解釈についてが私の専門でした。
学士程度の知識ですが、私がブログを書く姿勢の背骨になって
いることなので書いてみようと思います。
私が「りんご」と言ったとき、聞き手が思い浮かべるのは、
私が思い浮かべている「りんご」そのものであることは
まずなく、多少違った「りんご」なわけで、私と全く同じ
「りんご」を思い浮かべるのは、私が見たのと同じ「りんご」を
見たことがあって、かつ私がそれを指していることがわかる
場合のみです。しかも、その場合においても同じその「りんご」
に対してどのように感じているか(おいしそうだとか、色がいい
かどうかなど)が全く同じであることはまずありません。
単語ひとつで違いが出てくるのですから、文章ともなると
話し手と聞き手の経験の違いによる解釈の違いというのは
どうしようもなく現れるのだと思います。
私がなにがしかのことを言って、理解されるのは、聞き手の
経験の範囲に委ねられるわけです。私は話し手が聞き手に
完全な解釈を求めるのは無理だと思いますし、聞き手も
話し手を完全に理解しようなどとはできないと思います。
話し手と聞き手の主観の共有された範囲を、間主観性とか
相互主観性(Intersubjektivität:フッサール)というのだと
私は理解しているのですが、聞き手も話し手も解釈というのは
この間に限られることだと思ったほうがいいと思います。
私にすれば、生い立ちの違う人たちがこういった間主観性を
もっていることのほうがありがたいことで、人間という種が
言語を持っているという奇跡的な事実をそれが支えていると
いうことなのだと思っています。
わたしの名前”じょあんな”はヨハネを女名前にしたもので
そのぐらい、「はじめに言葉ありき」という言葉は私に
感慨深いものがあります。
かつ、私は超越を信じるほうで、それはカルトみたいな
ものではなくて、話し手が話したことを聞き手の経験内で
了解するだけでなく、今までになかった新しい考えが
会話や共同生活のなかで生み出されるのだと信じています。
質量保存の法則のように、思想も聞き手と話し手の持っている
知識を超えてなにかが生まれるということはないと信じている
人たちもいて(形而上学とかいいましたか)その人たちに
対して、超越を信じている哲学者などは神秘主義者とか呼ばれます。
間主観性を人間が持っているとか、人間は対話することによって
新しい考えが生み出されると信じていることから私はキリスト教に
関心をもつことになったので、現在キリスト教徒なわけです、
そういう意味では、右の頬を打たれたら左の頬を差し出す人たちの
ようなキリスト教徒ではあまりなかったりします。もちろん
そのようなキリスト教徒を否定しているわけでは全然ありません。
むしろそのような人たちの方が人間を深く知っていると思われる
ぐらいです。
今は右の頬も左の頬も打たれたくないなあという還俗的なキリスト教徒
ですけれど、宗教的理由というのは、人間がお互いに理解できる
ということそのものが神秘的に思えたのと、人間は考えを更新できる
はずだという信念からのものだということです。
健全な対話とは理解する側にすべてを投げ出してしまうような
ものでもなく、話す側にすべてを説明させるよう求めるような
ものでもないと思っています。
私自身は、(ブログではただその日あったことを記録してお仕舞い
にしてしまうこともありますが)なにかを伝えようとするときは
想定される読者の経験しているだろう範囲とできるだけ重なって
理解されることと、新しいことを提案するときも、今読んでいる
読者の経験につながるものであるだろうと思われるものにしたり、
かつ、自分は知ることができないけれど、読者が更に先を行く
可能性を信じてブログを書いているところがあります。
長くなりましたが、私の解釈について思っていることを少し
書いておきたいと思いました。
ちょっと、簿記の勉強とか仕事とか、子供の教育とか、自分の
専攻から離れて長いので、あとで「これ言い忘れた」が出るかも
しれませんが、ふだん毎日のことをだらだら書いているだけの
ようなブログなんですが、実はこんなことを考えて書いて
いたんですよということがわかっていただけるとありがたいなと
思います。
仕事に行く時間も近づいたのでここで終わることにします。
(追記)
この記事書く前に例の地頭塾のブログ確認して更新なかった
ことを確かめたんですが、昼休みに見たら、このブログより
前に、(前日に)このブログと似たような趣旨のことを書いて
いることになっていました。
事実の確認はもうできませんが、くやしく思っています。
たいていのブログでは投稿時刻を操作できるので、その
ブログでもできるんだと思うんですが。
私は朝、気になるブログをチェックした後自分のブログを
書いて出社したのですが。
まあ、ブログを見た方に、どちらがオリジナルか判断を
まかせるしかありません。本当にくやしいです。
親子英語のほうのカテゴリからのつながりなので
子供の教育カテゴリとかほかからの読者さんには
わからないと思いますが、私はブログの解釈の責任が
全部読者にあるという人のブログへの応答として、
今回は名前を出したくなかったのでこのような形で
文章にしました。これは私の意見として出したもので、
論争をしようとするものではないのですが、それが
偶然にも誰かのまねをしたような形になっている
奇妙さをそら恐ろしくすら思っています。
だいたいこんな感じです。
