ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

パールハーバーへの道〜シルバーサイズ潜水艦博物館

2022-08-10 | 歴史

ミシガン州マスキーゴンにある潜水艦「シルバーサイズ」をメインとした
潜水艦博物館の室内展示は、日米開戦のきっかけとして
真珠湾攻撃について大変こだわりを持っているように見えます。



館内はこのようなパネルによる通路に沿って歩いていくわけですが、
潜水艦博物館という割に手前の真珠湾攻撃の写真が大きすぎ。


天井からはさらに零式艦上戦闘機の模型が吊り下げられ、
この角度で見るとより一層迫力ある展示になるというわけです。たぶん。


天井から吊られているのは零戦のみ。
つまり、真珠湾攻撃のパネルに効果を与えるための展示なのです。



何というか、真珠湾攻撃に全振りしている感じです。
それにしてもこの写真、本物なんでしょうか。

上空の航空機、脚が出ているということはこれは米軍のだと思いますが、
遠方にいるのに妙にはっきりしすぎてないか?


前回、当博物館の真珠湾攻撃展示を解説したのですが、
ここでまたもや、

「The Road to Pearl Harbor」
(パールハーバーへの道)

とタイトルされた気合の入ったパネルが現れました。
そこまで気合を入れて真珠湾攻撃について語りたい何かが
この博物館にはあったということなのでしょう。

●1931−1940

日本は満州に侵攻し、中国での影響力を
万里の長城と沿岸沿いに拡大し続けていた。

日本も中国も互いに宣戦布告をしなかったため、
米国の中立条約(US Neutrality Acts)の下で
両国との貿易停止を余儀なくされていたルーズベルトは、
貿易を継続することを許されるようになった。

日本は国内で必要な鉄くずとオイルの80%を米国からの輸入に頼っていた。
中国の輸入品にはやがて武器が含まれるようになる。

●1940年1月

日本海軍の山本五十六提督は、アメリカが日本に対する石油の供給を
遮断
した場合に備えて、真珠湾攻撃を模索し始めた。

主なターゲットは空母と戦艦であった。

その数日後、アメリカ大使はペルー大使館を通じてこれを発見したが、
ワシントンはその報告に対し、不可能な作戦であるとして取り合わなかった。


■ 真珠湾攻撃についてー
実は米大使がペルー大使から事前に聞いていた説

世の中には、開戦に至るまで、日本が経済的に追い込まれていったとされる
ABCD包囲網(当時の日本人は一般国民でもこの言葉を知っていた)すら、
日本が戦争を起こす動機ではなかったとする説もあるくらいです。

ましてやアメリカ側の解説にこの辺りへの言及がないのは当然です。

しかし、その割に、赤字の部分を史実として言い切っているのが、
何ともバランスが悪いとわたしは思ってしまうわけです。

この部分こそ、陰謀論がまつわる真偽不確かな話だからです。

このペルー大使館云々の噂について解説しておきましょう。
噂は噂らしく、3通りの説があります。


【噂 その1】

当時駐日アメリカ大使館員だったフランク・シューラーの追想です。
ペルーの特命全権公使リカルド・シュライバーが、
駐日アメリカ大使であったジョセフ・グルーに、

「日本が真珠湾を攻撃する計画をしているらしい。
このことを至急アメリカ政府に通報してほしい」


と伝えたのですが、グルー大使は

「あなたは、米国と世界に偉大な貢献をされました。
すぐに国務省に電報を打つことにしましょう」


と感極まった口調で言ったものの、
本国に通知をするのを意図的に避けたという噂です。

だとしたら一体何の目的で?


ジョセフ・グルー駐日大使
日本贔屓だったという噂もあり(←この辺りが噂の元かも)

【噂 その2】

コーデル・ハル国務長官

ハル国務長官の回顧録によるとこうなります。

グルー大使が東京から1月27日、次のように打電してきた。

『日米の間で事が生じた際、真珠湾に大規模な奇襲攻撃をかけることが、
日本の軍部によって計画されている』


と云う話を、駐日ペルー公使が、
日本人を含む多数の筋から聞いたと言っている”

また、この時ペルー公使は、グルー大使に対して、


『自分としては日本側の
このような計画は奇想天外だと思うが、
たくさんの筋から聞いたのでお伝えしようと思ったのだ』

と告げたらしい。

そこで国務省としては翌日、この公電の内容を陸軍省と海軍省に伝達した。

【噂 その3】

駐日アメリカ大使館員、一等書記官クロッカーが、シュライバーから
「一日本人(ペルー公使館の日本人通訳)を含む複数の情報」
として聞いた話。

「万一日本がアメリカと紛争になった場合、日本は
全軍事力を使用して真珠湾に大攻撃を加える意図を持つ」


それを伝えられたグルー大使が電報を打ち、その内容は
アメリカ海軍にも伝えられたが、海軍作戦部長のハロルド・スターク
太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメルに対して

「海軍情報部としてはこの
流言は信じられないと考える」
「予測できる将来に、こうした行動が計画されているとは
考えられない

という内容の電報を2月1日付で送った。

噂;以上


「ワシントンはそれを実現不可能として取り合わなかった」

という説に一番近いのは「噂その3」でしょうか。
「その1」の噂は、グルー大使が本国に打電しているのが本当なら、
全く間違っていたことになります。

「その2」の噂は、ハルの回想録の話によると、
グルー大使は国務省にその話を電報で伝えていたことになりますが、
ハルはその話を「取り合わなかったのかどうか」については書いていません。

さて、噂はともかく、展示の続きです。

●1940年5月

通常はサンディエゴに駐留している太平洋艦隊は
ハワイのパールハーバーに恒久的に移転することになる

●1940年7月5日

アメリカは日本への武器などにつながる機械、そして
交換部品の全ての輸出を停止したが、
石油・鉄鋼は停止しなかった

●1940年9月27日

日本全権代表がベルリンでの会議に参加し、
ナチスドイツ、イタリア、日本による枢軸国を正式に確立
(三国同盟)

●1940年11月

ルーズベルトは、先に攻撃されない限り、
アメリカは戦争しないと公約し、前例のない3期目の大統領に就任


「あなた方の息子たちを戦場に送らない」

というこの時のルーズベルトの公約があったからこそ、
彼は「日本に先に撃たせた」とする説がいまだに存在します。

●1941年4月

日本側の暗証番号が解読され、全ての通信が傍受される

● 1941年6月24日

アメリカが日本に対し石油と鉄鋼の禁輸措置をとる

●1941年9月24日


日本の諜報機関からのメッセージが傍受される
内容は真珠湾のすべての艦船の係留場所を示すグリッドの要求だった

そのことを真珠湾関係者の誰も伝えられていない


ということは、やっぱりアメリカは真珠湾攻撃のことを
少なくとも3ヶ月前に知っていたことになりますよね。
もちろんこの報告はルーズベルトにも上がっていたに違いないのです。

ここまで知っていながら、なぜ奇襲を許したのか。

●1941年11月

日本は外交団をアメリカに派遣し、平和的解決策を模索する
どちらの側も立場を譲ることはせず、交渉は決裂


いわゆる「最後通牒」ハルノートのときですね。
これを受けて、日本は開戦やむなしと判断し、
真珠湾への道が開かれることになります。

●1941年11月26日

423機の航空機と護衛部隊を乗せた6隻の航空母艦が
真珠湾に向けて日本を出発

● 1941年11月27日

真珠湾の艦隊司令官キンメルとショートは、和平交渉が再開されない限り、
日本軍はフィリピン、タイ、マレー半島、ボルネオで
可能な攻撃を発動するかもしれないという
最初の警告を受ける

キンメル提督とショートは警戒体制をとり、弾薬装填、人員配置、
対潜網を張って真珠湾の入口を封鎖した

あれ・・・?

キンメルもショートも知っていて、ここまで準備していたのか。
しかもこれ、攻撃の10日前ですよね?
なんで奇襲攻撃を成功させてしまったんだろう。

というか、恥ずかしながらわたし、このことを初めて知りましたが・・。


●1941年11月28日

航空母艦USS「エンタープライズ」は、艦載機を引き渡すために
ウェーク島に向けて真珠湾を出発した


「エンタープライズ」と護衛艦艇は12月6日に帰港する予定であった

これって、深読みするならば、真珠湾攻撃を知っていた「誰か」が、
被害を空母に及ばせないように真珠湾から「逃した」
っていうことかもしれないと思ったり。(とする説も実在しますね)

これだと、真珠湾に残された艦艇群は、アメリカからある意味
デコイ扱いされていたということになります。

これは当事者たちの心情としてはとても受け入れ難い仮定かもしれません。



●1941年12月3日

真珠湾で第2の戦争メッセージが受信された
アメリカとイギリスの領土にいるすべての領事館が、

暗号を破棄し、
文書を燃やしていた(らしい)

開戦準備であるとの警告


●1941年12月

航空母艦「レキシントン」は真珠湾を出港し、ミッドウェイに向かった

12月6日、米国諜報機関は日本からの14パートからなるメッセージを
解読することに成功している

それによると、南太平洋のどこかに攻撃が迫っていることが示されていた

「レキシントン」とエスコートは巨大な嵐に足止めをくらい、
パールハーバーの200マイル真西にいて到着が遅れそうになっていた


パネル左側の

「知っていますか?」

というところには、何とこんなことが書かれています。

1940年以前、太平洋艦隊は毎年夏真珠湾で訓練を行なっていました。
1932年と1938年の2回、真珠湾はこの模擬演習として
アメリカ軍に「攻撃」されていたことになります。

どちらの演習も、真珠湾の艦隊にとっては完全な「奇襲」となり、
攻撃は完全な成功を収めたとされます。

そして1932年の演習は、「本物」と全く同じとなる
日曜日の明け方に行われていたのでした。


知っていますか?いや、わたしは知りませんでした。

つまりこれによると、模擬攻撃が2回成功していたのに関わらず、
直後の同じような日本の攻撃を許してしまった
ということでよろしいか。

って、何のための模擬演習やね〜ん!

こういうのを見ると、アメリカはいまだに(この博物館もある意味そう)
日本の奇襲攻撃ガー!という立場に立っていますが、
攻撃があるかもしれないと思いながら何もしてなかったくせに、
被害者ぶりっこも大概にせいよ、とついツッコんでしまうのよね。




ツッコむといえば。

ちょっと皆さん、見てくださいよ。
アメリカ人にはこれが真珠湾攻撃の演習に見えるんですってよー。

これってあれですよね。

戦後、あまりのリアルさにてっきり実写だと思われてフィルムを没収された
映画「ハワイ・マレー沖海戦」の撮影セットじゃないの。

いくら慎重に行われるべき大作戦であったとしてもですよ。

本来紙の上の図演で済むところ、こんなリアルに真珠湾を再現し、
艦船の模型まで縮尺をきちんとしていたといまだに信じてるのね。

日本人、どれだけ几帳面だと買い被られているんだろうか。

そういえば、この勘違いをアメリカではいまだに誰も訂正しないらしく、
マイケル・ベイの怪作「パールハーバー」でも、
同じようなことをしていた怪しい日本人軍団がいたような気がするな。

確かプールの入り口に巨大な鳥居が立っているシュールなもので、
あのシーンには大笑いさせていただいた記憶があります。

今回もわたしはついこれを見てふふっとなってしまったのでした。

歴史にはある意味完全な真実というものはない、
ということを思い知らされる一枚の写真です。


続く。





日米開戦とアメリカ潜水艦隊〜シルバーサイズ潜水艦博物館

2022-08-08 | 歴史

ミシガン州マスキーゴンにあるシルバーサイズ潜水艦博物館。
まずは潜水艦「シルバーサイズ」ではなく、前庭に艦橋のある「ドラム」、
「シルバーサイズ」の隣の沿岸警備隊のカッター、そしてなぜか
入口を入るとすぐに現れた触雷潜水艦についての話になりましたが、
これはまあいわゆる前座的な潜水艦の世界への導入とお考えください。

沿岸警備隊のカッター「マクレーン」についても、ここにある理由として
アラスカで日本軍の呂32号潜水艦を撃沈したとされるから、
ということだと理解することにしましょう。

もっとも、前回も説明したように、これはアメリカ側の誤認で、
「マクレーン」が撃沈したのは呂32ではなく、それどころか、
本当に撃沈したという証拠もないということがわかったわけですが。

潜水艦博物館的にはそうであってはあまり好ましくないので、
訂正された情報を頑なに受け入れず、展示のアップデートもしていない、
ということが重々理解できたところで、次に進みます。



■真珠湾攻撃〜全ての始まり




「シルバーサイズ」と潜水艦隊を語るために、まずこの博物館は、
真珠湾攻撃が全ての始まりだったとする解釈のもとに、
(それまでの両国の関係、歴史的経緯などに対する考察はスッパリとなしで)
アメリカの潜水艦隊が、第二次世界大戦にどのようにその力を求められ、
最終的にはアメリカの勝利に寄与したか、という流れを構成しています。

日本人であるわたしがアメリカの軍事博物館に立って、
諦めにも似た無力感に苛まれるのが、こういうアメリカの意志を見る時です。

なぜならわたしは、戦争という国益のぶつかりあいにおいて、
歴史を刻むのは勝者であり、そのことは神の目から見るところの
「善悪」とは何の関係もない、という考え方に立っているからです。

そもそも戦争が始まるに至る経緯について、
よほど中立を意識する、スミソニアン博物館のようなところでもない限り、
アメリカ側の正義に立ってしか語られることはないというのが
わたしがこれまで見てきたアメリカの軍事博物館の基本的姿勢であります。

それでも毎回こうやって地方の軍事博物館を訪れるたび、
もしかしたらアメリカという大国のどこかに、
戦争という普遍的なものが、ただパトリオティックな立場からではなく
科学的に論じられている場所があるのではないかと
心のどこかで期待している自分がいるのです・・・・

・・と言うようなドリーマー的ポエムはそこそこにして。

ここシルバーサイズ潜水艦博物館の説明は、先ほども言いましたように、
真珠湾攻撃から全てが始まったとされ、その解説に力を入れています。




日本帝国海軍の機動部隊がその日どうやって真珠湾を攻撃したか。
このパネルでは、空母から発進した航空隊の航路を図解で示しています。

「奇襲攻撃は午前7時48分に始まりました。
当時、日本の代表団はワシントンで
介入しないことを交渉していました。

どうやらそれは我々の軍隊の不意を突くためだったのです。
策略はうまく働きました。


353機の日本軍の戦闘機、艦攻、艦爆機が真珠湾に降下し、
それが午前9時30分に終了したとき、2402人のアメリカ人が殺害され、
8隻の戦艦が沈没又は深刻な損傷を受け、
数百機の航空機が損傷又は破壊されました。」



開戦の際の通知が、現地大使館の不手際により、攻撃より後になり、
その結果意図せぬ国際法違反になったこと。

そしてその前段階で、日本に最後通牒として突きつけられたハルノート。

これらは歴史的にも検証されていることであるにもかかわらず、
ここではそういった日本側の事情や言い訳は全く斟酌されることなく、
とにかく日本が悪いという姿勢を清々しいくらいきっぱり貫いています。

「介入しないことを交渉していた」とおっしゃっていますが、
ハルノートという名の事実上の最後通牒を、アメリカが突きつけてきたのは
まさにそのワシントンではなかったでしたっけ。

ま、いいんですけどね。
ミシガンの田舎で歴史的な中立を叫ぶ気はわたしにも全くありません。



とはいえ、この部分の展示、日本側が真珠湾攻撃を行った時の経緯は、
非常にわかりやすく、段階的にまとめられており感心しました。

ある意味、今まで見てきた真珠湾攻撃の資料の中で
一番わかりやすく時系列が語られているような気がします。



まず、下の地図からご覧ください。

日本列島とハワイが線で繋がれ、攻撃までの動きが
番号に従って説明されています。

1、山本五十六提督が率いる攻撃の秘密の計画は、
41年初頭から海軍の艦隊本部で開始されました。

目標は迅速な日本の勝利であり、アメリカの艦隊が、オランダ領東インドと
マレー半島の日本の征服に干渉するのを防ぐのが目的です。

日本軍は、主要な米艦隊のユニットを破壊することによって、
彼らの海軍力を高め、侵攻を強化する時間を手に入れんとしました。

2、11月22日までに攻撃隊は日本の北、千島列島の単冠湾に集まりました。

3、南雲忠一提督が指揮を執る機動部隊は、11月26日に出発し、
連合国からの探知を回避するために北ルートをたどりました。

艦隊には「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」
の六隻の空母が参加していました。


4、機動部隊は12月3日、油槽船団から洋上補給を受けました。

5、艦隊は、12月7日未明にオアフ島の北約200マイルに到着し、
午前8時に
攻撃を開始しました。

2400人以上の人員を殺害し、8隻の戦艦を沈没又は損傷せしめ、
数百機の航空機を使用不可能にしたのち、午後3時までに離脱しました。

この攻撃はアメリカ海軍と真珠湾に破壊的な大混乱をもたらしました。

6、12月16日、空母「蒼龍」と「飛龍」が帰還した艦隊から分かれ、
ウェーク島の攻撃に加わりました。

7、残りの艦隊は12月23日に日本に帰着しました。

8、ワシントンにいた日本の代表団は勾留されましたが、
1942年に日本に帰国を許され釈放されました。






1、艦隊は12月7日未明にオアフ島の北約200マイルに到着し、
午前6時に攻撃を開始しました。
日本の艦隊本部から無線で送信された命令は、

「ニイタカヤマノボレ」

408機の航空機が二波の攻撃によって熱帯の朝の空に唸りを上げました。

2、日本の潜水艦は、オアフに「ミゼット・サブ」を運んでいました。
特殊潜航艇のこと)
午前1時、それらは真珠湾に潜航するために発進を行います。

最初の潜航艇は午前3時42分に
駆逐艦USS「コンドア」に発見され、
6時37分に撃沈が確認されました。

これが太平洋戦争におけるアメリカの最初の「1発」となりました。

しかしこの出来事にもかかわらず、アメリカ側で
警戒警報は発令されず、
アメリカ軍もまた全くこれらに対応することをしなかったため、
迎撃も行われず、日本軍の波状攻撃を易々と許したのです。

3、183機の最初の攻撃波は、午前7時48分に真珠湾に到着し、
攻撃という名の破壊を開始しました。
この攻撃で艦爆と艦攻がアメリカの戦艦を沈めました。

4、さらに多くの水平爆撃機と急降下爆撃機を含む
第二波の171機が、午前8時50分に到着しました。

この時までに第一陣の攻撃隊は艦隊に戻っていました。

5、空襲の総指揮官である
淵田美津雄少佐は、
午前11時に偵察飛行を開始し、戦果を確認してから
午前1時に艦隊に戻って、報告を行いました。

6、淵田は、艦隊をすぐに帰還させるのが最善であると決定した
南雲忠一提督と、第三波攻撃について話し合いました。

最初の2回にわたる攻撃は大きな犠牲を私いました。

日本軍は真珠湾の攻撃そのものには成功したものの、
最もターゲットとすべきアメリカの
三隻の空母の位置がわからず
さらに天候は悪化しつつあり、今やアメリカ軍の防衛と警戒体制は
最初と違いより緊密なものへとなってきています。

さらに、第三波の攻撃は100機以上の飛行機に燃料を補給する必要があり、
それが日没後に行われなければならなくなっていました。

日本軍の機動部隊は、確実な夜間の作戦手順を開発しているべきでした。

もし第3回目の攻撃が行われていたら、それは
アメリカ軍の潜水艦をノックアウトし、燃料補給中のそれを炎上させ、
さらに造船所を無力化させた可能性がありましたが、
それには日本側のリスクはあまりに大きく、

数十機の航空機を失うことになり、南雲はそれを懸念したのでした。




■ そしてアメリカ潜水艦隊は


そして、この「サドンリー・アット・ウォー」を受けて、
潜水艦隊がどうなっていったか、と話が続くわけです。

「1941年12月7日の日本の真珠湾攻撃は、
アメリカを第二次世界大戦に突入させました。

当時アメリカ海軍の太平洋水上艦隊は非常に弱体化していたため、
55隻の潜水艦は日本の領土内で活動できる
唯一の攻撃部隊として
就役を余儀なくされたのでした」

アメリカが随分と受け身で一方的な被害者として語られていますね。

それはともかく、水上部隊が弱体化していたというのは、
ワシントン軍縮条約の結果を受けて、ということでよろしいか。

というわけで、戦力の重きが潜水艦に置かれていったということなのですが、
ここでアメリカ海軍の潜水艦戦術についての説明があります。

やっぱりここは潜水艦博物館ですのでね。


【アメリカ軍の潜水艦技術】

Torpedo Direction Computer(TDC)
は、1940年から41年にかけて開発されていました。

そのメカニズムによって、移動する潜水艦から移動するターゲットに
魚雷を命中させるデータが魚雷の誘導システムに搭載されるようになります。

これは、必要なデータを入力した瞬間に魚雷を発射できるため、
潜水艦の戦術を簡略化することができました。


Target Bearing Transmitter(TBT)
は、
オペレーターが夜間の消灯時にブリッジからターゲットのベアリングを感知し
乗員に送信することができました。
このデータを使用して彼らはTDCを設定し、魚雷を発射するのです。


暗視潜望鏡(The Night Vision Periscope)
は、1942年に使用されるようになった、強力で非常に人気のある
目標補足装置であり、さらに大幅に改良されたものは
1944年から使用されるようになりました。




第二次世界大戦の太平洋戦線での1941年から2年までの状況です。
番号のついたところで日米の戦闘が行われています。

1、真珠湾

日本の空爆では潜水艦基地は攻撃を免れ
港の4隻の潜水艦は無傷のままでした。

当時、フィリピンのペアトに27隻の潜水艦、カビテに28隻の潜水艦がおり、
平時のパトロールと偵察の訓練を受けていましたが、
多くは戦時中の攻撃などの戦術に移行することができませんでした。
このため、135名の潜水艦長のうち、40名が交代
させられています。

2、ジャワ沖

1942年2月、日本軍はオランダ領東インドを占領しました。
総称して、ジャワ・キャンペーン(ジャワ沖海戦)と言われる

4回の海戦の過程で、日本は南西太平洋の広大な資源を確保し、
シンガポールからスマトラとジャワに至り、ニューギニアの北岸を越えて、
ニューブリテンのラバウルまで広がる防御線を確立したのでした。

3、珊瑚海

1942年5月4日から8日までの珊瑚海の戦いは、
日本の南方への侵攻の勢いを止めました。

これは航空機によって戦われた最初の海戦となり、しかも
艦船同士は視覚的にすら接触することなく終わりました。

日本軍の輸送船団と航空機の多大なる損害は、
アメリカのミッドウェイでの勝利への道を準備することになります。

4、ダーウィン


チャールズ・ロックウッド少将は、1942年5月、
アメリカ軍南西大西洋潜水艦隊の指揮を執り、
魚雷の技術的問題の解決に取り組みを始め、
潜水艦隊をますます強靭にするための戦術的革新を行いました。




ちなみにロックウッド少将ですが、やる気がないと思われる潜水艦長を
闘志に溢れた者に躊躇いなく入れ替えて人事刷新を行うだけでなく、
乗員の待遇改善も進め、任務から帰還した潜水艦乗りたちに
充実した休暇を提供するため、ロイヤル・ハワイアンホテルを開放し、
航海中の食事を豪華にし、生野菜やアイスクリームを提供させました。

アイスクリーム製造機が故障した潜水艦は出撃を禁じたという話もあり。

実際、アイスクリームはアメリカ軍人にとって
日本人にとっての白いコメ同様「やる気の源」だったからねえ・・・。


5、ミッドウェイ

ミッドウェイ海戦は1942年6月4日から7日に起こりました。
ここで我々の海軍は大日本帝国海軍の攻撃を打ち負かし、
日本の航空隊に取り返しのつかない損害を与えました。

この時から日本は守勢に回らざるを得なくなります。

6、ガダルカナル

42年8月から43年2月までのガダルカナルキャンペーン中の戦闘は、
連合軍による最初の攻撃であり、日本の最初の陸上戦の敗北でした。

日本は戦略基地となるヘンダーソン飛行場を奪還できませんでした。




そして、1941年8月26日、カリフォルニアのメア・アイランドで
潜水艦「シルバーサイズ」は就役を行いました。

写真は進水式で海上に滑り出した直後の「シルバーサイズ」です。



続く。


ピッツバーグ・グルメ〜怒涛の悪評価ジャパニーズレストラン

2022-07-29 | 歴史

ピッツバーグに到着してからあっという間に二週間が経ちました。
Airbnbの部屋を住みやすくするための立ち上げもすみ、
唯一の心配だった、ガレージがないという問題についても、
駐車禁止の時間と場所を把握することによって、路上駐車に慣れてきました。

さて、今日は到着以来ここピッツバーグで訪れたレストランの中から、
アジア系と日本料理をご紹介しようと思います。


バッファローからピッツバーグに到着した夜は、
前回ピッツバーグで最後の夜に行って感激した高級タイ料理、
「プサディーズ・ガーデン」でMKとの再会を祝いました。


ここのタイカレーはいつ食べても感動的に美味です。
そしてこのパパイヤとスティッキーライスのココナッツ和えは最高。


去年はCOVID19のせいでオープンしていなかったお店です。
カジュアルなベトナム料理の「ツーシスターズ」。

お店の名前通り、二人の姉妹が経営しているレストランで、
オーナーらしい姉妹はキッチンでなくフロアとレジで頑張っています。

今回行ってみると、お店は大変繁盛しているように見えましたが、
壁には「人手不足でサービスが十分にできずすみません」
みたいなことを書いた張り紙があり、実際にもオーナー姉妹が
一人で運んで片付けてレジもしてオーダーも取るとキリキリ舞いしていました。


そんな中でも以前から品質を落とすことなく、
美味しいベトナム料理が提供されていたのは嬉しいことです。

前菜がわりにまず生春巻きをひとつ。



ここでは3人が3人ともいつも同じものを注文します。
それがこのチキンフォー。
自由にトッピングする野菜もたっぷりで、見かけより量が多く、
わたしなど全部食べ切ることができないほどです。

