職場に行くのは、週2日です。
曜日にもよりますが、概ね9時から4時くらいまでです。
その大半を教室で過ごすわけですが、休み時間など合わせて約1時間は、こじんまりした職員室分室が居場所になります。ある日は、同年代の国語の先生とご一緒です。
私は、その先生がちょっと苦手です。けれど、もう3年目になるのでだいぶ慣れてきました。金沢の茶庭で有名な高名なお寺のお住職さまでもあられるので、お話は、自分を高めるためになる、と伺うことにしています。
昨日は本当にそうでした。大大ベテランのこの先生が、新学年度で仰ることは、「なぜ国語を学ぶのか、なぜ国語を学ぶのは楽しいか」についてだそうです。それが一年間のモチベーションにつながるとのことです。
国語の教科書を見せてもらいました。そもそも国語というのは俗称で、今は国語総合という名称です。私はながらく、現国(現代国語)、古文、漢文という風に分かれているのだと思い込んでいましたが、全くそれは私の思い込みでしかありませんでした。
一冊の教科書に、村上春樹が載っているかと思うと、「春はあけぼの、やうやう・・・」のくだり、韻文ですと、若山牧水と新古今和歌集が隣のページに。萩山朔太郎の詩もあれば、五言律詩もある、漱石の「こころ」鴎外の「舞姫」小林英雄の「考えるヒント」もちゃんとあるのは、昔通り。日本語のデバートのようです。なんでもござれ、これが今の高校生には受け入れやすいのなのか、と自分が一層化石化したように思えます。
一方、英語の教科書は、たとえばこんなふうです。
私が高校生だったときは、リーダー、グラマー、コンポジション、といい、グラコンと短縮して読んでいたりもしました。これは普通に週に6時間英語のあった(土曜日は半ドンでありました)頃の普通科のことです。
それが、ほぼ基調をなしていて、コンポがライティングと名前がかわったり、はまだ序の口。やはりいつの間にか総合英語とか、英語表現とか名前をかえながら、基本は昔に近い中身でした。
来年度教科書が全面的に変わります。文科省の指導要綱の根こそぎ改革?です。その前の今年までは、それでもこの10年は同じでした。
それでも教科書の正確な表記は、コミュニケーション英語1とかⅡとかⅢとかになります。リーディングなどの表記は全くありません。
それで、四技能、読む、書く、聞く、話す全てを全うしてゴールです。
文法はどうなるの?過去分詞、仮定法、分詞構文はどうなるの?
一つ例外的にエクスプレッション(表現)という教科書では、作文すること、そのための文法の押さえは入っています。
あとは、参考書がほぼ教科書にとってかわり、高校程度の英語に必要な約束事を網羅してあります。文科省の検定教科書ではありません。
教科書にもいろいろ難易の違いがありますが、単語をいかに多く使っているかが決め手です。
どんどん、求められるゴールは、英語で自分の意見を表すことに向かっています。
いくら難しい長文が読めてもそこから得た知識が読んだ人の新しい見解にヒットしないと、あまり意味がないってことになります。
ですから文学や思想のような従来通りのジャンルは扱わなくなり、自然、環境、科学、スポーツ、心理など日本語でも扱われる関心を持たれる分野へと拡張してきました。
でも、難しいのですね。たとえば、世界の住宅について写真付きで学んでも、そこから、何か発表したいことを思いつく指導までは、とても無理。どう思いますか?という質問が生徒さんには一番苦行らしいのです。おもしろい、自分もやってみた、色が好き、あまり心を惹かれない、など、感じているかどうかわからないのを大人の力で引き出しても捏造に近いです。
どうしたら物事に興味や関心を寄せることができるのでしょう。
まず自分が自分のことを少しでも深く関心を寄せて考えないと、相手のこともわかろうとすることができません。
まして、コミュニケーションは難しい。
「ハロー」「ハウ アー ユー」「ホワッツ アップ」といえばそれがコミュニケーションだといえるはずはありません。
共通の話題で数分会話が続く、あるいは、自分がそれくらい話すことがある、って指導者側の私にも実は自信がまるでありません。
日本語だって容易じゃない。。。
いよいよ老兵は去るのみ、と何度も逡巡した挙句、今年を最後の年にして、できるだけ誠意をもって教壇の毎時間を過ごそう!そう自分に言いきかせての新学期でした。
しかし、言い訳でしかありませんが、ここでもコロナ禍の影響を余儀なくされます。声を出すのは私だけの一方通行で。ペアワークは禁じられ、グループ活動も不可。インタビューテストもプレゼンもできない事例としてお達しが出ています。
できるのは、書くことです。英語を使って、そのレッスンで学んだことを自分の言葉として書かせる、ああなんと大変なことでしょう!