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学士程度の知識ですが、私がブログを書く姿勢の背骨になって
いることなので書いてみようと思います。
私が「りんご」と言ったとき、聞き手が思い浮かべるのは、
私が思い浮かべている「りんご」そのものであることは
まずなく、多少違った「りんご」なわけで、私と全く同じ
「りんご」を思い浮かべるのは、私が見たのと同じ「りんご」を
見たことがあって、かつ私がそれを指していることがわかる
場合のみです。しかも、その場合においても同じその「りんご」
に対してどのように感じているか(おいしそうだとか、色がいい
かどうかなど)が全く同じであることはまずありません。
単語ひとつで違いが出てくるのですから、文章ともなると
話し手と聞き手の経験の違いによる解釈の違いというのは
どうしようもなく現れるのだと思います。
私がなにがしかのことを言って、理解されるのは、聞き手の
経験の範囲に委ねられるわけです。私は話し手が聞き手に
完全な解釈を求めるのは無理だと思いますし、聞き手も
話し手を完全に理解しようなどとはできないと思います。
話し手と聞き手の主観の共有された範囲を、間主観性とか
相互主観性(Intersubjektivität:フッサール)というのだと
私は理解しているのですが、聞き手も話し手も解釈というのは
この間に限られることだと思ったほうがいいと思います。
私にすれば、生い立ちの違う人たちがこういった間主観性を
もっていることのほうがありがたいことで、人間という種が
言語を持っているという奇跡的な事実をそれが支えていると
いうことなのだと思っています。
わたしの名前”じょあんな”はヨハネを女名前にしたもので
そのぐらい、「はじめに言葉ありき」という言葉は私に
感慨深いものがあります。
かつ、私は超越を信じるほうで、それはカルトみたいな
ものではなくて、話し手が話したことを聞き手の経験内で
了解するだけでなく、今までになかった新しい考えが
会話や共同生活のなかで生み出されるのだと信じています。
質量保存の法則のように、思想も聞き手と話し手の持っている
知識を超えてなにかが生まれるということはないと信じている
人たちもいて(形而上学とかいいましたか)その人たちに
対して、超越を信じている哲学者などは神秘主義者とか呼ばれます。
間主観性を人間が持っているとか、人間は対話することによって
新しい考えが生み出されると信じていることから私はキリスト教に
関心をもつことになったので、現在キリスト教徒なわけです、
そういう意味では、右の頬を打たれたら左の頬を差し出す人たちの
ようなキリスト教徒ではあまりなかったりします。もちろん
そのようなキリスト教徒を否定しているわけでは全然ありません。
むしろそのような人たちの方が人間を深く知っていると思われる
ぐらいです。
今は右の頬も左の頬も打たれたくないなあという還俗的なキリスト教徒
ですけれど、宗教的理由というのは、人間がお互いに理解できる
ということそのものが神秘的に思えたのと、人間は考えを更新できる
はずだという信念からのものだということです。
健全な対話とは理解する側にすべてを投げ出してしまうような
ものでもなく、話す側にすべてを説明させるよう求めるような
ものでもないと思っています。
私自身は、(ブログではただその日あったことを記録してお仕舞い
にしてしまうこともありますが)なにかを伝えようとするときは
想定される読者の経験しているだろう範囲とできるだけ重なって
理解されることと、新しいことを提案するときも、今読んでいる
読者の経験につながるものであるだろうと思われるものにしたり、
かつ、自分は知ることができないけれど、読者が更に先を行く
可能性を信じてブログを書いているところがあります。
長くなりましたが、私の解釈について思っていることを少し
書いておきたいと思いました。
ちょっと、簿記の勉強とか仕事とか、子供の教育とか、自分の
専攻から離れて長いので、あとで「これ言い忘れた」が出るかも
しれませんが、ふだん毎日のことをだらだら書いているだけの
ようなブログなんですが、実はこんなことを考えて書いて
いたんですよということがわかっていただけるとありがたいなと
思います。
仕事に行く時間も近づいたのでここで終わることにします。
(追記)
この記事書く前に例の地頭塾のブログ確認して更新なかった
ことを確かめたんですが、昼休みに見たら、このブログより
前に、(前日に)このブログと似たような趣旨のことを書いて
いることになっていました。
事実の確認はもうできませんが、くやしく思っています。
たいていのブログでは投稿時刻を操作できるので、その
ブログでもできるんだと思うんですが。
私は朝、気になるブログをチェックした後自分のブログを
書いて出社したのですが。
まあ、ブログを見た方に、どちらがオリジナルか判断を
まかせるしかありません。本当にくやしいです。
親子英語のほうのカテゴリからのつながりなので
子供の教育カテゴリとかほかからの読者さんには
わからないと思いますが、私はブログの解釈の責任が
全部読者にあるという人のブログへの応答として、
今回は名前を出したくなかったのでこのような形で
文章にしました。これは私の意見として出したもので、
論争をしようとするものではないのですが、それが
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