ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

伏龍特攻隊〜久里浜駐屯地資料館

2016-06-20 | 海軍

老舗百貨店ツァーで行く自衛隊駐屯地見学、続きです。
ガラスケースの中の展示は通信機器以外は旧軍グッズがほとんどで、
元軍人が基地に寄付したものであろうと思われました。

この「鎮魂の譜 風ヨ雲ヨ」というのはもしかしたらどこかに建造された
慰霊碑のデザインかもしれません。
描かれているのは出撃しようとしている伊361潜水艦に搭載している
人間魚雷「回天」と、その上に立って手を振る回天搭乗員たち。

伊361は「潜輸大型」という艦種の輸送用潜水艦でしたが、甲板上の兵装を撤去し、
回天を前甲板に2基、後甲板に3基、合計5基を搭載するよう改装されています。

伊361、伊363、伊366、伊367が昭和20年3月にこの改装を施され、
回天特別攻撃隊に参加しました。



昔一度海底人間特攻である「伏龍特攻」を取り上げたことがあります。
その写真がここにあったので、「近くだったんですか」と案内の自衛官にきくと、

「ここからすぐ川下に行ったところに野比という海岸がありまして」

と返事が返ってきました。
「野比」という言葉の持つ印象はわたしにとって強烈なもので、すぐに

「ああ、あの野比ですね」

と返しました。
野比には当時海軍病院があって、そこに見習い医官で配属されていた方が
戦後、こんな談話を残しています。

夜の当直で休憩を取っていると突然分隊長から呼び出された。
「近くの海岸にある部隊が訓練中で急患が出たから急行して応急手当てをせよ」 
「現場でグズグズ人工呼吸などせず気道確保して連れてこい」

ただならぬ様子に「ただの溺れではないな」と察知しつつも1キロ先の現場に走ると、
上半身裸の患者が海岸に横たわっていた。
患者は意識がなく、口からあぶくを出して顔面蒼白であった。
隊長は

「海中で事故が起こり、引き上げたが呼吸をしていない」

口中に指を入れ口を開けようとするも、顔面の筋肉が痙攣を起こしている。
二人掛かりで腹部を膝に抱き上げて下顎骨を押し下げると、あぶくと水がでた。
さらに指を入れると、何かぬるぬるしたものが砂とともに触れた。

聴診器で調べたら微弱な心音が確認できるので酸素吸入を続けながら1キロの距離
砂浜を駆け足で病院まではこんだ。
見習い医官が関わったのはここまでで、手術室に運ばれた患者はその後亡くなった。

二〜三日後、分隊長から

「この海岸の先である特殊部隊が危険な訓練をしている。
全貌は厳秘事項なので詳細は語れないが、特殊な潜水訓練なので
今後も事故の起こる可能性がある」

という報告とともに訓練所の近くの待機を命じられた。


また別の医官は

毎日のように担ぎ込まれてくる年少の隊員、時には士官もいたが、
皆ものすごく苦しんで死亡していった。
見るに忍びない悲惨でショッキングな状況で、医師の卵であったわたしたちには
耐えられない事件でした。


と語っています。
この事故のほとんどは、海中で使用する呼吸のための器具には
非常に高濃度のアルカリ液(苛性ソーダ)が使用されており、
これが人体に入ることで口腔、食堂、気管の強アルカリによる化学損傷を起こし、
かなりの長い時間、苦しみながら死ぬというものでした。

苛性ソーダが人体に入った場合、現在でも的確な治療法はないそうです。

この訓練というのは、酸素ボンベとともに炭酸ガスを吸収するボンベを背負って
浮き上がらぬように鉛の靴を履いて海底を歩行するというものでした。
炭酸ガスの吸収のために空気清浄瓘に仕込まれていたのが苛性ソーダだったのです。

海底に「龍のように伏せ」、そして敵の陸用船艇を水中から爆破する、
というのが「伏龍特攻」の絶望的なまでに過酷な目的です。
隊員は飛行兵になるために予科練に志願してきた15〜6歳の少年たちでした。
(実際は中学3年から高校3年くらいの年齢幅があったらしい)

彼らは予科練の訓練を中止されて「どかれん」と自嘲する基地構築作業に
従事しているところを召集されました。
その際、彼らは一人一人がこのような質問を受けています。

兄弟はいるか。両親は健在か。

お前がいなくても家が困るようなことはないか。

この結果、たとえば1期の予科練生からそれぞれ60名が選抜されましたが、
不可解なことにほとんどが長男であったということです。
彼らは第71嵐部隊伏龍特攻隊に組み入れられ、14〜5名ごとに班が組まれました。

