない。

「いい天気だ」
 わたしがまず外へ出て、何となく呟きました。ほかのことを考えていたのに、思わず口にでた言葉です。すると三浦軍曹も小柴兵長も「そうかい」てなことを言って、まるでお天気をみるように這出してきました。銃声を聞き、戦友がやられていると分りながら、三人とも逃げてしまったことにうしろめたさを感じていたんです。しかし、戦場で助け合うなどという美談には嘘が多い。簡単に助けられる場合は別でしょうが、支那事変に従軍した経験でも、他部隊がいくら苦戦していても直属上官の命令がなければ救援に行かない。軍隊というところは辻褄さえ合えばいいので、命令されてもわざと時間かせぎに遠まわりして行ったりする。だからその逆の立場で、わたしのいた隊が苦戦していたとき、曹長について山砲隊へ救援を求めに行ったことがありますが、命令系統が違うと言ってあっさり断られました。しかし当り前かもしれません。みんな自分の身が可愛いのです。わたしたちは一時間くらい様子を見てから、ふたたびバギオヘ向いました。戦友の死体を見つけたのは一キロくらい先です。負傷した下士官を担いで先発した三人のうち、一人は火焔放射器でやられたらしく、丸焦げで顔も分りません。あとの二人も血だらけになって、とうに息が絶えていたようでした。わたしたちは険しい道を必死でよじ登り、ようやく、サント・アモスの山頂に着いたのが夕方です。ここまでくればバギオへ四メートル幅くらいの道が通っているし、もう一息です。わたしたちはほっとすると同時に、三浦軍曹がどうにも動けないというので、休むことにしました……。

  ――軍歌が聞えるでしょう。となりのレコード屋ですよ。うるさくて仕様がないが、近頃は軍歌のレコードがよく売れるそうです。全く変な世の中になってきました。酒を飲みながらあれを聞いていると、つまらないことを思い出していけません。この近所で、家内にまでわたしは戦争ボケだなんて言われてますが、確かにそうかもしれない。忘れてしまえばいいことを忘れられなくて、積極的に何かをやろうという気が起こらない。しかし、これは愚痴じゃありません。話をつづけます。サント・アモスでしたね。

 サント・アモスの山頂附近は、ほかの部隊がいて、輜重隊の大行李(車輌)も何台か駐っていました。松林の路傍で一個中隊くらいが飯盒で飯を炊いている風景を見たときは、何しろ友軍の兵隊をまとめて見るのが久しぶりで、非常に妙な気がしたことを憶えています。こんなのんきな野戦生活が、まだあったのかという驚きです。それほど食糧に困っている様子も見えません。この分なら日本軍も大丈夫かと思ったくらいです。松林の奥へ行ったら、フィリピンの若い女と歩いている将校もいました。少しも悪びれないで、将校の特権みたいなつらをして歩いていた。わたしたちは、迫撃砲でやられたらしい馬の肉を奪い合うように切取っている兵隊がいたので、強引にその仲間に割込み、その晩は上陸以来初めての肉料理にありつき、満腹したらわたしも小柴兵長も動くのが厭になり、天幕にくるまってぐっすり寝ました。

 ところが、次の日バギオへ行くと様相がまるっきり違っている。バギオまでの道筋は月見草のような白い花がきれいだったが、バギオ市街は爆撃で廃墟のようだった。この前行ったときよりもっとひどい。
「どこの隊だ」
 擦違った若い将校が、横柄な態度で聞きます。
「杉沢中隊です」
小柴兵長が答えました。
「弱虫中隊だな。何をしにきた」

「三浦軍曹殿負傷のため、後送してまいりました」
「きさまら、勝手にずらかってきたんじゃないのか」
「中隊長殿の命令です」
「ふん」
 将校はいかにも軽蔑するように鼻を鳴らし、そのまま行ってしまった。

 わたしたちの中隊はいちばんビリッけつの第八中隊ですが、第四中隊の関兵長に出会ったのはそれからすぐです。一中隊から順に、各キャンプごとにグリーン・ロードの守備に当っているはずで、四中隊ならキャンプ・7にいなければならない。その四中隊の関兵長が、
「何をしにきたんだい」

 最前の将校と同じようなことを小柴兵長に聞きました。ずんぐりした補充兵で、悪気のある男じゃありません。
 小柴兵長は最前の将校のときと同じに答えました。

「すると、八中隊はまだキャンプ・1にいるのか」
「当り前だろう」
「お宅の中隊長は軍法会議にかけられるという噂だぜ。知ってるか」
「知っている。さっき会った若僧の将校に、弱虫中隊と言われた」

「どうして逃げたんだ」
「敵さんに撃ちまくられて退避した。もちろん一時的退避だが、そこを副官のばか野郎に見つかった」
「噂とは違うな。杉沢中隊は敵が怖くて、ジャングルに逃げているところを見つかったと言われている」

「それは誤解だ。あくまでも一時的退避で、己むを得ない行動だった。考えてみても分るだろう。こっちは古ぼけた三八式で、敵は自動小銃を撃ちまくる。まともにぶつかったら敵うわけがない」

「分っているさ。敵は重火器を装備し、ロケット弾まで撃ちこんでくる。だからおれたちは後退さ」
「大隊長の許しを得たのか」
「もちろん大隊長の命令がなければ動けない。六中隊も七中隊も引揚げている」

「すると、残っているのは八中隊だけか」
「そうらしいな」
「うむ」
 小柴兵長は唸った。傍らで三浦軍曹が青い顔をしていた。中隊長は軍法会議にかけられる、そして部下の将兵は罰として最前線に食うや食わずのまま残されている、そう解釈するほかはなかった。

「それでおれたちは弱虫中隊と呼ばれているのか」
「むくれても仕様がない」
「呉服屋の副官が喋り散らしたんだな」
「喋り散らしたわけでもないだろうが、そういう話はすぐに伝わる。杉沢中尉はインテリだ。呉服屋のおやじは劣等感を抱いている。陸士出の若僧は威張りたがるだけだが、特進将校の中には陰険なのがいるからな」

「そんなことは理由にならん」
「確かに理由にならん。しかし軍隊では、どんなことでも理由になる。あるいは、理由になることでも理由にならない。将校は殿様商売だ。呉服屋のおやじは、たまたま機嫌が悪かったのかもしれない。このところ大分荒れ気味という噂を聞いた」

「なぜだ」
「知らん。あるいは女に振られたというだけかもしれない。最近、惚れていた混血に逃げられたらしい」
「しかし女に振られたからって、そんなばかなことがあるか」

「ばかなことなら、そこらじゅうに転がっているさ。この街を見ろ。これほどやっつけられて、日本軍は手も足も出ないんだ。たいてい頭がおかしくなる」

「それでおれたちが弱虫中隊か」
「言いたい奴には言わせておけ」
「キャンプ・1では食い物がなくて、みんな飢えているんだ。戦死者も二十名を越えた。病気で死ぬやつも出てきている」

 小柴兵長の声は呻くようだった。わたしも口惜しくてたまらなかった。小柴兵長は普通のサラリーマン出身で、口数は少いが割合ムカッとしやすい男です。しかしそのときは呻くように言っただけで、野戦病院の道順を聞き、関兵長に別れました。

 ところが、野戦病院といっても屋根を吹飛ばされた焼跡で、天幕を張ったり板囲いをしたりで、寝台ひとつない有様だった。そうしてようやく辿りついたのに、
「ここはおまえらの部隊がくる病院ではない。所属が違う」

 受附で焚火にあたっていた衛生下士官に、あっさり断られました。バギオには野戦病院がもう一か所あったんです。三浦軍曹がわたしの肩につかまって倒れそうになっているのを見ながら、こっちの事情を聞こうともしない。所属もへちまもあるもんかと思ったが、仕様がありません。

 しかし、もう一か所の野戦病院へ行っても、冷い扱いは同じでした。
「入院したって仕様がないぜ」
 衛生兵がそう言うんです。
 わたしは理由を聞きました。
「見れば分るだろう。薬もなければ食物もない。動けなくなったのが残っているだけだ。動けるうちに原隊へ戻ったはうがいい」
「――――」

 わたしは返す言葉もなくて、三浦軍曹を見ました。原隊へ戻れないことは分っています。戻れば戦友の足手まといになって乏しい食糧を減らすばかりです。小柴兵長が文句を言いましたが、衛生兵は同じことを繰返すだけで、
「何処へでも、ここから抜出せるやつが羨しい」
 と言出す始末です。

 そこヘ、一週間ほど前に後送された内海伍長が、わたしたちが来たことに気づき、板囲いの奥から手招きしました。見違えるほど痩せこけて、起上る力もないんです。そして最初に言った言葉が、何か食う物はないかということでした。入院しても治療を受けられず、薬もないし、たまに青いパパイヤ入りの小さな握り飯をくれるが、到底飢えを満たすには足りない、歩ける患者はみんな病院を出て、芋畑で暮らしているらしいというんです。

 わたしはショックを受けました。つい前の日、サント・アモスで馬肉を食ったなんて嘘みたいです。三浦軍曹のショックは、もちろんわたし以上だったに違いない。

「それで――」三浦軍曹が内海伍長に言いました。「内海は何の手当も受けないで、寝てるだけか」
「そうだ。こうして寝てる以外にない。動けんからな」
「しかし、このままでは死んでしまうぞ」
「死ぬ。分っているんだ。ここを出て行ってもやはり死ぬ」

「傷の具合はどうなんだ」
「見たいなら見せてやる。パックリ口をあけて、蛆が湧いている」

 内海は腹に巻いた晒を解こうとした。血がにじんている晒だった。
「見たくない」

 三浦軍曹は内海を抑え、途中の芋畑で掘った一握りの芋を与えた。自分の分を、全部やってしまったんです。まわりの傷病兵が、雑嚢からつかみだしたその芋を、食い入るようなギラギラした眼で見つめていた。みんな飢えていたんです。名ばかりの野戦病院に放置され、傷の痛みに耐え、動くこともできず、このままでは死ぬと分っていながら、みんな飢えていたんです。あれでは栄養失調で死んでしまう。

「どうしますか」
 病院を出て、三浦軍曹に小柴兵長が聞きました。

「おれは死んでやる――」三浦軍曹はふいに烈しく言った。「何だあのざまは。あれが傷病兵に対する軍のやり方か。おれを軍司令部へつれて行ってくれ。軍司令官の前で自決してやる」

「短気を起こしちゃいけない。三浦さんの気持は分る。おれだって腹が立ってたまらない。しかしそんな真似をしたら、中隊長に迷惑がかかる」
「中隊長はどうせ軍法会議だ」
「そうと決ったわけじゃない」

「とにかくおれは死んでやる。歩けるうちに何処かへ行けなんて、死ねと言われたようなものだからな。きさまがそう言うなら、ここで死んでやる。おれがどんなふうに死んだか、みんなに伝えてくれ。危いからどけ」

「何をする気だ」
「どかないと、とばっちりをくうぞ」
 三浦軍曹はいきなり手榴弾の安全栓を抜いた。異常な眼つきだが、精神に異常をきたしているわけでなく、内海伍長に芋を与えたときから、覚悟を決めていたようだった。

 わたしも小柴伍長も慌てて抑えようとした。
 しかし、歩けないはずの軍曹が突然二十メートルくらい走った。バギオにくる途中、自動小銃の音を聞いたときの素早さと同じです。いざとなった場合の精神力としか考えられない。

 ところが、三浦軍曹の叩きつけた手榴弾というやつは不発でした。二発とも不発です。手榴弾というやつは全く不発が多くて、わたしも魚をとるつもりで使ったことがあるけど、やはり不発だった。

 不発と知った三浦軍曹は、その場に坐り込んでしまいました。わたしと小柴兵長はほっとして駆寄ったが、どうにも慰める言葉がない。軍曹の涙を初めて見ました。ぼろぼろ涙をこぼして、体を震わせているんです。よほど口惜しかったか悲しかったか、背中いちめんに彫物をした威勢のいい大工の棟梁が、左腕がぶらぶらになり、足の傷もかなり深くて痛かったはずです。それが死のうとして死ねなかった。わたしたちが病院に入るようにすすめても、首を振るばかりです。無理もありません。入院すれば内海伍長と同じです。腹をへらして死を待つ以外にない。といって、負傷した体で原隊へも帰れない。わたしたちにしても、軍曹を放って帰るわけにはいきません。そのうち日が暮れてくるし、わたしたちもどうしたらいいか分らなかった。それで、とにかくその晩は近くの空家に泊り、あとは翌る日になって考えることにしました。別荘ふうの小さな空家が、松林のあちこちにまだ焼け残っていたんです。寒い晩でした。月が明るくてね。月のひかりが窓からさして、松風の音が聞えていました……。

 ――ところが翌る朝眠を覚ますと、三浦軍曹の姿が見えないんです。いつ外へ出たのか、小柴兵長もわたしも気がつかなかった。しかしあの傷ついた足では、そう遠くまで歩けると思えない。三浦軍曹は、わたしたちの迷惑を察して姿を消したに違いなかった。前の晩、わたしは松風の音を聞きながらすぐに眠ったが、三浦軍曹は一睡もできなかったのかもしれない。わたしたちは廃墟のバギオを、通りすがりの兵隊に尋ねながら、隅から隅まで探しました。しかし、軍曹はどこにもいなかった。もちろん病院にも入っていない。あるいは首を吊っているのではないかと心配して、松林の奥のほうまで探しました。四中隊の関兵長にもまた会ったので聞いたが、やはり知らないという返事だった。連隊本部へ行ったときは、

「何をしてるんだ」
 陸士出の生意気な将校に頭から怒鳴りつけられました。そしてほかの中隊を探し歩いたときも同様ですが、逃げてきたのではないかと疑われ、杉沢中隊が退避したことについて、さんざん皮肉を言われました。副官の藤巻大尉には会いません。本部に行ったときはいなかったんです。

 わたしも小柴兵長も、どんなに歯ぎしりしたか知れません。ほかの中隊のやつらは、三浦軍曹が逃亡したとみているのです。

 わたしたちは探し疲れ、暗くなってから帰途につきました。三浦軍曹後送の附添いを命じた中隊長の言葉には、帰らなくていいという含みがあり、だから永野たちに羨しがられたが、バギオで噂されている中隊の不名誉を知って却って戻る気になり、夜なら敵の攻撃もないし、月明りに照らされたグリーン・ロードをいっきに下って行きました。キャンプ・6のあたりまてくると、左側は岩盤を剥きだした峻嶮がそそり立ち、右の崖下は急流が白い飛沫をあげて流れています。それまで一人の日本兵にも会いません。

「やはりみんな引揚げて、おれたちの隊だけ置去りらしいな」
 小柴兵長が呟きました。すでにバギオで分っていたことです。わたしたちは中隊の安否が気になっていました。ところどころに兵隊の遺体が転がっていたが、それらは栄養失調で落伍したらしく、杉沢中隊の者ではありません。

 ところがキャンプ・5を過ぎて間もなく、
「丸川じやないか」
 小柴兵長が倒れていた兵隊を見て、ギクッとしたように言いました。同じ分隊の丸川一等兵です。肩から胸の辺にかけて血がべっとりついている。声をかけたが、息はありません。手に触ったら冷くなっている。口をあけ、月を仰ぐように眼を開いたまま死んでいる。その百メートルほど先にも、始終顔を合わせていた中隊の兵が二人、折重なるように倒れていた。

