掃海母艦「ぶんご」艦上のレセプションから一夜が明けました。
疲れのせいでぐっすり安眠することができ、爽やかな目覚めです。
ホテルの窓からまずはカーテンを開けて「ぶんご」を確認。
今回一応持ってきた望遠レンズを初めて出動させて撮ったのがこれ。
「ぶんご」の「秘密の喫煙コーナー」に幹部らしき人影アリ。
あとでふりかけさんに見せると、
「一人でタバコを吸える貴重なスペースなんですよね」
艦隊勤務は常に狭い空間、他人と肌触れ合わさんばかりの日常の連続ですから、
束の間でも一人になれる時間は大変貴重なものなのでしょう。
後ろの「くめじま」艇上も撮っておきました。
掃海艇の朝の作業が粛々と行われている模様。
向こうの「みやじま」には「◯飛奮闘」というピンクのバナーが見えます。
「くめじま」の後甲板。
掃海作業が始まれば戦場と化すこの後甲板も、今は静かな朝の時間です。
わたしが泊まっているホテルクレメントでふりかけさんと朝ごはんを食べました。
お約束のスカレーくんとピーコさん、金魚2匹と食事の記念撮影。
ちなみにさすがはうどん県だけのことはあって、朝のビュッフェにうどんがあり、
それがやたら美味しかったです。
追悼式参加者には、当日の朝観光センター駐車場から
シャトルバスが出ることが通知されています。
車をここに駐めていけるので安心です。
皆が固まっているところは喫煙所で、陸自の幹部が何人かいます。
シャトルバスは、追悼式会場に比較的近い駐車場まで連れて行ってくれます。
毎年参加している地球防衛会の偉い人は、
「降りたら階段は全くありません。平地です」
と力強く言い切っていましたが、実際は階段を下って行くことになりました。
去年のことをすっかり忘れてんじゃねー(笑)
摂政宮殿下御野立所という石碑あり。
「野立て」とは「のだち」と読み、 旧陸軍などの演習において
天皇陛下が休息される野外の展望所のことを指します。
この石碑は、大正11年(1922)11月18日に、昭和天皇が陸軍特別大演習に際し、
攝政宮として軍を御統監された記念として建てられたものです。
この一帯を青葉丘といい、天皇陛下は青葉丘から演習を視察されました。
記念碑の文字は、当時の第11師団長陸軍中将 向西兵庫が揮毫しました。
墨痕も鮮やかな追悼式会場立て札。
「あゝ航路啓開隊」掃海殉職者顕彰碑顕彰碑建立の由来
として、戦後日本近海に敷設された機雷の由来から掃海隊の活動、
そして掃海隊員の殉職などが説明してあります。
写真は昭和24年5月23日、触雷沈没したMS27号。
MSとはマインスイーパー(機雷掃海)のことです。
中村屋利兵衛さんの寄贈した立派な灯籠の横にあるのは掃海母艦「はやせ」の錨。
掃海母艦「はやせ」は昭和46年竣工、ペルシャ湾掃海で
日本の掃海部隊の名前を世界に轟かせただけでなく、阪神大震災、
北海道南西沖地震にも出動し成果を上げてきました。
この錨は金刀比羅神社に奉納されたという形です。
会場入り口の受付で名前を名簿と照合し、テント下の自分の名前の書かれた椅子に着席。
なんと、このわたしの名前までがちゃんと印刷されて椅子に貼ってありました。
いったい誰がこんな席割りを考えるのか・・・。
関係者が集まるまで、というか偉い人が来るまでは皆比較的気楽な姿勢。
音楽隊も雑談したり軽くさらったりして過ごしています。
掃海隊群司令に挨拶に行く海上保安庁第6管区の偉い人。
第6管区は高松など香川に2つ、愛媛に4つ事務所を持っています。
定義としては瀬戸内海を管轄する管区のようですね。
端っこにさりげなくふりかけさんが写っております。
この二人の神官は、いつもは神宮に奉納してある霊名簿を
追悼碑前に奉安するためにここまで持ってきたのです。
自衛官席が全部埋まり、式の開始を待っている状態の音楽隊指揮者。
1等海尉です。
掃海隊群の幹部たち。彼らも全員1尉です。
陸自の偉い人と海自の幕僚たち。
後ろの方には専任海曹や副官なども。
空自の制服がありませんが、つまりこの近くに基地がないってことでしょう。
慰霊碑に一番近いテントの下が殉職隊員たちのご遺族です。
広報の自衛官によると、参加されるご遺族の数は年々減少しており、
79名の殉職者に対して今年の参加者はわずか14名でした。
去年などは若い人もいたそうですが、今年は40代が最弱年といったところです。
慰霊碑の最も近くに座るのは主催である呉地方総監。
地方総監の隣は遺族の方で、
膝に遺影を持っての追悼式参加でした。
水兵姿の若者が着ているのは、戦後の自衛隊の制服か、
それとも海軍の水兵であったころのものか、どちらでしょうか。
そして追悼式が始まりました。
・・・・・が、わたしはなまじ正式に招待されての参加であったため、
前後左右にずらりと防衛団体や元自衛官のおじさまたちに固められ、
このような位置から式を見守ることになってしまいました。
