◎心置きなし
(2008-10-26)
マリー・ローランサンの「鎮静剤」という詩の一節に、最も哀れな女は「忘れられた女」であるというのがある。
もともとは、こんな詩(堀口大學訳)。
退屈な女より もっと哀れなのは かなしい女です。
かなしい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。
不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。
病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。
捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。
よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女
密教学者の正木晃さんが独身のキャリアウーマンを病気見舞いにいく話がある。彼女は若い時から、バリバリのキャリア・ウーマンで独身であった。50代でガンが発見され、入院する前から多額の保険料を支払っていたことを知り、彼女に前途への漠然とした不安があることを以前から正木さんは知っていた。
彼女は人付き合いも仕事関係だけであり、それ以外のお付き合いはなかったようだ。正木晃さんは彼女のお見舞いに3回行った。2回目に行った時は既に末期ガンだったが、彼女の足をさすってあげたら、今後いつ来てくれると問われ、その翌週お見舞いに行った。
そこで、死んだら一年に一回墓参りに来ることを半ば強引に約束させられて、その交通費とお花代の名目で多額の預金通帳を受け取るはめになった。
そこで彼女は、私はもうすぐ死ぬが、死んでまもなくなのに、誰からも忘れ去られるのは耐えられない。そのことを想像するだけで身の置き所もない気分になるので、誰か一人でもいいから、墓参りに来て、しばらくは自分のことを覚えておいて欲しいのだと懇請した。
翌週彼女は死んだ。
(参考:立派な死/正木晃/文芸春秋)
独身で初老の女が、死んでさっさと忘れ去られるのがイヤと、我が墓参りを請うのは、なかなかに凄惨なシーンである。しかし「人生に別れを告げる」ということでは、カルロス・カスタネダのあらゆる愛着に別れを告げる幾つかのイベントと同根のものを感じる。
ここでは、相手が未練や良い思い出を残すかどうかがポイントではなく、世を去る自分の心のひっかかりを取ることの方に力点があるように思った。どちらのケースもそれで心置きなく去っていけるのだ。