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越山澄尭大尉~海兵67期の入校

2013-12-09 | 海軍人物伝

先日武道館で行われた自衛隊音楽まつり。
わたしはこの人気のイベントに1日二公演参加する僥倖を得、
一回目の公演が終わったときに息子をタクシーに乗せるため、
武道館に隣接する北の丸公園に沿った道を歩いていました。

一回目公演の音楽の余韻がまだ体内に興奮として残っているのに、
すでに次回公演への期待が高まっているらしいことに自分でも苦笑しながら
弾む足取りで歩き難い舗道を息子と進んでいると、
ふと目の端に、に引っかかったものがあります。

「兵」という文字。

普段このようなブログをやって、軍や戦争という事象に対して日常的に
アンテナを張り巡らせている目は、この文字を目ざとく識別していたのです。

それは、かつてここにあったという

「近衛歩兵第一聯隊跡」

の碑でした。

近衛歩兵第一聯隊は、日本最初の歩兵連隊として創設され、明治7年(1874)、 
明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和20年、大東亜戦争の週末に至るまで、
71年あまりの間この地に駐屯して、日夜皇居の守護に任じ、
大正天皇、昭和天皇も皇太子であらせられたとき、それぞれ10年の長きに亘り
御在隊遊ばされた名誉ある聯隊です。

西南、日清、日露の各戦役および日華事変には、軍に従って出生して
輝かしい勲功を樹て、大東亜戦争においては、帝都防衛の一翼を担いました。

これら近衛兵には、毎年の徴兵検査で
全国から厳選された優秀な荘丁を以て充てられたということです。


海軍兵学校67期、越山澄尭の祖父、越山休蔵は戊辰戦争以降、
「西郷隆盛の近衛兵」として、遡っては西南戦争をともに戦い、
子々孫々の誇りとなっている人物です。


わたしが越山澄尭の親族であるY氏から連絡をうけたのは、
この音楽まつりのことを集中的にエントリに挙げている最中のことです。
まるでその近衛兵の碑が引き寄せたようなその偶然の符号に、
わたしがそうであったように、Y氏も因縁めいたものを感じたそうです。

越山の甥であるというその人にとって曾祖父にあたる越山休蔵は、
西南戦争では第七隊長として官軍と戦い、その後少数精鋭の近衛に選ばれました。
西南の役を通じてそれだけ西郷に近かったためであろうと思われます。



「坂の上の雲」と並んで評価の高い司馬遼太郎の長編小説、

「翔ぶが如く」は、西郷と大久保利通が主人公であり、征韓論、明治6年政変、
やがて西南戦争へと向かう歴史の流れが俯瞰で描かれていますが、
この小説によると、 征韓論に敗れて西郷が下野した時、
直属の部下たちは揃って、近衛帽をお堀に投げ捨てて鹿児島に戻りました。

越山の家系には、休蔵がやはりそのようにして帰鹿したことが言い伝えられています。





全国数千人の受験者のなかから厳しい入学試験を経て選ばれた海軍兵学校67期生が

その燃ゆる若い希望に胸を躍らせながら江田島に集まって来たのは、
昭和11年三月末のことでした。
桜もまさに綻びんとすることで、かれらは入校式の二日後の4月3日、
海軍軍楽隊の演奏をその桜散る生徒館の中庭で鑑賞しています。
そしてその夜は「夜観桜会」が催されました。

ある67期生徒がその演奏会のことを後に書き残しています。

「軽やかなワルツや胸躍る行進曲を演奏する軍楽隊員の肩に、
ひっきりなしに桜の花びらが降り掛かっていた・・」

しかし、江田島の潮風はまだまだ春と呼ぶには冷たく、
中でも南国から来た生徒たちは

「どうも、寒いなあ」

と頷き合っていました。
もう気の早い人は袷(あわせ)を脱ごうかという気候であった鹿児島から来た
「兵学校の薩摩隼人」たちです。


この67期にも、248名の入学者のうち30人が同郷がいました。
最も出身者が多い東京の39名に次ぐ人数です。
なかでも、鹿児島一中、二中は出身者が多く、

東京府立4中・11名
鹿児島二中・8名
鹿児島一中・7名

と、両校出身者を足すとそれだけで同県出身者の半数になりました。

鹿児島というのは偉人西郷を生み、また軍人を多く排出しています。
そして実際にも西郷に仕えた軍人である越山休蔵の孫がこの67期に入学していました。
それが、越山澄尭です。

最初に越山生徒を見た同郷の生徒たちは目を見張りました。
それほどにこの生徒の第一印象は一種異彩を放っていたのです。

人一倍小さな身体、そして鋭い目をした精悍な面。
兵学校にやってきたときのかれのいでたちは、木綿の黒紋付に、
棕櫚の鼻緒の下駄を素足につっかけるというもので、

「ものすごいのが来た」

ある同郷の級友は最初の越山の印象をこのように記憶しています。
内地の南端とはいえ、昭和の文明の空気を吸った彼ら同郷の者にさえ
その風体は異様なものに思えたといいますから、
ましてや都の水に産湯をつかった「都会っ子」たちには、越山の姿は
もしかしたら「維新の遺物」と思われたかもしれません。


「男尊女卑」とも言われることもあり、平成の世である今でも
全国的にはバンカラのイメージがあるのが
薩摩隼人ですが、
一中時代の越山は、絵に描いたような「バンカラスタイル」
を押し通していました。

バンカラのバンは蛮、と書きます。
西欧風の「ハイカラ」をもじって出来たもので、ハイカラがこぎれいなお洒落なら、
バンカラは悪ぶったお洒落(と言えるのなら)で、一高生が流行の発信源でした。

