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キャッスル航空博物館~B-29「超天空の要塞」の搭乗員たち

2014-01-31 | 航空機

カリフォルニア内陸のアトウォーターにあるキャッスル航空博物館
何度かお伝えていますが、軍用機のコレクションにおいては全米でも有数のミュージアムです。
大型機から無人機まで、大小計50機以上の軍用機が一同に集まっている様子は壮観です。

日本人のわたしには、生まれて初めて実際に見る軍用機ばかりだったのですが、
その巨大な機体の前に立ったとき、わたしも連れ合いも、思わず一瞬息をのむように沈黙し、
その後、

「これが・・・・」
「うん」

と言ったきりなんとも言えない気持ちで機体のマークを眺めていました。

B−29 スーパーフォートレス

われわれ日本人にとってこの響きには特別の感慨が呼び起こされます。
戦争を知らない世代のわたしたちですら。
大東亜戦争末期の本土空襲を経験している者がまだそこここに健在であったときには、
空襲警報のサイレンの音、防空壕に防空頭巾、焼夷弾、
そしてB−29という言葉が彼らの口から必ず出てきたからでしょう。

B-29が画期的だったのはpressrized、与圧室を全面採用した最初の航空機だったことです。

高高度を飛ぶ場合、機内の気圧ないし気温は低下します。

B−29が登場する1942年までは乗員乗客全員が防寒着の着用と酸素マスクが必須でした。
この問題を、高度1キロと同等の空気圧に室内を保つ与圧室を装備することでクリアし、
機内でも苦痛無く快適に過ごすことができるようになったのです。



以前「頭上の敵機」という映画についてお話しする中で、
映画に登場するB−17爆撃機について触れたわけですが、このB−17は中型爆撃機として開発されました。
こちらは、最初から長距離渡洋爆撃を想定して設計してあります。

開発当時世界はすでにヨーロッパにおける戦争に突入していましたが、
真珠湾以前であったアメリカは「平時開発」となります。
しかし、渡洋攻撃がどういうシチュエーションを想定してのものであったかというと、
それは当然のことながら日本を視野に入れてのことであったのは間違いありません。

現に真珠湾以降、本土爆撃が始まってから、B-29はその卓越した能力を生かして
日本全国に総計147,000トンの爆弾をばらまきました。

本格的に爆撃が始まったのは昭和19年の11月からです。
マリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアムから8時間かけて飛来し、
そして日本の各主要都市に隈無く爆撃を加えました。

「頭上の敵機」についてお話ししたときには、アメリカがヨーロッパで行った
白昼ピンポイント攻撃について、

「それは決して人道的な観点からの戦闘行動ではなく、
単なる効率の問題である」


と位置づけてみたのですが、それが正しかった証拠に、B−29が本土爆撃開始後
一ヶ月も立たぬ間にアメリカはその目標を無差別爆撃に切り替えます。


このミュージアムのB−29の説明では、

「広島、長崎への原爆はこのB−29から落とされ、それによって日本は降伏した」

つまり原爆を落とすことによって戦争を終わらすことが出来た、という
つまり殆どのアメリカ人がそう思っているあのおなじみの解説が
当たり前のように書かれていて、日本人としては腹立たしい限りですが(笑)
実際は日本が戦意を喪失し、終戦工作が一部で模索されるなどという動きにつながったのには、
実は原子爆弾以前の、このB−29による無差別爆撃であったと言われています。

