◎バーナデット・ロバーツの第三夜-4
(2006-09-03)
『この10日ばかり後にビッグ・サーの修道院で静修をしました。その二日目の午後遅く、海を見下ろす丘に立っていた時、かもめが一羽風に乗って滑るように飛んできました。私はそれを生れて初めて見るように眺めました。まるで催眠術にかかったようで、かもめと私の区別がなく、私が飛んでいるのを見ているようでした。
しかし区別がないというだけではない何か、本当に美しく未知の何かがそこにありました。そののち私は修道院の後ろの松林の丘に目を転じましたが、やはり自他の区分がなく、一つ一つのものと風景全体をとおって、「何か」が流れていました。すべてのものが合わされた「一なること」を見るのは、まるで特殊な立体鏡をのぞいているようでした。
そこで私は、ああ神はどこにもいるというのは、このことなのだと思ったのです。』
(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店P26から引用)
カモメと私の区別のない体験は、荘周胡蝶の夢と同じである。荘周胡蝶の夢とは、荘周が夢の中で胡蝶と化して楽しく飛び回り、自分は胡蝶なのか荘周自身なのか、区別できなくなったという故事。自己というものがなくなりつつある過程の中で、神が自己の側に到来・浸透しつつある段階において、この状態が、起きていることに注目したい。荘周は、老荘の荘子のこと。
また自他の区別がない見方において、はじめて「神がどこにでもいる」ということを実証、納得するものだということがわかる。「神がどこにでもいる」は、ちょっと爽快で高揚した、しみじみとした気分の時には感ずることがあるものだが、ホンチャンの「神がどこにでもいる」実感は、このレベルで初めて出てくるものなのだろう。
そして、すべてのものが、本当に美しく未知で、初めて見る見知らぬものであるという印象。これぞ、自他と区別のない「見方」で特有の印象なのだと思う。この辺がバーナデット・ロバーツの体験が正統的なものであるという証左だと感じる。
蛇足だが、龍も天使も出て来ていないことにお気づきと思います。