ぽかぽかと行きましょう

急がず、後れず。自分の歩幅でぽかぽか行くようなブログです。

青田のころに思い出す「デンタン」

2011年05月16日 | 少し昔のお話
昭和20年の5月、かなりな上空を一機の敵機があらわれた。
ここ琵琶湖の東部、近江の穀倉地帯は、お国のために増産と、
鏡のように張られた水田には植えられたばかりの早苗がわずかな風になびいている。
なぜか、空襲警報も、警戒警報もサイレンの音をきかなかった。
いつの間にか侵入してきたB25か、B29であろう。上空で開いたのか、ひらひらとそれは沢山の白いものが
舞い降りてくる。
雪のようでもあり、花びらのようでもある。
やがてその白いものは、農家の屋根や水田に、ぴたぴたと落ちて貼りついた。もちろん野道や手元にも落ちてきた。
白い紙に日本語で、今、戦争をやめれば日本国の国民や、天皇陛下も安泰である。
皆さんは速やかに戦争をやめましょう。といったようなことが印刷してあるとのことだった。
警察から、連絡がありその紙には毒が塗ってあるかもしれない。全部残さず拾って駐在所に届けるようにとのお達しである。
大人たちは、田圃にも入って忠実に全部拾った。
あれが、紙きれでなく、爆弾だったら、新型爆弾だったらと、戦争が終わってからひそかに思った。
その紙きれが、「傳箪」(伝単)である。
「伝単」は、宣伝ビラのことであり、今で言うチラシである。
戦時下では、敵国語は使わないのでたとえば、サーチライトは、探照燈。 このチラシは、したがって、「伝単」となる。
片仮名表記の外来語は、すべて敵国の言葉だった。
ただ思い出すのは、今頃の水田を見ると、ふと「伝単」を思い出すのである。


庭で飼ってた鶏

2011年01月29日 | 少し昔のお話
自分の子供のころは、鶏は庭で飼っていたので、ニワトリと言うんだった。
今は、ブロイラーようで、鶏舎で飼われ、まるで工場で生産されるタンパク質にすぎないが、何万匹いても命ある生き物だ。
その生きもののお蔭でわれわれの命をつないで貰っている。
それが、鳥インフルにかかると伝染防ぐのに全部殺処分される。
鳥でなく人間であったら、伝染病にかかって全員処分されて虐殺されることはない。
かっての、ナチスのガス室送りようなものだ。
いずれ、食卓にのぼる鶏にしても、大量に命を葬ることは養鶏農家にとっても、私たちも大変つらいことだ。



クリスマスなんて、なかったが。

2010年12月24日 | 少し昔のお話
子供のころクリスマスって聞いたこともない。
日本はアメリカと戦争していたから、知る由もない。
戦争に負けて、国民学校が小学校になり軍国の少国民は、民主主義教育を受けるようになる。
敗戦、終戦で一変した生活の村にキリスト教の宣教師の人たちがやってきた。
商家の屋敷に、欧米各地の10人ぐらいの宣教師からなる世界伝道教団が出来て日曜学校が開かれた。
子どもたちは、英語を教えてくれるというので、日曜日に集まった。日系2世の人が助手で生の英語に接することができた。
英語の後は、聖書のお勉強で聖書のキモを覚えた。
そして、キリストの生誕祭クリスマスがやって来た。そこで聖書の劇を子供たちで、やらされて何故か自分は「迷える子羊」たち、鼻の下や、あごに白い綿を糊で付けて羊のひげだ。
その他大勢の役で、主役の子は誰だか覚えていない。
聖歌は「ジョイ・ツウー・ザ・ワールド・・主は来ませり~」
これが人生最初のクリスマス。もちろんクリスマス・ケーキもギフトもない。まじめなクリスマス。

宣教師の人たちは、布教に努めたが、誰も洗礼を受けてクリスチャンになる人はいなかった。
村は、先祖代々の仏教徒ばかりで、子どもたちも土曜日の夜はお寺に集まってお経を諳んじた。