何も思いつかない、という生徒さんがあまりにも多いのを、本当は何かしら意見はもっているのだから、それを引き出そう、それをしていたら、予定時間の10倍はかかります。
日本語で言わせてそれから…という作業も空しいものがあります。
今夜はちょっと手前味噌なトピックになってしまいました。思い煩わないで、明日に備えてまずは早めに寝ることにしましょう。そもそも、右向け右、〇か✖かを問うような迫り方をしてきたこっちに問題があったわけですし、その根も深いのです。
曜日にもよりますが、概ね9時から4時くらいまでです。
その大半を教室で過ごすわけですが、休み時間など合わせて約1時間は、こじんまりした職員室分室が居場所になります。ある日は、同年代の国語の先生とご一緒です。
私は、その先生がちょっと苦手です。けれど、もう3年目になるのでだいぶ慣れてきました。金沢の茶庭で有名な高名なお寺のお住職さまでもあられるので、お話は、自分を高めるためになる、と伺うことにしています。
昨日は本当にそうでした。大大ベテランのこの先生が、新学年度で仰ることは、「なぜ国語を学ぶのか、なぜ国語を学ぶのは楽しいか」についてだそうです。それが一年間のモチベーションにつながるとのことです。
国語の教科書を見せてもらいました。そもそも国語というのは俗称で、今は国語総合という名称です。私はながらく、現国(現代国語)、古文、漢文という風に分かれているのだと思い込んでいましたが、全くそれは私の思い込みでしかありませんでした。
一冊の教科書に、村上春樹が載っているかと思うと、「春はあけぼの、やうやう・・・」のくだり、韻文ですと、若山牧水と新古今和歌集が隣のページに。萩山朔太郎の詩もあれば、五言律詩もある、漱石の「こころ」鴎外の「舞姫」小林英雄の「考えるヒント」もちゃんとあるのは、昔通り。日本語のデバートのようです。なんでもござれ、これが今の高校生には受け入れやすいのなのか、と自分が一層化石化したように思えます。
一方、英語の教科書は、たとえばこんなふうです。
私が高校生だったときは、リーダー、グラマー、コンポジション、といい、グラコンと短縮して読んでいたりもしました。これは普通に週に6時間英語のあった(土曜日は半ドンでありました)頃の普通科のことです。
それが、ほぼ基調をなしていて、コンポがライティングと名前がかわったり、はまだ序の口。やはりいつの間にか総合英語とか、英語表現とか名前をかえながら、基本は昔に近い中身でした。
来年度教科書が全面的に変わります。文科省の指導要綱の根こそぎ改革?です。その前の今年までは、それでもこの10年は同じでした。
それでも教科書の正確な表記は、コミュニケーション英語1とかⅡとかⅢとかになります。リーディングなどの表記は全くありません。
それで、四技能、読む、書く、聞く、話す全てを全うしてゴールです。
文法はどうなるの?過去分詞、仮定法、分詞構文はどうなるの?