味は少し物足りないかなくらいのあっさりで、
その透明なスープもその気になれば全部完飲できるレベル。

コストパフォーマンスの点でも高評価を差し上げたい良店です。


今住んでいる通り沿いにあるジャパニーズレストラン「UMAMI」。

「旨味」という日本語がアメリカで市民権を得たのは、
ネットの発達によるところが大きいのではないかと思います。

西海岸、シリコンバレーに「UMAMIバーガー」が登場し、
その言葉選びに驚いたのが4〜5年前だったでしょうか。

わたしたちがアメリカに住んでいた頃には、日本食を謳うストランでも、
出汁を取っていない(つまりお湯に味噌を溶かしただけの)味噌汁を
平気で出してくることがあり、もしかしたら日本人以外には
昆布だしの旨味は味として認知されていないのか?と思ったものですが、
今では、たとえ日本人など見たことがないような地域の人でも、
ネットで本物の日本食の調理について簡単に知ることができます。

まあ問題はいくら知識があっても味わうことはできない、つまり
本物の味を知ることができないという点については
ネット以前と何も変わっていないということですが。

「UMAMI」という店の名前から受ける印象は悪くありません。
なまじ日本人がやっているというだけで、別に美味しくもない日本食を
これぞ本物、とばかりに海外で広めている微妙な店よりは、
ずっと日本の食について理解が深そうな予感を抱かせます。

そんな「UMAMI」については、MKがすでに友人と行った事があり、
評価については「まあまあ」という事だったので、
特に大きな期待もせず軽い気持ちで一度食べに行ってみました。



お水のグラスがパンダなのはいかがなものかと少し思いますが、
枝豆にはちゃんと塩が振ってあるし、味噌汁も出汁は取れています。
具も豆腐にわかめにネギと実にオーソドックス。


鉄火丼。
悲しいのは、ちゃんと紫蘇を使ってくれているのはいいとして、
それがほとんど黄色い色をしていた(つまり枯れかけ)ていたことです。

それから、アメリカのきゅうりは日本のと種が違うため、
日本の胡瓜の1.5倍太く、胴体にくびれもイボイボも全くありません。


これはわたしが頼んだ海鮮丼。
問題のシソは刻まれていて、生のうずら卵、トビコがあしらわれています。
ご飯はちゃんとすし飯の味がしました。

これ以外に、ここではお好み焼きも食べる事ができ、
MKいわく「まあまあ」ということです。

アメリカ人にも美味しく手頃なジャパニーズと認識されているようで、
この二日後、MKが友達と夕ご飯に行ったらまたここになったそうです。


日本料理、特に寿司レストランは、アメリカ人には少し高級で、
たとえばデートに選ぶ店みたいな位置づけの店が多い気がします。

値段が高いのは、生魚を扱うことから仕方がない部分がありますが、
いわゆるインチキジャパニーズの経営者は、
高い値段を取るためにろくに寿司のことを知らないで、
聞き齧り、見かじりの偽寿司を提供しているところがほとんどです。

もちろん前述のように日本人が経営しているからといって
必ず美味しいとは限りません。
日本にある店が全て美味しいわけでないのと同じです。

しかし今回遭遇したジャパニーズレストランほど、値段だけは一流で
中身はとてもじゃないけど日本からは味も中身も、程遠い、
残念なレストランはありません。

しかし、ブログのネタとしてはもう最高の逸材だったので、
早速ここで、ネットの低評価(太字)と共にご紹介していきます。ネタだけに。


昨年の夏に行った、SOBAというレストランに併設されているUMI。
UMIはピッツバーグでも数少ない高級和食の店と自称しています。

SOBAは決して悪くなかった(特に良くもなかったけど)ので、
高いのは分かっていましたが、家族で一度は行ってみようとなり、
MKになかなか予約が取れない中取ってもらい、出撃しました。

このレストランに入るのはとても難しい。
いつも予約でいっぱいで、一流レストランのような錯覚を覚えるからだ。
しかし、金曜日の夜、私たちがいた2時間の間、
多くの空きテーブルがあり、決して忙しいわけではありませんでした!!
要約すると、この経験はすべて気取った見せかけのように感じられました。


この人は「忙しく見せかけて高級なふりをしている」としていますが、
わたしが実際に行ってみたところ、要するにテーブルはあっても、
作る人がいないのだと思われました。

延々と続く階段を三階まで上っていくと、ドアを開けた途端、そこに
寿司カウンター(決して誰も座らない)が出現します。

あれっと思ったのは、そこにいた職人からなんの挨拶もないことでした。
見かけだけは日本人風のアジア系職人は、日本語が喋れないらしく、
「イラッシャイマセ」(ニューヨークの一風堂では金髪の店員にも言わせる)
どころか、助手らしい黒人女性と無言でこちらを眺めるのみ。

実はわたしはこの時点でかなり失望していました。



写真の右手は掘り炬燵風のテーブルですが、土足で利用します。
「掘り」の部分の掃除はどうしているんだろうとか、
土足で出入りするその座る部分はつまり地面に座っていることになるのでは、
とか、掘り炬燵ゾーンにサービスする従業員は、日本仕草のつもりか、
床に指や膝をついているけど、ここは(略)とか、色々と考えさせられました。

「書」のつもりで壁に貼られた「花鳥風月」は、日本なら
小学生高学年の部なら学校で優等賞をもらえる程度のレベルの達筆です。
っていうか、額にするのに、こんな練習用の半紙選ばないっつの。

心あるアメリカ人もこんなことをおっしゃっておられる。

私たちは日本のミニマリズムが大好きなのですが、
このスペースは完全に的外れで、アップデートが必要です。
照明が貧弱で、頭上のスポットライトは何も強調していません。



照明が当たっていないしょぼい滝、
(画面の右側にある水が流れる石段のようなもののこと)



効果のない照明に紛れてしまっている二つの壁画、



テーブルはあまり目立たない蛍光灯のある勝手口を向いていて、
(わたしが座ったのはまさにその席)
拭いたばかりでびしょびしょに濡れたテーブルに座らされたため、
さらにずさんな第一印象になりました。


日本のミニマリズムが好きな人にとってはインチキ以外の何物でもない、
これは確かにその通りですが、まあ日本人に言わせると、
この程度のインチキさはまだ許容範囲というものでしょう。

ここが料金の高い高級レストランを謳っていなければの話ですが。

ウェイトレスはなぜか全員がアフリカ系の女性でした。
カウンター内の助手もアフリカ系でしたが、ここは西海岸と違って
日本人風味のアジア系のウェイトレスは調達しにくいのかもしれません。

しかし、彼女のサービスはフレンドリーで丁寧で、
説明もちゃんとしており、悪いものではありませんでした。

問題は料理の内容そのものです。
って、レストランでこれに問題があればその時点でもうダメなんですが。

ここはピッツバーグで最高の日本食レストランとして宣伝されています。
しかし、先週の金曜日の夜、私たちの体験はひどいものでした。

料理は最悪で、満足感がなく、値段も高く、せいぜい平均的なものでした!!!

このレストランはおまかせの7コースか11コースしかなく、
ニューヨークのNobuより高いし、とてもがっかりしました。


ふざけたことに、ここは夕食しかやっておらず、
しかもチョイスできるのは「OMAKASE」のみ。
オーダーを聞いてその都度一皿作る、ということをできる料理人が
おそらくはいないのだと後からわたしは確信しました。

この人が言っている「7コース」「11コース」は皿数のことです。



こんなこともあろうかと、わたしはいつになく熱心に
皿の写真を全部撮ってきました。
写真がどう加工しても暗いのは、店内の異様な暗さのせいです。

これがその一皿目なのですが、まず、上に載っているものはともかく、
それが白くて丸い洋皿に乗ってきたのに猛烈な違和感を覚えました。

高級日本料理を自称するなら、器にもう少し気を使わないか?
こんな皿で出された日には、海原雄山でなくとも味見前にブチギレ確実だ。

皿の上は、なんか忘れましたが魚の身をツミレにしたものに、
甘いソースがかかっているもので、特に感銘も受けず。

いや、でも、最初の一皿くらいはね?前菜だし。



ところが2皿目、魚の切り身に同じようなソースをかけたものが
全く同じお皿で出てきて、あれっと思いました。

ま、まあ、これもまだ前菜ということなのかも。

写真は拡大していますが、切り身の大きさは寿司に乗っているのと同じくらい。



三皿目、今度はサワラの味噌焼き的なものが出てきましたが、
これにかかっているソースもほとんど同じもの。

ここで嫌な予感が萌してきました。

まさかとは思うけど、ずっとこんな感じなの?
お皿も白い丸皿のままだし・・・。

さて、この辺でアメリカ人の意見を聞いてみましょう。

「7品とも魚が同じに見えました。
真っ白な皿に紙のように薄い切り身、野菜は一つもありません。
海草のサラダ、緑の野菜のスチーム、野菜の天ぷらはどうでしょうか?」

客にメニューの提案をされてるし。

「シェフはベストを尽くしていますが、味はお互いを引き立たせておらず、
すべてのソースは嫌な甘さです。

11品のコースのうち7品が2ピースの小さな刺身でしたが、
どれも同じような味で、独自性、味、創造性が欠けています」


全くその通り。
日本料理に砂糖を使うという噂を間に受けて、
どのソースにも甘みをつけてしまったって感じです。

わたしたちは行く前に次の中国系らしい人の感想を読んでいたのですが、
店を出てから、その人の意見に100%賛同していました。

「11品のおまかせコースが進むにつれ、
失望という言葉では言い表せないような感覚に陥りました。


コースのほとんどが魚の薄切りで
甘すぎる醤油ソースは魚の味を消してしまっている」

提供されたわさびは本物の生わさびではない。
本物のわさびは、まろやかな味とほのかな甘みがあるが、
偽物のわさびは非常に強く、甘みはない。
135ドルのおまかせコース(11品コース)で、
新鮮な食材を提供すると言っているのに、これは全く納得がいかない」

「ウニもない」

全くその通り。もはやこの意見はわたしのものではないかみたいな。
わたしたちは後からこう言い合いました。

「あの中国人の意見そのまんまだったね」

「きっとあの人は孔子様の生まれ変わりだったに違いないだ」

そしてこの「孔子の生まれ変わり」の意見のうちで、
一番参考になったのがこの情報でした。

「白マグロ(エスカラール)が出てきた。
油分が多く、たくさん食べると下痢になるため、日本では違法な魚である」



英語ではホワイトツナなので、なんの問題もなさそうですが、
日本語の「アブラソコムツ」のことです。

アブラソコムツの恐怖

日本では幼稚園での集団食中毒?が起きたこともあり、
法律的に売ってはいけない魚として指定されているものが、堂々と。

脂が多いため、危険とされているこのアブラソコムツですが、
毒というわけではないので大量に食べなければ大丈夫。

というわけで、アメリカでは禁じられていません。
しかし、ロスアンゼルスの多数の韓国系寿司屋でこれを偽装して出し、
弁護士事務所から巨額の賠償を請求されたという事件もあったそうです。

孔子様のおっしゃった通り、前菜の最後にこれが出てきたので、
わたしは一切れだけ食べてパスしました。

問題は、この「外道魚」を出す店がいやしくも一流店を気取っていることです。

あーだんだん腹たってきた。

そして、6皿目までがこの白い洋皿の連続だったことで、
呆れ返ったわたしたちは、

「まさかこのまま最後まで行かないよね」

「最後にお寿司が出るよね」

「大丈夫、カウンターでおじさんがお寿司作ってるのが見える」

「11品コースだけ寿司が出ますだったらどうする?」

「もうその時にはテーブルひっくり返して帰る」

とヒソヒソ言い合っていました。


そして初めて白い丸皿以外で出てきた最後の希望、いや最後の一皿。
寿司の上にトマトのトッピング(笑)

寿司の大きさだけは一流っぽく小さくまとまっていましたが、
これは単に材料をケチるための握り方でしょう。

すし飯はいつ炊いたのか冷たくて硬く、粒が感じられる舌触りで、
日本では決してやらないトッピングは、味を誤魔化すため。

「トッピングに溺れ、魚の味をほとんど感じることができませんでした。
魚の寿司でないことを事前に言ってほしかった」


しかもサーモンの握りにはクリームチーズが。

「この夜一番がっかりしたのは、クリームチーズ入りサーモンの握りだろう。
立派な「おまかせ」料理でありながら

クリームチーズの入った握りを出したところは初めて見た気がします」

「握りにクリームチーズ?がっかりです :( 」

それより何より、お高いコースなのにたったこれだけで終了!というのに、
わたしたちはもうほぼ茫然としてしまいました。

おそらく出された全品は全部かき集めても一皿に軽く乗るくらいしかなく、
最後の寿司以外は全部白い丸皿に乗ったカルパッチョ的前菜。

まさにふざけんなでございます。



かろうじてマシだったのはこの偽寿司風デザートでした。
巻き寿司のようなピスタチオをかけたチョコファッジ、
醤油のようなチョコソース、そしてワサビのようなクリーム、
ガリそっくりのマスクメロンの薄切り。

これはアイデアとして面白いし、楽しい話題にもなります。


このコースが一人100ドルでなければ、もう少し寛容になれたでしょうけど。

それでは最後に、この店に対するアメリカ人たちの罵詈雑言をどうぞ。

「シェフは、美味しくない魚や料理の失敗作でこの値段を取る前に、
ロサンゼルスやニューヨーク、デンバーなどの
素晴らしい日本食レストランを経験するべきだ」

「ピッツバーグには選べる日本食レストランが限られているので、
非常に高価で質の悪い寿司と日本食しか知らない客は
こんなところでも満足してしまうのでしょう」

「しかし、本当にがっかりしたのはその量です。
3コースとデザートをいただきましたが、お腹が空いたまま帰りました。
夕食後、そのままブリトーを食べに行きました。
前菜が全部で2オンスの生魚で構成されていたので笑ってしまった」

「お金を貯めて、もっといいところで本物の寿司を食べましょう」

「Gi-jinの方が断然価値があるし、美味しいです」


最後の「GI-JIN」とは、ピッツバーグのもう一つの有名高級寿司店です。

この意見は、孔子の生まれ変わりさんのものだったので、
わたしたちはピッツバーグを去る前に、この店(Gi-jinは漢字で外人と書く。
日本人にとっての外人がやっている寿司屋であると標榜しているらしい)
に予約を入れ、行ってみることにしました。

美味しくてもそうでなくても、またとんでもなら尚のこと、
ここで紹介するネタとなってくれることを祈りつつ。






ナイアガラフォールズとニコラ・テスラの関係

2022-07-23 | 歴史

gooブログの〇〇機能のせいで、せっかく仕上げた記事が
ほとんど全て記憶されておらず、ゼロからやり直す羽目になりました。
こういう時には本当にやる気がなくなるのですが、頑張ります。
(独り言です)

さて、空前絶後に不味かったバッファローウィングスの夜から一晩空け、
次の日、後述するナイアガラフォールズ観光を済ませてから、
わたしたちは懲りずに美味しいバッファローウィングスを求めて
ナイアガラからもう一度ホテルのあった市街に戻ってきました。

昨日のあれをバッファローでの最後のウィングスにしてしまったら、
もうバッファローウィングスの存在そのものを嫌いになりかねない、
とTOが言うもので、(わたしはそうは思いませんでしたが)
今一度、バッファローにチャンスを与えることにしたのです。

って何様だよ。
というか、どれだけバッファローウィングス好きなのわたしたち。



ナイアガラの滝近くから、ピッツバーグに戻る道ぞいにある
目ぼしいウィングの店の情報を片っ端から検討して行った結果、
市街の飲食店が立ち並ぶ通りにあるレストランなら堅いだろう、
と店を決め行ってみたところ、何やら良さげな雰囲気の店。



ピンときて入ってみると、専門はハンバーガーで、しかもこの店は
エイジドビーフを使ったバーガーもあるというのです。

そんな店ならバッファローウィングスも普通に美味しいんじゃないかな。

店内はオールドアメリカンな感じで、壁には至るところに
LPレコードのジャケットが飾ってあって、店主の趣味がうかがえます。

ビリー・ジョエル、ジョーン・バエズ、ビートルズ、スティング、
ロッド・スチュアートにモンキーズ・・・。

写真右側に写っている3人の初老の男性たちは、ドンピシャの世代なのか
顔を巡らせてジャケットの曲について話題にしていました。

ここもオリジナルのTシャツなどを扱っているようですが、
少なくともオバマ来店の写真や新聞記事などを飾ってはいません。

日本でも有名人の色紙を壁に貼っているところって、
碌なもんじゃねえ、とまでは言いませんが、有名人が来ることと、
美味しいことは全く関係ないことだと思うんだな。



ウィングとバーガー、サラダを頼むことにしました。
サラダは果物やナッツ、ドライフルーツがたっぷりです。

このサラダもゴートチーズが当たり前のように入っていましたが、
わたしはヤギも羊も苦手なので、抜いてもらいました。



これがバッファローウィングス(本物)ですよ。
テリのある表面、食べるとチリパウダーとカイエンの刺激がピリッとして、
淡白なチキンの身を楽しく美味しいものにしてくれます。

辛くなった口を人参とセロリで少し宥め、なんならほんの少し
ドレッシングを香る程度につけると「味変」にもなります。

これですっかりわたしたちのリベンジは成立しました。

左は、おそらくアメリカで初めて食べるアヒツナバーガー。
マグロの身は「たたき風」でシアーという半生状態です。

ビーフバーガーがメインですが、ビーフが食べられない人のために、
チキンはもちろん、ダック、ひよこ豆のパテ、そして
なんとマグロのたたきのバーガーも提供しているお店でした。

その意気や良し。



さて、時間を戻して、その日の朝、我々はナイアガラフォールズの
手前にある公園の入り口の駐車場に車を停めていました。

これが今回借りているホンダのCR-Vなる4WDです。

シカゴのレンタカーでは、大都市の空港ハーツということで
膨大な数が展示されたVIP会員専用サークルから車を選べたのですが、
わたしは、こういう時には迷わずドアを片っ端から開け、
車内に首を突っ込んで、匂いを嗅いで車を選びます。

車内の匂いで車の経年が瞬時にしてわかるからです。

臭いのチェックをしながらも、車内に置かれた鍵を視認して、
インテリジェントキーかどうかを確かめるのも怠りません。

そういういわばプリミティブな方法で、今回は
走行距離1000キロも行かないほぼ新車をゲットすることができました。

HPを調べたら、WLTCモード14.2km/L(今は10モードじゃないんだ)
ということで、燃費もなかなか悪くありません。

実際、五大湖沿いを走り回っていた頃は毎日給油が必要でしたが、
街中を走るようになってからは給油は一週間に一度で済んでいます。

ただし、皆様もご存知かと思いますが、今アメリカでは物価高、
特にガソリン代が急騰していて、昨日一番安いunleadedを満タンにしたら、
なんと53ドル(日本円で7,000円くらい)かかってしまいました。

今の車の二代前、ハイオク車に乗っていたことがありますが、
円高のせいもあってそれ以上なのにちょっとびっくりです。



このナイアガラ公園の駐車場には、前回MKときた時にも停めています。

もし万が一、今後ナイアガラ観光を車で行うという方のために
何度も書いていますが、くれぐれも車は滝の近くに停めず、
地元の人が散歩に来て停めるこの無料の駐車場をご利用ください。
このロットが満車でも、もう一つ奥に無料の場所があります。

ここに車を停めるメリットは、無料であることの他に、
滝に向かって流れていくドラマチックな流れを見ながら歩いて行けること、
そして夏は鳥たちの姿が川の近くに見られることです。



さっそく変わった鳥が姿を現しました。

黒に羽の付け根だけが赤と黄色のナイキマークというこの鳥は、
Red-winged Blackbird、和名を ハゴロモガラス (羽衣烏)といい、
オスだけがこの模様でメスは茶色だそうです。



サンドパイパー=イソシギではないかと思います。

スタンダードナンバーになっている「The Shadow of Your Smile」
という曲がありまして、この曲の題は日本語で「いそしぎ」です。

Andy Williams ~ The Shadow Of Your Smile (Live)


「いそしぎ」というのは原題「Sandpiper」という、
エリザベス・テイラー主演の映画で、ヒロインのテイラーが
翼の折れたいそしぎを保護して連れて帰るというシーケンスがあります。

もっと大きな鳥だと思っていましたが、こんなに小さかったのね。



川面にコロニーを作って生活しているらしいいそしぎの集団。
この辺りはまだ流れがそう激しくないので、水鳥が多く見られます。



右側のイソシギ、首を傾げていてかわいい。



隣の草地はグースの縄張りでした。
皆しめしあわせたように川面に体を向け、くちばしは後ろに向けて。

何かあったら水に逃げるための習性でしょうか。



その横手に、なんとガチョウの保育所がありました。
本日の預かり児童は三羽、保育士さんはちゃんと子供たちを見守っています。

そういえば、イルカもペンギンもコロニーを作る動物の中には
子供だけを集めた保育所があり、面倒を見る保育士がいるらしいですね。



マザーグースが雛鳥を引率中。
雛鳥歩いてないし。



これがグースの赤ちゃん。
身体の大きさに比べて脚の比率が大きい。



しばらく(と言っても数分)歩くと川面も水鳥の姿も無くなりました。
そして川の流れがご覧のような激流になります。

しかし、人がここに落ちれば確実に命はないような場所でも、
護岸工事や柵は必要最小限しか行われていません。

日本ならガチガチにコンクリで岸を固めて柵をつけ、ご丁寧に
川の横には「危険!」「水遊び禁止」と立て札を立てるでしょう。

そんなこと言われなくてもわかっとる、と誰でも思うことを
あえて呼びかけて憚らないのが、日本の行政というものなのです。

もっとも、景観を重んじて行政の手を入れるのを住民が拒み、
その結果災害の規模が大きくなるということも実際にはあるので、
一概にそれが悪だとはいいませんが、まあ少なくとも観光資源に対しては
極力手をつけないで自然のままに残す方向でお願いしたいものです。





ただし、夜になるとこの激流をライトアップするために
実にたくさんの投光器が岸に取り付けられています。



ライトアップといえば、これはMKが冬友達とカナダに行った時の写真。



時間ごとに色が変わっていくそうです。



絶対カナダ側から見る方がいいですよね。



というわけでアメリカ滝の横にたどり着きました。
いつ見てもこの凄まじい眺めには心を掴まれるような気がします。

ここからは向こうにカナディアンフォールというカナダ側の滝が見えます。



滝つぼから巻き上がる水滴が虹のアーチをかけ、
そのアーチの下を滝巡りの遊覧船が通過していきます。



赤い遊覧船は、向こう岸のカナダから出ています。
カナダの国旗の色から赤い船に赤い水滴よけコートというわけです。

見たところ観光客は圧倒的にアメリカ側の方が多く、
遊覧船の待ち時間もカナダはアメリカの5分の1くらいのようでした。

滝の眺めもカナダ側からの方がいいらしいし、
一度はカナダからナイアガラを見ておくべきだったかな・・。


前回はコロナ禍下でしたし、真冬だったので、
人影がなかったアメリカン・フォールの向こう側に人の姿が見えます。


アップしてみました。
あれ?この写真の上の方に何か銅像がありませんか?



これは、公園の入り口にあった案内図ですが、TOが指差しているところの
左側は、アメリカの「ゴート・アイランド」といいます。

さらに調べたところ、アメリカンフォールの横手には、

ニコラ・テスラのモニュメント

があるということがわかりました。
はて、なぜナイアガラの滝にテスラの像が・・・・?



そこでこれですよ。

前回人気のないナイアガラで、この写真を撮った時、当ブログでは
昔ホテルでもあったんだろうか、などと適当なことを書いたのですが、
これは廃墟などではなかったのです。


「ナイアガラパークスの発電所のトンネル体験。
100年以上前に建設され、復元された水力発電所を探検してみてください。
インタラクティブな展示、魅力的なモデルなどを発見してください」

などという言葉があり、特にこの「トンネル」から
ナイアガラを眺めるというのは、ぜひ体験してみたくなります。



今回発電所の存在に気づいたのは、この写真を拡大したら
デッキの上に黄色い制服らしきものを着た人がいて、
さらにエレベーターの装置らしきものがあることを確認したからでした。


HPによると、発電所の中にはいつでも入れ、中にはかつての
発電所の遺構がそのままの形で保存展示されて見学することができるとか。

で、この発電所なんですが、ここにニコラ・テスラが関わっていました。

かつてナイアガラフォールズにあった世界初の大規模水力発電所は、
他ならないニコラ・テスラの残した業績の一つでした。

ニコラ・テスラはジョージ・ウェスティングハウスと共に、
ナイアガラの滝に世界初の水力発電所を建設し、
世界を「電化」の第一歩に導くという偉業を成し遂げています。

この旧ナイアガラフォールズ発電所の唯一の遺構である
アダムズパワーステーション(パワーハウスNo.3)が、
そのとき建造された水力発電所の一つでした。

人類が電気というものを生活になくてはならないものとして
使い始めてからの歴史の中で大きなターニングストーンである
このアダムズパワーステーションは、国定歴史建造物に登録されており、
さらに今後、ここには科学博物館を作るという話もあるそうです。

ナイアガラの滝のアメリカ側を訪れる観光客は年間約800万人。
カナダ側には年間約2,000万人が訪れます。
(あれ?ということはカナダ側の方が多いんだ)

よく、人はナイアガラフォールズのことを、

「死ぬまでに一度は見ておくべき場所」

と呼びますが、ここにあるのは、自然が作り出した造形美のみにとどまらず、
世界を今日の「電化」に導いた歴史的遺跡でもあったのです。

ナイアガラ・フォールズの「電気的な意味」は、
テスラの生み出した多相交流電流(AC)の最終的な勝利であり、
今日、地球全体を照らし続けているのはそのシステムです。


こちらがアメリカ側のニコラ・テスラ像。
上の写真に写っているのがこちらです。



こちらは2006年に除幕された、カナダ側、
クイーン・ヴィクトリア・パークにあるテスラモニュメント。

テスラが特許を取得した700の発明の一つである、交流モーター
(交流誘導電動機、多相交流を用いて回転磁界を作る原理を元にした装置)
の上に立っています。

アメリカとカナダ、どちらにも一つづつテスラ像があるというのも、
彼の成した偉大な功績を思えば、もっともなことかと思われます。


続く。




「ハンドシェイク・イン・スペース」アポロ-ソユーズ実験プロジェクト

2022-07-15 | 歴史

スミソニアン博物館の宇宙事業関連展示を見ていて、
かなり驚いたのは、米ソが共同で行っていた宇宙開発事業があったことです。

アポロ-ソユーズは、1975年7月に米ソ共同で実施された
初の有人国際宇宙ミッションです。

アメリカのアポロ宇宙船とソビエト連邦のソユーズカプセルが
ドッキングする様子を、世界中の何百万人もの人々がテレビで見守りました。

このプロジェクトと宇宙での印象的な握手は、
冷戦下の2つの超大国のデタント(緊張緩和)の象徴であり、
1957年にソビエト連邦がスプートニク1号を打ち上げたことで始まった
宇宙開発競争の終わりを告げるものと一般には考えられています。




それは、見学に来た人が疲れたら座り込むのにおあつらえむきの場所、
高さといい広さといいちょうどいい設置台の上に見ることができます。





■アポロ-ソユーズ実験プロジェクトASTP

ちょうど今日、7月15日から24日は、"宇宙での握手 "で有名な
アポロ・ソユーズ テストプロジェクトから47年目にあたります。

このミッションは正式にはアポロ・ソユーズ テストプロジェクト(ASTP)
ソ連ではもちろんソユーズ・アポロと呼ばれています。
Экспериментальный полёт "Союз" - "Аполлон"(ЭПАС)
Eksperimentalniy polyot Soyuz-Apollon (EPAS)

また、ソ連は公式にこのミッションをソユーズ19と命名しています。

アメリカはすでにアポロ計画を中止しており、使っていない機体を
番号をつけずに「最後のアポロ」として飛ばすことにしました。



ASTPは、アポロ宇宙船とソユーズ宇宙船をドッキングさせる試みでした。

この世界の2大プレーヤーが共同作業に至った理由、それは
1972年に締結された二国間協定に基づくものでした。

間接的には、米ソの間で締結された、核兵器の保有数、運搬手段の制限、
複数弾頭化の制限が盛り込まれた

「第二次戦略兵器制限交渉」

の流れからきていたと思われます。

目的は、将来の米ソ宇宙船のドッキングシステムの研究で、
宇宙空間の平和利用のための協力に関する覚書に基づいて計画されました。

■緊張期

アポロ・ソユーズの目的は、ズバリ、
冷戦時代の超大国である米ソのデタント政策でした。

つまり政治目的事業というやつです。

アメリカが「赤化から世界を救う」ためのベトナム戦争に参戦している間、
当然ですがこの2つの超大国の間には緊張が走っていました。

ソ連の報道機関は一貫してアメリカのアポロ宇宙計画を強く批判し、
例えば1971年のアポロ14号打ち上げの写真には、

「アメリカとサイゴンの傀儡によるラオスへの武力侵入は、
国際法を足元から踏みにじる恥ずべき行為」

というキャプションをつけたくらいです。

一応ソ連のニキータ・フルシチョフは1956年のソ連共産党20回大会で
「平和共存理念」としてソ連のデタント政策を公式化してはいますが、
両国の緊張緩和はなかなかそのきっかけを掴めないでいました。

それは1962年、ジョン・グレンが地球周回軌道に乗った
初めてのアメリカ人となった後のことです。

ジョン・F・ケネディ大統領とフルシチョフ首相との間に交わされた
手紙をきっかけに、NASAのライデン副長官とソ連の科学者、
アナトリー・ブラゴンラヴォフが中心となって
ある計画について一連の話し合いが行われるようになりました。

驚くべきことに、科学者同士の話し合いは、
キューバ・ミサイル危機の真っ只中にあった1962年10月に、
ドライデン-ブラゴンラヴォフ協定として正式に結ばれることになります。

その内容は、気象衛星のデータ交換、地球磁場の研究、
NASAの気球衛星Echo IIの共同追跡などの協力などです。

この時、トップがケネディとフルシチョフであったことは大きく、
雰囲気としては、もう少しでケネディはフルシチョフに
有人月面着陸の共同計画を持ちかける可能性すらあったと言われていますが、
1963年11月ケネディが暗殺され、その一年後フルシチョフが罷免されたため、
それぞれの指導者がいかなる個人的な希望を持っていたとしても、
もう物理的かつ永久にそれは無理となってしまったわけです。

ご存知のように、この後両国の有人宇宙計画間の競争は過熱していき、
この時点でさらなる協力への努力は終わりを告げることになりました。

■宇宙競争と更なる緊張

その後は極度に両国の関係は緊張し、さらに軍事的な意味合いから、
米ソ間の宇宙協力は1970年代初頭にはあり得ませんでした。

1971年6月、ソ連は初の有人軌道宇宙ステーション
「サリュート1号」の打ち上げに成功しており、一方、アメリカは
その数ヶ月前にアポロ14号を打ち上げ、人類を月に着陸させるための
3度目の宇宙ミッションを行っていました。

月競争は終わりを告げたと言っても、そこで両国の関係が変わるはずもなく、
この計画が立ち上がってからも、米ソ両国は
お互い相手の工学技術に対して厳しい批判をし合っていました。

まずソ連ですが、アポロ宇宙船を「極めて複雑で危険」と批判。

ソ連の宇宙船は、ルノホド1号とルナ16号が無人探査機、
ソユーズ宇宙船は、飛行中に必要な手動制御部分を極力少な口することで
ヒューマンエラーによるリスクを最小限に抑えるように設計されていました。

一方、アポロ宇宙船は人間が操作することを前提に設計されており、
操作するためには高度な訓練を受けた宇宙飛行士を必要とする、
というのがソ連の考える「ダメな理由」です。

しかしアメリカはアメリカで、ソ連の宇宙船はダメだと盛んに批判しました。
例えば、ジョンソン宇宙センター所長のクリストファー・C・クラフトは
ソユーズの設計についてこんなことを言っています。

「私たちNASAは冗長構成に頼っている。
たとえば飛行中に機器が故障した場合、クルーは別の機器に切り替えて
ミッションを継続しようとするが、
ソユーズの部品はそれぞれ特定の機能に特化して設計されており、
一つが故障すると、宇宙飛行士は一刻も早く着陸しなければならなくなる」


ソユーズ宇宙船は地上からの制御を前提としていたため
アメリカソユーズ宇宙船を非常に低く評価していたということですが、
自動制御で特別に訓練された宇宙飛行士がいなくても遂行できるのと、
インシデントを予測して人間に対応させるのと、
さて、どちらが安全でしょうという命題となります。

という風に互いのやり方を否定し合っている同士が、
政治的案件で一緒にプロジェクトを成功させなくてはなりません。

しかも今回の計画は、これまでのアポロ計画とは全く違い、
カプセルから飛行することを前提とした実験となるわけです。

結局、アポロ・ソユーズ試験計画のマネージャーであるグリン・ルニーは、
ソビエトを怒らせるようなことを(たとえそう思っていたとしても)
マスコミに話すな!と関係者に注意をしたと言われます。

ルニー「ソ連様を怒らせちゃいけねえだ」

NASAは、アメリカ流の軽口がソ連に理解されにくいことを知っており、
ちょっとした言動や批判が原因でソビエトが手を引き、
ミッションが廃棄されることを心から恐れていたのです。

1971年の6月から半年にわたり、ヒューストンとモスクワで
米ソのエンジニアは会議を行い、宇宙船のドッキングの可能性について
相違点を解決してすり合わせを行いました。

その中には、ドッキング中にどちらかが能動的にも受動的にもなれるという、
2隻間のアンドロジナス周辺アタッチシステム(APAS)設計も含まれます。


そしてベトナム戦争が終結すると、アメリカとソ連の関係は改善され始め、
宇宙協力ミッションの実現性も高まってきました。

アポロ・ソユーズは両国の緊張の融解によって可能となると同時に、
プロジェクト自体にアメリカとソ連の関係を改善する働きが期待されました。

フルシチョフの後任となったソ連の指導者レオニード・ブレジネフは、


いいこと言ってみた

「ソ連とアメリカの宇宙飛行士は、
人類史上初の大規模な共同科学実験のために宇宙へ行くことになる。
彼らは、宇宙から見ると我々の惑星がより美しく見えることを知っている。
私たちが平和に暮らすには十分な大きさだが、
核戦争の脅威にさらされるには小さすぎる」


と述べました。

1971年、ニクソン大統領の外交顧問であったヘンリー・キッシンジャーは、
このミッションの計画を熱心に支持し、NASA長官に対して、

「宇宙にこだわる限り、やりたいことは何でもやってくれ」

と激しくゴーサインを出しています。

そして1972年4月までに、米ソ両国は

「平和目的の宇宙空間の探査及び利用に関する協力に関する協定」

に署名し、1975年のアポロ・ソユーズ試験計画の実行を取り決めました。



ASTP実験の画期的だったところは、初めて外国人飛行士が
ソ連の宇宙船にアクセスすることができるようになったということです。

ソ連の宇宙計画はソ連国民に対してすら情報が秘匿されていたのに、
アポロの乗組員はその宇宙船、乗組員の訓練場を視察することが許され、
ソ連の宇宙開発について情報を共有することになったのですから。

もちろん逆も真なりで、ソ連の関係者は
決してアメリカの宇宙事業に関わることは許されませんでしたが。

まあ、なんというか非常に融和的なおめでたいニュースなのは事実ですが、
ASTPに対する反応がすべて肯定的だったわけではありません。

多くのアメリカ人は、ASTPがソ連の宇宙開発計画に過大な評価を与え、
あるいはNASAの高度な宇宙開発努力を譲り渡すことになると危惧しました。

一方ソ連ではそういうアメリカ側の懸念について、

「ソ連との科学協力に反対するデマゴーグ」

と批判する人もいました。

とはいえ、この事業によってアメリカとソ連の間の緊張は軟化し、
このプロジェクトは将来の宇宙における協力プロジェクト、
シャトル-ミール計画や国際宇宙ステーションなど、
共同作業の前例となったのは動かし難い事実でもあります。

■ 乗組員



アポロ乗組員

司令官:トーマス・スタッフォード(後ろ)
ヴァンス・ブランド(前列真ん中)
ディーク・スレイトン(前列左)


覚えておられる方もいるかもしれませんが、
スレイトンはマーキュリーセブンの一員でした。

彼は心臓に疾患が認められたため、打ち上げをずっと見送って
NASAのディレクターとして宇宙船を「見送る側」でしたが、
ついにこのプロジェクトで宇宙に行く唯一の機会を得ました。

ソユーズ18号乗組員

司令官:アレクセイ・レオーノフ(後ろ右)
フライトエンジニア:ワレリー・クバソフ


レオーノフといえば、人類最初に宇宙遊泳をした男。
絵を描くのが得意で、宇宙でスケッチをしたあの人です。

■打ち上げ



1975年7月15日、2人乗りのソ連のソユーズ宇宙船19号が打ち上げられ、
その7時間半後に3人の飛行士を乗せたアポロ宇宙船が打ち上げられました。





両宇宙船は、7月17日に地球を周回する軌道上でドッキングしました。

その3時間後、ミッション指揮官のスタッフォードとレオーノフは
ソユーズの開いたハッチから宇宙で初めて握手を交わしたのです。


国際握手会開催中

この歴史的な握手により、軌道上での約47時間に及ぶ
ドッキング作業が開始されました。
写真は16ミリ映画フィルムの1コマを複製したものです。


2隻の船が停泊している間、3人のアメリカ人と2人のソビエト人は、
共同で科学実験を行い、旗や贈り物(後に両国に植えられた木の種など)
を交換し、音楽を聴かせ合いました。

ちなみに、ソ連側からは
Maya Kristalinskaya - Tenderness

アメリカ側からは
WAR - Why Can't We Be Friends? (Official Video) [Remastered in 4K]

こんな選曲だったそうです。

「どうして僕たち仲良くなれないんだろうね?
調和して暮らしていけるなら肌の色なんて関係ないのに」




そして彼らは証明書に署名し、お互いの船を訪問して一緒に食事をしました。


スレイトンとレオーノフ

彼らはお互いの言語で会話をしました。
つまり、お互い相手の言葉を勉強していったということです。

この時、オクラホマ出身のスタッフォードのロシア語がソ連側にウケました。
レオーノフは後に、こんなことを言っています。

「ミッションでは3つの言語が話されていました。
ロシア語、英語、そして『オクラホマスキー』です」


ドッキングや再ドッキングの際には、2つの宇宙船の役割が逆転し、
ソユーズが「活動的」な側となることもありました。



そしてその一つがこの「プラーク合体」です。
アストロノー(アメリカの宇宙飛行士)とコスモノー(ソ連の宇宙飛行士)
は、国際協力のシンボルとして、軌道上で記念プレートを持ち寄り、
合体させて完成させました。

■アポロ-ソユーズテストの科学的成果

このミッションで行われた実験のうち4つは、
アメリカの科学者が開発したものです。
発生学者のジェーン・オッペンハイマーは、
無重力が様々な発達段階にある魚の卵に与える影響を分析しました。


あのオッペンハイマーとは関係ありません

44時間一緒にいた後、2つの船は分離し、
ソユーズの乗組員は太陽コロナの写真を撮り、
アポロは人工日食を作るために操縦を行い、短いドッキングの後、
二つの船は分かれてそれぞれの航路をたどりました。

ソ連はさらに2日間、アメリカは5日間宇宙に滞在し、
その間、アポロのクルーは地球観測の実験も行っています。

ASTPで、アメリカは宇宙から地球を体系的に観察・撮影し、
軌道上から地球を探査・研究するための新しいデータを取得しました。

このミッションで、スミソニアン国立航空宇宙博物館が
重要な役割を果たしたことはあまり知られていません。

ファルク・エルバズ博士は、博物館の地球惑星研究センターの創設者であり、
ASTPの地球観測・写真撮影実験の主任研究員でした。
この光地質学実験がミッションに含まれるようになったのも、博士の功績です。

エルバズ博士は、アポロの宇宙飛行士が月を周回する際の
目視観測を訓練した経験があり、今回は地球がターゲットとなりました。

博士は、宇宙飛行士がT-38飛行機で上空から地質を観察し、
写真に撮る練習をするための飛行計画を立てました。

宇宙飛行士は宇宙空間で約2,000枚の写真を撮影し、
そのうち約750枚は雲に隠れていないなど、質の高い写真でした。



地球観測・写真撮影実験 アンゴラ
アフリカ南西部のアンゴラを撮影したもの。(出典:NASA)

エルバズ博士は、地質学、海洋学、水文学、気象学などの分野で
画像を分析する科学者チームを結成しました。
軌道写真は上空を広くカバーしているため、大きな構造物や広い分布、
従来の現地調査が困難な地球上の遠隔地やアクセスしにくい場所などを
直接調査することが可能です。

地図の更新や修正、地球資源のモニタリング
動的な地質学的プロセスの研究、海洋地形の調査など、
これらの写真の用途は広範囲にわたります。


博物館の宇宙戦争ギャラリーでは、ドッキングした状態の
アポロ宇宙船とソユーズ宇宙船を見ることができます。

展示されているアポロのコマンドモジュールとサービスモジュールは試験機で
2つの宇宙船をつなぐドッキングモジュールは
バックアップフライト用のハードウェアとなっています。

ソユーズ宇宙船は、ソユーズを最初に製造した
エネルギア設計局によって作られた実物大模型です。



最後に、スミソニアン所蔵のソ連の国旗を。

この旗は、米ソ共同のアポロ計画で、アポロ司令船に搭載された
特別な「ギフトバッグ」に含まれていた10枚のソ連国旗のうちの1枚です。

また、アメリカの国旗10枚、白トウヒの種の特別な箱、
宇宙船がドッキングしたことを証明するASTP証明書も含まれていました。

1975年7月、アポロとソユーズが地球周回軌道上でドッキングしている間に
宇宙飛行士の間で贈呈され、交換されたものです。


続く。




靖国神社のチャールズ・リンドバーグ夫妻〜スミソニアン博物館

2022-07-08 | 歴史

前回に引き続き、スミソニアン博物館のリンドバーグ展示をご紹介します。



「ヒストリカル・エアプレーン」の一つとして、それは
ここスミソニアン航空博物館に展示されています。

ロッキード・シリウス ティングミサートゥク
Lockeed Sirius Tingmissartoq

この水上機はセレブリティ夫婦、チャールズ・リンドバーグ夫妻を乗せ、
霞ヶ浦に着水して民衆に熱狂的に歓迎されたことがあります。

680馬力のライト・サイクロンを搭載したロッキード低翼単葉機
シリウスは1929年にジョン・ノースロップらによって設計された新型で、
このモデルは、着水用のポンツーンフロートと地上用の車輪、
いずれかを装着して飛行するよう、特別に設計されています。

チャールズとアン・モロー・リンドバーグ夫妻は、
このロッキード・シリウスで2回の長く危険な飛行旅行を行い、
航空会社の海外ルートを開発するという調査を行なっています。

【1931年、アジア航路の開拓】

一度目、1931年に彼らを乗せたシリウスは東洋へ飛びました。
これが「大圏航路」によって極東へ到達した最初の航空機となります。

のちにリンドバーグは、この旅のことをこう表現しています。

「始まりも終わりもなく、
外交上も商業上の意味も持たず、
求めるべき記録もない休暇」

航空会社の調査とはいえ、この飛行がいかに自由気ままで冒険に富み、
彼らにとっての「心の飛翔」でもあったことがわかる気がします。



グリーンランドのゴダブに訪れたとき、いかなる経緯かはわかりませんが、
エスキモーの少年がこの機体に、現地の言葉で
「ティンミサートク」(『鳥のように飛ぶ者』『大鷲』)と名付けました。

機体の側面には、その少年の手によってこの名前が描かれています。



リンドバーグがパンアメリカン航空の技術顧問を務めていた1933年、
リンドバーグ夫妻はこのシリウス号を使って大西洋を横断し、
パンアメリカン航空の飛行経路を開拓する2回目の任務を行いました。

いずれの飛行も、広大な水域と未知の人口の少ない地域を巡る旅で、
商業飛行という概念を芽生えさせるきっかけを作ったリンドバーグが、
今度は国際的な空の旅のルートを航空会社の要求に応じて探索したのです。

全く商業的な意味が絡まないわけではありませんでしたが、
彼らが心からこの飛行を楽しんだ大きな理由の一つは、
1927年に国民的英雄となって以降、リンドバーグに常に付き纏っていた
世間の目からしばし解放されたことが大きかったかもしれません。

写真は、ロングビーチに到着し、陸揚げされたシリウスと夫妻の姿。


アラスカのエスキモー部落で、犬ぞりに座るアンと後ろに立つチャールズ。



赤線が1931年、破線が1935年の航路を記したものです。
1931年の航路は以下の通り。

ニューヨーク→オタワ→チャーチル→ポイントバロー(アラスカ)
→シスマレフ(アラスカ)→ノーム(アラスカ)
→ペトロパブロフスク(カムチャッカ半島)→ケトイ島(千島列島)
→紗那村(択捉島)→国後→根室→東京→大阪→福岡
→南京→漢口

霞ヶ浦に到着したリンドバーグ夫妻の乗った車を取り囲む人々 

リンドバーグ夫妻が来日した時の詳細は次のとおり。

8月23日、アラスカから千島列島を伝って北海道へ到達

根室に2日間滞在後、26日霞ケ浦へ飛来

フォーブス駐日米国大使、安保清種海軍大臣、杉山元陸軍次官、
小泉又次郎逓信大臣(小泉純一郎の祖父)
ら、
日米の政府高官や海軍関係者など約1000人が出迎える

同日列車で東京へ向かい、
聖路加病院トイスラー院長邸に滞在、
トイスラー邸が東京での根拠地となる

27日から31日まで多数の歓迎式典や表敬訪問

9月1日から4日までフォーブス大使の軽井沢別荘で休養

5日は日光を周遊し
金谷ホテルで1泊、6日に東京に戻る

チャールズが逓信省航空局で飛行計画の打ち合わせや、
霞ケ浦で愛機の点検と試運転など出航準備を進ている間、
アン夫人は博物館の見学や茶道・華道の体験

13日大阪へ飛来後、自動車で京都に入洛し、都ホテルに宿泊

奈良から大阪を経て、福岡へ向かう

9月17日福岡を離陸

冒頭の靖国神社の写真はこのときのもので、
案内をしている陸軍軍人は杉山元陸軍大臣であろうと思われます。

アン・モローはこの時の記録として『NORTH TO THE ORIENT 』を著し、
その中に、関西滞在中、京都の少年がリンドバーグ夫妻の飛行機に潜入し、
密航を企てる事件
が発生したことが書かれているそうです。


ところでこのときリンドバーグがなぜアラスカを経由したかですが、
地球の形状から、アメリカ本土とアジアを最短距離で結ぶには
アラスカに北上する必要があると考えられたからでした。

このとき初めてリンドバーグが飛行機で飛んだことで、
新しく北極圏の航空路が開拓されたわけですが、皆様もご存知の通り、
現在でもアジアとアメリカを結ぶ旅客機のほとんどは
アラスカを経由するルートを飛行します。


前回アラスカ上空で撮ったiPhone写真

アメリカへの行き来の際、アラスカ上空をいつも飛行しているわけですが、
これがリンドバーグが「パス・ファインダー」として成した開拓の賜物で、
後世の我々にあまねく齎した恩恵だったをいうことを今回初めて知りました。

今更ですが、ありがとうリンドバーグ夫妻。



で、このアン・モローの写真ですが、彼女がが着用しているのは、

「パーソナル・フライングエキップメント」

彼女以前に飛行機に乗って極寒の地に飛んだ女性はなかったので、
全ての装備装具は彼女が自前で開発することになりました。

彼女が着用しているのは「ハドソンベイパーカ」「ハドソンベイキャップ」
そしてハンドメイドのストッキング型ブーツ、ミトン。

リンドバーグ夫妻がソ連のレニングラードに到着した時の装いです。
彼女が着ているからオシャレに見えますが、フライト用の実用スーツです。

何しろ飛行機には重量物を積むのはご法度、というわけで、
彼らは自分がフライトで着るアウターウェア以外に
それぞれたった18ポンド(8kg)の服しか持っていませんでした。

靖国神社での彼らの装いを見ると、夏服ですが、
フライトには完全防寒と風避けのため
大使館でのパーティ用の服もあったに違いありません。

今と違って軽い合成繊維の衣類などありませんから、
背の高いリンドバーグのスーツは重く、きっと一着を着回していたでしょう。



スミソニアンはこの「ハドソンベイ・シリーズ」現物を展示しています。

パーカは白のウールで胴のラインは黒。ポケットは二つ。
パーカには取り外しできるフード(左上)が付いています。

ブーツもウールで、これで歩くのはなかなか大変そうですが、
赤と緑の刺繍がなかなかかわいいですね。

ミトンもウールで、赤と青のメランジ風の編み込みがされており、
アン・モローがお洒落にこだわりを持っていたことが窺えます。



アン・モローが驚嘆したアラスカ山脈を越える瞬間を
後世の人が絵にしたものだと思われます。


アウチ。

リンドバーグ夫妻の飛行は最後まで順調でしたが、
中国の漢口で事故が起こります。

イギリスのエアクラフトキャリア「ハーミス」号から
シリウスを揚子江に降ろす際、片方の翼が船のケーブルに当たって
横転したまま川に転落してしまったのです。

ひっくりがえった愛機の上に半裸で乗って、点検しているのは
他でもないリンドバーグ本人です。

破損した飛行機はアメリカに戻さざるを得なくなり、
1931年のリンドバーグの飛行はここで終了となりました。

もしここで飛行機が破損しなければ、リンドバーグ夫妻は
もしかしたらこの後中国国内を何箇所か巡っていたかもしれません。

【1933年の飛行〜大西洋航路開拓】



パンアメリカン航空と他の四つの大手航空会社は、
商業用航空路の開発にビッグビジネスの活路を見出していたため、
リンドバーグに今度は可能な大西洋ルートの調査を依頼しました。

リンドバーグはパンアメリカンのテクニカルアドバイザーとして
ニューファンドランドからヨーロッパへのルートの開発を目的とした
調査飛行に派遣されました。

この時の航路は大体以下の通り。

ニューヨーク→ニューファンドランド→ラブラドール
→グリーンランド→アイスランド
→コペンハーゲン→ストックホルム→ヘルシンキ
→レニングラード→モスクワ→オスロ
→サウザンプトン→パリ→アムステルダム→ジェノバ
→リスボン→バサースト(ガンビア)
→ナタール(ブラジル)→マナウス→サンフアン(プエルトリコ)
→マイアミ→チャールズタウン→ニューヨーク

ニューヨーク出発は7月9日、到着は12月19日でした。
総飛行距離は3万マイル(4万8000キロ強)、
訪れた国は合計で21カ国にのぼりました。

この時彼らの調査で分かった気象条件と地形についての報告は、
航空会社が商業航空路を計画する上で大変貴重な資料となりました。

つまりこの時の調査飛行も、現在の航空会社の航路として生かされています。
ありがとうリンドバーグ夫妻。


【ティングミサートクに積まれた装備と必要品】


リンドバーグ夫妻は、自分たちが歴史に名を残す存在であることを自覚し、
旅行のために用意した品々の大半を大切に保存していました。

スミソニアンではこれらを近年初めて公開し、展示について、

「リンドバーグの素晴らしい計画への洞察力を認識すると同時に、
旅行の時に持って行く荷物に頭を痛めたことのある来館者なら、
長旅のために彼が何を選んだかに共感することでしょう。 」

と自画自賛しています。
そのグッズとは。


当時のグラノーラバー的な麦芽乳のタブレット
グリーンランドの氷冠に不時着したとき用、全長約11フィートの木製ソリ、
スノーシュー、アイスアイゼン
海に不時着したときのためのマストと帆をつけたゴムボート
虫除けや牛タンなどの食料缶色々


また、スミソニアンにはこんな展示もあります。


「これはなんでしょう?」と興味を引くように書かれた水筒のようなもの。



アームブラスト・カップといいます。

顔に装着することで、呼気の結露を飲み水に変えるという不思議なもので、
海に不時着するような非常時を想定したサバイバルグッズです。

飛行機には重量制限があるため、限られた量の水しか積めません。
リンドバーグは、大西洋単独横断飛行の前にこの新発明について読み、
1つ手に入れて持って行ったのです。

彼はこれをシリウス号での旅行にも持参していました。
シリウスでの飛行は順調だったので使われることはありませんでしたが、
いざという時のため、 重さに見合うだけの価値があると考えたのでしょう。

スミソニアンではこの物体の名称がいくつも表記があって、
どれが正しいのかわからなかったそうです。

アンの著書には"armburst "カップと書かれていましたが、学芸員が
この商品の特許を取った人物チャールズ・W・アームブラストの名前から
”Armbrust”が正しいことを突き止めたそうです。

でっていう話ですが。



リンドバーグがシリウスに搭載したものの中には、ソリ、
ピスヘルメット(イギリスの防暑用のヘルメット兼帽子、サファリ帽とも)
蚊除けネット・・と並べると奇妙な取り合わせがありました。

彼らは最も寒い気候の国を通り抜け、最も暑い国に移動したため、
(北極圏に近いところからアフリカ、ブラジルのアマゾンまで)
グリーンランドで氷冠に緊急着陸する場合に備えて組み立て式のソリ、
そしてアフリカやブラジル、南半球ではピスヘルメットで頭部を守り、
さらには虫から顔を守るためのネットも必要だったのです。



スミソニアンには、このロッキード・シリウスが陸上機だった時の
ホイールタイヤが展示されています。
タイヤはグッドリッチ・シルバーストーンというメーカーによるものです。

現在はミシュランのブランドの一つ、「グッドリッチ」となっています。



同じくホイールカバー(英語ではホイールパンツというらしい)。

【チーム・リンドバーグ】



二人の後ろに船員らしき男性の姿が見えていますが、これは
1933年の飛行旅行の際、チャーターされたデンマークの蒸気船、
SS「ジェリング」Jellingの船長ではないかと思われます。



リンドバーグ夫妻の調査旅行に随伴した「ジェリング」は、
調査を依頼したパンナムがチャーターしたもので、リンドバーグの飛行を
燃料などの補給やサポートすることを目的に、カナダの探検飛行家で、
パンナムの社員だったロバート・ローガン指揮するチームが乗っていました。

「ジェリング」は地図で緑色の線で記されている航路を航行して
その間シリウスの後を置い、同時に海上で調査プロジェクトを行い、
気象条件の観察、空港候補地の地図作成、海の深さと潮流の科学測定、
港の地図作成なども行っていました。

このことはパンアメリカン航空の社史のページに、
次の動画とともに掲載されています。

With Charles and Anne LIndbergh in Greenland, 1933


写真でアンが抱えているのは無線機器です。

1931年と1933年のフライトで、彼女は無線手順、モールス信号、
そして天体航法までを完全にマスターしていました。

このフライトで妻に遭遇させるかもしれない「潜在的危険」について
記者に尋ねられたリンドバーグは、このように答えています。

「しかし、覚えておく必要があります。
彼女は乗員であるということです」


すでに彼女は同伴者ではなく、フライトチームの一員である、
ということを言いたかったのでしょう。


続く。




パーシングとパイオニア、レーガンとゴルバチョフ〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-06-30 | 歴史

わたしが国立宇宙航空博物館、通称スミソニアン博物館を見学したのは、
まだこの世にCOVID19が存在していない頃でした。



これまで紹介してきた歴史的な航空宇宙化学の結集が一堂に。
この様子も壮観ですが、フロアに溢れる人々が誰もマスクしていません。

街ではほとんどマスクを着用しなくなったアメリカですが、
3月11日より見学者のマスクは不要となっています。
ただし、

「訪問中にフェイスマスクを着用した方が快適だと感じる訪問者は
全員、着用することが推奨されます。」


と「マスク派」についても気を遣っています。
ワクチン接種の証明も必要ありませんが、
可能な限りソーシャルディスタンスを保ち、
できるだけ平日の空いた時間に訪問することを推奨しています。


さて、このフロアに立つと、案外目を引くものは
実は地味に奥にある中距離弾道ミサイルだったりします。



特に、表面に升目と文字が描かれたソ連製のミサイルは
その一種異様さで目立っている気がしました。

 ソ連のSS-20と米国のパーシングII

1987年の

中距離核戦力(INF)条約

で禁止された2,600発以上の核ミサイルのうちの2つです。
弾道ミサイルを禁止した条約は、核戦争からの後退の一歩であり、
冷戦終結の前触れとなりました。



ここになぜその二つのミサイルが並んでいるかというと、条約によって、
いずれかの博物館的なところに展示することを指定されたからなのです。

もちろん不活性化してあります。

今日は、そのソ連製SSー20ミサイルと、横に並べられた
アメリカ製のパーシングーIIミサイルについてお話しします。

■パーシングII



  パーシングIIは、1983年から西ドイツの米軍基地に配備された
移動式の中距離弾道ミサイルです。

マーティン・マリエッタが設計・製造した固体燃料式2段式で、
1973年、パーシングの改良型として開発が開始されました。

パーシング1aはかなりの過剰威力だったため、
精度を向上させるという目的でIIを生産することになりました。

攻撃目標はソビエト連邦西部です。

各パーシングIIは、TNT5〜50キロトンに相当する爆発力を持つ
可変収量の熱核弾頭を1つずつ搭載していました。

これに対抗し、ソ連がRSD-10パイオニア(SS-20セイバー)を配備。
こちらが4,300kmの射程と二つの弾頭を持っていたので、パーシングは
東ウクライナ、ベラルーシ、リトアニア到達する仕様に変更されました。

つまり、この2基のミサイルは、かつて米ソにあって
互いに向けて攻撃するために「睨み合っていた」一対なのです。


■ RSD-10パイオニア SS-20セイバー

RSD-10パイオニア(ракетасреднейдальности(РСД)は、
1976年から1988年にかけてソ連によって配備された弾道ミサイルです。

SS-20セイバーはNAT Oによるコードネームになります。

本体に書かれた「CCCP」表記はキリル文字によるUSSR、つまり
ソビエト社会主義共和国連邦の意味であることはご存じですね。

かつてオリンピックなどで見るソ連選手のユニフォームには
必ずこの4文字が書かれていたものです。



パーシングと比べてもかなり大型で、高さ16.5m、直径が1.9mとなります。

弾頭部分を見ていただくとそのデザインの異様さでお分かりのとおり、
核弾頭を三個搭載することができます。

このミサイルは液体燃料でなく固体燃料を搭載しており、
そのため液体燃料を注入する危険な作業を必要とせず、
命令が出ればすぐさま発射できるというものでした。

ソ連がSS-20を開発した理由については、いろいろな説があります。

1、ソ連のグローバルパワーへに対する挑戦の一環であった

2、SALT条約(米ソ第一時戦略兵器制限交渉)で、
長距離ミサイルが量的制限を受けたため、中距離ミサイルに注力した

3、失敗したSS−16ICMBミサイルプロジェクトのリベンジ企画
あるいはSS16のための技術と部品のリサイクルが目的

4、ソ連がそれまで欠いていた
第二次攻撃力の強化
(第三次世界大戦に向けた洗練された核戦略のため)



4の第二次攻撃能力について少し解説しておくと、これは核戦略用語です。

相手国から第一撃が先制的に打込まれたのちに、
残存している核ミサイル、核搭載有人機などを用いて、
相手国にただちに報復攻撃を加えられる能力を言います。

戦略的にはこの能力をしてそのまま核抑止力とするという考え方ですが、
1960年代国防長官だったアンドレイ・グレチコ元帥は、
第一撃を選択する、つまりし第三次世界大戦が始まったら、
ソ連はNATO諸国に対しすぐさま核攻撃を行う
という考えを持っていました。


グレチコ元帥(映画化の際には配役リアム・ニーソンの予定)

つまり、最初の核先制攻撃で相手の核報復力を破壊するということです。
しかし、これはあくまでグレチコ個人の意見ですよね?(ひろゆき構文)

この意見にソ連内部で反発する意見ももちろんあって、

「洗練された第二次攻撃能力で抑止力を目指すべき」

というものでした。

ちなみにグレチコ元帥は在職中に(いうて72歳でしたが)急死しています。
死因は動脈硬化と冠状動脈不全だったとか。


ともあれ、RSD-10は、ソ連にそれまで欠けていた戦域内での
「選択的」標的能力を提供することになりました。

それはすべてのNATOの基地と施設を破壊する能力を持ち、
ソ連の望む抑止力として十分機能する、とされたのです。

こうしてソ連は、サージカル・ストライク(正当な軍事目標にのみ損害を与え、
周囲の建造物、車両、建物、一般民衆のインフラや公共施設には全く、
あるいは最小限の付随的損害を与えることを目標とした軍事攻撃)
によってNATOの戦術核戦力を無力化する能力を獲得したのでした。




■冷戦における核配備競争への懸念


パーシングIIが飛翔する写真を表紙にしたタイムズ紙。
タイトルは、

「核ポーカー」
掛け金はどんどん高くなる


核の装備が、常に相手を上回ることを目標にしているうちに、
どんどんリスクが高くなっていくことを懸念する内容です。

冷戦下で激化した軍拡競争は、世界中に武器の配備が進みました。

万が一使用すれば、たった1発でも壊滅的な被害をもたらす武器が
世界中を埋め尽くしていくかのような勢いでした。



中距離弾道ミサイルの配備をめぐって、1980年代は
抗議の動きに火がついていくことになります。


■ レーガンとゴルバチョフ




アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンとソビエト連邦書記長、
ミハイル・ゴルバチョフ
の間の相互尊重関係がなかったら、
INF条約の調印はうまくいかなかったかもしれません。

1986年10月11日、12日に開催されたレイキャビク・サミットは、
レーガン米大統領とゴルバチョフ・ソ連書記長の2度目の会談でした。

前年のジュネーブ首脳会談に続き、核兵器削減の可能性について議論し
合意を進めた両首脳は合意に至らなかったものの、
多くの外交官や専門家はこのサミットを冷戦の転換点と考えています。

1985年のジュネーブ・サミットで、両首脳は
攻撃型兵器削減の重要性では一致していたのですが、
レーガンが提案した戦略防衛構想(SDI)をめぐる意見の相違が、
交渉の大きな障害となりました。

ゴルバチョフは、もし米国がSDIを効果的に開発すれば、
核の先制攻撃でソ連は不利になるという懸念を持っており、
レーガンの、SDIをソ連と共有するという申し出を信用しなかったのです。

とはいえ、両者はそれまでの米ソの指導者に比べて
はるかに友好的な関係を築くことができていたのは有名です。

その効果もあって、核兵器削減の協力をうたう共同声明が作成され、
米ソ双方に前進への希望を与えることができました。

首脳会談後、レーガンはゴルバチョフに手書きの書簡を送っています。
核兵器廃絶の希望と、ゴルバチョフの協力を確認しようとしたのです。

ほぼ同じ時期に、ゴルバチョフもレーガンに手紙を送っており、
米国がソ連の核実験モラトリアムに自発的に参加することを求めました。

ただ、モラトリアムに同意するということは、
アメリカの SDI 開発を停止することを意味します。
結局レーガンはこの要請に応じることはありませんでした。

ゴルバチョフはレーガンの最初の書簡への返信で、

「宇宙攻撃兵器は、防御と攻撃いずれもの能力を持っており、
極めて危険な攻撃的潜在力の蓄積をもたらす技術です。
これが軍拡競争を激化させることは避けられないでしょう」

と、繰り返し懸念を表明しています。
つまりSDIが交渉の障害になっているのは確かでした。

ゴルバチョフが提案したのは、2000年までに
「核兵器を完全に廃絶する前例のないプログラム」
でした。

その内容は、3つのステージから成っていました。

第1段階
5年から8年で、大陸間弾道ミサイル(ICBM)の50%削減、
宇宙兵器実験の相互放棄、ヨーロッパからのすべての核兵器の撤去

第2段階
5〜7年で、すべての核実験を中止し、中距離核兵器を整理。
この段階には、他の核保有国(イギリス、フランス、中国)も含む

最終第3段階
残りの核兵器をすべて廃棄し、
「1999年末までに地球上から核兵器を根絶する」


ゴルバチョフはまた、

「これらの兵器が再び復活することのないよう、世界的な合意をすること」

を強く求めました。
(BGM ジョン・レノン『イマジン』で)


彼は、ソ連の核実験に対する自主的なモラトリアムを更新し、
再び米国に参加を呼びかけ、もし米国がこれに応じるならば、ソ連は
以前から争点となっていた相互立入検査に同意する、と書いています。


当然ながら、ゴルバチョフが目指した核兵器廃絶に、
ソ連指導部のすべてが賛成していたわけではありません。

特に軍部が反対していました。

軍部は核軍縮案を提出しましたが、これはソ連が完全な軍縮を支持していると
世界に示すプロパガンダの役割を果たすものにすぎず、
アメリカがこの提案に同意しないであろうことも折り込み済みでした。

レイキャビク会談で、レーガン、ゴルバチョフ両首脳は、
この会談が大きな賭けであることを認識しました。

レーガンは、

「世界に戦争と平和のどちらを残すかを決めるまたとない機会だ」

ゴルバチョフも、

「軍備交渉で行き詰まった外交を解決するのが目的だ」

と同意しました。

この最終会談でのアメリカの提案は、次のようなもので下。

「双方、5年間に戦略的攻撃兵器の50%削減を達成する。
残りのすべての攻撃型弾道ミサイルについて削減のペースを維持し、
2回目の5年間の終わりまでにすべての攻撃型弾道ミサイルを全廃する。
10年後に攻撃型弾道ミサイルが全廃されれば、
どちらかが防衛策を導入する自由を有する」


対してソ連の提案は

「ABM条約の非撤回期間を5年ではなく10年とし、
「対弾道ミサイル防衛のすべての宇宙構成要素」を研究所に限定する。
戦略兵器を5年で50%削減し、10年で全廃する」

というものです。

そこでレーガンとゴルバチョフは、2つの異なる提案のうち、
どの兵器を対象とするかについて具体的に話し合いました。

レーガンは、すべての核兵器を廃絶してもかまわないと言ったそうですが、
この「核兵器のグローバルゼロ」といわれる提案は、
米ソ関係においてかつて前例のないものとなりました。

ゴルバチョフもレーガンに同意し、国務長官だったシュルツも

 "Let's do it."(やりましょう)

と言ったそうです。

やってます


そしてゴルバチョフとレーガンは中距離核戦力全廃条約・INF条約に調印。
1987年12月、ワシントンD.Cでのことです。



今更ですが、INFとはIntermediate-range Nuclear Forcesのことです。

これを受けて米ソ両国は配備していたミサイルを退役させ、撤去しました。

撤去されたミサイルは解体、ないしは破壊されましたが、15基のみ、
博物館への展示を目的に使用不能の状態で保有することが許されたので、
退役したミサイルの一部は博物館に寄贈されました。

というわけで、ここスミソニアン博物館とモスクワの航空博物館には
米ソ双方の政府から、退役したミサイルが寄贈され、
どちらの国立博物館にもパーシングIIとSS-20が並んで展示されています。



スミソニアンのSS-20とパーシングIIミサイル。
SS-20がパーシングIIに比べて太く長いのは、
SS-20の方がペイロードが多く、また射程がより長いためです。


条約の定めるところにより以下に示すミサイルは退役しました。
その後ミサイルは廃棄され解体、または破壊されましたが、
作業は検証の対象となり、ソビエトでの爆破によるミサイル破壊作業は
マスコミにも公開されたそうです。

アメリカ合衆国
  • MGM-31A パーシングIb
  • MGM-31B パーシングII
  • BGM-109 地上発射巡航ミサイル

    ソビエト連邦
    • R-12(SS-4 Sandal)
    • R-14(SS-5 Skean)
    • OTR-22(SS-12 スケールボード)
    • OTR-23 Oka(SS-23 スパイダー)
    • RSD-10 Pioner(SS-20 セイバー)
    • SSC-X-4 Slingshot - Kh-55(AS-15 Kent)
      空中発射巡航ミサイルの地上配備型

OKA(スパイダー)



最後のオカー廃棄に関する報告書に署名する米ソ担当者の図



また、スミソニアンでは、このような部品を見ることができます。

パーシングIIのロケットケーシングから排除された部分で、
楕円形のアクセスプレートには八つのネジ穴があります。



写真を失敗してよくわからないのですが、右側がその部品、



これはSS-20を破棄のため爆破した際残った部分です。


本条約はソビエト連邦が崩壊した後はロシア連邦に引き継がれましたが、
2010年代、ロシアは巡航ミサイルの開発を進めていたため、
アメリカは、これが条約違反に当たると指摘しています。

世界が感動したレーガンとゴルビーの努力も、喉元過ぎればというのか、
時間が経つとどちらの側にも条約違反がみられ、
条約を守らないことが対立の火種になるというスパイラルに陥りました。

さらにややこしいことに、この条約に参加していない中国が
ミサイル開発を推し進め始めたため、アメリカは2019年、
トランプ大統領政権下で本条約の破棄を表明することになりました。

ロシア連邦もこれを受けて条約の定める義務履行を停止し、
本条約は2019年に失効しました。



スミソニアンのこのコーナーには、ロナルド・レーガンの言葉、

「私とゴルバチョフの間の最初の手紙は、
我々の国の間のより良い関係だけでなく、
二人の人間同士の友情の基礎となるものの両側で
慎重に始まりを示したことを私は理解しています」


そして、ミハイル・ゴルバチョフのソ連政治局会議での言葉、

「世論で外の世界に印象を与える最大のステップは、
私たちがパッケージを解き、私たちの最も強力なミサイルを
1000発削減することに同意するかどうかにかかっている」


という言葉が並べられています。


続く。


ソ連のムーンショットは成功する可能性があったのか〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-06-12 | 歴史

「宇宙開発戦争」(Space Race)というテーマであるスミソニアン展示から、
これまで、まずは先んじたソ連のボストーク計画、
そして追いつけ追い越せのアメリカがマーキュリーとジェミニ計画で
着実にソ連の後を追ってきたところまで紹介しました。

今日は、ソ連の最後の頑張り?となった月探索計画についてです。


1958年から1976年まで、ソビエト連邦は、宇宙に自動探査機を送り込み、
月を周回、着陸させ、探査機を実際に歩かせることができました。

3機の探査機が月の土サンプルを採取し、地球に持ち帰ったこともあります。
しかし、ソ連は宇宙飛行士を月面に着陸させる、とは表明しませんでした。

アメリカが、ジョン・F・ケネディの目標で月に人を送る、と宣言しても、
ソ連はそれまでわかりやすくアメリカに勝つことに挑戦してきながら、
それでもその目標を言明することがなかったのです。

これはなぜだったのでしょうか。

徹底した秘密政策のため、それらがわかったのは冷戦終結後となりました。
そのとき、ソ連の月探査計画の実態もまた明らかになったのです。

新たに公開された日記、技術文書、宇宙機器などから、後世の人々は
ソ連の野心的な有人月探査計画の一端を垣間見ることになりました。

人類の月着陸を言明しなかったにもかかわらず、その資料の中には
月着陸のための宇宙服のプロトタイプなどが見つかったのです。

これは、ソビエト連邦が月着陸に本気で取り組んでいたことを意味します。

■ ミーシン日記



ソ連のトップ技術者だったセルゲイ・コロリョフが急死した後、
後任となったのは、実験設計局でコロリョフの副官であるロケット科学者、

ヴァシリー・パブロビッチ・ミーシン 
Vasily Pavlovich Mishin
 Васи́лий Па́влович Ми́шин (1917 – 2001)

でした。

コロリョフの下で彼は多くの宇宙プロジェクトを共に手掛けていたので、
1966年に彼が亡くなると、ところてん式に主任設計者に就任し、
ソ連の有人月探査計画の責任を引き継ぐことになったのです。

ミーシンは第二次世界大戦末期に、やはり
ナチスドイツのV-2施設を視察しています。

そして、コロリョフの副主任時代、ソ連初のICBMやスプートニク計画、
ボストーク計画にももちろん参加しています。

主任としてL1、N1-L3有人月探査計画、ソユーズ有人宇宙船、
サリュート宇宙ステーション、さらにMKBS軌道基地をはじめとする
いくつかの無名の計画の飛行試験段階において、同局を率いました。


コロリョフが大腸癌摘出手術中に死亡、つまり急死したので、
ミーシンがコロリョフ主導でやりかけていた開発を引き継いだのですが、
これは全体的に、ソ連の、とにかく世界初ならあとはどうでもいい的な、
拙速で人命を軽視した計画であったと言われています。

ソ連は、1961年にケネディの人類月着陸宣言が行われる前から、
アメリカに先んじることだけを目標に、人類の月着陸計画を進めました。

しかし、そのN1ロケットプログラムとは、
主に資金不足からなる致命的な欠陥をはらむものであり、
ミーシンはその負の遺産を引き継ぐ形で責任者となったのです。

全てに失敗したN1(エーヌ・アヂーン)計画

(横に倒してお見せしております)

N1の開発はミシンが指揮を執る10年前の1956年から始まっていました。
そのミッション目的は月着陸

しかし、コロリョフの下では、資金不足で適切な設備にお金が回らないため、
そして試験飛行を少しでも早く行うという目的のため、
通常の地上試験の多くを省くという、
どう考えても拙いんでないかい的な前例が始まっていました。

ミーシンはそんな状態のプロジェクトを引き継いだのですから、就任後、
技術的失敗に直面したとしても、必ずしも彼のせいではないともいえます。

ミーシンの名誉のために付け加えておくと、
彼が非常に優秀な技術者であったことに間違いはなく、
例えばエンジンの故障に対処するため、KORDシステムといって、
もしモーターが故障した場合、自動的に反対側のモーターを
ロケット基部で停止させて(バランスのため?)
自動計算によって欠けたモーターを補うと言う装置を導入したりしています。

このシステムは、1969年の最初のテスト飛行で早速正常に作動し、
配管が原因で火災が起きたにもかかわらず、大ごとになることを抑えました。

しかし、N-1ロケットは結局4回の試験打ち上げ全てに失敗しました。

その失敗は、全て引き継ぎが行われた段階で、ミーシンがもし
さらなる試験を行っていれば、回避できたかもしれないものでした。

ミーシン日記

さて、ここスミソニアンには、そのミーシンが
多忙な仕事の合間に残した日記が展示されています。

日記と言ってもこれらは1960年から1974年までにミーシンが残した
ソ連の宇宙開発における日々の動きと、決定されたことなどのメモ、
会議のメモ、To-Doリスト、プレゼンテーションのアウトライン、
そして技術的な計算メモなどで、完全な文章はほとんどありません。

メモなので略語も多く、原文はロシア語が読めても理解不能だそうですが、
略語の専門家による解釈が入った「完全版」が2015年に発行されています。

ちなみに解読チームはここまで漕ぎ着けるのに何年もかかっています。


それによると、ミーシン日記は、ソ連の宇宙開発をめぐる
多くの謎と論争に洞察を与えてくれるものだそうです。

また、これにより、ソユーズ有人軌道シリーズ、
ソユーズ・コンタクト・ドッキングシステム実験、月着陸船Ye-8、
ソユーズ-Sなど、不可解なプログラムの根拠が明らかになりました。

ここに経年劣化で破損しそうな手帳のページのコピーが展示されています。


この、1965年の記述で、ミーシンは、今後のソ連の宇宙活動は
設計局が主導的な役割を果たすであろう
とその根拠を要約しています。

そして、軍事衛星、宇宙ステーション、宇宙飛行機、
月での様々な活動について言及し、また、月への有人着陸に必要な道具、
地図、宇宙服などの品目、そしてそこで行う作業も数多く列挙しています。

ナンバーが項目ごとに振られていますね。


1967年、ボルシェビキ革命50周年記念のために計画された
宇宙開発の概要、月周回有人飛行とN-1の実験がリストアップされています。


1968年の日記で、ミーシンは3つの主要な宇宙飛行計画のため、
宇宙飛行士候補の名前をリストアップしています。

地球軌道、周回軌道、月着陸の3つの宇宙飛行計画の候補者には、
アレクセイ・レオーノフ、コンスタンチン・フェオクティストフ、
その他エンジニアやソビエト空軍のパイロットの名前が書かれていました。


このページは他のと違い、日記の体をなしているように見えます。
この1960年の時点で、ミーシンはこんな爆弾発言をしています。

「コロリョフは、月や火星への有人飛行を含む
長期的な科学的宇宙探査の基本計画を採択するための議論と、
政府の遅れに非常に
失望していた」

結局、ソ連が有人月探査を決定したのは、
アメリカが宇宙開発競争の究極の目標である月面着陸を実現した後でした。

その他、ミーシン日記にはこのようなことが書かれていました。

「我々はもはや、ソ連の有人周回飛行では、乗組員を着陸船と切り離して
別に打ち上げなければならなかったことは間違い無いだろう」

「ソ連の有人月面着陸は、N1スーパーブースターを2回打ち上げ、
2回目の打ち上げでホーミングビーコンを月面に着陸させ、
バックアップの月面着陸船も一緒に打ち上げるというものであっただろう」

果たしてその方法が可能だったのかどうか。

アメリカに初の月面着陸を奪われて以降、ソ連はその研究を中止したので、
それは永遠の謎となってしまいました。

ミーシンに対する評価

ミシンはロケット工学者としては優秀な人物でしたが、行政官、
リーダーとしては有能とはいえず、月面着陸計画の失敗の責任者とされます。

仕事のストレスのせいか、元々そうだったのかはわかりませんが、
アルコールを大量に摂取したため、それも非難される原因となりました。

ついにはソビエト首相のニキータ・フルシチョフが

「(彼は)彼の肩にかかっている何千人もの人々もの管理に対処する方法、
かけがえのない巨大な政府の機械(ロケットのこと?)を
なんとかして働かせるための方法を全く考えていない」

と詰るまでになります。

非難の声は現場からも上がりました。

1967年5月、ユーリ・ガガーリンとアレクセイ・レオノフは、
ミーシンの

「ソユーズ宇宙船とその運用の詳細に関する知識の低さ、
飛行や訓練活動において宇宙飛行士と協力することの欠如」


を批判し、ガガーリンにとってはこれが一番の理由だと思いますが、
確実に失敗すると分かっていたのに決行して、

ウラジーミル・コマロフが亡くなったソユーズ1号の事故

に関する公式報告書に彼の責任を書くべきだと言いました。


ソユーズ1号とその事故現場、そしてコマロフ

また、 レオーノフはミーシンについてこうも断罪しました。

「いつもためらっていて、やる気がなく、決断力に欠け、
リスクを取ることを過度に嫌がり、宇宙飛行士の管理が下手」

うーん、これは決定的にリーダーシップに欠けるってことですかね。

彼の任期中の失敗は、ソユーズ11号のコマロフの事故死以外には、
3つの宇宙ステーションの損失、
火星に送った4つの探査機のコンピュータ障害などがあります。


4回のN1テスト打ち上げがすべて失敗し、その責任を取らされる形で、
1974年5月15日、おりしも入院中だったミーシンは主任を解雇されました。
後任となったのは彼のライバルだったヴァレンティン・グルーシコでした。

