ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

軍事航空偵察とキューバ危機〜スミソニアン航空博物館

2022-03-07 | 歴史
スミソニアン航空博物館の「スカイ・スパイ」軍事航空偵察のコーナーから、
今日は冷戦とキューバ危機について焦点を当てたいと思います。


■ 冷戦の始まりと航空偵察

戦後の最初の10年間、冷戦といわれる時代に突入してすぐ、
アメリカはソ連の(後には「赤い」中国の)広大で封印された範囲に含まれる脅威、
すなわち核の有無を確認するという緊急性に駆られるようになります。

しかし当時の航空機は、ほとんどが爆撃機を改造したものにすぎず、
ただ周辺を偵察することに任務の範囲が限られていました。

その極秘裏に行われたミッション中に起こり、公表されていない事件で、
少なくとも数十人の偵察機乗員が死亡または捕虜になったといわれます。

アメリカが恐れていたのはソ連による「真珠湾攻撃の再来」つまり不意打ちでした。
そこで敵の動向を探るため上空からの偵察が行われるようになります。


のちに主流となる人工衛星は1940年代後半から計画がありましたが、
当時はまだ技術的なハードルが多く残っていたため、
その諸問題がクリアできるまでの間は、とにかく
カメラを目標の上空に持っていくしか手段がなかったのです。


気球を使った撮影も試みられました。
カメラを搭載した気球をイギリス、ドイツ、トルコから中央アジア経由で
1000機ほど打ち上げたものの、回収できたのは55台だけでした。

風任せで飛ぶ気球にどんな効果を期待していたのか、と
逆に現在のわたしたちにはそちらの方が大いなる疑問です。
もちろん偵察効果は皆無に近かったに違いありません。

しかし、そうこうしている間に光学技術が向上してきました。
迎撃する航空機やミサイルの影響を受けない高度からでも
目標を画像におさめることができるカメラやフィルムが出てきたのです。

より高い位置からでも偵察が可能となってからは、
航空機の性能も、高度に焦点を絞って開発されるようになっていきます。

そしてレーダーによる短波長領域だけでなく、近・遠赤外領域のセンサーなど、
時代はつぎつぎと新しい偵察のための手段を可能にしていきました。

そして前回もお話ししたように、ロッキード社は、究極の上空偵察機、
U-2とSR-71を世に送り出したのでした。


U-2とSR-71、伝説の偵察機のツーショット



初期のU-2ミッションが撮影したソ連中央部のチウラタムSS-6ミサイルサイト。

【ボマー・ギャップ】

カーチス・ルメイはそれが航空機っぽくないのが気に入らなかったようですが、
偵察機U-2はジェットエンジンを搭載したグライダーで、
高度8万フィートを飛行し、ソ連の上空をほぼノーマークで飛び回り、
より鮮明な写真を撮ることを可能にしました。


偵察によって撮影されたソ連の潜水艦群


U-2から撮影された原子爆弾の発射実験基地。

というわけでこの期間、アメリカはソ連についてかなりの情報を得ていました。
これが前提です。


日本人である我々にはいまいちピンと来ない言葉ですが、アメリカでは
冷戦時代、「ボマー・ギャップ」という言葉が、盛んに使われたそうです。

「ボマー・ギャップ」とはアメリカ当局が国内に向けてアナウンスした言葉で、

「ソ連はジェットエンジン搭載戦略爆撃機の配備において
我が国より優位に立っている」


ということを表しています。

キャッチフレーズではないですが、語感がキャッチーなせいか、
国民には数年前からそれが広く受け入れられていましたし、
特に国防費の大幅増額を正当化するための政治的な論拠となりました。

実際、ボマーギャップを埋めるため=ソ連の脅威に対抗するためという名目で
米空軍は爆撃機はピーク時には2500機を超える大規模な増強を行っています。


しかし、結論から言うと、実は
ボマーギャップは存在していませんでした
しかもこの大号令をかけた「中の人たち」は、
U-2の偵察がもたらした情報によって、これを知っていました。


「ボマーギャップ」がないことを明らかにした
U-2の偵察写真。
1956年にはこの事実が明らかになっていました。

しかし、「ボマーギャップがないことの証明」はできませんでした。

それが「悪魔の証明」(ないことは証明できない)だからではなく、
どうやってソ連の爆撃機大量配備はないことを知ったかが明らかになるからです。

アメリカの偵察技術の実態がソ連側にもバレてしまうことが何より問題ですし、
それに、ボマーギャップがあることにしておいた方が、
いろいろ便利(軍事予算の獲得もスムーズに行くわけ)ですしね。


そうそう、「ないことを知っているのにあるかのように決めつけて」といえば。

この半世紀後、ブッシュ政権も、大量破壊兵器があるという情報を根拠に
イラク戦争に突入していますが、これ、本当にあると思ってたんですかね?

凄まじい精度のアメリカの諜報&偵察能力をもってすれば、
実は大量破壊兵器がないことはわかっていたのに、
あえてわからないフリをして・・ってことじゃなかったのかしら。



閑話休題。

1960年5月に、U-2がソ連のミサイルで撃墜される撃墜事件が起き、
期待されていた冷戦の雪解けも頓挫してしまいます。



SR-71、ブラックバードは1960年代半ばに衝撃のデビューをしました。
約8万5,000フィートで飛行するマッハ3の航空機で、
瞬く間に傍受されない性能を確立し、
毎時10万平方マイルの速度で画像を収集しました。
これほど速く、高く飛ぶ飛行機は他にありません。

■ キューバ危機

キューバ危機のことを、英語ではCuban Missle Crisisといいます。
1962年の、この世界を揺るがした歴史の転換点、
キューバ危機では、空撮が重要な役割を果たしました。

航空写真によってキューバにソ連のミサイルが存在することも確認されたのです。



このU-2偵察写真には、キューバでのミサイル組み立ての
具体的な証拠が写っています。

ミサイル輸送機と、燃料補給やメンテナンスが行われるミサイル準備テントです。



この写真は見ておわかりのようにミサイル準備区域を低空から撮影しています。

このショットを撮影したパイロットは、
高度約250フィート(76m)を音速で飛行して生還を果たしました。




同じく、キューバ危機の時にキューバのサン・クリストバルに設置された
ソ連の中距離弾道ミサイルサイトのUー2による空撮写真です。



こちらはRF-101ブードゥーが撮影したミサイルサイトの写真。
ロシアのSA-2(地対空ミサイル)のパターンを見て、
アメリカはロシアがキューバを武装化していることを確認しました。


【アメリカ政府の表明】



キューバのミサイルの航空写真を国連で見せる
アドレー・スティーブンソンII(1962年11月)。

スティーブンソンは民主党の政治家で、安全保障理事会の緊急会合で
ソ連の国連代表ヴァレリアン・ゾーリン

「キューバに核ミサイルを設置しているかどうか」

を詰問口調で尋ね、ゾーリンが答えにくそうにしていると、

「翻訳を待つのではなく、イエスかノーで答えたまえ!」

と言い放ったことで有名になりました。
イエスかノーかで有名になった人は我が日本国にもいましたですね。
このときゾーリンは、

 「私はアメリカの法廷にいるわけではないので、
検察官のようなやり方で質問されても答えられない」

とごもっともなことをいってケムに巻きました。
まあ、結果としてイエスだったんですけど、
彼の立場では答える権限になかったのでしょう。


スティーブンソンはまた、ミサイル危機の対処法として

「ソ連がキューバからミサイルを撤去するなら、アメリカは
トルコにある旧式のジュピター・ミサイルを撤去することに同意する」

という交換条件を大胆に提案しています。
もちろんこの案は大勢から非難轟々だったのですが、
ケネディ大統領も弟のロバートもこれを評価しており、
実は明らかにはなっていない段階で、ケネディ政権はこの案を
ソ連側に打診していたのではないかという説もあるのだそうです。

歴史って、実は表向きはともかく、
明らかになっていないことの方が多いのかもしれない、
などと思ってしまう逸話です。



大統領執務室でカーティス・ルメイ将軍(ケネディの左隣)、
キューバミッションに参加した偵察パイロットと会談するケネディ大統領。

左から3人目は、キューバのミサイルが最初に確認されることになった
写真を撮影したリチャード・S・ヘイザー少佐です。


962年10月14日の日曜日の早朝、ヘイザー少佐は、
カリフォルニア州エドワーズ空軍基地で、急遽「USAF 66675」と再塗装された
CIA U-2F、アーティクル342(空中給油用に改造された2機目のU-2だった)
に乗り込み、「真鍮のノブ」作戦(Brass Konb)と名付けられた
キューバ上空飛行(ミッション3101)に出発しました。


メキシコ湾上で日の出を迎えた彼は、ユカタン海峡を飛行した後、
北に向きを変えてキューバ領土に侵入します。
その時点でU-2Fは72,500フィートに達していました。

ヘイザー少佐はカメラのスイッチを入れ、自分のミッションを行いました。
彼のU-2が島の上空にいたのは7分足らずでしたが、
あと5分滞在していたら、2つの地対空ミサイルにさらされる危険性がありました。

ヘイザー少佐にはドリフトサイト(爆撃機用の照準サイト)をスキャンして、
キューバの戦闘機や、最悪の場合、SA-2ミサイルが向かっていないかを確認し、
もしそうなら、ミサイルレーダーのロックを解除するために、
S字を描くように急旋回してから遠ざかるようにと指示がされていました。

しかし、キューバの防空網からは何の反撃どころか反応もありません。
ヘイザーはコースアウトして、フロリダ州のマッコイ空軍基地に向かい、
ちょうど7時間の飛行の後、米国東部標準時の0920に同基地に着陸しました。


着陸後、持ち帰ったフィルムはすぐにワシントンD.C.の
ナショナル・フォトグラフィック・インテリジェンス・センターで処理され、
最初に上がった画像は武装したガード付きのトラックで運ばれました。

解析の結果、NPICのアナリストは正午までにSS-4ミサイルの輸送機を確認。

10月22日、ジョン・F・ケネディ大統領は、ヘイザー大佐の写真によって、
ソ連がキーウェストからわずか90マイルのところに
核ミサイルの秘密基地を建設していることが証明されたと発表します。

それから起こった様々なことは今回の主旨ではないので省略しますが、
ソ連のニキータ・フルシチョフ首相がキューバからのミサイル撤去を命じたことで、
キューバ危機は終結することになったのでした。


ヘイザー中佐は、2005年にAP通信とのインタビューでこう語っています。

「危機が平和的に終わったことに自分以上に安堵した者はいなかったでしょう。
第三次世界大戦を始めた男として歴史に名を残したいとは思いませんから」




■ 歴代大統領と「偵察」
Presidents and Reconnaissance

アメリカの歴代大統領は、航空偵察による正確で最新の情報を信頼していました。
今日は最後にそんな偵察にかかわる大統領のシーンをお届けします。


航空写真を見るフランクリン・D・ルーズベルト大統領ジョージ・ゴダード准将
ゴダード准将については先日当シリーズで説明したばかりです。
いわば、アメリカ空軍の写真航空偵察のパイオニアというべき存在です。

偵察士官だった大統領の息子エリオット・ルーズベルト と組んで、
自分を性病検査のセクションに左遷した大佐を追い落とした、
というなかなかに黒い面を持つ人だったのが印象的。


Uー2航空機の役割について語っているドワイト・D・アイゼンハワー大統領

パイロットが撃墜されることになったU-2撃墜事件ですが、
スパイ行為を強く押し進めたのはアイクだった、という話でしたね。

この事件によって、冷戦の雪解けは棚上げになり、
アイクは絶好の歴史的名声を得るチャンスをレーガンに譲ることになります。


サムネで見たらビリヤードをしているのかと思ったのですが。
空中偵察で得られたデータから作成された3次元地形モデルを見る
リンドン・B・ジョンソン大統領


航空写真から作成した地形モデルを検討するジェラルド・フォード大統領
フォードの左で地図を指差しているのは、
当時国務長官だったヘンリー・キッシンジャーではないかと思われます。


空中偵察について説明を受けているジミー・カーター大統領
横に仁王立ちしている女性が誰かはわかりません。


偵察写真から得られた証拠について、
ロナルド・レーガン大統領が国民に語りかけています。

写真にはソ連のミサイルサイトが映っているようですので、
これは就任してすぐに、レーガン大統領が
ソ連を「悪の帝国」(an Evil empire)呼ばわりした時ではないかと思われます。

この何年か後に、ゴルバチョフと会談するためにモスクワに行ったレーガンは、

「今でも悪の帝国と思っていますか」

と聞かれて、すぐさまいいえ、と言った後、

「わたしが言ったのは別の時間、別の時代のことですよ」
"I was talking about another time, another era."

と答えたそうです。


続く。


京都紅葉のライトアップ(おまけ 国際空港のコロナ水際対策の現状)

2021-12-20 | 歴史

昨日MKがアメリカから帰国してきました。

成田に迎えに行ったのですが、結論としては連れて帰ることができませんでした。
今、海外からの入国状況がえらいことになっています。

迎えに行く前日、厚労省のHPに
「到着から検査が終わって外に出てくるまでの所要時間は1〜3時間」
と書かれていたので、自分の経験から、到着時間2時間後に
空港に着くように家を出たわけですが、駐車場に到着してから
MKからきたテキストを見てびっくり。

「着いた でも3日間ホテルで待機」

えええ〜!

オミクロン株の感染者が急激に増えたことを受け、水際対策が強化されて、
対象地域から入国した人は有無を言わさず3日ホテルで隔離され、
その後PCR検査で陰性なら空港に戻されるということになったのです。


いきなりの変更だったため、航空会社からの連絡などが全くなく、
わざわざ成田までいったのに連れて帰ることはもちろんできず、
(拒否したら『検疫法に基づく停留の措置を取る』とのこと)
ゲートから出てきてバスに乗せられるMKを見て帰ってきました。

帰ってSkypeで聞いたところによると、彼が連れていかれたのは水戸でした。

「水戸?なんで水戸」

空港から水戸まではバスで1時間半。
検疫所が棟ごと確保できるホテルが、成田&羽田周辺では足りなくなり、
急遽遠隔地のホテルを待機用にしているらしいのです。

ホテルに着いたMKによると、ベッドはメイクされておらず、
シーツも3日分積み重ねてあり、(ハウスキーピングが入れないから)
食事は時間になればドアのノブにかけてあるという拘置所並みの待遇だとか。

「こんな目に遭うとわかってたら絶対帰ってきてない」

まあそうだよね。


後から分かったところによると、水戸くらいならまだマシで、
便によっては、入国後そのまま飛行機に乗せられて福岡や名古屋に飛ばされ、
現地のビジホで3日待機して、また国内便で戻ってきているのだとか。

どんなイカゲームだよ。イカゲーム知らんけど。




さて、気を取り直して、今日はこの秋唯一の行楽となった
京都の紅葉見物旅行のご報告です。

旅行といってもTOは定期的に京都に仕事で行っており、秋からは
それまでリモートで行っていた各種作業が自粛明けにより
対面に変わったので、それに着いていったという程度ですが。

宿泊は前回もお世話になった祇園白河の料理旅館です。


今回は三年前に町屋を改築した別館の方に泊まりました。
暗証番号で鍵が開く方式で、一階と二階に一室ずつがあります。


寝室と座敷別、トイレと風呂は二箇所あって外国人もOK。
この日はもともとスイスからの家族連れが一棟全部予約していたのを
キャンセルして空きが出たので泊まることができました。


次の朝、表通りから人の声が聞こえてきました。



この近くには結婚式プランナーの事務所も多く、吉日の朝になると
この通りで町屋をバックに写真を撮る新郎新婦が何組も現れます。

「過激な愛情表現はご遠慮ください」
「大声での撮影指示などはご遠慮ください」

そんなポスターが街角に貼られるくらい、ここは結婚写真撮影の名所で、
人通りの少ない朝の時間帯にフォトセッションがいくつも行われるのですが、
ポーズをつける人が笑ったりする声が、案外家の中に響いてきます。

まあ、中国人観光客が京都中にあふれていた頃は、
聞こえてくる声の大きさはこんなものではなかったわけで、
今回の京都は人出の多さの割に街は静かな印象でした。

また、着物を着付けて街中を歩く女性は何人も目にしましたが、
皆日本人のせいか、とんでもない着付け(服の上に着物を着て靴はブーツとか)の
思わず目を背けたくなる集団がいなくなったのにはほっとしました。


関西ではCMにも出ているらしい女将は、元CAで英語も堪能。
泊まるたびに毛筆の心のこもった手紙を下さるのですが、
この日、チェックアウトの日に置かれていたのは
鳥獣戯画にさりげなく筆を加えた傑作でした。


マスク未着用のうさぎ、密そのもののお相撲を撮るウサギとカエル。


こちらのウサギさんはマスク着用です。


この後、非常事態宣言は解除されました。


ここでちょっと不思議な話を。

前回姉と妹が一緒にこの旅館にきてこの部屋に泊まったのですが、
妹がスマホで撮ったこの庭の写真には、半分透けた男性が写っていました。

「板前さんだ」「板前さんにしか見えないね」

男性は角刈りで、10人に見せたら10人が板前だというような容姿をしていました。
昔から同じこの場所で歴史を重ねてきた料理旅館ですから、
板前さんの想念が留まって居ても不思議ではないという気がします。

そのことを思い出しながら、今回何枚か撮りましたが、
わたしの写真にはその気配もありませんでした。


ここで鱧鍋をいただきました。
松茸が香りを添えます。


柿をくりぬいた中にぬたっぽいものが入った前菜。


別の日にはキノコたっぷりの「猪鍋」をいただきました。
薄切りにした猪肉は京都の名物で、あっさりした味わいです。


京都に来るとつい行きたくなるのが、鶏料理の八起庵。
TOは京都に行くたびに必ずといっていいほどここでお昼を食べ、
それから仕事に行っているので大将とも顔馴染みです。


この日は前もって予約して鴨鍋をいただきました。
先日東京の蕎麦屋で食べた鴨つけ蒸籠の鴨は固くてパサパサで、
まるでレバーのような味がしましたが、ここのはそんなのとは違い、
噛み締めるとじわっと旨味が感じられます。
「カモがネギ背負って」といわれるくらい、ネギとの相性は絶妙。
京都に行くことがあれば一度はお試しいただきたい、滋味なる一品です


タクシーに案内してもらって比叡山延暦寺に行きました。
延暦寺の根本中堂は現在大改装工事中です。

屋根を解体して葺き替えするのですが、作業のために
中堂全部を建物で覆ってそこで作業をしているのです。


逆に滅多に見られない葺き替え過程を見るチャンスです。
梁などには、前の改築のときの大工が残した署名が出てきたりするそうです。
100年に200年後の人々に見せるために自分の名前を書くのは
宮大工に与えられた密かな喜びだったに違いありません。


新し物好き&コーヒー好きの京都ですので、
やっぱりブルーボトルコーヒーが進出しているのでした。


さすが京都、古民家の壁をそのまま残して。
昔は料理屋だったのかもしれません。



わたしはノンデイリー(牛乳断ち)派なので、代わりに
オーツを使ったラテを楽しみますが、オーツと一言で言ってもいろいろあって、
一番美味しいと思うのがイギリス製のマイナーフィギュアズのオーツドリンク。

アメリカでは3ドルで買えるのに、日本ではお高いのが困りものですが、
ブルーボトルコーヒーでは、このオーツで作ったラテが飲めます。



いよいよ紅葉の季節到来です。
まずは旅館から歩いていける南禅寺に行ってみました。



なぜここから撮るのにこれだけ人が集中するのか。



ゆるキャラ風仏様。


南禅寺から哲学の道まで歩くことにしました。



哲学の道沿いでは、左耳を避妊済みとしてカットされたメスの「地域猫」が、
毎日餌をやりに来る近所の「猫おじさん」の出待ちをしていました。


紅葉の名所のひとつである永観堂では、この季節
夜間のライトアップを公開していました。
基本的に京都というところは夜になると神社仏閣は明かりを消して
その周辺すら真っ暗になるというイメージですが、
LEDの登場以来いろいろと変わってきたということです。

自粛が明けたばかりで、昼間の永観堂の参拝(っていうのかな)者も
大変な人出だったそうですが、夜の部のために一旦全員を追い出し、
改めて入場料を取って人を入れるということをしていました。


チケットの購買だけでなく、検温も行うので、
中に入るのにとてつもなく時間がかかりそうです。


わたしたちはこの1ヶ月前に一度京都に来ており、
誰も居ない状態の永観堂を拝観していたので、諦めて帰りました。


この日の夕ご飯は、四条の有名なニシンそばを食べに行きました。
お店の地下は地元のライオンズかロータリーの会合が行われており、
その談笑が1階に居ても聞こえてくるというくらい盛会の模様。

女将によると、自粛が明けてから集まってくる方々は
皆嬉しさのせいか、はしゃいで飲みすぎる傾向にあり、
女将の旅館でも酔っ払って旅館を出た途端転んで怪我をしたり、
ハメを外しすぎてハラハラさせられたりするのだとか。

またこれも女将によると、自粛中は、舞妓・芸妓の同伴も
時間制限が設けられており、8時以降お店にいると「自粛警察」の指導を受けます。

自粛警察は祇園の「中の人」が自主的に行うもので、これは、
舞妓ちゃんや芸妓ちゃんがいる席が感染源にでもなったら「えらいこと」で、
花街が「あかんようになってしまう」という危機感から行われていたとのことです。

そのときは自粛が明けた直後で、女将もこのような話を
思い出のように語っておられましたが、はてさて、
今回のオミクロン株、果たして事態はこのまま何事もなく収まるものでしょうか。

今回MKの入国でわかったのは、政府が必死で水際対策を行っていることですが、
人の流れを完全に止めるわけにはいかない現状ではどうなっていくことやら。




日本を攻撃させた日本軍士官 ワダ・ミノル〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-12-08 | 歴史

フライング・レザーネック海兵隊航空博物館のHPを検索していて
一人の帝国陸軍軍人にまつわる資料を見つけ、わたしは強い衝撃を受けました。

彼は、フィリピンにおける日本軍の侵攻を阻止する
アメリカ海兵隊の航空機に乗っていました。
捕虜として捕らえられたこの日本軍の士官は、
アメリカ軍に日本軍の位置と状況を語り、攻撃に協力していたのです。


1945年8月9日、長崎に第2の原爆が投下された日、
海兵隊爆撃隊VMB-611のPBJ-1Dミッチェル爆撃機と
海兵隊戦闘隊VMF-115のF4Uコルセア戦闘機は、
ミンダナオ島ザンボアンガのモレット飛行場から
帝国陸軍原田中将の司令部への攻撃に向けて離陸準備をしました。

先頭機のパイロットは3人の変わった乗客の名前を
フライトマニフェストに追加しなければなりませんでした。
陸軍の地上連絡将校兼攻撃調整官のモーティマー・ジョーダン少佐、
通訳のチャールズ・イマイ軍曹、そして一人の日本軍将校の名前を。

将校は日本軍の軍服を着たまま、無線機のガンナーの位置に座り、
見覚えのある目印を探していました。
彼はかつて自分が所属した軍の司令部に爆撃機を誘導し、
2万2千ポンドの爆弾と5インチのロケット弾を投下させたのです。

彼の名前はワダ・ミノル。

実なのか稔なのか穣なのか、その名前も正確にわからないのは、
日本語での彼についての資料が一切残されていないからです。
ついでに言えば、媒体によって彼のランクは
「Lieutenant」「Junior officer」「2nd Lieutenant」と様々です。


英語のwikiはありますが、そもそも彼が作戦に参加したこと自体
アメリカでも戦後ずっと機密扱いされてきました。
そしていまだに全容が公開されていないという状態です。

まずは英語のWikiを翻訳しておきます。

和田ミノルは、日本で教育を受けた米国人である。
日本軍ではジュニア・オフィサーであり、1945年にミンダナオ島で
米軍の捕虜となった「KIBEI」である。

「キベイ」はもちろん帰米から来た英語で、1940年代によく使われました。
アメリカで生まれた日系アメリカ人が日本で教育を受けた後、
アメリカに戻ることを意味しています。

日系人の中には、日本語や日本の文化を学ばせるため、
二重国籍の子供たちに日本に帰国させて教育を受けさせる人がいて、
彼らが帰ってくると「キベイ」と呼ばれました。

和田はアメリカに生まれた日系アメリカ人で、日本に渡りました。
何事もなく帰米していれば文字通りの「キベイ」だったのですが、
そこで戦争が始まってしまったのです。


彼は1945年にフィリピンで捕虜になった。

彼は海兵隊の爆撃機に重要な情報を提供し、爆撃機を率いて
日本の第100師団の司令部を攻撃して大成功を収めた。
和田の動機は、太平洋戦争の早期終結に貢献して
犠牲者を最小限にしたいというものであった。

