昨日 広島より帰宅。
母は驚くほど元気になった。姉が仕事をやめた途端元気になった。という言い方もできるかも知れない。
前にも書いたけれど、母は、母を二度亡くしている。
本当の母親はもの心がつくかつかないうちに亡くなったのだし、二度目の継母は嫁ぐや、義弟を生んでしばらくして半身不随となり、その後寝たきりとなり、母はその継母の介護と農作業で、十代を過ごした。
元軍人の父にずっと仕えることができたのは、そのような苦労人だったからだと思う。
父は横暴な人だった。自分のイメージ通りに奥さんも子供も動くものだと思っているような節があった。ワタシ達は口には出さなかったけれど不平・不満分子だった。食べさせてもらっているから、そのすべてを我慢して生きてきたと言っても過言ではない。特に母と姉。
母はいつも泣いていた。姉さんとも話したのだけれど、
うちが”幸せな家庭”ではなかったことだけは間違いないと思う。
とはいえ、幸せな家庭というのは、簡単に天からポンと与えられるのではなく、それは、まずは夫婦、そして子供が生まれれば、その子供たちを交えての家族が、日々努力をして、譲り合って、許し合って、励まし合って やっと手にいれることができるのだろう。
> もどり 母のこと・・・
元気がよいうちは、誰しも強気でいられる。
母は両足が癌の後遺症のために、右足がおよそ4倍、左足がおよそ2倍にむくんでいることを除けば、その他は普通に暮らしていた。
最近になって、左側の耳は全く聞こえなくなったらしい。
聞こえないだけならいいのだけれど、”ぐわん、ぐわん”と一日中鳴りつづけているのだそうな。以前はせみのなくような音”みーん、みーん”だったのが、今は”ぐわん、ぐわん”という音に変化しているらしい。
同時にそこは、並行感覚を司る場所でもあるために足もとがふらつくのがとても心配らしい。倒れる→骨折する→寝たきり という図式。
「 寝たきりになってから、家族に迷惑だけはかけられんけぇ。」(=寝たきりになって家族に迷惑をかけるようなことだけはしたくない。)
> デイ サービス どうやら、今回の事のきっかけは、デイ サービスでの自分の扱われ方が気にいらなかったようだ。
1、確かに昨年の夏位から、母が体調を崩していたのは事実だった。
デイ サービスでは、要支援1?の母は何がしかの作業をしなくてはいけない。作業といっても、例えば”ひなまつりの色紙作りをする”のだけれど。
途中から、本当に具合いが悪くて、ベッドで休ませてもらいたかったのに、休ませてもらえなかった。( 頑張ってしまう自分がいる。タクシーに乗って帰ればいいのだけれど、多分一人ぼっちで忙しい姉の帰りをずっと待っているのが心細いのだろう。)
母は食事はおいしくいただける。食事が食べられる=元気、とみなされ、要支援1の仲間の人々の輪から一(いち)ぬけすることはできない。(→自分だけ勝手にベッドで休んでいるわけにはいかない。)
年上のおばあさんからは、「 あんたあ 若いんじゃけえ。・・・云々。」「ご飯が食べられるのに、・・・云々。」と言われる。
頭のなかの”ぐあん、ぐあん”は誰にも理解されないのだし、体がだるいのは外からは見えないのだ。
他方、介護1の人は、お食事をしたのちには、ベッドに横になれる。
2、要介護の人には、バスが到着した時点で、車いすなどを用意して係の人が迎えにでる。母は倒れるのがこわいので、手押し車?がほしい。
結局、母は最後の一人になって、仁王立ちして(ひっくりかえらぬように)、係の人にお声かけしてもらうのをまっていた。自分専用の手押し車を用意してくれれば、一番に、誰の手も煩わせず歩けるのに・・。
母「 お金は出すけぇ、私の名前の書いた手押し車を用意してちょうだい。」
他の人に遅れをとりたくない。自分の足で歩きたい。
そこで母は、ここにきて”介護1”認定申請に出かけた。というわけだ。血液検査から何から全身調べていただいたのだけれど、どこにも悪いところがない。
介護1というのは、自分一人で、衣類の着脱ができない程度の人でなければ認定されないし、少々ボケも入っているくらいでなければ、認定はおりない。
姫( 明らか 無理じゃん。はなから わかってることじゃん。)
それでも姉は忙しい仕事の合間をぬって、病院めぐりをしたらしい。母は医者にもわがままを言ったらしい。
母「 はあ、生きちょってもしょうがないけえ、血液を全部ぬいちょくれえ、ほうしたら死ねるじゃろう。」
父がなくなった当初やっていたカラオケも楽しゅうない。テレビもおもしろうない。ただ寝とるだけ。誰にも会いたくない。畑仕事もできない。何もする気になれない。
>>> 母は「 鬱 」に陥ったのだった >>>
言っていることは、矛盾だらけなのだし、傍から見たって、わがまま以外のなにものでもない。それはわかる。
しかし、わがままを言いたいのだ。ずっとずっと我慢してきたのだ、小さい頃から。いろいろなものに耐えて耐えてきたんだ。母はおそらく、子供のころの哀しさを取り返しているのだ。父に仕えた苦しさを取り返しているのだ。
我慢は美徳ではない。”がまん”はいずれ爆発するし崩壊する。
姉は、結局のところ、母の希望を第一に考え、仕事を辞めることにした。
劣悪な労働条件、つまりはパートであるのもかかわらず、夏休み一つもらえない。ぎりぎりの人数でまわしていく。しかも仕事内容はどんどん増えていくばかり。
都会では考えられないくらいの仕事内容、及び賃金。
母「 それじゃあ葬式も出せん。(一人で、責任をもって回していく仕事なので、冠婚葬祭でさえ 休めない。)
忙しすぎて、病気にもなる。」
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< 父が残してくれたもの >
二か所ばかり、雨もりしている場所のある( 実際にポタポタ漏っているわけではない )お家。部屋数 8 。台所 + バス + トイレ 。
父の遺族年金アリ。
女二人が贅沢をしなければ、食べていくことは可能。しかし こんなに広い家はいらない。しかも一階は鉄筋で、簡単に壊すことは不可能なので、売りにだしても売れない。(だろう?)