まだ幸いだったのはそれほど地位が高くないため、前列でなかったことです。
向かいに自衛隊の高官が並んでいるのにカメラを構えるなどできません。
まあ、後ろの席であっても式が始まってからは立ったり座ったり、
献花を行ったりと式進行の合間に撮るのも憚られましたので、
これは本当に昨日の予行演習で写真を撮っておいてよかったと思います。
神官によってここに運ばれてきた霊名簿は、呉地方総監の手で
慰霊碑の前に奉納され、式の進行をそこで見守ります。
儀仗隊の写真も遠慮してほとんど撮れませんでした。
黙祷に続き3名ほどが追悼の辞を述べ、儀仗隊の弔銃発射が終了。
もちろんこの間、カメラは置いたままです。
ふりかけさんは実は招待されてテントに座ることになっていたのですが、
前日の予行演習の時に、彼女が
「椅子に座ったまま写真を撮ってもだいじょうぶなんですか』
と聞くと、係の自衛官が
「だいじょばない!」
と一言でそれを否定したため(笑)、彼女は椅子は最初から用意せず、
式の間じゅうカメラマンに徹して会場を音もなく静かに、
どこにいたかもわからぬくらいご自分の気配を完璧に消した状態で仕事しておられました。
ちなみに彼女によると、「女性自衛官マニア」はこの日もきっちり来ていたそうです。
ようやく写真を撮れる雰囲気になったのが献花が始まってから。
市ヶ谷の地球防衛会総会の後のパーティでご挨拶させていただいた幕僚副官。
海幕長はこの追悼式には参加しないことが決まっており、
副官は海幕長の代理での出席です。
まだ着任したばかりの掃海隊群司令、湯浅海将補。
岡群司令の前の掃海隊群司令だった徳丸元海将補。
父上は掃海隊に従事しており、触雷した掃海艇にほんの偶然で乗らずに殉職を免れた、
ということを、水交会で行われた壮行会の時に直接お聞きしました。
艦艇出身であった自分が掃海隊群の司令になったというのも、偶然というよりは
運命だと思う、とおっしゃっておられたのが印象的でした。
慰霊碑の反対側には掃海隊群の海曹と海士が整列しています。
今空席になっているのは、呉水交会の人々が献花しているからです。
わたしはこのとき地球防衛会の会長と二人で献花を済ませていました。
会長の動きに合わせようと横目で様子を伺っていると、献花のあとなぜか
何もせずにしばらく固まっていたのでどうしたのかと思ったら、あとから
「危なかった。献花の後、いつもの癖で二礼二拍手一礼しそうになった」
こちらの幹部も式が始まる前からじっと直立のまま。
立っているのはいつものことでなんでもないのでしょうけれど、鼻がかゆくなったり、
こういうところに立っていて蚊に刺されたりしたら辛いだろうなあ・・・。
もちろん雨が降ったら屋根のないところに立っている彼らはずぶ濡れです。
この日の式典の間、現地は曇り空でしたが、ついに雨は降りませんでした。
例年直射日光が差して大変暑いということなので、もしかしたら今年は
しのぎやすく彼らにとっても楽な追悼式であったのではないでしょうか。
陸自の制服を着ているのは地本勤務の隊員です。
続いて貫禄満点、幕僚の皆さん。
献花の一番最後は「幹部・海曹・海士代表」でした。
献花を行う時、かならず遺族、列席者に一礼を行い、終わってからも礼をします。
一番前列に座っている人たちはその都度答礼で頭を下げていました。
追悼式が終了。
これだけの人数が献花を行ったことになります。
供物は魚、野菜、果物などで、魚は生の鯛でした。
会場を出て階段を上ったところに甘酒を売っている店があります。
会長が飲みたいというのでわたし、ふりかけさん、ふりかけさんの知人で
ご子息が自衛官という方の4人で冷やし甘酒をいただきました。
甘さ控えめで案外さらっとしていておいしかったです。
このころは結構雨が降っていたので、大門の軒下で甘酒を楽しんでいると、
自衛官が二人やってきました。
「毎年これを楽しみにしているんですよ」
あまりにものんびりしすぎて、シャトルバスにのる参加者はもういませんでした。
はたしてバスが来てくれるのかどうか心配していたのですが、
この呉音楽隊の隊員たちと同じバスに乗ることになりました。
式次第には「追悼演奏」があり、音楽隊は
「掃海隊員の歌」
「海ゆかば」
などを演奏しましたが、なぜかこの日一度も行進曲「軍艦」が流れませんでした。
バスを待っている間、わたしはひとりの隊員に、献花の時に何回もリピートして
演奏されていた大変印象的な曲の題名を訪ねてみました。
「”ロマネスク”です」
ロマネスク/Romanesque
吹奏楽の世界では有名なジェイムズ・スウェアリンジェンの手による佳曲で、
品格があり憂愁を帯びたメロディは、日本の戦後の海を啓開し、
斃れた男たちの魂を悼みその偉業を讃えるに相応しいと思われました。
ただ、この日一度も行進曲「軍艦」が演奏されることがなかったのはなぜだったのか。
わたしはいまでもすっきりしない気分でその理由を考えています。
続く。