戦後しか知らないこんにちの我々にとっても、
和田という士官のとった行動は実に奇異に感じられます。

当時の日本人、しかも軍人が、敵に自軍の情報を流し、
あまつさえ攻撃の指揮に参加したというのですから。

百歩譲って、その理由が金のためとか、命惜しさなら
まだわからなくはないですが、その理由が

「戦争を早く終わらせたいと思ったから」

現代の日本における護憲派や国が武器を持つことに拒否を示す人々は、

「敵が侵略してきたら抵抗せずに降参すれば良い」

などと言いますが、この和田の言い分は
それと同じベクトルの独善的な理想論です。

共通点は、それ(自分の理想とする結論)に到達する過程で起きる
第三者の生き死についてはあえて「見てみないフリをする」ということです。

そしてわたしは、次の一文を読んで、さらなる衝撃を受けました。

捕虜になった際、和田は英語を話せないことが判明した。

■ 米海兵隊航空隊ミンダナオ攻撃

1945年8月10日、日本の降伏を間近に控えたフィリピン・ミンダナオ島で、
海兵隊の飛行機が空を飛び、日本軍の進駐を阻止しました。

先頭の飛行機で海兵隊を指揮していたのは、捕虜となった日本軍将校の
和田ミノル中尉であり、密林の中の攻撃目標の位置を案内していました。


米軍PBJミッチェルの無線オペレーター席に座り
日本軍第100歩兵師団の本部施設の位置となる目印を探している
捕虜、和田ミノル中尉(1945年8月9日、フィリピン・ミンダナオ島)


これは戦時中、日本軍将校がアメリカ軍航空機に搭乗員し、
米軍の攻撃に協力した、最初で唯一の出来事となりました。

なぜミンダナオ島で空中戦を展開する米海兵隊に和田中尉が協力するに至ったか。
この特異な出来事に至るまでに、太平洋でそれまでに起きた
いくつかの背景を理解する必要があります。



●1942年4月18日、南西太平洋地域(SWPA)の最高司令官に
ダグラス・マッカーサー元帥が任命されました。
SWPAには、オーストラリア、ニューギニア・パプア、フィリピン、
そしてソロモン諸島の一部が含まれており、マッカーサーの連合軍司令部は、
主にアメリカ軍とオーストラリア軍で構成されていました。

●1945年6月までに、マッカーサー司令部は長期にわたる作戦を成功させ、
ニューギニア・パプア地域から日本軍を排除し、
オーストラリアは日本軍侵攻の可能性から解放されます。

●次に奪還すべきだったのはフィリピン諸島でした。
それを踏まえてマッカーサーがマニラに司令部を移してまもなく、
1945年6月21日、沖縄戦は終了します。

●8月までに、ジョージ・C・ケニー大将の指揮下にある
マッカーサーのアメリカ空軍部隊は、すでに沖縄に司令部を移し、
日本本土への爆撃に専念することになりました。


ジョージ・チャーチル・ケニー将軍


●1945年8月9日、アメリカは第二次世界大戦中における
2回目の原子爆弾投下を長崎に行い、日本に壊滅的な打撃を与えました。

チャールズ・W・スウィーニー少佐が操縦する
B-29スーパーフォートレス「ボックスカー」による攻撃は、
日本だけでなく世界の運命を変えたといえるかもしれません。

フィリピンの日本軍

SWPAで日本軍を打ち破ったといっても、マッカーサー将軍の陸軍は
日本の防衛上のいくつかの「強力なポイント」をスルーしており、
アメリカ海軍もラバウルの日本海軍基地を実質無視していました。

マッカーサーはここに至ってフィリピンの日本軍に対峙する決心をしました。
この地の日本軍のほとんどは、自分たちの戦況の不利と
兵站の窮状などで陥った苦境にもかかわらず、降伏を拒否していました。

原田次郎陸軍中将が率いる日本陸軍第100師団は、
大幅に戦力を落としてミンダナオ島に駐留していました。
原田軍に対抗するのは、ロバート・L・アイケルバーガー将軍が指揮する
アメリカ第8軍と連合軍でした。


アイケルバーガー大将

アイケルバーガーは、日本軍の残存兵力をすべて破壊し、
ミンダナオ島の解放を成し遂げることを任命され、
残存兵力に対処するため、第1海兵隊航空団(第1MAW)の支援を受けました。

第1MAWは、1942年8月にガダルカナルに最初に到着した海兵隊航空部隊で、
カクタス航空隊を生んだ航空隊として有名です。

1945年、第1MAWの活動の中心はソロモン諸島の防衛になっていました。
1943年4月から1945年6月まで第1MAWの司令官を務めた
ラルフ・J・ミッチェル少将は、日本軍の駐屯地を迂回して
しれっと帰投してくるだけの部下に嫌気がさし、
一部の飛行隊をフィリピン攻略に参加させるよう上層部に圧力をかけていました。


ミッチェル少将

西太平洋での作戦の中心はフィリピンに移りました。
第1MAWを含む地上の海兵隊航空部隊は、マッカーサーの第5空軍に移されます。


その頃、ウィリアム・F・ハルゼー提督は、
第1MAWの4つのコルセア飛行隊(MAG-12)が

「その能力をはるかに下回る役不足の任務に就いている」

と感じていました。
また、南西太平洋地域を担当していたトーマス・C・キンケイド提督
ここでは「航空援護が不十分」と訴えていたことにも気付いていました。

そこでハルゼーはマッカーサーと連絡を取って、
たとえば第32海兵航空群の海兵隊爆撃隊611(VMB-611)を
PBJミッチェル爆撃機を装備したフィリピンで唯一のPBJ飛行隊にしたり、
1945年4月までに、VMB-611とMAG-12コルセア飛行隊を
再編成してフィリピンに移動させるなどして強化しました。

ちなみに、先日ここで扱ったジョー・フォス少佐
VMF-115("Joe's Jokers")F4Uコルセア飛行隊の指揮官として
フィリピンに赴く予定でしたが、マラリアに苦しめられていたため、
フィリピン派遣直前にアメリカに帰国しています。

■日本軍捕虜 ワダミノル中尉

和田ミノルという人物については、1945年8月の一瞬をのぞいて、
ほとんど全てが謎に包まれたまま今日に至ります。

わかっていることは、先ほどまでの経緯を経てミンダナオに進駐した米軍が
日本軍部隊の排除を進めていく過程で多くの日本兵を捕虜にしていく中、
その捕虜の中に和田ミノル少尉がいたということです。

和田は第100師団に1年以上所属して輸送担当を務めており、
そのため、島や地形のことをよく知っていました。


和田はアメリカで生まれ、日系の「帰米」の習慣に従って、
日本に渡り教育を受けて東京帝国大学に入学しました。

英語の記述では、彼がその後陸軍士官学校に入学したとなっていますが、
厳密には、和田が入学したのは久留米にあった陸軍予備士官学校でした。

これは徴兵した兵の中から旧制中学以上の教育を受けた者を選抜し、
「甲種幹部候補生」として入校させ、
下級幹部指揮官に養成するための組織です。

戦争が始まって徴収された和田は帝大生であったことから
このシステムによって見習士官として原隊に復帰後、
予備役少尉に任官して戦争に参加していたのだと思われます。

望むと望まないにかかわらず、日本の大学生は
皆が同じ道を辿り、指揮官としてアメリカとの戦争に投入されました。

和田は陸軍の輸送課に配属され、1945年には原田次中将が指揮する
フィリピン南部ミンダナオ島の日本軍第100歩兵師団にいました。

ここからは、和田自身が捕虜になった後、通訳を通して
アメリカ軍に対して語ったこととなります。

「戦争が進むにつれ、殺戮を嫌悪する気持ちが高まりました。
戦争の本質に強い幻滅を覚えるようになっていったのです。
私は日本と軍が声高に叫ぶ戦意高揚に対し冷淡でした。

戦争を目の当たりにすると、何よりも私は
日本列島と日本人に平和が戻ってくることを望みました。

戦争が(というのはつまりアメリカ軍の攻撃ということになるのですが)
フィリピンを過ぎ、硫黄島を過ぎ、沖縄を過ぎようとしている時、
私の中の反戦感情はますます高まりました。

ミンダナオ島では、目の前で行われている戦いと死が
ますます無意味なものに感じられるようになっていきました」



そして、1945年8月の最初の週、和田はアメリカ軍に捕らえられました。
投降したという説もありますが、今となっては真実はわかりません。
いずれにしても彼は生きて捕虜となったのでした。


日本軍捕虜和田稔中尉の調書書類作成をするL・F・マイバッハ中佐
(1945年8月7日、フィリピン・ミンダナオ島ダバオのリビー・フィールド)


日本人の捕虜は諜報将校に尋問されるのが常でした。
和田が捕まった後、海兵隊の情報将校は和田を徹底的に尋問しました。
尋問担当が珍しく同情的な人物だったせいか、和田は

「日本はこのような世界規模の紛争を起こすべきではなかった。
それは間違っている。
戦争に幻滅し、戦争を終わらせたいと強く願っていた。
戦争を止め、日本国民に究極の平和をもたらすためなら、
自分の命を犠牲にしても何でもする」

「将軍や提督、昔ながらの軍隊が国民にこの戦争を強要した。
一般の日本人は戦争を望んでいない」


と語りました。

もちろん、アメリカ側も最初から和田を信用したわけではなく、
疑念を持つものもいましたが、最終的に彼は嘘をついていないようだ、
と尋問官は納得しました。

そして、おそらくこの日本人は使える、と思ったのでしょう。
言葉巧みにアメリカがアメリカがミンダナオ島で
戦争を1日も早く終わらせるのを手伝うように、
つまり情報を彼が自発的に渡すように仕向けて行きました。

もちろん彼は最初それを拒否しました。
しかし、米軍にとって和田のような「良心的日本人」は
願ってもない得難い人材でした。

末端の兵ではなく、地理に詳しい指揮官・下級将校であり、
その「良心」を利用すれば嘘の情報を教えられるなど、
造反のリスクもないに違いありません。

結局彼は米軍に協力することを承諾しました。

それは、ほんの数日前、トルーマン大統領が、原爆投下を決断したのと
不気味なほど似た思考プロセスを経てたどり着いた結論でした。

つまり、トルーマンが原爆投下を決断したのは
日本への侵攻による損失の拡大を避けるためであり、
和田にとっては、アメリカ軍に協力して日本軍司令部施設を破壊することは、
長期にわたる無意味な戦闘による損失の拡大を防ぐという意味があります。


つまり、繰り返しになりますが、大局の目的のためには、
その過程で失われる人命の価値にはこの際目を瞑る、という論法は、
「トロッコ理論」と言われる究極の選択で、人数の少ない方に
トロッコの線を切り替えて多人数を救うというのに類似しています。

誰がどのように誘導したかはわかりませんが、このときのアメリカ軍情報部には、
よほど心理戦に長けた人物がいたのでしょう。
彼は和田の良心をうまくくすぐり、おそらくおだてて、
拷問することなく捕虜の完全なコントロールに成功したのです。

 大日本帝国第35軍の第100歩兵師団は、
1944年初頭、ミンダナオ島で活動を開始していました。
戦闘経験の豊富な日本軍の精鋭部隊で構成されており、
アメリカ軍の侵攻を「何としても」撃退することを任務としていました。

そんな精鋭部隊の抵抗を打ち破る方法を探していた海兵隊にとって、
和田の情報は、非常に歓迎されるべきものでした。


第1海兵航空団の戦闘機・爆撃機のパイロットにブリーフィングを行う
米陸軍地上連絡将校モーティマー・H・ジョーダン氏(左)
日本軍捕虜の和田稔中尉(中央)
通訳のチャールズ・T・イマイ軍曹(1945年8月9日)


こうして和田中尉のアメリカ軍への協力が決まりましたが、
ミンダナオ島のキバウェ-タロモ・トレイル地域は
起伏に富んだ地形と密林に覆われており、
アメリカ軍が日本軍の司令部を発見するためには、
和田本人が米軍を率いてそこに連れて行くしかありませんでした。

このようにして、第二次世界大戦中に限らず、前代未聞となる
「敵将校に率いられて行う空襲」の舞台が用意されたのでした。


ブリーフィングで和田の指し示す地図の場所を英語に通訳して
爆撃隊のパイロットに説明しているイマイ軍曹
和田は英語が喋れないのでイマイがすべて通訳を行った


飛行前のブリーフィングで、和田は地図上の日本軍の位置を指摘し、
爆撃目標となりそうな場所を指摘しました。
そしてその後、シドニー・グロフ少佐が操縦する先頭のPBJに搭乗しました。


ミンダナオ島ダバオのリビーフィールドで、
日本人捕虜和田ミノルの名前をフライトマニフェストに追加する
米海兵隊のPBJミッチェルパイロット、シドニー・グロフ(右)


先頭機の無線兼銃手の席に座った和田は、空爆の様子を見続けました。
和田は英語がほとんど話せなかったので、チャールズ・イマイ軍曹が
指示を聞いてフライトクルーに伝える役割を担っていました。

イマイ軍曹が和田の指示を翻訳し、同じ爆撃機の機首に乗っている
空爆調整官のモーティマー・H・ジョーダン少佐に伝えます。
イマイはさらにその情報を無線で爆撃機に伝えるという流れです。


米軍のPBJミッチェルの無線オペレーターの位置から
日本軍の第100歩兵師団の本部施設を見つけるために目印を探す
日本軍捕虜の和田中尉



自らが率いた爆撃機が日本の第100歩兵師団本部に
爆弾を投下しているのを見る和田稔中尉
さぞ複雑な心境であったことと思われる
(1945年8月9日、フィリピン・ミンダナオ島)

ジョーダン少佐によると、和田はいくつかの重要なターゲットを特定し、
そのターゲットへのナビゲーションも非常に正確でした。
和田の助けを借りて、海兵隊はナパーム弾、破片爆弾、
ロケット弾、重機関銃の射撃で目標地域を叩きました。

ジョーダンは攻撃後このように言っています。

「日本軍の将校が我々を目標地点まで連れて行ってくれたので、
あとは爆弾を思う存分落とすだけだった。
やりすぎたといってもいいくらいだった

和田中尉が指定した場所に数トンの爆弾が投下された後、
戦災査定では第100師団の指揮能力が破壊されたと結論づけられました。
その結果、ミンダナオ島での戦闘は一夜にして終結したのでした。


アメリカ軍のPBJミッチェル爆撃機に乗って帰路につく和田
アメリカ軍に協力して行われた空襲について何を思う


任務終了後、和田は当然のことながら憂鬱そうに見えましたが、
自分の行動に後悔の念はないらしい、と周りは判断したそうです。

海兵隊の空襲を見ていた和田が、VMB-611の飛行技術について、
"You clazy six er-reven Malines pletty good fryers. "
(日本人英語に多いLとRがごっちゃになった発音)
とお世辞めいたことを言ったからだというのですが・・。

これを卑屈と思うのはわたしが日本人だからでしょうか。


■ なぜアメリカ軍に協力したのか

「戦争を早く終わらせたい」という建前はともかく、
なぜ彼は尋問官の協力要請に素直に応じたのでしょうか。

彼はアメリカで生まれた日系アメリカ人でありながら、
「キベイ」の慣習によって幼い頃日本に送られたようです。

日本での生活は、おそらくアメリカ生まれであることを隠さねばならず、
アイデンティティに苦悩しながら成長したのかもしれません。

学生、しかも東大の学生でありながら英語が全く話せなかったというのは、
日本人のインテリには今日でも全く珍しいことではありませんが、
彼がアメリカ生まれであることを考えると異様です。

これを彼の屈折した自我と結びつけるのは穿ち過ぎでしょうか。

これも想像ですが、自分が生を受けた国のことは、戦争が始まってからも
周りの日本人のように敵視することはできず、ましてや、
お国のために命を捧げるに足る愛国心などさらさら持たないまま学徒動員され、
入隊後は表面を取り繕って軍隊生活を送ってきたのではという気がします。

しかし、あの8月10日、任務を終えて帰ってきた和田中尉は、
海兵隊員の目には、自分のやったことにむしろ満足しているように見えた、
と報告されており、それは、彼の人生において、終戦に貢献するという
重要なことを成し遂げた達成感からだろうとアメリカ人たちは考えました。


1945年8月10日の作戦終了後、和田は「国を持たない人間」になりました。
報復から守るために過去を消し、新しい身分と姿を与えられたのでした。

それ以降、和田の消息は不明となりました。

この日の記録は35年以上も機密扱いとなっており、
現在でもアメリカ海兵隊の公式史料には掲載されていません。


フライング・レザーネック航空博物館シリーズ続く




ナバホ・コードトーカーズ〜フライング・レザーネック航空博物館

2021-11-03 | 歴史

サンディエゴの海兵隊航空博物館、「フライング・レザーネック」。
わたしがここに見学に訪れたとき、相変わらず艦内は森閑として、
わたし以外の見学客は二組程度というところでした。

その中の中年女性の見学者が、この展示の前で立ち止まり、

「ナバホ・コードトーカーじゃないの」

と言ったのには、失礼ながら少し驚いたものです。
まあ、わざわざこんなマイナーな博物館に
お金を払って見学に来ているような人なら
知っていても全く不思議ではなかったのですが。

それに、ナバホ・コードトーカーは「ウィンド・トーカーズ」というタイトルで
映画にもなっていますから、それで知ったアメリカ人も多いかもしれません。

Windtalkers (6/10) Movie CLIP - Call in the Code (2002) HD

サイパンの戦地から送られたコードトーカーの言語を
日本軍の暗号解読班が全く聞き取れないまま、
USS「カリフォルニア」はその情報をもとに艦砲射撃を行うシーンです。

「フライング・レザーネック」に展示されているのは、
ナバホ族のコードトーカーのオフィシャル・ユニフォームでした。

いくら特殊な分野とはいえ、コードトーカーもアメリカ軍兵士なのに、
これほど民族色を前面に打ち出した制服を公式採用するのは、
海兵隊の少数民族に対する敬意の表れといえるかもしれません。

真っ赤なキャップ、真っ黄色の(現地の説明にはゴールドとあった)シャツ、
これにライトカラーのズボンを合わせて着用しました。
ライトカラーは「母なる大地」を意味する色です。

また、靴の色(アバローン=アワビの内側の色)は「聖なる山々」を表しました。


着用例ですが、このおじいさんたちが着ているのは、
それに似た既製品で、おそらく自分たちで探してきたのだと思われます。
二人のシャツの色がかなり違っていますね。
このゴールド色は彼らの主食となっていたとうもろこしの花粉を表します。



これに赤い帽子はちょっと派手じゃないか?と思いますが、
赤い色そのものが海兵隊を意味しているそうです。

そしてベルトは、ファッション用語でいうところの「コンチャベルト」で、
いわゆるインディアンジュエリーの装飾が施されています。



以前、アメリカ軍が暗号として
ネイティブ・アメリカンのナバホ族の言語を使い、その言葉を喋る
ナバホ族をコードトーカーとして採用していたという話をしたことがあります。

ここでもう一度コードトーカーなるものについて解説しておきます。
それは、暗号通信手段としてあまり知られていない言語を使用するために
戦時中に軍が採用した人のことです。

コードトーカーは今日、世界大戦中に採用されたネイティブアメリカンの
サービスメンバーのこととされています。

これらネイティブアメリカンの言語はアルファベットを使わず、
さらに発音も独特で、その言語がマザータングでない者には習得は
まず不可能であるということが暗号に使われた大きな決め手となりました。

米国海兵隊は約400〜500人ものネイティブアメリカンを採用し、
秘密の戦術メッセージを送信する仕事をしていました。
コードトーカーは、それぞれの部族の言語に基づいて開発されたコードを使用し、
軍の通信システムを介してメッセージを送受信しました。
第二次世界大戦の最前線における通信で、コードトーカーは
暗号化の速度をおおきく改善したと言われます。

■ ナバホ・コードトーカー

前回お話ししたときはナバホコードについてだけ取り上げましたが、
海兵隊の何百人ものコードトーカーの出自はひとつではありません。
その中で主流となったのは、
コマンチ族、ホピ族、メスクァキ族、ナバホ族
といった部族です。

【ナバホ】Navajo

ナバホ族のコードトーカー、サイパン、1944年6月

海兵隊にナバホ語を暗号として使用することを提案したのは、
ロサンゼルス市の土木技師であるフィリップ・ジョンストンという人物です。

ジョンストン

第一次世界大戦のベテランであるジョンストンは、
ナバホ族の宣教師の息子としてナバホ族居留地で育ちました。
彼はナバホ語を流暢に話した数少ない非ナバホ人の一人でした。
真珠湾攻撃が起こると、多くのナバホ族の男性が軍に協力を申し出ました。

ナバホ語の文法は大変複雑で、同族内の最も近い親戚でさえ
言葉を相互に理解することはできないそうです。
あまりに複雑なので方言も含めると第二次世界大戦の勃発時、
言語を理解できた非ナバホ族の数は30人未満だったというくらいです。

しかも当時、それはまだ文章として書かれたことのない言語であり、
ジョンストンはナバホ語が解読不可能なコードとして
軍事的な使用に耐えると考えたのです。

大東亜戦争開戦直後は、日本軍はアメリカ軍の暗号をたやすく解読していました。
「暗号学」はありませんでしたが、アメリカ国内で学問をしたり住んでいて
それなりに文化について理解をしていたこともその糸口となったのです。

アメリカ先住民族の言葉は日本人には全く馴染みがなく、
想像もつかないということは、解読されにくいということです。

しかしこれは画期的という前に実に皮肉な思いつきでした。 
人種隔離が公然と行われていた当時のアメリカでは、
政府や宗教団体が運営する寄宿学校でも、当たり前のように
先住民の同化政策に基づき、伝統的な部族の言語で話した学生を
規則違反で罰するようなことが行われていたからです。

1942年、ジョンストンは、ナバホ族の男性を伴って海兵隊指揮官と面会し、
当時の暗号機で30分かかる暗号の送信と解読を 
ナバホ族がわずか20秒でできることを示しました。

これで海兵隊はコードトーカーとしてナバホ族を採用することを決定します。
最初の29人はキャンプペンドルトンでナバホコードを作成しました。

彼らは英語のアルファベットの各文字に彼らの言語からの単語を使用し、
単純な換字式暗号を使用してエンコードおよびデコードします。
コードトーカーたちは、

ナバホ語には存在しない単語を存在する単語に置き換える
さらにそれをナバホ語に翻訳して暗号にする


という段階を踏んで、解読されにくい置換暗号を作りました。
たとえば、

BATTLESHIP(戦艦)→ WHALE(鯨)→ LO-TSO
AIRCRAFT CARRIER
(空母)→BIRD(鳥)TSIDI-MOFFA-YE-HI

MINESWEEPER
(掃海艦)→BEAVER(ビーバー)CHA

SUBMARINE
(潜水艦)→IRONFISH(鉄の魚)BESH-LO

DESTROYER
(駆逐艦)→SHARK(鮫)CA-LO

と言った具合です。
また、Cを表すのに、CATの猫を意味するMOSSI、
Aを表すのに「アリ」を意味するwo-la-cheeが使われるというように
アルファベットを言い換える方法も編み出されました。

ナバホ・コードトーカーは、その技術、速度、正確さに定評がありました。
硫黄島の戦いでは、戦闘最初の2日間、6人のナバホコードトーカーが
24時間体制で任務を行い、800を超えるメッセージを送受信しましたが、
エラーは一度たりとも発生しませんでした。

この時の信号隊司令は、後に、
「ナバホがいなかったら、海兵隊は硫黄島を占領することはなかっただろう」
と語っています。



■第一次世界大戦のコードトーカー

さて、コードトーカーの歴史は第一次世界大戦からすでに始まっています。
その頃のコードトーキングは、チェロキー族とチョクトー族が採用されました。


【チェロキー】
米国第30歩兵師団のチェロキー兵士に、第2次ソンムの戦いで
メッセージを送信する仕事が割り当てられています。

【チョクトー】
第一次世界大戦中、米陸軍第36歩兵師団の中隊長が、
チョクトー族の二人の兵士の会話を耳にしたのがきっかけです。
その後大隊には8人のチョクトーの男性がいることがわかり、
彼らにチョクトー語で暗号通信する任務が与えられました。


