何でも、うなぎを食べなければならない。と言う事ではない。
産地偽装で何処のうなぎか分からない物を食べる人が居たからだ。
昔はドジョウでも、うなぎでも、家の前の川でとれたのを、裂いて食べた。目の前が産地だった。
何でも、うなぎを食べなければならない。と言う事ではない。
産地偽装で何処のうなぎか分からない物を食べる人が居たからだ。
昔はドジョウでも、うなぎでも、家の前の川でとれたのを、裂いて食べた。目の前が産地だった。
今日は、根津神社(東京文京区)のつつじ祭りに行ってまいりました。
躑躅(ツツジ)の花は丁度盛りで、燃えるような赤い花のこんもりした小山の重なりが見事でした。つつじ祭りの中日で、寄進された人々で式典が行われていました。
五月に入るとつつじ祭りも、後期に入り花の賑わいも衰えてくるものと見られます。
長寿社会も、高齢者の括りの中で、前期、中気、好期の三段階に勝手に、GO-ごォー。
コウキコウレイシャは、元気であれば好期好麗奢と読み替えて、「老いて益々盛ん、医療制度何するものぞ」と行きたいところですが。
75歳以上、1千万人以上の人たちが全部元気で医療が必要でないと言うわけにはいかないのですから。
後期だからといって、医療切り捨てられては困ります。聞くところによると、終末医療を抑制しようとの政策という。医学が発達して延命の為にはあらゆる手立てが尽くされるようになり医療費が増大するからだそうです。
さて、吉天の子供のころは、村に一軒か二軒のお医者さんが頼りで、どんな重病人も、定番の治療で済まされました。
お医者さんに、往診を頼むと、大きな革鞄と、看護婦さん(いま、看護士というらしい)一人。あるいは先生一人で、自転車で来る。
診療が終わり、洗面器で出した井戸水でさっと手を洗い帰る。
あとで、家のものが診察料と薬代を持って届ける。
(ここで問題)もう一つ一緒に届けるものは?
(答え)御菓子料と書いた金封。
貧富に関係なく、風習として菓子料を添えた。
健康保険が無かったので、診察料、薬代、そしてこの菓子料は実負担。
たいてい、病名も治療も単純で治るか、死に至るか何れか。
そうそう、命日や月参りで寺のお坊さんに来てもらって、仏壇にお経を上げてもらう時も、お布施の他にお菓子料の金封を添えた。
菓子料は、伝統的な風習によるもので、賂ではない。
そして、菓子料の金封の中身の金額の多寡は、貧富でなく家の格で決まっていたようだ。
病人は、自宅の畳の部屋で布団を敷いて寝ていたので、死ぬときは「畳の上」で死ぬのを理想としていた。
今のように、病院のベットで呼吸器やチュウブをまとい、計器に囲まれ数度の手術をくり返し集中治療室で、薬石効無く死ぬのを待つ事態を当時の人は想像だにしなかったであろう。
当然平均寿命も短かったので、後期まで生き残る人は古来稀として七十歳は古稀という。
今は、畳の上で死ぬ人は、10%ぐらいか。
もう知っている人も、少なくなったと思うが、戦時中バスの燃料ガソリンが無くて、木炭バスが走っていた。 バスの後部に真っ黒いタンクをしょわせ、薪を7,8センチ大に切ったのを燃やせて煙をはいて走った。
時々エンストするので、乗客は降りて皆でバスを押してエンジンが再びかかるのを待った。運転手は、ボンネットの前で曲がった金具を差込み必死にまわし、ゴトゴトとエンジン音がして発車オーライ。
一方、食糧とて充分にないので、もちろん「バイオエタノール」のような代替燃料の発想は無い。
軍用機のガソリンの補いに、銃後の国民は山へ入って「松脂(まつやに)」をとった。松の木に、ゴムの木からゴムを採取するような傷をつけ、脂(やに)が垂れてくるのが固まったのをとって供出した。
今日の朝日新聞の天声人語のとおり、食糧をバイオ燃料に変えてしまっては、食品の物価が高騰し台所事情が苦しくなる。
これも昔の「エンゲル係数」を再び持ち出さなくてはなるまい。
(人間の考えることは、利口なようで本当はお馬鹿さん。)
「エンゲル係数」=家計に占める飲食費の割合。この係数の割合が大きいほど貧困度が高いとされてきた。
父は、生涯にわたって、東京空襲の話を致しておりました。