「いけねえな」小柴兵長が言った。「みんなやられたぜ」
「もう少し先へ行ってみよう」
「無駄だ。全員やられている」
「しかし――」
 わたしは迷っていた。バギオの様子を中隊長に知らせたかった。

「無駄だよ」小柴兵長がまた言った。「この様子では中隊長もやられている。自分だけ生残るようなひとじゃないからな。連隊や大隊本部のやつらは、軍法会議の代わりにキャンプ・1の死守を命じて、自分たちが逃げる時間を一日でも多く稼ごうとしたに違いない」
「しかし、軍法会議にかけると言ったのは副官の独断だろう」

「守りきれないと分っているキャンプ・1を、死守しろと言えば同じことだ。あの呉服屋の副官はなぜキャンプ・1まで下りてきたと思う。初めから死守を命じるつもりできたのさ。ところが、ちょうど中隊が退避しているところを見つけたので、軍法会議を口実にしただけの話だ。どこかで犠牲を出さなければならないとしたら、特設中隊がまず生贄にされる。分りきったことじゃないか。その証拠に、ほかの中隊はバギオヘ引揚げている」

「悪く解釈すればそうだろうが、副官の最初の気持は、おれたちの中隊もバギオヘ引揚げさせるつもりできたのかもしれない」

「そうは思わんね。それだけなら伝令を寄越せば済む。わざわざ副官がくることはない。とにかく、おれはもうやめたぜ」

「やめた?」
「兵隊をやめたのさ。冗談じゃねえや。そう虫けらみたいに殺されてたまるもんか。野戦病院へ行ったときから、ずっと考えていたんだ。戸田は考えないのか」

「考えていた」
 考えないわけがありません。三浦軍曹を病院へ送り届けたとき、軍は兵隊を見捨てていると思いましたからね。負傷兵が行くところもないなんて、軍司令部の参謀連中は防空壕の中で作戦を練っていたかどうか知らないが、何処へでも好きな所へ行けという衛生兵の態度は、軍隊がもう壊れている証拠だと思った。冗談じゃねえや、わたしもそう言いたい気持だった。自殺しようとした三浦軍曹の気持も分るような気がする。ぼろぼろ涙をこぼして泣いたのは、悲しみや口惜しさのためばかりじゃない。理窟をこねるわけじゃないが、軍が兵隊を見捨てるなら、兵隊が軍を見捨てて悪い理由はない。バギオヘ行かずに残っていたら、わたしも小柴兵長も死んでいたんです。

「こんな物は邪魔なだけだ」
 小柴兵長が小銃を谷底へ抛った。わたしも小銃を投げ捨てた。軍隊手帳も破って捨てた。そしたら、急にさっぱりした気分になりました。まごまごしていて、グリーン・ロードで敵に遭遇したら逃げ道がない。わたしたちはジャングルに入り、芋畑を探して歩いた。キャンプ・3に戻って、中隊の最後を見届けたい気持は残っていたが、敵にやられる恐怖のほうが強かった。所持品は銃剣一本と、万一の場合の自殺用に手榴弾を二個、ゴボウ剣は芋を掘るためです。しかし、芋畑は簡単に見つかるもんじゃありません。見つかっても大抵掘りつくされている。それでも芋畑を見つけると、周囲にバギオ春菊というのが生えていて、これは兵隊が勝手につけた名前ですが、春菊のお化けみたいな大きな野草で、アクがないので結構うまく、四、五日はどうにか暮らせたもんです。マッチがなくても、拾った懐中電燈のレンズに太陽をあてれば、火種をつくることもできる。山の中を歩いていると、隊を離れたのはわたしたちだけじゃなくて、時おり三人か四人くらいの連れにぶつかって、方面軍司令部はアシン川上流の山岳地帯へ撤退したらしいなどという情報も耳にした。

「野戦病院の患者は置去りだよ。動けないのは空気注射で死なされたが、ほかは残っているって聞いた」
 ある兵隊はそう言って去った。内海兵長や、三浦軍曹の消息は聞けなかった。十人、十五人とかたまって山中を放浪している兵隊もいた。彼らは一様に楽天的で、それは絶望を通り越して諦めがついたのかもしれないが、飢え死しなければそのうち戦争が終り、祖国へ還れるようなことを言っていた。水を飲みに沢へ下りたとき、

「陸軍さん――」
 海軍の兵隊に声をかけられたこともあった。ハダシで、服もぼろぼろで、芋をわけてくれという頼みだった。わたしたちは芋と岩塩を交換したが、近くの岩穴に四十人くらいの下士官や水兵がいるという話で、海軍も陸軍も同じなのだと思い、それからまた山へのぼって芋畑を探しにゆく途中、猫を見つけたときはつくづく日本軍が四散したという感じがした。本来なら猫なんかいるわけがないので、飼主に捨てられて、その猫も腹ぺこでうろうろしていたらしく、小柴兵長がすぐに猫を補えようとしたが、猫の逃げるほうが早く、かりに捕えたとしても、あんな疲せ猫ではろくに食える肉などなかったでしょう。野豚を見つけたこともあったが、やはり補えそこなったし、

「サント・アモスヘ行ってみないか」
 隊を離れて二十日くらい経ってから、小柴兵長がふいと思い出したように言った。サント・アモスの山頂附近には輜重隊がいたし、飯盒で飯を焚いていた兵隊が多勢いたことを思い出したんです……。

  ――何しろ腹がへってましたからね。岩塩をなめて、たまに屑芋と野草にありつく以外は、ほとんど食物らしい物を食べていない。小柴兵長がサント・アモスを思い出した途端に、わたしは飯の匂いを嗅いだような気がした。ところが、方向が分らなくなっているから何日も同じ所を回り歩き、ようやくサント・アモスに着いたら惨憺たる爆撃の跡です。山容まで変っている。輜重隊のトラックは残っていたが丸焼けで、兵隊の死体があちこちに転がり、食糧のありそうな所を探したがやはりきれいに焼かれている。しんと静まり返って、まるで死の世界です。松林の奥へ入ったら、女が素っ裸で死んでいた。前にきたとき、将校がつれていたフィリピンの女だった。
「うまそうだな」
 小柴兵長が言った。

 わたしはドキッとした。女の白い尻を見て、同じことを考えていたからです。淫猥な感じも、憐憫の情も湧かなかった。無意識のうちにうまそうだと思っていたことを、小柴兵長に言当てられたようでドキッとしたんです。しかし、もちろん食べなかった。フィリピンでは人肉を食ったという話を聞きますが、わたしたちは食わなかった。でも、あのときを思い出すと、もし小柴兵長がいなくて、わたし一人だったら食ったかもしれない。逆に、小柴兵長一人だったとしても、やはり食ったかもしれない。それほどわたしたちは飢えていたし、女の尻はとてもうまそうに見えた。白かったから、死んで間もない死体だったと思います。人間が、生きるために牛や豚を殺していいなら、人間を食ったっておかしくないじゃないか。わたしはそんなことも考えていた。あのときなぜ食わなかったのだろう。わたしは今でも考えることがある。しかしわたしは食わなかったし、小柴兵長もうまそうだと言って、悲しいような薄笑いを浮べただけだった……。

  ――話がそれましたね。レコード屋の軍歌がいけないんです。あれを聞くとどうもいけない。酒が陰気になってしまうんです。どういうわけか、死んでいた女の尻と、永野上等兵を思い出す。永野に会ったのは、サント・アモスへ行ってから四日くらいあとだった。わたしたちは相変らず芋畑を探し歩き、でたらめに歩いていたのに、いつの間にかキャンプ・1の近くの沢に下りていました。そのときは水を飲みに下りたんです。

 すると、草っ原に横たわってもそもそ動いている兵隊がいた。頭の上で両手をひらひらさせて、何の真似か分らないが、両足も変な具合に動かしている。顔に見憶えがあって、げっそり痩せてはいたが、第二小隊の滝本という分隊長だった。声をかけても返事をしない。眼をあいているが、わたしたちを見ようとしない。どこを見ているか分らない眼で、同じ動作を繰返している。何か呟いているみたいだが、低い声で聞取れない。頭が狂っていたんです。

 ところが、滝本分隊長からほんのちょっと先にも兵隊が倒れていた。沢に下りると、兵隊の死体が転がっていることは珍しくない。大抵、水を飲みにきて、そのまま死んでしまった兵隊です。だから別に珍しくもなくて、

「こいつ、割合いい地下足袋をはいているぞ」
 ボロボロの地下足袋をはいていた小柴兵長は、早速その兵隊の地下足袋を脱がせようとした。すると、
「おれはまだ生きてるんだぜ」
 その兵隊が言った。
「え――?」
 小柴兵長はびっくりして聞返した。

 確かに生きていたんです。薄眼をあけて、その兵隊が永野上等兵だった。小柴兵長もわたしも二度びっくりです。骨と皮ばかりに痩せて見る影もないが、永野に間違いありません。
「永野か」
 わたしが聞きました。
「ああ」
 永野は弱々しく頷いて、眼に力を入れるようにわたしを見た。わたしが分ったようだった。

「どうしたんだ」
「おれは死なないよ」
「中隊長はどうした」
「死んだ」
「小隊長は」
「死んだよ」
「青柳曹長は」
「みんな死んじまった。勇敢に戦ったけれどな、おれしか生残っていない」

「いつやられたんだ」
「きさまが行っちまった日さ。よく戻ってきたな」
「戻ったわけじゃない。きさまはどこをやられたんだ」
「おれはどこもやられない。みんなやられたが、おれはツイてるからな。腹がへって動けないだけだ。芋はないか」
「ある」

 わたしは小指くらいの芋をやった。しかし、彼はすでに噛む力がなかった。そして「水をくれ」と言った。
 わたしは水を汲んできてやった。
 しかしそのときには、永野は小指くらいの芋をくわえたまま息を引取っていた。わたしたちの姿を見て安心したせいかもしれない。水は彼の唇を濡らしただけだった。眼を閉じて、いくら揺すっても、二度と眼を開かなかった……。

 ――これでおしまいです。お喋りをして、余分なことまで聞かせてしまいましたが、だから杉沢中隊長は、軍法会議にかけられたのではありません。戦死です。戦死というより、一副官の独断か、もっと上の奴らの命令か分らないが、とにかくそいつらのために、中隊長だけではなく、百人以上の兵隊が死地に追いやられ、全滅すると分っていながら全滅したんです。杉沢中隊を犠牲にして、果してどれほどの大局的な作戦効果があったか知りません。わたしのような一兵卒は、ただ自分の体験を語る以外にない。杉沢中隊の汚名が残っているとしたら、とんでもない誤解だと言いたいだけです……。

 ――どうしたんですか。もっと飲んでくださいよ。わたしは少しも酔っていない。血圧なんか気にしていません……。

――中隊長の遺族は広島の原爆で亡くなられたそうです。三浦軍曹や内海伍長の消息は聞きません。小柴は元気でやっています。年に一度か二度は会いますが、伊豆の温泉で旅館のおやじになっています。副官の藤巻は死にました。五年ほど前です。復員後、アメリカ軍の出入り商人になって大分儲けたという話で、呉服屋から衣料品の卸問屋の社長になり、偶然ですが、問屋関係の宴会が小柴の旅館であったとき、藤巻も現れたそうです。もちろん藤巻は小柴を憶えていなかった。しかし小柴のほうが忘れやしません。藤巻が現れたのは戦後十年くらい経った頃ですが、腰の低いじじいになっていて、小柴が杉沢中隊の生残りだと言っても当時を忘れたふりをして、しきりに首をかしげていたそうです……。

 ――藤巻の死は新聞で知りました。顔写真はぼやけてましたが、角張った顎で、太い眉に憶えがありました。すれ違いに刃物で殺されたという記事で、その後のことはよく知りませんが、犯人は分らずじまいのようです……。

 ――まだ軍歌をやってますね。いらいらしませんか。わたしはいらいらして、たまらなくなることがあります……。

 ――昨夜は三浦軍曹の夢を見ました。ぼんやりした夢ですが、眼を覚ましたとき、ことによると彼は生きて還っているのではないかという気がしました。大工の棟梁だったという軍曹のことですが……。
――了――

烏の北斗七星

2019年12月30日 | 犯罪
 つめたいいぢの悪い雲が、地べたにすれすれに垂れましたので、野はらは雪のあかりだか、日のあかりだか判らないやうになりました。
 烏の義勇艦隊は、その雲に圧しつけられて、しかたなくちよつとの間、亜鉛の板をひろげたやうな雪の田圃のぅへに横にならんで仮泊といふことをやりました。

 どの艦もすこしも動きません。
 まつ黒くなめらかな烏の大尉、若い艦隊長もしやんと立つたまゝうごきません。
 からすの大監督はなほさらうごきもゆらぎもいたしません。からすの大監督は、もうずゐぶんの年老りです。眼が灰いろになつてしまつてゐますし、啼くとまるで悪い人形のやうにギイギイ云ひます。

 それですから、烏の年齢を見分ける法を知らない一人の子供が、いつか斯う云つたのでした。
「おい、この町には咽喉のこわれた烏が二疋ゐるんだよ。おい。」これはたしかに間違ひで、一疋しか居ませんでしたし、それも決してのどが壊れたのではなく、あんまり永い間、空で号令したために、すつかり声が錆びたのです。それですから烏の義勇艦隊は、その声をあらゆる音の中で一等だと思つてゐました。

 雪のうへに、仮泊といふことをやつてゐる烏の艦隊は、石ころのやうです。胡麻つぶのやうです。また望遠鏡でよくみると、大きなのや小さなのがあつて馬鈴薯のやうです。

 しかしだんだん夕方になりました。
 雲がやつと少し上の方にのぼりましたので、とにかく烏の飛ぶくらゐのすき間ができました。
そこで大監督が息を切らして号令を掛けます。
「演習はじめいおいつ、出発」

 艦隊長烏の大尉が、まつさきにぱつと雪を叩きつけて飛びあがりました。烏の大尉の部下が十八隻、順々に飛びあがつて大尉に続いてきちんと間隔をとつて進みました。
 それから戦闘艦隊が三十二隻、次々に出発し、その次に大監督の大艦長が厳かに舞ひあがりました。
 そのときはもうまつ先の烏の大尉は、四へんほど空で螺旋を巻いてしまつて雲の鼻つ端まで行つて、そこからこんどはまつ直ぐに向ふの杜に進むところでした。

 二十九隻の巡洋艦、二十五隻の砲艦が、だんだんだんだん飛びあがりました。おしまひの二隻は、いつしよに出発しました。こゝらがどうも烏の軍隊の不規律なところです。

 烏の大尉は、杜のすぐ近くまで行つて、左に曲がりました。
 そのとき烏の大監督が、「大砲撃てつ。」と号令しました。
 艦隊は一斉に、があがあがあがあ、大砲をうちました。
 大砲をうつとき、片脚をぷんとうしろへ挙げる艦は、この前のニダナトラの戦役での負傷兵で、音がまだ脚の神経にひびくのです。

 さて、空を大きく四へん廻つたとき、大監督が、
「分れつ、解散」と云ひながら、列をはなれて杉の木の大監督官舎におりました。みんな列をほごしてじぶんの営舎に帰りました。