一つ例外的にエクスプレッション(表現)という教科書では、作文すること、そのための文法の押さえは入っています。
あとは、参考書がほぼ教科書にとってかわり、高校程度の英語に必要な約束事を網羅してあります。文科省の検定教科書ではありません。
教科書にもいろいろ難易の違いがありますが、単語をいかに多く使っているかが決め手です。
どんどん、求められるゴールは、英語で自分の意見を表すことに向かっています。
いくら難しい長文が読めてもそこから得た知識が読んだ人の新しい見解にヒットしないと、あまり意味がないってことになります。
ですから文学や思想のような従来通りのジャンルは扱わなくなり、自然、環境、科学、スポーツ、心理など日本語でも扱われる関心を持たれる分野へと拡張してきました。
でも、難しいのですね。たとえば、世界の住宅について写真付きで学んでも、そこから、何か発表したいことを思いつく指導までは、とても無理。どう思いますか?という質問が生徒さんには一番苦行らしいのです。おもしろい、自分もやってみた、色が好き、あまり心を惹かれない、など、感じているかどうかわからないのを大人の力で引き出しても捏造に近いです。
どうしたら物事に興味や関心を寄せることができるのでしょう。
まず自分が自分のことを少しでも深く関心を寄せて考えないと、相手のこともわかろうとすることができません。
まして、コミュニケーションは難しい。
「ハロー」「ハウ アー ユー」「ホワッツ アップ」といえばそれがコミュニケーションだといえるはずはありません。
共通の話題で数分会話が続く、あるいは、自分がそれくらい話すことがある、って指導者側の私にも実は自信がまるでありません。
日本語だって容易じゃない。。。
いよいよ老兵は去るのみ、と何度も逡巡した挙句、今年を最後の年にして、できるだけ誠意をもって教壇の毎時間を過ごそう!そう自分に言いきかせての新学期でした。
しかし、言い訳でしかありませんが、ここでもコロナ禍の影響を余儀なくされます。声を出すのは私だけの一方通行で。ペアワークは禁じられ、グループ活動も不可。インタビューテストもプレゼンもできない事例としてお達しが出ています。
できるのは、書くことです。英語を使って、そのレッスンで学んだことを自分の言葉として書かせる、ああなんと大変なことでしょう!
何も思いつかない、という生徒さんがあまりにも多いのを、本当は何かしら意見はもっているのだから、それを引き出そう、それをしていたら、予定時間の10倍はかかります。
日本語で言わせてそれから…という作業も空しいものがあります。
今夜はちょっと手前味噌なトピックになってしまいました。思い煩わないで、明日に備えてまずは早めに寝ることにしましょう。そもそも、右向け右、〇か✖かを問うような迫り方をしてきたこっちに問題があったわけですし、その根も深いのです。
国語も英語も私たちの時とは随分と違うようですね。
国語総合では先生が大変ですね。漢文も古文も全部やらなくてはいけない訳ですから。
英語も総合的に教えると言うことにおいては国語と同じなんですね。
確かに、日本は人前で自分の考えを述べるという教育をしてこなかったようで、それがこれからあると言うのは良いことですが、日本語でも大変なのに英語となったら、余計に大変。
でも力はつきますね。
私は趣味で書くことを長い間してきましたが、一番難しいのは読書感想文。本から得た感動等を人に伝えるというのは本当に難しいです。
それと同じですね。レッスンで学んだことを自分の言葉で書くのって。しかも英語で。
私、今の高校生でなくて良かったかも。
色々考え工夫して、ゴールのないお仕事。なのですねぇ・・・
その大変なお仕事を多年続けておられるぽこさん。
ついに、勇退。を決意されたのですね。
少々早いかも。ですが。御疲れ様。でした。
関心・感動がある限り、コミュニケーションは冴え続けるものだからです。
恰も、他人とのキャッチボールのように思われるコミュニケーションのイメージですが、
実は、はじめに、自分ありき、スタートとして、自分を大事にできるか、自分自身に関心があるかだと思うんですね。
簡単に自分を大切にしよう、とよくうたわれていますが、自分と向き合える人はそういないものだと、これは私の偏見?
