田んぼの風景。
秋の稲刈りが終わると、ハサにかけてわらと稲穂を干して乾燥させ、足踏み式の脱穀機で籾を落として、稲わらが残る。
おおよそ、こんな具合だったと記憶している。
籾は莚に広げて天日干しし、精米する。
お米になるまで田植から八十八回も、お百姓の手がかかるから米と言う字があると聞かされていた。
我が家は小作農だったので、わずかな田圃での収穫は知れていたが、今のように機械の入らない人の手で全部やる農作業はは大変な仕事であった。
乾燥した稲わらは束ねて、土間の二階部分(つし)に、入るだけ上げた。
風呂や竈の焚きつけに、一年分は有った。
薪炭は買っても藁は自家のものを使った。
さかのぼって戦時中、祖母は、山へ柴刈にいって、木の葉も熊手で掻き集め、背負って帰って来た。
父も母も、そのころ大陸に行っていたので、祖母と二人きりの時代に育って、いわゆるお婆ちゃん子で、何処へ行くのも付いて行った。
山での柴刈は手伝って、わらの代わりに焚きつけの燃料として補った。
要は、牛馬の飼料になるほど、多量に稲わらは無かったのである。
セシュウムに汚染された稲わらを餌にした牛は全量、国が買い取るそうだが、これも大変なことである。
その昔、今ほど牛肉や、豚肉も食べ無かった時代に育ったものは幸せだった。
自然の中で、衣食住がまかなえて、貧しくても豊かであった時代があったのだ。
テレビも、パソコンも無かった代わりに時間は沢山あった。
娯楽と言えば、村の祭りに芝居小屋が、懸かるぐらいであった。
エアコンは無かったが、夕涼みで充分涼が取れた。
昔を懐かしむ、懐古の情だけで言うのではない。
科学や、機械万能でなく、人間はもっと自然と調和して生きてゆく、生かされている、謙虚な気持ちも必要だと言いたい。