◎戦中戦後の首相の相談相手
山本玄峰は、終戦勅語の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・・」の文句を授けた人として知られる。
彼は、捨て子として出生。若くして失明しかけたのをきっかけに、四国遍路中に寺のお世話になり、その後必死に修行して開悟。
戦中も戦後も要人の相談相手であって、妙心寺派管長までやった。血盟団事件の井上日召と、武装共産党のリーダー田中清玄の二人を帰依させたことでも知られる。
ところが、ダンテス・ダイジの山本玄峰評は辛い。昭和36年山本玄峰は、辞世として「これで浮世狂言も終わりだ」と言って、自分で息を止めて臨終したが、終わるはずもない浮世狂言が終わるとは、これこそ浮世狂言ではないかと喝破している(アメジスト・タブレット・プロローグP113)。
浮世狂言のある世界と、そもそも浮世狂言のない世界がある。浮世狂言の終わりとは、浮世狂言のない世界に居ることだが、迷いである浮世狂言のある世界と、悟りである浮世狂言のない世界は、パラレルにあると言えるし、ないとも言える。
また悟りだけがあるのではなく、迷いがあっての悟りということもある。
それはさておき、自分で息を止めて臨終とは、自殺ではないのかとか、禅の指導者がそれでよいのかなど、長年ひっかかっている部分ではある。もっとも中川球童は山本玄峰の介護をしていたともいう。
老禅僧といえば、100歳でかくしゃくたる趙州だが、老いさらばえた山本玄峰も老禅僧。これもひとつの公案、立派な禅僧でも介護を受けねばならないのか。
禅宗全体として戦中は軍部を支持、その頂点近くに山本玄峰がいて、出口王仁三郎はその期間牢獄に居て軍部とは無縁。
もっとも終戦勅語の草案者と言えば、陽明学者の安岡正篤であって、彼もまた歴代首相の相談相手だった。
ネットで政治を見ていると、後だしジャンケンのように、ともすればいかにもその時点ですべての環境、条件が判明していて、判断するだけのように見えるが、そうではなく、出目のわからぬ博打を打っているようなものである。世間的には無謬とされる官僚群を率いて、インテリジェンス弱く、米ロ中の狭間で苦悶しつつ、コロナで追い込まれつつでは、首相も誰かに相談したくもなるのだろう。
世間では、世論が正しいと思われているが、軍事教育、愛国教育を一切やってこなかった日本では、まともな外交感覚の人は極めて稀れであって、マスコミもほとんど中国批判をしないので、それも世論の歪みを形成している。まことに今の人心は、マスコミと教育をとればほとんど残らないということがネット世論を見ただけでもわかる。
世論が信じられないということは、自分の考えが信じられないということだが、我々はそういう情報環境あるいは巨大なマインド・コントロール下で生きているのだ。