ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「高松から京都まで車で1時間半」

2016-06-04 | お出かけ

高松は金刀比羅神社境内において行われた掃海殉職者追悼式も
無事に終了しました。
前日の予行演習のとき、わたしは自衛隊広報の方に説明を受けていたのですが、

「5月の最終土曜日にこうやって追悼が行われているということを
少しでも多くの人に知っていただきたいのですけどね」

とおっしゃったので、わたしも微力ながらここでお伝えできることもあろうかと
追悼式の様子もできるだけ写真に撮り掲載いたしました。
無論、黙祷や追悼の言葉、国旗掲揚や儀仗隊の弔銃発射の間は列席者に徹し、
写真も献花のときに撮るなど、近くに座っている人たちと同じようにしたつもりでしたが、
某雷蔵さんから「正式な追悼式列席者が写真を撮るのは如何なものか」とのご意見を賜り、
それもごもっともなご指摘であると思った次第です。

後から考えると式の間は海自のカメラマンやふりかけさんが写真を撮っておられましたし、
何人かの追っかけ?的な人も式の間ずっとあちらこちらで撮影をしていたわけですから、
何もわたしが無理をしておじさんたちの頭越しに写真を撮る必要もなかったのですが、
そこでつい立場を弁えずに頑張ってしまい、反省することしきりです。



さて、式終了後車を停めていた観光センターまで自衛隊のバスで送ってもらい、
そのあとはわたし、会長、ふりかけさん、自衛官の母4人でお昼を食べました。
昨日タクシーで連れて行ってもらった「神椿」ですが、ナビに入れると
このナビがとんでもない農道みたいな細道を走らせた上、遠回りをさせるので
2回も現地の人に道を聞く羽目になりました。

写真は神椿に行くためだけにある細い道で、車がすれ違えないので
5分くらいの信号で交互通行しています。

イノシシが出没いたします、ご注意くださいと書いてありますが、
イノシシが出たからといってどう注意せよというのか。



駐車場から神椿に行くのにはこの「えがおみらい橋」を渡っていきます。
どう考えても神椿のためだけにあとから山の山麓同士をつないだらしい橋。
よくまあ一軒のレストランのためにここまでするものだと思います。

入り口にも書いてありましたがここは車の通行は禁止されています。
空中にワイヤで吊ってある橋らしいので重量をかけられないのでしょう。



橋の途中から下を眺めると、道のない深い森の緑が鬱蒼としています。



新日鐵とサカコーという会社が施工を行ったというプレートあり。

「COR-TEN鉱床材」(コルテンこうしょうざい)

なる耐候性鉱床(鉱物の濃集隊)を「奉納」したとあります。
つまりここも金刀比羅神社の関係ということになりますね。
ちなみにコルテンというのは無塗装で使用しても天候によって錆びることがないので、
塗装がいらず補修費用の多大な節約になるというのが謳い文句です。



昨日海自の幹部がここで食事をしていましたが、それは追悼式の恒例だそうです。
ここでは資生堂オリジナルのレトルト食品など物販も行っており、
ふりかけさんは「ここでしか買えない」というオリジナル香水を購入しておられました。

「階段を上がって汗をかいたしお風呂に入れなかったので・・」

「・・・その香水の使い方は少し間違ってると思う・・」

香りをかがせてもらったところ、昔母親の使っていた化粧品のような
懐かしい雰囲気の匂いがしました。



金刀比羅神社との関係をなにやら放映していましたが、食事をしていて
ほとんど見ることはできませんでした。
ただ、この金刀比羅宮の権宮司、琴陵泰裕氏は先ほどの追悼式において
背広姿で追悼の辞を述べたばかりだったのですぐに気づきました。

大変お若い方です。
調べたところ権禰宜は日本水難共済会という会にも関係しておられるようで、
というのも金刀比羅宮は昔より海の神様とされているからでしょう。
それが広く認知されるようになったのは、塩飽の廻船が金毘羅大権現の旗を掲げて

諸国を巡ったことに由来するといわれています。

境内には古来から海自関係者の奉納物が多く見られ、これこそが
海上自衛隊総会殉職者の追悼式の場としてここが選ばれた理由だと思われます。

ちなみに、これはふりかけさんがお聞きになったそうですが、
この式典が「慰霊祭」ではなく「追悼式」であるというのも厳格には間違いで、
 「慰霊祭」は、慰霊式とは別に、非公開で前日に行われているのだそうです。

「慰霊祭」とは別に「追悼式」を行うようになった経緯には

「海上自衛隊が神式の慰霊祭を行うのは如何なものか」

との指摘があったから(どこから?)ということだそうです。



さて、ここは資生堂パーラーでありますので、壁には創業当時の
銀座の資生堂パーラーの写真がかけられています。
こちら、大正8(1919)年の外観。
この年、第1次世界大戦の終結に関するパリ会議が行われ、ローザ・ルクセンブルグが
虐殺され、日本では関東軍が設置され、やなせたかしが生まれています。