「ズドーン。ビリビリ。ズドン、ビリビリ。ズドンビリビリ!」と空襲警報発令のサイレンと同時にB29の爆撃がはじまり、遠くから来たのが、すぐに直下になり、ズドン、ドン、バリバリと頭上に投下された爆弾の恐怖は生涯ぬぐえなかったのです。
折あるごとに、家族や親戚、知人や皆に語っておりました。
父は、何度も九死に一生を得る目に会ってきましたが、この時ばかりは生きた心地のしない恐ろしい体験だったと存じます。
昭和19年最後の連絡船で、中国大陸から日本に戻り、すぐに東京は蒲田にあった親戚の経営する電機メーカー(軍需工場)の下請け工場で、名目は工場長でも留守番のようなことになっていたのです。
昭和20年3月には、オーナーとその一族は、伊豆の方に疎開して誰も残っていなく、社員や工場の技術者たちもほとんど戦争にとられ、事務職員の女性と父だけが工場を守っていたそうです。
そしてむかえた、3月10日の空襲です。
逃げるにも、絶対安全という場所もなく、運を天にまかせて、ただうずくまっていたそうです。激しい爆撃のあと、お互い生きていたこと確認しふらふらと立ち上がり周りをみると、直撃弾が穿った大きな穴と穴の間にうずくまっていたのだそうです。
蒲田は、もともと埋立地の湿地帯で落ちた爆弾も破裂する事なく土中に不発弾として潜り込んだようでした。
レンコンを輪切りにしたような、穴は工場の敷地にそこかしこに開いていて、穴のふちにいても、爆発する事のなかったお陰で助かりました。
父は63歳で他界するまで、3月10日の東京大空襲のこの話は、恐怖の反面、生きておられたことの有難みもこめて皆に語っておりました。
「水」
昔話>桃太郎だったか、お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に・・・こんな始まりで、大きな桃がどんぶらこ、どんぶらこと流れてきて、物語となる。
吉天が子供のころ、お婆さんが川へ洗濯に行くのに一緒についていったことじゃ。お爺さんがいなかったので、お婆さんが山へ柴刈りにも行ったのじゃ。言ってみれば、今から六、七十年前、吉天の家は桃太郎の時代と同じ生活をしておった。
そのころの日本は、観光地でなくても、どこでも田舎は山紫水明の地じゃった。
小道を通って、竹薮を抜けて行くと、そこには滾々(こんこん)と、きれいな湧き水が流れ出る小川があって、ちょうど人一人のれる石の足場が、格好の洗濯場となっていた。
大きな桃が流れてきても何の不思議もない情景の中で、お婆さんは洗濯板に洗濯物と石のように硬い石鹸をこすり付けては、濯ぎ、 しぼって、ブリキのバケツに入れ持ち帰り、庭先の竹竿に干した。
湧き水は冬温かく、夏冷たく きれいであった。
「湯水の如く・・」の言葉どおり豊富な天然の水はいくら使ってもタダだった。
また、大きな家では、前を流れる川から塀のうちに取り込んで、洗濯も、茶碗や食器類の洗い物、野菜物もみんなその川戸で洗っていたが、川上も川下もなくすべて水に流してきれいになった。
今どきのように、油物や、合成洗剤もなかったので、生活用水と言っても、川上から川下に行くまでに浄化されて問題がなかったのでありましょう。今でも不思議に思うのは、川上で赤ん坊のおむつ(布おむつ)を洗い、川下の家で野菜物を洗っていたことだ。もちろん飲料水は、井戸水でしたが、農薬や、工業廃棄物がしみこむ事もなかったので安全でした。
このように、「水」は天然自然の恵み物で、空気同様に有難いとの意識もなく生活いたして居ったのです。ただし、田畑の水は、農作物の生育を左右するので、時に水争いが起きる。「我田引水」とは、文字通り我が田に水を引く事で、自分の都合の良い方向に話を引き込む事に転じた。
水も空気も汚染されるようになったのは、文明や科学が進んだごく最近の事で、長い桃太郎と同時代を生きてきた吉天爺の幼少のころにはもう戻らん事じゃろう。
「水」について、「少し昔の話」じゃった。
「は~るのおがわは、さらさらゆくよ~・・」 ほうけた爺さんが唄って居るでよォ。
ついつい同じ話を 同じ人に聞かせることがあるらしい。
「この前聞いたよ」身内や親しい人は、はっきりそう言ってくれる。
ところが他人様は「また言ってるよ」と心の中で笑っているかもしれない。それでも初めて聞いたように取り繕ってくれる。
そこで吉天爺は、話の前に「この事は以前にも話した事があるかもしれないが。」と枕を振ってから話し出す。
