◎寿命の長短の選り好みをしない
『馬祖禅師が、にわかに病気になって、明朝には亡くなりそうな病勢である。
寺の執事がやってきて、「お加減はどうですか。」と訊いてきた。
馬祖、「日面仏、月面仏(にちめんぶつがちめんぶつ)」』
日面仏とは、1800年もの寿命の長命の仏。月面仏とは逆に一日一夜限りの寿命の短命の仏。
寿命が長かろうが短かろうが、そんなことは大した問題ではない。寿命の長短の選り好みをしないとは、生も死も大した違いはないということ。
禅は生の側を極めて死の側を知る、結果的に生の側も死の側も知る。
生も死も大した違いはないと言える立場は、既に大死一番した者だけ。
そうした見方を裏付ける問答もある。
『ある日、隠峰が車を押していると、馬祖は、その行く手をさえぎるように脚を伸ばした。
隠峰は言った、「どうか師よ、脚を引いてください!」
「いったん伸ばしたものを」と馬祖は言う、「引っ込めるわけにはいかない!」
「前に進んでいたものが、後ろに戻るわけにもいきません!」と隠峰は言うと、その車を押した。
馬祖の足はひかれて傷を受けた。みなが戻った後、馬祖は法堂に入ると、そこのおのを手に取って言った、「先ほど私の足を傷つけた僧は、前に出なさい!」。
進み出た隠峰は、馬祖の前に立ち、 その一撃を受けようと首を差し出した。
馬祖はおのを置いた。』
(空っぽの鏡・馬祖/Osho/壮神社P343から引用)
隠峰にとっては、召命のようなものだ。