開業1902年と言いますから、日本海海戦のまえにはもうあったんですね。



昭和10(1935)年の内観。
1928年(昭和3年)には「資生堂アイスクリームパーラー」と改称し、
本格的な洋食レストランとなりました。
メニューには、カレーライスやオムライスなどがあり、モボ・モガや新橋芸者衆など、
当時のイケてる若者が集まる一方、いわゆる昔からの上流階級を顧客に持ち、
「成功率の高いお見合いの名所」でもあったそうです。



ビーフカツレツ(昔の人はビフカツといった)やチキンライス、
カレーライスなどいかにも洋食屋といったメニューの中から、
本日のランチを選択しました。



サラダ、肉、魚に小さなカレーライスという組み合わせ。


 
デザートは二種類から選べたので、クリームブリュレを選びました。

ブリュレが緑に見えるのは、確かオリーブオイルの関係だったと思います。 



わたしと自衛官母、自衛官母と会長、会長とふりかけさんは初対面でしたが、
追悼式に出席(自衛官母は”息子が参加したこともあるので是非一度見てみたかった”とのこと)
するという目的を同じくする者同士で話は弾み、あっという間に時間が過ぎました。

入るときに地面を濡らしていた小雨もすっかり止んでいます。



レストランの敷地内にあるお寺のような建物に皆が注目しました。
ふりかけさんがわざわざ前まで見にいったところ倉庫だったそうです。



「なぜこんな立派な、というかお寺の御堂のような倉庫が・・」

とそのときは訝しんだのですが、この写真を見て謎が解けました。
「神椿」は金刀比羅宮の本殿まで上がる坂道の途中に位置し、
山道を登っていく人からこの倉庫はよく見えるのです。
そこに倉庫然として無粋な建物を建てることを良しとせず、
わざわざこのような、しかも年代を経ているかのような建築にしたのでしょう。

もともと「神椿」を金毘羅宮の中に建てるということは、金毘羅宮の中の人が
資生堂に依頼する形で決まったということらしいので、ここまでの気配りも
当然かと思われます。



その後はわたしと会長、ふりかけさんと自衛官母の二台の車に分かれ、
わたしは会長を琴平駅で降ろしてそのまま瀬戸大橋を渡りました。

なぜか。

実はこの後わたしは1年前から予約を取っていた京都の宿に
夜までに行かねばならなかったのです。
白河沿いにある料理旅館で、一年前のホタルの季節に泊まったTOが
大変良かったので家族で泊まるためにその頃から予約をしていたのでした。

当初追悼式の出席はこのため諦めていたのですが、

「ホタルを見るのが目的だから追悼式が終わってから一人で来ればいい」

と言われて、あまり考えもせず車が便利だろうとレンタカーを借りました。
ふりかけさんが、

「京都までなら電車で瀬戸大橋を渡って新幹線で行ったら早くて楽じゃないですか」

というので、わたしは

「車で行くと案外早いらしいので。1時間半くらい?」

と軽く答えました。
この「1時間半」というのがいったいどこから出てきてそう思ったのか、
後からわたしは自分でも悩むはめになるのですが、この辺の地理に詳しい方なら
高松市から京都市まで車で1時間半で行けるわけがない、と驚かれるでしょう。

わたしがその1時間半が5時間の間違いであることに気がついたのは、
瀬戸大橋を渡りきってすぐにでてきた道路標識に

「神戸まで160キロ」

と書いてあったのを見たときでした。
家族にも料亭の女将さんにも笑われ呆れられたのですが、
どうやらわたしは四国と淡路島の距離感を取り違えていたようです。
(淡路島でも1時間半は無理だという説もありますが)

しかもたったひとりで5時間高速をレンタカーで運転する(おまけに車はインプレッサ)
という自分の運命に絶望した途端、運転する人ならお馴染み、
あの、高速走行中における「耐えられない眠気」が襲ってきました。

一瞬ふっと意識が飛んで恐ろしくなったわたしはつぎの休憩所に飛び込み、
駐車場で10分仮眠を取り、その後は不思議なくらい元気になって
無事日が暮れると同時に京都に到着したのです。



瀬戸大橋を車で渡ったのは初めてでした。
当たり前ですが延々と海の上を高速道路が連なっています。
日本の橋梁技術ってすごいなあと感動しつつも、一方で
橋のガードレールがあまりにも低いので、

「もし今地震が来たら、まず確実に車ごと海に落ちるであろう」

という不安が拭いきれず、一応海側ではなく内側の車線を走りました。
瀬戸大橋の地震対策ってどうなってるんでしょうね。