 烏の大尉は、けれども、すぐに自分の営舎に帰らないで、ひとり、西のほうのさいかちの木に行きました。
 雲はうす黒く、たゞ西の山のうへだけ濁つた水色の天の淵がのぞいて底光りしてゐます。そこで烏仲間でマシリイと呼ぶ銀の一つ星がひらめきはじめました。

 烏の大尉は、矢のやうにさいかちの枝に下りました。その枝に、さつきからじつと停つて、ものを案じてゐる烏があります。それはいちばん声のいゝ砲艦で、烏の大尉の許婚でした。
「があがあ、遅くなつて失敬。今日の演習で疲れないかい。」
「かあお、ずゐぶんお待ちしたわ。いつかうつかれなくてよ。」
「さうか。それは結構だ。しかしおれはこんどしばらくおまへと別れなければなるまいよ。」
「あら、どうして、まあ大へんだわ。」
「戦闘艦隊長のはなしでは、おれはあした山烏を追ひに行くのださうだ。」
「まあ、山烏は強いのでせう。」
「うん、眼玉が出しやばつて、嘴が細くて、ちよつと見掛けは偉さうだよ。しかし訳ないよ。」
「ほんたう。」

「大丈夫さ。しかしもちろん戦争のことだから、どういふ張合でどんなことがあるかもわからない。そのときはおまへはね、おれとの約束はすつかり消えたんだから、外へ嫁つてくれ。」
「あら、どうしませう。まあ、大へんだわ。あんまりひどいわ、あんまりひどいわ。それではあたし、あんまりひどいわ、かあお、かあお、かあお、かあお」
「泣くな、みつともない。そら、たれか来た。」

 烏の大尉の部下、烏の兵曹長が急いでやつてきて、首をちよつと横にかしげて礼をして云ひました。
「があ、艦長殿、点呼の時間でございます。一同整列して居ります。」
「よろしい。本艦は即刻帰隊する。おまへは先に帰つてよろしい。」
「承知いたしました。」兵曹長は飛んで行きます。

「さあ、泣くな。あした、も一度列の中で会へるだらう。
丈夫でゐるんだぞ、おい、お前ももう点呼だらう、すぐ帰らなくてはいかん。手を出せ。」
 二疋はしつかり手を握りました。大尉はそれから枝をけつて、急いでじぶんの隊に帰りました。娘の烏は、もう枝に凍り着いたやうに、じつとして動きません。

 夜になりました。
 それから夜中になりました。
 雲がすつかり消えて、新らしく灼かれた鋼の空に、つめたいつめたい光がみなぎり、小さな星がいくつか聯合して爆発をやり、水車の心棒がキイキイ云ひます。

 たうたう薄い鋼の空に、ピチリと裂罅がはいつて、まつ二つに開き、その裂け目から、あやしい長い腕がたくさんぶら下つて、烏を握んで空の天井の向ふ側へ持つて行かうとします。烏の義勇艦隊はもう総掛りです。みんな急いで黒い股引をはいて一生けん命宙をかけめぐります。兄貴の烏も弟をかばふ暇がなく、恋人同志もたびたびひどくぶつつかり合ひます。

 いや、ちがひました。
 さうぢやありません。
 月が出たのです。青いひしげた二十日の月が、東の山から泣いて登つてきたのです。そこで烏の軍隊はもうすつかり安心してしまひました。

 たちまち杜はしづかになつて、たゞおびへて脚をふみはづした若い水兵が、びつくりして眼をさまして、があと一発、ねぼけ声の大砲を撃つだけでした。

 ところが烏の大尉は、眼が冴えて眠れませんでした。
「おれはあした戦死するのだ。」大尉は呟やきながら、許嫁のゐる杜の方にあたまを曲げました。
 その昆布のやうな黒いなめらかな梢の中では、あの若い声のいゝ砲艦が、次から次といろいろな夢を見てゐるのでした。

 烏の大尉とたゞ二人、ばたばた羽をならし、たびたび顔を見合せながら、青黒い夜の空を、どこまでもどこまでものぼつて行きました。もうマヂエル様と呼ぶ烏の北斗七星が、大きく近くなつて、その一つの星のなかに生えてゐる青じろい苹果の木さへ、ありありと見えるころ、どうしたわけか二人とも、急にはねが石のやうにこわばつて、まつさかさまに落ちかゝりました。マヂエル様と叫びながら愕ろいて眼をさましますと、ほんたうにからだが枝から落ちかゝつてゐます。急いではねをひろげ姿勢を直し、大尉の居る方を見ましたが、またいつかうとうとしますと、こんどは山烏が鼻眼鏡などをかけてふたりの前にやつて来て、大尉に握手しやうとします。大尉が、いかんいかん、と云つて手をふりますと、山烏はピカピカする拳銃を出していきなりずどんと大尉を射殺し、大尉はなめらかな黒い胸を張つて倒れかゝります、マヂエル様と叫びながらまた愕いて眼をさますといふあんばいでした。

 烏の大尉はこちらで、その姿勢を直すはねの音から、そらのマヂエルを祈る声まですつかり聴いて居りました。

 じぶんもまたためいきをついて、そのうつくしい七つのマヂエルの星を仰ぎながら、あゝ、あしたの戦でわたくしが勝つことがいゝのか、山烏がかつのがいゝのかそれはわたくしにわかりません、たゞあなたのお考のとほりです、わたくしはわたくしにきまつたやうに力いつぱいたゝかひます、みんなみんなあなたのお考へのとほりですとしづかに祈つて居りました。そして東のそらには早くも少しの銀の光が湧いたのです。

 ふと遠い冷たい北の方で、なにか鍵でも触れあつたやうなかすかな声がしました。烏の大尉は夜間双眼鏡を手早く取つて、きつとそつちを見ました。星あかりのこちらのぼんやり白い峠の上に、一本の栗の木が見えました。その梢にとまつて空を見あげてゐるものは、たしかに敵の山烏です。大尉の胸は勇ましく躍りました。

「があ、非常召集、があ、非常召集」
 大尉の部下はたちまち枝をけたてゝ飛びあがり大尉のまはりをかけめぐります。
「突貫。」烏の大尉は先登になつてまつしぐらに北へ進みました。
 もう東の空はあたらしく研いだ鋼のやうな白光です。

 山烏はあわてゝ枝をけ立てました。そして大きくはねをひろげて北の方へ遁げ出さうとしましたが、もうそのときは駆逐艦たちはまはりをすつかり囲んでゐました。

「があ、があ、があ、があ、があ」大砲の音は耳もつんぼになりさうです。山烏は仕方なく足をぐらぐらしながら上の方へ飛びあがりました。大尉はたちまちそれに追ひ付いて、そのまつくろな頭に鋭く一突き食らはせました。山烏はよろよろつとなつて地面に落ちかゝりました。そこを兵曹長が横からもう一突きやりました。山烏は灰いろのまぶたをとぢ、あけ方の峠の雪の上につめたく横はりました。

「があ、兵曹長。その死骸を営舎までもつて帰るやうに。があ。引き揚げつ。」
「かしこまりました。」強い兵曹長はその死骸を提げ、烏の大尉はじぶんの杜の方に飛びはじめ十八隻はしたがひました。

 杜に帰つて烏の駆逐艦は、みなほうほう白い息をはきました。
「けがは無いか。誰かけがしたものは無いか。」烏の大尉はみんなをいたはつてあるきました。
 夜がすつかり明けました。

 桃の果汁のやうな陽の光は、まづ山の雪にいつぱいに注ぎ、それからだんだん下に流れて、つひにはそこらいちめん、雪のなかに白百合の花を咲かせました。

 ぎらぎらの太陽が、かなしいくらゐひかつて、東の雪の丘の上に懸りました。
「観兵式、用意つ、集れい。」大監督が叫びました。
「観兵式、用意つ、集れい。」各艦隊長が叫びました。
 みんなすつかり雪のたんぼにならびました。

 烏の大尉は列からはなれて、ぴかぴかする雪の上を、足をすくすく延ばしてまつすぐに走つて大監督の前に行きました。

「報告、けふあけがた、セピラの峠の上に敵艦の碇泊を認めましたので、本艦隊は直ちに出動、撃沈いたしました。わが軍死者なし。報告終りつ。」
 駆逐艦隊はもうあんまりうれしくて、熱い涙をぼろぼろ雪の上にこぼしました。

 烏の大監督も、灰いろの眼から泪をながして云ひました。
「ギイギイ、ご苦労だつた。ご苦労だつた。よくやつた。もうおまへは少佐になつてもいゝだらう。おまへの部下の叙勲はおまへにまかせる。」

 烏の新らしい少佐は、お腹が空いて山から出て来て、十九隻に囲まれて殺された、あの山烏を思ひ出して、あたらしい泪をこぼしました。
「ありがたうございます。就ては敵の死骸を葬りたいとおもひますが、お許し下さいませうか。」
「よろしい。厚く葬つてやれ。」

 烏の新らしい少佐は礼をして大監督の前をさがり、列に戻つて、いまマヂエルの星の居るあたりの青ぞらを仰ぎました。(あゝ、マヂエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに早くこの世界がなりますやうに、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまひません。)マヂエルの星が、ちやうど来てゐるあたりの青ぞらから、青いひかりがうらうらと湧きました。

 美しくまつ黒な砲艦の烏は、そのあひだ中、みんなといつしよに、不動の姿勢をとつて列びながら、始終きらきらきらきら涙をこぼしました。砲艦長はそれを見ないふりしてゐました。あしたから、また許嫁といつしよに、演習ができるのです。あんまりうれしいので、たびたび嘴を大きくあけて、まつ赤に日光に透かせましたが、それも砲艦長は横を向いて見逃がしてゐました。

宮沢 賢治
ミヤザワ ケンジ
みやざわ けんじ 詩人 岩手県花巻に生まれる。1896(明治29)年~1933(昭和8)年 岩手県稗貫郡里川口村(現花巻市)生まれ。日本近代詩の代表的な詩人のひとり。童話作家。郷土岩手に基づいた創作を行い、作品中に登場する架空の理想郷のモチーフとしてイーハトーヴ(Ihatov)と名づけた。生前は無名に近い状態であった。近代詩史に楽器的地位を占めた詩集『春と修羅』のほかに「風の又三郎」など叙事詩的な魅力の創作もある。主な作品は「注文の多い料理店」、「雨にもマケズ」、「銀河鉄道の夜」、「風の又三郎」などがある。

 掲載作「烏の北斗七星」は、著者が生前に刊行した唯一の童話集『注文の多い料理店』(1924年=大正13年、東京光原社刊)に収載されている。憎むことの出来ない敵・山烏を殺さなければならなかった烏の義勇艦隊の大尉の悲哀に平和への希求を託す。底本として賢治の弟である宮澤清六、詩人の天澤退二郎などの編纂による校本『宮澤賢治全集第11巻』(1974年=昭和49年9月、筑摩書房刊)を使用した。


家霊 おかもと かのこ 小説家・歌人1889・3・1~1939・2・18

2019年12月30日 | 犯罪

家霊

 山の手の高台で電車の交叉点になつてゐる十字路がある。十字路の間からまた一筋、細く岐れ出て下町への谷に向く坂道がある。坂道の途中に八幡宮の境内と向ひ合つて名物のどぜう店がある。拭き磨いた千本格子の真中に入口を開けて古い暖簾が懸けてある。暖簾にはお家流の文字で白く「いのち」と染め出してある。

 どぜう、鯰、鼈、河豚、夏はさらし鯨——この種の食品は身体の精分になるといふことから、昔この店の創始者が素晴らしい思ひ付きの積りで店名を「いのち」とつけた。その当時はそれも目新らしかつたのだらうが、中程の数十年間は極めて凡庸な文字になつて誰も興味をひくものはない。ただそれ等の食品に就てこの店は独特な料理方をするのと、値段が廉いのとで客はいつも絶えなかつた。

 今から四五年まへである。「いのち」といふ文字には何か不安に対する魅力や虚無から出立する冒険や、黎明に対しての執拗な追求性——かういつたものと結び付けて考へる浪曼的な時代があつた。そこでこの店頭の洗ひ晒された暖簾の文字も何十年来の煤を払つて、界隈の現代青年に何か即興的にもしろ、一つのシヨツクを与へるやうになつた。彼等は店の前へ来ると、暖簾の文字を眺めて青年風の沈鬱さで言ふ。

「疲れた。一ついのちでも喰ふかな」

 すると連れはやや捌けた風で

「逆に食はれるなよ」

 互に肩を叩いたりして中へ犇めき入つた。

 客席は広い一つの座敷である。冷たい籐の畳の上へ細長い板を桝形に敷渡し、これが食台になつてゐる。

 客は上へあがつて坐つたり、土間の椅子に腰かけたりしたまま、食台で酒食してゐる。客の向つてゐる食品は鍋るゐや椀が多い。

 湯気や煙で煤けたまはりを雇人の手が届く背丈けだけ雑巾をかけると見え、板壁の下から半分ほど銅のやうに赭く光つてゐる。それから上、天井へかけてはただ黒く竈の中のやうである。この室内に向けて昼も剥き出しのシヤンデリアが煌々と照らしてゐる。その漂白性の光はこの座敷を洞窟のやうに見せる許りでなく、光は客が箸で口からしごく肴の骨に当ると、それを白の枝珊瑚に見せたり、堆い皿の葱の白味に当ると玉質のものに燦かしたりする。そのことがまた却つて満座をガキの饗宴染みて見せる。一つは客たちの食品に対する食べ方が亀屈んで、何か秘密な食品に噛みつくといつた様子があるせゐかも知れない。

 板壁の一方には中くらゐの窓があつて棚が出てゐる。客の誂へた食品は料理場からここへ差出されるのを給仕の小女は客へ運ぶ。客からとつた勘定もここへ載せる。それ等を見張つたり受取るために窓の内側に斜めに帳場格子を控へて、永らく女番人の母親の白い顔が見えた。今は娘のくめ子の小麦色の顔が見える。くめ子は小女の給仕振りや客席の様子を監督するために、ときどき窓から覗く。すると学生たちは奇妙な声を立てる。くめ子は苦笑して小女に

「うるさいから薬味でも沢山持つてつて宛がつておやりよ」と命ずる。

 葱を刻んだのを薬味箱に誇大に盛つたのを可笑しさを堪へた顔の小女が学生たちの席へ運ぶと、学生たちは娘への影響があつた証拠を、この揮発性の野菜の堆さに見て、勝利を感ずる歓呼を挙げる。

 くめ子は七八ヶ月ほど前からこの店に帰り病気の母親に代つてこの帳場格子に坐りはじめた。くめ子は女学校へ通つてゐるうちから、この洞窟のやうな家は嫌で嫌で仕方がなかつた。人世の老耄者、精力の消費者の食餌療法をするやうな家の職業には堪へられなかつた。何で人はああも衰へといふものを極度に惧れるのだらうか。衰へたら衰へたままでいいではないか。人を押付けがましいにほひを立て、脂がぎろぎろ光つて浮く精力なんといふものほど下品なものはない。くめ子は初夏の椎の若葉の匂ひを嗅いでも頭が痛くなるやうな娘であつた。椎の若葉よりも葉越しの空の夕月を愛した。さういふことは彼女自身却つて若さに飽満してゐたためかも知れない。

