手元にあるもの、身近な物を味わって楽しもう。
もう苦労して、手のとどかないものを無理して引き寄せようとしないでも、人生に必要な物は自ずと向うからやってくる。
宇宙船の中で浮かんで生活しているように、融通無碍な生き方もある。
あきらめたのでは無い。
無重力の中で、ふわふわしている物は手元にあるときに楽しみ味わえばよい。
手から離れると、少しかなたで浮いている。
これが、地球上に重力があって、固定してしまうから不自由が生じる。
重力のせいで私有財産があり資本主義があり、格差が出来る。
そして、すべての物に価値がある。誰が決めたか知らないが物には価値があることになっている。
需要と供給の具合で価格は変わるが、価値はすぐには変わらない。
一方、俗にお宝と言う価値もある。Aさんにとっては大切なお宝も、Bさんにとっては無価値な物もある。
有名ブランド品なるものは、極上品で信仰に似た価値があっても、量産されれば実用的にはコピー商品や偽ブランドと変わらない。
黄金や、ダイヤモンドのように絶対的な価値の物もある。
しかし、近頃の時代には、衣食住すべての物の価値が揺らいでいる。
価格が変動することは、経済の動きで変わるのはやむをえない。時価といわれて納得もする。
価値そのものが、入手したときとの価値は多大でも、手から離れるときは無価値となり、ゴミであり、粗大ゴミであり処分にお金がかかるほどである。
エコとは、どこ吹く風か。
かって、すべての物が職人さんの手作りか、手作りに近い物であった時代は、大事に修理したり磨いたりして永く使ったものだ。
一生物か、代々受け継いでお正月に顔を出す塗り物のお重のような物は、すべて本物の価値があった。
価値あるものを大切にする日本古来の風習が消えた今。
本当の価値を見極められ無い今。
価値を信じない、あるいは信じられない今。
何をよりどころに、価値が存在するのか。
どれもこれも、無価値として壊され押し流されてゆく。
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汗牛充棟の書も、処分となれば、運賃払って持って行って貰う無価値さ。
ガラクタとともに、燃えないゴミとして投げ捨てられるかも知れない名曲のCDやレコード。
みんな手元にあって、古典の読書や、名曲の鑑賞を楽しみ味わえる物ばかり。
新たにお金をかけなくても、十分に楽しみ味わうことが出来るではないか。
金銀財宝が山とあることが、生きる楽しみではない。
いずれゴミやガラクタとして消えうせる物ばかりではないか。
人それぞれ大事にしているものが、手元に有るであろう。
それは、身近な家族であり自分自身の健康であり、目を転じて小さな庭の自然であったり、まあ何と可愛い手作りの飾り物であったりするのだ。
何事によらず身辺を見つめなおすことにより、愛し慈しみ大切にし加えて楽しめる物、価値あるものがいっぱいあるはずだ。
(汗牛充棟=カンギュウジュウトウ。蔵書が非常に多いさま。車に積めばそれを引く牛が汗をかき、家の中に積み上げれば、棟木に支えるほど。との意味)