◎仏と個人の二重の世界を生きている
一遍は、「となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ仏」の歌を詠んで、由良の法燈国師心地覚心に印可(さとりを証明)されたと思っていたが、その先があったようだ。
一段目。
兵庫の宝満寺で一遍は、紀州由良の法燈国師に参禅していた。国師が、「念仏して覚醒」を公案として提示されたので、一遍は、次のように詠んだ。
となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして
法燈国師は、この歌を聞いて「未だ徹していない。」とおっしゃった。
二段目。
そこで、一遍は、また「となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ仏」と詠じ直したところ、
国師は、その歌を悟りと認めた、とかつて書いた。ところが三段目があるらしい。
なるほど、この歌では仏もわれもないのは、ニルヴァーナっぽいが、南無阿弥陀仏が残っている。ニルヴァーナではないのだ。
つまり一遍は、マントラ・シッディ特有のすべてが南無阿弥陀仏である世界に入ったのであって、大悟ではなかった。
三段目。
行状によると、一遍は翌年再び由良に来て、
「すてはてて身はなきものとをもひしに
寒さきぬれば風ぞ身にしむ」
と詠んだ。
法燈国師は、この歌を覚醒と認めて、手巾・薬籠を与え印可された。
この歌は、わが身が残っているかのように思われるが、覚者は、仏と自分個人という二重の世界観を生きている。
京都鴨川の河原で何年も乞食をやった大徳寺の大燈国師の歌。
こもかぶり 乞食じゃないぞ 寒牡丹
冬支度でわらをかぶった牡丹。牡丹は、仏あるいは真理のシンボル。乞食が個人。仏と個人の二重の世界を生きている。