アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

OSHOバグワンはなぜアメリカで失敗したのか

2025-03-10 06:07:27 | 時代にFace it

◎OSHOバグワンの水平の道への型出し

 

OSHOバグワンがアメリカで失敗した理由は、そもそもアメリカでうまくやろうという気がなく、コミューン経営をまじめにやろうとしなかったことに尽きると思います。

だって荘子の生まれ変わりだから、荘子風の行動パターンだったから。

ただし、水平の道の型出しをしたというのが、真相ではないか。

※1. まず、OSHOバグワンは、コミューンを作って新時代へのエンジンとしようとする志は持っていた。そして彼は、インドのプーナとオレゴンにコミューンを形成することができた。しかしながらいずれも成功したとは言い難い結果に終わっている。最後は世界中から村八分になってインドに戻ってきた。

その原因は、OSHOバグワンが弟子の育成にあまり熱心とは言えない雰囲気だったこととコミューン経営にあまり関心がなかった風であることだと思う。いわばコミューンさえ作ってある程度のルールを与えれば、きっと覚者も多数生まれ、コミューンも拡大していくのではないかとでも思っていたのではないか。

OSHOバグワンの世間の評価

 

※2. 1985年OSHOバグワンは、オクラホマシティで毒を盛られた。まず熟達したクンダリーニ・ヨーギならば、強い放射線を発する物質があれば、何か異常を感じるものだろうし、また毒入りパンを差し入れられても、毒のあることを見るものなのだろうと思う。

ここは、OSHOは、運命に従順に、放射性物質入りマットレスで眠り、毒入りパンも食らったと見たい。OSHOが覚者であることは間違いない。

しかしながら、OSHOは毒を食らったことでその寿命が20年短くなったことを嘆く一方で、ロールス・ロイスを乗り回し、数千人の前で、自分の脇に肉感的な数人の女性を踊らせるそのスタイルは、宗教というものについての既成概念を破壊するという名目ではあるものの、首尾一貫して純粋と言えるものだったのだろうか。

OSHOが毒を盛られた事件

 

※3 あなたがたが嫉妬を感じるような状況を、私は意図的に創造したのだ。

OSHOバグワンの96台のロールスロイス

 

※4.最近の世界的ZENブームを見ると、OSHOバグワンが生涯をかけて禅を推した影響が大きいと思う。日本の禅宗各派はそうは思っていないかもしれないが、OSHOバグワンの著作の半分は、禅関係で、最終講話も禅。

その点で、OSHOバグワンは、言うなれば水平の道への型出しをしたのだ。最初は失敗したかに見せて、後に大きく再生して成功するのが型出しの狙い。

そもそもアメリカ官憲がOSHOバグワンに毒を盛った理由は、今でいえばイーロン・マスクの百倍にもなろうかという至福千年に向かう影響力が彼にあったのを認めたからのだと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猫と愛

2025-03-10 03:05:56 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎猫人関係雑感
(2008-08-12)

子猫のうちはかわいいしぐさも多いし活発だが、成猫になると、容貌がかわいくなくなるし、あまり遊ばなくなり、活動も不活発となる。こうなると猫に飽きてしまう人が出てくる。

猫はもともと単独行動だし、個人主義的な生き物だから、誰のいうことも聞かない動物なので、大きくなって、飼い主の気持ちを無視して、動き回るだけの動物はかわいげのないものだと思う。

でも20年にもなろうかという猫の寿命の中で、かわいいのはせいぜい最初の1年であると覚悟して飼ってやらないと、さすがに猫のほうが気の毒なことだ。

動物が家畜になるためには、いくつかの厳しい条件をクリアする必要があり、それができた動物だけが家畜と成り得る。猫もそうした条件をクリアできた数少ない動物のひとつだからこそ,その付き合い方のほうをよく人間のほうが心得ておく必要があるだろう。

曰く撫でる,ほめる、適度に放任する。来客があったり、他のペットの来訪があった場合は、猫は嫉妬して、暴れ回ったりするので、なかなか人間的な心性を持っている。猫にもたっぷりの愛が必要なのだ。猫の機嫌が悪くなったら、愛が足らないサインだろう。

猫は引っ越しなどの環境変化があると、非常にがっかりして心理的なショックを受けるものだそうだが、その心理は、毛づくろいとして現れる。毛づくろいは普段からやっていることだが、そうした外的な事件があると、その困惑の気持ちを毛づくろいで紛らわせている由。