 店の代々の慣はしは、男は買出しや料理場を受持ち、嫁か娘が帳場を守ることになつてゐる。そして自分は一人娘である以上、いづれは平凡な婿を取つて、一生この餓鬼窟の女番人にならなければなるまい。それを忠実に勤めて来た母親の家職のためにあの無性格にまで晒されてしまつた便りない様子、能の小面のやうに白さと鼠色の陰影だけの顔。やがて自分もさうなるのかと思ふと、くめ子は身慄ひが出た。

 くめ子は、女学校を出たのを機会に、家出同様にして、職業婦人の道を辿つた。彼女はその三年の間、何をしたか、どういふ生活をしたか一切語らなかつた。自宅へは寄寓のアパートから葉書ぐらゐで文通してゐた。くめ子が自分で想ひ浮べるのは、三年の間、蝶々のやうに華やかな職場の上を閃めいて飛んだり、男の友だちと蟻の挨拶のやうに触角を触れ合はしたりした、ただそれだけだつた、それは夢のやうでもあり、いつまで経つても同じ繰返しばかりで飽き飽きしても感じられた。

 母親が病気で永い床に就き、親類に喚び戻されて家に帰つて来た彼女は、誰の目にもただ育つただけで別に変つたところは見えなかつた。母親が

「今まで、何をしておいでだつた」

 と訊くと、彼女は「えヘヘん」と苦も無げに笑つた。

 その返事振りにはもうその先、挑みかかれない微風のやうな調子があつた。また、それを押して訊き進むやうな母親でもなかつた。

「おまへさん、あしたから、お帳場を頼みますよ」

 と言はれて、彼女はまた

「えヘヘん」と笑つた。もつともむかしから、肉身同志で心情を打ち明けたり、真面目な相談は何となく双方がテレてしまふやうな家の中の空気があつた。

 くめ子は、多少諦めのやうなものが出来て今度はあまり嫌がらないで帳場を勤め出した。

 

 押し迫つた暮近い日である。風が坂道の砂を吹き払つて凍て乾いた土へ下駄の歯が無慈悲に突き当てる。その音が髪の毛の根元に一本づつ響くといつたやうな寒い晩になつた。坂の上の交叉点からの電車の軋る音が、前の八幡宮の境内の木立のざわめく音と、風の工合で混りながら耳元へ掴んで投げつけられるやうにも、また、遠くで盲人が呟いてゐるやうにも聞えたりした。もし坂道へ出て眺めたらたぶん下町の灯は冬の海のいざり火のやうに明滅してゐるだらうとくめ子は思つた。

 客一人帰つたあとの座敷の中は、シヤンデリヤを包んで煮詰つた物の匂ひと煙草の煙りとが濛々としてゐる。少女と出前持の男は、鍋火鉢の残り火を石の炉に集めて、焙つてゐる。くめ子は何となく心に浸み込むものがあるやうな晩なのを嫌に思ひ、努めて気が軽くなるやうにフアツシヨン雑誌や映画会社の宣伝雑誌の頁を繰つてゐた。店を看板にする十時までにはまだ一時間以上ある。もうたいして客も来まい。店を締めてしまはうかと思つてゐるところへ、年少の出前持が寒さうに帰つて来た。

「お嬢さん、裏の路地を通ると徳永が、また註文しましたぜ、御飯つきでどぜう汁一人前。どうしませう」

 退屈して事あれかしと待構へてゐた小女は顔を上げた。

「さうたう、図々しいわね。百円以上もカケを拵へてさ。一文も払はずに、また……」

 そして、これに対してお帳場はどういふ態度を取るかと窓の中を覗いた。

「困つちまふねえ。でもおつかさんの時分から、言ひなりに貸してやることにしてゐるんだから、今日もまあ、持つてつておやりよ」

 すると炉に焙つてゐた年長の出前持が今夜に限つて頭を擡げて言つた。

「そりやいけませんよお嬢さん。暮れですからこの辺で一度かたをつけなくちや。また来年も、ずるずるべつたりですぞ」

 この年長の出前持は店の者の指導者格で、その意見は相当採上げてやらねばならなかつた。で、くめ子も「ぢや、ま、さうしやう」といふことになつた。

 茄で出しうどんで狐南蛮を拵へたものが料理場から丼に盛られて、お夜食に店方の者に割り振られた。くめ子もその一つを受取つて、熱い湯気を吹いてゐる。このお夜食を食べ終る頃、火の番が廻つて来て、拍子木が表の薄硝子の障子に響けば看板、時間まへでも表戸を卸すことになつてゐる。

 そこへ、草履の音がぴたぴたと近づいて、表障子がしづかに開いた。徳永老人の髯の顔が覗く。

「今晩は、どうも寒いな」

 店の者たちは知らん振りをする。老人は、ちよつとみんなの気配ひを窺つたが、心配さうな、狡さうな小声で

「あの——註文の——御飯つきのどぜう汁はまだで——」

 と首を屈めて訊いた。

 註文を引受けて来た出前持は、多少間の悪い面持で

「お気の毒さまですが、もう看板だつたので」

 と言ひかけるのを、年長の出前持はぐつと睨めて顎で指図をする。

「正直なとこを言つてやれよ」

 そこで、年少の出前持は何分にも、一回、僅かづつの金高が、積り積つて百円以上にもなつたからは、この際、若干でも入金して貰はないと店でも年末の決算に困ると説明した。

「それに、お帳場も先と違つて今はお嬢さんが取締つてゐるんですから」

 すると老人は両手を神経質に擦り合せて

「はあ、さういふことになりましてすかな」

 と小首を傾けてゐたが

「とにかく、ひどく寒い。一つ入れて頂きませうか」と言つて、表障子をがたがたいはして入つて来た。

 小女は座布団も出してはやらないので、冷い籐畳の広いまん中にたつた一人坐つた老人は寂しげに、そして審きを待つ罪人のやうに見えた。着膨れてはゐるが、大きな体格はあまり丈夫ではないらしく、左の手を癖にして内懐へ入れ、肋骨の辺を押へてゐる。純白になりかけの髪を総髪に撫でつけ、立派な目鼻立ちの、それがあまりに整ひ過ぎてゐるので薄倖を想はせる顔付きの老人である。その儒者風な顔に引較べて、よれよれの角帯に前垂れを掛け、坐つた着物の裾から浅黄色の股引を覗かしてゐる。コールテンの黒足袋を穿いてるのまで釣合はない。

 老人は娘のゐる窓や店の者に向つて、始めのうちは頻りに世間の不況、自分の職業の彫金の需要されないことなどを鹿爪らしく述べ、従つて勘定も払へなかつた言訳を吃々と述べる。だが、その言訳を強調するために自分の仕事の性質の奇稀性に就て話を向けて来ると、老人は急に傲然として熱を帯びて来る。

 作者はこの老人が此夜に限らず時々得意とも慨嘆ともつかない気分の表象としてする仕方話のポーズを茲に紹介する。

「わしのやる彫金は、ほかの彫金と違つて、片切彫といふのでな。一たい彫金といふものは、金で金を截る術で、なまやさしい藝ではないな。精神の要るもので、毎日どぜうでも食はにや全く続くことではない」

 老人もよく老名工などに有り勝ちな、語る目的より語るそのことにわれを忘れて、どんな場合にでもイゴイスチツクに一席の独演をする癖がある。老人が尚も自分のやる片切彫といふものを説明するところを聞くと、元禄の名工、横谷宗眠、中興の藝であつて、剣道で言へば一本勝負であることを得意になつて言ひ出した。

 老人は、左の手に鏨を持ち右の手に槌を持つ形をした。体を定めて、鼻から深く息を吸ひ、下腹へ力を籠めた。それは単に仕方を示す真似事には過ぎないが、流石にぴたりと形は決まった。柔軟性はあるが押せども引けども壊れない自然の原則のやうなものが形から感ぜられる。出前持も小女も老人の気配ひから引緊められるものがあつて、炉から身体を引起した。

 老人は厳かなその形を一度くづして、ヘヘヘんと笑つた。

「普通の彫金なら、こんなにしても、また、こんなにしても、そりや小手先でも彫れるがな」

 今度は、この老人は落語家でもあるやうに、ほんの二つの手首の捻り方と背の屈め方で、鏨と槌を操る恰好のいぎたなさと浅間しさを誇張して相手に受取らせることに巧みであつた。出前持も小女もくすくすと笑つた。

「しかし、片切彫になりますと——」

 老人は、再び前の堂々たる姿勢に戻つた。瞑目した眼を徐ろに開くと、青蓮華のやうな切れの鋭い眼から濃い瞳はしづかに、斜に注がれた。左の手をぴたりと一ところにとどめ、右の腕を肩の附根から一ぱいに伸して、伸びた腕をそのまま、肩の附根だけで動かして、右の上空より大きな弧を描いて、その槌の手の拳は、鏨の手の拳に打ち卸される。窓から覗いてゐるくめ子は、嘗て学校で見た石膏模造の希臘彫刻の円盤投げの青年像が、その円盤をさし挟んだ右腕を人間の肉体機構の最極限の度にまでさし伸ばした、その若く引緊つた美しい腕をちらりと思ひ泛べた。老人の打ち卸す発矢とした勢ひには破壊の憎みと創造の歓びとが一つになつて絶叫してゐるやうである。その速力には悪魔のものか善神のものか見判け難い人間離れのした性質がある。見るものに無限を感じさせる天体の軌道のやうな弧線を描いて上下する老人の槌の手は、しかしながら、鏨の手にまで届かうとする一刹那に、定まつた距離でぴたりと止まる。そこに何か歯止機が在るやうでもある。藝の躾けといふものでもあらうか。老人はこれを五六遍繰返してから、体をほぐした。

「みなさん、お判りになりましたか」

 と言ふ。「ですから、どぜうでも食はにや遣りきれんのですよ」

 実はこの一くさりの老人の仕方は毎度のことである。これが始まると店の中であることも、東京の山の手であることもしばらく忘れて店の者は、快い危機と常規のある奔放の感触に心を奪はれる。あらためて老人の顔を見る。だが老人の真摯な話が結局どぜうのことに落ちて来るのでどつと笑ふ。気まり悪くなつたのを押し包んで老人は「また、この鏨の刃尖の使ひ方には陰と陽とあつてな——」と工人らしい自負の態度を取戻す。牡丹は牡丹の妖艶ないのち、唐獅子の豪宕ないのちをこの二つの刃触りの使ひ方で刻み出す技術の話にかかつた。そして、この藝によつて生きたものを硬い板金の上へ産み出して来る過程の如何に味のあるものか、老人は身振りを増して、滴るものの甘さを啜るとろりとした眼付きをして語つた。それは工人自身だけの娯しみに淫したものであつて、店の者はうんざりした。だがさういふことのあとで店の者はこの辺が切り上がらせどきと思つて、

「ぢやまあ、今夜だけ届けます。帰つて待つといでなさい」

 と言つて老人を送り出してから表戸を卸す。

 ある夜も、風の吹く晩であつた。夜番の拍子木が過ぎ、店の者は表戸を卸して湯に出かけた。そのあとを見済ましでもしたかのやうに、老人は、そつと潜り戸を開けて入つて来た。

 老人は娘のゐる窓に向つて坐つた。広い座敷で窓一つに向つた老人の上にもしばらく、手持無沙汰な深夜の時が流れる。老人は今夜は決意に充ちた、しほしほとした表情になつた。

「若いうちから、このどぜうといふものはわしの虫が好くのだつた。身体のしんを使ふ仕事には終始、補ひのつく食ものを摂らねば業が続かん。そのほかにも、うらぶれて、この裏長屋に住み付いてから二十年あまり、鰥夫暮しのどんな佗しいときでも、苦しいときでも、柳の葉に尾鰭の生えたやうなあの小魚は、妙にわしに食もの以上の馴染になつてしまつた」

 老人は掻き口説くやうにいろいろのことを前後なく喋り出した。

 人に嫉まれ、蔑まれて、心が魔王のやうに猛り立つたときでも、あの小魚を口に含んで、前歯でぽきりぽきりと、頭から骨ごとに少しづつ噛み潰して行くと、恨みはそこへ移つて、どこともなくやさしい涙が湧いて来ることも言つた。

「食はれる小魚も可哀さうになれば、食ふわしも可哀さうだ。誰も彼もいぢらしい。ただ、それだけだ。女房はたいして欲しくない。だが、いたいけなものは欲しい。いたいけなものが欲しいときもあの小魚の姿を見ると、どうやら切ない心も止まる」

 老人は遂に懐からタオルのハンケチを取出して鼻を啜つた。「娘のあなたを前にしてこんなことを言ふのは宛てつけがましくはあるが」と前置きして、「こちらのおかみさんは物の判つた方でした。以前にもわしが勘定の滞りに気を詰らせて、おづおづ夜、遅く、このやうにして度び度び言ひ訳に来ました。すると、おかみさんは、ちやうどあなたのゐられるその帳場に大儀さうに頬杖ついてゐられたが、少し窓の方へ顔を覗かせて言はれました。徳永さん、どぜうが欲しかつたら、いくらでもあげますよ。決して心配なさるな。その代り、おまへさんが、一心うち込んでこれぞと思つた品が出来たら勘定の代りなり、またわたしから代金を取るなりしてわたしにお呉れ。それでいいのだよ。ほんとにそれでいいのだよと、繰返し言つて下さつた」老人はまた鼻を啜つた。

「おかみさんはそのときまだ若かった。早く婿取りされて、ちやうど、あなたぐらゐな年頃だつた。気の毒に、その婿は放蕩者で家を外に四谷、赤坂と浮名を流して廻つた、おかみさんは、それをぢつと堪へ、その帳場から一足も動きなさらんかつた。たまには、人に縋りつきたい切ない限りの様子も窓越しに見えました。そりやさうでせう。人間は生身ですから、さうむざむざ冷たい石になることも難かしい」

 徳永もその時分は若かつた。若いおかみさんが、生埋めになつて行くのを見兼ねた。正直のところ、窓の外へ強引に連れ出さうかと思つたことも一度ならずあつた。それと反対に、こんな半木乃伊のやうな女に引つかかつて、自分の身をどうするのだ。さう思つて逃げ出しかけたことも度々あつた。だが、おかみさんの顔をつくづく見ると、どちらの力も失せた。おかみさんの顔は言つてゐた——自分がもし過ちでも仕出かしたら、報いても報いても取返しのつかない悔いがこの家から永遠に課されるだらう、もしまた、世の中に誰一人、自分に慰め手が無くなつたら自分はすぐ灰のやうに崩れ倒れるであらう——

「せめて、いのちの息吹きを、回春の力を、わしはわしの藝によつて、この窓から、だんだん化石して行くおかみさんに差入れたいと思つた。わしはわしの身のしんを揺り動かして鏨と槌を打ち込んだ。それには片切彫にしくものはない」

 おかみさんを慰めたさもあって骨折るうちに知らず知らず徳永は明治の名匠加納夏雄以来の伎倆を鍛へたと言つた。

 だが、いのちが刻み出たほどの作は、さう数多く出来るものではない。徳永は百に一つをおかみさんに献じて、これに次ぐ七八を売つて生活の資にした。あとの残りは気に入らないといつて彫りかけの材料をみな鋳直した。「おかみさんは、わしが差上げた簪を頭に挿したり、抜いては眺めたりされた。そのときは生々しく見えた」だが徳永は永遠に隠れた名工である。それは仕方がないとしても、歳月は酷いものである。

