知覧には昭和16年、大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所が開校し、少年飛行兵、学徒出陣の
特別操縦見習士官らが訓練していましたが、戦況が悪化し特攻作戦が発動されると、
ここが本土最南端の陸軍特攻基地となりました。
沖縄で特攻戦死した隊員の数は1036名。
万世、都城基地、台湾各基地、そしてここ知覧基地を主な発進基地としていました。
知覧の人々は、若者たちがここを飛び立って二度と帰ってこないのをよく知っており、
海聞岳に向かって進路を取る飛行機に向かってこうべを垂れ、手を合わせたそうです。
戦後、ここから出撃した特攻隊員の遺品や遺影遺書を集め、後世に遺すことで
かれらがこの世にあったこと、ここから往ったこと、そして国のために死んでいったことを
語り継ぐのがそれを知る者の責務とし、知覧の住民はこの特攻平和会館を設立しました。
冒頭銅像は「とこしえに」と名付けられた特攻隊員の姿。
片手を拳に握りながら、もう片方の手はためらいつつ宙にむかって伸ばされようとしています。
「御霊のとこしえに安らかならんことを祈りつつ
りりしい姿を永久に伝えたい心をこめて
嗚呼 海聞の南に消えた勇士よ」
碑に寄せられた文言です。
桜の花がちらほら開き始めています。
5月3日には戦没者慰霊祭が行われ、全国から参拝者が訪れるのだそうです。特攻隊員の精神の顕彰を目的に1955年建立された観音堂。
あらためて言いますが、この特攻平和会館の事業主体は、国ではなく、
鹿児島県南九州市知覧町、となっています。
会館の運営は財団でも協会でもなく、町の人々の篤志と献身で行われているというのです。
知覧町をも襲った空襲のその合間を縫うようにして飛び立っていく特攻機。
街の人々は彼らに心からの感謝を捧げ、桜の枝や手作りのマスコット、日の丸、
彼らのなぐさめになりそうなものをを手渡し、見送りました。
知覧高女の女学生たちが、出撃前の何日間かを過ごす三角兵舎(上写真)の
特攻隊員の世話をし、彼らの出撃を見送ったというのも、彼らの現世での最後の日々を、
せめて充実したものにしてやりたいという知覧の人々の想いからでたことであったのでしょう。
特攻の母と言われた鳥浜トメさんもそんな住民の一人で、
決して知覧の人々の中で彼女だけが特別なことをしたわけではなかったのです。
ここにある三角兵舎は再現されたもので、写真などが飾られています。
知覧基地は広大で、三角兵舎は1000を超える数が点在していたそうです。
この日、時間が無くて見学をすることができなかったのですが、
このような特別展示がありました。
第24振武隊、安部正也大尉。
昭和20年4月29日、知覧飛行場を特攻のため出撃したうちの一機が、
機体のトラブルで鹿児島沖の黒島という小さな島に不時着します。
特攻隊員は、一人の島民の決死の協力により手漕ぎの小さな漁船で知覧に戻り、再度出撃、
約一週間後に今度は本当に特攻によって戦死しました。
最後の出撃の際、黒島上空を飛来した安部少尉は、住民の食べたことのないチョコレート、
キャラメルや大金(今の百万円ほど)、その他の物資を投下してから往ったと言われています。
この話を、安部大尉を生前知る人々にインタビューして、
「二度戦死した特攻兵 安部正也少尉」(学芸みらい社)というノンフィクションを書いた
福島昴氏は、同書の中でこんな帰還兵の話を書いています。
「私は、戦後ニューギニアから復員してきました。(中略)
ところが私を見た知覧の人々は、『ガンタレ!この敗残兵が!』と私を罵りました。
『わが身を顧みず肉弾となって敵艦に突入された軍神様と比べて、お前は何者だ!』
『負け戦をし、生きて帰ってくるとは何事だ。この恥知らずが!』
『特攻様を見てみろ!日本のために死んなさった神様だぞ!」
「軍神様」「特攻様」「神様」――
特攻隊員は知覧の人々にとってこのような神聖な存在でした。
それはなぜであるかというと、彼らが死んだからです。
特攻出撃したものの、敵に救出され、戦後生きて帰ってきたある兵士は、
負けた日本に強い怒りと失望を覚えずにはいられませんでした。
「敗残兵」「特攻崩れ」。
これが、日本を命をかけて守ろうと出撃していった彼らに投げつけられた声だったのです。
日本には死んだものを「仏様」と呼び、崇める死者信仰があります。
しかし、こういった話が全国どこにでも、数多く残されているところを見ると、
日本人の死生観の、このような死者信仰の対極にあるのは、
「生きているうちは神でも何でもない」
つまり取るに足らぬ存在にすぎないとして、生者を貶めることではないかという気さえします。
しかしながら、知覧の人々から生きて帰ってきたことを罵られたこの兵士は、
特攻隊員だけでなく、すべての戦地で亡くなった兵士たち―
遺骨のない者たちの聖地を作ろう、と考えます。
この猶原義夫氏が設立を始め、まず写真の「特攻平和観音」そして「特攻遺品館」
(現在の特攻平和会館の旧称)を、村の人々と協力しあって作り上げました。
村人に誹謗されるまでもなく、「自分が死ななかったこと」「生きて帰ったこと」が、
猶原氏にとって、慙愧に堪えないとでもいった忸怩たる思いになっていたのでしょうか。
特攻平和会館を入ったロビー正面には、「知覧鎮魂の賦」と題された3m×4,4mの
信楽焼陶板による壁画があります。
焔に包まれた特攻機「隼」。
もうすでにこの世に生の無い特攻隊員の魂を、
特攻機の周りに飛翔する六人の天女が救い出し、昇天させんとする構図です。
己の流した血か、紅蓮の炎に焼かれたのか、真っ赤に染まる隊員の身体。
磔刑になったキリストのように両手を広げた隊員を脇から愛しむように抱きかかえる天女と、
顔をつけるようにして両脚をを支える天女。
隊員の顔はたなびく純白のマフラーで覆われ、ただ左腕の日の丸が鮮やかです。
隊員を抱く天女の頭からはこの瞬間、冠が外れて飛び、やはり外れて飛んでいく「隼」の
風防と共に、桜花の一枝がなぜか宙を舞っています。
天女のひとりが携えていたのでしょうか。
それとも、知覧の乙女によって手渡され、最後まで操縦席の隊員の傍らに在ったものでしょうか。
この絵を見て涙し、救われ、或いは我が息子の魂もこうあれかしと願った遺族は
数多くあったといわれているそうです。
知覧特攻平和会館は、兵士たちの霊を慰める、遺骨なき墓として作られたのです。
(知覧鎮魂の賦)
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