それと退屈。退屈するとまた毛づくろいをするが、退屈も極まると、毛が抜けるまですることがある。

猫は人間に比べるとサプライズに弱く、驚きすぎではないかと思われる程驚くことがあり、繊細な神経を持っているとわかる。ひどいときは、獣医が検査や麻酔のために押さえつけたショックでそのまま無反応になり死んでしまう猫すらいるという。そこまで行かなくとも、元気がなくなり、食欲もなくなるようなことがある場合は、優しくしてあげて安心させることが大切だそうだ。

猫は、特に聴覚が発達して、クンダリーニ・ヨーギのように「聞きまもる」時間帯が少なくなく、デリカシーを感じさせるペットだからこそ、対人間並の愛と思いやりの必要性を感じさせられる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

OSHOバグワンがクンダリーニの流れを語る

2025-03-10 03:03:32 | 覚醒のアーキテクチャー

◎最初は個人であって、最後にはすべてのすべてに変容する

 

OSHOバグワンも最初は、クンダリーニは最初は個人であって、最後にはすべてのすべてに変容すると語っている。普通の現代人にとって、それは想像することも困難なイベントだが、ダンテス・ダイジのクンダリーニ覚醒体験を読めば、最初は個人のクンダリーニで始まるが、最終的にはすべてのすべてであることが、イラストでもわかるようになっている。

OSHOバグワンは、以下の説明ではほとんど体験者にしかわからない説明をしているが、その説明内容は正確だと思う。

(In Search of the Miraculous Vol 1 第

12章Kundalini Will Transform You/和尚から仮訳)

『(仮訳)

12章 クンダリーニがあなたを変えます 

 

質問1 

質問者: あなたは昨日、私たちのクンダやエネルギープールは分離したものではなく、互いに異なるものであると言いました。彼らは本当に一つの宇宙のクンダです。しかし、探求者が考える限り、彼のエネルギーは他人からではなく、自分自身のクンダから生じます。では、クンダは本当に一つなのでしょうか?説明してください。 

 

それは次のようなものです:

あなたはあなたの家に井戸を持っています、そして私は私の家に別の井戸を持っています。明らかに、2 つの井戸は互いに離れているように見えます。しかし、これら 2 つの井戸が水を汲む地下の流れは同じです。そして、この地下流は遠くの海とつながっています。 

 

あなたの井戸の水源である小川の流れをたどれば、私の井戸や他のすべての井戸に出会うだけでなく、最終的には大きな海そのものに出会うでしょう。同様に、クンダリーニの文脈では、個人は旅の始まりにのみ存在します。旅が終わりに近づくと、個人も終わりを迎えます。そのとき、あるのはすべて、全体、絶対、唯一、あるいはあなたがそれを何と呼んでもいいものだけです。 

つまり、旅の出発点では、あなたも私も別々ですが、目的地、最終地点では、あなたも私も存在しません。私たちは、旅の終わりにあるものの断片、または一部にすぎません。 

 

したがって、クンダリーニがあなたの中に現れると、最初はそれがあなた、つまり個人のものであるように見えるでしょう。それはあなたのものになります。当然、あなたは自分が井戸の端に立っていることに気づくでしょう。しかしクンダリーニとしては、上昇して拡大すると、あなたはやがて自分の井戸が他のすべての井戸とつながっていることに気づくでしょう。

 

そして経験が深まれば深まるほど、あなた個人の井戸はどんどん消えていき、その代わりに海が生まれます。そして、このクンダはすべてのものであると言えるのは、究極の経験の中でです。 

私がクンダは一つであり普遍的であると言ったのはこの意味です。それは一つの宇宙のエネルギーのプールです。 

 

そのようにして、私たち全員が、個人として分離しているように見えます。別の方法で理解してみましょう。木の上の葉が突然意識を持ち意識を持つようになると、隣の葉が他の葉のように見えます。木の別の枝から垂れ下がっている葉がそれ自体であることをどのようにして知ることができるのでしょうか?もう一方の枝の葉は脇に置いておきます。自分の枝にある別の葉を自分自身であると考えることはできません。もしかしたら、この葉は少し離れているかもしれません。右側の葉さえもう一方のように見えます。この葉の意識は個人的なものなのでそうなるでしょう。』

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする