アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

イスラムの聖女ラービア-3

2023-09-14 06:28:17 | 人と神の「実際のところ」

◎天国と地獄を超えて

 

『伝えられるところでは、ある日町の名士たちの集団がラービアのもとにやってきた。ラービアは、そのうちの一人に尋ねた。「あなたは、神を何のために崇拝するのですか」

その一人はこう答えた。「七層の地獄は壮大です。 そして誰もがその前を通過せねばなりませんが、恐怖のあまり、上首尾に通れないのです」

また、ある者はこう言った。「天国の位階は優れた位を持ち、大いなる安らぎを約されております」

ラービアが言った。「自らの神を恐怖ゆえに礼拝したり、見返りを欲して崇拝するとは不届きな下僕です」

すると彼らが尋ねた。「あなたは、なぜ神を崇拝するのでしょうか。あなたには天国への願望がないのですか」

ラービアが言った。「家を求めるはずなのに、まずは隣人を知り、それから、家そのものを求めよ、と言うのですか。私には、彼を崇拝するということだけで充分ではないかと思われます。天国や地獄がなければ、神を礼拝してはいけないのでしょうか。理由もなく、直接に、何の介在もなしに、 彼を崇拝することは間違っているとでも言うのでしょうか」』

(イスラーム神秘主義聖者列伝 ファリード・ゥッディーン・ムハンマド・アッタール/著 国書刊行会P73-74から引用)

 

この地獄が現実界に実現したような時代に生きることは、生きづらいものだ。だから地獄をなるべく避け、天国的なものを希求しつつ生きるのは当たり前のことである。ところがラービアは、地獄の恐怖を緩和し、天国的なものを促進してくれるから神を崇拝するというあり方は、ちょっと違うのではないかと云う。

ラービアは天国と地獄を超えた先に神を見ている。

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イスラムの聖女ラービア-2

2023-09-13 06:40:14 | 人と神の「実際のところ」

◎神に愛され、神を愛する人びと

 

『愛について問われたラービアはこう答えた。

「愛は、始まりなき永遠から出て、終わりなき永遠へと向ったが、一万八千世界に、一人として、愛の果汁を一滴だに飲もうとする者は現われなかった。 最後に、愛は神にまで達し この言葉を残した。すなわち、“神に愛され、神を愛する人びと“〔コーラン第五章五四節〕』

イスラーム神秘主義聖者列伝 ファリード・ゥッディーン・ムハンマド・アッタール/著 国書刊行会P69-70から引用)

 

神あっての人であり、人あっての神。迷いあっての悟りであって、悟りあっての迷い。

有史以来一人として、愛の果汁を一滴だに飲もうとする者は現われなかったとは、生もなく死も無く人もない永遠不壊の世界のことであり、それはかえってすべての人は愛に生きているということ。

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イスラムの聖女ラービア-1

2023-09-12 06:27:52 | 人と神の「実際のところ」

◎何事も二つに分かつ不和の心

 

8世紀イスラムの聖女ラービアの言行から。

『伝えられるところでは、ある日、ラービアが四ディルハムを人にやって、「私に安手の毛布を一枚買ってきておくれ」と言うと、その者は「色は黒ですか、それとも白ですか」と尋ねた。ラービアは、即座にお金を取り返すと、チグリス河に投げ捨てた。

「まだ買ってもいない毛布のことで、黒か白か、いずれかでなければ、という何事も二つに分かつ不和の心が現われたとは」

 

伝えられるところでは、春になっても彼女は家に籠ったきりで外に出てこなかった。召使がこう語りかけた。

「御主人様、天地造化の妙を御覧になられては」

ラービアが答えた。

「あなたの方こそ中に入って、造物主を見るといい。私は、創造主そのものを真近に感得することで、造化の妙を思念することから遠ざかるのです」』

(イスラーム神秘主義聖者列伝 ファリード・ゥッディーン・ムハンマド・アッタール/著 国書刊行会P70-71から引用)

 

最初の毛布の話では、選り好みをする心が問題になると見て取って、お金を取り返して、チグリス河に投げ捨てた。弟子、あるいは下僕の回答が気に入らないから腹いせでお金を捨てたわけではない。求道者であった弟子、あるいは下僕に言って見せたのだ。

次の創造主そのものを真近に感得する話では、観想法などで創造主を思念することと創造主そのものを真近に感得することの優劣を述べている。

いずれも自分と創造主は別だが、距離の遠近はある。だが、ラービアは、別のところで自分と創造主との距離がない境地も明かしている。

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天消地滅-神人合一-2

2023-09-02 03:18:54 | 人と神の「実際のところ」

◎真心をささげて神さまに溶けいる

 

出口王仁三郎の、人が神さまを恋い慕い、神さまも人を愛することの別の説明。

 

『信仰は恋慕の心であるということは、かねて『霊界物語』その他で示されているが、その恋慕の程度のいかに切実なるものであるかを、多くの人はしらない。これを一つの理想くらいに考えているのだから、だめである。そんなものではない。

渾身の真心をささげて神さまに溶けいるとき、それは相愛の男女の抱擁に幾十倍するかわからぬほどの、心からなる幸福を享受するのである。天消地滅どころのものではない。じっさい筆や言葉ではいいあらわすことができない底のものである。思うてもみよ、相手は至純至美なる神さまである。

純潔なる処女を形容して天女のようだとよく人がいうが、どうしてどうして、比較にもなんにもなったものではない。現世の美と天界の美とは標準がちがう。ひとたび天人、天女の相貌に接したものは、現界におけるどんな美人を見ても美男を見ても、美しいとは感じられない。それはあたかも太陽の前の電灯のようなものである。また美女の形容に、竜宮の乙姫さまに金覆輪をかけたような美人などというが、天人界にくらぶれば、竜宮界の美女たちは、その気品においてとおくおよばないものがある。天人界はじつにじつに美しいものである。

ふたたびいうが、信仰の極致、神さまに溶けいるときの心境は、言語に絶した至美、至善、至貴なるものである。その心境を味わわねば徹底したる信仰とはまだいいえないのである。』

(出口王仁三郎著作集 第3巻 愛と美といのち 愛>愛をつくす 神への恋愛から引用)

 

出口王仁三郎は、愛によって神様に溶けいった。木花咲耶姫命など美人の高級神霊との出会いを繰り返したから愛が結実したというわけではあるまい。大神は高級神霊とは別格である。

 

また、天消地滅とは、“天もなく地もなく”であって、この言葉は、霊界物語第73巻天祥地瑞_紫微天界_第1章 天之峯火夫の神の段に登場する。天消地滅が天祥地瑞全9巻の冒頭に登場することが注目ポイント。

何もないところから一点が発生し、それが世界に展開していくのは、ユダヤ教の見方に似ている。以下の霊界物語の文は、一点が世界に展開していくところに注目しがちだが、最初は“天もなく地もなく”で、忽然と一点が発生するところが眼目。第七身体と第六身体の関係である。

『天もなく地もなく宇宙もなく、大虚空中に一点のヽ忽然と顕れ給ふ。このヽたるや、すみきり澄みきらひつつ、次第々々に拡大して、一種の円形をなし、円形よりは湯気よりも煙よりも霧よりも微細なる神明の気放射して、円形の圏を描きヽを包み、初めて⦿の言霊生れ出でたり。』

(霊界物語第73巻天祥地瑞_紫微天界_第1章 天之峯火夫の神の段から引用)

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天消地滅-神人合一-1

2023-09-01 06:40:16 | 人と神の「実際のところ」

◎神への恋愛

 

出口王仁三郎の窮極の表現は、「無我の境」だが、それについて語っているところは少ない。最近更にそれを語っているところはないかと、霊界物語全巻の余白歌を抜粋したりしてみたが、はかばかしくなかった。

そこでふと目に留まったのが、天消地滅というワード。

以下の出口王仁三郎の文を読むと、彼は信者が神さまを恋い慕い、神さまが信者を愛したまうのが、天消地滅であるとする。これも神人合一の一つの相である。

 

『恋というのは子が親を慕うごとき、または夫婦がたがいに慕いあうごとき情動をいうのであって、愛とは親が子を愛するがごとき、人類がたがいに相愛するがごとき、情動の謂いである。信者が神を愛するということはない。神さまを恋い慕うのである。神さまのほうからは、これを愛したまうのである。ゆえに信仰は恋愛の心というのである。

 

恋愛となるとまったく違う。善悪、正邪、美醜などを超越しての絶対境である。おたがいがまったくの無条件で恋しあい、愛しあうので、義理も人情も、利害得失も、なにもかも忘れはてた境地である。だから恋愛は神聖であるといいうるのである。

 

いまの若い人たちが、顔が美しいとか、技倆が優秀であるとかいう条件のもとに惚れ合うておいて、神聖なる恋愛だなどというのは、恋愛を冒潰するものである。そんなものは神聖でもなんでもない、人に見せて誇らんがために、若い美貌の妻をめとりて熱愛する夫にいたっては、まったく外分にのみ生きるものであって下劣なものである。

 

真の恋愛には美もなく、醜もなく、年齢もなく、利害得失もなく、世間体もなく、義理もなく、人情もなく、道徳もなく、善もなく、悪もなく、親もなく子もない。まったく天消地滅の境地である。

 

人として真の恋愛を味わいうるものが、はたして幾人あるであろうか。どんな熱烈な恋といえどもたいがいは、相対的なものである。神聖よばわりは片腹いたい。現代の不良青年などが、恋愛神聖をさけんでかれこれと異性をもとめて蠢動するのは、恋愛でもなんでもない、ただ情欲の奴隷である。』

(出口王仁三郎著作集第3巻愛と美といのち/恋愛と家庭/恋愛は神聖から引用)

 

出口王仁三郎は、情の人。神へのアプローチは、知から入る人、情から入る人、意(観想)から入る人とあるが、彼は、情、恋愛から入り、天消地滅という無我の境という窮極に至った。出口王仁三郎は愛の人、慈悲の人なのである。

 

なお、霊界物語第64巻上 山河草木第16章天消地滅の段には、

『晴れもせず曇りも果てぬ橄欖山の

月の御空に無我の声する

行先は無我の声する所まで

無我の声あてに旅立つ法の道

父母の愛にも勝る無我の声』

とあり、天消地滅とは、無我のことであることを示す。

 