今は、クリスチャンでなくても教会で結婚式をあげたり、クリスマスを祝ったりする。
異教のお祭りとは、誰も思っていない。不思議な日本人だ。



富士山山開き

2010年07月01日 | 少し昔のお話

28歳の時、会社の連中と富士登山をした。

45年も前のことで、記憶がうすらいで、はっきりしない。

登山の途中から寒くなったが着込んでいったので良かった。帰りは都内に戻って同じ服装でバスに乗ったが、汗ぐっしょりになったことだけ覚えている。

ご来光とか山小屋とかのことは印象が残っていない。

もう一度登ってみたいと思いつつ果たせないでいる。

今日は七月一日で、夕刊に富士山の山開きの写真を見て思い出した。

今月は、自分の誕生日の月で何かと気持ちを切り替えて進みたい思いだ。

明日の半夏生(暦の雑節だが、ハンゲショウで一発で変換しない)の次が三日で、お生まれになった日である。暑いのに、良く産んでもらったものだ。母に感謝。


桜田門外の雪

2010年04月17日 | 少し昔のお話

朝の雪にびっくり。

季節はずれのおそ雪。

屋根も、木々も、車も雪化粧。

でも、桜田門外で、井伊大老が暗殺されたのも雪の朝の登城で。

三月三日は旧暦で、今の暦では四月十六日。旧のひな祭り。

あの頃は、今頃でも普通に雪が降っていた?

おそ雪とびっくりするに当たらないのか。

今日も桜田門の警視庁の前は、雪景色。


「火の用心」の言葉。

2010年04月14日 | 少し昔のお話

近年「火の用心」の言葉を、あまり聞かなくなって、火災による事故が多くなった気がする。

子供のころ、拍子木を打ちながら、「マッチ一本火事のもと、火の用心、火の用心。」と夜回りをして歩いたのは昔ばなし。

火の不始末が無いよう日頃から心がけて、さらに「火の用心」の言葉で、火のもとを確かめて就寝したものだ。

現代は、24時間誰かが起きて働くなり遊ぶなり、飲み明かすなりしている。不夜城の都会では夜と昼の区別はない。

ここにきて、マッチならぬライターによる発火事故での火災がクローズアップされている。

ガスコンロにしても、ストーブにしても、火を点けた人が責任もって管理すれば問題はない。

昔あった寝タバコも少なくなっている。

車の中のダッシュボードに入れてあったライターとか、引き出しやポケットの中での発火、炎の調整の効かないライターの火が衣服に燃え移るとか、車に幼児を残して降りて、子供がライターで火遊びしたなど、想定外の事故らしい。

「マッチ一本火事のもと」から、「ライター一個、火事のもと」に唱える言葉もかわるのか。

不便が、便利になることは、両刃の剣だ。

戦中戦後、と言っても60年余も昔、マッチが欠乏して、代用したのが「付け木」。

硫黄を溶かして、経木の先につけ、火鉢に埋もれている火種で火をつけ竈の薪に移して、飯炊き、煮物をした。

簡単に火が使えないので、火を大切にした。

あらゆるものが、便利すぎて、物を大切にしない風潮になってしまった。

最後は、自分の命まで大切にしない。年々自死が増えていると言う。

医学が発達して、たいていの病気は治ると信じ、不節制を繰り返し生活習慣病に陥る。

用心、要慎、日々要慎!


