さて、某老舗デパートのツァーで行く自衛隊駐屯地見学の旅。
久里浜駐屯地の通信歴史館の展示物をご紹介していこうと思います。
といったものの、ここが通信学校だったということで、展示物はほとんどがこのような
通信機器の数々で、はっきりいってわたしには面白いというものではありません。
しかも、暗い室内で露出を上げすぎて説明の文字が飛んでしまい、
後から見たらなんなのかさっぱりわからないものばかりになってしまいました。
こちらは昭和18年製の「全波ラジオ」。
オールウェーブのことで、短波に対して全波です。
日本で放送が始まってから大東亜戦争が終結するまで、短波放送の受信は禁止されており、
少数の全波受信機が生産、輸入されていたといいますが、これは軍の設備で、
山中電気工作所、現在の山中電気工業が製作したものです。
山中電気のHPには、大戦末期の昭和19年には社屋が消失したことが書かれています。
右も受信機で、ヘッドフォンの形はコードが布で巻いてある以外今と同じです。
九二式受信機と書かれているこれ、黒板消しのようですが、
なんとこれがコイルなんですね。
この件に関してはわたしは設明を放棄いたします。
92式受信機
海軍特注のものらしく、ラバウルでもこれが使われていた様子が再現されています。
98式無線試験機器。
動作状態にある無線機器の電流の測定などをする機器です。
左から「真空管電圧計」。
その左、陸軍の機器で、「94式3号型特殊受信機」。
これは「諜報用」(つまり盗聴用?)であるということです。
短波は一般に禁じられていたと言いましたが、それは軍が使うからです。
これは「92式特受信機」。
昭和17年5月の製造プレートがあり、「日本無線電信電話通信会社」
と書かれています。
昔このブログで、日露戦争の勝因の一として、海底ケーブル、
いざ戦争となった時に遮断されてしまわない外国の手を借りないケーブルを
作る必要があったため、それまで大北電信会社(という名前のデンマークの会社)
に頼っていた海外通信網以外に、国産の通信網を作ったことがあった、
と書いたことがありますが、それがこの日本無線電信電話通信です。
明治34年にはすでに存在していた沖電気(創業1881年)が製作、
陸軍が使用していた有線の通信機。(右側も)
「94式3号甲無線機」。
通信距離は10キロで、人が背負って運ぶことのできる近距離用電話、
ということで昭和8年、当初は騎兵用に開発されました。
(騎兵用なら人が運ばなくてもいいのでは、ということはいいっこなし)
陸軍の歩兵用に開発された無線機。
歩兵だけでなく、砲兵、騎兵、工兵と大量に生産され使われました。
通信距離は10キロだったということです。
左、陸軍「99式飛1号無線機」。
移動式の無線通信機材で、航空部隊用に昭和14年制定されました。
航空部隊用、つまり航空機に搭載するものなので通信距離1000キロ。
単座の航空機無線機としては当時の最上級種でした。
むかーしうちにあった古い電気アンカのコードがちょうどこんなでしたが、
これが当時の最新機器であったとは信じられません。
その右側は今で言うところのGPS。
当時は「無線方向表示器」と称しておりました。
昭和12年から近接戦闘兵器として開発され、昭和15年に完成。
徒歩小部隊用に数十機生産されましたが、結局制式になりませんでした。
これが投入されていれば変わる戦況もあった・・・・のでしょうか。
陸軍が使っていた双眼鏡で、「98式砲隊鏡」。
兵隊さんたちは「蟹目鏡」と呼んでいたそうです。
塹壕などから敵陣の状況を見たり大砲の弾着距離を測ったりするのに使われました。
遠くを見るために作られているというのはわかります。
無線通信用 92式微光機。
微光機って、何?って感じですが、考えられるのは
手回し式で発電する省エネ型発電無線通信機でしょうか。
これも陸軍航空部隊用の通信機材。
「99式飛3号無線」
「電けん」ってなんでしょうか。
この写真から察するに、ツートンするときに打つものみたいですね。
「電けん」=「電鍵」(鍵盤の鍵)ではないかと予想。
海軍の「方向信号灯」(右)と受信点灯照明灯(左)。
昭和33年の機器があるところを見ると割と新しい真空管など。
もっとも「おお!」と思ったのが実はこの地図。
これなんだと思います?