無我と一句だけ示しても、人は何のことか想像もつかないのが普通なのだ。

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覚者は周囲に覚者だと気づかれると殺されがち

2023-08-23 07:39:57 | 人と神の「実際のところ」

◎本物は実は危うい

 

OSHOバグワンが、悟りを開いてから20年間それを公言しなかった理由を明かす。

それは、周囲に覚者だと気づかれると殺されがちだからだ。

 

『認識  RECOGNITION

あなたは果して自分が仏陀を認識することができたと思うだろうか?さて、当然のことながら、いまや二五世紀もたってしまったおかげで、仏陀はますます大きな存在に、とてつもなく巨大な存在になってしまっている。彼は美しい朝日のように地平線にぼうっと大きく浮かんでいる。あなたは人々が彼を見逃してしまったなんて信じられない――だが、彼らは彼を見逃した! 彼の父 ですら彼を、彼が光明を得たことを認めることができなかった。彼の妻ですら彼を、彼が光明を得たことを認めることができなかった。彼を認める勇気を持っていたのはほんの少数の人たちだけだった――

 

なぜなら、彼を認めたら自分の生き方を変えなければならないし、彼を認めたらもはや同じままではいられないからだ。覚者(ブッダ)を認識するということは、あなたは目覚めつつあるということだ・・・・・

 

人々はまったく無意識に生きている。ブッダを認識するどころの話ではない――あなたは自分が誰なのかさえ知らない!

気がついていなかったら、あなたは本物の宝石を見逃してしまうかもしれない。だが、気づいていたら、そんなことはありえない。 すべてはあなたの〈気づき〉にかかっている・・・・・。

 

一九五三年に光明を得たあと、私はなぜ沈黙を守っていたのかと、多くの人が私に尋ねた。二〇 年近くにわたって、私はそのことを誰にも一言も話さなかった。誰かが自分でそれを疑ったのでないかぎり、誰かが自分からこう尋ねたのでないかぎり――「あなたには何かが起こったように見えます。それが何なのかはわかりませんが、ひとつだけ確かなことがあります。何かが起こって、あなたはもはや私たちと同じではありません―しかもあなたはそれを隠しています」

 

その二〇年間に、私に尋ねた者は一〇人にも満たなかったが、そのときでさえ彼らの望みがほんものだと感じられるまでは、私はできるかぎり彼らを避けた。しかも彼らがそれを秘密にすると約束して初めて、私はそれを彼らに告げた。彼らはみんなそれを守ってくれた。いまでは彼らはみなサニヤシンになっているが、彼らはちゃんと約束を守り、それを秘密にしてくれた。私は言った。「待ちなさい。正しい時機が来るまでは待つがいい。そのとき初めて私はそれを公言しよう」

 

私は多くのことを過去の覚者(ブッダ)たちから学んだ。イエスが自分が神の子であることをあれほど声高 に主張していなかったら、人類ははるかに多くの恩恵を得ていたことだろう。全国の遍歴を終えるまではそれを公言しないようにしようと、私は固く心に決めていた。そうでなかったら、私は殺されていただろう――あなた方はここにはいなかっただろう。旅することを、大衆に解け込むことを、町から町へと動きつづけることを終えたとき・・・・・。私は二〇年間、絶え間なく動きつづけていたが、ボディガードはひとりもいなかった・・・・・。 そして絶えず危険な目に遭っていた。石が私に投げつけられ、靴が私に投げつけられた。

 

二四時間も列車で旅をしてある町に着いたときも、群衆は私がその駅で降りることを許さなかった。彼らは私をむりやり帰らせようとした。私を列車から降ろそうとする者たちと、少なくとも自分たちの町には降ろしたくないと考える者たちとのあいだで争いが起こりそうになった。

 

もしそれを公言していたら、私はいともたやすく殺されていただろう。公言することは何の問題もなかったし、それは実に簡単なことだった。だが、二〇年間、私はそれについては完全に沈黙を守った。いまやそれを理解できる人々が充分に集まったと知ったとき、私は初めてそれを公に口にした。私は自分に好意を寄せる、自分に属する人々を充分に集めていた。いまや自分の小さな世界をつくることができる、もはや群衆や大衆や愚かなやじ馬たちとはかかわっていないとわかったとき、私は初めてそれを明らかにした。

THE BOOK OF THE BOOKS, Vol.11』

(英知の辞典/OSHO/メルクマールP452-454から引用)

 

イエスも殺され、禅の達磨も殺された。OSHOバグワンもアメリカで殺されかけた。

Amenty Meditation Wayで言っている『雰囲気を作る』とは、悟った人を殺さない雰囲気を作るということである。

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仏伝の釈迦成道直前の悪魔の来襲

2023-08-12 06:05:09 | 人と神の「実際のところ」

◎世俗の幸福や成功を求めないことと冥想修業に命をも捨てようということ

 

ダンテス・ダイジが語った釈迦成道直前の一週間の悪魔との戦いぶりについては、そのものずばりの出典は見つからなかった。ただ悪魔の本質とは何かを知ることができる。

 

基本線は世俗の幸福や成功を求めないことと冥想修業に命をも捨てようというもので、その点を様々な形をとった世俗の誘惑やら悪魔の形をとった悪魔が試しに来るというものではあるが、出家もしていない、冥想修行を始めようとも思っていない若者向けには、ダンテス・ダイジの説話はわかりやすい。

 