彼らは久里浜までよろい戸で外を見えなくした汽車で運ばれ、
その後野比の海岸にある木造二階建ての兵舎に歩いて入りました。
この兵舎は昭和44年取り壊されるまでここにそのままあったそうです。

転勤してすぐ、彼らは司令とともに銀飯にてんぷらなどという、
”今まで口にしたこともないご馳走”による会食を行いました。

彼らが自分がどのような特攻に従事するのか知ったのはそれから後です。
彼らのほとんどが、特攻に行くということは覚悟していても、
それは「震洋」か水中潜水翼艇「海龍」の搭乗員になるものと思っていました。

自分たちの使命が簡易潜水器を身につけて海に潜ることと明らかになった時、
彼らは一様に落胆したといいます。

「もぐらの次は潜水夫か・・・」

この時に彼らが受けた説明とは次のようなものでした。

「文字通り水際に伏す龍のごとく身を潜めて、頭上を通過する敵の大型船艇を
棒機雷で爆砕するのが目的である。

この訓練に熟達すれば、サイパン島付近まで運んでもらい、ゴム袋に入れた
兵器を持って海底から敵の背後に逆上陸を試み、奇襲攻撃をかけられる」


そのために彼らに与えられた簡易潜水器の部品の中で特にお粗末だったのが、
ほとんどの事故の原因となった「空気清浄罐」でした。
戦前ビスケットを入れて売られていた缶(ソーダビスケットなるものがあって、
”おじいちゃま”である犬養毅首相がこっそり自分用の缶を隠し持っていたことを
孫娘の道子さんが書き残している)のような薄い銀色の四角い罐で、
苛性ソーダの顆粒が詰められており、呼気が通過すると清浄されるという
大変原始的な仕組みのものでしたが、これがその薄さもあって破損しやすく、
そうなると苛性ソーダと海水が化学反応を起こし、沸騰して口元に逆流し、
これを飲み込んだが最後、食道から胃部にかけてやけどを負うことになるのです。

対策のために中和させる酸としての酢が船には積まれていたと言いますが、
酢を飲ませるまでもなく、そうなればまず間違いなく一命を落とすことになりました。

(この酢は、隊員が海底でたこを捕獲してきて酢ダコにするのにも使われたとか)

戦後わかったことですが、当時潜水に欠かすことのできない酸素が
調達することができないのに、上からどんどん訓練を進めろとうるさく言われ、
仕方なくこの原始的で危険な酸素ボンベを使用せざるを得ないという、
なんともやるせない現場の事情がありました。

民間の業者に依頼すれば調達できたのですが、当時馬堀にあった
横須賀酸素株式会社とかいう会社などは、酸素を譲ってくれと
頼みに行った先任伍長に堂々とタバコをねだり、リンゴ箱でタバコを渡すと、
どこから出てくるのかというくらい酸素を倉庫から出してきたということです。



呼吸の間違いも恐ろしいことに死につながる危険をはらんでいます。
訓練生は「鼻から吸って口から吐く」呼吸法を食事と睡眠以外の時間
ずっと続けることを教官から言い渡されていました。
三呼吸間違えると、もうガラスが曇り、次の瞬間には気を失ったという例もありました。

しかしまだまだ子供で箸が転んでもおかしいお年頃の訓練生は、
真面目にこの呼吸法の練習をしている同僚を見つけては、わざと無駄話をして
邪魔をしたりしてふざけたものだったそうです。

また、これは噂だけで誰も見たことがないそうですが、浮上中給気弁を閉め忘れると、
そのまま潜水服が膨らんで海上に勢いよく浮かび上がり、潜水服が破裂して死んでしまう、
という事故の危険性も訓練生たちは注意されています。


伏龍隊員の「意地」が原因で大事故が起こったこともあります。


浦賀海岸での訓練において、海底に2キロのロープを途中で折り返すように
岩礁に渡して底に沈め、ロープを伝って2000m海底を歩く実験をしました。
これだけの長い距離を歩くと酸素の消費量も多く、疲労度も相当になります。
しかし、訓練中の浮上は隊員にとって屈辱である、という風潮が隊にあり、
潜水中に危険を感じてもそれを克服しようとしてしまうので、
訓練そのものを中止してほしいと伍長が上に申し入れました。

しかしそれは聞き入れられず午後も訓練が強行された結果、
ロープを伝って帰ってこられた隊員は2名。
残りの8名は全員帰ってくることはありませんでした。
そのうち遺体が見つかったのは3名だけだったそうです。