ハニホヘト、イロハ

2010年04月02日 | 少し昔のお話

ドレミファソラシドは、敵国語ということで、国民学校(戦時中の小学校)では習わなかった。

代わりに、ハニホヘト イロハで、音楽を習った。

五線譜に、音符は一緒だが、ハニホヘトがドレミファソだった。

そのせいで、音楽は分からないまま、今日に至る。

軍国の少国民は、軍歌が歌えればそれでよろしかった。

日独伊の三国同盟で、プロパガンダ(軍の宣伝)は、日本の軍楽隊もドイツや、イタリーで演奏会をやっていたので、譜面はドレミファだったはずだが。

国内の音楽教育は、戦争一色でほとんど無かったように思う。

カラオケも歌えないのは、戦時教育とは別だと思うが。


東京大空襲

2010年03月10日 | 少し昔のお話

そのとき、父は蒲田の軍需工場の工場長として、オーナも皆疎開して留守の工場を、女子社員と二人きりで守っていた。

遠くの方から、ズドン、ビリビリと爆撃の音が近づいて来る。

そして、工場の真上で直撃弾の落下、ものすごい轟音で、もはやこれまでと、身をこごめていた。

やがて爆撃もおわり、我にかえったとき、周りを見回すと大きな穴がそこかしこに、穴と穴の間で助かっていた。

当時の蒲田は、沼地跡で地盤が軟らかく、直撃弾が屋根を突き破り、爆発もせずに地中に穴を開けて めり込んだのだった。

恐怖の爆撃から、まさに九死に一生を得て父が田舎に帰ってきたのは、それから間もなくであった。

昭和20年八月十五日は、田舎の隣家で、父は終戦の玉音放送を聞いて「日本負けた!」と大声で叫んで帰ってきた。

その後も、ズドン、ビリビリの空襲体験は、毎度、口をついて出て聞かされた。

恐ろしい体験は、死ぬまで消えずに残っていたに違いない。

今日、3月10日は、東京大空襲の日。


今日は曇り空の成人の日

2010年01月11日 | 少し昔のお話

吾輩の成人の日は、1957年(昭和32年)じゃった。

この年、岸信介内閣が2月に成立し、世の中「神武景気」から、「なべ底不況」へ向かう。

戦争が終わった年の1945年から、(干支の酉年から酉年へ一巡)12年しか経っていなかった。

まだ今のような成人式はなかったように思う。

店員30人余りであったが、成人を迎えたのは自分ひとりで、お店の二階の食事場(食堂では無い)のちゃぶ台で、女性社長(当時奥さんと呼んでいた)から、おかしら付きの小さな魚で、一合とっくりから、お猪口についでもらったお酒で、「成人おめでとう」と祝ってもらった。

10月には、ソ連のスプートニク第一号が成功し宇宙時代の幕開けとなった。

流行りの歌謡曲は、三波春夫の「チャンチキおけさ」、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」、石原裕次郎の「俺は待ってるぜ」「錆びたナイフ」。

それから浜村美智子の「バナナ・ボード」は賑やかであった。

そんな時代であった。

高度成長の時代はそれから更に5・6年経ってからである。

*****

祝日は、昔の暦通りの日の方が、晴天であることが多かった。

一月十五日の成人の日を、連休にするために土日にくっつけた今の祝日法は自然にそぐわず、どうも曇天や雨雪になりやすい気がする。

十五日正月とか、小正月とか農耕に根ざした祝い日に、成人の日がある方が自然ではないか。

一生一度の成人の日は、無理に連休にするから、成人になったばかりの若者が暴れる荒れた成人式になる。(注:今年のような不景気では、暴れるような無分別な新成人はいなくて幸いでした。就活でそれどころじゃないのでしょう。)

連休の遊興と、お祝い事は分けて行うものだ。

連休による経済効果も考えてのことらしいが、物事のけじめをつけられる成人を育てる教育効果の方を考えてはどうか。


この前の、東京五輪は1964年でした。

2009年10月03日 | 少し昔のお話

東京オリンピックは、45年前の昭和39年(1964年)でした。

今度、招致出来ていれば52年ぶりになるところでしたが、初の南米大陸でリオデジャネイロでブラジルに決まりました。リオさん、おめでとう。

45年前は、日本も戦後19年で苦難の復興を超えて上り坂でオリンピックを目標に東海道新幹線や、高速道路など出来て日本中が沸いていました。

今の日本はと言うと、下り坂で疲れきって東京にオリンピックがやってきたら東京都民も、国民も玉砕するところでした。

招致に向けて頑張った方々には申し訳ないが、あまりにも日本の実情を知らない「ノウテンキ」でございますよ。

経済効果が、あると言うことですが、重い病気にかかっている日本経済には、効果は愚か破たんの道を転がるだけで御座いますよ。

日本経済の病気を治してから、そして経済ばかりでなく様々の問題を解決する方に五厘のお金をまわしたらどうですか。

少子化に、高齢化の日本は、老人パワーで「シルバーピック」でも開催して世界中から元気なお年寄りを集め60代、70代、80代と年代別にスポーツを競えばよろしい。

メダルは、銀、プラチナ、パールで順位は関係なく「頑張ったで賞」。

危ない時は、早めにドクターストップを。

長寿も、元気で長生き出来て初めて長寿と言えるのですよ。