さて、この時、釈迦は苦行を打ち切っていたが、まだ痩せていたという。

 

参考までに佛伝の『悪魔の来襲』を挙げる。

『2悪魔の来襲

佛伝などによれば、太子は一大決意のもとに座を占められると、その晩の初夜、中夜をすぎて、後夜すなわち翌日の早暁に、世界人生の真理をさとって、佛陀となられたとせられる。なお伝によれば、太子は前日の夕方までの日中に、種々の悪魔の襲来を受けたとせられるし、後世の伝記や、絵画、彫刻などには、悪魔襲来の情況が、きわめてくわしく劇的に記述されている。悪魔の来襲については、佛伝によれば、成道の前と後との二回あったとせられ、成道後の場合は、佛陀が世の人人に説法を開始すれば、人々は邪悪を遠ざかることになり、それだけ悪魔の領域がせばまり、悪魔の活躍する余地がなくなるので、これに抗議するためである。古い原始経典の中には、成道前の悪 魔の来襲について、次のように述べられている。

 

ネーランジャラーの河畔で、理想を達成するために、

禅定に執心し、努力をもっぱらにしている私に、

悪魔は悲観的な言葉をもって近づいて来た。

 

「あなたはやせて顔色が悪く、死に瀕している。

あなたの生きる望みは千に一つしかない。あなたは、

生きるべきである。命あってこそ善も行なうことができる。

命長らえて、梵行を積み、聖火に供物を捧げれば、

多くの福徳が積まれるのに、いたずらに努めてもむだである。

精励への道は、苦しくて行ないがたく、到達しがたい。」

かく語りつつ、悪魔は私の近くに立った。

 

このように語るかの悪魔に、私は告げた。

「無法者の親類よ、波旬よ、お前がここに来て私に、

勧めている世間的な福徳は、私に用はない。

福徳を求めている人たちに、お前はこれを説くべきである。

私には信仰と精進と智慧とがある。このように

努めている私に、お前はなんで生きることを求めるのか。

私の努力の風は大河の水をもれさせるだろう、

なんでわが体内の血が涸れないことがあろう。

血が涸れれば、胆汁も痰も涸れるであろう。

肉が尽きる時は、心はますます静まり、また

わが意識も智慧も禅定も、確立するであろう。

このように確立して、最高の楽が得られれば、わが心は、

世俗の欲を求めない。見よ、私がいかに清くあるかを。

お前の第一の軍は欲である。第二は不楽といわれ、

第三の軍は飢渇であり、第四は渇愛といわれる。

第五の軍は憂欝と眠りであり、第六は怖畏(おそれ)といわれ、

第七は疑惑であり、偽善と強情が第八の軍である。

また利得や名誉や尊敬を求め、

虚名と、自らほめ他をけなすのは、

これもお前の軍であり、悪魔の軍勢である。

悪魔よ、怯者はこれに敗れるが、勇者は勝利の楽を得るであろう。

私はムンジャ草を敷いてお前と戦おう。敗れる身の

いとわしさよ。もし敗れて生きるより、戦って死ぬほうがよい。

シャモン、バラモンのうちには、敗れ去る者がある。彼らは

善行者たちのたどり行く理想への道を知らない。」

眷族とともに武装した悪魔の軍勢を四方に見て、

『私はけっしてこの場を動くまい。」と、戦うべく私は立ち向かった。

 

「世の中の多くの人々は、お前の軍に耐えないかもしれないが、

あたかも石で土鉢を破るように、智慧をもって私はお前の軍を破る。

正しい思雅を自由にし、意識を確立させて、

私は広く世人を教化しつつ、国から国へと遊行しよう。

私の教えを信奉する人々は、放恣(わがまま)ならず、心をもっぱらにして、

憂いあることのない理想の境に至るであろう。」

 

「七年間私は世尊に付きまとって来た。

しかし意識正しい佛陀には、ついに機会を得なかった。

それはあたかも肉の色をした石の周囲を鴉が、『おそらくここに

柔らかい、おいしい肉があるであろう。』 とて、歩き回るに似ている。

鴉が美味の肉を得ないで、そこを捨て去るように、

自分もそのようにゴータマをいとうて去るであろう。」

悲しみに沈んだかの悪魔の腕から、琵琶は落ちた。

意気消沈した悪魔は、そこから消えうせた。

 

右の文中に、悪魔が七年間太子をつけねらったとあるが、伝によれば、太子が出家する時にも、 悪魔が、「あなたは家にあれば必ず全世界を統一する転輪王となって、栄華をきわめることができるであろう。」とて、太子を阻止しようとしたとせられる。その出家時から、足かけ七年を経過していると考えられる。』

(釈尊の生涯   水野弘元/著  春秋社P77-81から引用)

 

古代インドの文章はこのような雰囲気であって、ややのんびりしているが、ジャータカ(釈迦前生譚)では、前世の釈迦が太ももの肉を切って与えたりなどもっとグロなのもある。ただそのような調子では、現代人に与えるインパクトは大きくはないということはあろう。

 

釈迦成道直前の一週間の出来事を調べようと原始仏教経典を当たる人もいるだろうから、がっかりする前に参考までに挙げてみた。

 

またそういう目で見ると、稲生物怪録は、稲生平太郎の大悟直前の悪魔の来襲と見える。

 