チョクトー・コードトーカー

1918年10月26日、彼らが投入されると戦闘の流れは24時間以内に変わり、
72時間以内に連合国は総攻撃を開始しました。

■第二次世界大戦アメリカのコードトーカー

第二次大戦では上記の部族以外にも、
ラコタ、モホーク、コマンチ、トリンギット、クリー、クロウ
のコードトーカーが太平洋、北アフリカ、ヨーロッパに配備されました。

【アシニボイン】Assinibboine
アシニボインはアメリカ北部からカナダ南部の先住民族です。
アシニボイン族のコードトーカーの1人、ギルバート・ホーン・シニア
その後裁判官および政治家になりました。

ホーンsr

【バスク】Basque
バスク地方という言葉をお聞きになったことがあるでしょう。
フランスの地方ですが、ここに住む人々(全部ではない)と、
スペインのバスク県に住む人、そしてアメリカでは
バスクの祖先を持っているとする人々のことで、
国内に5万7千人ほどいるそうです。
アメリカのバスク人はヒスパニック系が大半です。

彼らは海兵隊によってサンフランシスコに集められ、
バスク語のコードトーカーとして訓練を行いました。

ただし、バスク族と遭遇する地域、ならびに
バスクイエズス会が布教をしている地域(広島県も相当する)
を避け、ハワイとオーストラリアで任務を行いました。

彼らが行った有名なミッションは、
1942年8月1日、サンディエゴからチェスター・ニミッツ提督宛に、
ソロモン諸島から日本軍を排除する「アップル作戦」について
バスク暗号を送信したことです。
暗号にはガダルカナルへの攻撃開始日である8月7日も記されていたとされます。

しかし、戦争が進むとバスク語を理解する人が多くなり、
(侵攻した地域が広がったという意味です)
コードトーカーの主流はナバホ族になりました。

【コマンチ】Comanche
ドイツ当局は、第一次世界大戦中のコードトーカーについて知っていました。

これについて驚くべきは、ヨーゼフ・ゲッベルスが
「ネイティブアメリカンはアーリア人の仲間である」
と宣言したことです。

ドイツは第二次世界大戦の勃発前、ネイティブアメリカンの言語を学ぶために
30人の人類学者のチームを米国に送ったのですが、
さすがのドイツ人学者も方言を含む部族言語のあまりの多さに、
その採取は難しすぎてうまくいかなかったようです。

にもかかわらず、アメリカ人の「ドイツコンプレックス」だったのか、
これらの試みが行われていたことを知った米軍は、
ヨーロッパでのコードトーカープログラムを控えめにしました。

ドイツ人ならそれでもなんとかしたのでは?という疑心暗鬼というか、
彼らを必要以上に買いかぶっていたのかもしれませんね。

それでもノルマンディ侵攻には14名のコマンチ兵士が参加しています。


ヨーロッパの第4歩兵師団信号隊のコマンチコードトーカー14名

彼らが編纂したコマンチコードでは、母国語にない言葉は
戦車=カメ 爆撃機=妊娠中の鳥 マシンガン=ミシン
アドルフ・ヒトラー=狂った白い男
と置換されました。

1944年6月6日に上陸部隊がユタビーチに着陸した直後、
コマンチ族はメッセージの送信を開始しました。
被害は負傷者のみで死者は出ませんでした。

1989年、コマンチのコードトーカーは仏政府から国家功労勲章のシュヴァリエを、
1999年、米国国防総省よりノウルトン賞が授与されています。

【クリー】Cree
クリーはカナダとアメリカの先住民族です。
第二次世界大戦でカナダ軍はクリーをコードトーカーに採用しました。
しかし、秘密の任務すぎてその実態は謎に包まれていました。
2016年に製作されたドキュメンタリー、Cree Code Talkersによって、
「最後のクリーコードトーカー」”チェッカー”トムキンスが紹介されました。


トムキンス

【メスクワキ】Meskwaki
第二次世界大戦中、米陸軍は8人のメスクワキ族の男性に
部族語であるフォックス語をコードとして使用するように訓練し、
彼らは北アフリカの戦地に割り当てられました。

【モホーク】Mohawk
モホークのコードトーカーは、モホーク語派生であるカニエンケハを使用して
暗号の送信にあたりました。
モホークの最後のコードトーカーであるリーヴァイ・オークスが亡くなったのは
2019年5月のことです。

リーヴァイ・オークス


【マスコギー/セミノール】Muscoge/Seminole
マスコギ族、セミノール族という少数民族からも
コードトーカーが採用されました。
セミノール族のコードトーカー、エドモンド・ハーホ(Harjo)も、
ヨーロッパ戦線で母国語の歌を歌っている同族の兵士と出会い、
話をしているところを見た上官が通信係に採用する、
という経緯でコードトーカーになった人物です。
彼は最後のセミノール・コードトーカーとして2014年3月31日、
96歳で亡くなりました。

こうしてみると、コードトーカーだったネイティブアメリカンの皆さん、
随分と皆長寿であったように思われますね。

【トリンギット】tringit
愛知県のリトルワールドにはなぜかトリンギットの家が復元されているそうです。
(それがどうした情報)

リトルワールドのトリンギット族住居

対日戦における暗号要員として、トリンギット族も採用されました。
わずか五人しかいなかったため、コードトーカーの機密解除と
ナバホコードトーカーの公開後も、彼らについては謎のままでしたが、
亡くなった5人のトリンギットコードトーカーの記憶は、
2019年3月にアラスカ州議会によって表彰されています。

■コードトーカーの実態と戦後

基本的にコードトーカーは、ペアで軍隊に割り当てられました。
戦闘中、1人が携帯ラジオを操作し、2人目が母国語でメッセージを
中継、および受信して英語に翻訳するという形です。

日本軍はまず将校、衛生兵、通信兵を標的にしましたから、
メッセージを送信しながら動き続けなければならないコードトーカーは
狙われやすく、大変危険な任務でした。

しかし、何百人ものコードトーカーが危険を冒して行った任務は
第二次世界大戦での連合国の勝利に不可欠なものでした、
D-Day侵攻中のユタビーチ、太平洋の硫黄島など、
いずれも彼らの働きがなかったら成功しなかったとされています。

また、ナバホ族の外見が日本人と似ているので、捕らえられた兵士
(彼はコードトーカーではなかった)が、
日系二世の「裏切り者」として酷い目に遭ったという話を前にもしましたが、
彼らが日本人と間違えられ、アメリカ兵に捕らえられるという事件が起こった後、
コードトーカーの何人かはボディーガードを割り当てられました。

つまり、アメリカ兵からの誤解による攻撃を防ぐためです。

「ウィンドトーカーズ」を見るまでもなく、ナバホコードは
戦争が終わるまで解読されることはなく、
ナバホコードはいまだにUnbreakable cordとされます。

ナバホ族のコードトーカーの存在は戦争中はもちろん、 1968年に
機密解除になってからも秘匿されていました。

コードトーカーを必要とする場面が(冷戦で)今後起こるかもしれず、
プログラムを温存したままにしておきたいと考えたからです。

1968年になってコードトーカープログラムが機密解除されたあとも、
コードトーカーが世間に認識されることはありませんでした。
初めて議会の金メダルがナバホ族や他のコードトーカーに与えられたのは
2001年になってからのことです。

■それ以外のコードトーカー

【ウェールズ】
第二次世界大戦中、イギリス空軍がウェールズ語を使用する計画を立てましたが、
実行されないまま終わりました。
1991年から始まったユーゴスラビア紛争で、
重要でないメッセージのために使用された例があるそうです。

【温州】
中国は1979年の中越戦争の間、温州語を話す人々を
コードトーカーとして使用しました。
温州地方の方言は発音が非常に難解として有名で、中国には
「天も恐れない、地も恐れない、ただ、温州人の話を聞くのが恐ろしい」
などという言い回しがあるくらいだそうです。

【ヌビア】Nubian
1973年のアラブ・イスラエル戦争では、エジプト軍がヌビア人を
コードトーカーとして採用しました。
ヌビアはエジプト南部アスワンあたりからスーダンにかけての地方です。

■ ナバホコードトーカー、サミュエル・ツォシー

さて、ここであらためて、フライングレザーネックに展示されている
ナバホ・コードトーカーの制服を見てみましょう。


左肩のパッチはコードトーカーが所属していた海兵隊の大隊で、
赤い『1』の中にガダルカナルと書かれています。
シルバーのバッジの右側は海兵隊の印、
左側は彼がライフルのエキスパートであることを表します。



制服にナバホ族のジュエリー をあしらうのが正式だったんですね。
このジュエリーは、「神の子」を表します。

そして右胸の名札に、制服の持ち主であった
サミュエル・ツォシー1世(Samuel Tsosie Sr.)
の名前が書かれています。


若い頃の片岡鶴太郎似

サミュエルはでアメリカ海兵隊に入隊しようとしたとき16歳で
19歳という募集年齢が達していなかったため、
親に内緒で母親のサインを偽造したという「つわもの」でした。

戦争中はガダルカナル、タラワ、ペリリュー、サイパン、
グアムそして沖縄と、太平洋のあらゆる主要な戦いで通信兵として勤務。
その間、激しい空戦や神風特攻隊を目撃し、
一度は近くで爆弾が破裂して気を失ったこともあったといいます。

戦後サミュエルはなお2年半海兵隊に所属しましたが、
その後名誉除隊しました。

彼は制服を寄贈した時、実際に当博物館を訪れたようですが、
2014年に89歳で亡くなりました。


近年のアメリカ政府がコードトーカーに対して与えた
認定証などについて列記しておきます。


1982年、レーガン大統領からコードトーカーに認定証が授与され、
1982年8月14日を「ナバホ・コードトーカーズ・デイ」とした



2000年、クリントン大統領が公法に署名し、
ナバホコードトーカーのオリジナルメンバー29名に議会金メダルを
コードトーカーとしての資格を持つ約300名に銀メダルを授与した


ここにはその時の銀メダルが展示されています。
メダルには、太平洋の戦地で任務を行う二人のコードトーカーが刻まれています。

2001年、ブッシュ大統領は4人のオリジナル・コードトーカーにメダルを授与

2011年、アリゾナ州が4月23日をホピ族のコードトーカーの認定日に制定

2007年テキサス州が18人のチョクトー・コードトーカーに、
テキサス勇気勲章が授与

2008年、ブッシュ大統領がコードトーカーズ認定法に署名
第一次世界大戦または第二次世界大戦中に米軍に従軍した
すべてのネイティブ・アメリカンのコードトーカーを対象とする



ナバホコードトーカーの配備は、朝鮮戦争中とその後、
ベトナム戦争の初期に終了するまで続きました。

ナバホコードは、解読されたことのない人類史上唯一の軍事コードです。

続く。



Born in the U.S.A. ベトナム帰還兵の憂鬱〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展 最終回

2021-09-07 | 歴史

長らく語ってきたハインツ歴史センターのベトナム戦争展シリーズも、
ようやく最終回にたどり着きました。

 

 

■ 史上最も誤解された歌詞


故郷でちょっとしたトラブルがあって

ライフルを手にした俺は
異国の地に送り出された
「黄色いの」を殺しに行くために

Born in the U.S.A., I was born in the U.S.A.
I was born in the U.S.A., I was born in the U.S.A.
俺はアメリカに生まれた
 

『Born in the U.S.A.』は、アメリカのロックシンガーソングライター、
ブルース・スプリングスティーンの作品で、1984年リリースされました。

彼の代表曲であり、ローリングストーン誌の「史上最高の500曲」では275位、
RIAAの「Songs of the Century」では、365曲中59位にランクインしています。

このジャケットや、タイトルそのもの、そして「俺はUSAに生まれた」という
シンプルで力強いサビ部分が力強く、愛国的な気分を煽ることから、

「ポピュラー音楽の歴史上最も誤解された曲のひとつ」

という説明があるのにはちょっと笑ってしまいました。

冒頭の2コーラス目の歌詞を読んでいただければ一目瞭然、
この曲の「俺」とは労働者階級のベトナム帰還兵であり、
彼が祖国に戻って直面しなければならない困難や疎外感を歌った曲なのです。

元居た製油所に帰ってきたら、採用係はいった

「お若いの、わたしが決められるならなあ」

V.A.(退役軍人局)の人に会いに行ったら言われた

「なあ君、わかっていないようだね」

1980年代初頭、アメリカは不況に陥っていました。
ほとんどの帰還兵が直面した無残な現実と、落胆する主人公。
それはサビの空虚なスローガンと皮肉な対比を為しています。

にもかかわらず、面白いことに、その歌詞を慎重に吟味することなく、
政治家が集会や選挙イベント、勝利演説の際に使用していたというのです。
サビの部分で合唱し、国旗を振って盛り上がるために。

はい、そのおまぬけな政治家は誰ですか〜?って、すごい大物がいますよ。

ロナルド・レーガン!

パット・ブキャナン!

うーん、どちらも保守系の政治家ですよね。
しかしアメリカ人の関係者、誰も歌詞が聞き取れなかったのかしら。

ケサンに弟がいた
ベトコンをやっつけた
ベトコンはまだそこにいるけど彼はもういない
彼にはサイゴンに好きな女がいた
女の腕に抱かれている弟の写真が返ってきた

ケサンでアメリカ軍が戦ったのはベトコンではなく北ベトナム軍ですが、

 Khe Sanh
Viet Cong
 all gone
 Saigon

と韻を踏むためにベトコンということにしたようです。

ベトナム戦争はアメリカの労働者階級を社会的・経済的に追い詰め、
空虚なナショナリズムと国家の誇りは彼らに取って何の益もなかった、
と歌詞は訴えます。

 

■ 政治的利用

1984年8月下旬、「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」の売れ行きは好調で、
ラジオ局では頻繁に曲が放送され、関連ツアーも大きな話題を呼んでいました。

そして、スプリングスティーンを古典的なアメリカの価値観の模範と称賛する人もいました。

「スプリングスティーンの政治的なことは全く分からないが、
彼のコンサートでは苦しい時代の歌を歌うときに旗が振られる。

彼は泣き言を言う人ではない。
閉鎖された工場やその他の問題を語るときには、

いつも『アメリカで生まれたんだ!』という
壮大で明るい肯定の言葉で締めくくられているようだ」

なるほど、この人にとっては「アメリカで生まれた」という部分は、
絶望的な境遇から立ち上がるための「掛け声」なのかもしれません。
そう思って聴けば、なぜ多くのアメリカ人が誤解したのか、
少しは理解できるような気がします。

この文章を書いた人物は、レーガン大統領の再選組織とのつながりがあり、
当時本格化していた1984年の大統領選挙のキャンペーンに
スプリングスティーンを担ぎ出すことはできないかと考え、
本人に問合せまでしたということです。

スプリングスティーン本人がそもそもレーガンを支持していなかったため、
ていよく断られてしまったわけですが、それにもかかわらず、
当時行われたキャンペーンで、レーガンは次のようにスピーチをしました。

「アメリカの未来は、皆さんの心の中にある千の夢の中にあります。

多くの若いアメリカ人が憧れる歌に込められた希望のメッセージの中にあります。

アメリカの未来は、皆さんの心の中にある千の夢にかかっています。


そして、その夢を叶えるお手伝いをすることが、私のこの仕事のすべてなのです」

「若いアメリカ人が憧れる歌」とはもちろんこの曲のことです。


その直後、ピッツバーグで行われたコンサートで、
スプリングスティーンはそのレーガン陣営に痛烈な皮肉を放ちました。

失業した自動車工が殺人に手を染める様子を歌った
「ジョニー99」という曲を紹介して、

「先日、大統領がわたしの名前を口にしていたけど、
彼が(この曲を含む)わたしのアルバムを聴いていたとは思えない」

と語ったのです。

そしてさらにその数日後、今度は大統領選に挑戦するウォルター・モンデールが、
スプリングスティーンの応援を受けたというようなことをいうと、
スプリングスティーン側は即座にこれを否定しました(笑)

最近では「Born In The USA」がトランプ前大統領の集会や、2020年10月、
大統領がCOVID-19の治療を受けていた病院の外で聴かれたという話があります。

肝心のスプリングスティーン自身がトランプ大統領を毛嫌いしていて、
公然と悪口を言っていたということをさておいても、やはりこの曲の内容は
その状況に全くふさわしくないという「真っ当な」意見があったようです。

 

■ 国旗と「Born in the U.S.A. 」

アメリカ国旗を背景にしたスプリングスティーンの背中の写真が
アルバム・ジャケットに採用されましたが、スプリングスティーンは、
そのコンセプトの由来についてこうコメントしています。

「国旗を使ったのは、1曲目が『Born in the U.S.A.』という曲だったからです。
しかし、国旗は強力なイメージであり、それを自由にしたら何をされるかわかりません」

その言葉の通り、これをスプリングスティーンが国旗に向かって放尿している、
などという人たちも現れましたが(笑)彼はそれを否定しています。

「あれは意図的なものではなく、いろいろなタイプの写真を撮って、
最終的に顔の写真よりもお尻の写真の方がいいと思ったから採用したのです。
秘密のメッセージはありません」

最後に、この曲のまだ訳していない出だし部分と、最後のフレーズを記しておきます。
簡単な単語で構成されているのですが、ものすごく翻訳が難しかったことを白状しておきます。
果たしてこれが本人の意図を汲んでいるかは全く自信ありません<(_ _)>

死者の町で生まれ落ちた
最初の出だしで地面に叩きつけられた

叩かれすぎた犬のようになって積むのさ
ごまかしながら人生の半分も過ごさないうちに

 

罪悪感の闇に突き落とされて
製錬所のガスの火のそばで
俺は10年間燃えながら道に沿って歩いてる
逃げるところもなく行くところもない

Born in the U.S.A., I was born in the U.S.A. (私はアメリカで生まれた)
Born in the U.S.A. (アメリカで生まれた)
俺はアメリカの「ロング・ゴーン・ダディ」(とっくに死んだパパ)
Born in the U.S.A., Born in the U.S.A., Born in the U.S.A., Born in the U.S.A.
ボーン・イン・ザ・U.S.A.
俺はアメリカのクールなロックオヤジ

 

「Long gone Daddy」

という言葉の解釈が難しかったのですが、じつはアメリカ人なら
誰でも知っている(らしい)R&Bのハンク・ウィリアムズの曲に

「I'm a Long Gone Daddy」

というのがあって、これが、自分を必要としていない相手のもとを去る男が
自分のことをそう呼んでいるという設定で使われている有名なラインです。

「僕はもうとっくに死んだパパだから、君は必要ないよ」

この「君」は、

「僕は僕をもっと正しく扱ってくれる女の子を探すよ
君は別の男を見つけてそいつと好きなだけ喧嘩するがいいさ」(意訳)

という歌詞から、「恋人だったことのある女性」ということになっていますが、
スプリングスティーンはもっと広義での「パパ」として使っていると思います。

スプリングスティーンはこの歌から言葉を引用していて、
「I'm~」のwikiにもそのことが書かれています。

ついでに、「クールなロック『ダディ』」というのは明らかに変ですが、これも
前半の「long gone daddy」に合わせた結果、そうなったのだろうと思われます。

 

 

■ ある帰還PTSD患者の手紙

PTSDプログラムを受けているある帰還兵が手紙を書きました。
宛先は

憎しみ、憤怒

フラッシュバック、強迫観念

悪夢、孤立不安

自殺願望、人間関係の損壊 等々。

 

■ ホームタウン U.S.A.

ベトナムへ行った兵士や海兵隊が、以前お話しした、
輸送船USNS「 ジェネラル・ネルソン・ウォーカー」の掲示板に残した落書きです。

マサチューセッツ、ハワイ、ウェストバージニア、ワシントン、テキサス、アイオワ、
コロラド、オクラホマ、ニューヨーク、イリノイ、カリフォルニア、ペンシルバニア・・。

仔細に見れば、アメリカ合衆国全州が記されているのではないでしょうか。

 

■ ベトナム戦争が遺したもの

疑問、懸念、希望、恐怖。

ベトナム戦争によって具現化された未来に対するこれらの考慮事項は、
今日も我々とともにあるといってもいいでしょう。

だからこそ、ベトナム戦争に関する無数の本、映画、創作物などが生まれ、
戦争の記憶を永遠に共有し続ける試みがなされているのです。

歴史家はその意味について議論を続け、政策立案者はその教訓を受け継いでいくでしょう。

戦争は過去のものかもしれませんが、それでも、
義務、異論、愛国心、市民権、
道徳、国民的信頼、
そして軍事力の行使についての重要な問題を永遠に提起し続けるのです。

 

ハインツ歴史センター ベトナム戦争シリーズ  終わり

 

 


ベトナム・シンドロームとPTSD〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争

2021-09-05 | 歴史

 

■ ベトナム・シンドローム

ベトナム・シンドローム(Vietnam Syndrome)という言葉をご存知でしょうか。

ベトナム戦争は1975年に終結しましたが、戦後も国民の間に根強く残った
アメリカのベトナムへの軍事的関与に対する国民の嫌悪感をあらわす政治用語です。

彼らの嫌悪とは、

守ると公言していた土地と人々に壊滅的な影響を与えた

終戦を20年も長引かせ、何百万人もの人命を奪った

ハイテク戦争によってベトナム南部の景観を永久に傷つけ、
マサチューセッツ州とほぼ同じ大きさの地域を消滅させ、
推定2100万個のクレーターを残した

南ベトナムの人口の約3分の1が難民となった

自分たちが責任を負うべき国家の、経済的・社会的基盤を破壊した

ほとんどのアメリカ人が道徳的ではありえなかった

等々。

 

戦後もベトナム戦争をめぐってアメリカでは国内論争が絶えず、
それは
アメリカの外交政策に大いに影響を与えました。

振り子の針が振れるように、1980年代初頭以降、世論は明らかに戦争反対に偏り、
その結果、アメリカの外交政策は極端に他国への介入度が低くなっていきます。

ベトナム・シンドロームは、「もう一つのベトナム」を恐れ、
軍事的関与のリスクを避けようとする政治、軍事、民間の組織を生み出しました。

この症候群は、リチャード・ニクソン大統領の時代からビル・クリントン大統領の時代まで、
アメリカの外交・軍事政策にその『症状』を見ることができます。

地上軍の派遣や徴兵制の運用に極端消極的なこれらの傾向は、

「ベトナム麻痺(パラライズ)」と呼ばれることもありました。

 

■ ベトナムでの「失敗」

なぜアメリカは北ベトナム軍を倒せなかったのか。

米軍関係者を中心とした保守派の思想家たちはこう言いました。

「アメリカには十分な資源があるのに、国内での戦争努力が足りなかった」

経済的、技術的、軍事的能力という粗暴な言葉で測るならば、
アメリカは依然として世界で最も強力な国であるが、
この問題は、結局、意志の問題に帰結するのだ、と。

しかし、

「ベトナム・シンドローム」

という言葉が、マスコミや政策関係者の間で広まり出すと、

アメリカは2度と戦争に勝てないのではないか。

アメリカは衰退への道をたどっているのではないか。

こんな意見がその言葉に内包されて国民に侵食していきました。

国民の戦争努力がたりなかったせいで負けた。負けたというか勝てなかった。

ロナルド・レーガンをはじめとする多くの保守派がこの意見に賛同しました。
レーガンの1980年の大統領選挙は、アメリカ人がこのシンドロームに苦しんでいる、
という考えを選挙戦を通じて世に広める結果になったといえましょう。

レーガンは

「もしアメリカが自分をリーダーとして、より自信に満ちた姿勢で臨めば、
ベトナム・シンドロームは必ず克服できる」

と主張して選挙戦を行いました。

レーガンは、アメリカ国民が敵のプロパガンダにまんまと乗せられて
戦争に反対したことや、
それだけでなく、ニクソンやジョンソン政権の高官が

「彼らに戦争に勝たせることを恐れていた」

ことなどが兵士たちを失望させたことが敗因だった、つまり、
自分だったら北ベトナムには勝てていた、と示唆したのです。

そして、戦後のアメリカ国民が軍隊の道徳性に罪悪感を持つことや、
疑念を持つことは間違っている、なぜなら彼らは崇高な目的のために戦ったからだ、
と主張しました。

「世界平和は我々の最優先事項でなければならない。
国民が戦死しなくても済むように平和を守ることは、国家運営の第一の課題だ。
しかし、それは屈辱的で漸進的な降伏によってもたらされる平和であってはならない」

そして、

「アメリカが失敗したのは、敗北したからではなく、
軍が "勝利する許可を得られなかった "からだ」

とまるで禅問答の答えのようなことを述べています。

 