その後、ミーシンはモスクワ航空研究所のロケット部長として
教育・研究を続け、宇宙開発における功績により、
社会主義労働英雄の称号を授与されています。

そして、2001年10月10日、モスクワで死去、享年84歳でした。



■ソ連の月着陸計画

さて、話をまだミーシンが主任だった頃に戻します。

コロリョフは在任中月面着陸のための宇宙船の設計にも着手していたので、
ミーシンが指揮をとるようになってからハードウエアの製作が引き継がれました。

ソ連は数種類の異なるプログラムを月探索のために立ち上げていました。
以下それを列記します。

【ルナ】 1959〜1976
各種自動軌道周回機、着陸機、土壌サンプルリターンカプセル


Luna2



【L-1/Zond】1965~1970
自動周回飛行、『有人月周回飛行』の試運転



2人の宇宙飛行士を乗せて月面を1周する有人宇宙船L-1は、
度重なる機器の故障により、クルーを乗せずに飛行しました。



しかし、有人月探査に必要な宇宙船と操縦方法をテストするため、
L-1の無人宇宙船がZond(プローブ)という名前で5回月面に飛んでいます。
1968年9月、ゾンド5号は初めて月を周回し、地球に帰還しました。

【ソユーズとコスモス】1966〜1969
月探査機とマヌーバをテストするための

地球軌道上での有人および自動ミッション

ソユーズ1号のコマロフ、ソユーズ11号では宇宙飛行士3名が酸欠で死亡

【ルノホード Lunokhod】1970~1973
 自動月探査機



1970年と1973年の2回のルナ・ミッションでは、
着陸地点周辺を歩き回るロボット探査機「ルノホード」が搭載されました。

乳母車じゃないよ

ルノホードは、写真撮影や岩石・土壌サンプルの分析など、
宇宙飛行士が月で行うのと同じような作業を行うことができました。

このようにソ連のロボット探査機は成功を収めていたのにもかかわらず、
アメリカの有人探査の影に隠れてしまいました。

【L3 】1968年末予定
「マン・オン・ザ・ムーン」実行されず


アメリカのに似ているような

有人月面着陸計画(L-3)は、軌道船と着陸船で構成されていました。
(ミーシン日記に書かれていた通り)
月着陸船のプロトタイプは、1970年と1971年に3回、コスモスという名前で、
乗員を乗せずに地球周回軌道上で実験に成功しています。




ソ連の月着陸船は、アポロ月着陸船の半分の大きさ、重さは3分の1でした。

月面に降り立つ宇宙飛行士は一名、
もう1人は月周回軌道に留まることを想定していたそうです。

しかし、度重なるロケットの不具合により、
有人飛行に至らず計画は中止されることになりました。



スミソニアンには、ソ連が開発していた月探査用の宇宙服があります。

「クレシェット(黄金の鷹)」と呼ばれるこの宇宙服は、
アポロの宇宙服とはいくつかの点で異なっています。

まず、バックパックの生命維持装置がドアのようにヒンジ式になっていて、
宇宙飛行士がスーツに足を踏み入れて着用する仕組みです。


展示されていない後ろから見たスーツ。
宇宙服というよりもはや人体用カプセル。

手足は柔軟に動かすことができますが、胴体は半剛体のシェルとなっており、
胸部のコントロールパネルは、使用しない時は折りたたんで収納できます。
そしてブーツは柔軟なレザー製。

ヘルメットはアポロのものと同じような感じで、
ゴールドコーティングされたアウターバイザーは、
明るい日差しから身を守ります。

生命維持装置のバックパックも同様で、酸素供給、スーツ内圧、
温度・湿度調整、通信のためのシステムが搭載されています。

同様の宇宙服を、ロシアの宇宙ステーション「ミール」で
外部活動する宇宙飛行士が使用しました。


しかし、ソ連が人類を月に打ち上げる日は来ませんでした。
月着陸船、月探査船、そしてこんな高性能な宇宙服まで持っていたのに。

それはなぜか。

彼らに欠落していた重要な部分は、ただ一つ。
有人宇宙船を月に送るのに十分協力で信頼性に足るロケットの存在
でした。

コロリョフが死なず、ミーシンが上に立たなければ、
あるいは共産党政府が資金をふんだんに出し、
目先の「初」にとらわれず、人命を重視した宇宙開発をしていれば、
結果はあるいは逆転していたのかもしれません。

誰もが考えずにいられませんが、所詮歴史に「もし」はないのです。


ちなみに1959年から1976年までにソビエトが打ち上げた
約60機の月探査機のうち、成功したのはわずか20機だったということです。



続く。


宇宙のトイレ事情(大変)〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-06-10 | 歴史

さて、当ブログ的にも画期的なシリーズとなった「宇宙のトイレ事情」。

前半では発射台でお漏らしをさせられたアラン・シェパードから、
NASAから渡されたラテックスの筒に行ったジョン・グレン、
そしてそれを踏襲したアポロ11号の月面着陸メンバーに至るまで、
歴代宇宙飛行士の「小事情」を「小編」としてお送りしました。

というわけで今日は「大編」となるのですが、
タイトルの「大変」は決して変換ミスではありません。

その実態を知ると、あえてこのように言い換えずにいられなくなったのです。

■ アメリカ宇宙飛行士と”袋”の関係



それまで見て見ぬふりをしていたNASAが、初めてその問題に取り組んだのは、
1960年台のジェミニ計画が始まってからのことです。

しかし、取り組んだと言っても、そのために最初に作られたのは、
宇宙飛行士のお尻に貼り付けるだけの「袋」でした。

そう、またしても袋です。

NASAというところは、この問題についてどうしてこう投げやりなのでしょうか。
もしかしたら君ら、エンジンの機能とかを考える人の方が、
快適なトイレを設計する人より偉いとか考えてないか?

そんなNASAが宇宙飛行士に課したミッションとは次のようなものでした。

「排便後、クルーは袋を密封し、液体の殺菌剤を中身に混ぜて練り、
望ましい程度の固形の安定化を図る必要がありました」

「望ましい安定状態」ってどんなのだよ!
「混ぜて練る」って宇宙飛行士に一体何させるんだよ!

これってあれですよね。
通常なら見るのもアレな自分の●を袋ごしにねるねるねるねろと。

しかしさすがのNASAも、これを当たり前と思ったわけではなかったらしく、

「この作業は著しく不快であり、膨大な時間を必要とするため、
低残渣食品と下剤が一般的に打ち上げ前に宇宙飛行士には使用されました。」

低残渣食品とは、泊まりがけのドックを経験した人ならご存知、
検査前日の夜に食べさせられるアレです。

流動食のように腸に長時間とどまらない食べ物で、
人間ドックで大腸の内視鏡を行う前の日は、昼夜食べさせられます。
その上で腸を空っぽにして搭乗するように推奨していたというあたりからも
いかにこのミッションが恥辱に満ち、不評だったかがわかります。
(まあ好評なわけないんですけど)

でも、・・・あれ?
マーキュリー計画時代、アラン・シェパードが打ち上げの日取った朝食は、

オレンジジュース、フィレステーキのベーコン巻き、スクランブルエッグ

というガッツリ高残渣が予想されるもので、ミッションが成功したため、
その後しばらく、宇宙飛行士たちは、飛行前にステーキと卵を取るのが
一種の「伝統」になっていたと聞きましたよ?

証拠写真。シェパードとジョン・グレン朝ご飯。



証拠写真もう一つ。奥、ガス・グリソム。
ジェミニ3の打ち上げ前です。
これもステーキとスクランブルドエッグがテーブルに並んでいます。



もう一つ。「伝統食」を前に、アポロ11号付き着陸メンバー。
左からニール・アームストロング、コリンズ、バズ・オルドリン。
(手前の人は知らん)

もしかしたら、歴代飛行士、袋を揉むという作業の不快さを甘く見て、
というか考えもせず、そんなことより出発前のステーキウエーイ!
って感じだったのか。

そして、案の定、
写真でステーキやら卵やらを平気で食っているアポロ11号のクルーには、
他のすべてのアポロミッションと同様に、
悪臭を放つ袋と格闘する運命が待っていたのです。

その過程はこうでした。

NASAの報告書によると、

「体内からあれを除去するための積極的な手段を提供するシステムがないため、
機内でのあれ収集は、極めて基本的なシステムに頼らざるを得なかった」

「使用された装置は、あれを捕らえるために
臀部にテープで固定されたビニール袋であった」



左下にあるのがその「袋」となります。
「Facial bag」と書かれているものですね。

この袋には、トイレットペーパーを入れるスペースがあり、
指をかけるカバーが内蔵されているので、
お尻に袋を乗せても清潔に保つことができました。(意味不明)

使用時にはどうするか。

その時は宇宙服の背中にある小さなフラップの中に袋をセットするのですが、
この作業は決して簡単ではありませんでした。
あるアポロの宇宙飛行士は、その準備に約45分かかったと推定しています。

それでも、このトイレ袋の仕掛けは完璧ではなく、事故も起こりました。


1969年5月のアポロ10号のミッション中、
宇宙飛行士のトム・スタッフォードがアラートを発声しました。

そのログは、NASAの公式記録に残されています。

「ナプキンを・・早く持ってきて!
空中にあれが浮いてる!」


左より:ユージン・サーナン、スタッフォード、ヤング

「それ」が誰のものだったかは今に至るまでわかっていないそうです。
ジョン・ヤング飛行士(右)は、

”I didn't do it. It ain't one of mine."
「俺じゃない。俺のものじゃない!」

と否定したとNASAの記録にはあるそうですが、のみならず、
この時3人とも全員が自分のじゃないとシラを切り続けました。

NASAのために言い訳するつもりは全くありませんが、どうしてNASAが
頑なに袋にこだわったかというと、それは検査のためでした。

人体の宇宙における生理的いろいろのデータを取るために、NASAは
宇宙飛行士がすべての排泄物を持ち帰ることを主張したのです。

そこでアポロ宇宙飛行士は用を足した後、報告書の詳細にあるように、
袋を密閉して「練り」、排泄物を安全に地球に戻すため、
殺菌剤を混ぜて、終わったら
よりによって食料品を入れる箱に入れて持ち帰りました。

しかし、もし、その練るという工程で少しでも手を抜くと、
袋の中でガスが発生し、袋が破裂して中身が漏れ出す
という大惨事が起こるのでした。

ジェミニ7号には、あの「アポロ13号」の船長も務めた
ジム・ラヴェルとフランク・ボーマンが乗っていましたが、
この事故で船内には復路の中身が飛び散りました。

しかし、どうしようもないので帰還まで1週間の間、
ただ我慢していたそうです。
ドライブと違って、そのくらいの事故では帰るわけにいきませんしね。

ちなみにこのラヴェル-ボーマンはアポロ8号でも悲劇に見舞われています。

ボーマンが宇宙酔と下痢で、上からも下からも液状のものを排出したため、
乗員3人は(特にやらかした本人のボーマンは)泣きながら掃除をしました。

この時、ラヴェルは、NASAの連中の「気の利かなさ」について、

「NASAの理系野郎たちは、
No.2に液体が存在しないと思っていたんじゃないか」

と皮肉っています。
ナンバーツーとはそれを婉曲に言うための隠語です。

さて、薬を混ぜて練られた後、袋は
「できるだけ小さく丸められて」保管されることはお話ししました。
そのやり方は、バックパッカーの掟、
「詰め込んで、詰め込む」という、マントラに忠実に。

現在、アポロ11号ミッションにおける5つの宇宙での
排泄物の完全なログが残されているそうですが、
この「完全なログ」の状態がどんなものかはどこにも記されていません。

しかし、当然のことながら、アポロ計画の最終トイレ報告書には、
「臭いの問題が絶えず存在した」と当然の結果が記されることになりました。

そして、このように結論づけられています。

「アポロの廃棄物管理システムは、
工学的見地からは満足のいくものであった。
しかし、クルーの受容性の観点からは、

システムには悪い評価を下さざるを得ない」

NASAの理系野郎たちにとってたとえ問題がなくとも、
現場の人たちには我慢できないものだった、と言っているわけですな。

宇宙で排泄することは、非常に気持ち悪く、時間もかかり、
済んだら済んだで臭いも耐え難く、何と言っても精神にきます。

そこで宇宙飛行士は打ち上げ前に下剤を服用したり、
腸の動きを遅くする薬に頼る人までいました。

早めるか遅めるか、という選択で、できるだけ現地での運用を避けたのです。
それだけこれは嫌な「仕事」だったということです。


■アポロ11号の場合

さて、打ち上げ前にガッツリステーキやら卵やらベーコン食ってた
アポロ11号のメンバーはどうだったでしょうか。
彼らは他のミッションと違い、月着陸を目標としています。

アポロ計画でそれまでは「袋」を着用していたと述べました。
が、月面で宇宙服を着たままでは、流石に
この袋で排泄物を受け止めることができません。

そこで、アポロの宇宙飛行士は、宇宙船を離れるときに

「fecal containment(封じ込め) system」

という、基本的にはおむつのようなものを身につけました。
これはNASAの誇る技術の粋を集めたもので、
吸収素材を何層にも重ねたアンダーショーツで構成されていました。

今なら高分子ポリマーとか、なんなといい素材ができていますが、
この頃の吸収素材がどの程度だったかはわかりません。

月面着陸をしたバズ・オルドリンとニール・アームストロングが
21時間36分の月滞在中にこの「システム」をフル活用したかどうかは
NASAの記録はわかりませんが、公式にははっきりしていません。

しかしバズは他の天体でNo.1をした最初の人間であると主張しています。
なんでも、月着陸40周年記念の講演会か何かで、彼は、

「外は地獄のように寂しかった」

といった後、こう付け加えたのだそうです。

「私は宇宙服の中でPをしたんです」

なぜそのセリフの後にそれが来る。


バズ・オルドリン(オムツ着用中)


1975年にアポロ計画が終了した後、無重力状態で「する」ための仕掛けは、
それ以来、少しずつではありますが、快適になっていきました。

少なくとも宇宙飛行士は、排泄物が周囲に浮かないように
「する」のが上手になりました。

そんなこと上手になってどうする。

■ 女性宇宙飛行士の場合

NASAで665日という記録的な宇宙滞在をした女性宇宙飛行士、
ペギー・ウィットソンは、
宇宙でのトイレは無重力空間中の行動で最も嫌いだと言っています。


最初のPキャッチャーをNASAはロールオンカフと呼んでいましたが、
この器具は、そもそも女性が使うようには設計されていませんでした。

いわゆる「袋の時代」を経て、1973年にNASAが
最初の宇宙ステーションであるスカイラブを建設したとき、
何カ月も宇宙で生活することになる宇宙飛行士のためには
いよいよ本当のトイレが必要になってきました。

スカイラブは1973年と1974年に3回の有人宇宙飛行を支援し、
最後の最長ミッションは84日間にものぼりました。

スカイラブの宇宙飛行士の「トイレ」は、基本的に壁に穴が開いていて、
扇風機と袋が接続されているというものです。

スカイラブに搭乗した男性は、排泄した後、排泄物を熱で真空乾燥させ、
廃棄物タンクに捨てたり、研究したりしなければなりませんでした。

そして、スペースシャトル時代の到来とともに、
宇宙での女性(とトイレ!)の活躍も始まったのです。

女性宇宙飛行士が打ち上げ時や宇宙遊泳時にトイレができるように、
NASAは使い捨て吸収式コンテナトランクを作りました。

開口部の幅は4インチ以下で、通常のトイレの穴の4分の1程度の大きさです。
そのため、宇宙飛行士はまず地上でトイレの訓練を受けなければならず、
また、特殊なシート下カメラを使って狙いを定める試験も行われました。

トイレに紙を入れることは許されず、それは別に捨てなければなりません。

マイク・マシミーノ宇宙飛行士は、宇宙トイレに座るときを
このように表現しています。

「まるでチョッパーバイクに乗っているような姿勢になるので、
地上では大腿部の拘束具を使って壁に貼りつきました。
宇宙で『イージー・ライダー』のピーター・フォンダになった気分です」

と。

いつしか時代は変わりました。
宇宙飛行士は袋を揉むミッションから解放されました。

宇宙飛行士が用を足した後廃棄物は、ビニール袋に入れられ、
最終的には地球に向かって疾走する間に燃え尽きてしまうのです。

しかも、それはサステイナブルなリサイクルまで可能となりました。

現在、ISSのトイレはかなり効率的に尿を回収することができ、
約80~85%がリサイクルされて宇宙飛行士の飲み水になります。

自給自足というわけです。

また、宇宙飛行士は、宇宙遊泳時や打ち上げ・着陸時、
また男女の宇宙飛行士が同空間?で宇宙遊泳をする場合には
吸水速乾性ガーメント(オムツですね)を使用し、配慮します。

■これからの宇宙トイレ問題

2017年、NASAは宇宙飛行士が(例えば火星へのミッションのように)
何日も宇宙服に拘束された場合に起こりうる問題を解決するために
「Space Poop Challenge」を立ち上げました。

NASAは民間に問題を丸投げする作戦に出たのです。

最優秀賞の15,000ドルを獲得したサッチャー・カードン博士のシステムは、
宇宙服や衣服の股間にある小さなアクセスポートを使い、
そこに付けた沢山のバッグやチューブから排泄物を逐一回収するもの。

この発明は、飛行士が宇宙服を脱がずに下着を交換するのにも役立つでしょう。

サッチャー・カードン博士は空軍将校、家庭医、航空外科医でもあり、
同じ設計コンセプトで、体の他の部位にも緊急手術が可能だと述べています。

「へその真上にこのようなポートをつければ、
腹部の手術ができるようになるかもしれません。

宇宙飛行士が宇宙で小惑星の採掘のような外傷を伴う状況になった場合、
そのポートが命を救うという場面もあるはずです。」

■ ミールの宇宙トイレ

ミール宇宙ステーション、女性型汚物処理装置

さて、そこでスミソニアンの展示です。



アルミニウム製の大型タンクにキャップを取り付け、
ゴム製とプラスチック製の2本のホースを、
グレーのラッカー仕上げの台座に取り付けています。


1986年から2001年までの地球軌道で、ミールは
長らく運用されていた宇宙ステーションでした。

ミールユニットには、宇宙ステーションの
主調な廃棄物処理タンクに接続するチューブがあります。

このトイレには女性用アタッチメントが取り付けられています。


つい最近、日本の富豪が宇宙飛行を経験していましたが、
そこでの生活は、少なくともトイレとかお風呂に関する限り、
リッツ・カールトンのように快適とではなかったことは想像できます。

時代を経て進化したとはいえ、最後はオムツ頼み。
これが現在の限界なのです。

1975年にNASAがぼやいたように、その問題は
宇宙と関わる人間にとって、最後まで完璧には解決できないかもしれません。

もうこれは仕方がないかな。


続く。



フォン・ブラウンとセルゲイ・コロリョフの「手品師の杖」〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-05-08 | 歴史

米ソの宇宙開発では、多くの組織で何十万人もの人が働いていました。

どちらの側にも多くの優秀なエンジニア、有能な管理者、
そして「ドリーマー(夢見る人)」がおそらくはたくさんいましたが、
二カ国のそれぞれの頂点に立って、重要な技術的、
管理的役割を果たした二人の人物のキャリアには、
この両大国における違いのいくつかが物語られていると言えます。

アメリカ側に君臨したのは、チーフデザイナーとして実力もあり世評が高く、
アメリカの一般社会で大変よく知られた人物でありましたが、
方や、秘密主義のベールで覆われたソ連側の人物については、
その情報の多くが彼の死後まで公にされることはありませんでした。

今日は、「宇宙開発競争のライバル(Competitors)」というタイトルで
フォン・ブラウンとセルゲイ・コロリョフについてお話しします。

■ ヴェルナー・フォン・ブラウン



「ミサイル・マン・フォン・ブラウン」

などとタイムの表紙で呼ばわれております。
サー・エルトン・ジョンかな?・・あれはロケット・マンか。

陸海軍が別々に宇宙開発(というかミサイル開発ですね)を行なっていたため、
要するにこんなことだからソ連にスプートニクられたんと違うんかい、
と考え、反省したアメリカは、三軍の垣根を取り払った宇宙開発組織、
NASAを立ち上げたわけですが、その創立直後、
ドイツ出身の科学者ヴェルナー・フォン・ブラウン率いる
陸軍の弾道ミサイル研究所は、民間の宇宙開発組織になり、
そして1960年にはNASAの一部として、アラバマ州のハンツビルにある
マーシャル宇宙航空センターの中核をなすことになりました。

1970年まで、フォン・ブラウンはマーシャルセンターの初代所長として
アメリカの月ロケットである巨大なサターンVを含む、
ロケットとロケットエンジンの開発を担当しました。

フォン・ブラウンは宇宙探査開発研究の熱心な支持者でした。

1950年代、それは世界中の人の関心が宇宙に向けられつつあった頃ですが、
彼はこの頃将来必ず訪れるであろう宇宙時代を描いた一連の雑誌記事、
そしてテレビ番組に出演し、その存在は有名になります。

Disneyland 1955 - Man in Space - Wernher von Braun

途中からフォン・ブラウン(英語ではフォンではなく”ヴォン”と発音する)博士の
解説が始まりますが、さすがドイツ人、英語がわかりやすい(笑)
英語の字幕をつけるとさらにわかりやすくなりますのでお試しください。

【初期の人生】

ヴェルナー・フォン・ブラウンは1912年3月23日、
当時のドイツ帝国の小さな町ヴィルジッツで生まれました。

政治家だった父も、母も中世ヨーロッパの王族を祖先とする貴族で、
父の名前には「フライヘア」という称号がついています。

彼のバイオグラフィを見ていて、当ブログ的に大いに驚き興味深かったのは、

フォン・ブラウンはチェロとピアノを習い、作曲家志望で
パウル・ヒンデミットから直接レッスンを受けていた


という事実でした。

「ヒンデミット:シェーンベルクらの無調音楽に対しては、
自然倍音の正当性を守る立場から否定的で
教育も一風変わっておりヴィルヘルム・マーラー式和音記号を採用せず、
数字付き低音の正当性を主張したドイツ人作曲家」

の薫陶を受けたフォン・ブラウンの現存する曲の作風は、
どうしてもヒンデミットに似ているんだそうです。

うーむ、聴いてみたいぞこれは。

探してみたら物好きな人が彼の曲をCDにしているのが見つかりましたが、
再生できないようになっていました。

代わりに?ミュージックコメディアンが歌う
「ヴェルナー・フォン・ブラウンの歌」が見つかりました。

Tom Lehrer - Wernher von Braun


忠誠心が便宜によって支配されている男
偽善者というよりむしろ政治的だと呼んでくれ


だそうです。(適当)

学校時代決して数学の天才とかではなかったようですが、
宇宙に興味を持ち出した彼は物理学と数学に専念し、
ロケット工学への関心を追求し始めました。

そのきっかけは、少年時代に読んだSF作家の作品だったようです。
好きが高じて微積分と三角法をマスターし、
早いうちからロケットの物理学を理解していたとか。

ベルリン工科大学で機械工学を学んだ彼は、留学して物理学で博士号を取得し、
さらに大型で高性能のロケットを作るという夢を膨らませていきました。

ある日、高高度気球飛行のパイオニアであるオーギュスト・ピカール
講演を行ったとき、若い学生だったフォン・ブラウンが近づき、

「あの、僕いつか月に行こうと思ってるんですよねー」

と言ったそうです。
ピカールは、お、おう・・・となりましたが、とりあえず
この無謀な夢想家らしい若者を励ましたということです。

そんな彼が選んだ就職先とはドイツ軍。

そこで液体燃料ロケットの開発に携わることになったのでした。
陸軍での研究をもとに、フォン・ブラウンは物理学の博士号を取得しました。

【V2ロケット開発】


どうしてこうなった。

V -2の研究施設があったペーネミューデで、
ナチスの偉い人たちに囲まれるフォン・ブラウン。

ここで何度となく話していますが、大陸間弾道ミサイルや
宇宙ロケットの前身であるV2弾道ミサイルは、
フォン・ブラウンのロケットチームが中心になって開発したものです。

ここでちょっと面白い?話を一つ。

ベルサイユ条約で武器開発に制限が設けられたドイツですが、
この時禁じられた兵器開発のリストにロケット工学が含まれていなかったのです。
フォン・ブラウン自身、この「不思議な見落とし」のおかげで
ロケット科学者としてのキャリアを積むことができた、と感謝していたという。

まあ、それを取り決める担当者が時代を読めなかったってことですね。


V-2は、弾頭を200マイル離れた目標に打ち込むことができるミサイルです。

Vは「報復」を意味する「Vergeltungswaffeヴェルゲルトングスヴァッフェ」
の頭文字で、宣伝省のヨーゼフ・ゲッベルス閣下直々の命名だったとか。

目標はとりあえずイギリスとベルギーで、100機製造されましたが、
誘導システムの精度が低く、確たる戦果を上げることはできなかったようです。

この時期フォン・ブラウンはゲシュタポに逮捕されていますが、
その理由は、彼がヒトラーのことを

「チャップリンの口髭をつけた尊大な愚か者」
「全く良心のない、自分を唯一の神と考える無神論者」
「もうひとりのナポレオン」

と断じていたのがバレたから・・・・では、勿論ありません。

フォン・ブラウンは後年、こういった「ナチス・ディス」を盛んに行い、
ヒムラーにSSに誘われて入ったが、制服を着て写真に写ったのは一度きりで
言うたらコスプレみたいなもの、階級も便宜上と言い訳をしたそうですが、
実際は公式の会合には毎回制服で出席していたし、
少尉任官後、きっちり少佐にまで昇進もしていますし、
V-2ロケットの収容所囚人労働のことも、

「いかなる死や殴打も個人的に目撃したことはない」

と断言していながら、囚人への残虐行為を黙認どころか、
なんなら囚人に鞭打ちをさせていたこともある、などと証言されており、
後からなかなかツッコミどころ満載な話がボロボロ出てきているんだとか。

まあしかし、保身上の理由から彼がナチス時代そのものを否定したとしても
アメリカ人にフォン・ブラウンの嘘?を責める資格はないと思います。

ナチスとの関わりを全て知った上で、技術と頭脳欲しさに
西側に引っ張ってきたのは、他ならぬアメリカだったのですから。

上のYouTubeのコメントにもこんな皮肉がありますよ。

"Are you a Nazi?"
"Yes"
"Were you part of the leadership that sent millions of innocent men, 

women and children to their deaths?"
"Yes"
"Do you know anything about rockets?"
"Yes"

"Well that's alright then; welcome to America!"