靖国神社に奉納されている伏龍特攻兵のブロンズ像は、棒の先に機雷をつけた
「棒機雷」を海底で構えているところが再現されています。

この「棒」とは「竹の棒」なのだと聞いてわたしは戦慄しました。
5メートルのしなる竹を水中で扱うことが普通に考えてどれだけ困難か、
水の抵抗や潮流に流されて精度などまず確保できないではないかと。

しかも、生身の人間が海底に潜んで狙うことができるのは

「たまたま自分の頭上を通過した船舶のみ」

これに使われる予定であった「5式撃雷」なる機雷は、大きさが
長さ56.6cm、直径24cm、頭部9cmの円錐状。
残されている設計図の作成年月日は
昭和20年7月1日となっており、
量産体制に入る前に
終戦になってしまったようです。

不幸中の幸いは、これを実際に隊員が使う場面が永久にこなかったことでしょう。

もし実戦に投入されたとしても、前記の理由からおそらく精度は低く
(さらに彼らの潜水服からは、肝心の自分の頭上を見ることはできなかった)
一人の機雷が爆破したら、同じ海域に潜んでいる同僚の持つ機雷が誘爆し、
なんの戦果も得られぬまま海域に潜む全員が爆死していたという可能性もあるのです。

正確なデータがあったのかどうかは知りませんが、訓練生の間では、
一つの棒機雷が爆発すれば、周囲50mにいる者は全滅すると言われていました。

海底で50m間隔に散開せよと言われても、刻々変化する潮流に押し流されながら
どうやって前後左右を50mの感覚に保つことができるのだろう、と、
当の少年たちは誰もが不信と不安、そして不満を心に抱え込んでいたと思われます。

この噂が広がったとき、教科書と教官の教えるとおり、自分が敵と対峙して
刺し違えて死ぬ覚悟ができていたはずの訓練生たちの少なくない者は、
他人の攻撃に巻き込まれたり誘爆して犬死にする可能性を思い、苦しんだでしょう。


しかし、その頃の日本は、夜毎飛来するB29の爆撃になすすべもなく、
本土が焦土となるのを手をこまねいて見ているに等しい状態でした。
そのことから、少年なりに彼らが到達した心境とは次のようなものでした。

「間もなく敵の上陸作戦は開始され、どこにいても死は避けられない。
とすると、運が良ければ敵の上陸せんとする船艇と刺し違えて死ぬことのできる
今の立場はまだ恵まれているのではないか。

俺の死は自分の親兄弟や友人知己の死を1分1秒でも延ばす役に立つだろう。

よし、こうなったら配置についたとき、おれは海底でできるだけ沖に進み、
真っ先に攻撃を仕掛けてやろう。
そうしないと他の奴に殺られる。絶対にそうしよう」 


彼らが訓練を始めたのは昭和20年の7月、つまり終戦の1ヶ月前でした。
当初の張り詰めた気持ちは、明日は我が身かもしれない訓練中の犠牲の噂と、
敵が上陸する時に持って戦う武器があまりにもお粗末であったこと、
(素焼きの手榴弾とか弾倉のはまらない自動小銃などがあてがわれた)
潜水そのものに狎れたことと自分の運命に対する自暴自棄もあって
終戦時には投げやりなものに変わっていたと言います。


そもそも彼らは、自分が扱うはずの機雷を見たことすらなかったのですから。


酸素と引き換えにタバコを要求した業者の話が出ましたが、
なんと、遺体を焼く火葬場にも同じようなことが起こりました。

野比で一度に3名が死亡するということがあり、焼き場に運んで
その遺体の火葬を頼んだところ、一週間先でないと焼けないと言われました。
真夏であることもあってなんとかせねばと理由を尋ねると、

「仏が多い割に燃料が不足で・・」

「何しろわしら生き仏の食物が足りないので力が出なくってね」

などと言い出すので、主計科から米一斗と鮭缶20個を持ってきて渡すと、

「いやいやこれは・・こんなに話のわかる隊長さんの下で死んだ兵隊さんは幸せだ。
早いこと成仏させなきゃ、おらたちがバチ当たる」

などと言いながら、窯に入っている半焼けの先客を引きずりだしたため、
見ている方はそのすさまじい光景に吐き気を覚えることになりました。

通夜を兼ねて連れて行った予科練の隊員たちが、そのショックと

仲間の死、そして訓練の疲れで蒼白になっているので、先任伍長は
彼らを帰隊させ、
一人で焼きあがった骨箱を三つ背負い、寺に向かいました。

ところが焼きあがったばかりの骨を木箱に直に入れたため、余熱で
木箱が焦げてくるわ、屍体を焼いた時の脂臭も漂ってくるわ、おまけに
先ほど見た窯から引きずり出された半焼けの屍体までが頭をちらつき、
先任伍長は震えながら脂汗を流し、夜道を一人で歩いたそうです。