■ アメリカに勝ち目はあったのか

勝ち目のある戦争だったと主張する人たちは、「戦争をした人たち」から
「戦争に反対した人たち」に責任を転嫁しているといえるかもしれません。

つまり、無責任なメディアと反戦運動家が国民を戦争に反対させ、
ジョンソンやニクソンが
勝利を手にした矢先に、
米国の関与を縮小せざるを得なくなったという主張です。


しかし、前にも書きましたが、メディアと抗議活動が声高に戦争反対を唱えても、

戦争は熱狂的ではないにしても、広く支持されていました。
国民の大多数は、戦争よりも声の大きな抗議者を不快だと感じていたという統計もあります。

つまり、敗戦の原因をメディアや反戦運動に求めるのは、あまりにも単純だというわけです。

 

 

この理屈を理解するためには、反戦=内なる敵がなかったらアメリカは勝てたのか?
という仮定について考えてみるとわかりやすいかもしれません。

実際にベトナムで行われた戦争はアメリカ人にとって非常に困難なものでした。
人を寄せ付けない気候と地形、鬱蒼としたジャングル、不気味な沼地や水田、険しい山々、

「人を殺し、脳を焼き、過労死するまで汗を絞る」

ほどの暑さ。

「まるで太陽と大地がベトコンと手を組んでいるかのように、
わたしたちを消耗させ、狂わせ、殺していく」

言うまでもなく、何世紀にもわたってこの土地を耐え抜いてきたベトナム兵士は、
文明社会から放り込まれたアメリカ人よりも明らかに戦闘に有利でした。

想像の限界を超える文化の違いも彼らに混乱をもたらしました。

ほとんどのアメリカ人には、ベトナム人の容貌は皆同じに見え、
敵味方の区別もつかないといった状況に加え、
村を焼かれても無表情で、助けようとしているのに他人事のようだったり、

丁寧にお辞儀をして、にこやかにアメリカ兵を地雷原に案内するベトナム人に、
アメリカ人たちは敵味方関係なく憎しみを抱くようになっていきます。


最も重要なことは、ベトナムにおけるゲリラ戦が、形のない、
しかし致命的なものであったということでしょう。

それは、

「朝のジャングルの霧の中に消えていき、思いがけない場所に現れる
形のない敵との終わりのない戦い」

だったのです。

アメリカは敵の強さと決意を大幅に過小評価していました。
すべてを危険にさらしてまで目的を達しようとする、
敵側の不屈の精神を、理解することが最後までできなかったのです。

そしてベトナム人が我々と同様に理性的であるならば、
世界最強の国家に立ち向かうことなどできないだろうと安易に考えていました。

(日本人を相手に戦ってメンタル的にはある程度学習したはずですが、
今回は当時の日本より、遥かに文明のギャップが大きいとみくびっていたようです)

北ベトナムやベトコンは、しっかりとした動員力と体制を持ち、
目標に対して狂信的にコミットしていただけでなく、地の利を生かし、
10年間の対仏戦争ですでに完成された方法を駆使して戦いました。

ベトコンは、南ベトナムの農村部の人々が実は持っていた
アメリカに対する不信感を大いに利用して彼ら味方につけ、
北ベトナム軍は、戦争を長引かせる戦略を巧みに採用しました。
ホー・チ・ミンはかつて、

「あなた方が我々の部下を10人殺すたびに、我々は
あなた方の部下を確実にひとりずつ殺していく」


それを永遠に繰り返していけば、先に疲れるのはあなた方だ」

と豪語しました。
そして、中国やソ連など共産国家の支援もまた、アメリカを苦しめました。

 

 

「ベトナム・シンドローム」のような考えはこの戦争に始まったことではありません。

失敗の原因が他にあるのではなく、自分たちにあるという説明の方が、
人々にとって、あるいは受け入れやすいのかもしれません。

『ディアハンター』『地獄の黙示録』のような映画が、
その芸術的な価値がどうであれ、
贖罪の形を推進し、
それがいつの間にか「正しい考え」となってきたのも事実です。

レーガンの「崇高な戦争」という発言は、突飛な考えと受け取られた一方、
同時に決して少なくない人々に響きましたが、これは驚くべきことではありません。

どんな残酷な戦争にも必ず尊い要素があり、英雄的行為、犠牲、
思いやりまで否定するべきではないと考える人も多いからです。


少なくとも、戦争を起こした国が何らかの形で共有している「罪悪感」を
退役軍人だけに負わせることは間違っていますし、レーガンの発言は
この点を少なくとも間接的に指摘していたと見られたのかもしれません。

 

数年後、レーガン大統領は「ベトナム・シンドローム」を軍事行動で葬ろうとしました。

グレナダ侵攻を成功させることによってシンドロームが解消され、
国民がこれ以上米国の軍事行動に対し嫌悪感を持たなくなることを期待したのです。

そして侵攻後、

「我々の弱さの時代は終わった。
我々の軍事力は立ち直り、堂々としている」

と力強く宣言しました。

しかし、この「シンドローム」は平癒したといえなかったため、
ブッシュ大統領もまた1990年から1991年にかけてのペルシャ湾岸危機を利用して、
ベトナム症候群を意図的に回復させようと試みました。

イラクとの戦争が迫る中、繰り返し宣言したのがこの言葉です。

「もう一つのベトナムにはならない」

 

事実、第一次湾岸戦争での迅速な勝利は、ベトナム症候群の終焉であると言われました。
ブッシュ大統領は戦後、

「ベトナムの亡霊はアラビア砂漠の砂の下に眠っている」

「アメリカがベトナム症候群を克服することができた」

と高らかに勝利宣言しました。

 

 

■PTSD(Post-Traumatic Stress Disorder)Vietnam Veterans with PTSD

 

キャスターの安藤優子氏がアメリカに留学したときのエッセイ、
「あの娘(こ)は英語が話せない」には、彼女のホームステイ先の近所に住んでいた
元ベトナム帰還兵にストーカーのような執着をされ怯えたことが書かれています。

帰還兵は、16歳の安藤氏をベトナム孤児だと思っていたようなのです。
わたしにとってこれが、ベトナム帰還兵のPTSDについて認識した最初の文章でした。

今では一般的な心理的症状を表す言葉のひとつですが、もともとは
個人レベルの「ベトナム・シンドローム」をあらわすものであり、
それが後に、

PTSD(Post-Traumatic Stress Disorder)

としてよく知られるようになりました。

 

政治レベルの「ベトナム・シンドローム」について前半語ってきましたが、
元々は個人的なシンドローム=後遺症のことだったのです。



後遺症という医学用語を持つ「ベトナム・シンドローム」は、1970年代末、
ヘンリー・キッシンジャーによって作られ、その後レーガンによって広められて、
純粋な政治的意味を持つようになったという経緯があります。

1980年、精神科の専門医は、戦時中のトラウマが深刻な道徳的、および
心理的苦痛を引き起こす可能性があることを公式に認めました。

 

個人レベルのベトナム症候群は、ベトナム帰還兵の20〜60%に見られた
PTSD(心的外傷後ストレス障害)となってあらわれました。

それには不安、怒り、落ち込み、依存症などの古典的なPTSD症状のすべてだけでなく、
戦闘に関連した思考の侵入、悪夢、フラッシュバックなども含まれます。

また、ベトナム症候群には罪悪感も大きく関わっています。
兵士たちは、自分が助かって仲間が生き延びられなかったことだけでなく、
ベトナム人、特に女性や子供が殺されたことへの罪悪感も感じていました。

戦闘地域での生活に対処するために退役軍人が取っていた「戦略」は、
市民生活に戻っても全く通用せず、機能不全の行動となって現れました。

ベトナムから帰還した多くの退役軍人は、普通の生活を送る努力を怠っていた、
この言い方が悪ければ、普通の生活に適応できなくなっていたのです。


皆さんは、ベトナム戦争中に死亡した人よりも、戦後に

精神的な問題で自殺したベトナム帰還兵の方が多かったのをご存知でしょうか。

自殺しなかったとしても、少なくとも100万人の退役軍人のうち4分の3は、
社会生活を普通に送ることができず、その結果ホームレスや失業者になりました。

教育を受けていない70万人近くの徴兵者は、名誉除隊もできませんでした。
退役軍人の多くは、家族を養うために新たな仕事に就くことも困難であり、
PTSDに精神を追い込まれるという例がアメリカ全土で起こりました。

映画やドキュメンタリー、テレビ番組には、帰還兵の困難を描いたものが数多くあります。
そういえば、「ランボー」もベトナム帰還兵でしたね。

クリント・イースドウッドの「グラン・トリノ」で監督自らが演じた、
モン族の少年少女を守って最後は銃弾に倒れる老人もそうです。

モン族は、アメリカがベトナム戦争に敗れると、見捨てられ行き場を失い、
ベトナム軍、ラオスの共産勢力などに女、子供も含めて虐殺された部族であり、
アメリカに移民することができたのは一部の幸運な人々だけでした。

劇中、イーストウッド演じるコワルスキーが”身を呈して”彼らを守るというのは
アメリカの償いの形を象徴していると思われます。

 

ベトナム戦争によるPTSDの発症やその他の問題を解明するため、
1983年に米国議会の要請を受けて、米国政府は調査機関を立ち上げました。

その調査によると、

男性の約15%、女性の約9%(1980年の調査時点)がPTSD発症

男性の約30%、女性の約27%が、ベトナム帰還後の人生のある時点でPTSDに罹患

というもので、多くの退役軍人にとってPTSDが慢性化しており、
特に高レベルの戦闘暴露を経験した人にその傾向は顕著でした。

PTSD患者は、結婚生活、性生活、生活全般に対する満足度が低く、
また、子育ての困難さ、離婚率の高さ、幸福感の低さ、疲労感や痛み、
慢性的な風邪などの身体的な不調の多さを感じています。

依存でいえば喫煙率が高く、アルコールや薬物依存は患者の3分の1を占め、
それらが引き起こすうつ病、心臓病、糖尿病の発症率が高いという報告もあります。
 

何百年もの間、戦闘ストレスを原因とする心的、肉体的症状は、
異なった戦争が起こるたびに異なった名称で表現されてきました。

そして初めて「PTSD」という病名で初めて呼ばれたのがベトナム退役軍人です。

戦後50年が経過したにもかかわらず、一部のベトナム退役軍人にとって
PTSDは日常生活の慢性的な現実となり、いまだに彼らを苦しめているのです。

 

続く。

 

 


”アメリカの忘れもの” ラオスのUXO問題〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-09-03 | 歴史

「ヒトラーの忘れもの」

という映画については一度軽くここで触れたことがありますが、
「Under Sandet」(デンマーク語で砂の下)というタイトルに
一体何をしてくれとんのじゃ、と思わずガンを飛ばしたくなる、相変わらずの
日本の映画配給会社の絶望的なネーミングセンスのなさはともかく、
砂の下に埋まった地雷すべてをヒトラー一人のせいにしてしまうという
戦後世界のあるべきとされる方向性を如実に表しているという意味では
なかなか当を得たものであったとは思っているわけです。

ラオスの不発弾問題はそれこそ”アメリカの忘れもの”そのものじゃないか、
ということで本日のタイトルに採用させていただきました。

 

さて、ベトナム戦争によって、ベトナムのみならず、ラオス、カンボジアに
地雷と不発弾が撒き散らされました。

冒頭の

ラオスの大地には8000万本の爆弾が残っている
撤去された爆弾の数は1%にも満たない

と書かれたポスターには、処理された地雷がまるで木の実のように山になっています。

Looks like a ball. Kill like a bomb.
(ボールのように見えますが、爆弾と同様人を殺します)

わたしも写真のキャプションを見るまでは恥ずかしながら
冒頭写真を木の実の山だと思っていたくらいです。

戦争が終結した後も、毎年不発弾は偶発的な爆発によって
数千の人々を殺傷し、傷を追わせてきました。

 

ポスターで少女が地雷を持っていますが、ラオスでは

ボンビーズ Bombies

と可愛らしい名前で呼ばれるクラスター爆弾はとても小さく、
子供たちが見つけておもちゃのように不発弾を手にするケースがありました。

2017年、10歳の女の子が「ボンビー」を見つけて拾い、家に持って帰ったところ、
家族全員がいるところで爆発したなどという例は決して珍しいことではないのです。

たとえば、このアイリッシュタイムズの記事で紹介されている例をご覧ください。

Yeyang Yangというこの31歳の男性は、ゴミを燃やしていたところ、
その熱で引火し、爆発した地中の不発弾によって顔を失いました。

右耳は完全に失われ、かつて耳のあった部分には穴が開いているだけです。
右手は骨と筋肉の塊となってしまい、指がありません。
彼の顔は、まるで溶けた肉色のプラスチックのマスクで覆われているかのようです。
彼の赤い目は常に涙を流していて、きちんと閉じません。

これでも彼は8ヶ月間入院し、皮膚移植を受けたことがあるのです。
しかも手術は大変痛みを伴う辛いもので、もう二度と受けたくないと言っています。

不発弾は多くの死者を出しましたが、生存者はそのほとんどが悲惨な怪我を負いました。
統計によると負傷者の3分の1は手足や視力、酷い場合は両手足を失う例もあります。
毎年、何百人もの人々の人生が、傷を負うことによって永遠に変わってしまうのです。

発展途上国であるラオスでは、ほとんどの人が生まれた土地で肉体労働をしながら
なんらかの生計を立てているのですが、その唯一の資本である身体に不調を生じれば、
生きていくことさえも容易ではなくなるということになります。

Yeyang Yangさんも元々は農業をしていましたが、それでは足りないので
副業としてやっていたゴミを燃やす仕事でこの事故に遭いました。

身体はもちろん、彼の脳は爆発の影響で集中することすら困難な状態です。
彼は爆発事故の後、何年もの間、村はおろか家からも出ることができず、
身体に負った傷は彼の心を深く蝕み、家族やコミュニティから孤立するばかりでした。

ラオスでは医療制度によるメンタルヘルスのサポートというものがそもそもないのです。

また、同じ記事で紹介されている25歳のフォマリーンさんは、2016年の10月5日、
作業していた畑で小さなシェルを見つけ、持ち帰りました。

この金属でナイフを作ろうとしてシェルを開けようとしたところ、
爆発して目が見えなくなってしまったのです。

四世代の家族と同居している彼は、一家の長であり、働き手でもあったのですが、
事故以来肉体労働を行うことができなくなりました。

 

もし

アメリカ合衆国の国土の30パーセントが不発弾で覆われたら?

受け入れられますか?

というポスターには、文字通り30パーセントの国土が爆弾で覆われています。
そして、

アメリカは8000万個の不発弾をベトナム戦争中の爆撃でラオスに残しました。

と「戦争の遺産」を糾弾しています。


冒頭の不発弾のポスターには、

Legacies of War (戦争の遺産)

と書かれていますが、まずこの「レガシーズ・オブ・ウォー」は、
ベトナム戦争時代のラオスでの爆撃の歴史についての認識を高め、
不発弾の除去と生存者の支援を提唱し、戦争の傷を癒す場を提供し、
平和な未来への大きな希望を見出すことを目的とする組織です

アメリカは1964年から1973年までの9年間に、

58万回の爆撃を行い、
200万トン以上の兵器
2億7000万発の爆弾

をラオスに投下しました。

これは8分に1回、24時間に1回、飛行機1台分に相当します。
その結果、ラオスは国民一人当たりが受けた爆撃が史上最も多い国となりました。

クラスター弾の約30%、8000万個が不発のままで、
これにより国家の発展の可能性が失われたといっても過言ではありません。

Legaciesの主な目標は以下の通りです。

ラオスおよびベトナム戦争時代の爆撃の遺産について、
米国およびより広い国際社会の認識を高めること

ラオスにおける不発弾の除去と被害者・生存者への支援を強化するため、
アメリカから、および国際的な支援を提唱する。

ラオスの戦争から得た教訓をもとに、平和と安全保障の問題について議論し、
アメリカ国内のコミュニティを巻き込み活動につなげる

ラオス系アメリカ人の支援とそのコミュニティが関心を持つ問題について提言を行う

Legaciesの財政は個人、財団、企業のサポーターからの寄付で成り立っており、
政府からの資金提供は受けていません。

■ ベトナム戦争終結後

1975年の戦争終結後、ラオスの村人たちは畑や庭にある不発弾の処理を
すべて自分たちで行わなければならなくなりました。

1994年、メノナイト中央委員会は、ラオス政府および諮問機関と協力して、
民間資金による人道的地雷除去プログラムを開始することを決定。

1996年にはラオス国内の地雷除去グループ

「UXO Lao」

が結成されました。
「UXO」とは「Unexploded Ordnance」の省略形で、不発弾のことです。

米国をはじめとする各国政府も地雷除去活動を支援するようになりましたが、
アメリカが拠出した額は年間平均250万ドルから300万ドルで、
問題に適切に対処するために必要な推定額をはるかに下回ることになりました。

2004年、当時フォード財団に勤務していた女性、

セラ・カムボンサ(Sera Khamvongsa)

は、政策研究所所長のジョン・カヴァナから戦争の話を聞き、
ラオスでの爆撃を生き延びた人たちが描いた絵を見たのがきっかけで
「Legacies of War」を設立することを決心しました。

 

■ アメリカ合衆国の「秘密の戦争」

先ほども書きましたが、ラオスは国民一人当たりに対し、空爆が
世界で一番多かった国、というありがたくないタイトルを持っています。

1964年から1973年の間、当時のラオスの人口で計算すると、
1人当たり1トンの爆弾が落とされたというくらいなのです。

第二次世界大戦後、フランスの植民地支配下に置かれていたラオスは、
1953年に独立を果たしたのですが、国内で権力争いが起き、内戦に発展します。

ベトナム戦争に介入していたアメリカ政府は、ラオスの共産主義化を断ち切るため、
北ベトナムに対抗させるためにラオスにゲリラ訓練を施したりしましたが、
戦況において北ベトナムが優位になってきたため、1964年、
ラオスでの秘密作戦の一環として空爆を決行したのでした。

例の「ホー・チ・ミン・ルート」を断ち、北ベトナムから南のベトコンへの
兵力・戦争物資の供給をストップするという目的のためです。

そして、これはとんでもない理由だと思うのですが、アメリカ軍はラオスをなんと、

爆弾の投棄場所

にしていたというんですねー。

つまり、アメリカの爆撃機は、ベトナムで本来のターゲットを爆撃できなかった場合、
タイの米軍基地に帰る途中、ラオスにひょいっと爆弾を捨てていくのです。

理由は爆撃機は爆装したまま着陸することができないからです。

捨てるといっても爆発したりしなかったりで、爆発しなかった不発弾は
戦争から約40年経った今日でも問題となっているというわけです。

しかしまた、ラオス民衆も滅法したたかで、不発弾やクラスター爆弾のケースなどを
加工して、日常生活にちょっと取り入れてみたり(植木鉢とか?お椀とか?)
それだけならまだしも、観光客にお土産として爆弾の残骸を加工して売る村、

「ウォー・スプーン・ヴィレッジ」

なるものもあるというからちょっと驚きます。

こういう、貧困ゆえにやむなく残骸ビジネスに手を染めた人々は、
国土から残骸が一掃されたらご飯の種が無くなって困るというジレンマにあります。

 

2010年の夏、Legaciesは、オバマ政権のヒラリー・クリントン国務長官に

「ベトナム戦争時にラオスに残された不発弾の除去のための資金を大幅に増やすこと」

として、米国がラオスにおける不発弾除去のために、今後10年間、
毎年1,000万ドルを拠出するように提言しました。


もちろんラオスの不発弾問題に関わっている団体はほかにも、

地雷撤去専門の非政府組織「ヘイロー・トラスト」

「マインズ・アドバイザリー・グループ」(MAG)

「ノルウェー市民援助」(NPA)

「UXO(不発弾)ラオス」(ラオス政府管轄)

「ハンディキャップ・インターナショナル」

などがあります。

慈善団体World Educationもそのひとつで、冒頭に紹介したヤンさんに対し、
交通費、入院費、薬代、そして彼に付き添う家族の費用を負担しています。

現在、ヤンさんは他の地域で自分の体験を語り、他の被爆者を支援しています。
農場で働くことはできなくなりましたが、被曝者としての体験を伝えることで
誰かの役に立っているということは、彼に平穏と使命感をあたえ、それが
今のところ生きていくための重要な心の支えとなっているのです。

失明したフォマリーンさんも、「World Education」の支援で
マッサージ師になるためのトレーニングの可能性を現在模索しています。

しかし、目が見えず、肉体労働ができないという事実は変えられません。

正直なところ、仕事ができない上介助を必要とする彼の存在が重荷らしく、
家族のうち一人など、彼を連れて行って永久的なケアをしてくれないかと、
ワールド・エデュケーションに個人的に頼んできたということです。

家族から厄介払いされそうになったという事実はフォマリーンさんを深く傷つけ、
いまだに毎日悪夢にうなされている、とスタッフは打ち明けています。

 

博物館にはクラスター爆弾のシェル実物が展示されています

クラスター爆弾( cluster bombは、容器となる大型の弾体の中に
複数の子弾を搭載した爆弾で、クラスター弾、集束爆弾(しゅうそくばくだん)
などとも呼ばれるものです。

ベトナム戦争期に使用されたタイプは、ケースに野球ボール大の子爆弾を300個ほど内蔵し、
その子爆弾ひとつの炸裂で600個ほどの金属球を飛散させるというもので、
ここに展示されているのはその子爆弾である「ボール爆弾」のシェルです。

この子爆弾は、手榴弾や指向性の無い散弾地雷のように、人員や車両など、
非装甲標的に被害を与えるものです。

不発弾が国際問題となったとき、保有国であるアメリカの対応は

クラスター弾不発率の低下を目指す

というものでした。

うーん・・・そっち?(´・ω・`)

 

続く。

 

 


「ザ・ウォール」 死者に捧げられしものたち〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-09-01 | 歴史

今日は、ベテランズ・メモリアルセンターの戦死者の名前が刻まれた
「壁」の前に置かれた様々な品の中から、当博物館に展示されていたものをご紹介します。

1982年11月にベトナム退役軍人記念館(ザ・ウォール)が献堂されて以来、
40万点以上の品々が訪問者からの追憶や賛辞として残されてきました。

国立公園局は、ベトナム退役軍人記念基金による学芸員のサポートのもと、
これらの品々をベトナム退役軍人記念館のコレクションの一部として収集し、
目録を作成し、保存しています。

ITEMS AT THE WALL

これらは、長年にわたって壁に残された品々のごく一部の学芸員による記録ですが、
壁に残された品々のコレクションとしては、これまでに公開された中で最大のものです。

 

冒頭写真は解説の写真を撮るのを忘れたのですが、おそらく
戦死した兵士(場所的に後述のデトマー1等兵の可能性高し)
のポケットに入っていたものかもしれません。

それにしても、トランプが二枚でそれがスペードのAとJなのはなぜなのでしょうか。

■ 兄さんのグローブとボール

Ronald J Matelマテル少尉

革製の野球ボール、そしてウィルソン・ブランドの革製野球グローブ
(デル・エニス・プロフェッショナル・モデル)は、ベトナムで戦死した

ロナルド・ジェームズ・マテル米陸軍少尉(1LT)Ronald James Matel

の遺品です。

グローブとボールの下には、マテル少尉の弟であるデビッド・J・マテルが
自分の名刺に記した手書きのメモが展示されています。
デイビッドがこのメモを記したのは1993年になってからのことです。

ロン・マテル宛 7-6-93

誕生日おめでとう!
1969年6月9日から僕の人生は本当に変わってしまった。

兄さんにこの野球のボールを投げたかった。
 69年6月9日以来、毎日のように兄さんのことを考えていたよ。

兄さんは信じられないかもしれないが、ぼくには大きな3人の男の子と
小さな女の子がいて、あなたの代わりに、今ではぼくとキャッチボールをしています。

ぼくはとても素敵な女性と結婚し、基本的に幸せな生活を送っている。
もし兄さんが生きていたら、ぼくは(一緒に野球をすることができたので)
もっとスポーツマンになっていたと思う。

お父さんと息子のジョー、ジョン、ジョシュとは、
一緒に年に一度は狩りや釣りに行っています。

妻はウィスコンシン州のラクロス近郊の出身です。
4番目の子供のジェシカは韓国生まれで、マテル家で養女に迎えました。

ぼくの仕事はリハビリテーション・カウンセラーで、
妻は中学校の教師兼管理係をしています。
そして子供たちは皆イケメンぞろいでなかなか出来がいいんだ。

あれから歳をとって何人かの親戚がそちらにいったのは兄さんも知ってるよね。
ぼくも
42歳を過ぎた今、人生は変わりつつあると感じている。

93年7月10日、もし生きていれば兄さんは45歳になっていたね。

ぼくは少し声を大にして、ベトナムのような地域に関与しないように、
国にそういうことを伝えようとしていますが、耳を傾ける人は少なく、
したがって、これからもぼくのように兄弟を失う人は後を断たないでしょう。