さて、フォン・ブラウンが逮捕された話に戻ります。

V2計画を含むすべてのドイツの軍備計画を支配しようと企てたヒムラーが、
技術の問題解決協力を餌にフォン・ブラウンを抱き込もうとしたところ、
彼はV2の問題は技術的なものなのでそれには及ばない、と断りました。

その後彼はSDの監視下に置かれていましたが、ある日の同僚との会話で、
武器開発でなく宇宙船の開発がしたい、などと言っていたこと、さらに
戦争がうまくいっていない、と「敗北主義」的態度を取ったことを、
SSのスパイであった若い女性歯科医に報告されてしまうのです。

それから共産主義者のシンパっぽいとか、政府支給の飛行機を定期的に操縦し、
いつでもイギリスに逃げる準備をしていると疑われ、ゲシュタポに逮捕されました。

彼はなぜ自分が勾留されたのか全く知らされないまま独房で2週間過ごしましたが、
当時の軍需・戦争生産省大臣だったアルベルト・シュペーア
彼が研究に不可欠であることをヒトラーに認めさせ、放免となりました。

ちなみに彼のSSでのキャリアは次の通り。

  • SS 番号: 185,068
  • ナチス党員番号: 5,738,692
階級
  • SS-Anwärter:  1933 (候補生、SS騎馬隊?)
  • SS-Mann:  1934 (上等兵)
  • SS-Untersturmführer:  1940 (中尉 Second Lieutenant)
  • SS-Obersturmführer: 1941 (大尉 First Lieutenant)
  • SS-Hauptsturmführer: 1942 (大佐 Captain)
  • SS-Sturmbannführer:  1943 (少佐 Major)

【アメリカでのキャリア】

1944年末には、ドイツが破壊され占領されることは明白となり、
フォン・ブラウンは戦後の計画を立て始めました。

連合国がV-2ロケット施設を占領する前に、フォン・ブラウンは南下し、
そこで他の主要なチームリーダーとともにアメリカに降伏したのでした。

ペーパークリップ計画と呼ばれる軍事作戦の一環として、
彼と125人の初期グループがアメリカに送られたという話もしましたね。

彼らがアメリカで当初どういう待遇を受けたかについてはあまり語られませんが、
とにかくアメリカの料理の不味さ?には参ったようです。
物資不足のドイツでしたが、ペーネミュンデでは特別扱いだったため、
そんな彼らにとってアメリカの「ゴム引きの鶏」は耐え難いものでした。

しかも引っ張ってきておいて、アメリカではフォン・ブラウンは
工学部を卒業したというだけの26歳の陸軍少佐の下で、
「ウェルナー」呼ばわりされて研究など何もさせてもらえない始末。

その後、ドイツからV2実物が送られてきて、ようやく彼の出番となります。
この時も、彼らは一種の軟禁状態で、軍の護衛なしに
実験場敷地を出ることができなかったため、彼らは自分達のことを

「PoPs=Prisnors of Peace(平和下の捕虜)」

と自嘲していました。

そのうちアメリカをスプートニクショックが見舞うと、
ようやくアメリカは、「ペーパークリップ作戦」なんてのを発動して
苦労してかき集めてきたはずのドイツからの頭脳を、
持ち腐れさせていたことに気づくのです。

1960年、陸軍のレッドストーン工廠にあったロケット開発センターが
フォン・ブラウンごと新設のアメリカ航空宇宙局(NASA)に移管されました。

NASA創設は、つまりフォン・ブラウンをはじめとするドイツ人の
「再利用」を意味し、その主な目的は、巨大なサターンロケットの開発でした。

NASAのマーシャル宇宙飛行センターの所長となったフォン・ブラウンは、
人類を月に送り込むサターンVロケットの設計責任者となるのです。

その後のマーシャル宇宙飛行センターでは、初の宇宙飛行士アラン・シェパードを
軌道下飛行させるためのロケット、レッドストーン・マーキュリーの開発を行い、
シェパードの飛行が成功するや否や、ジョン・F・ケネディ大統領は、
「10年後までに人類を月へ送る」という目標をぶち上げました。

そして、1969年7月20日、人類初の月面着陸成功により、
アポロ11号は、ケネディ大統領のミッションと
ヴェルナー・フォン・ブラウン博士の生涯の夢の両方を達成したのです。



■セルゲイ・コロリョフ


Sergey Pavlovich Korolyov (Сергей Павлович Королёв)

1930年代、ロシアのエンジニア兼飛行士であったセルゲイ・コロリョフは、
モスクワを拠点とする愛好家のグループであるGIRDを率い、
ソビエト連邦初の液体推進剤ロケットを製造してテストしました。

第二次世界大戦後、コロリョフはソ連のミサイル開発設計局のトップに任命され、
1975年までに彼はそこでR-7を建造して打ち上げました。
それは、スプートニク号を地球軌道に乗せ、
ルナ宇宙船を月に向けて推進させるために使用された、
史上初の運用可能な大陸間弾道ミサイルでした。

コロリョフの残した偉大な功績は、ボストークとソユーズの有人宇宙船
さまざまな弾道ミサイルとロケット、ゼニット(Zenit)偵察衛星
モルニヤ(Molniya)通信衛星有人月面宇宙船などです。

コロリョフが指揮した設計局は、その後進化し、
エネルギア・ロケット&スペースコーポレーション、(RSC Energia)
として、現在も活動しています。

【初期の人生】


10代の頃。あらイケメン

ロシア軍人の父と裕福な商人の娘である母の元に1907年生まれたコロリョフは、
幼い頃は両親が離婚するなど、なかなか複雑な環境で育ったせいか、
頑固で粘着質、口が達者で友達が少なく、いわゆる陰キャのぼっちだったそうです。

勉強ができ、教師からは好かれたので、同級生から嫉妬されたという説もあります。

建築職業学校で大工の職業訓練を受けていた頃、航空ショーを見て、
航空工学に興味を持つようになったコロリョフは、勉強の傍ら、
気晴らしに独学でグライダーの設計を始め、自分でも乗っていました。

1924年にキエフ工科大学航空分校に入学したころ、彼は
グライダーで墜落し、肋骨を折る大怪我をしています。

ちなみに指導教官はあのアンドレイ・ツポレフだったということです。

【初期のキャリア】

卒業後は実験課航空機設計局 OPO-4 でソ連の優秀な設計者と共に働き、
1930年、ツポレフTB-3重爆撃機の主任技師として働きながら、
液体燃料ロケットエンジンの可能性に興味を持つようになります。

パイロット免許を取得したコロリョフは、自分の操縦する飛行機の
高度限界の先には何があるのか、どうすればそこに到達できるのか、
その限界を探っていたのです。

これが彼の宇宙への興味の始まりであったと考えられています。


1931年。
コロリョフはソビエト連邦で最も早く国営ロケット開発センターとなった
反応運動研究グループ (GIRD) の設立に参画し、
そこで3種類の推進システムを開発し、それぞれ成功を収めました。

1933年にソ連で初めて液体燃料ロケットGIRD-Xを打ち上げます。

コロリョフはその後 ジェット戦闘機、巡航ミサイル、そして
乗員付きロケットエンジン搭載のグライダーの開発を指揮しました。

ちなみにコロリョフの奥さんも科学者で、最初の彼のプロポーズを
勉強に多忙という理由で断ったそうですが、コロリョフは
その後めげずにトライして結婚に漕ぎ着けています。
ちなみにこの奥さん、子供ができた後も、夫とは全く別に研究者として
バリバリキャリアを積んでいたそうです。

コロリョフも優秀なエンジニアリングのプロジェクト・マネージャーでした。

部下に対する要求は高く、勤勉で、規律正しい管理スタイルを持ち、
最初から最後まで自分の責任で作業を監視し、細部にまで細心の注意を払う。
実にカリスマ性のあるリーダーとして各方面からの信頼を集めていました。

しかし・・・・。

【逮捕・収監】


なんと、戦後の米ソ宇宙技術者のトップは、かつてどちらも
祖国の手で逮捕される経験をしていました。

コロリョフの逮捕は、ソ連を席巻した「大粛清」によるものです。

コロリョフは研究所の仕事を故意に遅らせたという疑いで逮捕され、
拷問を受け、裁判にかけられて死刑の判決を受けました。

しかしこれは表向きの嫌疑で、逮捕された本当の理由は、
ロケット研究所の専門家同士の技術的な齟齬からくるものでした。

どういうことかというと、当時国内で
多連装ロケットを推していた専門家筋が計画した
弾道ミサイル派に対する粛清と言われているのです。

この説が本当なら、中世の魔女裁判のように、大粛清というパージを利用して
自分の対立するグループを消そうとする計略にかかったということですね。

何人かの同僚が処刑された後、コロリョフはシベリア極東の収容所にやられ、
金鉱で労働をさせられる身分になりました。
収監中は心臓発作を起こし怪我を負い、壊血病で歯の大部分を失う、
という壮絶な目に遭いながらも、労働収容所にあった
昔の恩師であるツポレフの技術施設で働き、なんとか生き延びます。

彼に対する「容疑」が最終的に晴れたのは1957年のことです。
これはとってもおそロシア。


その後の人生で、コロリョフは収容所での体験をほとんど語りませんでした。

自分が知る軍事機密のために処刑される恐怖に晒され続ける日々。
長かった収容所での生活は、彼を極端に控えめで慎重な性格に変えました。

後にコロリョフは、自分を告発したのが設計局の局長だったことを知ります。

それを知ったとき、彼はその局長の下の副設計長として
一緒にロケットの設計を行なっていたのだそうですが、
コロリョフがそれを知ってどうしたかはわかっていません。




【弾道ミサイル】


左:コロリョフ

戦争が終わると、コロリョフはドイツのV-2ロケットの技術回収のため、
他の多くの専門家とともにドイツに連行されています。

ソ連とアメリカとの間に「ドイツの技術争奪戦」が起こったわけですが、
ソ連は2000人以上のドイツの科学者と技術者を確保しました。

スターリンはロケットとミサイルの開発を国家の優先事項とし、
コロリョフは特別設計局の長距離ミサイルの主任設計者に任命されました。

彼らはV-2ロケットを分解して作った設計図をもとにレプリカを製作し、
R-1ロケットとしてとテストを行いましたが、このテストでは
11発のうち5発しか目標に命中せず、V-2の信頼性の低さが証明されました。

ちなみにコロリョフ自身は、ドイツ人専門家と仕事をすることを拒否し、
実際に会うことさえしようとしなかったそうです。

2年後、コロリョフのチームはR-2をV-2の射程の2倍にし、
独立した弾頭を利用して、計算上イギリスを射程に入れることに成功します。

その後、世界初の本格的な

大陸間弾道ミサイル(ICBM)セミョールカ 
(Семёрка, Semyorka)-7

を開発しました。

【宇宙開発】

コロリョフは、ICBMとして設計されているロケットの軌道上に
R-7で人工衛星を宇宙に上げる提案をしましたが、共産党に却下されます。

宇宙開発?なにそれ美味しいの?
そんなことよりアメリカにミサイルぶち込む方が先だろうが!みたいな?

そこでコロリョフらは、一計を案じました。

まず、ソ連の新聞に宇宙計画について派手に書かせ、餌を撒き、
それにアメリカの新聞が食いつけばアメリカ当局は興味を示すはず。

目論見通り、アメリカがソ連に触発されて衛星を上げることを思いつき、
予算獲得のために議会で騒ぎだしたのを確認すると、
コロリョフらはおもむろに共産党にこう提案します。

「アメリカより先に衛星を打ち上げることが国際的な威信につながる」

そしてまんまとプロジェクトを承認させることに成功しました。

策士やのう。

ところで、どうしてこの頃の宇宙開発戦争でソ連が圧勝だったかですが、
こんな説もあります。

アメリカは、当初、宇宙事業技術者の血筋にこだわって、
「100%アメリカ人」であることを優先し、
最も「近道」であるはずのフォン・ブラウンを
意図的に設計の根幹から遠ざけ、宇宙飛行学の講義をさせたり、
ウォルト・ディズニーと遊ばせたりしていたので、
ロケット設計作業をスピード優先でやってのけたコロリョフに勝てなかった。


わたしはかなりこれは正しいと思います。

現に、フォン・ブラウンらが関わるようになってから、アメリカはじわじわと
ソ連に追いつき、最後についに月面着陸で追い抜いたのですから。

さて、コロリョフがスピード優先で自ら慌ただしく組み立てを管理し、
わずか1ヶ月で完成したビーチボールほどの大きさの金属の球体、
スプートニク1号は、無事に完成し、1957年10月4日、
史上初めての衛星として宇宙へ飛び立ちました。

この快挙に対する国際的な反応はかつてないほど衝撃的であり、
政治的な影響は数十年にわたり続いたとされています。

コロリョフは実用宇宙工学の父と称されています。

この後、スプートニク2号による犬のライカの打ち上げ、
続くスプートニクとボストーク計画の初期の成功を監督し、
1961年、ガガーリンの人類初の地球周回ミッションを成功させました。


しかしコロリョフの人生の最後は壮絶なものでした。

コロリョフはシベリアでの収容所生活の間に体(特に腎臓)を悪くしており、
これ以上仕事をしたら死ぬと医師からも忠告されていましたが、
休むことなく無理をし続けました、

その理由は、彼はフルシチョフが真に宇宙開発の意義を理解しておらず、
大掛かりな宣伝としか考えていないことを知り尽くしており、
もしソ連がアメリカに主導権を奪われ始めたら、
宇宙開発を完全に中止するだろうと恐れていたからと言われています。

腸の出血で入院、心臓の不整脈、胆嚢の炎症と彼の体はボロボロでした。
さらに重なる仕事のプレッシャーから疲労が蓄積し、また、
大音量のロケットエンジン実験に何度も立ち合い難聴にもなっていました。

コロリョフは突然死去しましたが、死因は明らかにされませんでした。

大腸の出血性ポリープの切除手術中出血し、挿管を行おうとするも、
収容所時代に痛めた顎のせいで呼吸チューブの取り付けに支障をきたし、
このせいで亡くなった、と推測されているそうです。

合掌。

しかも、スターリンの政策により、コロリョフの存在は世間から隠され、
ソ連国民は彼の功績を死後まで知ることはありませんでした。


■手品師の杖

コロリョフとヴェルナー・フォン・ブラウンは、
宇宙開発競争の立役者としてしばしば比較されます。

フォン・ブラウンもそうでしたが、コロリョフはソ連国内において
月への飛行計画を持つライバルと絶えず競争しなければなりませんでした。

しかもアメリカに渡ったフォン・ブラウンとは異なり、彼はまた、
特に電子機器やコンピュータなどの多くの面でアメリカに立ち遅れた技術で
仕事をしなければならず、また極度の政治的圧力に耐え続けていました。



コロリョフ死後の後任は、彼の右腕として活躍した優秀なエンジニア、
ヴァシリー・ミーシンVasily Pavlovich Mishin
 (Russian: Васи́лий Па́влович Ми́шин) (1917 – 2001)
でした。

設計責任者ととして欠陥だらけのN1ロケット計画を受け継ぎますが、
1972年、打ち上げに失敗して解雇され、
ライバルのグルーシコに任務を譲り渡すことになります。

しかもその頃、アメリカがすでに月へ到達するという目的を達したため、
白けた?ブレジネフ書記長によって宇宙計画は中止されてしまいました。

政治のトップは変わっていましたが、アメリカが先を越したら
ソ連は宇宙開発に興味を失うだろうというコロリョフの予言は当たりました。





スミソニアンには、二人の名前とそれぞれの計算尺が展示されています。

まず、上のがフォン・ブラウンのもので、下のがコロリョフの
「スライド・ルール」であると説明されています。

フォン・ブラウンのは勿論ですが、コロリョフのものもドイツ製です。
コロリョフを知る人たちは、この計算尺のことを

「The Magician's Wand」(手品師の杖)

と呼んでいました。



フォン・ブラウンは、共にV2を開発したドイツのロケット工学者、
ヘルマン・オベルト(Herumann Oberth)から大きな影響を受けています。

実験中の爆発で右目を失ったというこの科学者について、彼は、

「ヘルマン・オベルトは、宇宙船の可能性について考えるとき、
スライド・ルーラー(計算尺)を手に取り、数学的に分析した
コンセプトとデザインを提示した最初の人でした。


私自身、彼のおかげで人生の道標ができただけでなく、
ロケット工学や宇宙旅行の理論と実践に初めて触れることができたのです。
科学と技術の歴史において、宇宙工学の分野における
彼の画期的な貢献に対して名誉ある地位が確保されるべきです」

と語っています。

続く。



「赤は言う 次は月だ」 スプートニク・ショック〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-05-02 | 歴史

このブログを始めて以来、何度かこの言葉を必要上挙げてきました。

「スプートニク・ショック」

米ソが宇宙開発競争に入ったのは、宇宙ロケット開発に必要な技術が
イコール最終武器となるミサイルであり、戦後の東西2大国となった米ソが
互いの軍事バランスを保ちながら相手より少しでも先んじようとしたからでした。

それまでなんの根拠なく自国の優位性を信じて疑わなかったアメリカが
天狗の鼻をへし折られ、実は周回遅れというくらいこの方面において
ソ連に引き離されていると知った事件、それがスプートニク打ち上げだったのです。

今日はスミソニアンの展示から、スプートニク・ショックに始まる
アメリカの挫折と、ソ連への挑戦についてお話しします。

まず、冒頭のパネルには、

SPUTNIK!

という!付きの一言がタイトルになった記事があります。
この一言だけで、アメリカ国民の当時のショックが如何なものか、
今の人たちにも十分に伝わるということなのでしょう。

その下の「First Satellite」は、もちろんスプートニクが人類初めての
人工衛星であったことを意味します。

ところで、皆様は、その後しばらくアメリカのトラウマともなった
スプートニクとは、どんなものだと考えておられましたか?
衝撃の大きさの割に、その実寸はあまりにも小さなものでした。

「1957年10月4日。
ソビエト連邦は、スプートニク衛星の打ち上げで世界を驚かせました。
無線送信機を含む光沢のある
バスケットボールサイズの球体であるスプートニクは、
まさに宇宙時代の始まりを告げるものとなったのです」

「バスケットボールと同じ大きさ」ですよ。
わたしもこの事実を知ったとき、思わず嘘でしょ、と声に出してしまいました。

■スプートニク



スプートニク(Спутник、ロシア語で『衛星』の意)は、
ソ連の宇宙開発計画で打ち上げられた宇宙船です。

18世紀からあった言葉で、接頭辞s-は「共に」、「旅人」のputnikで
「仲間の旅人」を意味し、英語の「衛星」の起源である
ラテン語の語源satelles(「護衛、従者、仲間」)に対応する意味を持つので、
これ以降、『衛星』『人工衛星』という意味になりました。
それ以前は衛星という物体がなかったんですから、名前もなかったんですね。

スプートニク1号はソ連の宇宙計画の一環として、地球低軌道に打ち上げられ、
電池が切れるまで3週間ほど軌道を周回し、1958年1月4日、
大気圏に突入するまでの2ヶ月間、地球を静かに周回していました。


形状は直径58cmの磨き上げられた金属製の球体で、
4つの外部無線アンテナを持ち、無線パルスを発信します。
電波信号はアマチュア無線家に容易に探知され、傾斜角65°の軌道の長さにより、
飛行経路は人が住む地球全体をほぼカバーしていました。


この衛星の予期せぬ成功は、アメリカの「スプートニク危機」(クライシス)
を引き起こし、冷戦の一環である宇宙開発競争の引き金となります。

■スプートニク・クライシス(危機)


1957年10月13日、日曜日のニューヨークタイムズに掲載された戯画です。
窓の外を通過するスプートニクがけたたましく鳴らす警報に
眠りから叩き起こされた老人がこう言っています。

「起きたぞ。やっとな!」

さて、この爺さんは一体誰なのでしょうか。
どうもあの「君が必要だ」の「アンクル・サム」(U.Sでアメリカの擬人化)
みたいな気がするのですが、ベッドのヘッドボードを見るとこう書いてあります。

「complacence」

コンプラセンスとは、自己満足とか独りよがり、そんな時に抱く気持ちのことです。

アンクル・サムがスプートニクに警鐘を鳴らされて飛び起きた寝床は、
アメリカ合衆国がこれまで甘んじてきた我こそ世界一の科学技術大国、
という「自己満足」に過ぎなかっただろう、とNYTは言っておるわけですな。


このパネルに、「マイルストーンコーナーにスプートニクのレプリカがある」
と書いてあったので、慌てて写真を全部調べて見たら、
なんとか小さく写っていたのが一つだけ見つかりました。

こりゃ普通に見ていたら気づかないわ・・・。



ロスアンジェルスタイムズ。
一面全部をスプートニクのニュースに上げています。
ヘッドラインは、

「ロシアが史上初の地球衛星を560マイルの空に打ち上げる」



カナダのデンバーポスト。
「ロシアの”月”(衛星のこと)560マイル上空を18,000MPHで周回」

560マイルは901キロくらいとなります。
さすがカナダ、対岸ならぬ北緯49度の向こうの火事とばかり、
ショックを受けるアメリカの象徴として、慌てる科学者の写真を
なぜか一面トップに持ってきたのがちょっと人ごとという感じです。

3人の科学者(字が潰れてしまい誰かわかりません)は、
コースタイムのチャートを作成しているところなのだとか。


ニューヨークタイムズも大体同じような感じですがちょっと長いですね。
一応3行でまとまっていますが、ヘッドラインとしてはいかがなものか。

「ソヴィエトは宇宙の衛星から地球を攻撃する;
地球を18,000MPHで周回;
184パウンドの球体からの信号を感知」

83キロのドッジボールは地球を「攻撃」fireしたわけではありませんが、
これこそがアメリカ国民が一斉に考えたことでした。
かつて日本軍が空母から発進した飛行機で本土を撃したとき、
「その手があったか」と驚愕し、総パニックに陥ったのとほぼ同じ状態です。

このドッジボール地球周回の成功が、つまり空からの攻撃につながる、
という人心の不安をそのまま言葉に表したのが、このヘッドラインと言えます。

デンバーポストは、またこうも書いています。

Red Say ’Moon Next’  In Race Into Space
「次は月だ」赤は言う レースは宇宙へ

ソ連をわかりやすくレッドと一言で呼ばわっております。



各新聞が一斉に掲載したスプートニクの地球周回航路。
さすがにアメリカ上空は飛ばなかったんですね。当たり前か。

■ RACE BEGINS(レース開始)


と言うわけで米ソの宇宙開発競争が始まってしまうわけですが、
スプートニク・クライシス以降は、ずっとソ連のターンのままでした。

「スペースレース」の初期の頃、「成功」とはつまり「ファースト」=
最初のヘッドラインをマークすることを意味しました。

「最初の衛星」「月への最初の無人宇宙船」「最初の宇宙」、
「最初の宇宙に行った女性」「最初の船外活動」・・・・。

これらの「ファースト」はことごとくソビエト連邦によって達成され、
アメリカはその度に失望を焦りを繰り返すことになるのです。

しかしながら、このことは、負けず嫌いのアメリカにとって、結果的に
ソ連に追いつき、ソ連を追い越すための強いモチベーションの起爆剤となりました。


【スプートニク2と宇宙犬ライカ】


ライカさん・・・(涙)

アメリカ国民の「オクトーバー・サプライズ」からわずか1ヶ月後のことです。
ソビエトは次の衛星を打ち上げました。

今度のスプートニク「2」は先のものより大型で、
しかも「ライカ」と言う名前の犬を乗せていました。

スプートニク2号は重いペイロードを打ち上げることによって
ソビエトの高い優位性を示し、これによってソ連が間も無く
人間を宇宙に投入する可能性があることを示唆したのです。

1958年〜1961年の間、さらに6機のスプートニクが打ち上げられました。
これらは全て最初のものよりも大型で、人類の飛行のために
再突入と回収のための技術が改善されていました。

余談ですが、このライカがどうなったかというと、死にました。
享年2歳か3歳でした(-人-)

そもそもどうして矢継ぎ早に2号を打ち上げたかというと、
フルシチョフが重要とみなす、10月革命40周年記念に当たる日が、
1号の1ヶ月後だったからというだけの?理由だったのです。

ソ連はそれまでにも12頭の犬を弾道飛行で打ち上げており、
初めての軌道上飛行に犬を乗せれば世界が驚くんでないかい?
とフルシチョフの側近が思いついたのがライカ嬢の不幸でした。

そんな事情だったので2号の建造はほぼ突貫工事状態で、
最低限の「打ち上げた」と言う結果だけを求めたものでした。

ライカはモスクワの街角拾われた雑種の雌でした。

小さな檻に長期間閉じ込められるという「訓練」の後カプセルに乗せられましたが、
ミッション当時は、宇宙飛行が生物に与える影響についてほとんど知られておらず、
そもそもカプセルは軌道離脱の技術もまだ開発されていません。

ライカはとりあえず生命体を打ち上げると言う実験に使われただけで、
事実オーバーヒート(90℃以上)で打ち上げ数時間で死亡したと言われます。

その後スプートニク2号は死んだ犬を乗せて5ヶ月間軌道を回っていましたが、
ソ連政府は、ライカが数日は生きていたと微妙な嘘を広報しました。

ソ連の宇宙ミッションでは、通算で犬が71回打ち上げられ、
そのうち14匹が死亡しました。

バーズとリシチカは1960年7月28日にR-7ロケットが発射直後に爆発して死亡。
プチョルカとムシュカは1960年12月1日にスプートニク3が大気圏再突入後、
軌道を外れたため、カプセルに仕込まれた爆発物で破壊されました。

これは他国の手にカプセルが渡らないための策です。


ロシアの宇宙飛行士訓練施設であるスターシティには、
耳を立てて宇宙飛行士の後ろに立つライカの銅像とプレートがあります。

1964年に建てられた「宇宙征服者記念碑」にもライカの名前が刻まれています。
また、2008年にも宇宙ロケットの上にライカを乗せた記念碑が除幕されており、
 ライカを描いた切手や封筒、ブランド物のタバコやマッチが存在します。

■スプートニク5のリカバリー


スプートニク回収の指示カード

1960年8月、ソ連では最初にカプセル回収に成功したスプートニク5号。
これには、ベルカとストレルカと言う二匹の犬を乗せていました。


中に人入ってね?