「はじめは高島田にも挿せるやうな大平打の銀簪にやなぎ桜と彫つたものが、丸髷用の玉かんざしのまはりに夏菊、ほととぎすを彫るやうになり、細づくりの耳掻きかんざしに糸萩、女郎花を毛彫りで彫るやうになつては、もうたいして彫るせきもなく、一番しまひに彫つて差上げたのは二三年まへの古風な一本足のかんざしの頸に友呼ぶ千鳥一羽のものだつた。もう全く彫るせきは無い」

 かう言つて徳永は全くくたりとなつた。そして、「実を申すと、勘定をお払ひする目当てはわしにもうありませんのです。身体も弱りました。仕事の張気も失せました。永いこともないおかみさんは簪はもう要らんでせうし。ただただ永年夜食として食べ慣れたどぜう汁と飯一椀、わしはこれを摂らんと冬のひと夜を凌ぎ兼ねます。朝までに身体が凍え痺れる。わしら彫金師は、一たがね一期です。明日のことは考へんです。あなたが、おかみさんの娘ですなら、今夜も、あの細い小魚を五六ぴき恵んで頂きたい。死ぬにしてもこんな霜枯れた夜は嫌です。今夜、一夜は、あの小魚のいのちをぽちりぽちりわしの骨の髄に噛み込んで生き伸びたい——」

 徳永が嘆願する様子は、アラブ族が落日に対して拝するやうに心もち顔を天井に向け、狛犬のやうに蹲り、哀訴の声を呪文のやうに唱へた。

 くめ子は、われとしもなく帳場を立上つた。妙なものに酔はされた気持でふらりふらり料理場に向つた。料理人は引上げて誰もゐなかつた。生洲に落ちる水の滴りだけが聴える。

 くめ子は、一つだけ捻つてある電燈の下を見廻すと、大鉢に蓋がしてある。蓋を取ると明日の仕込みにどぜうは生酒に漬けてある。まだ、よろりよろり液体の表面へ頭を突き上げてゐるのもある。日頃は見るも嫌だと思つたこの小魚が今は親しみ易いものに見える。くめ子は、小麦色の腕を捲くつて、一ぴき二ひきと、柄鍋の中へ移す。握つた指の中で小魚はたまさか蠢めく。すると、その顫動が電波のやうに心に伝はつて刹那に不思議な意味が仄かに囁かれる——いのちの呼応。

 くめ子は柄鍋に出汁と味噌汁とを注いで、ささがき牛蒡を抓み入れる。瓦斯こんろで掻き立てた。くめ子は小魚が白い腹を浮かして熱く出来上つた汁を朱塗の大椀に盛つた。山椒一つまみ蓋の把手に乗せて飯櫃と一緒に窓から差し出した。

「御飯はいくらか冷たいかも知れないわよ」

 老人は見栄も外聞もない悦び方で、コールテンの足袋の裏を弾ね上げて受取り、仕出しの岡持を借りて大事に中へ入れると、潜り戸を開けて盗人のやうに姿を消した。

 

 不治の癌だと宣告されてから却つて長い病床の母親は急に機嫌よくなつた。やつと自儘に出来る身体になれたと言つた。早春の日向に床をひかせて起上り、食べ度いと思ふものをあれやこれや食べながら、くめ子に向つて生涯に珍らしく親身な調子で言つた。

「妙だね、この家は、おかみさんになるものは代々亭主に放蕩されるんだがね。あたしのお母さんも、それからお祖母さんもさ。恥かきつちやないよ。だが、そこをぢつと辛抱してお帳場に噛りついてゐると、どうにか暖簾もかけ続けて行けるし、それとまた妙なもので、誰か、いのちを籠めて慰めて呉れるものが出来るんだね。お母さんにもそれがあつたし、お祖母さんにもそれがあつた。だから、おまへにも言つとくよ。おまへにも若しそんなことがあつても決して落胆おしでないよ。今から言つとくが——」

 母親は、死ぬ間際に顔が汚ないと言つて、お白粉などで薄く刷き、戸棚の中から琴柱の箱を持つて来させて、

「これだけがほんとに私が貰つたものだよ」

 そして箱を頬に宛てがひ、さも懐かしさうに二つ三つ揺る。中で徳永の命をこめて彫つたといふ沢山の金銀簪の音がする。その音を聞いて母親は「ほ ほ ほ ほ」と含み笑ひの声を立てた。それは無垢に近い娘の声であつた。

 

 宿命に忍従しやうとする不安で逞しい勇気と、救ひを信ずる寂しく敬虔な気持とが、その後のくめ子の胸の中を朝夕に縺れ合ふ。それがあまりに息詰まるほど嵩まると彼女はその嵩を心から離して感情の技巧の手先で犬のやうに綾なしながら、うつらうつら若さをおもふ。ときどきは誘はれるまま、常連の学生たちと、日の丸行進曲を口笛で吹きつれて坂道の上まで歩き出てみる。谷を越した都の空には霞が低くかかつてゐる。

 くめ子はそこで学生が呉れるドロツプを含みながら、もし、この青年たちの中で自分に関りのあるものが出るやうだつたら、誰が自分を悩ます放蕩者の良人になり、誰が懸命の救ひ手になるかなどと、ありのすさびの推量ごとをしてやや興を覚える。だが、しばらくすると

「店が忙しいから」

 と言つて袖で胸を抱いて一人で店へ帰る。窓の中に坐る。

 徳永老人はだんだん痩せ枯れながら、毎晩必死とどぜう汁をせがみに来る。       (了)

オカモト カノコ
おかもと かのこ 小説家・歌人 1889・3・1~1939・2・18 東京都港区に生まれる。兄大貫晶川やその友人谷崎潤一郎らの影響を受け、歌人としてまず世に出た。岡本一平との波瀾の結婚生活を経て、ヨーロッパ旅行から帰国後、小説を書きはじめ、昭和10年代前半の晩年数年間に「鶴は病みき」「母子叙情」「老妓抄」「生々流転」など長短の小説を次々に発表、人気の絶頂で急逝した。日本ペンクラブ創設に尽力し、第一期評議員。

掲載作は、電子文藝館にも掲載の「老妓抄」と並ぶ名作とうたわれ、かの子作ならではの凄みと美しさで1939(昭和14)年「新潮」1月号に初出。
著者のその他の作品

井上 ひさし あくる朝の蟬

2019年12月29日 | 犯罪
 汽車を降りたのはふたりだけだった。

 シャツの襟が汗で汚れるのを防ぐためだろう、頸から手拭いを垂した年配の駅員が柱に凭れて改札口の番をしていた。その駅員の手に押しつけるようにして切符を二枚渡し、待合室をほんの四、五歩で横切ってぼくは外へ出た。すぐ目の前を、荷車を曳いた老馬が尻尾で蠅を追いながら通り過ぎ、馬糞のまじった土埃りと汗で湿った革馬具の饐えた匂いを置いていった。

 土埃りと革馬具の饐えた匂いを深々と吸い込んでいると、弟が、追いついてきて横に並んだ。弟は口を尖らせていた。ぼくがひとりでさっさと改札口を通り抜けたことが、自分が置いてきぼりにされたことが不満なのだろう。

「思い切り息をしてごらんよ」

 弟にぼくは言った。

「空気が馬くさいだろう。これがぼくらの生れたところの匂いなんだ」

 弟はボストンバッグを地面におろし、顔をあげて深く息を吸い込んだ。

「どうだ、この匂いを憶えているだろう?」

「ぜんぜん」

 孤児院のカナダ人修道士がよくやるように弟は肩を竦めてみせた。

「べつにどうってことのない田舎の匂いじゃないか」

 弟がこの町を出たときはまだ小さかった。この匂いが記憶にないのは当然かもしれない。でもぼくにはこの馬の匂いと生れ故郷の町とを切り離して考えることは出来なかった。町は米作で成り立っていた。冬、雪に覆われた田に堆肥を運ぶのも、春、雪の下から顕われた田の黒土を耕すのも、夏、重い鉄の爪を引いて田の草を除くのも、そして秋、稲束を納屋まで運ぶのも、みんな馬の仕事だった。ぼくが此処を離れたのは三年前の春だったが、そのとき町にあった自動車は十数台の乗合バスと、それとほぼ同数のトラックだけで、運搬の仕事もそのほとんどを馬たちが引き受けていた。とくに冬季は深い雪のために自動車はものの役に立たず、そのときの町は橇を曳いた馬たちの天下になった。そんなわけで馬糞と革馬具の匂いはこの町そのものなのだ。ぼくはもういちど馬くさい空気を胸いっぱい吸い込んだ。

 ぼくと弟を乗せてきた汽車が背後で発車の汽笛を鳴らした。駅前の桜並木で鳴いていた蟬たちが汽笛に愕いてすこしの間黙り込んだ。汽笛にうながされて、ぼくは並木の下の日蔭を拾いながら歩き始めた。

 薬売りの行商人や馬商人たちの泊まる食堂を兼ねた旅館、本棚にだいぶ隙間のある書店、昼はラーメン屋だがあたりが黄昏れてくると軒に赤提灯をさげる二足草鞋の店、海から遠いのでいつも干魚ばかり並べている魚屋、農耕機具と肥料を扱う一方で生命保険会社の出張所もつとめている店、軒先の縁台で氷水をたべさせる菓子屋など街並みは三年前とほとんど変っていない。真夏の午後の炎暑を避けて桜並木の通りには人影もなかった。四周を山で囲まれているために暑気の抜ける隙間がなく、北国なのにこの町の夏は妙に蒸し暑いのである。

「待ってよゥ」

 ぼくの足を追い切れず、はるかうしろで弟が音をあげた。細紐で縛ったトランクを地面に置き、その上に腰をおろしてぼくは弟が追いつくのを待った。トランクは死んだ父親が学生時代に使っていたという年代物で、角かどに打った補強の金具はひとつ残らずとれており、錠もばかになっていた。細紐は錠のかわりだった。

 桜並木はあと十数米で尽きようとしていた。そして尽きたところで旧街道とぶっつかる。旧街道を右に曲って三町ほど行くともう祖母の家のはずだった。ぼくと弟は夏休みの後半をその祖母の許で過すために、仙台の孤児院から故郷の町へ着いたところだった。

 ぼくが高校一年、弟が小学四年のときのことである。

「もうすこし、もうひと息」

 追いついてきた弟に調子をとるように声をかけながらぼくはまた歩き出した。弟は両手で持ったボストンバッグの重さと釣り合いをとるために躯をうしろに反らせよたよたついてきた。旧街道はかなり大きな川に沿って続いているはずだった。川からの風はきっと涼しいだろう。川風が荷物の重さをすこしは忘れさせてくれるにちがいない。

「もうちょっと行くと楽になるよ」

 額の汗を手の甲で払って、ぼくは弟にまた声をかけた。ぼくが祖母の許へ来ることを思いついたのは、夏休みが始まって十日ばかり経ってからだった。孤児院の夏休みはひどい重労働だったのでどこかへ逃げ出す手はないかと必死で思案をめぐらせ、祖母のことを思い出したというわけである。孤児院の夏休みがなぜ重労働かというと、この期間に市民の善意や心づくしがどっと集中するからだった。

 夏休み第一日は市の青年商工会議所有志の招待による海水浴、第二日は市の福祉団体連合会の主催する『よい子の夏まつり』への参加、第三日は孤児院の近くの商店街の招きでお化け屋敷と花火大会の見学、第四日は米軍キャンプのGIたちの肝煎でアメリカン・スクールの少年たちとの対抗運動会、第五日第六日は市のボーイスカウト支部の招きで河畔キャンプ、第七日第八日はガールスカウト支部の誘いで高原キャンプ、第九日は市の婦人団体共催の『一日母子の会』への参加……というような具合で善意と心づくしで揉みくちゃにされてしまう。なにしろこれらの善意の人たちは自分たちの施す心づくしがぼくらにどれだけ喜ばれているかをとても知りたがっていた。だからぼくらは心づくしへのお返しに必要以上に嬉しがり、はしゃぎ、甘えてみせなくてはならなかった。そうするよりお返しのしようがなかったわけだが、これはずいぶん芯の疲れることだった。

 第九日の『一日母子の会』から帰ったぼくは、孤児院の事務室の黒板に、

「第十日、市内高校演劇部共催・夏の人形劇大会。第十一日、市営プール主催・市内養護施設対抗水泳大会。第十二日、地元有力紙主催・親のない子と子のない親たちの七夕まつり……」

 と書いてあるのを読み、このままでは夏休みの終らぬうちに過労のために仆れてしまうのではないかと怯え、祖母にあてて手紙をしたためた。

「故郷を後にしてから早いもので三年たちました。驚かないでください。ぼくと弟はいま孤児院にいます」

 たしかこんな書き出しだった。これに続けてぼくはたぶん次のように書いたはずだ。

「ぼくらが孤児院に入ったわけは、母の商売がうまく行かないからです。母は、男と同じように女にも意地というものがある。たとえどんなに困っても、またどんなに辛くても、祖母に泣きついてくれるな、手紙を出すのもいけないよ、と言っています。でも、ぼくらはつくづく孤児院にいるのに疲れました。かと言って母のところへは帰れません。母は旅館の住込みの女中さんをしているのです。祖母、突然のお願いですみませんが、ぼくらを祖母のところへ置いてくれませんか」

 夏休みの間だけでもいい、と書かなかったのは、ひょっとしたら祖母がぼくらを夏休みの間だけではなくずうっと孤児院から引き取ってくれるかもしれないという期待があったからだ。

 祖母からの返事はなかなか届かなかった。祖母は母のことを相当ひどく怒っている、祖母と母はぼくらが想像する以上に憎み合っているらしい。そう思って諦めかけたところへ書留が舞い込んだ。

「とにかく帰っておいで」

 千円札を二枚、飯粒で丁寧に貼りつけた便箋に電文のような一行が書きつけてあった。

 川の音が聞えてきた。桜並木を通り抜けて旧街道へ出たのだ。ぼくは橋の欄干に腰をおろし、今度もぼくの足に追いつかないでいる弟を待つことにした。橋を渡って左に曲れば三町ほどで祖母の家である。右に折れて五町ばかり川に沿って上流へさかのぼれば三年前までぼくらの住んでいた家があるはずだ。もうその家は人手に渡っている。かつて自分たちが寝起きしていた家にいまは赤の他人が生活している、そんなことはあまり信じたくなかった。そこでぼくは川の下流に沿って並んでいる店を眺めていた。まず目の前が地方銀行の支店、次が郵便局、ふたつとも石造り、木造でない建物は町でこの二軒だけだ。それから洋品屋、酒造店、時計屋……。店屋の並ぶ順に視線を移動させているうちに、どこかが変だぞ、と思いはじめた。前とはなにかがちがっている。ぼくは眼をつむり三年前のそのあたりの様子を頭に泛べてみた。

 地方銀行の支店と郵便局、ここまでは問題がない。右や左の木造家屋を脾睨しつつでんとおさまりかえった有様は三年前と変っていない。引っ掛かるのは郵便局の隣りである。前はたしか空地で、酒造店が酒を仕込むときに使う大樽がいくつも並べてあったはずだ。するとぼくらが町を出てからその空地に洋品屋が建ったのだろう。だがそれにしては洋品屋の造りが古びていた。近寄って眼を凝すと材木にも年代があらわれ、黒味がかっている。