お父さんもお母さんもまだ存命です。
お母さんはあなたの死を乗り越えられませんでしたが。
そしてお父さんは最近あまり具合がよくありません。

とにかくぼくには最も素晴らしい家族がいます 。
兄さんが生きていたら本当にどんなに良かったかと思う。

兄さんの古い友人の何人かとはいまだに付き合いがあるよ。
マーク、ジョージ、ディックとかね。

兄さん、あなたがいなくて寂しいです。
天国で誰かとキャッチボールしてください。

ぼくはあなたのために祈る。あなたもぼくのために祈ってください。

戦死者の名前が刻まれたメモリアルの「壁」の前には、遺族が訪れ、
花だけでなく戦死者のゆかりの品などを捧げます。

野球のボールやグラブのほか、幼児の時に愛用していたおもちゃなどもあります。

■ ベトコン兵士の結婚指輪

ベトナムに出征した海兵隊員がフエのフー・ロックでの戦闘において、
戦死した18歳のベトコン戦士の指輪を持ち帰りました。

これもまた「壁」に献納された品の一つで、寄贈したのは

フレデリック・ガーテン(Frederic Garten)米国海兵隊一等兵(PFC)

ガーテンはその後も海兵隊で軍曹にまでなったようで、メモには
SGTと書かれています。

元戦友で壁に名前の刻まれたジェームズ・アレン・ウォールに捧げると言う形で、
ガーテンは、直接ウォールとは関係のなさそうなこの指輪を置きました。

3インチ×5インチの白いインデックスカードに書かれた手書きのメモに、
素朴な金色の男性用結婚指輪が貼り付けられており、名刺が添えられています。

この名刺は、提供者であるフレッド・ガーテン氏のもので、彼の肩書は

「西バージニア州/雇用保障局の障害者支援プログラム・スペシャリスト」

であることがわかります。

ウォール1等兵

裏面には「James A Wall」という名前に下線が引かれています。
ウォール1等兵は1968年、20歳でベトナムのThua Thienで戦死しました。

メモに書かれている言葉を翻訳しておきましょう。

「この結婚指輪は若いベトコンの戦闘員が持っていたものです。
彼は1968年5月に南ベトナムのフーロック州で海兵隊との戦闘で戦死しました。

わたしはこの青年のことをもっと知りたかったと思う。
18年間この指輪を所持していたが、そろそろそれを捨てる時が来たようです。

この青年はもうわたしの敵ではありません

そして、アメリカ海兵隊とベトナムベテラン、
ガーテン軍曹(Segt)はこの指輪にメモをつけて壁に残したのです。

この金色の男性用ジュエリーリングは、手作りされたものらしく、
リングの一部に小さな隙間があり、いかにも素朴なものです。

ガーテン氏が、なぜウォール1等兵と縁もゆかりもないベトコン兵士の遺品を
壁の前に残したのかはわかりません。

そもそも、彼がどのような経緯で指輪を手に入れたのかとか、
どうしてベトコン兵士の年を知っていたのかなどということも、
全く語られていないので想像するしかありませんが、彼は
おそらく、海兵隊との戦闘で死亡した子供のような兵士に目を止め、
何かに突き動かされるように遺体の身分証明書を確かめたのではないでしょうか。

そして、その彼が左手の薬指にはめていた指輪をふと外して、
それを軍服のポケットに入れて持って帰ってきたのでしょう。

彼の中では、そのときすでにベトコンの若い兵士は
敵ではなくなっていたのに違いありません。

■結ばれなかった「永遠の恋人たち」

米国陸軍軍曹(SGT)バリー・ラルフ・バウシュ(Barry Ralph Bausch)
に捧げられたもので、フラビア・ロマンティック製のグリーティングカード、
そしてダイヤモンドとブルートパーズがはめ込まれた10金の男性用ジュエリーリング、
リングを入れる「エコリン・ジュエラー」のフェイクレザー製巾着ポーチです。バウシュ軍曹

 

私の親愛なるバリー 2000年7月15日

あなたがわたしから奪われてから31年以上が経ちましたが、
あなたはわたしの心の中に残っています。
わたしの真実の愛は変わりません。

今日、ワシントンD.C.のメモリアル・ウォールを訪れるにあたり、
初めて会った夏、18歳の誕生日に贈った指輪をあなたに託します。

今でもあなたを愛しています。

わたしは結婚して、3人の美しい子供(あなたの妹にちなんで
ローラ、ブレイク、レイナと名付けました)がいますが、
わたしたちが持つことのできなかった家族のことを考えます。

主がわたしを天なる家に連れて行ってくださるとき、
わたしはあなたに再会し、多くの思い出を共有できることでしょう。

わたしはあなたを愛しています 。
永遠にあなたのもの エレン  XOXOXOXO

この品は、2000年7月15日に「エレン」と名乗る寄贈者によって、
「壁」のパネル25Wに残されていました。

戦争は、永遠を誓った恋人たちをも引き裂きました。
遺された恋人は皆彼女なり彼なりの人生を生きてゆきました。

しかし、他の人と結ばれることがあってもこの「エレン」のように、
結婚して子供に恵まれながら
心の片隅で亡くなった人を思い続ける人もいます。

そんな女性によって「壁」に捧げられたアイテムの中には、
戦死した恋人と付き合っていた頃の自分の写真というようなものもあります。
ある若い女性の写真には、こんなメッセージが記されています。

"Tony, Here's how Toni looked on graduation day. Not bad, huh?  Love, Lorrie"

「トニー、あなたが卒業式のときに見たわたし、どうかしら? 
なかなか悪くないでしょ?  愛を込めて ローリー」

 

■ 亡き息子が生まれて初めて着たセーター

わたしの素晴らしい息子

今日、わたしはあなたの名前を「壁」に見にやってきました。
今まで準備ができていませんでしたが、
死ぬ前に見ておかなければならないと思ったのです。

毎日あなたのことを思いだしています。
あなたを失ってから毎日あなたのことを考えない日はありません.

あなたには多くの人生があったのに、あっという間に命を奪われてしまいました。

あなたのテディベアを持っていきたかったのですが、
どうしても手放すことができず、代わりに最初に着たセーターを持ってきました。

あなたはいつもわたしの心の中にいます。
愛しています。

また会える日まで、あなたに神の御加護がありますように

愛を込めて ママより

アメリカ海兵隊の一等兵(PFC)ドナルド・ゲイリー・デトマー
( Donald Gary Detmar)

に捧げられた母からの遺品です

デトマー1等兵は1967年、21歳の誕生日の少し前に戦死しました。

手編みらしいベビー用のセーターは、おそらく多くの母親が
ひとつかふたつくらいはどうしても処分できずにクローゼットの隅に仕舞ってある、
彼女が母となったときに想いを込めて我が子に与えた衣類のひとつだったのでしょう。

 

何を隠そう、わたしのクローゼットにも、イニシャルの入った小さな手袋、
最初のハロウィンで着た着ぐるみ、初めての孫のために祖母が編んだ毛糸のおくるみ。

そういった「どうしても捨てられない思い出の品」があります。

デトマー1等兵の母親の息子への手紙と、

「テディベアをどうしても手放せなかった」


という言葉に心を揺り動かされない母親は果たしているでしょうか。

 

続く。

 


ギア・ロン通り22番地 「サイゴン最後の日」〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-08-30 | 歴史

この項を制作したのは半年くらい前のことです。

アフガンがあのような状態になっているまさにこの時期に、ベトナム戦争末期の
「国外脱出」について語ることになるとは思いもよりませんでした。


■ サイゴン陥落

ベトナム戦争の終結。
それはサイゴン陥落の瞬間でした。

1975年4月30日、北ベトナム人民軍(PAVN)とベトコンが、
南ベトナムの首都サイゴンを占領し、この瞬間からベトナムは
ベトナム社会主義共和国への正式な統一に向けて動き始めました。

ヴァン・ティエン・ドゥン (Văn Tiến Dũng,  文進勇)将軍が指揮するPAVNは
サイゴンに向けて海岸沿いに南下しつつ攻撃を続け、
その度に南ベトナム軍をほとんど完璧に撃破していきました。

そして、1975年4月29日にサイゴンへの最終攻撃を開始しました。

これを迎え撃ったのはグエン・ヴァン・トアン将軍率いる共和国軍(ARVN)ですが、
ドゥン軍の激しい砲撃の前に完全に崩壊して後退しました。

そしてアメリカはまたしても何もしませんでした。

 

電光石火の占領によって、市街地は、故ホー・チ・ミン大統領にちなんで
その瞬間から「ホー・チ・ミン市」と改称されることになります。

サイゴンの陥落には様々な名称が適用されています。
欧米では簡単Fall of Saigon「サイゴン陥落」ですが、ベトナム政府は公式に

「国家統一のために南部を解放した日」または「解放の日」

逆に共産主義から亡命した多くの在外ベトナム人からは

「国を失った日」(Ngày mất nước)
「黒い四月」(Tháng Tư Đen)
「恥の国民の日」(Ngày Quốc Nhục)
「恨みの国民の日」(Ngày Quốc Hận)

等々、なかなかに恨みがましいというかネガティブな名称で呼ばれています。
もっとも911や226のように、

「1975年4月30日事件」(Sự kiện 30 tháng 4 năm 1975)
「4月30日」(30 tháng 4)

単純にこれだけでそのことを表す名称もあります。

■北ベトナムの進攻

サイゴン陥落は、ほとんどのアメリカ人と南ベトナム人にとって驚きでしたが、
当事者である北ベトナムとその同盟国にとっても「意外」だったようです。

CIAと米陸軍情報部が、南ベトナムは少なくとも1976年までは持ちこたえることができる、
と情報分析している間にも、ドゥン将軍は大攻勢の準備を着々と整えていました。

3月10日

この日に始まったPAVNの侵攻は、砲兵と装甲に支えられながらサイゴンに向かい、
3月末には南ベトナム北部の主要都市を占領していました。(25日にはフエ、28日にはダナン)。

これに従って南ベトナム軍は無秩序な退却を始め、逆転の見通しはほぼなくなります。

この頃になると、ベトナムにいるアメリカのCIA将校たちは、
B-52によるハノイへの攻撃以外には北ベトナムを止めることはできないと分析していました。

北ベトナム政府は、偉大なる革命指導者のホー・チ・ミンの誕生日である5月19日までに
サイゴンを陥すという目標を立て、この作戦名を

「ホー・チ・ミン作戦」

と名付けて、ドゥン将軍に、

「サイゴンの中心部に至るまで、絶え間ない攻撃を行うように」

と指示していました。

一方南ベトナムはというと、国内から突き上げを受けたアメリカ政府が
ベトナムへの再軍事支援を渋ったため、ほぼ孤立無援状態に陥ることになります。

4月20日

南ベトナムのARVIN第18師団の最後の抵抗によってサイゴンは11日間守られましたが、
4月20日、ついに北の侵攻に屈し、撤退を余儀なくされました。

ティエウ大統領はテレビで辞任を表明し、
南を助けなかったアメリカを批難しました。

こんな日もありました

このような事態が発生した場合には援助を行うと大統領が約束していたにもかかわらず、
アメリカは何もしてくれなかったではないか、というわけです。

サイゴンを共産主義者の支配から救うと約束してくれたニクソン大統領は辞任し、
後任のフォード大統領は約束を引き継ぐ気はなかったので仕方ありません。

ティエウは、アメリカが

南ベトナムにパリ和平協定への加盟を強要したこと

その後南ベトナムを支援しなかったこと

南ベトナムに「海を石で埋め尽くすような不可能なことを強要した」こと

を恨みがましく?責め、涙を流しながら会見を行いました。

 

■ サイゴン市民の不安

北の侵攻が迫ったサイゴンでは、人々が共産主義者に都市を支配された後、
報復のための血祭りが行われる恐怖に人々は震え上がりました。

ベトナム戦争初期の頃、PAVNとベトコンが1ヶ月ほど占領していたフエでは、
彼らが撃退された後、大量の墓が発見されており、また、行方不明になったアメリカ人が
斬首などによって処刑されたという噂がフエやダナンから伝わっていたからです。

しかしその噂のほとんどは政府のプロパガンダによるものでした。

とはいえ、サイゴン住民やアメリカ人は、都市が陥落する前に退避したいと考え、
3月末には早くも一部のアメリカ人が自発的にサイゴンを離れていました。

アメリカ国民は、避難所に行けば簡単に出国が保証されていましたが、
南ベトナム人の脱出は混乱を極めました。

パスポートや出国ビザを取得するための裏金は6倍に跳ね上がり、船の値段は3倍、
逆に不動産の価値はほとんどゼロにまで下がりました。

この時期、ベトナムを脱出し、アメリカで難民認定された南ベトナム人は
その多くが南ベトナム政府と軍の元メンバーとその家族だったといわれます。

 

サイゴン発の航空便は全便満席で離陸しました。
4月に入ると国防総省が不要不急の関係者を輸送し始めましたが、彼らの多くは、
ベトナム人の友人や扶養家族(内縁の妻や子供を含む)を置いていくことを拒否しました。

これらの人々をアメリカに入国させることは違法だったのですが、
そのために出国計画が進まなくなってしまったので、苦肉の策として
国防総省はそれらのベトナム人をフィリピンのクラーク空軍基地に運びました。

もちろんこれは非常時ということで違法に行われました。

■ 米政権の最終避難計画

実のところ、フォード政権のアメリカ撤退計画は、現実的、法的、
そして戦略的な問題によって複雑になっていました。

避難の方法論についてフォード政権内でも意見が分かれていたのです。

国防総省は、死傷者や事故のリスクを避けるために、迅速な避難を主張し、
避難を管轄とする国務省は完全に混乱を防ぎ、南ベトナム人がアメリカ人に反旗を翻す、
などという現実的な可能性を含め、流血を防ぐために時間をかけると言う考えでした。

最終的にフォードが承認したのは、

「1,250人のアメリカ人以外は迅速に避難させる」

「残りの1,250人は空港が脅かされたときにのみ退避させる」

「その間にできるだけ多くのベトナム人難民を空輸する」

というものでした。

■ 避難

1975年4月、ジェラルド・フォード大統領は、約2,000人の孤児を国外に避難させる

「ベビーリフト作戦」Operation Babylift

を発表しましたが、作戦に参加していたロッキードC-5Aギャラクシーが、
墜落すると言う悲劇が起こりました。

FSX Air Disasters: 1975 Tân Sơn Nhứt C 5 accident

1975年4月4日の午後、作戦初飛行となるC-5Aはタンソンヌット航空基地を出発し、
フィリピンのクラーク航空基地に向かいました。

この第一陣の孤児たちはチャーター便に乗り換え、カリフォルニア州サンディエゴで
フォード大統領の歓迎を受ける予定になっていました。

しかし、離陸した機体が上昇中、後部貨物ランプのロックが外れて貨物ドアが開き、
その結果機内に減圧が起こり、爆発によって尾翼へのコントロールケーブルが切断され、
油圧システムが故障してフライトコントロールのほとんどが不可能になってしまいました。

機長のデニス・トレイナー大尉と副操縦士のティルフォード・ハープ大尉は、
機体のコントロールを回復し、飛行場に戻ることを決定。
そして滑走路へのアプローチ中に急に出力の戻ったエンジンに翻弄され、
水田を400メートル滑走したあと、堤防に衝突したのでした。

四つにバラバラになった機体は燃料に火がつき、残骸の一部は燃え上がりました。

多くの生存者は二階にいた人たちで、下のキャビンの人はほとんど死亡しました。
乗客314名のうち、死者は孤児78名、国防総省職員35名、米空軍11名、生存者は176名でした。

この事故では墜落死者の中に5人の女性DIA職員が含まれており、2001年、
911事件が起こるまで、これが国防情報局の歴史の中で「唯一最大の人命損失」でした。


■ フリークエント・ウィンド作戦

4月29日早朝、北ベトナム軍がサイゴンのタンソンニュット基地を砲撃し、
国防長官室を警備していた米海兵隊員2名が死亡しました。

チャールズ・マクマホン伍長(左)とダーウィン・ジャッジ伍長は、
ベトナム戦争で戦死した約5万8千人の米軍兵士のうち最後の二人となりました。

 

この都市の占領に先立って行われた避難がフリークエント・ウィンド作戦です。
当ブログではかつて、

「4月のホワイトクリスマス」

と言うタイトルでサイゴンからの脱出と、それから海軍の救出作戦について触れましたが、
これによって、サイゴンにいたほとんどすべてのアメリカ人の民間人と軍人、
そしてベトナム共和国に関係していた何万人もの南ベトナムの民間人が避難しました。

一方アメリカ人の中には、避難しないことを選んだ人も少なからずいました。

フリークェント・ウィンド作戦はヘリコプターによる史上最大の脱出作戦となりました。
その理由は、海兵隊の二人が亡くなったときの爆撃で滑走路に破片が散乱し、
固定翼機が使用不可能となってしまったからです。

そして4月29日午前10時51分、米軍関係者や危険な状態にあるベトナム人を
ヘリコプターで避難させる作戦が開始されました。

アメリカのラジオ局は米軍関係者に直ちに避難地点に移動せよという合図として、
アーヴィング・バーリンの「ホワイト・クリスマス」を繰り返し流しました。

主な避難場所からバスが市内を移動して乗客を空港まで運び、
午後には最初のCH-53がDAO施設に着陸し、夕方までに
395人のアメリカ人と4,000人以上のベトナム人を避難させたのです。

23時には警備を担当していた米海兵隊が撤退し、DAO事務所やアメリカ人の備品、
ファイル、現金などを処分し終わっていました。

当初の避難計画では、ヘリコプターの運用は想定されていなかったのですが、
避難の過程で、大使館にはベトナム人を含む数千人の人々が取り残されており、
さらに多くのベトナム人が大使館の壁を乗り越えて難民認定を受けようとしていました。

折り悪しく雷雨のため、ヘリコプターの運用は困難を極めましたが、それにもかかわらず、
大使館からの避難は夕方から夜にかけてほぼ途切れることなく続けられました。

 

4月30日の朝3時45分、キッシンジャーとフォードは、アメリカ人の避難完了を
発表したいと言う意向から、

「今後はアメリカ人だけを脱出させよ」

グラハム・マーティン大使に命じました。

Graham Martin (cropped).jpgマーティン大使

大使は北ベトナム軍が入ってきたら血の海になることを予想していたため、
ベトナムの政府関係者、軍関係者、サポートスタッフも脱出させることを主張しました。

政府は、もしマーティン大使が退避を拒否したら、海兵隊は彼の安全を確保するために
逮捕してでも運び出すようにと命令を出していたといわれます。

大使館からはアメリカ人978人とベトナム人約1100人が脱出しました。
警備と人選を行なっていた海兵隊も夜明けに乗機し、
最後の航空機が07:53に出発したとき、大使館の敷地内には
420人のベトナム人と韓国人が取り残され、壁の外にも多くの人が集まっていました。

 

■ ギア・ロン通り22番地

かつてのサイゴン市22 Gia Long Street(現ホーチミン市22 Lý Tự Trọng Street)
に、このアパートはまだそのままの形で残されています。

1975年、UPIのフォトジャーナリスト、ヒューバート・ヴァン・エスは、
ベトナム戦争最後の大きな戦いである「サイゴン陥落」の際に、
米国政府職員がヘリコプターで避難する様子を象徴的な写真に収めました。

北ベトナム軍がサイゴンに進入した際、アメリカ政府の職員を避難させるために
エア・アメリカヒューイヘリコプターがエレベーターシャフトの屋根に着陸しているところです。

終戦後、ギア・ロン通りは、フランスに処刑された17歳の共産主義者に敬意を表して、
Lý Tự Trọng通りと改称されました。
アパートは一般公開されており、見学者はエレベーターで9階の屋上に出ることができます。

■ 降伏

4月30日の早朝、総攻撃を命じられたドゥン将軍率いる北ベトナム軍は、
正午頃、ブイ・ティン大佐が指揮するT-54/55戦車で独立宮殿の門を突破しました。

宮殿の階段に椅子を置いて座って待っていたミンと30人の上層部にティン大佐が近づくと、
ミンは

「革命はここにある。革命はここにあり、あなたはここにいる」
「我々は政府を引き渡すためにあなたを待っていた」

と述べました。
しかしティンは素っ気なく、

「あなたが権力を放棄することは問題ではない。
なぜならあなたの権力はすでに崩壊しているからだ」

と言い放ちました。

その日の午後、ミンは最後にラジオに出て、

「サイゴン政府はすべてのレベルで完全に解体されたことを宣言する」

と発表し、サイゴンは陥落したことを表明しました。

■ その後〜現在

サイゴンは「ホー・チ・ミン・シティ」と名前を変えられましたが、
実際にはこの名前は公務以外ではあまり使われず、現在でもサイゴンと呼ばれています。

サイゴン入城直後、アメリカ大使館は他の多くの企業とともに略奪され、
外界とサイゴンとの通信は遮断されたままになっていました。

共産党政府は、戦時中に流入して増えたサイゴンの人口を減らすために、
南ベトナム軍の元兵士を対象とした「再教育クラス」においても、
都市部から離れて農業に従事する必要があると説かれましたし、
サイゴンを出て田舎に行くことを条件に米を配給したりしました。

目標は、2年以内に100万人がサイゴンを離れ、さらに50万人が離脱することです。

もちろん、北ベトナム側の南ベトナム人に対する「報復」は予想どおり行われ、
終戦後、推計によると、20万人から30万人の南ベトナム人が再教育キャンプに送られ、
多くの人が拷問、飢餓、病気に耐えながら重労働を強いられていたとされます。

そして、彼らはアメリカ大使館が残したCIAの情報提供者のリストを使って、
約3万人の南ベトナム人を組織的に殺害したとする情報もあります。

現在、4月30日はベトナムでは解放記念日(Ngày Giải Phóng)として祝日となっています。

しかし、海外のベトナム人の間では、4月30日の週は
「ブラック・エイプリル」と呼ばれ、
サイゴンの陥落や南ベトナム全体の陥落を嘆く時期とされているそうです。

ちなみに4月30日はわたしの誕生日ですが、
ベトナム人とは誕生日の話はしない方がいいかもしれません。

 

続く。

 


ベトナム・ベテランズ・メモリアル〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-08-28 | 歴史


■ ベトナムベテランズメモリアル

ワシントンD.C.のコンスティテューション・ガーデンには、
5万8,000以上の名前が刻まれたシンプルな黒い花崗岩の壁があります。

これは、1982年以来、ベトナム戦争に従軍中に死亡、または
行方不明となった軍人を追悼している「ベトナム退役軍人記念館」です。

ベトナム退役軍人のジャン・スクラッグス(Jan Scruggs )は、
ベトナム帰還兵たちを描いた映画「ディア・ハンター」を見た後、
仲間の兵士たちが命を捧げた奉仕とその結果の犠牲を、
アメリカに認めてもらうための具体的なシンボルが必要だと考えました。

つまりベトナム戦争兵士のためのメモリアルです。

1980年、コンスティテューション・ガーデンに記念館の設置を許可された後、
設計コンペが行われ、マヤ・リン(Maya Lin)の作品が満場一致で選ばれました。

この記念館の計画が発表された時点で、その構造については議論の的にもなりました。
さらに人々に驚きを与えたのは、コンペに勝った建築家が21歳の女性で、
さらにはプロとしての経験もない無名の学生だったことです。


マヤ・リン(中央)、ジャン・スクラッグス(左)

マヤ・リンは当時イェール大学の学部生でしたが、
記念碑のコンペで1,400人以上の応募者の中から選ばれました。

彼女の両親は中国人の大学教授で、文化大革命から逃れるためアメリカに移民し、
彼女自身はアメリカで生まれた中国系アメリカ人です。

写真で彼女が持っている敷地全体の設計図で、中央に広い逆さVがありますが、
これが記念碑で、光沢のある黒御影石でできており、片方の「腕」をリンカーン記念館に、
もう片方をワシントン記念塔に向けた設計となっています。

壁に刻まれているのは戦死したor行方不明になった人など58,318人の名前であり、
碑の前に立つと、彼らの名前の上にはそれを見る人の姿が映し出されるのです。

この写真に写っているのは、ほとんどがダイヤモンド型が刻まれた名前ですが、
これは死亡宣告を受けた人であり、MIA、つまり記念碑建造当時、
行方不明だった人の名前の側には十字架が刻まれています。

その後、MIAとされている人が生きて帰ってきた場合は、十字の周りに丸が付けられ、
遺体が確認された場合は、十字架の上にダイヤモンドが重ねられることになっています。

最初に戦死した男性(1959年)の名前は、二つの壁が合わさったV字の中央から始まり、
年代ごとに並べられたこれらの名前は、2つの壁の接合部の裏側で出会います。
つまり、壁の真ん中で最初の死者と最後の死者(1975年5月15日)が出会うのです。

リンはこのデザインについて、

「既存のデザインのエレガントなシンプルさと
ストイックさを維持し、強化すること」


「それ自体がベトナム帰還兵の経験と
奉仕の感動を呼び起こす彫刻を作ること」

と胸を張りました。

それは、個人の名前と死亡日をシンプルに表現することが持つ力です。
メモリアルウォールに書かれた圧倒的な数の名前は、

「戦争の現実、戦争で失われた命、そして従軍した個人、
特に亡くなった人たちに思いを馳せるための場所」

でもあるのです。

 

しかしながら、このデザインに対しては賛否両論がありました。
というか、否定的な反応は非常に強く、何人かの下院議員が苦情を申し立て、
内務省長官ジェームズ・G・ワットのごときは建築許可を出さなかったとまでいわれます。

何が彼らの気に入らなかったのでしょうか。
シンプルすぎるから?