ご安心ください。
今回のベルカとストレルカは、最初から「回収」が目的だったため、
訓練で最も優秀な成績を残したエリートとして彼らが選抜され、
同じく打ち上げられたうさぎ、42匹のネズミ、2匹のラット、ハエ、
そしてたくさんの植物や菌類と共に地球を17周して帰還したのです。

カプセルに内蔵された写真のカードには、回収ゾーンを外れた場合に備えて、
見つけた人は必ずすぐに地元の役人に連絡するようにと書いてありました。

カプセルは開けないこと、着陸した場所に置いておくこと、
とも書かれているようです。

ちなみに二匹の犬は無事に帰還後、ソ連の研究所で余生を送りました。
ストレルカが産んだ子犬プーシンカは、おそらくマウントを取るために、
その後ジョン・F・ケネディへの贈り物にされてアメリカに渡り、
そこでテリアのチャーリーとの間に子犬を産みました。

■ ルナLUNA3 の月周回


最初のスプートニク打ち上げからちょうど2年後の1959年10月4日、
ソビエト連邦は最初の宇宙船で月の周りを回りました。

ルナ3号は、月の裏側の画像を記録し、地球に放送したのです。


裏側画像

1ヶ月前、ソ連は合計5回のトライに失敗しており、
さらにルナ2号宇宙船が月に衝突するという失敗を乗り越えての快挙でした。



月の裏側の画像は、1959年に出版された、ソビエト宇宙計画のチーフである
セルゲイ・コロリョフが妻に送ったルナ3号の画像本からのコピーだそうです。

コロリョフ

コロリョフについてはまた別の日に、アメリカのカウンターパートである
フォン・ブラウン博士と共に語ることがあるかもしれません。

書かれた文字は彼の自筆で、

「ソビエト科学の素晴らしい業績の良き思い出と共に」

とあるそうです。

■ ソビエトの「秘密」

ソビエト連邦は当時宇宙技術における世界のトップを走っていましたが、
その宇宙計画について、西側諸国ではほとんど知られていなかったのも事実です。

ミッション、プログラムマネージャー、エンジニアの身元に関する詳細な情報は、
厳重に守られた最高レベルの国家機密でした。

何十年にもわたってその存在が隠されていたエンジニアであり宇宙飛行士、
コンスタンチン・フェオクティストフのノートには、
1958年から1959年までの初期のソビエト宇宙計画に関する
舞台裏の洞察が記されているのだそうです。


フィオクチストフ(Konstantin Feoktistov)

ナチス占領下で彼はSSに捕まり、銃殺刑に処されるも、
弾丸が貫通したため死体置き場から這い出して命永らえたと言う人です。


「極秘」と記された検閲スタンプが押されたフィオクチトフのノート。
1989年に公開されました。





このメモは、各宇宙船コンポーネントを担当する研究機関と設計局のリストです。
これらの組織はソビエト科学アカデミー、国防省、その他の組織から集められ、
彼はその名称を全て略語で記しています。



有人宇宙船のスケッチが含まれており、これは
スプートニクの直後から宇宙飛行士の打ち上げが勘案されていたことを示します。

ちなみに1969年10月、フェオクティストフはNASAのゲストとして
アメリカ国内を旅行し、好きな都市を訪ねています。

この旅行には、ユージン・サーナン、ニール・アームストロングなど、
アメリカの宇宙飛行士たちもホストとして参加していました。

ハリウッドでは、カーク・ダグラスらがレセプションを開き、
ユージン・サーナンに連れられて行ったバーなどにバンドがあれば
必ず「Fly Me to the Moon」が彼のために演奏され、
カリフォルニアのディズニーランドでは「Trip To The Moon」と言う
月探検のアトラクションを楽しみ、アメリカの宇宙飛行士たちと
「月じゃなくて、ディズニーランドに行ったんだ♪」
と冗談を言い合うなどして大いに国際的な友情を育んだようです。

国同士は冷戦中でも、同じ宇宙飛行士同士、
互いに尊敬し親密になるのはある意味当然と言ったところでしょう。

いやー、いい話だなあ。

続く。






キューバ危機とCIAのライトテーブル〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-03-20 | 歴史
前回のハッブル望遠鏡で全部終わったと思ったスカイスパイシリーズ、
なんと、紹介し忘れていたログがありました。

最後を華々しく宇宙望遠鏡で終わるつもりが、このミスによって、
シリーズ最後に紹介するのは「机」になってしまいました。


スミソニアン博物館の「スカイスパイ」航空偵察のコーナーに、
どう見てもコクヨ製ですよね?的なスチールのデスクがあります。

このグリーンに塗装された金属製の昇降式テーブルの正体は、

940MC ライトテーブル
ボシュロム社製ズーム270光学系(S N.1651AA)

何の変哲もない写真解析デスクですが、歴史的に見ると
「ミサイル危機の遺物」と呼ぶべきものです。

ボシュロム社というと、コンタクトレンズが有名ですよね。
1653年に創業したジョン・ボシュとH・ロムの名前をとって
ボシュロム、らしいですが、アメリカの会社には珍しいネーミングです。

今でこそコンタクトレンズ会社と目されていますが、これは当社が
コンタクトレンズを発明し、特許を持っているからで、
他にもレイバンのサングラスや、シネマスコープなどを手がけています。

元々はレンズの会社で、第一世界大戦まではドイツからの輸入に頼っていた
レンジファインダーや魚雷管照準器などの光学兵器を、
ドイツに頼らず(ドイツが敵になってしまいましたのでね)
作る必要ができたことから、この方面で発展してきました。

ちなみに有名なレイバンのサングラスですが、元々は陸軍のパイロット用に
1936年に開発したデザインで、マッカーサーもご愛用でしたね。

■キューバ危機の「遺物」をめぐる不思議な物語



ところで、この写真は、1962年10月14日、偵察機U-2が撮影したもので、
場所はサンクリストバルのロス・パラシオス付近。
ちょうど画面の真ん中で「CONVOY」と示された点々は、
ソ連のMRBMの配備に近づくトラックの車列を撮影したものです。

撮影翌日に分析されたこの写真は、
キューバにソ連の中距離弾道ミサイル(MRBM)
があることを示す最初の証拠となりました。

このシリーズを始めてから、当ブログでは何度も
「写真解析者」Photo Inspectorという係?について言及していますが、
この頃の、CIAのフォト・インスペクターの職場にあったのが、
このテーブルで、彼らはここで偵察写真の解析を行ったのです。

さて、1962年10月15日月曜日の朝、そのCIAの写真解析者(PI)は、
国立写真通訳センター(NPIC)のライトテーブルを心配そうに見回していました。

それは、切迫した、不吉な雰囲気に見舞われた様子でした。

その中には、3フィートの解像度を持つ高画質な写真もありました。
この写真は、以前に当ブログでご紹介済み、リチャード・S・ヘイザー少佐
U-2機でキューバ上空を秘密裏に飛行して撮影したものです。


この写真の鬼畜ルメイの左側の・・・・

この人ね

写真は24時間前に撮られたばかりの、極秘も極秘、国家機密に類するもの。
この特別かつ極秘のミッションは、キューバ上空での一連の、
高高度・低高度偵察飛行の幕開けとなる快挙でした。

ヘイザー少佐は、CIAが改良したU-2を操縦して危険なミッションに参加した
2人の空軍パイロットのうちの1人でした。

彼らは、ハバナの西にある大きな「corridor(回廊)」を撮影するために、
カリフォルニア州のエドワーズ空軍基地から離陸しました。

余談ですが、先般のロシアのウクライナ侵攻で、
「人道回廊」という言葉が盛んにニュースに上がりましたね。

この回廊とこの時の回廊は同じ「コリドー」で、
ヒューマニタリアン・コリドー、(Humanitarian corridor)は、
人道上の援助、保護の対象となる通行路、という意味で使われており、この場合は、
中距離弾道ミサイルの配備のためにソ連がキューバに開いた通行路
という意味になろうかと思います。

さて、ヘイザー少佐らが乗ったU-2に搭載されたカメラの有効範囲は75マイル。
このスパイ任務で、彼は戦闘機の迎撃や対空防御に遭遇せずにすみました。

「誰も自分の名前が第三次世界大戦の始まりのきっかけとして
歴史に残ることを望まないだろうから」

そのこと(自分がソ連に発見されず攻撃されなかったこと)が心から嬉しい、
とヘイザー少佐がのちに語った、ということも一度ここで書きました。


ロッキードU-2偵察機に搭載されていたハイコン(Hycon)B型パノラマカメラ

帰還したU-2を、フロリダ州オーランド近郊のマッコイ空軍基地に着陸させると、
露光したフィルムはワシントンのCIAに直ぐ届けるために宅配便にで送られました。

この「宅急便で送られた」というのがどうにも悠長に見えて仕方ないのですが、
もちろんこれは民間の宅配業社など使ったわけではないでしょう。
フロリダからワシントンまで、陸軍の連絡便が飛んだのではないでしょうか。

さて、それからが大変です。

その日は日曜ですが、もちろん誰も休みなんか取っている場合ではありません。
おそらくですが、その日家に帰った者はなく、なんなら徹夜もしたでしょう。

そして技術者たちは、その日の午後から夜にかけて、
透明なアセテートのポジにネガを転写する作業に集中することになりました。

月曜の朝(ほらやっぱり徹夜)、この貴重な画像はNPICの分析室に届けられ、
それから次は主任研究員たちは熱心に、そして考えうる限り丹念に、
この驚くべき写真のキャッシュを精査し、その作業はその日の夜まで続きました。

そして、その結果、

「ニキータ・フルシチョフが
キューバにミサイル発射場網を設置した」

この大胆な行動をとっていたことを示す、明確な証拠が可視化されたのです。


NPICで仕上がってきた写真を見た者は、皆、米ソの対決が目前に迫り、
冷戦のライバルである2国が核戦争の瀬戸際に立たされることを悟りました。

おそらく彼らは全員が慄然とし、次の瞬間青ざめていたことでしょう。

「サンクリストバル2号」と名付けられた発射場は、写真によると、
6台のミサイルトレーラーや積み上げられた機材、作業員用のテントなど、
建設中の痕跡をはっきりと残していたのでした。

第二次世界大戦中は海軍に所属し、日本とアリューシャン列島の航空写真を研究し、
写真解析の新しい技術を発展させたとされる、NPICの当時の所長
アーサー・ルンダール(Arthur C. Lundahl)は、
この画像をまさにこのライトテーブルで見たという人物です。


ルンダール所長(ちなみにシカゴ大学卒)

ソ連が中距離ミサイルSS-4の準備中であることは、彼の目にも明らかでした。

「もし、私の人生で何か正しいことをしたいと思った時があったとすれば、
それはまさにこれだった」


と、ルンダールは後に述べています。
そして、彼は、この重大な情報をCIA本部に連絡したのでした。


午後8時、国家安全保障顧問のマクジョージ・バンディにも連絡が入りました。

「マック」バンディ(ボストン・ブラーミンの家系生まれ、イェール大卒。
ボストンブラーミンはイギリス入植者の子孫でボストンの上流階級)

この厳しい、そして驚くべき報告を受けたバンディは、
大統領に行うブリーフィングを翌朝まで遅らせることにしました。

なぜこんな重要なことを、という気もしますが、この時点でことを始めると
大統領初めワシントンが徹夜になってしまうと思ったのかもしれません。
今晩徹夜しても明日の朝に始めても、おそらく結論に影響なしと見たのでしょう。

知らんけど。

さて、ケネディ大統領は案の定パジャマ姿のまま、
火曜日の朝のブリーフィングでこの写真を見ていました。
そして、おそらくはこう言われたのでしょう。

"大統領、ロシアがキューバに攻撃用ミサイルを保有していることを示す
確固たる証拠が、写真で示されました。" 


キューバにあるソ連のミサイル基地の存在。

それはアメリカにとって実に不吉な兆候を表すものでした。
ミサイル発射場のいくつかは、2週間以内に核兵器で武装されるだろうという。

海岸からわずか90マイルのところにある発射場からミサイルが発射されれば、
10分以内に8000万人のアメリカ人が死ぬ、と専門家は警告を行いました。

このあとは歴史によく知られた話になります。

ケネディ大統領は、すぐさま特別執行委員会を組織して、
アメリカが取るべき適切な対応に対する協議を重ね、
軍事と外交の両面から、この危機を打開するための措置を試みました。

ケネディ大統領のとるべき道は、即刻ミサイル撤去を撤去させること。
このことは、アメリカ大統領として決して交渉には応じられない一点でした。

10月21日、ケネディはキューバの「quarantine」(封鎖)を命じます。
ミサイル基地への攻撃、キューバに侵攻する計画さえも否定しないという意味です。

10月22日午後7時、テレビ演説を行い、全国民に今ここにある危機を知らせました。

「キューバから西半球の国に向けて発射される核ミサイルは、
ソ連による米国への攻撃と見なし、
ソ連に完全な報復を行うことこそが、この国の政策である」


「検疫(封鎖)の強化」とは、つまり
キューバに向かうソ連船を阻止する可能性があることを意味します。

ソ連はどう出るか。
世界の命運を握るのは、どちらか一方の手に委ねられた「引き金」でした。

この危機は、10月28日、両大国が奈落の底からの一歩を踏み出すことに合意し、
終結を見ることになったのは、歴史の示す通りです。

具体的に、ソ連は、アメリカがキューバに侵攻しないということを約束し、
イギリスとトルコに配置されたミサイルを撤収するのと引き換えに、
キューバのミサイルの撤収に同意することで終結しました。

この、キューバ・ミサイル危機と呼ばれるこの未曾有の国難の震源地に、
「この」(つまりスミソニアンの)「ライトテーブル」があったのでした。



■CIAのライトテーブル



緑色に塗装された金属製の昇降テーブル1台、940MCライトテーブル1台、
ボシュロム社製ズーム270光学系1台(Sn.1651AA)で構成されています。


1962年、NPIC内のCIAライトテーブル


1962年、ワシントンD.C.にあるCIAの
National Photographic Interpretation Center (NPIC)の内部
右側がCIA専用台

この歴史的な偵察写真を解析したというだけ、と言って仕舞えばそれまでですが、
このライトテーブルの上で、まさにその歴史は激動を始めました。

キューバ危機から10年間経っても、CIAはこの "キューバ危機の遺物 "
(テーブルですが)を保存するための措置をずっと講じていたそうです。

その後1972年、危機から10周年を迎えるにあたり、CIAは
これらの遺物(写真)を31枚のパネルで特別展示したらしいのですが、
残念なことに、この展示は「非公開」であり、一般には公開されませんでした

一体、誰に見せたかったのか、何をしたかったのかCIA。
お役所体質のため「一般」の意味を取り違えていたんでしょうか。

その後1976年、アポロ11号の宇宙飛行士で、
当時スミソニアン国立航空宇宙博物館長を務めていたマイケル・コリンズが、
当時CIAに保管されていた展示(内輪しか見られなかった)を見る許可を得ました。


宇宙飛行士特権を濫用した人

コリンズはキューバ危機に対する一般の理解を深めるための、
多くの写真やグッズ・・使用された写真のネガの複製、歴史的なU-2カメラ、
パイロットスーツ、脱出シート、生存者の装備、写真解釈装置などに
大変衝撃を受けたとされます。

そして、コリンズの訪問からわずか1ヵ月後、CIAの科学技術担当部署は、
展示品の一部をスミソニアン博物館に寄贈移管することを通知してきたのでした。

コリンズが宇宙飛行士でなければ、もしかしたら
この件は違う道を辿っていたかもしれません。


■ライトテーブル博物館へ



1977年、博物館の倉庫に、ライトテーブルと他の14点の遺品が到着しました。

スミソニアン博物館側は、CIAとのやり取りの中で、
ミサイル危機の遺物を将来的に展示することに関心を示していたため、当初、
ライトテーブルはワシントンDCのナショナル・モールにある博物館に来ました。

しかしどうにも展示計画にライトテーブルがなじまなかったため、
1980年代半ばから2011年まで、博物館はライトテーブルを実用に使っていました。

多くのボランティアが、一連の書籍に関する資料や写真を整理する際に、
ライトテーブルをがっつり使用してそれを行ったというのです。
歴史的遺物としてCIAから譲られたのを普段使いしていたってことですね。

その結果、一連の展示物に必要な文書や写真の整理、参考文献の整理、
カセットテープのコピーなども行われましたし、アーカイブ作業を
このライトテーブルは「見守ってくれた」そうです。

スミソニアンの学芸員たちは皆、アメリカ史におけるライトテーブルの歴史的意義に
深い敬意を払い、畏敬の念さえ抱きながら毎日使っていました。
それは、彼らの仕事場に独特の雰囲気をもたらしていたそうです。




さて、ここからは、ちょっと余談めきますが、
今の世界でも同じようなことがどこかで起こっているのかもしれない、
と思い、少しこの頃のスミソニアンでのある出来事を書いておきます。

1980年代後半、スミソニアンの航空部門の関係者は、展示の関係から
ソ連大使館のエアアタッシェメントの訪問を日常的に受けていました。

キュレーターの中にはロシアの航空史を専門にしている者もいて、
あるいはワシントンでのコネクションを作るという心算があったかもしれません。
(もちろん平時であれば、そんな大げさな、と言われそうな話ですが)

その頃、ソ連大使館の関係者たちは何かと博物館にやってきて、
話をしたり、図書館で調べものをしたり、時には昼食を取ったりしていました。

彼らがオフィスを訪れたとき、そのうち一人がキューバ危機の歴史的な遺物、
つまりライトテーブルの隣の椅子に、たまたま座ったことがありました。

そのとき、スミソニアンの学芸員はその「遺物」の何たるかを、
嬉々として説明し、ソ連の人々は興味深くそれに聞き入ったそうです。

しかし、その後、スミソニアンを訪問していた3人のエアアタッシェのうち2人は、
スパイとしてアメリカから追放されることになりました。


1962年10月にキューバ上空で撮影されたU-2写真を
CIAのアナリストが検討するために、
ライトテーブルと光学系とともに使用した昇降テーブル。

このライトテーブルは、キューバ危機と今生きる人を具体的に結びつけています。
1962年10月15日の数時間、この何の変哲もないテーブルが、
まさに歴史の分岐点となったのです。


スカイスパイシリーズ、本当に終わり







キング・オブ・スカイスパイ ハッブル宇宙望遠鏡〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-03-17 | 歴史

スミソニアン博物館の「スカイ・スパイズ」のシリーズ、
スミソニアンでは決してそうと標榜しているわけではないですが、
流れ的にこれこそが「宇宙からの眼」の集大成ではないかと思い、
最後に、ハッブル宇宙望遠鏡の展示で締めたいと思います。

宇宙望遠鏡は空中からの偵察などという狭義の物ではなく、もっと純粋な、
そう、アメリカがずっとその偵察衛星の歴史で標榜してきたが如き、
人類の科学技術の発展のためのものであることに間違いはありませんが、
小さな小さな人工衛星から始まった「宇宙の眼」の技術が発展した
一つの究極の形であることは確かだと考えるからです。

それでは参りましょう。

■ ハッブル宇宙望遠鏡

ハッブル宇宙望遠鏡(HST、Hubble)。

1990年に地球低軌道上に打ち上げられ、現在も運用されています。
もう稼働を始めて32年になるわけです。

史上初の宇宙望遠鏡ではありませんが、これまでで最大であり、
最も用途の広い望遠鏡の一つであり、重要な研究ツールとして、また、
地球の大気に邪魔されない環境で天文学の広報活動を行う重要な設備です。

宇宙望遠鏡は1923年にはすでに考案が始まっていました。

ハッブル以前の宇宙望遠鏡には、1983年にNASAとオランダ、
イギリスが共同で打ち上げた赤外線天文衛星、IRASというのがありました。


IRAS Infrared Astronomical Satellite


ハッブル望遠鏡は、天文学者エドウィン・ハッブルの名にちなんでつけられました。

【ガチの天才】宇宙を広げた超人 「エドウィン・ハッブル博士」の天才っぷりがヤバすぎる【ゆっくり解説】

ついにゆっくり解説という禁断の領域に手を出してしまう当ブログである

ハッブル以降打ち上げられた宇宙望遠鏡、

チャンドラX線観測衛星(1999-現在)
スピッツアー宇宙望遠鏡(2003-2020)


などとともにいまだにNASAの大観測所の1つとなっています。

ちなみに我が国がこれまで運用した天文衛星は、

X線天文衛星 「すざく」 (ASTRO-EII)
赤外線天文衛星 「あかり」 (ASTRO-F)
太陽観測衛星 「ひので」 (SOLAR-B)
惑星観測衛星「ひさき」(SPRINT-A)

で、「ひので」「ひさき」は現行運用中です。

■打ち上げ直後にトラブル発生!


ハッブル望遠鏡は1970年代にNASAが資金を提供し、
欧州宇宙機関からも寄付を受けて建設されました。

1983年の打ち上げを目指していたのですが、技術的な遅れや予算の問題、
そして1986年のチャレンジャー号事故のためプロジェクトは難航しました。


これが宇宙望遠鏡の「主鏡」です。

ハッブルは 2.4m の「鏡」を持ち、5 つの主要な観測機器で
紫外線、可視光線、近赤外線の電磁波を観測しています。

1990年にようやく打ち上げられたハッブルですが、配備された直後に
主鏡の取り付けに失敗していたことがわかりました。
具体的には、間違った研磨のせいで球面収差が発生してしまったのです。

球面収差とは、これも簡単にいうと、形状が歪だと、
鏡の端で反射した光が中心とは違うところに焦点を結ぶということです。
焦点がずれると光が損失し、暗い天体の高コントラストの撮像に影響があります。

このミラーの欠陥の実態は人間の髪の毛の50分の1レベルだったそうですが、
それでも球体収差はハッブル望遠鏡にはあってはならないことでした。

そこで、主鏡の補正のために、NASAのエンジニアたちは、
それこそ欧州宇宙機関をも巻き込んだ危機管理会議を開いて検討しました。

問題となったのはどうやって現行の狭いチューブに、
補正光学レンズ、そしてミラーを挿入するかでした。

この時、エンジニアの一人ジェームズ・クロッカーがシャワーを浴びていて、
ホテルのシャワーヘッドが垂直のロッドを移動するのを見て思いついたのが、
(向こうのシャワーは壁に直接ついているタイプが多い。
これはおそらく壁に取り付けられて高さだけがスライドできるものだったと思われ)

「必要な補正部品をこのような装置(つまりシャワースライド?)に搭載し、
筒の中に挿入してからロボットアームで必要な位置まで折り畳み、
副鏡からの光線を遮って補正し、様々な科学機器に焦点を合わせる」

というアイデアだったそうです。

なんかよくわかりませんが、少なくともこれ、
日本のホテルのシャワーなら思いつかなかったことは確かですね。

そこで、クロッカーはアメリカに帰ってから
Corrective Optics Space Telescope Axial Replacement (COSTAR)
つまり補正光学宇宙望遠鏡軸上交換装置
の開発を進めました。
(軸上、というのがシャワーの取り付け軸のことだと思う。知らんけど)

NASAの宇宙飛行士とスタッフは、COSTARの開発とその設置方法、
もしかしたらこれまでで最も困難なものになるであろうミッションの準備に
11か月を費やしました。(逆にたった11ヶ月でできたのかという説も)

そして1993年12月、スペースシャトル「エンデバー」に乗った7人の飛行士が
HSTの最初のサービスミッションのために宇宙に飛び立ちました。

このエンデバー、STS-61はワンミッション。
つまり打ち上げ、ハッブル望遠鏡の修理、以上、でした。

髪の毛の50分の1の傷のために一体いくら使う気なのという気がしますが、
それだけハッブルの修理は最優先課題かつ大ごとだったということです。


ハッブル望遠鏡修理のために宇宙に行った人々

STS-61 Mission Highlights Resource Tape, Part 2

おそらく最終日、飛行8日目、5回目の宇宙遊泳のフィルムです。

1時間もかかるので全部みっちり見たわけではありせんが、
大体15:00〜から船外作業が始まり、35:00ごろには作業が終わって、
CAPCOMの女性がお礼を言って、43:00ごろ修理箇所が写り、
47:27にCAPCOMが「フロリダ上空のすごい映像が映っています」と報告し、
最後に男性のCAPCOMがプロフェッショナルな仕事でした、
我々はあなた方を誇りに思う、と褒め、最後に
"We wish you Godspeed in a safe trip home."(無事帰還を祈ります)
と眠そうに(この人はサブで、メインは夜中なのでいないみたい)言っております。

これだけ見ると1日で簡単に修理ができたようですが、修理には
史上2番目に長時間となる7時間50分の滞在を含む計5回の船外作業を要しました。


ハッブル宇宙望遠鏡とディスカバリー(下)。
これは1997年の2回目の整備ミッション中。
太陽光の中に持ち上げられています。

このサービスミッションにより、ハッブルの光学系は本来の品質に修正されました。
ハッブル望遠鏡は、宇宙飛行士が宇宙でメンテナンスできる唯一の望遠鏡です。

5回のスペースシャトルミッションで、観測装置など望遠鏡のシステムの修理、
アップグレード、交換が行われてきました。

5回目のミッションは、コロンビア号の事故(2003年)の後、
安全上の理由から当初は中止されましたが、その後2009年に完了しました。

■ ハッブル望遠鏡の仕組み



1、後部シュラウド・ベント(AFT Shroud Vents)
望遠鏡内の科学機器の換気を行うためのベントです

2、バーシング・ピン(Berthing Pin)停泊ピン?
オービターのペイロード・ベイに取り付けられた
サポートシステムのラッチに装備されています

3、アンビリカル(Umbilical)臍の緒
ペイロードべいでの任務及び展開奏者中、オービターから望遠鏡に
電力を供給するから「臍の緒」

4、エレクトリカル・インターフェース・パネル
(Electrical Interface Panel)
メインとバックアップの「臍の緒」を接続します



他の望遠鏡と同様に、HST(ハッブル望遠鏡)には、
光を取り入れるために一端が開いている長いチューブがあります。

それは、その「目」が位置する焦点に光を集めてもたらすための鏡を持っています。
これが先ほどから話題になっていた「メイインミラー」です。

HSTはいくつかのタイプの「目」を持っています。
昆虫が紫外線を見ることができるように、人間が可視光を見ることができるように、
ハッブルは天から降るさまざまな種類の光を見ることができなければなりません。

具体的にハッブルが装着しているのはカセグレン反射望遠鏡というものです。

開口部から光が入り、主鏡から副鏡へと反射します。
副鏡は、主鏡の中心にある穴を通して光を反射し、その後ろに像を結びます。
入射光の経路を描いた場合、「W」の状態になることが必要です。

具体的には下の図をご覧ください。


焦点では、より小さい、半反射、半透明のミラーが
入射光をさまざまな科学機器に分配します。

HSTのミラーはガラス製で、純アルミニウム(厚さ10万分の7ミリ)と
フッ化マグネシウム(厚さ10万分の2ミリ)の層でコーティングされており、
可視光、赤外線、紫外線を反射します。
主鏡の直径は2.4メートル、副鏡の直径は30センチとなります。