自分に気持ちを寄せることができたら、相手にも心を寄せたり、感心がもてる、その必要がなければ距離を置く術を発揮する。
Madonnaさんのユーモアを交えた豊かな感受性をそこここにお見受けして、
これこそ、コミュニケーションの根本の見本なり、と思ってきました。
人はひとり、それだから、他と心を通わしたり、関心を寄せたりするものですよね。
残念ながら、昨今の高校生の中に好奇心旺盛だったり、自分の内なる声を聴きたがったり、人の声に耳したり、そんなタイプがずいぶん少なくなりました。
でも少なくてもいることはいます。
家庭でよく聞く、よく話すしつけをされてきた人たちの中に少なからずいます。
それが欠落していても自らの力で道を見出す人もいます。
高校生だけではなくて、こうして、いつでも、どこでも、その気になれば、コミュニケーション意欲は高められ、一歩ずつ歩みを前へと進めることができます。年齢という強み(負け惜しみではなく)を生かすならもっと!
Madonnaさんが今の高校生になられてもきっと前をむいて、楽しげに、おじけずに、ご自身のお気持ちをしかと相手に渡してあげることがおできになれます。
いつもいつも落ち込むばかりなんです。
それに加えて寄る年波の影響は如何ともしがたく、反応の遅くなった自分の頭、記憶力が加速度を増して減退します。
ただ、「待つこと」は得意技になります。
それこそ経験値といえるのかもしれません。
無言のまま相手の次なる言葉を待つのはけっこう苦しいのですが、そこは意地悪しないで、ちょっとリラックス。
相手の一言を求めてなるべく優しく近づくように、それを心に課して、最後の一年を楽しむつもりです。
福沢諭吉が「学問のすすめ」で、なぜ学問をすすめているのか?
それは、人民が、政府に騙されないようにするために勉強をすることをすすめているそうです。
つまり、福沢諭吉さんは、
明治以降に近代国家となった日本ですが、
その政府と言われるものは、人民にとって不利益なことをやりかねないものだと認識していて、それに騙されないように勉強が必要だとほのめかしているそうです。
(以上本の受け売りです。)
しかしながら、現在学校の方針は政府、文部省が決めているのが日本の現在の状態です。
例えば、
「求められる学力」ということばを文部省が使っています。
しかし、これは誰が求めている学力なのか?
国が?社会が?企業が?
まあ、求めるのは勝手ですが、大変上から目線な印象を受けますし、建前上、国民主権のはずなのに、子供の親一般が求めているのかどうかも、
人それぞれでしょうし、わかりませんよね。
そもそも文部省が親の要望を聞いて回っているとも思えないのです。
それなのに求めているそうなんです。
不思議ですよね。。。
昨今、「コミュニケーション能力」という言葉が氾濫しています。
それは何ですか?といっても、サッと答えられる人は少ないような気がします。
答えもまちまちだと思います。
人によってこの概念は違ってきそうであいまいです。
コミュニケーションは自分と相手が存在してはじめて成立するので、本来、片方側の能力を上げて
どうこうするようなものなのか疑問です。
このようなキャッチーなキーワードを重視する社会、コミュニケーションが重要だと言ったら、国民が一斉にそれに動き出すような雰囲気の国、
(例、
働き方改革→残業代抑制では
AI→AIとて、今までのプログラムの延長では
コロナが大変だ→...
テレワークだ→...
ワクチン→...