ベトナム帰還兵のトム・カーハート(Tom Carhart)は、
ニューヨーク・タイムズ紙の社説において、

「英雄的な彫刻の要素がなければ、抽象的すぎるデザインは
ベトナム戦争の『恥と悲しみ』を強調しすぎてしまう」

という理由でこの黒曜石の壁を否定しました。

なぜ抽象的だと恥と悲しみが強調されるのか、わたしはその記事を読んでいないので
これだけではまったく理解できないのですが、まあつまりそういう理屈です。

とにかく、大きくなる不満の声を抑えるために、そして、カーハートのような
より伝統的なアプローチを望む人々をなだめる?ために、
壁の近くに、国旗と軍人の具象彫刻が追加されることになったのです。

そこで軍人の姿の彫刻を依頼されたのが、コンペで最も評価の高かった彫刻家、
フレデリック・ハート(Frederic Hart)でした。

 ■ 三人の軍人像

武装し、ジャングルの戦闘服を着た3人の若い軍人たち。
彼らの視線は戦死者の名前の書かれた壁に注がれています。

見てますね

これを見た退役軍人たちは、その特徴はどの兵士にも当てはまり、
実際に彼らをどこかで見たような気がすると感想を述べるそうです。

このブロンズ像は、アーティストのフレデリック・ハートが制作したものです。

さて、マヤ・リンは、ハートの作品を自分の記念碑の近くに置くと言う決定を

「自分のデザインが汚された」

として激怒し、それを「クーデター」とまで呼びました。

なんというか、この辺りが若く経験がなくとも矜恃に溢れた芸術家であり、
ある意味中国人女性らしい気の強さとある層には捉えられたかもしれません。

さらに、大きな声で言いたくはありませんが、どうしてもここで考えてしまうのは、
リンがアーティストとして全く経験のない学生であるだけでなく、
若い女性でしかも中国系アメリカ人二世であったというそのスペックです。

もし同じようなデザインでも、作者が白人男性のそこそこベテランなら、
(そう、ハートのような)それでも反対の声はこれほど大きかったでしょうか。

 

彼女はさらに、退役軍人から否定的な手紙は一通も受け取っていないと主張し、

「退役軍人の多くはカーハートほど保守的ではない」

とまで言い放ちました。
結局、ハートの作品は、彼女のデザインへの影響を最小限に抑えるために、
記念壁から少し離れた場所に置かれることに決まりました。


制作中。右はモデルになったコーネル三世伍長。

このハートの作品について解説しておきましょう。

「戦争中の男たちの性質である愛と犠牲の絆を表現するための作品」

を作るために、何十人もの退役軍人にインタビューし、
戦争中のフィルムやドキュメンタリーを見ました。

ベトナムで従軍したアメリカ人戦闘員に含まれる主要な民族を表現するために、
この像の3人の男性は、

ヨーロッパ系アメリカ人(中央)

アフリカ系アメリカ人(右)

ラテン系アメリカ人(左)

と意図的に識別できるようになっています。

この3人の人物は、実際の6人の若者をモデルにしており、そのうち2人
(白人系アメリカ人とアフリカ系アメリカ人)は、
この彫刻が依頼された当時、現役の海兵隊員でした。

白人系は当時海兵隊の伍長だったジェームズ・E・コーネル3世
アフリカ系は海兵隊のテランス・グリーン伍長、ロドニー・シェリル
そしてスコッティ・ディリンガムの3人、ヒスパニック系は
ギレルモ・スミス・デ・ペレス・デレオンという名前まではっきり残っています。


左から、デレオン氏、作者、コーネル三世伍長、グリーン伍長

作者はこの作品についてこのように語っています。

「この壁を海にたとえました。
圧倒されるような名前の数、ほとんど理解できないような犠牲の海です。
わたしはこれらの人物をその海の岸辺に置き、海を見つめさせ、
海の前で警戒させ、海の人間的な顔、人間の心を映し出そうとしました。

史実に忠実に、彼らは制服を着て、戦争の装備を持ち、そして若い。
彼らの若さの無邪気さと戦争の武器とのコントラストが、その犠牲の痛ましさを強調します。

彼らには、戦争中の男たちがそうであったように、愛と犠牲の絆を示す身体的、精神的な一体感がある。
しかし、彼らひとりひとりは孤独であり、強さと弱さをそれぞれ内包しているのです。

彼らの真のヒロイズムは、その自覚と弱さに直面したときの忠誠の絆にあります」


兵士たちは亡くなった仲間の名前の書かれた壁を厳粛に見守っています。
作者とそのスタッフは配置する位置を決定するために、兵士の実物大のモックアップを持って
記念館の敷地内を何度も回って何カ所も試し、完璧な場所を見つけました。

また、作者はこんなことも言っています。

「三人の兵士たちのファティーグジャケットやパンツのヒダは、
あなたが見たことがある中世の天使の彫刻の衣装のヒダのようなものです」

 

■ 看護士と兵士の像

別の木立の中には「ベトナム女性記念館」があり、
3人の女性軍人と1人の負傷した兵士を表した具象彫刻があります。

作者のグレナ・グッドエーカーは、この作品ので、

「女性たちの行動によって救われた若い男性」

の姿を描いたと述べています。
彼女らについては「三人の看護師」と間違った説明をしている媒体もあるようですが、
看護師は兵士を抱き抱えている女性だけで、後二人は航空管制官、通信士であり、
ベトナム戦争で女性軍人・軍属が果たした重要な支援や介護の役割を表しているのです。

同じ敷地内にあるベトナム女性記念館は、ベトナム戦争に従軍した
アメリカの女性を顕彰するために建てられた記念館です。

しかしながら、この記念碑で描かれているように、ベトナム戦争では
女性看護師が前線で医療行為を行ったという事実はなく、
そのような一次医療は陸海軍の男性衛生兵によってのみ行われていました。

女性の看護師はもっぱら前線の後方にある軍病院で働いていたため、
史実に照らせば不正確であり、あくまでも象徴としての表現とされています。

ちなみに、慰霊の壁には戦争で亡くなった8人の女性軍人の名前が刻まれており、
彫刻の木立には彼女らの数だけ、8本の木があります。

この8人は彼女たちはすべて従軍看護師であり、負傷者の世話をしている間に、
榴散弾の傷やヘリコプターの墜落、病気などで亡くなっています。

戦線がはっきりしない戦争であったため、彼女たちはしばしば戦闘地域の真っ只中に巻き込まれ、
自分の身を危険にさらしながら任務につかねばなりませんでした。

壁に名前を刻まれた女性8名を紹介しておきましょう。

エレノア・アレキサンダー陸軍少佐 Capt. Eleanor Alexander 
Eleanor Grace Alexander
ヘドウィグ・オルロスキー陸軍大尉 1st Lt. Hedwig Orlowski
Picture of

1967年11月、プレクの病院勤務からの帰路、飛行機が墜落して死亡

シャロン・レーン陸軍大尉 1st Lt. Sharon Lane

1969年6月、チューライの312避難病院にロケット弾が命中、破片による負傷で死亡

パメラ・ドノバン陸軍中尉 2nd Lt. Pamela Donovan

1968年7月にジアディンで病死

アニー・グラハム陸軍中佐 Lt. Col. Annie Graham

1968年8月、同病院で病死

 

Elizabeth Ann Jones
キャロル・ドラズバ陸軍中尉 2nd Lts. Carol Drazba 

エリザベス・ジョーンズ陸軍中尉 2nd Lts.  Elizabeth Jones

1966年2月、サイゴン近郊でのヘリコプター墜落事故で死亡

Mary Therese Klinker
メアリー・テレーズ・クリンカー空軍少佐 Capt. Mary Therese Klinker

1975年4月4日、国外に脱出するベトナムの孤児を乗せたバビリフト機の墜落事故で、
138名の人々とともに死亡

 

この記念碑周辺を訪れる人の多くは、従軍した人たちへの追悼の意を込めた
さまざまな品々を残していきます。
花束以外にも軍用のドッグタグ、花、勲章、写真、お気に入りのおもちゃなどが
碑の前に常に置かれています。

そのほか「米国旗」と「MIA-POW旗」を掲げる旗竿などがあり、
旗竿のもとにはアメリカの5つの軍隊の徽章が掲げられています。

1982年11月11日、ワシントン国立大聖堂で行われた壁の献納式では、
56時間にわたって刻まれたすべての死者の名前が読み上げられました。

 

続く。

 


片翼の短い戦闘機〜マッキC-202. フォルゴーレ〜スミソニアン航空博物館

2021-08-21 | 歴史

スミソニアン博物館の「第二次世界大戦の航空」シリーズ、
展示室にある航空機の紹介もあと一機を残すのみになりました。

 

■ マッキ C-202. フォルゴーレ

Aeronautica Macchi C.202 Folgore

最初にこのコーナーにある戦闘機を紹介したとき、
マスタング、Bf109、スピットファイア、零式艦上戦闘機、
そしてこのマッキ・フォルゴーレなるイタリアの戦闘機をして、

「第二次世界大戦中最も有名な戦闘機5機」

というのはいかがなものか、ということを控えめに言ってみたわけですが、
それはわりと世界中の識者の共通認識でもあるらしく、ある記事では、
こんな文句からこのフォルゴーレの紹介が始まっていました。

ここで正直に言おう。 Let’s be honest here.

忖度なしで正直に言わざるを得ない決定的な点があるってことですか。
ちなみにこの筆者が「正直に言ったこと」をそのまま書いておきます。

フォルゴーレは第二次世界大戦におけるイタリア最高の戦闘機であったが、
その性能はイギリスやアメリカの戦闘機に及ばなかった。
(多分ドイツと日本の戦闘機にも及ばなかったのではないかと・・)

さらにこのような過酷な現実が列挙されております。

最高速度372m/p.h.はマスタングよりも65遅い

航続距離475マイルはマスタングより1200マイル近く短い

サービスシーリングは1マイル近く低い

メッサーシュミットよりも重い

1機を製造するのに約22,000人のスタッフが必要
ちなみにメッサーシュミットは1機を約4,000人で製造

左翼が右翼よりも約9インチ長い

なんと・・・!

イギリスには一瞬とは言えディフィアントという、前方攻撃武器がない戦闘機が
存在したということに驚かされたばかりなのですが、今回のシリーズでは
それを上回る衝撃的な飛行機がこの世に存在したことを知りました。

マッキ・フォルゴーレ、両翼の長さが違うのです。

改めて写真を見ると、レンズによって生じた歪みだけとも言えず、
手前の左翼が向こう側より短いのではないか、と思われてきます。

それにしても、どんな構造物でも基本左右対象に作られているのが自然の道理、
と思い込んでいる我々にとって、これは前代未聞ではありませんか。

ドイツ人ならそもそもそうならない設計をするだろうし、日本人なら
おそらくはそんな解決法など夢にも思いつかないに違いありません。

それではなぜこんな設計の飛行機が生まれたのか。
その目的は何だったのかを説明する前に、諸元などを上げておきます。

翼幅 10.6m

長さ 8.9m

高さ 3.6m

重量空時 2,350kg

重量満タン時 2,930kg

動力 アルファロメオ R.A. 1000 R.C 41-1
   モンソニ(ダイムラー-ベンツDBー601 A-1 ライセンス製産)

武装 12.7 mm機銃 2基 7.7mm機銃 2基

Monsoniというのはイタリア語のモンスーンという意味であり、
Forgoreは奇しくも同時代のアメリカ軍の名機と同じ、「ライトニング」という意味です。

まあ、それをいうなら日本にも「震電」というのがありましたが、こちらはなぜか
英語圏では
「マグニフィセント・ライトニング」となっております。

さて、ここでスミソニアンの解説です。

1940年に設計されたマッキ・フォルゴーレは、第二次世界大戦で
大量に使用された最も効果的なイタリアの戦闘機でした。

さすがはスミソニアン、いきなり「正直に言おう」などと言い出さないあたりが
国立博物館としての品位というか、優しさを感じさせますね。

1941年後半から終戦まで約1,200機のフォルゴーレが運用されました。
1943年9月にイタリアが休戦した後、フォルゴーレは、

イタリア共同交戦空軍(Italian Cobelligerent Air Force)

として対ドイツ戦に投入されるようになります。

昨日までの同盟国に対し、今日からいきなり機銃を向けて戦うというのも
一体どうなんだろう、と考えさせられずにいられない変わり身の早さですが、
こういう人たちだから、いまだにドイツ人は日本人を見ると、
今度はイタリア抜きでやろう
と言わずにいられないのだと思います。

続きです。

フォルゴーレのパフォーマンスと機動性は優れていましたが、
武装については同時期の他の戦闘機より劣っていました。

メッサーシュミットより重く、マスタングより遅くとも、
機動性は悪くなかったと、そうおっしゃるわけですな。

さらには、

C.202フォルゴーレは、第二次世界大戦中にイタリア王立空軍(RA)が
大量に投入した最高の戦闘機で、イタリア国外ではほとんど知られていない。

この飛行機は、イタリアが世界水準の戦闘機を設計・製造できることを証明した。

とまで言い切っています。

スミソニアンがそういうからにはやっぱり結構いけてたんじゃないのかしら。
(と権威に弱いわたしはついそう思うのだった)

 

航空製造会社Aeronautica Macchi S. p. A.は、ラジアルエンジンを搭載した
マッキの初期設計機C.200 サエッタSaeta (これも雷光の意)をベースに、
フォルゴーレ(雷)を設計・製造しました。

Mario Castoldi

設計したのはマッキ社の設計責任者であるマリオ・カストールディ

サエタの機体にDB 601を搭載してフォルゴレを完成させました。

イタリアは、1930年代半ばには航空先進国でありましたが、いかんせん
エンジンの開発に遅れをとっていたため、同盟国のメリットを生かして
ドイツからダイムラー-ベンツのエンジンを輸入したのです。

C.202は1940年8月に初飛行し、RA(王立空軍)は1941年の夏に
同機を1°ストームC.T.(第1航空隊?)に配備し、さっそくRAFと交戦しました。

北アフリカにおける戦況を左右するには遅すぎたとはいえ、
この新しいマッキC.202は、アメリカのカーチスP-40や
イギリスのホーカー・ハリケーンよりも明らかに優れていることを証明した。

あれ・・?そうだったんですか?
ハリケーンより劣っていたってさっきの媒体では言われているんですけど。

それどころか、

このイタリア製戦闘機に乗るパイロットはすべての対戦相手を凌駕した。
ただし、

スーパーマリン・スピットファイアと北米のP-51ムスタングを除いて。

うむ、やっぱりね。

しかし、そのうちDB 601エンジンの供給が尽きます。

そこでアルファロメオは先ほども触れたモンソニー(モンスーン)と呼ばれる
コピー版をライセンス生産し始め、その結果、フォルゴーレは
レジア・エアロノーティカの他のすべての戦闘機を凌駕するようになったため、
大量生産されるようになった、ということです。

■ 翼の長さが違ったわけ

主任設計者のカストールディは、エンジンから発生するトルクと
Pファクター(プロペラ係数)を打ち消す独自の方法を採用しました。

空力現象により、飛行機は離陸時に揺れ、時には制御不能になるのを防ぐために
カストールディが考案したのが、

左翼を右翼よりも21cm長くする

驚きの解決法でした。

翼を大きくすることで左側の揚力が大きくなると、機体が右に傾きます。
するとそれがトルクと
Pファクター(非対称ブレード効果)に対抗して
結果として揺れが打ち消されるという理論です。

つまり言い方を変えると、エンジンと回転するプロペラのトルクで
機体が左に押し下げられるのを打ち消すために、左側に少しだけ揚力を与えるのです。

これは面白い解決策ですね。

戦後、フォルゴーレは、より強力なDB605エンジンを搭載するために改良され、
C.205ヴェルトロ(Veltro、グレイハウンド犬の意)と改称され、
1949年までエジプト空軍で最後に活躍していました。

尾翼には王立空軍のエンブレムとマッキC202の名称が。

国立航空宇宙博物館にあるマッキC.202は、世界に2機しかないうちの1機です。
終戦後、多くの枢軸機の中の1機として評価のため持ち込まれ、何年も保管されていました。

キュレーターは1942年夏にリビアで活動した

4º Stormo(ウィング)
10º Gruppo(飛行隊)
90º Squadriglia(飛行隊)
90-4(機体番号)

のペイントを再現することにしました。

4º Stormoは王立空軍の有名な戦闘機部隊です。
北アフリカにおける枢軸国の進攻を戦い、1940年から終戦までに500の勝利を収めました。

妙に写実的な部隊マーク。
オノと・・束ねた何か?

まさかファシズムの語源と関係あるとかじゃないよね?

と思い、念のため調べてみると、ビンゴ!

この「束ねたもの」は「ファスケス」といい、斧の周りに木の束を結びつけたもの。

古代ローマで高位公職者の周囲に付き従った者が捧げ持った権威の標章で、
20世紀にファシズムの語源ともなった、ということがわかりました。

ファスケス

Barraccaというのは今調べたらイタリア語で「小屋」だそうです。
なるほど、バラックということね。

フォルゴーレのコクピット。

当博物館展示機がペイントを再現したのは
4º Stormo10º Gruppo90º Squadrigliaのフォルゴーレ。

1942年、リビアの航空基地で撮影されたものです。

マッキC202とブリンディッド航空基地の王立空軍航空隊のみなさん。

皆の表情が心持ち(´・ω・`)としているのは、この写真がイタリアの降伏後、
基地を確保されたときに(記念として)連合軍のカメラマンに撮られたものだからです。

さすがラテン系のイタリア人も皆神妙な顔をしています。当たり前か。

スミソニアンが所蔵しているフォルゴーレは、現存している2機のうちの貴重な1機です。
1500機も生産したならもう少し残っていてもよさそうなものですが。

 

続く。

 


"Guard The Victory, Join the AAF" P-51マスタング〜スミソニアン航空博物館

2021-08-19 | 歴史

 

前回の「第二次世界大戦の航空」シリーズでは、爆弾の種類について、
ごく基本的なようで実はよくわかっていなかった知識を得ることができました。
(あくまでもわたしを基準にお送りしております)

今日は、その続きとして、前回冒頭にアップした爆弾の紹介からです。

U-157.S-33. Bomb 500ポンド焼夷弾 AN-M76

Ilustracja

軽構造物、弾薬庫、鉄道や自動車、地上の航空機などといった標的を

破壊するために広く使用され、「解体爆弾」という名前もありました。

本体は鋳鋼製の一体型で、ベースプレートは本体に溶接されています。
爆弾の尾部は鋳鋼製のスリーブで、4枚のシートスチール製「ヒレ」と
内部にボックス型の支柱があります。

着火剤には白リンが含まれており、この爆弾を廃棄する際には適切な注意が必要です。
焼夷混合物PT1は、基本的にマグネシウムペースト、ガソリン、
増粘剤で構成されており、通常の焼夷混合物IMの約4倍の熱量を発生させることができます。

 

U.S.250ポンド AN-M57 汎用爆弾

1942年3月11日以降、この爆弾に採用されている標準的なカラーは、
オリーブドラブのボディにHE充填剤を示す黄色のバンドと決められました。

充填剤は50/50硝酸アンモニウムとTNTからなるアマトール(Amatol)で、
それを表すためノーズに黄色、爆弾本体の尾部に1インチの黄色、
そして重心に1/4インチの点線の帯が描かれました。

このサイズの高爆発性爆弾は、第二次世界大戦でアメリカの使用した最も効果的なタイプです。
型番の頭の「AN」はこのアイテムがアメリカ陸軍海軍の両方で使用できるよう
標準化されているということを表しています。

また、アメリカのみならずイギリスや他の同盟国によっても採用されました。

ミッションに応じて、信管のタイプを使い分けます。

U.S 100 ポンド、タイプ AN-M30 汎用爆弾

汎用の高爆発性爆弾です。

超重量級の爆撃機が高空から投下した場合に起こる飛行の不安定さを解消するために、
爆弾は従来の尾部ユニットより2インチ短くなっています。

AN-M30爆弾は、その改良型であるAN-M30A1爆弾よりも軽量です、
トリトナル、TNT、アマトールを装填することができます。

爆弾の塗装は全体的にオリーブドラブで、機首と基部には
1インチの黄色の帯が、重心部には1/4インチの黄色の帯が描かれています。

さて、ここからはアメリカの誇る第二次世界大戦時の名戦闘機、
マスタングについてです。

■ 最高のピストンエンジン戦闘機 マスタング

ノースアメリカン P-51D マスタング(Musutang)

多くの人々が、P-51マスタングを、第二次世界大戦における
最高のピストンエンジン戦闘機とみなしています。

同機は射程、機動性、火力の組み合わせにより、非常に多様性に富んだ展開をしました。

第二次世界大戦における主要な戦場では、その航続距離、
高高度における飛行の安定性から、護衛のほか機銃掃射における攻撃、
そして写真偵察に重用されました。

 

マスタング開発の経緯です。

1940年、イギリスの担当者はノース・アメリカン・アビエーション社
カーチスP-40の増産を依頼しました。

P-40は当時、アメリカの陸戦型戦闘機としては唯一のものでしたが、
速度、航続距離、高度などの性能は著しく劣っていました。

そのためノースアメリカン社は製造を断り、その代わり完全オリジナルの設計を提案し、
3ヵ月以内に完成させることを約束したのです。

117日後に完成した機体は水平飛行の速度で優れた性能を発揮し、
英国空軍(RAF)はこの機体をマスタングと命名して購入を決めます。

その後、イギリスはこれにマーリン65エンジンを搭載することによって、
「世界最高のプロペラ式長距離護衛戦闘機」を誕生させます。

航続距離と速度が向上したことで、P-51飛行隊は、
第8空軍の爆撃機と一緒にヨーロッパを長距離空襲することができるようになり、

掩護任務においてもおおいに性能を発揮し、このため爆撃機の損失は激減しました。

太平洋戦線でP-51はその航続距離、速度、持久力で、長距離爆撃を行う
ボーイングB-29スーパーフォートレスを護衛しました。

しかし、戦後アメリカで独立したアメリカ空軍が朝鮮戦争に投入する頃には、
P-51は冷却装置の防御が弱いという弱点を突かれ、多くが撃墜されることになります。

マスタングのコクピットは狭いながらも大変機能的でした。
特に、後年導入されたバブルキャノピーによって、
搭乗員には視界の広さが確保されることになったのです。

ロイヤルエアフォースのマークを付けて飛ぶマスタング。
わかる人が見たらおお、と思う(かもしれない)写真です。

この機体はオリジナルで、キャノピーの形は初期のものです。

 

■ スミソニアン博物館展示機

この写真は、当博物館に展示されているマスタングのかつての姿です。

同機は1945年末に製造されたのち1945年7月になってから納入されたため、
結局一度も戦闘に参加しないまま戦争は終わってしまいました。

陸軍航空隊はこの戦闘機を11ヶ月間、合計211飛行時間だけ使用した後、
手放し、後に国立航空博物館に移管されました。

 

