さて、横須賀ウォークの合間に昼ご飯を食べるために立ち寄った
横須賀人文・自然博物館でまたしても独自に走り回って写真を撮り、
そこから結構いろんなことを知ることができたのが嬉しいわたしです。
万永元年の遣米使節団のイケメン侍が柳原白蓮のお爺さんだったなんて、
こんなことでも調べなければ一生知らないままでした。
まあ、知ったからってそれがどうしたって話ですが。
さて、その使節団の目的のメインは条約の調印だったわけですが、
日本政府の目的は主にアメリカの工業施設、造船所、製鉄所を知ることでした。
遣米使節団の目付役だった小栗忠順がその後横須賀の
製鉄・造船業の勃興に大きな役割を果たしたことからも、
このとき彼らがアメリカで見聞きしたものがどれだけ
日本の工業化にダイレクトに役だったかってことですね。
で、下の写真は1865年に寄稿された横須賀製鉄所ですが、
使節団の渡米が1860年であったことを考えると、
猛スピードで明治政府は近代化を推し進めていたのがわかります。
この説明によると一行は「メーア島の造船所」を見学したとのことです。
サンフランシスコにメーア島なんてあったかしら、と調べてみると、
Mare Island Naval Shipyard(メアアイランド海軍造船所)
というのがサンフランシスコ市の対岸にあるバレーホにあったようです。
バレーホは住んでいるときにもナパバレーに行く途中に通り過ぎるだけだったので、
全くそういうのがあることも知りませんでした。
咸臨丸はアメリカに到達したときにまずサンフランシスコ湾の第9突堤に
停泊したということですが、ゴールデンブリッジ公園には日本人が建てた
咸臨丸の碑があるのだそうです。
バレーホには海軍歴史博物館もあるということですし、
今度サンフランシスコに行ったら見てきますかね。
そしてその後咸臨丸はメアアイランドの造船所で修理を行ったとのこと。
それにしてもこの写真のキャプションですが、
「サンフランシスコでもメーア島の造船所を見ていた!
ワシントン滞在中に、幕府は海軍を構成し、造船所を作りたいと
目的を公表していた!」
なんか博物館の解説文にしては妙に躍動的というか変な文章というか(-。-;
ところで冒頭の絵皿は、咸臨丸がアメリカに渡った1860年を
日米交流元年として、その100年後の1960年に作られたものです。
さて、全権団は咸臨丸ではなくアメリカの艦船で渡米をし、別の米艦船で帰ってきました。
咸臨丸は全権団に随行する形で出航し、太平洋を渡ってサンフランシスコに到着。
つまり全権団は安全な?アメリカの艦船に乗り、咸臨丸渡航は完全に
「初挑戦」を目的としていました。
もっというなら別に行っても行かなくても良かったってことになるのですが、
それでも条約を締結に行くのに相手国の船で往復して終わり、では
日本という国の強さを相手に示すことはできない、条約を批准するにあたって
決して向こうから甘く見られてはいけない、という駆け引きがあったればこそ、
咸臨丸という日本の船はとりあえず太平洋を越える必要があったわけです。
実際は、太平洋を初めて長期航海する咸臨丸の日本人船員たち(勝海舟含む)は、
航海中船酔いで倒れてしまい(そりゃそーだ)、航海になれたアメリカ人船員が
ほとんど操舵をしてアメリカに着いたという話もあるのですが、とにかく
咸臨丸(と勝海舟)はそれを成し遂げ、使節団の象徴として歴史に残ることになりました。
ところで、世の中には「勝海舟と咸臨丸」が象徴としてクローズアップされ、
何かにつけてそれを中心に使節団が語られることを良しとしない人(たち?)