原子爆弾投下はいわばだめおしの無差別爆撃だったので、これがきっかけとなった、

とするのももっともですが、日本で降伏の動きがあるのを察知したアメリカは、

「なんとしても原爆を日本で実験したい」

という事情から放っておいても降伏する日本に原爆をわざわざ落としたのです。

許さん鬼畜米。


それはともかく、民間人攻撃についてはアメリカ軍内部でも国際法違反であるとして

当初反対の声が上がっていました。
しかしアメリカは、この問題をこのように独断(ちうかこじつけ)して解決したのです。

「日本では民間の家で軍服や簡単な軍需機材を作らせている。
つまり民家も軍需工場と見なされるから国際法には違反しない」

許さん鬼畜米。




この手のノーズペイントを今回たくさん見ましたが、
どれもこれも悲しくなるくらいヘタです。
プロ並みのノーズアートを施した飛行機を一度くらい見てみたいものです。
日本だと、例えばクラスが一つあれば必ずそのうち一人くらいは
人並み以上の絵を描く人間がいたりするものだと思いますが、
アメリカではよっぽど絵のうまい人が少ないと見えます。

それはともかく、この悪魔のお姉さんにつけられたネーム、
これどういう意味か分かります?
わたしもここで見たときには全く理解できなかったのですが、
これを音読みしてみると

「ラツン・ヘル」

この「ラツン」というのは全く意味はなく、つまり

「ラプンツェル」

のモジリなのではないでしょうか。
何回言っても語呂がいいとはとうてい思えませんが、
とにかく「ヘル」を使いたかったと見えます。



ここにある機体は、チャイナレイクに遺棄されていた三つの機体を使って組み立てられました。
上記マーキングは、朝鮮戦争で沖縄基地から発進していた第19爆撃隊のものを踏襲したのだそうです。

このノーズに記されたおびただしい投下爆弾が、日本本土に対するものではない、
と知って、なぜかほっとしてしまいました。
もちろん、これだけの爆弾が朝鮮戦争で奪った命の数について考えないないわけではありませんが、
「自国民の命が奪われた証拠」
に関しては、ただの「事象」として見ることがやはりどうしてもできないんですね。


B−29という機体に対する複雑な思いも、つまりはそういう小さな「ナショナリズム」
から発しているのかと、少し苦笑してしまいます。


 


この博物館には、同じスーパーフォートレスと言う名のB−50も展示されています。

B-50はB-29の改良型で、垂直尾翼が非常に大きくなっています。



「ラッキーレディ2」という名前のB-50が、1949年、空中給油を繰り返し、
世界初の無着陸地球一周飛行に成功しています。
テキサス州のキャスウェル空軍基地を西回りで94時間後、同基地に帰着しました。




この機体は、天候観察用としてカリフォルニアのマクレラン空軍基地の部隊で使用されていました。
しかしその前は、対ソ用の原子爆弾のテスト機であったそうです。




「薄気味悪いほどでかい・・・・」

確か戦記漫画で初めてB−29を見た搭乗員がつぶやくシーンがありました。
「紫電改のタカ」の久保一飛曹でしたっけ。

こうして見ると、側面から見ただけはわからない「異常なでかさ」が
改めて実感されます。
翼の端から端まで43メートル。
スーパーフォートレス、とは見ての通り「超要塞」の意ですが、
wikiによると

「超空の要塞」

誰なの?
こんな中二病かはたまたマンガ戦記シリーズのタイトルみたいな訳をしたのは。

さて、いつぞや映画「海と毒薬」を当ブログでご紹介しましたが、
この話で医学部の人体実験に使われ殺害されるアメリカ人捕虜は、
B−29でこの地方に飛来して、対空砲で撃墜され落下した乗員、という設定でした。

実際の「九大事件」で人体実験の末死んだ搭乗員も、やはりそうでした。
1945年5月、福岡県大刀洗飛行場を爆撃するために飛来したB−29は、
日本軍戦闘機の空中特攻によって撃墜され、女性を含む搭乗員12人が捕えられます。
特攻した飛行機のパイロットは、落下傘で脱出しますが、他のB−29の機銃掃射を浴び死亡。
12名のうち8名が死刑とされ、九大で実験台になったわけです。

B-29による高度精密攻撃を行っていた頃、たとえ搭乗員は不時着して捕らえられても
決して危害を加えられることが無い、とアメリカ軍では言われており実際そうでした。

しかし、その後、無差別爆撃で一般市民が犠牲になるようになると、事情は一変します。
つまり、降下してきたアメリカ兵に皆でリンチを加え、時には殺害してしまうことも起きました。