年寄りの繰り言とも言われるが、くり返しくり返し事あるごとに、テープレコーダーの再生のように、同じ話が同じように話す事が出来る。
同じネタで しかも昔のことが多い。
吉天も、幼少の頃から、祖母に祖父の日露戦争に騎兵として出陣し馬のお陰で生きて戻れた話を良く聴かされた。
吉天の生まれる前のことばかりで、明治、大正、昭和初期までは、祖母の話で、インプットされている。
祖父の騎兵として斥候に出て、馬のお陰で生還できた話は自分でエッセイにして、司馬遼太郎先生に書き送ったところ、丁重なお返事をいただいた。
古代、文字がもたらせられる前は、語り部が語り継ぎ歴史が伝承され、文字や漢字が入ってきて初めて古事記や、日本書紀ができた。
2月11日は、建国記念日であったが、かっては紀元節として祝った。
ことしは、紀元2667年(皇紀)。西暦遡ること、660年も前に日本の国ができた事になる。
元はと言えば、語り部のお陰である。
加齢によって、くどくどと昔話をするのも、語り部の遺伝子のなせる業である。年寄りを馬鹿にしないで、長老の話としてよくききんしゃい。
以前介護予防で、回想法についてふれましたが、認知症の予防に、昔の事 回想して役立てようと思い立ちましたよ。つまり自分自身の「ボケ防止」じゃて。
他人様には認知症と言う言葉をあてるが、自分自身にはボケで十分。昔使えた言葉が今使えない不自由を何とする。
余談はさておいて、回想と言うことで、少し昔のお話をしてみよう。
今回は「灯り」についてじゃ。
そんなに遠くない昔ながら、今の生活しか知らない人にとっては江戸時代にタイムスリップしたように思うかも知れない。
父と母は、大陸に渡っていたので、祖母と二人で、つまり「おばあちゃんっ子」で育った自分は昔の暮らしが思い出の主たるものある。
夜 隣の村(今は○○町と言う)へ行くのにも街灯はない。
星月夜はまだしも、夜は真の闇、そこで祖母は定紋入りのちょうちん(提灯)を出してきて、ろうそくに火をともしそれを灯りとして、とぼとぼと隣村の親戚へ、ふたりで行ったものでした。
提灯とろうそくとマッチは、セットで身近に置いてありました。
懐中電灯なるものも、ありましたが電池がないと無用のものでございました。
家の中も、電燈はありましたが、電気は定額制で、一灯のみで茶の間だけ照らす40ワットぐらいでしたか。コンセントがないので、松下さんが開発した二股ソケットで、他に引いて使いますが規定以上の電流が流れると安全器のヒューズがとんで真っ暗になります。
そのかわり定額制で一灯のみですから、昼間もつけっぱなしでも料金は変りません。
茶の間以外は、すべて夜はろうそくの灯りが頼りです。
風呂場、水屋、お手洗い(便所)その他は、粗末な燭台か、かまぼこ板に釘を打ち付けた ろうそく立てで灯りを持ち歩きました。
そのうちに、戦争が激しくなって空襲が予想されるようになると、灯火管制が敷かれ、一灯だけの灯りも、電燈の周りにボール紙や布で覆いをつけ、光が外に漏れないように致しました。確かカーテンも黒い布に変っていました。
白壁の土蔵も墨で黒く塗りました。もっとも我が家には土蔵はなかったのでその必要はありませんでしたが。
アメリカのB29が、本土に飛来しても田舎は素通りして、名古屋などの都市に向かいました。そして名古屋の空襲が始まりますと、名古屋方面の夜空が真っ赤に燃えて、爆撃の凄さが近くのように思え震え上がりました。
敵機襲来、空襲警報のサイレンが鳴り響くと、最初の頃は、B29 にむけて、探照灯(サーチライト)をあて高射砲で応戦しょうとしていましたが、高度が高く、高射砲の弾も届かなかったようです。今の宝くじほども、当たらなかったのではないでしょうか。
現代のイルミネーションやネオンサインいっぱいの繁華街は、私達や子供達から、星空を奪いました。
銀河なんてどこにあるのでしょう。
今宵おもてに出て、 千葉の田舎から、東京の夜空を窺うと、かっての空襲の時のように真っ赤に照り映えています。
「長者の万灯より、貧者の一灯」 ちょっと意味は違いますが。
われ心に一灯をさげ夜道を行く。
地球温暖化防止、省エネ、京都議定書よりも、子供達に満天の星空を返えそう。
「灯り」について考えるでした。