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黒の水引とんぼ   その2

2007-08-06 08:14:30 | ある被爆者の 記憶
  「みんな。ここへ来とうみ。」
 もう子供たちは眠るばかりの時刻だったろうか。どうしても季節は思い出せない。
 外から帰ってきた母が、何やら外聞を憚かる様子で、座敷の中央に座った時、子どもたちは、何事か身に迫る異変を感じた。母がこんな真剣に、しかも、しきりと外を気遣った目配りといい、その外とこの内の母と子ども三人の動静とは関係があるのだなと思うと、体が硬ばって来た。それに気がついてか知らずしてか、兎に角、母は、母鳥が両翼を精一杯ひろげて雛を囲うような具合で、それでいて、無理にでも落ち着くんだと平成を装うから、三和の雛は、この場の空気に会わないような声も問いも発してはならないと思った。ただ首をすくめて、次に聞かれるであろう母の口元を見つめた。
「永松の四郎さんが、なあ・・・。」
 わざと声を押し殺していることによって、詳しい事情はまだ何一つ聞いていないのに、やっぱりと思わずにはいられなかった。いや、そう思うことが、この場のルールのように思われた。
 もちろん、小学四年生と二年生であった私と私の弟とは、そのルールに従いながら、そのやっぱりという感情に符号して、回帰すべき割符を持っているわけではなかった。
 でも、姉のすみ子にはそれがあるらしかった。なぜなら、永松四郎と姉のすみ子とは、四郎が無事除隊でもしてくれば、おそらく似合いの若い夫婦として、順調に祝福される段取りが用意されていたからである。
ー私は今でもそう思っている。もしも、四郎さんが、平時のような三月志願兵であったら、難なく軍隊をつとめ上げて、あの江戸前仕込みのいなせな男っぷりで、またこの田舎町を闊歩したにちがいなかったろうし、その時には、姉のすみ子と評判通り結婚していたと思う。
 しかし、そういう思いが強まる時ほど、その実現には、蹉跌の忍び寄る不安が大きいことを、私はぽつぽつ感じ始めていた頃であった。私が早熟だったからではない。人が幸福になろうとする悲願は人目を憚った私事であり、私事は公事の前にはひとたまりもなく、お日様がが出ると、忽ちにして消えてしまわなければならぬ芝露のようにはかないものと、思い慣らされてきていたのである。
 それが、戦時体制に突入していくその頃の特徴であたのか、あるいは全く別に、日本人特有の体質で、大げさにいえば、お家の一大事好きからくるものか、それとも、日常的にいえば、はにかみやで照れ性の私自身のなす業なのか、私にはまだ分からなかった。
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