この時代も、世俗の幸福を追求することが悪魔だと主張してもなかなか賛同を得られるものではないのだが。いわんや釈迦が自らの肉体も命も捨てると言えば、「自殺はよくない、生きることが大切。なぜなら人の命は地球より重いから。」などと反論されもする。

 

それでも往かざるを得ない釈迦のような人もいるのだ。

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グルは人間か高級神霊かそれ以外か

2023-07-31 07:02:25 | 人と神の「実際のところ」

◎グルの役割

 

グルとは正師のこと。

 

グルの役割とは、大悟覚醒の一歩手前まで持っていってくれることであって、それは人間であることもあれば、人間ではない高級神霊であることもあれば、高級神霊というようなものですらないことがある。

 

禅では、師が悟った弟子を打ち出すということが強く言われ、達磨⇒慧可⇒僧璨、あるいは大応⇒大燈⇒関山などの子弟の系譜は代表的なもの。この場合は、グルが人間である。

禅では、グルと並んできっかけが重視される。どのようなきっかけで悟ったかを調べてみると、鍵束を落とした音、闇で突然ろうそくを消されて真っ暗になった、ばあさんに箒で殴られた、投げた石が竹に当たった音、背中の壁によっかかろうとしたら後ろに倒れたなど他愛もないものだ。だからといって、この「きっかけ」がグルだと言う人はいない。

そこでOSHOバグワンは、意識・想念の連続の中に隙間があって、それが神仏だと指摘する。冥想家ではないが、合気道開祖植芝盛平やボクシングの井上尚弥のようにその隙間を見る人もいる。ところで隙間は目的地だが、グルではない。

禅の「きっかけ」も隙間への道も、人為以外の恩寵のようなものだが、それを起こすのは、日々の冥想修行や毎日精密に仕事や家事をこなすことだったり、一道専心だったりする。

 

さてソーマ・ヨーガでは、ソーマそのものが水先案内人として現れ、ソーマ冥想を導いてくれる。

ソーマ・パイロットの言葉

 

精神変容をもたらす薬物は、そのドラッグ・トリップ自体が、すでに神ソーマ自身であり得ると同時に、最高の旅の仲間、水先案内人、パイロットである。

あらゆる個別的な生命形態は、そのどうしようもない束縛の中の有限性から自由になろうと永遠に願い続けている。しかし有限性という妄想は、実に陰険で楽しいトリックを個生命達に与えていて、あらゆる生命が本当は無限そのものであることを自覚しようとするのにブレーキをかけている。

有限性に慣れた人間は、有限な自己を唯一の本当の自分自身のようにいつのまにか見誤ってしまう。これが、無限な君を邪魔するブレーキであり無用である。

だから、君は死なねばならない。君は、君の見ている「現実」という名の妄想に別れを告げねばならないのだ。

 

何のために?それは君が最高に楽しく愉快で愛と安心に満ち自由になるために、あるいは、それらすべてから解放されるためだ。

単純明快なことだ、あたりまえなことだ。

君が、君を脱して君自身になろうとする働きが、ソーマ・パイロットで、そのパイロットあるいはガイドには、旅している君だけに与えられる言葉がある。ソーマは、あらゆる姿をとって君に君の消滅を最終的に告げている。君が無限である最後通告を語り続けている。』

(ダンテス・ダイジ/ソーマ・パイロットの言葉から引用)

 

ソーマは悟り薬であって薬が切れれば、元の凡人に戻る。それでも「自分が悟りを開く」とか「私は何か素適な神秘体験を得た」というようなことが妄想であることに気づくきっかけになることもあるし、そうでないこともある。だが、ソーマは、グルと見てよいのではないだろうか。

 

グルが、人間でなく高級神霊であるケースは、鍾離権から呂洞賓、ババジからダンテス・ダイジのように密教系統で頻出する。

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霊で語る世界の進化

2023-07-29 06:47:33 | 人と神の「実際のところ」

◎最初から霊や神仏が絶対的に居るなどということはない

 

肉体があって、霊があって、諸神霊・諸仏がいて、最後に仏あるいは神がいるというのは、霊がかり好きな人が採用したがる世界観だが、それですら無数にある世界観の一つに過ぎない。要するに最初から霊や神仏が絶対的に居るなどということはない。

だから、ヤキ・インディアンのようにトナールやナワールやイーグルや忍び寄る者などで世界全体を語る者もいれば、古代インドのように輪となった大蛇の上に大きな亀がおりその背中に複数の巨象がいるとする世界観もある。

つまり先に世界の骨子を成す道具立てがあるということではなく、ひたすら自分が世界全体をどう見るかということ。

それを確認するには、悟りを開いて、自分が世界全体にならねばならない。

 

ダンテス・ダイジが弟子との座談で、珍しく霊での世界の生成と消滅までを語っている。それは次のようなものである。(素直になる/渡辺郁夫編P155)

1.無の段階

2.霊の段階

3.霊の霊の段階

4.霊の現象の段階(霊が現象化している段階)

5.現象が霊と関わる段階(これが現代)

6.現象の現象の段階(完全に物質の中に入っている世界)

7.無の段階(最初に戻る)

 