 旧街道に並ぶ店屋はいずれも明治あたりに建ったもので、それぞれの造作にはどこか共通したところがあった。なによりも間口が広い。小店でも四間はある。大店ともなれば八間を超えていた。店の戸はだから大店になると十四、五枚にもなる。戸はすべて硝子戸で、風や雪の日を除いては一枚残らず戸袋に仕舞い込み店先を開けはなすのが作法のようになっていた。どの店屋も二階建てだった。二階の窓は大きく仕切ってあるが、どの窓にも櫺子が嵌っていた。表廻りに壁土を用いないことも共通している。壁のかわりに厚い頑丈な杉板が張りつめてあった。二階だけ眺めると、昔の武芸者の道場か、尋常小学校の雨天体操場といった趣がある。

 洋品屋もこれと同じ造りがしてある。新しく建ったにしてはそこが変だった。どうして新開地の桜並木通りの店屋のように今風の建て方をしなかったのだろう。それよりも、どこからこのように古びた材木や板を手に入れたのだろう。それがなんだかとても気にかかってぼくはしばらく洋品屋を睨んでいた。

「どうしたの、あんなに急いでいたくせに」

 弟がいつの間にか追いついていた。

「なに眺めてんの」

「先に行っていろよ」

 とぼくは弟の背中を押した。

「すぐ追いつくからな」

 弟はあいかわらず躯を反らせながらボストンバッグを支え、よたよたと先へ歩いていった。

 五分も行けば祖母の家に着けるというのに、どうしてこの間口四間にも足らない小さな店の前から離れることができないでいるのだろう。いらいらしながら洋品屋の店先や二階の窓や板壁を眺め廻しているうちに、ぼくの視線は板壁の或る個所に貼りついたまま動かなくなってしまった。板壁の上に釘の先で「聖戦と疎開は永遠に続くのである」と長ったらしい文字が刻んであったが、この文字通りの金釘流の悪戯書きにぼくははっきりと憶えがあったからだ。

 戦争中、たしか小学四年の秋から五年の夏ごろまで、ぼくは母の許を離れ祖母の家で暮していたことがある。祖母のところで暮すようになったわけは、隣りにきれいな女の子が東京から疎開してきたからで、できるだけ彼女の近くに住みたいものだと子どもながらも思いつめ、「祖母のところへどうしても行くというなら、もう母子の縁は切るから」と母が止めるのもきかず、祖母の許へ転がり込んだのだ。そのときに、戦争がこのままいつまでも続いてくれればその女の子も東京へ帰ることができないだろう、ぜひ戦争よ続いてほしい、と祈るような思いで店の二階の板壁に釘で彫りつけたのが、「聖戦と疎開は……」の十五文字だった。母とは犬猿以上の仲だったが、祖母はぼくらには優しかった。その悪戯書きが見付かったときも、腹を立てている祖父にあれこれとりなしてくれたのは祖母だった……。

 しかし祖母の家の一部がどうしたわけでこんなところにあるのだろうか。

 新しい疑問がぼくの胸をきりきりと締め付けはじめた。祖母の家は「アカマツ」と呼ばれていた。∑(まるなか)という屋号があるのだが、十間の間口の店のすぐ左に赤松が立っていたので、それがいつの間にか屋号の代りになってしまったのである。戦前は本業の薬種商のほかに本屋や文房具店も兼ね、その郡の小学校の教科書の取次ぎもしていた。戦後は農地改革で田畑を手離し、本屋や文房具店もやめ、すこし落ち目になっていたが、それでも薬は商っているはずで、家屋の一部を切り売りするほど困っているとはとうてい信じられない。いったいなにが起ったのだろう。胸を締めあげていた疑問がいやな予感に変っていった。

「どうしたの」

 一町ほど先で弟が手を振っていた。それに応えて手を挙げてみせてからトランクを持ちあげたが、トランクはぼくの心が重くなった分だけ重さを増したようだった。ぼくは弟と同じように躯を反らせてその重さと釣り合いをとりながらゆっくり足を運びはじめた。

 しばらく行くと川の音が高くなった。川が左に大きく折れ、その折れ口のところが瀬になっているのである。川に合わせて街道も左に曲っている。その曲り角に立てば祖母の家の赤松が見えるはずである。ぼくらは首を伸ばして向うをのぞきこむようにして角を曲った。

 赤松が見えた。見た瞬間、ぼくは軽い狼狽を覚えた。記憶のなかの赤松と較べると現実の赤松がいやに雑然としていたからだ。前は秋風の立つごとに植木職人がやってきて、赤松の姿づくりに小半日はかけていた。その丹念な葉刈りと整枝や剪定のおかげで赤松はいつもすっきりした姿で立っていた。だが、すこしずつ近づいてくる三年振りの赤松は、小枝を四方へ漫然と伸ばしているだけで、かつての凛凛しさには欠けていた。

 十間あった間口が半分ほどになっているのも寂しい感じだった。やはり来る途中に見かけた洋品屋は祖母の家の半分だったのだ。切り口はむろん新しい杉板できっちりと張ってあるが、全体の黒ずんだ色合いのなかに新しい杉板の部分だけはなにやら赤味を帯びていて、まっぷたつに断ち切られた鮪の胴体の切り口を見るような心持がした。

 店の硝子戸はこの町の商家のならわしに従って一枚残らず開かれていた。店先に浴衣を着た若い男が正座して、膝の上に置いた本の上に目を落としている。

「あ、叔父さん……」

 ぼくが小さく叫んだのが聞こえたようだ。叔父が顔をあげた。薄暗い店の中に叔父の白っぽい浴衣と蒼白い顔がくっきりと浮かび上って見える。

「ご厄介になります」

 ぼくは店の中にトランクをさし入れるように置き、叔父に軽く会釈した。弟もぼくを真似てお辞儀をした。

「……やぁ」

 叔父は微かに笑ったようだが、すぐに目を膝の上の本へ戻した。

「昨日、ばっちゃから書留をもらったんです」

 ぼくは開襟シャツのポケットからふたつに折った封筒を抜き出して、叔父の目の前に掲げた。シャツの生地を透してしみ出した汗で封筒は湿っぽくなっていた。表書のインクが汗で滲んでいる。

「……とにかく帰っておいでッて書いてあったものだから、今朝早く孤児院を発ってきたんです」

 叔父はしばらく封筒を見つめていた。見つめていたというより睨みつけていたといった方がいいかも知れない。ぼくは気圧されてのろのろした仕草で封筒を胸におさめた。

「叔父ちゃ、ばっちゃは?」

「裏じゃないかな。畑にいるだろう」

 はじめて叔父は声らしい声を発し、言葉らしい言葉を喋った。ぼくはそれが嬉しくて吻とした。店の中に入りながらぼくは訊いた。

「叔父さんも夏休みですか」

 三年前ぼくらが町を出るすこし前、叔父は東京の私大に入学した。順調に行っているならもう四年のはずだった。

「……来年は卒業でしょう」

「大学は二年でやめたよ」

 吐き捨てるような口調だった。弟はびくりとしてぼくのうしろに隠れた。叔父は再び膝の上の本に目を落し、大きな音をさせて頁をめくった。

「畑へ行ってみます」

 ぼくと弟は足音を殺して横の通用門へ歩きだした。

「店先に荷物を置かれちゃ困るな」

 本を睨んだままで叔父が言った。ぼくはすみませんを何回も連発しながら、トランクと、ボストンバッグを両手にさげて通用門へまわった。

 通用門をくぐり抜けると庭になる。庭に向い合って長い縁側がのびている。その縁側に荷物を置くと、ぼくらは裏へ走り出た。このあたりの商家は家屋の裏に二百坪から三百坪の畑を持っている。野菜は自給自足なのだ。そのためかどうか、町に八百屋は少なかった。

 畑は荒れ果てていた。雑草だけがはびこっている。ただ、敷地の中を流れる小川に沿って、トマトの赤や茄子の紫やさやえんどうや胡瓜の緑が見えていた。ぱちんぱちんと鋏を使う音がそのあたりでしていた。

「……ばっちゃ!」

 ぼくらが叫ぶと、鋏の音がやんだ。

「どこ?」

 トマトの植えてあるあたりで白いものが動いた。ぼくと弟はそこを目がけて走っていった。

「ばっちゃ、来たよ」

「おお、来たか」

 叔父と同じように白っぽい色の浴衣を着た祖母が襷を外しながら何度も頷いている。足許に置いた籠の中に大粒のトマトが光っていた。

「よく来たねえ」

「お金、ありがとう」

「足りなかったろう、あれっぽっちじゃ……」

「二千円そっくり残ってる」

 ぼくは胸のポケットを左手で抑えてみせた。

「交通費は孤児院の先生から貰ったんだ」

「ありがたい先生がただねえ」

 小虫が眼に入ったと言い訳をしながら祖母は袂で眼頭をそっと拭った。

「ばっちゃ、来る途中に洋品屋があったけど、あれはばっちゃの家だよね」

「おまえたちが町を出ていったころだと思うけど、じっちゃが死んでねえ」

 そのことはぼくも知っていた。葬式へ行くというぼくと、あんな鬼爺の葬式になど出る必要がないと言い張る母との間で喧嘩になってしまったものだ。結局、ぼくが言い負かされて葬式には出ないでしまったが。

「……じっちゃが死んでから、うちにだいぶ借金があったことがわかったのだよ。それで店を半分、人手に渡したわけ……」

 祖母はぽんぽんと浴衣の前を手で叩いた。

「三年振りじゃないか。陰気な話はよそうね。風呂を沸してあげるからまず汗をお流し……」

 ぼくと弟は祖母の後について家の方へ歩き出した。陽はだいぶ西に傾いていた。雑草の上を涼しい風が渡ってくる。断髪にした祖母の髪が四、五本はらはらと風にそよいだ。後から見ると祖母はずいぶん小さく見えた。本当に祖母が小さくなったのか、あるいはぼくらの背が伸びたせいでそう見えるのか、それはわからなかった。

 

 ぼくと弟はきっかり十分間で風呂場から出た。弟の着る浴衣の揚げをしていた祖母が老眼鏡の奥で目を瞠った。

「昔の同級生とでも逢う予定があるの」

「同級生たちと逢うのは明日からのことにするよ」

 ぼくは浴衣を羽織りながら答えた。弟は丸裸のまま祖母の横にしゃがみこみ、祖母の運針に見とれている。

「でもばっちゃ、どうしてそんなことを聞くのさ」

「ずんぶん早風呂だからだよ。烏の行水だっておまえたちのようには早くないよ」

「だって、後がつかえると困るもの」

 弟が言った。

「みんなの迷惑になるよ」

「だれも迷惑なんかしないじゃないの」

 祖母は糸切歯でぷつんと糸を切った。

「前の人が上ってから入る、それでいいんだから」

 祖母は弟に浴衣を着せながら、

「おまえたちったら何を慌てているんだろ」

 と小首を傾げている。

 ぼくは笑い出した。ぼくらがどうやら孤児院の規則をここまで引きずってきているらしいと気がついたからである。

「孤児院の風呂は畳一帖分もあるんだ。でも一度に五人以上は入れない。ところがぼくらの数は四十人。四人ずつ組にして十組。一組三十分ずつ入ったとしても五時間かかる。それでね、一組十分間と決められているのさ」

 ぼくのこの説明に弟がさらにつけ加えた。

「十分経っても出てこないとね、先生が長い竹竿でお風呂のお湯をぴしゃぴしゃ叩くんだ。それでもお湯に漬かっていたいと思うときは潜るんだよ、深くね。おもしろいよ」

「妙なことをおもしろがる子だねえ」

 また首を捻りながら、祖母は弟の兵児帯を締め終った。

「さあ、夕餉の支度が出来るまで縁側ででも涼んでいなさい」

 祖母に背中を軽く叩かれて、ぼくと弟は縁側へ出た。

 縁側に腰を下し、足をぶらぶらさせながらぼくと弟はいろんな音を聞いていた。表を通り過ぎて行く馬の蹄の音、その馬の曳く荷車の鉄輪が小石をきしきしと砕く音、道の向うの川で啼く河鹿の声、軒に揺れる風鈴の可憐な音色、ときおり通り抜けて行く夕風にさやさやと鳴る松の枝、台所で祖母の使う包丁の音、それから、赤松の幹にしがみついてもの悲しく啼くカナカナ。

 弟は庭下駄を突っかけて赤松の方へそっと近づいて行く。彼は昆虫を捕えるのが好きなのだ。(……いまごろ孤児院ではなにをしているだろう)

 ぼくは縁側の板の間の上に寝そべって肘枕をついた。

(……六時。お聖堂で夕ベの祈をしているころだな。お祈は六時二十五分まで、六時半から六時四十五分までが夕食。七時から一時間はハーモニカバンドの練習。八時から四十五分間は公教要理。八時四十五分から十五分間は就寝のお祈……)

 孤児院の日課を暗誦しているうちに、ぼくはだんだん落ち着かなくなっていった。しみじみとして優しい田舎のさまざまな音に囲まれているのだからのんびりできそうなものなのに、かえっていらいらしてくるのだった。生れたときから檻の中で育ったライオンかなにかがいきなり外に放たれてかえってうろたえるように、ぼくも時間の檻の中から急に外へ連れ出され戸惑っていたのだ。

 立ってみたり坐ってみたり、表へ出たり裏へまわったりしながら、夕餉の出来あがるのを待った。

 店の網戸を引く音がして、それと同時に蚊やりの匂いが家中に漂いだした。

「さあ、台所のお膳の前に坐って」

 祖母がぼくらに声をかけながら店の方へ歩いて行った。叔父にも食事を知らせに行ったのだろう。店と台所はぼくの歩幅にしてたっぷり三十歩は離れている。しかも店と台所との間には、茶の間に仏間に座敷に納戸といくつも部屋があって台所から店を見通すことはできない。だから叔父は食事のときは一旦店を閉めなければならなかった。

 店を閉めるのに三分や四分はかかりそうだった。ぼくと弟は台所の囲炉裏の横の板の間に並べられた箱膳の前に坐って叔父のくるのを待っていた。蚊やりの匂いが強くなった。見ると囲炉裏に蚊やりがくべてある。

 すぐに祖母が戻ってきた。

「叔父さんを待たなくてもいいよ」

 祖母が茶碗に御飯をよそいだした。

「叔父さんは後でたべるっていっているから」

「どうかしたの?」

「どうもしないよ。店をいちいち閉めたり開けたりするのが面倒なんだろうねえ。それにいまはあんまりたべたくないそうだよ」

 お菜は冷し汁だった。凍豆腐や青豆や茄子などの澄し汁を常時穴倉に貯蔵してある氷で冷した食物で町の名物だった。

「おや、変な茶碗の持ち方だこと」

 しばらく弟の手許を見ていた祖母が言った。弟は茶碗を左手の親指、人さし指、中指の三本で摘むように持っていた。もっと詳しくいうと、親指の先と中指の先で茶碗を挾み、人さし指の先を茶碗の内側に引っかけて、内と外から茶碗を支えているわけである。