がおりまして、この方(たち)は
「咸臨丸を教科書から外す会」(仮名)
というのを作り、「咸臨丸病の日本人」の目をさますべく啓蒙活動しておられます。
”本末転倒の持ち上げられ方”をされる勝海舟と咸臨丸の実態はこうこうだった、
これに対しまるで添え物のような全権使節団をどちらもちゃんと評価せよ!と。
ご興味のある方は検索すればサイトが出てくるのでご一読されればと思いますが、
とにかく、あらゆる刊行物、新聞記事、教科書に「咸臨丸と勝海舟」をいう文字を
見つけてはそれは違う!これは間違い!とこまめにツッコミを入れておられます。
たとえば、
「初めてのサムライ、アメリカで熱烈歓迎」
という写真の前のページに勝海舟がアップで載っていたので、
「これでは咸臨丸でアメリカへわたった勝海舟らが
大歓迎を受けている、と(読んだ人は)理解(誤解)する」
また、遣米使節一行と従者がワシントンやニューヨークの町中で歓迎される写真は
「よほど知ってる人でなければ咸臨丸の勝海舟が
ワシントン・ニューヨークで歓迎されたと(見た人は)錯覚する」
冒頭の絵皿は、日米修好通商条約100年記念のものですが、
このときに同じ図柄で発売された記念切手に対しても
「遣米使節が乗っていない咸臨丸」など切手にするな!と怒り心頭のご様子。
まあ、気持ちもなんとなくわからないではありませんが、この人(たち)は一体
何と戦っているのだろうか、と失礼ながら少し不思議に思います。
咸臨丸と勝海舟ばかりがほめそやされ、遣米使節団が割を食っているってことなんでしょうか。
今日の我々は遣米使節団によって通商条約が結ばれ、彼らがアメリカで視察したものが
日本の近代化に大きな役割を果たしたということをよく知っていると思うのですが。
おそらく、その方(々)がこの博物館に来たら、この日米100年記念の絵皿を見て
「咸臨丸には遣米使節は乗っておらんかったんだ!それを・・それを・・っ!」
と館員に食ってかかったりしちゃうんでしょうか。考えたくはありませんが。
歴史の真実をあくまでも追求する、これは大事なことだし、学者であれば
一生それを追い求めてしかるべきでしょう。
そしてその主張と啓蒙活動にわたしはなんら意を挿むものではないのですが、
それでもあえて言わせていただくと・・・。
たとえば遣米使節の象徴として何かをこのように絵皿にするとしたら、
逆に咸臨丸を差し置いて使節が乗ったアメリカの艦船を描くのは果たして妥当でしょうか?
(彼《ら》は製鉄所にずらりと並んだ遣米使節をその象徴にせよと言っている模様)
たとえ勝海舟が船酔いで役立たずだっただろうが、使節団が乗っていまいが、
このときの遣米の象徴にするために日本政府は日本の船をアメリカに遣ったのですし、
それはれっきとした史実で動かしようのないことだと思うのです。
あ、そうそう、以前目黒の幹部学校に表敬訪問に伺ったとき、
学校長である海将にいただいたメダルには確か咸臨丸が刻まれてたなあ・・。
この人(たち)はこういうときにも学校長にメダルを叩きつけ
「咸臨丸には遣米使節は乗ってなかったんですよお!」
っていうんだろうか。考えたくもないけど。
というわけで、なんでこの人(たち)が咸臨丸と勝海舟を目の敵にするのか
いまいちわからないままですが、とにかく話を先に進めることにしましょう。
さて、未知の国ジャパーンから来た77人のサムライは、アメリカ人の好奇心を掻き立て、
滞米中常に人々に取り囲まれていたといいますが、とくに、そのなかで
アメリカ人(特に女性)の”アイドル”になった日本人がいました。
アメリカ女性に囲まれてモテモテのサムライがいますね。
これがトミーこと立石斧次郎でした。
養父の立石徳次郎は長崎出島の通辞(通訳)で、斧次郎も長崎にあった
学校で英語を学んだといわれます。
当時17歳の斧次郎は渡米の途にある船のなかでもペット的存在でしたが、
アメリカに着いてからは特にアメリカ女性のアイドルにもなります。
かれは、きょうびのロックスター並みにファンがいたそうです。
'Tommy,' as he was known, was especially popular
with American women, treated "like a present-day rock star”.