定番のバンカラスタイルとは、弊衣破帽で、腰に手ぬぐい、高下駄、という、
そう、昔あった歌、かまやつひろしの「我が好き友よ」そのままです。

ワイシャツに似た木綿の白シャツに着物、そして袴に高下駄。
彼が、高下駄で「大いに短身をカバーしつつ」肩をいからせて歩く姿には
一種独特の風情があった、と級友は語り、
なかでも同郷でやはり鹿児島一中出身のある同級生は、

「その姿が印象的で今でも目の前にちらつく」

と戦後書き遺しています。 

入校式も終わり、入校直後の訓練が始まるにあたって、
67期指導官付きであり運用を任ぜられた指導監事の中山定義は、
彼ら67期生を海岸の松並木に集め手に訓示をしました。

「君たちはスマートな制服と短剣に憧れて、また遠洋航海で外国へ行ける楽しみ、
中には未来あの大臣、大将を夢見るなど、いろいろな動機で入校して来たことと思う。
しかし只今限り、そんなことは全部忘れてしまえ。
諸君は『太平洋の藻屑』とはっきりと覚悟せよ

以前このことを書いたとき、わたしは生徒たちが軍組織の非常さに
まるで背に水を浴びせられたような気がしたのではないか、と述べました。
しかし、あれから、当時戦いに身を投じた青年たちの様を、
残された文献や資料から見て来た今、一概にそうとも言えない気がしています。

この檄を飛ばした中山自身、戦後になって、その67期生に向け、

「当時私は30歳そこそこ、それは私自身の覚悟であり、国策の向かうところ、
米国海軍を目標としてその必然的宿命を予感しつつ猛訓練に精魂を尽くしていた
青年士官全員の心意気であった」

とかつての自分の心情を、弁解というわけでもないでしょうが、こう吐露しています。
おそらく越山ら、数千人の中から選ばれし者の自覚と誇りを持ってここに在った
67期生の生徒たちもまた、当時の風雲急を告げる世界の状況を
我が身のものとして、
祖国の急に身を投じる覚悟は、ある程度できていたことでしょう。


勿論、若さ特有のオプティミズムゆえに、自分の死を観念としか捉えておらず、
この訓示によって初めて現実に触れ、文字通り水を浴びせられる思いをした生徒も
少なからずいたかもしれませんが。



67期の入校式にあたり、出光万兵衛校長はこのように訓示しました。

「諸子を花に譬えれば、すみれあり、タンポポあり、れんげ草あり千差万別、
夫々に特徴はあるものの、本校において育成培養するところのものは、
かの朝日に匂う山桜花である」


「桜花」とは我が身散らすという意味において「海の藻屑」と即ち同義です。
ある生徒は「それでは自分を今譬えれば何の花であろうか」
と自問せずにはいられなかったそうです。

しかし、いかに戦雲急な時代とはいえ、教育機関の長が、
その面立ちに子供っぽさすら残した青年たちに、

潔く死ぬことを目標とせよと訓示するとは・・・。

江田島教育と言うのは長期的にはその後に続く海軍生活に必要な心身、
学術の基盤造りを目指し、短期的には少尉から大尉までの少壮士官を想定し、
一旦急あれば身命を顧みず勇猛果敢に戦う敢闘精神を養成し、
同時にこれを支える強健な身体を造ることを目指したものでした。

一度、作家の丹羽文雄が従軍し、「鳥海」に乗り込んで
ソロモンの夜戦を経験し書いた小説「海戦」を扱ったことがあります。
そこでわたしが心に残ったのが、丹羽が驚嘆した、
兵学校出身士官たちの徹底的とも言える「生の放棄」でした。

死に対する覚悟は、一応付いているつもりだ。(中略)
私はすでに自己放棄をやっている。
然し、死に関しては現実的に軍人にかなわないのだ。
軍人の示す完全な、おそろしいほどな自己放棄には、時間がかかっていた。
偉大な訓練の結果であった。


丹羽の言う「おそろしいほどな自己放棄」とは、遡れば海軍兵学校の入校の日、
自らを桜花に喩え、海の藻屑になることを覚悟せられた、この67期生のように、
海軍兵学校の教育を通して培われていったものと思われます。


 さて、越山澄尭は、入校教育の一環として、
4月12日に、呉の潜水艦学校を見学しています。
このときに彼が潜水艦勤務になることを何か予感したか、
あるいはこのときにその志望となる萌芽が心中発したか、

それはわかりません。

越山は1号(最上級生)のとき、21分隊で、
同じ分隊に、昨日エントリに挙げた古野繁實生徒がいました。

このときには自分の進路を内心決めていたでしょうから、
古野とそして越山は、同じく「どんがめ乗り候補」として、
お互い将来のことを話し合ったものと思われます。

そして、古野は昭和16年12月8日、開戦の当日、真珠湾に特殊潜航艇で突入し、
「真珠湾の軍神」となりました。

それから8ヶ月後の昭和17年、越山の乗り組んだ呂33潜は、
モレスビー沖で消息を絶ちました。
越山の戦死したのは呂33が消息を絶った8月29日とされています。



桜は桜でも、人知れず山に咲き、美しい盛りで誰にも賞賛されること無く散る山桜。
入校当時の彼が何の花であったかはもうすでに知るべくもありませんが、いずれにしても、
兵学校卒業後、越山は見事な山桜となり、そして散ったのでした。
 

 


越山生徒が入校して卒業するまでの67期の海兵生活について、
もうすこしだけ続けてみたいと思います。