実は久里浜駐屯地、通信学校時代はこのように地下道路が
まるで網目のように張り巡らされていたのです。
ふーむ、これってもしかして防空壕じゃなくて地下道の入り口?
地下通路の地図には「侵入可」などが記されています。
ただし、地図が作成されたのは昭和26年。
地下道を調査して記録した後埋めたのかもしれません。
昭和41年の久里浜駐屯地全図。
なぜかソ連製の無線機なども展示されています。
これもソ連式野外電話機。
海自の技本から提供されたと書いてあるので、昔参考資料として
所持していたものかもしれません。
これら企業提供によるアメリカ製通信機器。
NEC太陽電池が。
この太陽電池というのを調べても出てこなかったのですが、
いまでいうソーラー電池の走りでしょうか。
海軍の軍服や短刀なども提供されたものがガラスケースに収められています。
右側の薄緑の軍服は第三種軍服といい、わたしも着たことがありますが(笑)
昭和19年に制定されたもので、もともと地上部隊のために作られたのを、
艦船が減少し、地上部隊が増えて、戦争末期には全員がこれを着ていたようです。
ソロモン諸島で収集された日本軍兵士の遺品の数々。
錆びた鉄カブト(銃痕あり)、銃ホルダーや底の抜けた水筒など。
硫黄島で採取されてきた硫黄となぜか「さそり」。
防衛大学校の学生は硫黄島研修で「砂や石を持ち帰るな」と言われるそうですが、
こういうものを持ち帰ることは大丈夫なんでしょうか。
ちなみに先日話した陸自某駐屯地の司令は自称
「霊感の強い」方で、硫黄島である地域に足を踏み入れた途端
激しい頭痛に襲われ、外に出た途端けろっと治ったそうです。
わたしもサイパンで全く同じようなことになったので盛り上がりました(笑)
七つボタンに襟章の翼。
当時世の若者の憧れの的であった予科練の軍服です。
ところで、海自航空機パイロットの養成にあたる小月教育航空群では、
今春入隊した第68期航空学生の女子学生(11人)から
予科練でおなじみ「七つボタン」の着用(試行)を開始しています。
海自は昭和45年に航空学生の制服としてすでに伝統の「七つボタン」を
採用していましたが、着用は男子学生のみとなっていました。
しかし、女子学生から「七つボタンを着たい」との強い要望があることや、
海自では女性パイロットも増えていることから、女子用「七つボタン」が
約1年間の試行を経て、来春にも正式採用の運びとなるということです。
「七つボタンを着用することで、男女問わず海自航空学生としての強い自覚が生まれ、
旧海軍から続く伝統を背負うことになる」
と小月基地広報は語っているとか。
伝統は伝統でも、すっかり時代とともに「御法度」になってしまったのが
「軍人精神注入棒」の使用。
この手で彫ったとおぼしき精神注入棒には、殴られて気を失った新兵さんの
血と汗と涙、怨嗟の数々がしみ込んでいるのです。
アメリカの軍隊ではこの手の「注入」は行われませんが、そのかわり
その方がマシではないかというくらいの厳しい訓練と、鬼軍曹の
人格を否定して自我を崩壊させるほどの罵詈雑言で鍛えられます。
戦場で究極の非人間的な空間に放り込まれるのであるから、それくらいが
当たり前というのが映画「フルメタル・ジャケット」で描かれていましたが、
紳士的で民主的な自衛隊は、いざとなったらメンタルが果たしてもつのだろうか、
と妙な心配をしてしまいます。
何しろ、軍のリンチに近い「罰直」は、それを受けた兵士が
戦場など全く怖くない、むしろ戦場の方がまし、と言い切るくらいのものだったそうですから。
続く。