アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

日面仏月面仏 (碧巌録第三則)

2024-11-05 03:26:52 | 達磨の片方の草履

◎寿命の長短の選り好みをしない

 

『馬祖禅師が、にわかに病気になって、明朝には亡くなりそうな病勢である。

寺の執事がやってきて、「お加減はどうですか。」と訊いてきた。

馬祖、「日面仏、月面仏(にちめんぶつがちめんぶつ)」』

 

日面仏とは、1800年もの寿命の長命の仏。月面仏とは逆に一日一夜限りの寿命の短命の仏。

寿命が長かろうが短かろうが、そんなことは大した問題ではない。寿命の長短の選り好みをしないとは、生も死も大した違いはないということ。

禅は生の側を極めて死の側を知る、結果的に生の側も死の側も知る。

生も死も大した違いはないと言える立場は、既に大死一番した者だけ。

 

そうした見方を裏付ける問答もある。

『ある日、隠峰が車を押していると、馬祖は、その行く手をさえぎるように脚を伸ばした。

隠峰は言った、「どうか師よ、脚を引いてください!」

「いったん伸ばしたものを」と馬祖は言う、「引っ込めるわけにはいかない!」

「前に進んでいたものが、後ろに戻るわけにもいきません!」と隠峰は言うと、その車を押した。

馬祖の足はひかれて傷を受けた。みなが戻った後、馬祖は法堂に入ると、そこのおのを手に取って言った、「先ほど私の足を傷つけた僧は、前に出なさい!」。

進み出た隠峰は、馬祖の前に立ち、 その一撃を受けようと首を差し出した。

馬祖はおのを置いた。』

(空っぽの鏡・馬祖/Osho/壮神社P343から引用)

隠峰にとっては、召命のようなものだ。

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