なんと、かれのことを歌った「トミーポルカ」なる曲まであったとか。
TOMMY POLKA
Wives and maids scores are flocking
Round that charming little man,
Known as Tommy, witty Tomy,
yellow Tommy, from Japan
奥様方もお女中も、群れをなし
チャーミングな小さな男のまわりに群がるよ
その名はトミー、賢いトミー、黄色いトミー、
トミーは日本からやってきた(エリス中尉訳)
なんだか対等な人間扱いという感じがあまりしないのはなぜだろう。
まあとりあえず、アメリカ人はこのように彼を愛していたようです。
”ロックスター”といっても、そこは当時のアメリカのことですから
熱狂するといってもせいぜい全米から手紙が殺到するというレベルでした。
どうして77名のサムライの中で、彼だけがこんなにもてはやされたかというと、
どうもその理由は本人のキャラクターにあったようです。
全米を熱狂させたファースト・イケメン・サムライ
写真を見るとイケメンとはとても言い難いトミーですが、
関西で言う所の「いちびり」で、クラスに一人はいる明るい人気者、
という当時には、とくにサムライには珍しいキャラクターが、
アメリカで発揮され、アメリカ人に歓迎されたようですね。
本人も異国で信じられないくらいのモテぶりにさらにハッチャケてしまったようで、
「アメリカ女性と結婚してアメリカで暮らしたい」
てなことを思わず口走ってしまっています。
さらにトミーは笑顔が素晴らしく、当時のアメリカ人によるとたいへん
着こなしのセンス、着物の色使いが良かったということも書かれています。
しかし、いかにモテても「この人と結婚したい」という果敢なアメリカ女性は
どうやら一人もいなかったらしく、トミーの要望は言っただけに終わり、
彼は遣米使節が帰国の途に着くとおとなしく一緒に日本に帰っています。
それにしても気になるのは、人生最大の「モテ」をすべて
アメリカで使い果たしてしまった(笑)彼のその後です。
日本に帰ってから、トミーは江戸にあるアメリカの公使館(昔の大使館?)に
通訳として就職し、同時に英語の教師としてたくさんの生徒を教えました。
彼はいわゆる王政復古、1868年に江戸幕府を廃絶し新政府樹立の時、
戊辰戦争では反新政府側について戦い、脚を怪我した、というようなことも
アメリカでは報じられたようです。
その後彼は東京に戻り、名前を「ナガノケンジロウ」と変えて、
新政府側の逮捕を逃れました。
ちなみにこのときに、同じ遣米使節の目付役であった小栗忠順は、
薩長への徹底抗戦を唱えて斬首されています。
そんなトミーが、またアメリカに行く日がやってきました。
1872年、岩倉具視を正使とした岩倉使節団の107名の一人として
アメリカとヨーロッパ訪問に加わったのです。
そのとき、1843年生まれのトミー、29歳。
17歳のときにはモテモテだったトミーですが、岩倉使節団のときの
訪米でまたモテモテだったかどうかは話題になっておらず、
それどころかwikiの「岩倉使節団」の錚々たるメンバーの中では
通訳だったトミーは「その他」扱いで名前も出てきません。(T_T)
トミーも名前を載せてやってくれ。
さて、無事岩倉使節団での任務を果たし日本に帰ってきたトミー、
「北海道開拓のための産業省のオフィサー」
と英語ではなっているので、これは北方開拓のために作られた
開拓使という官庁のことで、省と同格の中央官庁に官吏として
就職したということのようです。
ところが彼の職歴はそこで終わらず、語学堪能を見込まれて(多分)
1887年から1889年まで、ハワイの移民局の最高責任者として当地にいました。
YouTubeの「トミーのポルカ」に出てくるトミーと洋装の家族写真は、
そのときに家族同伴でハワイに赴任していたのではないかと思わせます。
このときトミー44〜46歳。
その後、トミーは順調に出世をして、1891年には大阪高裁の公式通訳になり、
1917年1月13日、64歳で生涯を終えました。
彼は生涯、アメリカでの一時期を振り返っては
「あのときの俺、なんであんなにもてたんだろう」
と不思議に思っていたであろうことは容易く想像されます。
誰にも人生一度は訪れるモテ期とはいえ、全米を巻き込んだとなると、
スケールが大きすぎて、彼自身にもよくわけがわからなかったのではないでしょうか。
一つ言えることは、トミーは間違いなく、史上もっともたくさんの
アメリカ女性を夢中にさせた日本男性だったであろうということです。
続く。