◎水牛が窓の格子を過ぎたが尻尾が残っている
牛過窓櫺(ぎゅうかそうれい)の公案(無門関第三十八則)。
『五祖法演は言った。「例えば水牛が窓の格子を過ぎていくが、頭、角、四本の脚すべて通過し終わったのに、なぜか尻尾だけが通過できない。」』
十牛図のとおり、牛は世界全体・宇宙全体。十牛図第六騎牛帰家では、人と牛は合体していないが、合体直前である。この公案では、牛も残っており、見ている自分も残っている。見ている自分こそ尻尾であり、牛人合一の逆転は起こっていない。見ている自分がなくなれば、尻尾も通過できる。
一方第七図では、尻尾は過ぎ去り、牛である仏と人は合一するので、第七忘牛存人であって、人が残っている。仏人合一した悟りにあるが、有が残っているのだ。(第六身体アートマン)
有も去るのが、十牛図第八人牛倶忘
このようなことは、その体験とは言えない体験をすれば、すぐわかることなのに、なぜことさらに公案につくって、その体験以前に知らしめる必要があったのだろうか。