日曜日記187・ウクライナ情勢・思考力が試されている 2022年03月06日 | 日記・エッセイ・コラム
テレビで繰り返される「ウクライナ戦争報道」に胸のざわつきが収まらない。 避難するウクライナ市民の悲しみと怒りだけではない。1日も早く停戦し、平和な世界をつくらねばならない。そう思うからこそ、自分のものの見方、考え方が試されていると痛感する。 ウクライナ情勢をめぐる日本の報道・論調、報道を通してみる世界の論調には、いくつもの危惧を禁じ得ない。
まだ十分整理されていないが、その危惧を列挙しておこう。
第1に、情報の制約・一面性。 日本のマスメディアの報道は、きわめて部分的で一面的だ。多くがアメリカ政府、ウクライナ政府の側に立っている。日本のメディアはウクライナの現地取材さえしていない(5日のブログ参照)。 ウクライナ政府の情報がすべて正しいとは言えない。例えば、「ウクライナの非常事態庁によると、民間人の死者は2千人を超えた」(4日の朝日新聞デジタル)と断定的に報じられているが、「国連人権高等弁務官事務所は、これまでに確認された民間人の犠牲者は331人に上ると発表した」(5日のNHKニュース)。
第2に、歴史的視点の欠如。 ロシア・プーチンの武力攻撃はもちろん厳しく批判されるべきだ。同時に、今日の事態は歴史的経緯の到達点であるとの認識は欠かせない。 軍事同盟の問題をとっても、「冷戦終結」でロシア側のワルシャワ条約機構は1991年7月に解体したが、欧米側の北大西洋条約機構(NATO)は残った。ロシア(当時ソ連)は当然NATOも解体するものと思っていたといわれる。 目の前の戦争の平和的解決、今後の恒常的な平和をつくりだすためにも、歴史の視点は欠かせない。日本の国際政治、平和学の学者はいまこそ発言すべきだ。しかし、その声はなかなか聞こえてこない。
第3に、アメリカの免罪。 今日の事態を招いた一方の責任が、軍事同盟・覇権主義に固執するアメリカにあることは明白だ。だからこそバイデンはあえて「責任はプーチン1人にある」とプロパガンダしている。日本のメディアはそれを垂れ流している。 アメリカの責任は免罪され、まるで正義の味方のように扱われている。これは現実にも歴史的事実にも反している。
第4に、「戦後秩序」の賛美。 ロシアの軍事侵攻によって「戦後秩序が破壊された」という論調があふれている。「戦後秩序」は守られるべき素晴らしいものだという前提だ。果たしてそうか。 「戦後秩序」とは、軍事、政治、経済の各分野にわたって、アメリカが主導する、アメリカの世界戦略に基づく「秩序」ではないのか。それは決して守られるべきものではない。市民・途上国の立場に立った新たな世界の在り方こそ求められている。
第5に、「民主主義対専制主義」の図式の危険。 バイデンは「ウクライナ戦争」を「民主主義対専制主義のたたかい」だと描く。アメリカは「民主主義国家」だというわけだ。しかし、アメリカや日本が「民主主義」とはほど遠い国家であることは明白だ。市民に対する無差別爆撃を、アメリカがこれまでどれほど行ってきたか忘れることはできない。それをことごとく容認してきたのが日本政府だ。日米両国内の人種・民族差別の実態も銘記する必要がある。 アメリカ、日本を「民主主義国家」と描くのも歴史と現実の改ざんである。
第6に、保守反動の跳りょう。 「ウクライナ戦争」以降、日本の保守反動の危険な言動が相次いでいる。安倍晋三の「核共有議論」提唱(2月27日)はその典型だ。岸田政権はウクライナへ「防弾チョッキ」など「防衛(軍事)装備」供与を決めた(4日)。「ウクライナ戦争」を奇貨として軍拡と日米軍事同盟強化を図ろうとするこうした策動は、一面的な報道・論調と無関係とはいえないだろう。
第7に、世界の「平和・中立」勢力の揺らぎ。 軍拡・軍事同盟への急傾斜は日本だけではない。ドイツは軍事費の大幅拡大を表明し、北欧の「中立国」もこれまでの禁を破ってウクライナへの「武器供与」に踏み切った。アメリカ軍の常駐を望む欧州の国も増えている。 世界の「平和・中立政策」はこれほどもろいものだったのか。 世界を「正義」と「悪」に二分し、「悪」への憎しみをかきたてて自らの「正義」を誇示し、ナショナリズムを鼓舞するのが「二分法」「二項対立」思考だ。バイデンの論法はこれに貫かれている。日本を含む世界の大勢はそれに追随している。 できるだけ多面的な報道を求め、歴史的視点をもった、熱くて冷静な思考を肝に銘じたい。最も危険なのは、「二項対立」で思考停止に陥ることだ。
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