ひと頃AIが暴走して人類を奴隷化したり、AIが人類を支配して絶滅させようとする映画が盛んに作られたが、生成AI、ChatGPTは、その現実化の走りとも見ることができる。将棋七冠の藤井聡太は、“現象の現象の段階”であるAIと人間が対抗できる最終ディフェンスラインを死守する最後の戦士みたいなものとも言える。勿論この連日の37度越えの猛暑の中、冥想修行に打ち込む修行者も同じような立場とも言える。“現象の現象の段階”とは、地獄であり、世界全面核戦争後の廃墟の世界であって、神はそれをほとんど許し給わぬことは、世界各地の神話や古伝承に出ている。

 

また七つの身体論で言えば、第六身体は世界全体宇宙全体だが、自分が世界全体宇宙全体であるサマーディ(有相三昧、サビカルパ・サマーディ)にあって、そこで世界全体が無から始まり、エーテル体から微細身レベルに展開し、最後はニルヴァーナなる無に進む。ただし、その進化の全ステップを確認できるのは、なぜか自分が第六身体と合一した体験を経てからだと言われている。要するに“未悟の99%以上の普通の人”と覚者の間で、その進化の過程に関する共通認識を持つことはできないのだ。

 

無から始まり無に終わる輪廻のことをカルパ・劫と呼ぶが、それを見ることは大変だが、それを知的に理解することはまだたやすい。現代人は、そのように知的に納得しないと真剣な冥想には入っていくまい。

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OSHOバグワンの師匠、出口王仁三郎の師匠

2023-07-27 07:16:34 | 人と神の「実際のところ」

◎密教、古神道、クンダリーニ・ヨーガの大家には師匠がいないように見える

 

OSHOバグワンは、超能力、神通力、テレパシーは、ひらけらかさなかったが、七つの身体論の精妙なる説明やクンダリーニに関する説明が、ウパニシャッドからヴェーダ、チベット密教に至るまで、昔のマスター達が説明しなかった部分まで精密な解説を行っている部分がある。

だが、彼にはクンダリーニ・ヨーガの大悟覚醒時の師匠の大恩、思い出を語ることがないのは奇妙だと感じる人も多いのではないか。

これについてダンテス・ダイジは、OSHOバグワンは、師匠につかないで最後まで独力で大悟覚醒、神人合一にまで至ったという話をしている。それだけに彼は筆舌に尽くせぬ苦労をした由。

半端にクンダリーニを上げると、日常生活ができなくなったり、発狂したり、自殺したり、事故にあったりすることがあるものだが、OSHOバグワンは恐るべき好奇心と気力と冷静さで、それらのあらゆるピンチを凌ぎ切ったのだろう。

ダンテス・ダイジの『人がたとえ皆逆立ちして見えても、足に向かって話し掛ける冷静さを持つ人だけが、クリヤ・ヨガのブリザードを突破できる』という言葉はその消息を言っているのだろう。

 

釈迦でも、『ブッダ 悪魔との対話』という岩波文庫があって、人間に非ざる悪魔や神霊などと沢山のコンタクト、会話をしている記録が残っている。クンダリーニ・ヨーギとは、そういう肉体ではないクリーチャーと日常を過ごすということなのだろう。現代でそういう話を大真面目にするとまず“引かれ”たり相手にされなくなるが、クンダリーニを上げるというのは、そういう世界に片足を入れるということである。だが、彼ら先達にとってはそれが紛れもない現実なのである。

 

古神道の出口王仁三郎も、師匠としては静岡県清水の稲荷講社の長沢雄楯がいるが、力量的には出口王仁三郎の方が上であり、実態は師らしい師について修行していない。霊界物語では、師匠筋として小松林命とか松岡という高級神霊が出てくるが、それは人間の師ではない。出口王仁三郎は本当の古神道の師を明かしていないと見るべきだろう。

そして彼の一生をみると京都の皇典講究所を出てから彼の社会的活躍が大きく拡大する。その転換点での進路指導を誰か師匠がやっていたのではないかと思うが、それは肉身の師匠ではないのだろうと思う。

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至人は火を踏めども熱からず

2023-07-17 06:07:00 | 人と神の「実際のところ」

◎荘子の達生篇第十九

 

連日最高気温35度以上の日が続いている。

 

荘子の達生篇に、列子が関尹に、至人は火を踏めども熱からずというがその原理を教えてくれと質問する一節がある。

列子は中国の霊界物語である列子の著者、関尹は老子の著者。

この質問に対し、関尹は純粋な気を守っているからだと答える。それは、物や現象は様々に変化するものだが、その根源であるもはや変化しないレベルに止まることがそれである。これによって至人は、最初もなく最後もない所に隠れ、万物の終始する所に遊び、その性を一にして、その気を養い、その徳を合わせて、以て物が創造される所に通じるものだからである、と。そのような人が火を踏んでも熱くないのだ。

 

火を踏んでも熱くないとは、神事として行われる火渡り(火をつけて燃やした薪炭の上を裸足で歩くこと)ではなく、慧春尼の火定の事や、本山博の言う不動明王状態や、チベット密教の尸解で身体が焼けてなくなってしまうようなことを言うのではないかと思う。つまり語弊があるかもしれないが、肉体を残そうが残すまいが自在である人のこと。荘子もこの当時は、そういう技法と結果がわかっていた時代だったのだろう。