当初はB-29の搭乗員とて、安楽な気持ちで攻撃に来たのではありません。
当初サイパンやテニアンから飛んでくる途中で機体不調のため無帰還となった機体も多く、
米軍が多大な犠牲を払って硫黄島を奪取したのも、すべては、
B−29の発進基地を本土に少しでも近くにするためだったのです。

たとえ本土までたどり着くことが出来たとしても、そこには猛烈な対空砲が待ち受けていました。
対日戦争で米軍の喪失した航空機の、65%が、高射砲によるものだという記録もあります。
19年の夏頃には、陸軍の「屠竜戦隊」によって80機のうち29機が撃墜されていますし、
「雷電」や「鍾馗」など、B-29の天敵というべき危険な戦闘機も待ち構えていました。


去年の6月、静岡県で、静岡大空襲のときに空中衝突(つまり特攻でしょう)で
墜落死したB-29の搭乗員の慰霊祭が行われました。
日米の軍、自衛隊関係者と遺族会が出席し、共に戦死者の為に祈りを捧げ、
B−29搭乗員の遺品である、焼けこげた水筒を使って日本酒とバーボンが碑に注がれました。

この慰霊祭で、ジョン・ルース駐日大使と米軍横田基地司令官はこのような挨拶をしました。

「静岡空襲の生存者は米国人犠牲者も同じ人間として扱ってくれた」
「敬意と慈悲を持ってアメリカ人搭乗員と日本人犠牲者をともに埋葬していただいた」

このような「米軍兵士慰霊碑」は、静岡だけにあるのではありません。
丹沢や青梅の山中などにも、地元の人々の手による慰霊碑が現存しています。

生きたB-29搭乗員を目の当たりにすると、鬼となって復讐の殺戮をするのは、
戦争という異常な価値観の中で、さらに肉親を失った人々にとってある意味当然かもしれません。
救いは、そういったことが禁じられており、必ず憲兵や警察が阻止に入ったことです。
言い訳するわけではありませんが、これは世界の基準に照らしても、おそらく
スタンダードな群集心理の範疇であろうと思われます。


しかし、死んでしまえば「皆仏」として丁寧に弔い、死者を決して冒涜しないのは、
日本人の精神性の中でも美点と言っていいものではないでしょうか。

アメリカ兵はその点、復讐心からというよりは蔑む気持ちから、
日本兵の死体を加工して本国に「記念品」として送ったりしました。
人種差別と侮蔑が感じられ、とても感情的に受け入れられない事実ではありますが、
例えば戦艦ミズーリに特攻した日本兵の死体を丁重に、
しかも旭日旗で包んで礼砲を撃ち水葬させた司令官や、
あるいはシドニー湾に突入した潜水艇の犠牲者を儀仗付きで丁重に葬送を執り行った
オーストラリア軍の司令官もいました。

少なくともこういう人間としての「もののあわれ」を知ることの出来る国同士であれば、
戦争が終わってしまえば友好関係を築いていくことが可能でしょう。

日本人が、無学な民衆の末端に至るまで「死ねばほとけ」のあわれを知る
非常に希少な民族であることは、我田引水というものかもしれませんが、
戦った相手にとって大いなる驚きと慰めとなったでしょう。

お互いが自分の信じるもののために戦うのが戦争です。
そこで失われた命を悼み、恨みをすべて水に流し等しく慰霊することのできる、
惻隠の情、という「仁」を知る国に生まれたことを誇りに思います。



大戦中、日本本土の空襲に参加したB-29の死者、行方不明者は、
3041名。

この中には、収監されていた広島、長崎に落とされた原子爆弾、
そして各都市の捕虜収容所に収監されていてB-29の落とす爆撃で死亡した捕虜も含まれます。