「それも孤児院流なんだ」

 忙しく口を動かしている弟に代ってぼくが説明した。

「孤児院では御飯茶碗もお汁茶碗も、それからお菜を盛る皿も、とにかく食器はみんな金物なんだ。だから熱い御飯やお汁を盛ると、食器も熱くなって持てなくなる。でも、弟のようにすればなんとか持てる。つまり生活の智恵……」

「どうして食器は金物なの」

「瀬戸物はこわれるからだよ」

 祖母はしばらく箸を宙に止めたまま、なにか考えていた。それから溜息をひとつついて、

「孤児院の先生方もご苦労さまだけど、子どもたちも大変だねえ」

 と漬物の小茄子を噛んだ。

「……ごちそうさま」

 弟がお櫃を横目で睨みながら小声で箸を置いた。

「もうおしまい? お腹がいっぱいになったの」

 弟は黙ったままである。ぼくは時間の箍が外れたので面喰ったが、弟は孤児院の箍を外せないで困っているようだった。ぼくは弟に手本を示すつもりで大声で、おかわりと言い、茶碗を祖母に差し出した。弟は一度置いた箸をまた取って、小声で、ぼくもと言った。孤児院の飯は盛切りだった。弟はその流儀が祖母のところでも行われていると考えて一膳だけで箸を置いたのにちがいなかった。食事の後に西瓜が出た。そのときも弟は孤児院流を使った。どの一切が最も容積のある一切れか、一瞬のうちに見較べ判断しそれを手で掴むのがあそこでの流儀なのだ。

 弟の素早い手の動きを見ていた祖母が悲しそうな声で言った。

「ばっちゃのところは薬屋さんなんだよ。腹痛の薬は山ほどある。だからお腹の痛くなるほどたべてごらん」

 弟はその通りにした。そしてお腹が痛くなって仏間の隣りの座敷に横になった。祖母は弟に蚊帳をかぶせ、吊手を四隅の鉤に掛けていった。ぼくは蚊帳をひろげるのを手伝った。蚊帳の、ナフタリンと線香と蚊やりの混ったような匂いを嗅いだとき、ぼくは不意に、ああ、これは孤児院にない匂いだ、これが家庭の匂いだったのだな、と思った。思ったときから、夕方以来の妙にいらついていた気分が消え失せて、どこか知らないがおさまるべきところへ気持が無事におさまったという感じがした。

 前の川の河鹿の啼き声がふっと跡切れた。夜突きに出ている子どもがいるらしい。簎で眠っている魚を突いて獲るのだ。河鹿と申し合せでもしたように、すぐ後を引き継いでドドンコドンドコドンと太鼓の音が聞えてきた。途中のどこかで風の渡るところがあるのか、太鼓の音はときどき震えたり弱くなったりしていた。

 ぼくは座敷の隅の机の前にどっかりと坐ってトランクを縛っていた細紐をほどいた。持ってきた本を机に並べて、座敷を自分の部屋らしくしようと思ったのだ。

「そのトランクは死んだ父さんのだろう」

 祖母がトランクの横に坐った。

「よく憶えているんだなあ」

「わたしが買ってやったんだもの」

 祖母はトランクを指で撫でていた。

「死んだ父さんが東京の学校へ出かけて行ったときだから、三十年ぐらい前のことかしらね」

 トランクを撫でていた指を、祖母はこんどは折りはじめた。

「正しくは三十一年前だねえ」

「もうすぐお祭だね」

 ぼくは太鼓の聞えてくる方を指さした。

「あれは獅子舞いの太鼓だな」

「そう、あと七日でお祭」

「ぼくたち、祭まで居ていい?」

 ほんの僅かの間だが祖母は返事をためらっていた。

「駄目かな、やっぱり」

「いいよ」

 返事をためらったことを恥じているような強い口調だった。

「おまえたちはわたしの長男の子どもたちだもの、本当ならおまえがこの家を継ぐべきなのだよ。大威張りでいていいよ」

 この祖母の言葉で勇気がついて、当分言わないでおこうと思っていたあのことを口に出す決心が出た。

「ばっちゃ、お願いがあります」

 急にぼくが正坐したので祖母が愕いた眼をした。

「母が立ち直ってぼくと弟を引き取ることが出来るようになるまで、ぼくたちをここへ置いてください」

「……でも高校はどうするの」

「この町の農業高校でいいんだ。店の手伝いでもなんでもするから」

 祖母はぼくと弟をかわるがわる眺め、やがて膝に腕を乗せて前屈みになった。

「孤児院はいやなのかね、やはり」

「あそこに居るしかないと思えばちっともいやなところじゃないよ。先生もよくしてくれるし、学校へも行けるし、友だちもいるしね」

「そりゃそうだねぇ。文句言ったら罰が当るものねぇ」

「で、でも、他に行くあてが少しでもあったら一秒でも我慢できるようなところでもないんだ。ばっちゃ、考えといてください。お願いします」

 店で戸締りをする音がしはじめた。祖母はトランクの傍から腰を上げた。

「叔父さんの食事の支度をしなくっちゃ。今のおまえの話はよく考えておくよ」

 祖母が出て行った後、ぼくはしばらく机の前に、ぼんやり坐っていた。この話をいつ切り出そうかとじつはぼくは迷っていたのに、それが思いがけなくすらすらと口から出たので自分でも驚いてしまったのだ。気が軽くなって、ひとりで笑い出したくなった。ぼくはその場に仰向けに寝転んで、ひょっとしたらぼくと弟が長い間寝起きすることになるかもしれない部屋をぐるりと眺め廻した。そして何日ぐらいで、弟の孤児院流の茶碗の持ち方が直るだろうかと考えた。弟は蚊帳の中で規則正しい寝息を立てている……。ぼくは蚊帳の中に這っていって、出来るだけ大きく手足を伸ばして、あくびをした。

 縁側から小さな光がひとつ入ってきて、蚊帳の上に停った。それは蛍だった。

 

  行手示す 明けの星

  船路示す 愛の星

  空の彼方で 我等守る……

 

 孤児院で習った聖歌を呟いているうちに、光が暗くなって行き、ぼくは眠ってしまった。

 

 どれくらい経ってからかわからないが、叔父の声で目を覚ました。螢がまだ蚊帳の上で光っていたから、どっちにしてもそう長い間ではなかったことはたしかだった。

「……いいかい、母さん、おれは母さんが、親父が借金を残して死んだから学資が送れない、と言うから学校を中途で止してここへ戻ってきたんだ……」

 叔父の声は震えていた。

「店を継いでくれないと食べては行かれないと母さんが頼むから薬種業の試験を受けて店も継いだ。借金をどうにかしておくれと母さんが泣きつくから必死で働いている。これだけ言うことをきけば充分じゃないか。これ以上おれにどうしろというんだよ」

「大きな声を出さないでおくれ。あの子たちに聞えるよ」

「とにかく母さんの頼みはもう願いさげだよ」

 叔父の声がすこし低まった。

「今年の暮は裏の畑を手離さなくちゃ年が越せそうもないっていうのに、どうしてあの二人を引き取る余裕なんかあるんだ」

 祖父はだいぶ大きな借金を残したらしかった。それにしても裏の畑を手離すことになったら祖母の冷し汁の味もずいぶん落ちるにちがいないと思った。冷し汁に入れる野菜はもぎたてでないと美味しくないからだ。

「子ども二人の喰い扶持ぐらいどうにかなると思うんだけどねぇ」

「そんなことを言うんなら母さんが店をやるんだな。薬九層倍なんていうけど、この商売、どれだけ儲けが薄いか母さんだって知ってるはずだよ。とくにこんな田舎じゃ売れるのはマーキロか正露丸だ。母さんと二人で喰って行くのがかっつかつだぜ」

「でも、長い間とはいわない。あの子たちの母親が立ち直るまででいいんだから」

「それがじつは一番腹が立つんだ」

 叔父の声は前よりも高くなった。

「あの二人の母親は親父の、舅の葬式にも顔を出さなかったような冷血じゃないか。そりゃあの二人の母親は親父や母さんに苛められたかも知れない。でも相手がこの世から消えちまったんだ。それ以上恨んでもはじまらないだろ。線香の一本もあげにくればいいじゃないか。向うが親父を許さないのなら、そのことを今度はおれが許さない。おれはいやだよ。あの女の子どもの面倒など死んでも見ないよ」

「でもあの子たちはおまえの甥だろうが……」

 箱膳のひっくり返る音がした。

「そんなにいうんなら、なにもかも叩き売って借金を払い、余った金で母さんが養老院にでも入って、そこへあの二人を引き取ればいいんだ。おれはおれでひとりで勉強をやり直す」

 叔父の廊下を蹴る音が近づき、座敷の前を通ってその足音は店の二階へ消えた。叔父は赤松が目の前に見える、店の二階の一番端の部屋で寝起きしているのだろう。

 いまの話を弟が聞いていなければいいな、と思いながら、弟の様子を窺うと、彼は大きく目を見開いて天井を睨んでいた。

「……ぼくたちは孤児院に慣れてるけど、ばっちゃは養老院は初めてだよね」

 弟はぼそぼそと口を動かした。

「そんなら慣れてる方が孤児院に戻ったほうがいいよ」

「そうだな」

 とぼくも答えた。

「他に行くあてがないとわかれば、あそこはいいところなんだ」

 蚊帳に貼りついていた蛍はいつの間にか見えなくなっていた。つい今し方の叔父の荒い足音に驚いて逃げだしたのだろうとぼくは思った。

 ぼくはそれから朝方まで天井を眺めて過した。これからは祖母がきっと一番辛いだろう。「じつはそろそろ帰ってもらわなくちゃ……」といういやな言葉をいつ口に出したらいいかとそればかり考えていなくてはならないからだ。店の大時計が五時を打つのをしおに起き上って、ぼくは祖母あてに書き置きを記した。ごく簡単な文面だった。

「大事なことを忘れていました。今夜、ぼくら孤児院のハーモニカバンドは米軍キャンプで慰問演奏をしなくてはならないのです。そのために急いで出発することになりました。ばっちゃ、お元気で」

 書き置きを机の上にのせてから、ぼくは弟を揺り起した。

「これから孤児院に帰るんだ」

 弟は頷いた。

「ばっちゃや叔父さんが目を覚すとまずい。どんなことがあっても大声を出すなよ」

「いいよ」

 弟は小声で言って起き上った。

 ぼくらはトランクとボストンバッグを持って裏口から外へ出た。裏の畑にはもう朝日がかっと照りつけていた。足音を忍ばせて庭先へ廻った。

 ギーッ! ギーッ!

 と大きな声で蟬が鳴いている。あまり大きな声なので思わず足が停まった。蟬の声は赤松の幹のあたりでしていた。近づいて見ると、透明なハネを持った赤褐色の大蟬だった。幹に頭を下に向けてしがみついている。

「でかいなあ」

 弟が嘆声をあげた。

「あんなにでかいのは油蟬かな。ちがう、熊蟬だ……」

「大きな声を出すんじゃない」

 ぼくは唇に右の人さし指を当ててみせて、

「それからあいつは油蟬でも熊蟬でもないぜ」

「じゃなに?」

「エゾ蟬。とんまな蟬さ」

「とんま? どうして?」

「いきなり大声を出すとびっくりして飛び出す。そこまではいいけど、さかさにとまっているから、地面に衝突してしまうんだ」

「……それで?」

「脳震盪を起して気絶しているところを捕える。それだけのことさ。ぼくなんか前にずいぶん捕えたな。おまえにもずいぶん呉れてやったじゃないか」

「憶えてないや」

「たいてい山の松林にいるんだけどね、あいつ珍しく山から降りてきたんだぜ」

 弟は、ボストンバッグを地面に置いた。

「よし、捕えちゃおう。大きな声をあげればいいんだね?」

 そうさ、と頷きかけて、ぼくは慌てて弟の口を手で塞いだ。

「ばっちゃや叔父さんが目を覚しちまう」

 弟はなにかもごもごと口を動かした。きっと不平を言っているのにちがいなかった。そこでぼくは弟の耳に口を寄せて囁いた。

「たしか今度の日曜日に、市の昆虫採集同好会とかいうところの小父さんたちが孤児院に慰問に来ることになってたろう。あの小父さんたちがきっとこのとんまな蟬のいるところへ連れてってくれると思うよ。だからこいつは見逃してやろう」

 弟がかすかにうんと首を振ったのでぼくは彼の口から手を離した。それからぼくらはエゾ蟬の鳴き声にせきたてられるようにして通用門の方へ歩いて行った。

――昭和四十八年八月――


毎木曜掲載・第136回 人を殺すことの異常性が薄れて行く

2019年12月28日 | 犯罪
『増補 普通の人びと: ホロコーストと第101警察予備大隊』(クリストファー・R・ブラウニング 著、谷 喬夫 訳、ちくま学芸文庫、1600円)/評者:大西赤人

 近年では、「ダイバーシティ(多様性)」なる概念が重視され、言わばそれと対立する「普通」とはそもそも何なのか、むしろ人間には、「普通」という定理めいた基準自体が無いのではないか、という趣旨の捉え方が広まりつつあるように思う(それは、より以前から存在した――健常者と障害者との等化に代表される――「ノーマライゼーション」という考え方の発展形のようにも見える)。しかしながら、大西自らを振り返っても、日常何かにつけて、「フツーじゃないな」とか「フツー××するだろう」とかの表現は、未だについつい口を衝《つ》いてしまいがちである。当然ながら人の多様性は尊重されるべきにせよ、その上で、「一般」「大抵」「通常」「原則」――あるいは一層曖昧で、しかし便利に使われる「みんな」――のように、集団における一定多数派を措定した把握を完全に捨て去ることは困難であるように思う。

 『普通の人びと』という極めて平凡な題名である本書(原題も”Ordinary Men”)は、1992年に米国で出版、1997年に日本語訳も発行されて大きな話題となった一冊である。第二次大戦下、一般市民を中心に編成された第101警察予備大隊が、いかにして、なぜ多数のユダヤ人虐殺を実行したか(し得たか)を戦後における戦争犯罪裁判記録――とりわけ隊員たちの証言――に基づき、丹念に検討している。今回の新訳は、原著出版時に(一部の研究者から)受けた激しい批判への反論である「あとがき」(1997年)、その後に現われた様々な研究を俯瞰する「二五年の後で」(2017年)を追加した増補版である。

 際立った暴力性、攻撃性を持つわけではなく、銃後の家庭や社会においては平穏な生活を送っていた「普通」の人間が、戦地において別人のような残虐な所業に及ぶという例は、しばしば見聞きするところであり、むしろ通俗的なパターンでさえあるかもしれない。しかし、ブラウニングが採り上げたハンブルグ連邦検察庁による――1962年から1972年まで十年に及んだ――120名以上の隊員に対する詳細な司法尋問調書の内容は、あまりにも鮮烈かつ迫真的である(ただし著者は、訴追された隊員たちのそれらの証言が、記憶の混乱はもとより、保身や同僚への配慮などの要素によって歪められている可能性についても常に留意している)。