伏龍特攻隊員は訓練に入ってからわずか1ヶ月後に終戦を迎えました。
制式軍装に着替えて集合するように言われた隊員たちですが、白い夏の第2種軍装は
緑色に染めるために工場に出していたところ、その工場が焼けてしまったので、
仕方なく真夏というのに紺色の第1種軍装を着て、その暑さに耐えながら、
天皇陛下のお声が流れるラジオの前で頭を垂れていました。

しかし誰もその内容を聞き取ることができず、直後は

「新型爆弾も落とされたし、露助も攻め込んできたからもっとしっかり
戦争しなさいっていうお言葉よ」

「各員一層奮励努力せよ、か」

「そういうこと」

などと投げやりな会話をしていたそうです。
その後は終戦、しかも日本の敗戦をショックとともに知るという、
あのときの日本各地で繰り返された「お決まり」の展開となりました。

その後、ある伏龍隊員は、
呆然と「国敗れて山河あり」という言葉を噛み締めながら
海を眺めていたところ、
一隻の漁船が半裸の漁師数人の手で、
海に押し出されているのに気がつきました。



それはまるでお祭りの山車を押す若者たちの、躍動感にあふれた活気さえ

感じさせる動きである。
数時間前までは『民間人絶対立ち入り禁止』の特攻作戦訓練場の海岸を、
一刻も早く海へ飛び出したいのか、半ば駆け足で船を押している。

やがて三丁艪のその船は、波頭を切ってぐんぐん沖を目指してこぎ進んでいく。
船の行方をあっけにとられて見送っていた私の視野に、やがてそれが
豆粒ほどになった頃、私は『ニッポンは負けた』ということを現実のものとして
認めざるを得なかった。

(門奈鷹一郎・『海底の少年飛行兵』)

 
 彼らの特攻が実戦に投入されたとしても、その成功の見込みがほとんどなかったのは
作戦に参加していた当人たちが一番わかっていたことでした。

上記の潜水器の性能の問題以外にも、例えば敵の第一波に対して攻撃を仕掛けると、
即座に船艇から爆撃や砲撃が落とされることになるわけですし、
その最初の攻撃そのものがそもそも大変成功率の低いものでありました。

潜水服を着たらそれ以降は連絡が一切取れなくなってしまい、互いがどこにいるかも
全くわからなくなってしまいます。
50mという一人分の「受け持ち区域」に間違いなく一人ずつを配するというのは
洞穴などに陣地を作り導索を設置することが必要となりますが、 
それも制空権を取られているところでは不可能です。


この頃になると、棒機雷の効果に対しては期待されておらず、
代わりに隊員を爆装させて、兜の頂部に信管を取り付けて体当たりする
というやけくその作戦さえ検討されていたといいます。
何が違うのかと言われそうですが、まだ棒機雷による爆死の方が

同じ死ぬにしても救いがあると思うのはわたしだけではありますまい。

伏龍特攻は極秘作戦だったため、未だにその全容が明らかになっておらず、
訓練で死亡した隊員の数すら明らかになっていません。

今日ではこんな非人間的な兵器を考えだした当時の日本が
どれだけ切羽詰まっていたのかを表す象徴的な作戦ともなっていますが、
計画段階においては鈴木(貫太郎)総理が視察に来て

即座に「不可」を言い渡したとする関係者の証言があります。
しかし、そのときに伏龍関係者は総理に向かって

「役に立つ立たないは別にしてなんとかしなければならないから
訓練だけは続けさせてくれ」

と懇願しているというのです。
浦賀での事故の後には、さすがに海軍の査問委員会が開かれて、連合艦隊、
軍令部、海軍省からのお偉方があつまって合議が行われています。

そしてそのときに、
訓練続行の決め手になったのが、陸軍からの

「敵のM4戦車が本土に上陸すると陸軍はもう手がつけられない。
なんとか水際で海軍が食い止めてくれ。どんな手を使っても」

と強い要請であったという証言もあります。
このとき、「それでは仕方がないから続けるだけ続けよう」ということで

会議は訓練を継続するという結論を出したというのです。

「やるだけやる」「続けるだけ続ける」

この決定で、前途ある多くの、もう後一ヶ月たてば
戦後の日本でこれからが青春の盛りを迎えるはずだった少年たちが
その若い命をあたら散らして行くこととなったのでした。