姉は介護の仕事もやった。頭が良く努力家なので、ヘルパー1級。ケア・マネージャー。介護福祉士・整体師?などなど資格を沢山もっている。
介護ヘルパーとして、様々な老人のおうちを見てきた。
昔、お金もち、只今、動けない老人が住むごみ屋敷も知っている。
時間のできた姉さんは、家中、大掃除をすることにした。つまりゴミ屋敷にしないことを第一目標にしたのだ。ワタシの例の箪笥は自宅に送り返すことになった。
とりあえず、ずっと働きっぱなしだった姉も無理やりみたいな感はあるけれど、自由時間ができた。
去年「 戊 子 」 姉さんにとって、60年に一度回る☆がまわった。納音。(なっちん)
親と自分の通る道が逆になる。親と正反対の場所で生きなさいという意味だ。
反対をどのように考えればいいのか?よくはわからないし、それは姉が考えることだけれど・・・?
いずれにせよ、何時だったか、ワタシがいちょう村に住んで時、マンマミーヤと日々闘っていた時に、姉さんが”実家に帰ってきていいよ。”と言ってくれた。姉のその一言でワタシは本当に救われた思いだった。
お金は大事だし、なくては生きていけないけれど、それだけではない。誰かの、たった一言が聞きたいのだ。たった一言で、人は生かされも殺されもする。
母「 ワシの目の黒いうちは離婚せんとってくれぃ。」 それが、ワタシが嫁に行く時に、母がワタシに懸けた言葉だった。
親孝行とは、親に心配をかけないことだと思ってずっと生きてきたから、それを頑張って、我慢して、守ってきたつもりだったけれど・・・
このたび、そのことを母に言ったら、
母「 ? そんなことを、ゆうたかいね~?わしゃあ 覚えとらんで? 」と言われた。
( あへ~~っ )
って気がぬけた。私が頑なに、がんばって守ってきたものって一体なんだったんだろう?
>>> 父の愚痴話、殿の愚痴話も三山した >>>
父なきあと、「 とりあえず食べていけてええね 」と言ったら・・・
母「 お金だけは入れてくれたけえね。お金入れてくれんかったら、そりゃあ男じゃあなあぃね。」とまで言いきった。まあね、ワタシはそこまではなかなか言いきれないけれど・・・。
> 今の世は・・・
一家に、一人は介護を必要とする老人。一家に一人は引きこもり。一家に一人は精神を患いし者。一家に一人はリストラされし者。一家に一人はシングル。一家に一人は離婚経験者。一家に一人は派遣社員。・・・。などなど・・。
どれかに当てはまっているからと言って、小さくなっている必要はない。只今あるものに感謝して、ないものには目をつぶり、とりあえず前を見て、知恵を出して、一日一日を生きていくしかないな、と思った。
> 帰り道
荷物をもったまま、身代わり地蔵さんに挨拶に行く。お礼を言う。ハンカチでお地蔵さんの全身なでなでする。子供たちの具合が悪いらしい。
そこにいた おばさんが、「 何だかわからないけれど、おかげいただけますよね~。」と話かけてきた。
「 ワタシもそう思います。」 見えているものだけが、あるのではなくて 見えないものだって あるんだ。
父の力強い魂がなかったならば、それを支えた母の姿を見て育たなかったら、ワタシは今頃、寝たきりの、家族にとって迷惑以外の何者でもない、おばはんになっていたと思う。