 そもそも大西は、アウシュビッツやトレブリンカをはじめとする「強制収容所(あるいは『絶滅収容所』)」における主にガス室を用いたいわゆる「ユダヤ人問題の最終的解決」に関しては幾分の知識があったものの、本書に描かれたポーランド地域での通常警察官によるユダヤ人虐殺については、全く無知であった。けれども現実には、約五百名の第101警察予備大隊だけでも約三万八千人、十二の警察予備大隊を合わせれば六十万人以上のユダヤ人を「普通の人びと」が〝直接的〟に射殺(処刑)し、五十万人以上のユダヤ人を死が約束された「絶滅収容所」へと送り届けたというのである(ポーランドにおけるユダヤ人の全犠牲者数は、約三百万人と推定されている。また、ロシアやポーランドの民間人、あるいはパルチザンの殺害は、大隊の所業に数えられていない)。

 ハンブルクの労働者階級及び下層中産階級出身者がほとんどを占め、平均年齢39歳だった第101警察予備大隊の隊員たちは、総てが積極的に虐殺に勤《いそ》しんだわけではない。当初は大隊長も苦渋に涙を流し、隊員の希望を認めて任務から外しさえした。しかし、殺戮が度重なり、しかも規模が急激に増大するにつれ、犠牲者の非人格化が進み、人を殺すことの異常性は薄れて行く。隊員の中には、好んで殺害する一部の者、命令に従って受動的に殺害する多数の者、〝臆病者〟とそしられることに甘んじながら可能な限り殺害を回避する少数の者が存在した。しかし、一度も虐殺に手を染めなかった隊員は皆無であったという。

 著者は、彼らの行動は、ナチの「反ユダヤ主義」による洗脳の結果というような単純なものではないとして、米国や日本を含めた戦時残虐行為を引きながら、その普遍性――まさに「普通の人びと」がそれを行なうに至る可能性――を複合した要因とともに分析し、読む者に我が身を振り返らせる。このような後年における実証的検証作業を成立させる条件は、たとえ乏しくとも確実な資料の存在であり、その作業が反復している国々に較べて、日本の現状には様々な意味でうそ寒さを感じてしまう。

 証言の中で非常に印象的だったものは、「私は努力し、子どもたちだけは撃てるようになったのです」というある隊員の述懐だった。彼は、母親を同僚に撃たせ、自らは彼女の子供を撃った。 「母親がいなければ結局その子供も生きてはゆけないのだと、自分で自分を納得させたからです。いうならば、母親なしに生きてゆけない子供たちを苦しみから解放(release)することは、私の良心に適うことだと思われたのです」

 ブラウニングは、releaseはドイツ語ではerlösenであり、宗教的には「救済する(redeem)」または「救い出す(save)」を意味するとして―― 「『苦しみから解放する』者は救済者(Erlöser)―救世主(the Savior)ないし救い主(the Redeemer)、なのである!」 ――と綴っている。

 この「普通の人びと」の一人である隊員による論理は、相模原障害者施設殺傷事件の犯人が述べていた論理と実に相似してはいないだろうか?

*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・渡辺照子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美、根岸恵子、杜海樹、ほかです。

日本製鋼所は艦載砲の米国輸出をやめろ!1.14大崎本社抗議アクションへ&抗議の集中を !

2019年12月28日 | 犯罪
日本製鋼所は艦載砲の米国輸出をやめろ!1.14大崎本社抗議アクションへ&抗議の集中を

https://kosugihara.exblog.jp/239911024/

東京の杉原浩司(武器取引反対ネットワーク:NAJAT)です。
[転送・転載歓迎/重複失礼]

 年末も押し迫って、重大な武器輸出案件が発覚しました。鋼材と機械の
トップメーカーとされる【日本製鋼所】が生産する艦載砲の米国輸出の動
きです。勝股秀通氏(元読売新聞防衛担当記者)が月刊誌『Wedge』2020
年1月号の連載コラムで明らかにしたものです。危険な動きがこうした形
でしか明るみに出ないこと自体が大きな問題です。

 輸出が狙われているのは、「英国の大手防衛装備品メーカー」(注:BAE
システムズと思われる)の関連会社(米国)からライセンスを得て生産し
ている5インチ砲の構成品(砲身以外のほぼ全て)で、近代化改修された
米海軍のイージス艦などに搭載するためだといいます。米イージス艦は、
イラク戦争などで国際法違反の先制攻撃などの役割を果たしてきました。
艦載砲の輸出は戦争犯罪への加担につながります。輸出が実現すれば、2014
年4月1日に安倍政権が「武器輸出三原則」を撤廃し「防衛装備移転三原則」
を閣議決定して以降、本格的な武器輸出の初めてのケースとなります。
しかも、年明け1月中には輸出商戦の結果が出るというのです。

 日本製鋼所は、1907年に艦載砲や榴弾砲など武器の国産化を目的に誕生
し、原子炉容器の世界トップシェアを誇っていたことでも有名です。同社
特機本部の中西清和副本部長は「将来的には、米国から複数の友好国への
輸出も見込まれ、装備移転が増加する道も開ける」と述べており、武器輸
出に弾みがつくことが危惧されます。ちなみに、同社のイメージキャラクタ
ーは斎藤工さんが務めています。

日本製鋼所ウェブサイト
https://www.jsw.co.jp/ja/index.html

防衛関係事業
https://www.jsw.co.jp/ja/product/army.html

 武器輸出の実績を作らせるわけにはいきません。年明けに東京・大崎に
ある日本製鋼所本社に対する抗議アピールと輸出商戦からの撤退を求める
申し入れを行います。ぜひご参加ください。時間がありませんので大至急
広めていただけると嬉しいです。

★日本製鋼所は艦載砲の米国輸出をやめろ! 1.14大崎本社抗議アクション
2020年1月14日(火)
12時30分にJR大崎駅・南改札口の外に集合
 日本製鋼所の入るゲートシティ大崎ウェストタワー付近で抗議アピール
 地図
https://www.jsw.co.jp/ja/guide/network/main/00/teaserItems1/01/linkList/0/link/j
sw_map.pdf
13時15分~45分 同社総務課に要請書提出・申し入れ
※14時には終了
【呼びかけ】武器取引反対ネットワーク(NAJAT)
メール anti.arms.export@gmail.com
電話 090-6185-4407(杉原)
ツイッター https://twitter.com/AntiArmsNAJAT
Facebookページ https://www.facebook.com/AntiArmsNAJAT/ 
〒162-0822 東京都新宿区下宮比町3-12 明成ビル302 3.11市民プラザ気付

★事は急を要しています。
「武器輸出から手を引いてください」の声をFAX・電話で大至急届けてください!
(室蘭はじめ製作所のある地域の方はぜひ地元の製作所にも抗議を)

【日本製鋼所】
〒141-0032 東京都品川区大崎1-11-1
(ゲートシティ大崎 ウェストタワー23・24階)
<代表>
TEL 03-5745-2001
FAX 03-5745-2025

<特機本部>
TEL 03-5745-2086
FAX 03-5745-2087

※電話は営業開始日の1月6日(月)以降におかけください。それまでは
FAXの集中を(短いものでも構いません)!

----------------------

<室蘭製作所>
〒051-8505 北海道室蘭市茶津町4
TEL 0143-22-0143
FAX 0143-24-3440

<広島製作所>
〒736-8602 広島県広島市安芸区船越南1-6-1
TEL 082-822-3181
FAX 082-285-2038

<横浜製作所>
〒236-0004 神奈川県横浜市金沢区福浦2-2-1
TEL 045-781-1111
FAX 045-787-7200

世に倦む日日 @yoniumuhibiより

2019年12月28日 | 犯罪
菅原一秀にも捜査着手して欲しいよ。そうしないと片手落ちだ。https://www.sankei.com/affairs/news/191025/afr1910250020-n1.html … かに、いくら、すじこ..明確な公職選挙法違反だ。買収だ。元秘書が証言している。写真もある。証拠は揃っていて、特捜部に告発もされている。線香を配った小野寺五典は書類送検された。すぐにやりなさい。

グッドニュース。検察がバイタルになってきた。いい傾向だ。年末の間中(あいだじゅう)小出しのリークをちょろちょろ出す進行になるかも。逮捕・起訴まで行ってもらいたよね。これを見逃したら選挙違反の犯罪なんて日本の地上からなくなる。何でもやり放題の後進国だ。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191228-00010000-chugoku-soci …

と言いつつ、日本にとって最大の影響があるのは、目の前の北朝鮮の問題。①米朝和平・非核化へと転がるか、②決裂して戦争前夜になるか、③今の中途半端な状態がそのまま続くか、どう転ぶかで、日本の解散総選挙の環境と情勢が変わる。トランプ次第。③はないでしょう。①か②かどちらか。

あと、来年の世界の政治日程といえば、2月3日にアイオワ州民主党党員集会がある。ここから大統領選が本格的に始まる。結果何如によっては日本の政治にも影響を与える。世界の注目はここに集まる。特に、NY株式市場の動向とセットでの関心となる。大きな変化がハプンするかもしれない。

あと、1月11日に台湾総統選があって、これが習近平国賓来日の政治に影響を与えますね。国賓反対論が強まる。香港のデモも活発化。マスコミは国賓来日に反対の世論を盛り上げる(安倍官邸と緊張関係の立場で報道する)。国賓来日を押し切ると、保守系の反発で支持率が下がる。解散しにくい環境に。

解散総選挙のタイミングを考察する上で重要な20年の日程を並べておく。
3月 8日   自民党大会
4月(桜の頃) 習近平国賓来日
4月19日   立皇嗣の礼
6月10日   G7サミット
7月 5日   東京都知事選
7月24日   東京五輪開会式

日本というのはそういう国だ。昨日まで「鬼畜米英、本土決戦」と言ってた者が「マ元帥万歳、米国万歳」と言い出し、昨日まで「攘夷決行、神州不滅」と言っていた者が「文明開化、脱亜入欧」と言い出す。コロッと変わる。あの人や櫻井よしこが北朝鮮をどう言い出すか、よく見てるといい。

ストックホルムでの日朝協議の後、北朝鮮は律儀に合意を履行して、拉致された日本人を調査し、二人生存しているという報告を日本政府に渡したわけだ。それを、安倍晋三は握りつぶした。受け取らなかった。逆に北朝鮮を裏切って制裁外交に出た。だから北朝鮮が怒ったわけだ。https://critic20.exblog.jp/29589609/

もう一度書くよ。昨日26日の首相動静。石川正一郎と42分間相談。その直後に、北村滋、今井尚哉、秋葉剛男、高橋憲一を集めて40分間の最高会議。北朝鮮(拉致問題)しかないじゃないか。さらにその後、山口那津男と42分間緊急会談。電撃訪朝と解散総選挙しかない。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191226-00000046-asahi-pol …

おおっ。ほれ、出てきたね。共同が田中実と金田龍光の生存の話を出してきた。このタイミングで再び出してきた。安倍晋三が出させている。断言していい。陰謀論と言いたい奴は言え。安倍晋三、動くつもりだ。電撃訪朝への下準備だ。ストックホルム宣言履行のシグナルだ。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191227-00000014-kyodonews-pol …

これも共産党が調べ上げて判明したことで、共産党のお手柄だろう。「桜を見る会」追及は共産党だけが真面目にやっている。立憲と国民の連中は、便乗してテレビで顔を売っているだけ。マスコミは立憲と国民の議員を映すなよ。不愉快だ。手柄のある田村智子と宮本徹だけを映せ。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191226-00000078-mai-pol …

世に倦む日日 @yoniumuhibiより

2019年12月26日 | 犯罪
甘利明のときも、とらやの羊羹の紙袋だった。全く同じパターン。大臣室で、桐の箱に入ったとらやの羊羹と封筒に入った現金50万円。小口の賄賂を政治家に渡して喜ばせるときの標準フォーマット。完全にスタイルが定着している。甘利明は、封筒をおもむろに胸ポケットに。https://togetter.com/li/928043

日本国内で現金を準備できないことはないだろうけれど、日本法人でそれをやると、経理の帳簿に金の流れが載って、国税や外事に摑まれますよね。会計処理のゴマカシが難しい。億単位の賄賂資金だ。プライベートジェットなら深圳から簡単にスーツケースで運べて、羽田の税関を通り抜ければ終わり。

石川正一郎というのは、昔の田中均のポジションで、極秘裏に何度も北朝鮮側の担当と接触しているはずだ。日本政府がストホ宣言に沿って「拉致問題の最終解決」を認め、日朝平壌宣言の有効を認め、平壌に事務所を置くと約束し、そこまで合意できたら、金正恩は喜んで安倍晋三の訪朝を迎えるだろう。

北朝鮮を解散総選挙の出汁に使う道は二つあって、安倍晋三はどっちに転んでもいいわけだ。第一の道。ミサイルを発射したら、再びの「国難解散」で憲法改正を争点にする。第二の道。米朝和平に転がったら、即刻、正月電撃訪朝して、平壌で「拉致問題解決」をアピール。それを手土産に解散総選挙。

夕方には42分間、山口那津男と相談している。急に呼んでの会談だ。記者たちは注目しているだろう。訪朝しての解散総選挙の含みじゃないかな。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191226-00000046-asahi-pol …

首相動静。石川正一郎から37分間報告を聞き、その後、北村滋、今井尚哉、秋葉剛男、高橋憲一を集めて会議をやっている。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191226-00000014-jij-pol … 石川正一郎とは20日にも会っていて、このときは7分間だから、安倍晋三からの指示伝達だ。訪朝の画策じゃないかな。解散総選挙の切り札として。

これが男だったら、袋だたきに遭って社会から抹殺されていただろう。だが、左翼は頭から小保方は正しいと擁護し、STAP細胞を盲信した。私が自ら経験したポリコレ狂信教の凶徒。兵藤何とかとかいうわけのわからないのにカラまれて迷惑した。小保方盲信擁護左翼。これこそ反知性主義の現実そのもの。

ははは。とらやの紙袋(黒地に金の)だ。国民にサービスして面白がらせる日本チックな検察リークの文化スタイル。検察が本来のペースを取り戻してきた。https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20191226-00429554-fnn-soci …

検察は、紺野昌彦らの贈賄について外為法違反でも挙げている。つまり、深圳から日本円の札束を総額幾ら持ち込んだかを把握している。高井康行も言ってたように300万円ぽっちじゃないだろう。スーツケースに札束詰め込むと、重さ10kgで1億円、重さ20kgで2億円。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191226-00000013-kyodonews-soci …

相変わらず、左翼の小保方擁護が喧しい。不愉快になる。笹井芳樹が遺書で小保方晴子に何と言っていたか。覚えているのか。自分の命を犠牲にして小保方晴子を守った笹井芳樹。だが、小保方晴子は何の責任もとらずに逃げた。笹井芳樹の家族の心を踏みにじった。https://www.news-postseven.com/archives/20160204_382675.html/2 …

昨夜の高井康行の話だと、検察の捜査が秋元司のもっと上まで伸びる可能性を示唆していた。誰だろう。真っ先に念頭に上がるのは、超党派IR議連と自民党IRPTで旗振り役をやった幹部。萩生田光一(IR議連事務局長)と岩屋毅(IR議連幹事長・IRPT座長)。http://casino-ir-japan.com/?p=17720

この事件のため、狙っていた年明け冒頭解散が難しくなったという報道があった。ということは、「桜を見る会」問題とカジノ汚職問題で、ずっと野党に攻めまくられ、マスコミに叩かれまくる針の筵の通常国会を送るということだ。支持率をどんどん下げ、予算委に出て来いと責められながら。