しかしこのマスタング、なんの役にも立たなかったというわけではなかったようです。

NASM(スミソニアン)が入手したとき、機体胴体の両側には
大きな黒い文字で誇らしげな言葉が書かれていたといいます。
その言葉とは・・・。

『勝利を守れ 陸軍航空隊に参加しよう』
 "Guard The Victory, Join the AAF"

AAFとはArmy Air Forcesのことです。

軍務を終わったあと、同機は陸軍航空隊の広報機になって、

リクルート活動に使用されていたということになります。

この文言がペイントされたのが、終戦前だったのか、それとも
終戦が分かってからだったのかがちょっと気になります。

「Guard」=一旦手にした勝利を守れ、という意味だったのでしょうか。

このマスタングは、現在、
第8空軍第353戦闘機群第351戦闘機中隊使用機の塗装をされています。

同飛行隊はドイツ奥地に向かう爆撃機を護衛する部隊でした。
爆撃機の掩護任務を終えて帰投する途中、彼らは敵機と交戦、
あるいは地上施設の攻撃を行い、その結果、部隊撃墜数330、
地上での破壊数414を記録し、部隊功労賞を受賞しています。

■ ロシアへのシャトル爆撃

1944年の夏のことです。
アメリカ軍の爆撃機の射程を拡大するための実験が行われました。


アメリカはドイツ東部やバルカン半島の敵目標を爆撃するために、

スターリンを説得して、イギリスやイタリアに戻ることなく、
ロシアにアメリカ軍の重爆撃機をシャトル飛行させることを許可させたのです。

ソ連はキエフ近郊に3つの飛行場を用意し、アメリカは数ヶ月かけて飛行機の受け入れ準備をしました。

計画は、P-51戦闘機に援護されたイギリス軍の第8空軍爆撃機などが
東ヨーロッパに長距離爆撃を行うというものです。

目標は合成オイルの工場であり、ロシア軍がドイツ軍から奪還したウクライナの基地でした。

しかし結論だけ言うと、これはとてもうまくいったとは言えませんでした。

その理由は、皆様も薄々お気づきの通り、
西側同盟国とソビエト連邦の間の「緊張」です。

ソ連の方も西側に対し疑惑を持っていたので、うまくいくはずないですよね。

 

■ 航空機銃

上から、

ドイツ軍MARSGG-15 7.92MM 機銃

1932年、ラインメタルによる導入されました。

1938年に採用されたより高度なMG-81に代替えされましたが、
MG-15は第二次世界大戦中、さまざまなドイツ軍の航空機の
防御兵器として使用され続けていました。

日本はそれを7.92mmでコピーし、戦争中は68型として使用しています。
MG-15の初速は毎秒2952フィート、発射速度は1分間に1050発でした。

アメリカ軍 ブローニング M2 .50口径機銃

第二次世界大戦で最も広く使用されていた航空機用機関銃であり、
今でも多くの国の空軍に使用されています。

空冷式反動式で、初速はま1秒2800フィート、発砲速度は
毎分700〜850発です。

日本軍 HO-5 20MM 自動航空砲

HO-5は第二次世界大戦中の日本の優れた航空機関砲の一つでした。
ちなみにこれは「エイチオー」ではなく「ホ」と読みます。
(ということは陸軍の装備だな)

ホ5(2型)砲は、1型機関銃をスケールアップして設計された優れた武器で、
陸軍機の固定武器として広く使用されました。

ブローニング社製のショートリコイルアクションを採用し、
分解可能なベルトから給弾される仕組みです。

既存の航空機に搭載されている1式機関銃の代わりになることを期待して、
可能な限り小型軽量化されています。

性能だけで言うと第二次世界大戦中の20mmの中で最高ともいえる銃でしたが、
悲しいことに、製造当時の日本国内での品質管理の悪化により、

カートリッジに火薬が十分に充填されていなかったため、
完全に充填されたカートリッジで可能な秒速820mが出せませんでした。

この銃は主に固定武器として使用されたのですが、1型と同様の
クレードル搭載型のフレキシブル・バージョンも一応製造されました。
(ただし、ほとんど使用されなかったということです)。

ということで、優秀な日本の武器がいきなり登場して驚かされることになりました。


■ 護衛戦闘機の台頭

「エスコートファイター」を日本語にすると、「直掩機」となります。

直掩機とは、敵航空機を迎撃して味方艦船や飛行場を守ったり、
味方の航空機を掩護して戦闘空中哨戒を行う航空機です。

直掩機が台頭してくるのは1943年のことです。
それまでのアメリカとイギリスの空軍力では、戦闘半径800km以上の
シングルエンジンを搭載した戦闘機の設計が可能だとは信じられていませんでした。

イギリス王立空軍はドイツ軍の空爆を防衛するために夜間爆撃にシフトし、
アメリカ空軍の日中爆撃部隊は1943年後半には大きな損失を受けて敗北寸前。

そこでP-38「ライトニング」P-47「サンダーボルト」戦闘機に増槽を搭載し、
さらに多数の典型的な護衛戦闘機、P-51「マスタング」を投入してルフトヴァッフェを阻止しました。

かたやそのドイツ軍はバトル・オブ・ブリテンですでに護衛戦闘機を実験していました。

しかしながらメッサーシュミットBf109は航続距離が短すぎ、双発のBf110
RAFのハリケーンにもスピットファイアにも対抗できませんでした。

というわけで、ドイツ軍も長距離護衛戦闘機なるものは不可能だと諦めていたため、
1944年、ドイツ上空に多数のP-47とP-51が出現したことは彼らにとっても衝撃でした。

1944年初頭、B-17フライングフォートレスを援護して飛ぶP-47サンダーボルト。

P-51も1944年から45年にかけてアメリカ陸軍航空隊の爆撃任務を援護することで
数多くの功績を残しましたが、増槽を装備したP-47は、1944年春の大空中戦で
ドイツの戦闘機のほとんどを撃墜するという実績を挙げています。

Air Battles Over Europe (1944)

ニュース解説ではサンダーボルトとマスタングについても言及しています。

Dーデイ、1944年6月6日、ノルマンディ侵攻の際撮られたと言われている写真。

保守要員が金属と含浸紙(薬液などを吸収した保持材)でできた増槽を用意して
待機する基地に、第361戦闘機群 第375戦闘機隊のP-51ムスタングが帰投します。

画像の上下左右に見えているのはガイドで、これはガンカメラショットです。

1944年3月、2機のP-47サンダーボルトがBf110を撃墜しているところで、
写真を撮っているP-47からの攻撃はBF110の左翼に命中しています。

■ドイツ空軍の敗北

西ヨーロッパへの侵攻への道を開いたルフトバッフェの決定的な敗北は、
1944年2月下旬の「ビッグウィーク」から始まりました。

アメリカ航空隊は地上と空中でドイツ空軍を破壊することを目的として、
ドイツの航空機産業プラントやその他重要な目標に対して、
ほぼ連日激しい爆撃を繰り返し仕掛けました。

それを可能にしたのは増槽の搭載と護衛戦闘機の増加です。

「ビッグウィーク」と呼ばれる空戦とそれから3ヶ月間に渡った空中戦は、
主に「パイロットを消耗する(殺害する)」ことによって、ゆっくりと、
しかし確実にルフトバッフェの戦闘機防衛力を打ち砕いていきました。

そして5月までにドイツの本土防衛の準備とその戦闘能力は劇的低下し、
イギリスを苦しめていた夜間爆撃のオペレーションにおいてすら、影響をもたらしました。

そして連合国がD-デイでフランスに侵攻したときには、
ドイツの空軍力は連合軍にとってほとんど脅威とならなくなっていたのです。



続く。

 

 


「ジェットパイプエンジン始動」〜映画「妖星ゴラス」

2021-08-13 | 歴史

映画「妖星ゴラス」2日目です。

ゴラス衝突回避についての対策会議は国連の場に移されました。
我が日本の代表である河野博士が、先日高校生が出したアイデア、

「回避するにはゴラス爆破か地球の軌道を移動させるしかない」

というのを主張します。

具体的には、地球は今の軌道から41万キロ移動すれば良いと。

この突っ込みどころ満載の理論について、本田監督は1か月近く
東大理学部天文学科へ通い、
さらに天文学者堀源一郎
「地球移動」の科学的考証を依頼しています。

その結果、

大きいとはいえ有限の質量を持つ物体であることに変わりはなく、
非常に大きな力が必要ではあるが、それが必要に見合った十分な力であれば
ニュートンの運動方程式に従って軌道は変わるため、地球の質量の概算値を元に、
必要な力・運動量エネルギーは算出できる(wiki)

つまり、具体的な数式を得ることができました。

田沢博士の後ろの黒板に書かれた数式は、堀氏が実際に算定したものです。
理論上は地球を動かすことはできるということになります。

理論上は。

それではそのエネルギーはどうするのか、と質問が出ると、すかさず
USSO(仮名)代表が、

当然それは原子力だろう、といいつつ、しかしその核物質はどこにあるのか、
と非常に政治的に微妙なことを言い出すのでした。

田沢博士が、原子力ではなく重水素、三重水素(トリチウム)を使う、というと、

「それでは水爆ではないですか、放射能をどうします」

それに対し我らが田沢博士は、心配ない、とはっきり言い切りました。

しかし、肝心のなぜ心配ないかについて説明しません。最後まで説明しません。

そこで、東京裁判で日本人被告の弁護人を務め、その後日本でバイト俳優をしていた
ジョージ・ファーネス演じるフーバーマン博士が、あの独特のしゃがれ声で、

「国家エゴイズムを捨てて手を握ろうではありませんか」

ときれいごとをぶちあげてごまかすのでした。

そして、逆に質問者に、

「あんたの国は水素イオン高圧放電振動付加装置を持っているから出せ」

というと、相手国(ドイツっぽい名前)は、負けじと、

「おたく(アメリカ)こそすでに重水素原子力工場を持っているではありませんか」

つまりこの際、今までは国家機密であったエネルギー問題について
国家の枠を超え、お互いオープンにし合った上で問題に取り組もう、と。

放射能の処理?
そんなの地球の滅亡の前にはちっちゃい問題だってことですね分かります。

田沢博士はすぐさま日本に戻り、国会でゴラス接近に伴う被害について説明します。

「たとえゴラスが衝突しなかったとしても、接近の際にはゴラスの引力によって
地球の水も空気も吸い寄せられ、太平洋の海底がむきだしになり、
地表から吸い上げられた物体は人工衛星のように永久に宇宙を彷徨うでしょう」

総理らが(´・ω・`)としていると、そこになぜか国連から、
日本の鳳号を派遣するようにと要請がなされてきました。

なんと日本の航空宇宙科学は、あのアメリカより、ソ連より進んでいるってことすか。
感無量ですね。



それを見て、田沢博士はなぜかいつの間にか近くに来ていた美人の女性議員と
頷き合うのですが、この二人、いったいどういう関係?

ちなみにこの女優の出演は後にも先にもこのシーンだけでクレジットもありません。

鳳号の出動に喜んだ乗員たちは、キャバレー?に繰り出し、
バンドに例の
裕次郎的テーマソング、
「俺ら(おいら)宇宙のパイロット」を演奏させて

盆踊りのようにグルグル回りながらそれを調子っぱずれにがなりたて、
お姐さんたちと踊るという前時代的パーティ(というより宴会)に興じています。

こんなパーティお座敷でやればいいのに。

調子に乗った一人が床でいきなり前転を始め、背中から床に落ちて苦しむとか、
800倍の倍率を潜り抜けた国家宇宙局のエリート航空士にはとても見えません。

しかも彼らは制服を着ているもので、正体丸バレ。
カウンターにいた客(天本英世)が、

「君たちが宇宙のどこかで生き残って、
俺たちがゴラスとぶつかってお陀仏かもしれないな」

あまりに浮かれすぎてるので嫌味の一つも言いたくなったんでしょう。
わたしもこの場にいたら、別の意味で一言ってやりたいです。

その頃、パーティを抜け出した金井達磨は滝子の部屋に来ていました。

女の一人暮らしの部屋に深夜アポなしでやってくるとは大胆な。
折しも滝子さん、こんな超不自然なポーズで泡風呂に入っています。

1962年当時(設定の1979年でも)泡風呂に浸かる日本人なんてほぼ皆無だったはず。

アメリカでも皆さんたいていはシャワーしか浴びないので、
(そのせいでアメリカのバスタブは大抵異様に浅い)
こういう泡風呂シーンはほぼ映画だけといってもいいでしょう。
(例:スピルバーグ作品「1941」)

バスタイムを邪魔されてプンプンしながら、まるで独房の監視窓のような
(ドアスコープの存在しない時代)ところから来客を確かめ、
相手が金井だったのでさらに不機嫌になった滝子でした。

金井はめげずに相手が出てくるまで、
ブザーでモールス信号(ネタ明かしなし)
を押し続けます。
彼氏でもないのに何のつもりだ。

ちなみにこの二人の関係は高校時代の同級生。

金井は滝子にいきなりプレゼントをわたしました。
ちなみにこの時彼は白手袋をしていますが、次のシーンになった途端なくなります。

微妙

滝子は目を輝かせて

「これ本物じゃない!」

・・・いったい何の本物って?
ネックレスなのか懐中時計なのか、いずれにせよ趣味悪すぎ。

「どうせ持ってくるからにはな。
最初で最後のプレゼントかもしれないけど」

金井くん、このためにサンドイッチマンのバイトしてたのかな。
しかし滝子、

「どうして手に入れたの?」

そっち?
「最初で最後」より、入手法に興味があるのか?

明日出発でもう会えないかもしれないから、という金井。
滝子はプレゼントを彼に押し返し、

隼号の遭難で亡くなった真鍋のことが忘れられない、と写真立てを手にとります。
すると金井、うっすらと笑いながら、

「だって死んじゃったんじゃないか」

そして無言のまま滝子から写真立てを取り上げ、ベランダの窓を開けて
下も見ないで外に放り投げます。

「酷いわ!」

ああ酷いさ。通行人に当たったらどうする。
しかも金井、悪びれることなくむしろキリッとして、

「君も高校時代で発育が止まったな」

この一連の行為のどこに、観客を共感させる要素があると思ったのか、
わたしは脚本家にぜひ聞いてみたい。

さて、次の瞬間、鳳号は打ち上げられ、宇宙におります。

通常宇宙飛行士はミッションの何日も前から検査やら検疫のため隔離されるものです。
前日まで盛り場でどんちゃん騒ぎをやっていて、アポロ13号のマッティングリー飛行士みたいに、
病気に感染していたらどうするつもりなんだ(とこまめにつっこんでみる)

ゴラス出現以降、宇宙には各国の有人宇宙ステーションが点在していて、なんでも
宇宙パイロットの仁義なんだかしりませんが、通常なら挨拶のため立ち寄るそうです。
しかし、遠藤隊長(平田昭彦)はノンストップで先を急ぐことを決めました。

さて、こちらは地球移動計画の総本部(たぶん)
何やら未来的な模型の周りには、グレーの事務机が並んでいるのがリアルです。

こんな大変な時に、田沢は園田家の智子と速男に施設の案内をしています。

彼が得意げに見学者に見せているのは、ジェットパイプ基地の模型。

どうやらゴラス破壊ではなく、地球を動かすプランを採用するようです。
南極に広範囲にわたってジェット噴射のできる重水素原子力パイプを1089本設置し、
660億メガトンのエネルギーによって地球の軌道を動かすのだそうです。

しかし、そういう数字、紙の上で出された必要な運動量が正しかったとしても、
この、南極にエンジンを取り付けるという案そのものがダメな気がするけど。

そのパイプ基地建設のため、世界中の艦船が南極に向かっています。

アメリカの砕氷船。かき分けている氷は発泡スチロールです。

クレーンで機材を運搬しているヘリコプター。

この大きさのパイプドームを1089個、1日も早く作り上げなくてはなりません。
従来の特撮映画と大きく違うのは、当作ではこの「建設現場」がメインであることです。

そしてこれが日本の基地。

基地中央のドーム上部に開閉式のバブルウィンドウが設置されています。

そこから出入りするのはVTOL、垂直離着陸ジェット機です。
この時代はイギリスのホーカー社がケストレル・ホーカーの開発を進めていました。

これをみると、翼端にエンジンナセルが設置されているのが分かります。

到着したのは田沢博士とギブソン博士(ロス・ベネット)でした。
ベネットという人は、この時期一連のSFもの(海底軍艦)に顔を出しています。

田沢が進捗状況を尋ねると、技師の真田(三島耕)が、
岩盤に当たって掘削工事が難航していると返事をします。

そのとき落盤事故が起こりました。

パイプ内で伏せの姿勢を取る作業員たちを尻目に、
田沢たちが
落盤現場に行ってみると、

こんなことになっていました。
時間にして60日分のロスです。

宇宙の鳳号でも問題が起きていました。
ゴラスの質量が前より増えているのです。
妖星というだけあって、他の星を吸収して大きくなるようです。

そこで、軌道に近づいてさらなるデータを取るためにカプセルを発射しました。
搭乗員は金井、後の二人は収容要員です。

発進

ところがゴラスをスコープで直接覗くや否や、パニックに襲われる金井。
結局カプセルは外にちょろっと出ただけですぐ帰ってくることに。

しかも収容された金井の様子がおかしい。
何と金井、何のデータも取ってこないどころか、自分が誰かもわからない、
ショック性の記憶喪失になっていたのでした。

「あなたは・・・どなたですか?」

うーんこの役立たず。

南極基地ではいよいよジェットパイプの始動時間が近づいていました。
あれだけのダメージを負っても、あっという間に遅れを取り戻したようです。

「地球の運命をかけ、人類の希望をつなぐ一瞬は刻々に迫っております」

秒読みが始まり、アナウンサーが実況中継しております。
今ならインターネットのライブ配信ですね。

お茶の間でテレビを囲む、園田家の人々と滝子。
後ろにいるおばちゃんはお手伝いさんかな。

作業員も今は直立して見守ることしかできません。

テンカウントダウンが始まりました。

「スリー、ツー、ワン、ゼロ、ファイア!

ふぁ・・・・ファイア・・・?ファイアって言った?

ミサイル発射じゃあないんだから、「点火」(ignition)とか、
エンジンスタートとかじゃないの?

まあいいや(笑)

無事に南極基地の全てのジェットパイプが点火されました。
何しろ地球の軌道を動かすくらいのエネルギーが作り出す熱。
もう南極の氷は溶けるだろうし、たとえゴラスを避けても、
温暖化、熱帯化など環境破壊待ったなしだ。

すると何秒か後、宇宙ステーションから連絡が入ります。

「加速度1.1ゼロ掛ける10のマイナス6乗Gで地球は動き出しました!」

いくらなんでも結果が出るの早すぎ。

全員が歓声を上げ、田沢らを囲んで成功を祝います。 

「人類は自らの力で地球を動かしているのです!」

国連ではこの非常時に職員が仕込んだらしいテープと紙吹雪が盛大にが舞います。

田沢の元にはさっそく園田智子から電話がかかってきました。

園田家には当時政府機関も持ち得なかったテレビ電話が設置されているのです。

そして年が明けました。
ゴラスが発見されてからまる1年がたったということになります。

去年は喪中だった園田家も、ことしはジェットパイプの始動もあって、
年明けを祝うという雰囲気になり、お琴の音色などが流れております。

「地球も予定どおり動き出したし、まずまずおめでたい正月だな」

・・・めでたいか?

わたしは環境については素人なのでわかりませんが、

地軸ごと地球が動くことによる環境負荷はないんでしょうか。

彼らが無邪気にめでたがっているのはちょっと違う気がするんですが。

そこに南極からNY経由で帰ったばかりの田沢が顔を出すのですが、
なぜか河野は彼につっけんどんで冷淡です。

「南極の連中はまだぐずぐず言っているのか」

どうもよくわからないのですが、南極チームの、
ゴラスは日に日に大きくなってきており、これ以上になると
多少地球が動いたところで衝突は避けられない、
したがって基地を拡張すべき、という主張に対し、
国連側は、その必要はないと反対しているようなのです。

そして河野は今やその国連側の人間として田沢と対立しています。
あんなに一緒に頑張ってきたのに、なにがあった。

ゴラスの質量が増えているという懸念に関しても、河野は

「いや大丈夫、そんな数字的根拠はない」

ととても学者とは思えない楽観論を口にし、田沢を激昂させます。

「大丈夫という数字的根拠はあるんですか」

「もしものことがあれば国連が責任を持つ」

「もしものことがあってから責任を持ったって、何になるんです」

そのときは人類が滅亡するわけですからね。
するとなぜか智子がしゃしゃり出て、田沢を諫めます。

「いけませんわ。そんな・・河野先生に」

年長者に失礼でしょ、というわけでしょうか。

わたしには田沢の意見の方が正しいと思うけどな。
というか智子、何様のつもりだ。

田沢は小賢しい女など無視して、

「いや、今日は言わせてもらいます。今度だけはわたしのいうことを聞いてください」

「そりゃあ僕の方で言う言葉だ。
今まで一度だって君の意見に反対したことがあるかね」

「まあまあまあまあ」

そこで亀の甲より年の功、園田の爺さんが割って入り、
智子に田沢を別室に連れ出させます。

河野を睨みつけている田沢が智子に促されて出て行った後、
河野は園田翁に向かって、実は自分も田沢が正しいと思っている、と言います。

園田が驚いて、

「じゃあどうして君は田沢くんと一緒に国連で主張しないんだ」

と聞くと、

「国連でも『無い袖は振れない』というのが実情なんだ」

え、お金がないって言う意味なんですか。この非常時に。

「若い連中の言うことは正しいとわかっていながら、それを抑えなければならない。
考えると気が狂いそうだよ」

そういう問題じゃないんじゃない?