ハッブル望遠鏡は地球の大気の影響を受けず歪みが生じない軌道を回るため、
地上と違い背景光が大幅に少なく、高解像度の画像を撮影することができます。

また、可視光だけで詳細な画像を記録することができ、
宇宙の奥深くまで見通すことができるのです。

ハッブル望遠鏡による多くの観測は、宇宙の膨張速度の決定など、
天体物理学の分野で画期的な進歩をもたらしています。


ハッブル望遠鏡は2020年4月で運用期間が30年を迎えました。
今後も2030年から2040年まで耐用できると予測されています。

もちろんそうなる前に後継機も用意されており、
ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡(JWST)
2021年12月25日に打ち上げられたばかりですでに稼働中となっています。



このジェイムズ某望遠鏡がまた画期的でしてね。
太陽光や電磁波、赤外線がノイズになって影響を及ぼすのを防ぐため、
遮光板が必要となるのですが、これがその折り畳まれた遮光板です。
5層のレーヤーになっていますが、一枚は人の髪の毛の薄さしかありません。
物質が付着しないように、見学者はネットを被って見ていますね。


下から見たところ。
上に乗っている金色のものが主鏡で、望遠鏡の方式はカセグレン式です。

これ、何かを思い出しません?
そう、折り紙による紙飛行機ですよ。

ハッブルの100倍高性能! NASAが「オリガミ宇宙望遠鏡」の展開試験に成功

How NASA's $10 Billion Origami Telescope Will Unfold The Early Universe 

わたしの知り合いに、折り紙で有名な人がいるのですが、
彼女は科学系の学者が本業であり、NASAの先端宇宙技術にも
実は折り紙が使われていて、と昔話していたのを思い出しました。

このことだったんかしら。

JWSTは今後地球からおよそ100万マイル(160万km)の軌道から、
星、他の太陽系と銀河の誕生、そして
私たち自身の太陽系の進化に関する情報を明らかにするでしょう。

JWSTが搭載しているのは主に4つの科学機器です。
近赤外線(IR)カメラ、近赤外線マルチオブジェクト分光器、
中赤外線機器、そして調整可能なフィルターイメージャーです。

■ スミソニアンの”ハッブル宇宙望遠鏡”
ハッブル宇宙望遠鏡構造物試験機(SDTV)

ハッブル宇宙望遠鏡(HST)が建設されることになった1975年、
ロッキード・ミサイル・アンド・スペース社は実物大のモックアップを製作し、
さまざまなフィージビリティ(実行可能性)研究を行いました。

当初は宇宙船の取り扱い方法をテストするための金属製の円筒でしたが、
ロッキード社が実際の宇宙船を製作する契約を獲得するにつれ、
この試験体は研究に次いで進化を重ね続けました。

そしてこの試験体は、最終的に実際の宇宙船のケーブルや、
ワイヤーハーネスを製作するためのフレームとして使用され、また、
軌道上での保守・修理作業を開発する際のシミュレーションにも使用されました。

その後振動試験や熱試験など動的な研究が行われ、
ハッブル宇宙望遠鏡構造物試験機(SDTV)と正式に命名されたのです。


この試験機は、使用の役目を終えて1987年6月にNASMに寄贈され、
カリフォルニア州サニーベールのロッキード社で屋外に保管されていましたが、
そこで改修され、1976年当時の形状に復元されました。

そして1996年、シャトルから放出されるHSTの実物を再現するために、
SDTVは展示から取り外されてまたミッションに復活されることになりました。

この大規模なアップグレードは、ロッキード社、HSTの下請け業者、
NASAゴダード宇宙飛行センター、NASMスタッフとボランティアによって行われ、
光学望遠鏡アセンブリの機器部分、開口ドア、高利得アンテナ、ソーラーアレイ、
後部シュラウド手すり、その他多数の細部を製作することに成功しました。

主な追加作業は、現実的な多層(ノンフライト)熱ブランケットとテーピング、
インターフェースハードウェア、ウェーブガイド、そしてアンビリカルでした。

NASAは、アップグレードされた物体を床から劇的な角度で展示できるように、
大型の機器クレードルも提供して、今日スミソニアンで展示されています。

ハッブル宇宙望遠鏡は30年の月日を日夜稼働し続け、
次世代型望遠鏡JWSTの打ち上げによって引退を考える時がやってきました。

しかし、我々人類はハッブルの果たした務めを決して忘れてはなりません。
HSTの長年にわたる比類のない発見のおかげで、地球の大気圏外の様子が、
そこでの魅惑的な画像が、地球で一生過ごす誰にも楽しめるようになりました。

2つの渦巻銀河間のまれな配列から、銀河団間の強力な衝突まで。
ハッブル宇宙望遠鏡は天界の片隅で起こっていることを、
我々の住むこの地球に近づけることを可能にしたのです。



「ザ・スカイスパイ」シリーズ
終わり。




軍事航空偵察とキューバ危機〜スミソニアン航空博物館

2022-03-07 | 歴史
スミソニアン航空博物館の「スカイ・スパイ」軍事航空偵察のコーナーから、
今日は冷戦とキューバ危機について焦点を当てたいと思います。


■ 冷戦の始まりと航空偵察

戦後の最初の10年間、冷戦といわれる時代に突入してすぐ、
アメリカはソ連の(後には「赤い」中国の)広大で封印された範囲に含まれる脅威、
すなわち核の有無を確認するという緊急性に駆られるようになります。

しかし当時の航空機は、ほとんどが爆撃機を改造したものにすぎず、
ただ周辺を偵察することに任務の範囲が限られていました。

その極秘裏に行われたミッション中に起こり、公表されていない事件で、
少なくとも数十人の偵察機乗員が死亡または捕虜になったといわれます。

アメリカが恐れていたのはソ連による「真珠湾攻撃の再来」つまり不意打ちでした。
そこで敵の動向を探るため上空からの偵察が行われるようになります。


のちに主流となる人工衛星は1940年代後半から計画がありましたが、
当時はまだ技術的なハードルが多く残っていたため、
その諸問題がクリアできるまでの間は、とにかく
カメラを目標の上空に持っていくしか手段がなかったのです。


気球を使った撮影も試みられました。
カメラを搭載した気球をイギリス、ドイツ、トルコから中央アジア経由で
1000機ほど打ち上げたものの、回収できたのは55台だけでした。

風任せで飛ぶ気球にどんな効果を期待していたのか、と
逆に現在のわたしたちにはそちらの方が大いなる疑問です。
もちろん偵察効果は皆無に近かったに違いありません。

しかし、そうこうしている間に光学技術が向上してきました。
迎撃する航空機やミサイルの影響を受けない高度からでも
目標を画像におさめることができるカメラやフィルムが出てきたのです。

より高い位置からでも偵察が可能となってからは、
航空機の性能も、高度に焦点を絞って開発されるようになっていきます。

そしてレーダーによる短波長領域だけでなく、近・遠赤外領域のセンサーなど、
時代はつぎつぎと新しい偵察のための手段を可能にしていきました。

そして前回もお話ししたように、ロッキード社は、究極の上空偵察機、
U-2とSR-71を世に送り出したのでした。


U-2とSR-71、伝説の偵察機のツーショット



初期のU-2ミッションが撮影したソ連中央部のチウラタムSS-6ミサイルサイト。

【ボマー・ギャップ】

カーチス・ルメイはそれが航空機っぽくないのが気に入らなかったようですが、
偵察機U-2はジェットエンジンを搭載したグライダーで、
高度8万フィートを飛行し、ソ連の上空をほぼノーマークで飛び回り、
より鮮明な写真を撮ることを可能にしました。


偵察によって撮影されたソ連の潜水艦群


U-2から撮影された原子爆弾の発射実験基地。

というわけでこの期間、アメリカはソ連についてかなりの情報を得ていました。
これが前提です。


日本人である我々にはいまいちピンと来ない言葉ですが、アメリカでは
冷戦時代、「ボマー・ギャップ」という言葉が、盛んに使われたそうです。

「ボマー・ギャップ」とはアメリカ当局が国内に向けてアナウンスした言葉で、

「ソ連はジェットエンジン搭載戦略爆撃機の配備において
我が国より優位に立っている」


ということを表しています。

キャッチフレーズではないですが、語感がキャッチーなせいか、
国民には数年前からそれが広く受け入れられていましたし、
特に国防費の大幅増額を正当化するための政治的な論拠となりました。

実際、ボマーギャップを埋めるため=ソ連の脅威に対抗するためという名目で
米空軍は爆撃機はピーク時には2500機を超える大規模な増強を行っています。


しかし、結論から言うと、実は
ボマーギャップは存在していませんでした
しかもこの大号令をかけた「中の人たち」は、
U-2の偵察がもたらした情報によって、これを知っていました。


「ボマーギャップ」がないことを明らかにした
U-2の偵察写真。
1956年にはこの事実が明らかになっていました。

しかし、「ボマーギャップがないことの証明」はできませんでした。

それが「悪魔の証明」(ないことは証明できない)だからではなく、
どうやってソ連の爆撃機大量配備はないことを知ったかが明らかになるからです。

アメリカの偵察技術の実態がソ連側にもバレてしまうことが何より問題ですし、
それに、ボマーギャップがあることにしておいた方が、
いろいろ便利(軍事予算の獲得もスムーズに行くわけ)ですしね。


そうそう、「ないことを知っているのにあるかのように決めつけて」といえば。

この半世紀後、ブッシュ政権も、大量破壊兵器があるという情報を根拠に
イラク戦争に突入していますが、これ、本当にあると思ってたんですかね?

凄まじい精度のアメリカの諜報&偵察能力をもってすれば、
実は大量破壊兵器がないことはわかっていたのに、
あえてわからないフリをして・・ってことじゃなかったのかしら。



閑話休題。

1960年5月に、U-2がソ連のミサイルで撃墜される撃墜事件が起き、
期待されていた冷戦の雪解けも頓挫してしまいます。



SR-71、ブラックバードは1960年代半ばに衝撃のデビューをしました。
約8万5,000フィートで飛行するマッハ3の航空機で、
瞬く間に傍受されない性能を確立し、
毎時10万平方マイルの速度で画像を収集しました。
これほど速く、高く飛ぶ飛行機は他にありません。

■ キューバ危機

キューバ危機のことを、英語ではCuban Missle Crisisといいます。
1962年の、この世界を揺るがした歴史の転換点、
キューバ危機では、空撮が重要な役割を果たしました。

航空写真によってキューバにソ連のミサイルが存在することも確認されたのです。



このU-2偵察写真には、キューバでのミサイル組み立ての
具体的な証拠が写っています。

ミサイル輸送機と、燃料補給やメンテナンスが行われるミサイル準備テントです。



この写真は見ておわかりのようにミサイル準備区域を低空から撮影しています。

このショットを撮影したパイロットは、
高度約250フィート(76m)を音速で飛行して生還を果たしました。




同じく、キューバ危機の時にキューバのサン・クリストバルに設置された
ソ連の中距離弾道ミサイルサイトのUー2による空撮写真です。



こちらはRF-101ブードゥーが撮影したミサイルサイトの写真。
ロシアのSA-2(地対空ミサイル)のパターンを見て、
アメリカはロシアがキューバを武装化していることを確認しました。


【アメリカ政府の表明】



キューバのミサイルの航空写真を国連で見せる
アドレー・スティーブンソンII(1962年11月)。

スティーブンソンは民主党の政治家で、安全保障理事会の緊急会合で
ソ連の国連代表ヴァレリアン・ゾーリン

「キューバに核ミサイルを設置しているかどうか」

を詰問口調で尋ね、ゾーリンが答えにくそうにしていると、

「翻訳を待つのではなく、イエスかノーで答えたまえ!」

と言い放ったことで有名になりました。
イエスかノーかで有名になった人は我が日本国にもいましたですね。
このときゾーリンは、

 「私はアメリカの法廷にいるわけではないので、
検察官のようなやり方で質問されても答えられない」

とごもっともなことをいってケムに巻きました。
まあ、結果としてイエスだったんですけど、
彼の立場では答える権限になかったのでしょう。


スティーブンソンはまた、ミサイル危機の対処法として

「ソ連がキューバからミサイルを撤去するなら、アメリカは
トルコにある旧式のジュピター・ミサイルを撤去することに同意する」

という交換条件を大胆に提案しています。
もちろんこの案は大勢から非難轟々だったのですが、
ケネディ大統領も弟のロバートもこれを評価しており、
実は明らかにはなっていない段階で、ケネディ政権はこの案を
ソ連側に打診していたのではないかという説もあるのだそうです。

歴史って、実は表向きはともかく、
明らかになっていないことの方が多いのかもしれない、
などと思ってしまう逸話です。



大統領執務室でカーティス・ルメイ将軍(ケネディの左隣)、
キューバミッションに参加した偵察パイロットと会談するケネディ大統領。

左から3人目は、キューバのミサイルが最初に確認されることになった
写真を撮影したリチャード・S・ヘイザー少佐です。


962年10月14日の日曜日の早朝、ヘイザー少佐は、
カリフォルニア州エドワーズ空軍基地で、急遽「USAF 66675」と再塗装された
CIA U-2F、アーティクル342(空中給油用に改造された2機目のU-2だった)
に乗り込み、「真鍮のノブ」作戦(Brass Konb)と名付けられた
キューバ上空飛行(ミッション3101)に出発しました。


メキシコ湾上で日の出を迎えた彼は、ユカタン海峡を飛行した後、
北に向きを変えてキューバ領土に侵入します。
その時点でU-2Fは72,500フィートに達していました。

ヘイザー少佐はカメラのスイッチを入れ、自分のミッションを行いました。
彼のU-2が島の上空にいたのは7分足らずでしたが、
あと5分滞在していたら、2つの地対空ミサイルにさらされる危険性がありました。

ヘイザー少佐にはドリフトサイト(爆撃機用の照準サイト)をスキャンして、
キューバの戦闘機や、最悪の場合、SA-2ミサイルが向かっていないかを確認し、
もしそうなら、ミサイルレーダーのロックを解除するために、
S字を描くように急旋回してから遠ざかるようにと指示がされていました。

しかし、キューバの防空網からは何の反撃どころか反応もありません。
ヘイザーはコースアウトして、フロリダ州のマッコイ空軍基地に向かい、
ちょうど7時間の飛行の後、米国東部標準時の0920に同基地に着陸しました。


着陸後、持ち帰ったフィルムはすぐにワシントンD.C.の
ナショナル・フォトグラフィック・インテリジェンス・センターで処理され、
最初に上がった画像は武装したガード付きのトラックで運ばれました。

解析の結果、NPICのアナリストは正午までにSS-4ミサイルの輸送機を確認。

10月22日、ジョン・F・ケネディ大統領は、ヘイザー大佐の写真によって、
ソ連がキーウェストからわずか90マイルのところに
核ミサイルの秘密基地を建設していることが証明されたと発表します。

それから起こった様々なことは今回の主旨ではないので省略しますが、
ソ連のニキータ・フルシチョフ首相がキューバからのミサイル撤去を命じたことで、
キューバ危機は終結することになったのでした。


ヘイザー中佐は、2005年にAP通信とのインタビューでこう語っています。

「危機が平和的に終わったことに自分以上に安堵した者はいなかったでしょう。
第三次世界大戦を始めた男として歴史に名を残したいとは思いませんから」




■ 歴代大統領と「偵察」
Presidents and Reconnaissance

アメリカの歴代大統領は、航空偵察による正確で最新の情報を信頼していました。
今日は最後にそんな偵察にかかわる大統領のシーンをお届けします。


航空写真を見るフランクリン・D・ルーズベルト大統領ジョージ・ゴダード准将
ゴダード准将については先日当シリーズで説明したばかりです。
いわば、アメリカ空軍の写真航空偵察のパイオニアというべき存在です。

偵察士官だった大統領の息子エリオット・ルーズベルト と組んで、
自分を性病検査のセクションに左遷した大佐を追い落とした、
というなかなかに黒い面を持つ人だったのが印象的。


Uー2航空機の役割について語っているドワイト・D・アイゼンハワー大統領

パイロットが撃墜されることになったU-2撃墜事件ですが、
スパイ行為を強く押し進めたのはアイクだった、という話でしたね。

この事件によって、冷戦の雪解けは棚上げになり、
アイクは絶好の歴史的名声を得るチャンスをレーガンに譲ることになります。


サムネで見たらビリヤードをしているのかと思ったのですが。
空中偵察で得られたデータから作成された3次元地形モデルを見る
リンドン・B・ジョンソン大統領


航空写真から作成した地形モデルを検討するジェラルド・フォード大統領
フォードの左で地図を指差しているのは、
当時国務長官だったヘンリー・キッシンジャーではないかと思われます。


空中偵察について説明を受けているジミー・カーター大統領
横に仁王立ちしている女性が誰かはわかりません。


偵察写真から得られた証拠について、
ロナルド・レーガン大統領が国民に語りかけています。

写真にはソ連のミサイルサイトが映っているようですので、
これは就任してすぐに、レーガン大統領が
ソ連を「悪の帝国」(an Evil empire)呼ばわりした時ではないかと思われます。

この何年か後に、ゴルバチョフと会談するためにモスクワに行ったレーガンは、

「今でも悪の帝国と思っていますか」

と聞かれて、すぐさまいいえ、と言った後、

「わたしが言ったのは別の時間、別の時代のことですよ」
"I was talking about another time, another era."

と答えたそうです。


続く。


京都紅葉のライトアップ(おまけ 国際空港のコロナ水際対策の現状)

2021-12-20 | 歴史

昨日MKがアメリカから帰国してきました。

成田に迎えに行ったのですが、結論としては連れて帰ることができませんでした。
今、海外からの入国状況がえらいことになっています。

迎えに行く前日、厚労省のHPに
「到着から検査が終わって外に出てくるまでの所要時間は1〜3時間」
と書かれていたので、自分の経験から、到着時間2時間後に
空港に着くように家を出たわけですが、駐車場に到着してから
MKからきたテキストを見てびっくり。

「着いた でも3日間ホテルで待機」

えええ〜!

オミクロン株の感染者が急激に増えたことを受け、水際対策が強化されて、
対象地域から入国した人は有無を言わさず3日ホテルで隔離され、
その後PCR検査で陰性なら空港に戻されるということになったのです。


いきなりの変更だったため、航空会社からの連絡などが全くなく、
わざわざ成田までいったのに連れて帰ることはもちろんできず、
(拒否したら『検疫法に基づく停留の措置を取る』とのこと)
ゲートから出てきてバスに乗せられるMKを見て帰ってきました。

帰ってSkypeで聞いたところによると、彼が連れていかれたのは水戸でした。

「水戸?なんで水戸」

空港から水戸まではバスで1時間半。
検疫所が棟ごと確保できるホテルが、成田&羽田周辺では足りなくなり、
急遽遠隔地のホテルを待機用にしているらしいのです。

ホテルに着いたMKによると、ベッドはメイクされておらず、
シーツも3日分積み重ねてあり、(ハウスキーピングが入れないから)
食事は時間になればドアのノブにかけてあるという拘置所並みの待遇だとか。

「こんな目に遭うとわかってたら絶対帰ってきてない」

まあそうだよね。


後から分かったところによると、水戸くらいならまだマシで、
便によっては、入国後そのまま飛行機に乗せられて福岡や名古屋に飛ばされ、
現地のビジホで3日待機して、また国内便で戻ってきているのだとか。

どんなイカゲームだよ。イカゲーム知らんけど。




さて、気を取り直して、今日はこの秋唯一の行楽となった
京都の紅葉見物旅行のご報告です。

旅行といってもTOは定期的に京都に仕事で行っており、秋からは
それまでリモートで行っていた各種作業が自粛明けにより
対面に変わったので、それに着いていったという程度ですが。

宿泊は前回もお世話になった祇園白河の料理旅館です。


今回は三年前に町屋を改築した別館の方に泊まりました。
暗証番号で鍵が開く方式で、一階と二階に一室ずつがあります。


寝室と座敷別、トイレと風呂は二箇所あって外国人もOK。
この日はもともとスイスからの家族連れが一棟全部予約していたのを
キャンセルして空きが出たので泊まることができました。


次の朝、表通りから人の声が聞こえてきました。



この近くには結婚式プランナーの事務所も多く、吉日の朝になると
この通りで町屋をバックに写真を撮る新郎新婦が何組も現れます。

「過激な愛情表現はご遠慮ください」
「大声での撮影指示などはご遠慮ください」

そんなポスターが街角に貼られるくらい、ここは結婚写真撮影の名所で、
人通りの少ない朝の時間帯にフォトセッションがいくつも行われるのですが、
ポーズをつける人が笑ったりする声が、案外家の中に響いてきます。

まあ、中国人観光客が京都中にあふれていた頃は、
聞こえてくる声の大きさはこんなものではなかったわけで、
今回の京都は人出の多さの割に街は静かな印象でした。

また、着物を着付けて街中を歩く女性は何人も目にしましたが、
皆日本人のせいか、とんでもない着付け(服の上に着物を着て靴はブーツとか)の
思わず目を背けたくなる集団がいなくなったのにはほっとしました。


関西ではCMにも出ているらしい女将は、元CAで英語も堪能。
泊まるたびに毛筆の心のこもった手紙を下さるのですが、
この日、チェックアウトの日に置かれていたのは
鳥獣戯画にさりげなく筆を加えた傑作でした。


マスク未着用のうさぎ、密そのもののお相撲を撮るウサギとカエル。


こちらのウサギさんはマスク着用です。


この後、非常事態宣言は解除されました。


ここでちょっと不思議な話を。

前回姉と妹が一緒にこの旅館にきてこの部屋に泊まったのですが、
妹がスマホで撮ったこの庭の写真には、半分透けた男性が写っていました。

「板前さんだ」「板前さんにしか見えないね」

男性は角刈りで、10人に見せたら10人が板前だというような容姿をしていました。
昔から同じこの場所で歴史を重ねてきた料理旅館ですから、
板前さんの想念が留まって居ても不思議ではないという気がします。

そのことを思い出しながら、今回何枚か撮りましたが、
わたしの写真にはその気配もありませんでした。


ここで鱧鍋をいただきました。
松茸が香りを添えます。


柿をくりぬいた中にぬたっぽいものが入った前菜。


別の日にはキノコたっぷりの「猪鍋」をいただきました。
薄切りにした猪肉は京都の名物で、あっさりした味わいです。


京都に来るとつい行きたくなるのが、鶏料理の八起庵。
TOは京都に行くたびに必ずといっていいほどここでお昼を食べ、
それから仕事に行っているので大将とも顔馴染みです。


この日は前もって予約して鴨鍋をいただきました。
先日東京の蕎麦屋で食べた鴨つけ蒸籠の鴨は固くてパサパサで、
まるでレバーのような味がしましたが、ここのはそんなのとは違い、
噛み締めるとじわっと旨味が感じられます。
「カモがネギ背負って」といわれるくらい、ネギとの相性は絶妙。
京都に行くことがあれば一度はお試しいただきたい、滋味なる一品です


タクシーに案内してもらって比叡山延暦寺に行きました。
延暦寺の根本中堂は現在大改装工事中です。

屋根を解体して葺き替えするのですが、作業のために
中堂全部を建物で覆ってそこで作業をしているのです。


逆に滅多に見られない葺き替え過程を見るチャンスです。
梁などには、前の改築のときの大工が残した署名が出てきたりするそうです。
100年に200年後の人々に見せるために自分の名前を書くのは
宮大工に与えられた密かな喜びだったに違いありません。


新し物好き&コーヒー好きの京都ですので、
やっぱりブルーボトルコーヒーが進出しているのでした。


さすが京都、古民家の壁をそのまま残して。
昔は料理屋だったのかもしれません。



わたしはノンデイリー(牛乳断ち)派なので、代わりに
オーツを使ったラテを楽しみますが、オーツと一言で言ってもいろいろあって、
一番美味しいと思うのがイギリス製のマイナーフィギュアズのオーツドリンク。

アメリカでは3ドルで買えるのに、日本ではお高いのが困りものですが、
ブルーボトルコーヒーでは、このオーツで作ったラテが飲めます。



いよいよ紅葉の季節到来です。
まずは旅館から歩いていける南禅寺に行ってみました。



なぜここから撮るのにこれだけ人が集中するのか。



ゆるキャラ風仏様。


南禅寺から哲学の道まで歩くことにしました。



哲学の道沿いでは、左耳を避妊済みとしてカットされたメスの「地域猫」が、
毎日餌をやりに来る近所の「猫おじさん」の出待ちをしていました。


紅葉の名所のひとつである永観堂では、この季節
夜間のライトアップを公開していました。
基本的に京都というところは夜になると神社仏閣は明かりを消して
その周辺すら真っ暗になるというイメージですが、
LEDの登場以来いろいろと変わってきたということです。

自粛が明けたばかりで、昼間の永観堂の参拝(っていうのかな)者も
大変な人出だったそうですが、夜の部のために一旦全員を追い出し、
改めて入場料を取って人を入れるということをしていました。


チケットの購買だけでなく、検温も行うので、
中に入るのにとてつもなく時間がかかりそうです。


わたしたちはこの1ヶ月前に一度京都に来ており、
誰も居ない状態の永観堂を拝観していたので、諦めて帰りました。


この日の夕ご飯は、四条の有名なニシンそばを食べに行きました。
お店の地下は地元のライオンズかロータリーの会合が行われており、
その談笑が1階に居ても聞こえてくるというくらい盛会の模様。

女将によると、自粛が明けてから集まってくる方々は
皆嬉しさのせいか、はしゃいで飲みすぎる傾向にあり、
女将の旅館でも酔っ払って旅館を出た途端転んで怪我をしたり、
ハメを外しすぎてハラハラさせられたりするのだとか。

またこれも女将によると、自粛中は、舞妓・芸妓の同伴も
時間制限が設けられており、8時以降お店にいると「自粛警察」の指導を受けます。

自粛警察は祇園の「中の人」が自主的に行うもので、これは、
舞妓ちゃんや芸妓ちゃんがいる席が感染源にでもなったら「えらいこと」で、
花街が「あかんようになってしまう」という危機感から行われていたとのことです。

そのときは自粛が明けた直後で、女将もこのような話を
思い出のように語っておられましたが、はてさて、
今回のオミクロン株、果たして事態はこのまま何事もなく収まるものでしょうか。

今回MKの入国でわかったのは、政府が必死で水際対策を行っていることですが、
人の流れを完全に止めるわけにはいかない現状ではどうなっていくことやら。