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覚醒者を沢山出していくグループとは

2023-07-15 07:03:31 | 人と神の「実際のところ」

◎ワンパターン教義では大衆に教えは伝播しない理由

 

一律・繰り返しのワンパターン教義では、覚者を増やせない理由は、やや複雑である。

まず、覚醒・悟りは、最後の一歩は一人で履むものだというが、その直前においては、師匠と高弟を含むグループで冥想修行が行われるということ。つまり高弟のグループが「覚醒・悟りをまさに今や起こすべし」と一緒に頑張って、その勢いがさらに高弟たちを高みに押し上げていく。また一人が悟れば他のメンバーの励みにもなっていく。

高弟のグループ内では、一般の平信徒にはわからない内なる理解と内なる誓願があるものだ。それは、高弟相互に覚醒・悟りを起こさせるために最善を尽くすということであり、またそのグループには独自の技法があるということ(未知への扉/和尚ラジニーシ/メルクマールP14)。

その内なる理解とは、メリットを求めて冥想をしてはいけないとか、人間は死から出て死に帰るとか、生の世界を極めれば死の世界もわかるとか、善行を行う瞬間に見返りを求めてはいけないとか、自分を捨てて他人に尽くすものだとかであって、世間の社会常識、宗教常識からすると逆の共通認識。それを当たり前に持ち、当たり前に行う連中が高弟グループ。そうした連中でも一転生で大悟できるものとは限らないが、何回かの転生の中で釈迦の時代の高弟はほとんど大悟済で、まだの人はほとんどいない由(OSHOバグワン)。高弟グループは何転生かを展望して修行に取り組む。

 

また高弟グループは、生活力はないものだから、やがて貧窮に苦しんで冥想修行どころではなくなる時期があるもの。そこでこの時代では、一緒に生活してくれるパートナーが生活支援するのが依然ベストなのだろう。

釈迦は、高弟グループの支援のために平信徒の僧団を組織した。ところがそういう三重構造(マスター、高弟、平信徒)は、末法の21世紀にもなると、その構造だけを利用して信者全体から金を吸い上げまくるが、一向に覚者は少々しか出ない。挙句、他の宗教カルトにまで金集めノウハウが応用され、堕落してしまっているといわれても仕方がない。

OSHOバグワンの教団もOSHO在世時ですら、資金は豊富に集められ、ロールスロイス96台も買えたほどだったが、多数の覚者を出すというところまでは至らなかった。アメリカ官憲に追われ、世界を転々とし、最後は結局インドに戻らざるを得なかった。

某元首相暗殺事件で話題になったカルトや地下鉄サリン事件を起こしたカルトのように、現代では一旦巨額の金が集まれば、周辺のステークホルダーが寄ってきて、まともな宗教として多数の覚醒者を出す教団としてやっていくのは、不可能なのだろうと思う。

以上の事情は、ワンパターン教義では大衆に教えは伝播しない理由でもある。

 

またマスターを含む高弟グループは、集団転生であって、同時代にまとめて転生してくるらしいこともダンテス・ダイジは示唆している。よく霊界探訪ものに書いてあるが、同質な者たちは同一の霊界ドームに居住するというのがそれ。

このように消去法の結果、この時代にベストの冥想修行環境は、一緒に生活してくれるパートナーが生活支援するという形なのだろう。大々的にはできまい。

これから言論思想宗教圧殺の時代もあるのだろうが、それも含めてまともな求道者たちは、奥山の渓流のように細々と修行を続け真理を伝えていくしかなのだろうと思う。

 

OSHOバグワンが指摘しているが、釈迦の技法もイエスの技法も2千年経過し、古くなり過ぎて今の時代には通用しないとする。何が変わったかと言えば、人間は腹人間から頭人間(知性人間)に変わった。知性人間なら、まず頭で覚醒に至る条件とメカニズムを理解し、然る後に真剣に冥想修行に取り組むのが順路なのだろうと思う。

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日々のグレートリセット

2023-07-08 06:24:21 | 人と神の「実際のところ」

◎daily Great Reset

 

グレートリセットとは、善悪正邪治乱興廃の別かれる大峠のことであって、神軍と魔軍との戦いの分水嶺。

 

ギリシア神話の逃げるアタランタでは、アタランタが神仏であり、どこまでも彼女を追うヒッポメネスがエゴである。エゴが残っている限り神仏にはなれないが、徒競走で、ヒッポメネスは三度黄金の林檎を投げ、先行するアタランタが黄金の林檎に気をとられている隙に逆転し、最終的に先にゴールすることができた。これによりヒッポメネスは、アタランタと結婚し、神となれた。

 

一方古事記では、伊弉諾(イザナギ)命が、黄泉の国から退却する際に、黄泉比良坂で、追手の黄泉醜女(よもつしこめ)や八柱の雷神などに対し三度桃の実を投げつけることで、生還することができた。

この戦は、伊弉諾命にとって不戦のままの退却につぐ退却だったが、最終的に悪、悪魔の伊弉冊(イザナミ)命軍団を封じ込めることができた。

 

悪魔は、なぜか大悟覚醒の直前に登場し、オレの言うことを聞けば全世界をあげようなどと誘惑する。

そこで三つの黄金の林檎や三つの桃の実を用いるとそれをクリアできるというのは、一つの限定された意味でなく複数の意味があろうと思うが、三人の高級神霊が待ち構えているという意味もあるのだろうと思う。