「僕は万に一つの不幸を恐れているんですよ。
それを思うと僕は科学者として」

「嫌!先生がメソメソなさるなんて」

そして智子、決めゼリフを。

「たとえ人類が滅亡しても先生に感謝しますわ」

「ありがとう!」

うーん、どうしてこうなる。

 

続く。

 


アメリカのコーヒー専門店「プアオーバー」は茶道の精神?〜アメリカ滞在

2021-08-07 | 歴史

■ マスク復活に怯えるアメリカ

8月に入り、ここピッツバーグはやたら爽やかな日が続いています。
到着した頃は雨と湿気が多く、不快指数高めでしたが、どうやら
ここにも日本の梅雨に相当するシーズンがある模様。

最近はずっと朝方10°台、日中は30°手前くらいで、湿度は低く
木陰であれば快適に外で過ごせるくらいとなっています。

今泊まっているホテルは特に週末ともなるとほぼ満室となり、
駐車場に止まっている車のナンバーも他州のものが多くなりました。

なんでもアメリカでは今まで規制されていた鬱憤を晴らすべく、
旅行に出る人が増えているせいで、ホテルの売り上げが回復しているとか。

 

しかし、ご存知の通りデルタ株の感染はこちらでも社会に変化を与えております。

昨日のニュースでは、ついにピッツバーグ市内の各大学が、学生に
ワクチン摂取を必須とすることになったと報じていました。

そして今朝のニュースでは、地元のスーパーなど、小売店が
従業員へのマスク着用を再び義務にすることになったと。

こちらでも「症状のない感染者」の増加はかなり危機感を持たれており、
もしかしたらもう一度入店には客もマスクを要請されるかもしれません。

わたしは2度目のワクチン接種から2週間が経ったので、接種したお店から

「コングラチュレーションズ!ワクチン摂取から2週間経ちました」

というめでたいメールを受け取りましたが、同時に飛行機会社から悲しいお知らせも。

ワクチンを摂取したら飛行機に乗る際のPCR検査は免除だと思ったら、
やっぱり搭乗直前に検査をしなくてはいけないそうです。

 

ところで、こんな旅行会社のツァーを見つけました。

ワクチン摂取ツァー

これもまた旅行会社の起死回生策になるのでしょうか。

■ ディープな「ストタコ」とバーガー屋の「アイスバーガー」

ある日、家族でランチを取ろうということになって、MKが
兼ねてから美味しいからいつか行こうと言っていた
ストリート・タコスを食べることにしました。

「ストリートタコス?・・・ストタコ?」

屋台でメキシコ人が同胞相手に売っている食べ物など衛生的にどうなの、
とわたしは失礼な印象を持っていたので、
なかなかその気になれなかったのですが、
この日はお天気が良いわりに湿度が低く、歩くのに気持ちがよかったので、
散歩を兼ねてストタコを初体験してみることにしました。

夏の間MKは大学で研究の手伝いの仕事をしているので、
昼休みに出てきたところを待ち合わせて、屋台まで歩いて行きます。

途中ピッツバーグ大学の「学びの塔」を望む広場では、
木陰でヨガ教室が行われていました。(冒頭写真)

写真左を歩いている集団は、ピッツ大の「キャンパスツァー」。

わたしたちも、かつてはいろんな大学のキャンパスツァーに参加したものですが、
これは大学のアドミニストレーションオフィスが主催するもので、
現役の大学生が案内役となって、来シーズン入学を予定する高校生と
その家族に、大学の魅力を大いに宣伝するのが目的です。

このガイド役は、夏のなかなかいいバイトになるようです。

「俺ああいうの得意なんだけどな。うちはツァーやらないの」

MKの学校は毎年そうなのか、コロナのせいでそうなのかは知りませんが、
美術館のように所々にオーディオを仕掛けておいて、
見学したい人は、それに従って学内を自分で歩くのだそうです。

「うーん・・・それってサービス?的にどうなの」

基本工科大学なので、それもテックっぽいと考えているのかもしれません。

さて、さらにピッツ大のキャンパスを通り抜けて住宅街を歩いていくと、
見るからにディープな雰囲気の屋台が現れました。

MKがいなければ、わたしなど一生よりつくこともない雰囲気です。

屋台は、ヒスパニック食品店の前で営業しており、そこで
手袋をした3人が肉を焼き、注文の通りにタコスを作っています。

ここに来るのはヒスパニックの肉体労働者が多いらしく、
わたしたちの前に並んでいたのは、ご覧の通り見事な猪首体型の、
ブルーワーカーっぽい一団でした。

日本の肉体労働者たちの昼ごはんが食堂の大盛り飯であるように、
タコスはこういう人たちにとって午後のエネルギーの素なのでしょう。

MKは勝手知ったる様子でわたしたちに何個食べるかだけ聞くと、
後ろのお店に入って行って、お金を払い食券をもらってきました。

屋台の人はお金を触らずにサーブするという仕組み。

列は結構長くできていて、いかに人気の店かがよくわかりましたが、
並んでいるのはわたしたち以外見事にヒスパニック系ばかり。
前に並んでいるその中の一人が、

「あんたらタコス食べるんかい?」

と聞いてきました。
頷くと、彼は、

「そんなら先にお店の中でお金を払ってくるんだよ」

いかにも物好きなディープ体験を求めて並んでいる観光客丸出しなので、
注文方法を知らないで並んでいるかもしれない思って声をかけてくれたのでしょう。
MKがすぐに、

「もう中で買ったから大丈夫」

と答えました。
そしていよいよ順番が来たのですが、MK、

「シンコタコスなんとかかんとかとなんとかポルファヴォール」

とスペイン語でオーダーするじゃありませんか。

「スパニッシュしゃべれたんだ・・・」

「喋れるよ」

高校時代、第二外国語のスペイン語のクラスで滅法苦労した彼に、見かねて
オンラインの家庭教師を見つけてきてなんとかついていけるようにしてやった、
という苦い記憶があるわたしは、彼がこともなげにいうので驚きました。

言語は生活しながら使うのがいちばんの近道ってことです。

そして作ってもらったタコスに、横のテーブルで自分の好みの
シラントロ、サルサ、アボカドやオニオンなどを盛り付けて出来上がり。

タコスは二枚重ねで、その場で作っているだけに柔らかく、
できてすぐアツアツを頬張るのがベストです。

わたしたちはピッツ大キャンパスのテラスでいただきました。

アメリカの大学キャンパスは基本誰でも敷地内に入って、
アウトドア部分などは自由に歩き、テーブルを利用することが可能です。

ただし、建物内にはIDカードで鍵を開けないと入れません。
これは別の日、MKの大学のビジネススクール建物内でテイクアウトフードを食べた時の写真。

誰もいないのに空調がガンガン効いているのがなんともアメリカンです。
上階には本学出身のノーベル経済学賞受賞者の写真がずらっと並んでいました。

前回泊まった野球場の横のホテルに近い人気のバーガーショップ、
「バーガートリー」、ユニークな店内の看板を紹介しましたが、
今回は別店舗に行ってみました。

イエスノーチャートには、

「あなたはバーガトリーにいますか?」→いいえ→いや、いますよね?
                  →はい

「あなたがここにいる理由は」

A, バーガーは川沿いの方が美味しい(この地名はウォーターフロント)
B, ウォータースライドでお腹が空いたから
C, 素晴らしいインナーボディ体験をしたいから
D, 隣のポプコーンとJr. Mintsより安いから(隣に映画館がある)
F, まずいハンバーガーを我慢するほど人生は長くない
G,あなたはスマートでグッドルッキングだから

などとあり、このチャートは土地柄を反映していることがわかりました。

ところで、アメリカの飲食業の奥の深い?ところは、多民族国家ゆえ、
消費者の好みや禁忌などにできるだけ対応しようという姿勢が
特にチェーン店には顕著であることです。

このハンバーガーレストランのメニューには、オススメの他に
ゼロから自分で作ることができる「メイク・ユア・オウン」があり、
テーブルに備え付けてあるチェックシートにチェックを入れて注文します。

最近わたしはグルテンフリー、デイリーフリー生活を心がけていることもあり、
今回思い切って「アイスバーグバーガー」を頼んでみました。

混んでいたこともあったのでしょうが、おそらくキッチンでは
オープン以来こんなバーガーの注文は初めてだったに違いありません。
オーダーがテーブルに来るのにものすごく時間がかかりました。

わたしもそんなバーガーがオーダー可能だとはこの瞬間まで思いもしなかったのですが、
つまりバン(ハンバーガーを挟むパン)をアイスバーグレタスに変えて注文したのです。
ベジタリアンというわけではないので、中に挟むのは普通のチキンにしましたが、
乳製品を避けるために、チーズはノンデイリーをためしてみました。

MKは基本的に「フリー」製品が嫌いです。
まずい代替品など食べるくらいなら食べない方がマシ、という考えであり、
わたしも実はそう思ってはいるのですが、今回は実験的に
ハンバーガーに「寄せて」みようと思い、ソイチーズを選んでみたというわけ。

結論として、この「アイスバーガー」、ハンバーガーというより、
チキンをレタスで挟んだものの味がしました。(そらそうだ)

何事も体験です。
というか、このブログに挙げるために頼んでみたんだろう、って?

うっ・・・・

 

■コーヒー専門店〜プアオーバーとは何か

従来紅茶派だったわたしがコーヒー党に変わったのは、脱乳製品がきっかけです。

紅茶はどうしても大量にミルクを消費してしまいますが、コーヒーだと
美味しく淹れるとブラックで飲めますし(これ本当)、朝10時くらいに
MCTオイルとギーを混ぜたコーヒーを頂くと昼過ぎまでお腹が空きません。

元々朝ごはんは食べないわたしですが、紅茶の代わりにオイルコーヒーにしてから
乳製品から来る不調がなくなったので、しばらく続けるつもりです。

元々コーヒーに凝っていたMKは、地元でいいカフェを見つけていました。
ここはMKいわく「コーヒーそのものは普通だけど長居できる雰囲気のいいカフェ」

シェイディサイドという、ピッツバーグのお洒落な通り(アップルストアがある)にあります。

これは、ストリップディストリクトという、昔貨物駅があって
青果などの卸売があったりした地域を再開発した、ホットな街の一角にある専門店。

ここは今や観光客の訪れるスポットになっているので、週末は車が止められません。

ここでわたしは「プアオーバー」(Pour over)を頼みました。
プアオーバーというのは、つまりハンドドリップコーヒーのことです。

挽いたコーヒーの上にお湯を注ぐという、コーヒードリップを使った手法ですが、
通常のコーヒーメーカーでは味わえない、新鮮で豊かな風味を生み出すことができ、
バリスタの腕が最も発揮できる注文でもあります。

豆の種類はもちろん温度やお湯の注ぎ方、スピードなどで味は変わり、
いい豆を一番美味しく飲もうと思ったらこれに限ります。


メリタというフィルターがありますが、この名前はプアオーバーを開発した
アマリー・オーガステ・メリタ・ベンツという女性の名前から取られています。

1908年のある日の午後、メリタはパーコレーターで淹れたコーヒーが、
過剰に抽出され、苦くて不味いと思ったことから、さまざまな淹れ方を試し始めました。

彼女は息子の学校の教科書に付いていたインクを吸い取るための紙を拝借し、
それを今で言うフィルターにして、釘で穴を開けた真鍮のポットにセットし、
それでコーヒーを淹れると言う方法にたどり着きました。

その結果に満足したメリタは、この新しいドリップ法を一般に公開しました。

メリタの「プアオーバー」は1930年代に流行しました。
現在のような円錐形のデザインになったのは、1950年代のことです。
円錐形の方が濾過面積が大きく、より良い抽出ができるということで、
この形が大ヒットし、それ以来現在も変わっていません。

メリタのシンプルな、しかし革新的なコーヒーの淹れ方は、それまでの常識を変え、
いつしか彼女の名前は、注湯器やフィルターのブランドに冠されることになりました。

このストリップ・ディストリクトの写真では、腕に刺青を入れた
黒いTシャツのおじさんが、わたしのコーヒーを淹れてくれています。

巧いバリスタが淹れたプアオーバーは、雑味がなく、
もちろん苦くなく、すっきりとした後味でブラックで楽しめます。

注文すると、豆の種類を聞いてくれることもありますが、
ほとんどは一番いい豆を使うので、値段はどこも

MP=Market Price(時価)

と表示されていて高めです。

まあ、高いと言っても所詮はコーヒーなので、せいぜい5ドル〜6ドルですが、
日本でも大手コーヒーチェーンならそれくらい行きますよね?

そんなわたしたちのお気に入りのカフェは全部で三店あり、二つ目がここです。

店にロースターがあり、焙煎したてが飲める、というのは
美味しいコーヒー専門店の必須条件ですが、

ここには工場か?というくらい巨大なロースターがあって、
いつも店内は香ばしいローストの香りがしています。

飾り棚にミニチュアの鎧兜(織田信長)があったり、

招き猫や戌年の絵馬が飾ってあったりして、

日本好きかあるいは本当に日本人がオーナーかなと思っています。

暖簾がなんだか日本風。
白人系のお店の若い男の子が、わたしたちに

「アリガトウゴザイマシター」

と言ったこともあります。

ここでプアオーバーを二回続けて頼んだら、バリスタの女性は、
その二回の来店の間隔がけっこう空いていたにもかかわらず、

「前と違う豆で淹れましょうか」

と聴いてきました。
アメリカ人でもさすがに専門店でプアオーバーを頼む人は少ないので、
バリスタは職業的な記憶力でそれを覚えているのかと思いました。

MKとわたしが最も気に入って評価しているのがこのお店です。
MKが行きつけの「ヘアースミス」(笑)という美容院の近くで見つけました。

COVID19以前はカフェだったのだと思いますが、今はテイクアウトのみ。
古い建物を使った趣きのある店内です。

隣のタトゥパーラーで隣人割引でやってもらったのだろうかというくらい、
みっちりと両腕にタトゥーを入れた、ヒッピーのような雰囲気の
草食系動物のような痩せた二人の男女バリスタ(そっくりなのできょうだいかもしれない)
が黙々と入れてくれるコーヒーは、驚くほど繊細な味です。

コロナ対策で客は店内3人まで、テーブルから向こうには入れません。
支払いは手前のリーダーでカードを使って行う仕組みです。

何度か行って、MKにわたしのプアオーバーを注文してもらっていたら、
(わたしは車で待っていることが多いため)お店の人は、いちど

「ぜひプアオーバーで飲んでほしい豆があるんです」

などと言い、注文していないのに試飲してくれ、といいながら
おまけのコーヒーを出してくれたりし始めました。

客と世間話の類はいっさいしない二人ですが、コーヒーを出すときには

「今日の豆は何々で、ブルーベリーのようなテイストがします」

「今日はとてもうまく入りました。チョコレートの香りがします」

などとソムリエのような解説をしながら出してくれます。

プアオーバーのおかげでわたしたちは、彼らにどうやらこの日本人家族は
結構なコーヒー通らしい、と思ってもらっているようなのです。

しかし、一杯のプアオーバーを時間をかけて淹れる時の真剣な表情といい、
客に全霊で可能性の限界まで美味しい一杯を提供しようとする姿勢といい、
まるで茶の湯のおもてなしの精神を見るようなあっぱれさに感じ入り、
ここにいる間は、彼らにとって良き客であろうと思っている今日この頃です。

 

 

 


アメラジアン・ホームカミング法〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-08-03 | 歴史


■ Le Anh Had

肖像画に描かれた人物はレ・アン・ハオ。
息子が描いた父親の肖像は、彼の先祖を祀る祭壇に飾られました。
彼とその妻、9人の子供たちは南ベトナムのクアンナム省の村に住んでいました。

この村はベトコンに協力していたため、1968年頃、連合軍がやってきて
住民を排除し、家々や畑などを破壊してしまいました。

そしてハオは危ないという警告を皆から受けていたのにも関わらず、
どうしても家から持ち出したいものがあるといって廃墟になった村に戻り、
殺されました。

そのとき彼が持っていたのは、杖、眼鏡、2冊の詩集、
そして漢方薬の本だったそうです。

村はその後再建され、彼の家族は元の家のあったところにいまだに住んでいます。
彼らは亡くなった父を記憶し、アメリカとの友情の絆を結んでいきたいと、
彼らの祭壇にあるのと同じ肖像画を贈って共有することを提案しました。

レ・アン・ハオは戦争で命を落とした推定300万人のベトナム人のひとりであり、
少なくともその半数といわれる民間人のひとりでもあります。

■ AMERASIAN  Homecoming Act
(”アメラジアン”帰国プロジェクト)

「アメラジアン」とは、アメリカ人とアジア人を足した造語で、
ご想像の通り、ベトナムでアメリカ兵と現地の女性の間に生まれた子供のことです。

そのような子供たちはベトナム社会では阻害され、迫害され、追放されたため、
スチュワート・マッキニー下院議員などの政治家は、これを

「国際的な恥」(national embarrasment)

と呼び、なんとかするべきだと声を上げました。

このような境遇の子供たち、アメラジアンに、移民としての優遇措置を与える
連邦議会の法律、

アメリカ帰郷法(Amerasian Homecoming Act)

が制定されたのは1987年、2年後に施行されました。

アメラジアンの子供たちは外見だけで混血であることを証明できたため、
その結果、ベトナム系アメリカ人の米国への移民が増加することになります。

オハイオ州立大学の調査によると、1982年に始まった立法努力の結果、
約77,000人のアメラジアンの子供たちと、その親戚がアメリカに入国したとされます。

ベトナム系アメリカ人の子供たちとその近親者には難民手当が支給され、
彼らのアメリカ移住の手続きとして最も成功したプログラムと言われました。

ただ、この法律ではベトナム系アメリカ人の子供だけが対象であり、
アメリカが戦争に参加していた他の東南アジア諸国の子供は適応外だったため、
対象難民と対象外難民を巡って、論争が起きることになりました。

写真は、父親だったアメリカ軍の建築エンジニア(民間人)の写真を持つ、
アメラジアンの一人、レ・ティ・リエン
リエンと家族はこの写真の撮られた1985年当時、アメリカへの移民を希望していました。

■ 帰郷法制定の背景

1982年、米国議会は「アメラジアン移民法」(PL97-359)を可決しましたが、
最初の法律は、移民権が与えられるのはアメラジアンの子供本人のみで、
母親や異母兄弟は対象外だったうえ、アメラジアンの子供がビザを取得するためには、
アメリカ人の父親が合意し、調整に応じる必要があるという不合理なものでした。

アメリカ人の父親の合意を含む書類を持っていない場合、自称アメラジアンは
医師グループによって「アメリカ人」の身体的特徴を検査される可能性さえあったのです。

さらに、アメリカとベトナムの政府は外交関係を結んでいなかったため、
アメリカ系移民法といってもアメリカ人を父親とする子どもにはほとんど役に立たず、
ベトナム系アメリカ人の子どもにはさらに役に立ちませんでした。

■ ムラゼック議員とレ・ヴァン・ミン

Robert J. Mrazek.jpgムラゼック下院議員

1987年、下院議員のロバート・J・ムラゼックは、ニューヨークの
自分の選挙区の高校生たちの要請を受けて、ベトナムを視察しました。
そして、 アメラジアンの子どもたちが耐えている過酷な生活環境を目の当たりにし、
彼らの

「父の国に行きたい」

という声を聞いて、解決策を見つけようと決意します。

そしてホーチミン市(サイゴン)で物乞いをしていた
レ・ヴァン・ミンというアメリカ系ベトナム人の子どもを、
アメリカで医療を受けさせるという目的で連れてきました。

 
物乞いをしていた彼は3歳(戦争が終わった頃)で発症した小児麻痺の後遺症で
ムラゼックに会ったときには四つん這いでしか歩けない体でした。
彼父親はアメリカのGIで、兄弟の中の唯一のアメラジアンでした。
10歳になったとき、彼は母親から家を追い出され、物乞いをするしかなくなったのです。
 
彼が手にしているのは、主に何か恵んでもらう相手である西欧人に渡すための
タバコのパッケージホイルで作った花です。
 
ムラゼック議員の指示で、ある日突然保護された彼は、アメリカに連れて行かれました。
飛行機がJFK空港に着陸し、そこに降り立ったとき、彼らを迎えたのは
眩しいテレビカメラのライトとフラッシュでした。
 
「これが”ビッグアップル”だ。ここがニューヨークだ。息子よ」
 
ムラゼック議員はミンにそういい、ミンは議員の首に腕を回しました。

 
その後、ミンはムラゼック議員に連れられて、報道陣や、
議員にベトナムでミンを助けるように陳情した、
ハンティントン高校の生徒たち100人と対面しました。

議員に働きかけ、ミンをアメリカに連れてくるために
数カ月にわたるキャンペーンを計画したのは高校生だったのです。
 
ベトナム語で「明るい」を意味するファーストネームを持つレ・ヴァン・ミン。
彼は帰国後の報道陣の前でも微笑みながらただ黙っていました。

学生たちに取り囲まれ、皆が彼に触れ、口々に祝福されてはいましたが、
実のところ彼にはその理由となぜ自分がここにいるかさえわかっていなかったようです。
 
全く教育を受けず、物心ついた時から物乞いをして生きていたミンは
母国語すらほとんど喋ることができず、それが思考すら覚束なくしていたのかもしれません。
 
ミンはムラゼック議員の家庭にいったん受け入れられ、
彼の息子と娘に大歓迎されて家族のようにしばらく暮らした後、
里親に引き取られてアメリカ人として生きていくことになりました。
 

 

ミンを引き取ったことをきっかけに、ムラゼック議員は議会に働きかけ、
後に「アメラジアン・ホームカミング法」を制定することになります。

同時に制定された

「秩序ある出国プログラム(Orderly Departure Program ODP)」

は、南ベトナムの兵士やアメリカの戦争に関係した人々が
ベトナムからアメリカに移住できるシステムをでした。

このシステムにより、書類などの確認が簡略化されて、最終的に
ちゃんとした書類を持っていなくても入国が可能になったのです。

この結果、約6,000人のアメラジアンと11,000人の親族がアメリカに入国しました。

■ アメラジアン・ホームカミング法制定後

ベトナム戦争後、アメリカは難民への現金援助と医療援助をおこないましたが、
1970年代にそれをわずか8カ月に短縮する措置を取りました。

多くのアメラジアンの子どもたちは公立学校で苦労することになり、
高等教育を受けられる例はほぼないというくらいでした。

多くのアメラジアンたちは、白い肌だったり、非常に暗い肌に青い目だったり、
黒髪なのに巻き毛だったりという身体特徴からすぐにアメリカ人とのハーフとわかり、
つねに偏見に直面していたのです。

彼らを蔑んで呼ぶ

「ブイ・ドイ」(「人生の塵」または「ゴミ」)

という言葉は、イコールアメラジアンという意味で使われました。

戦後のベトナムは新社会主義国となり、このような学校でのいじめや
近隣住民からの蔑みだけでなく、政府関係者までが、
旧敵を思い出させるという理由で彼らの存在を憎むように仕組みました。

しかしです。

同法が制定され、アメラジアン本人たちだけでなく、その家族も
アメリカに移住できるようになると、ベトナム社会はいきなり掌を返し、
これらの子供たちをゴミどころか、

「ゴールデン・チルドレン」

と呼んでもてはやしたり羨んだりするようになったのです。

家族と一言で言っても、アメラジアンの子供の配偶者、子供、母親だけでなく、
近親者まで移住の対象となり、移民すればから手当てまで貰えるのですからね。

今ならDNAテストなどが導入されるのでしょうが、当時は申請者の外見だけで
父親がアメリカ人だと認められ、法律が適用されるというこの法案は画期的でした。

■入国手続きと「偽装家族」

アメリカ人帰還法は、それぞれのアメリカ大使館を通じて運営されました。

アメリカ大使館の職員は、アメラジアンの子供とその家族の面接を行い、
子供の父親が米軍関係者であるかどうかを確認しましたが、その方法が
「顔を見て判断する」という非常にアバウトなものだったのは驚くべきです。

そんなだったので、必ずしも適応には書類を必要としなかったのですが、
もし持っていれば、そのケースはより早く処理されることになりました。

問題は、アメラジアン本人は一眼でそうとわかっても、その親族が
本物であるかどうかを見分ける手立てがなかったということです。

現に、アメリカに移住するためにアメラジアンには親族と称する人たちが近づき、
偽装家族となってその資格を手に入れようとした例が報告されています。

承認された申請者とその家族は、どちらかといえば簡単な健康診断を受け
合格すればアメリカはベトナム当局に通知し、出国手続きが開始されます。

帰国が決まれば、彼らは英語の研修と文化オリエンテーションのために、
半年の期間フィリピンに送られました。


■ 問題点

先ほどの繰り返しになりますが、こんにち成功したと評価されている
このアメリカ帰還法にも、問題点と論争がなかったわけではありません。

最も大きな問題点は、ベトナムで生まれたアメリカ人の子供にしか適用されず、
日本、韓国、フィリピン、ラオス、カンボジア、タイ
を対象地域から除外していたことです。

1993年には、フィリピン人アメラジアンの援助を受ける権利を求め、
国際訴状裁判所に集団訴訟が起こされました。

このとき下された判決は、彼らにとって非常に不利なものとなりました。
つまり、裁判所は

「子供は米国のサービスマンに提供された性的サービスの産物である」

とし、売春が違法である以上、フィリピン系アメリカ人の子供たちには
かかる法的請求権は存在しないと判断したのです。

したがって、ベトナム以外の国で生まれたアメラジアンの子どもたちが
アメリカに移住できるのは、父親が自分の子供だと認めた場合に限りました。

そもそも、セックスワーカーから生まれた子供の場合、ほとんどの父親は
彼らが自分の子供であるとは認めませんし、DNAテストがなかった当時、
逆にその人物の子供であるという証明もできませんでした。

そして法律でセックスワーカーの子供が排除されると規定されたため、
多くの子どもたちがプログラムに参加できなくなったというわけです。

しかも、この例は、ベトナムで生まれたアメラジアンにもしばしば起こりました。

あるベトナム人女性がアメラジアンの息子のためにアメリカ市民権を得ようと、
父親であるアメリカ人に公的な手続きを行うように連絡したところ、
父親は彼女を売春婦と呼んで関係と責任を否定した、といったように。

■ グリーン・アイズ

Green Eyes (1977) | Paul Winfield Returns to Vietnam

「グリーン・アイズ」は1977年にアメリカでテレビ放映された戦争ドラマです。

主人公のロイドは"肉体的にも心理的にも傷ついたベトナム帰還兵 "であった。
退役軍人病院から退院した後も仕事を見つけることができず、周囲から孤立していく。

ロイドの母はロイドの陸軍からの給料と掃除婦として稼いだお金を貯めて、
帰還した彼が大学に行って学位を取れるようにしてくれていたにもかかわらず、
ロイドは、自分の子供を産んだベトナム人女性エムを捜すためにサイゴンに戻る。

エムからの手紙に書かれていたのは、彼の見たことのない子供が
「緑色の目をした男の子」ということだけだった。

というストーリーです。

ロイドのようにするアメリカ人は、しかし現実社会には稀な存在であったのも確かです。

アメラジアン・ホームカミング法でアメリカに「帰国」したアメリカ人のうち
その後各界で成功した人々は枚挙にいとまがありません。

ベトナム系アメリカ人リスト

 

続く。