◎バーナデット・ロバーツの第三夜-3
(2006-09-02)
彼女には四人の十代の子供がいた。
自分の内部に何もなくなった彼女は、次に外を探し求め、枝をつかんだり、土を手ですくったりして、自分の中には何もなくとも、あたりに生命があふれているので、これで良いのだと思った。
当時家の中にいると、あまりにも機械的で、索漠として耐えがたく、自分の力がないので、最小限の日常の仕事をするのがやっとの状態だった。そこで一週間丘や川岸や浜辺を歩き回り、戸外にあふれる生命を感じ、忘却と平安の中にいるようにした。
けれども、彼女の中に生命がないのと同様に、個々の松の木や野の花にも生命がないけれども、あたりは生命に満ちているという、つまり周囲の自然のどこかに生命があるだろうという予期の中にあった。
そして、絶壁の上にある糸杉の根の間で坐っていた時にバーナデット・ロバーツは、自然の秘密を見た。
『個々のものの中に神あるいは生命があるのではなく、逆にすべてが神の中にあるのです。それも海中の一滴というようにそこだけ取り出せるというものではなく、うまくいえませんがたとえばゴム風船の一点のように、そこだけを切り離せば破裂して全部なくなってしまうというようなものです。
何ものも神から切り離すことはできないので、別々であるという考え方を捨てさえすれば、神であり、生命でもある全体の中にすべてが戻っているのです。(中略)
以上の洞察で新しい扉が開け、私は物事を別の見方で見るようになり、生命を捜し回るのを止めました。生命は明らかにどこにもあり、実はそれしかないのです。(中略)
自己を捨てたのは、私でなく神でした。そして自己を超えてしまえば何もかも、私が残ると思っていた「それ」さえもなくなってしまうのです。』
(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店から引用P24-25)
バーナデット・ロバーツは、最初に内に生命を求め、次に外に生命を捜すというあてのない試行錯誤に苦しんだ。その結果、すべてが神の中にあると知った。
ここで特徴的なことをいくつかあげると、彼女には特定のグル・師匠がいなかったこと。キリスト者でありながら、そのシンボルである「神の栄光の中にあるイエス」なんかを見なかったこと。この点で、毎日観想に明け暮れていたイグナティウス・ロヨラがキリストの人間性を内的な眼で見たりしたのとは相当に異なっている。彼女は観想はあまりせず、生活者だったからだと思う。日常生活を普通に営みながら神を求めていく人の、神に行き着く形の一つの典型はこのようなものなのだと思う。
自己を捨てたのは、私でなく神と述べているので、これは第三夜の特徴。
そして彼女は、知性は普通の常識的な考え方から出てくるものなので、本当の洞察を汚すような動きをするから、本当の洞察を知性で操作、評価しないことが大切と指摘する。
彼女の境地は更にこの後深まりを見せる。