)
それは、政府にいいように動かされている可能性があり、福沢先生の言うように気をつけた方がいいのかもしれません。。。
不肖浅学ぽこでは、返答に窮す、とも思いました。
が、ここは、コミュニケーションをひよこさんとは取りたいという常々の思い、願いが強くって、だいぶ拍子抜けの稚拙な意見になるかもしれませんが、コミュニケーションを意識して自分の考えを出していきます。
福沢諭吉、といえば、実は恥ずかしながら、私が彼のすごさを知ることができたのは、ある年教えていた英語リーディングの教科書の中からでした。
こんなくだりを鮮明に覚えています。
福沢諭吉は、眠らなかった、立ったまま柱に背中をつけて、辞書を覚えた、必要に応じて書写もした。
立ったまま目をつむって、数分熟睡、一日に数回それをして睡眠時間を一日一時間弱は合わせてとった。
こうして辞書を覚え、蘭学の実践は日中横浜へ繰り出し、学んだエゲレスの言葉を駆使してコミュニケーションをとり、さらに実学も身につけた。
もちろん、諭吉先生が学ばれたのは適塾、緒方洪庵が諭吉以外にも大村益次郎や橋本佐内等々日本のブレインを輩出したあの学校、私塾でした(大阪)
そこでは、恐らく、諸国から学ぶことは学んで、強国といわれた諸国に追従するのでなく、やがてそれらを退けたいという星雲の志を持った若い力を発揮したようです。
そんな内容を教科書で読み、折から、進学校での授業だったので、私は教育って、学校って本来こんなもの、と熱く語り、生徒さんたち(3年生でした)もたくさん意見を言ってくれた、あの頃が急にいとおしく胸に迫ってきました。
求められる学力は、相対的なものであって、決して上から示されるものであってはならないと私も思います。
できたら、内なる好奇心とか知りたい衝動を育てるものであるべき、、、
ですが、コミュニケーションを与えられてしがみついて、漠としてつかめない目標らしきものを目指すなんて、本来無益といいますか、無意味なのではと思います。
まずは、疑問を持つことですかね。。。
日本丸という船もどこへ何を目指してむかっているのか、地球を守る育てるの方向に気づいている節もありますが、何だかいつも受け売り状態、ああ虚しいです。
ごめんなさいね。返事にならない 悩めるぽこです。
・・・で、国語総合?私も現国世代なので理解不能です。ただ、古文と漢文は履修していません。そこは、将棋の藤井二冠と同じです。
→➡彼は、将棋400年の歴史の中でも、突出した天才です。将棋には棋譜というのがあって、どのような指し手を指したか、すべて残ってしまいます。
江戸時代、最強者の大橋宗桂でも、今ならアマチュア6段くらい?AIで分析すると、藤井さんは羽生さんや大山さんの全盛期より強いです。彼は今、18歳。将棋は数学・物理と同じで25歳くらいがピーク。その後はゆるやかに下降線・・・。まだまだ強くなりそうです。
すみません。いつものひとりごとです。
話は変わりますが、教科書。以前、間違いが6ヵ所ほどあったので直接、文科省の教科書検定係に電話。間違いを指摘すると、逆切れ。。「教科書会社に言ってくれ!」➡アホですね。教科書会社送られてきた教科書を、最終検定してオッケー出すのが文科省の検定官の仕事。もう全国で使ってる教科書だったのです。→翌年、見事に全部なおしてありました。→人間のやることですから、教科書といえど、間違いは、いっぱいあるみたい・・・。
私も現役時代、20~30パーセントは嘘しゃべったハズ。
ここのところ、眠りの時間が足りなくて、その分、起きている(はず)時間の作業効率が落ちている気がしています。
昨夜は私にしては珍しく、12時頃に眠りに就けて4時間は熟睡できました。
ようやく、コメントにご返信する意欲が活性、といっても大したことも申しませんけど(笑)
古文・漢文の履修なしで、大学入試によく立ち向かわれましたね。さすが、なっとうさん!
それに普段から故事成句にお強く、とんでもなく並々ならぬ知識をおすそ分けいただくので、およそ学校で受け売りする教科書からの一方通行的知識は知恵にはならないのだ、と実証を見る思いです。
・・・と自分でも何をぬかしているのか分からないのですけど・・・
教科書のミスをそんなにたくさんご指摘になっても詫びとかお礼とかの一言がなかったのですね。でもちゃんとご注進は聞こえたのですね。翌年には・・・ですものね。
藤井二冠さんのとられた学校への対応は、示唆に富むものです。
本当に特殊な頭の経路は学校教育ではあまり、鍛えることが期待できないことが自明の理となりました。
凡人はまず、小学校入学から気味教育を経て学校でおさえられ、矯正もされて、どんどん面白おかしくない考え方を量産します。
どんなに創造的、次世代対応のブレインを次代に願っても、学校がそれをサポートするどころか、転げ落ちる学力、学びの姿勢を持ちこたえるのが関の山、なかなかこれといって創造・独自の考え方を養う方向には難しい。
コミュニケーション能力を教科書の冠にもってくるなんて、何だか嘘っぽくて恥ずかしい。