これが、グレートリセット。

 

グレートリセットは、毎日起きており、熟眠中の夢を見ない時間帯が、それ。その時間帯に人はあらゆる軛(くびき)から脱し、疲労は回復する。

それを気にせず、この世的な願望の実現ばかり追うと、しばしば悪夢にうなされたりするという。

熟眠中に夢を見ないということが、古来から冥想修行の目標である。

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己を慎み事をも敬する心を忘れない

2023-05-26 06:34:15 | 人と神の「実際のところ」

◎西郷南洲遺訓

 

西郷隆盛は、文久三年36歳、再度の島流しに遭い、沖永良部島に送られた。その獄舎は、天井はあったみたいだが、壁もなく扉もなく四方矢来であって、風雨は吹き通るため、ほとんど人の住む所ではなかった。ここで数か月、一日中端座冥想していたが、体調悪化の一途をたどり、ほとんど死にそうになったが、自ら住環境の改善を求めることはなかった。数か月後座敷牢に移されて健康は回復していった。

 

西郷南洲遺訓の遺訓第21条。

大意:

『道というものは、天地自然の道理であるから、学問の道は『敬天愛人』を目的とし、自分を修めるには、克己をもって終始しなさい。己れに克つことの窮極は、『我がままをしない。無理強いしない。固執しない。我を通さない。』と言える。

 

総じて、人は己に克つ事によって成功し、自分のメリットを優先する事によって失敗する。よく古今の人物を見なさい。事業を始める人が、その事業の七、八割までは能く出来るが、残りの二、三割を完成できる人の希れなのは、始めはよく自分を謹んで事をも敬うから成功もし有名にもなる。

 

ところが、成功して有名になるに従って、いつしか自分のメリットを優先する心がおこり、恐れ慎み戒めるという気持がゆるんで、おごり高ぶる気持がますます大きくなり、その成し得た仕事を過信のよりどころとして、自分の事業をさらに完遂しようとして、かえってまずい仕事をするようになり、ついに失敗するものであって、これらはすべて自分が招いた結果である。

だから、己にうち克って、誰も見ていない時も誰も聞いていない時も、自分を慎み戒めるものである。』

 

この要諦は、誰も見ていない時も誰も聞いていない時も、自分を慎み戒め、我がままをせず、無理強いせず、固執せず、我を通さず。

 

ここだけ読めば、単なるよくある人生訓の一つだが、十全の成功を求めることの方に力点があるのではなく、『己をなくす』=克己の方に力点があることに気がつく。

完璧に成功するには、誰も見ていない時も誰も聞いていない時も、自分を慎み戒めるという、神仏を恐れ神仏とのリンクを常時意識することが必要だと言っているのである。これは迷信であって、ロジカルではないと思う人も多いのだろうが、それがあって初めて『我がままをせず、無理強いせず、固執せず、我を通さず。』という態度になる。悟りとは態度であるという消息の一例である。

西郷隆盛は、神仏とは言わず、至誠、誠という言葉を多用している。

 

原文:

『道は天地自然の道なるゆゑ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。己に克つの極功は、『毋意、毋必、毋固、毋我』。

総じて人は、己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。

 

能く古今の人物を見よ。事業を創起する人、其事大抵十に七八迄は、能く成し得れ共、残り二つを終る迄、成し得る人の希なるは、始は能く己を慎み、事をも敬する故、功立ち名顕はるるなり。

 

功立ち名顕はるるに随ひ、いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒慎の意弛み、驕矜の気漸く長じ、其の成し得たる事業を負(たの)み、苟も我が事を仕遂んとて、まづき仕事に陥いり、終に敗るるものにて、皆自ら招く也。故に己に克ちて、睹ず聞かざる所に戒慎するもの也。』

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無知なる釈迦が前世で覚者に足を触ってもらう

2023-05-19 06:28:39 | 人と神の「実際のところ」

◎ジャータカ釈迦前生譚

 

ジャータカ釈迦前生譚は、釈迦の無数の前世のエピソードを描いた話。

 

釈迦がまだ無知だった前世において、さる悟った人間の噂を聞き、逢いに行って、話をすることができた。

釈迦が悟った人の足に触れ身を起こすと、なんと悟った人が釈迦の足に触れているではないか。

 

釈迦が悟った人に「なぜ、無知で悟っていない私の足に触れているのですか。」と問うと、

悟った人は、「あなたの内部に隠れている本質は、既に悟っているから、それに触れているのだ。」と。

 

後に釈迦は、「当時悟った人の言うことが理解できなかったが、今ならわかる。彼は、真の私に礼拝したのだ」。

(参照:ヴィギャンバイラブタントラ(9生の神秘)OSHO P233-234)

 

ジャータカは、大部なものであり、このジャータカ上の出所を捜し当てられなかった。私が小学生の時に近所の寺の住職が子供何人かを集めて、ジャータカから話をしてくれる機会があった。それはインドという亜熱帯のエキゾチックな国のことだったが、とても心惹かれる話だった。

 

これと類似のエピソードは、イエスが弟子の足を洗う話。

 

現代でも心ある悟った人なら、別れ際に未悟の人を礼拝して、どぎまぎさせることがあるのではないか。

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