ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

戦艦「カリフォルニア」〜メア・アイランド海軍工廠博物館

2019-02-01 | 軍艦

メア・アイランドには、ここで建造されたとか、改修を行っていたとか、
資料が残っている艦船が紹介されています。

亀の甲文字で読みにくいですが、これは初期の潜水艦、

USS「グラムパス」SS4

USS 「パイク」SS6

が並んでいる写真。
どちらも

プランジャー級潜水艦

です。
ところで、アメリカのホテルに泊まっているとほんの時々必要になる
「プランジャー」(Plunger)と言う単語。
ニューヨークのホテルなんかは部屋に備え付けてありましたが、
これ、排水管が詰まった時に使うゴムのラバーカップのことです。

アメリカ旅行では必要になることもあるので覚えておくと便利ですよ。

「プランジャー級潜水艦の一号艦、プランジャー」って?
と幾ら何でも不思議に思って調べてみると、プランジャーには
「飛び込む人」転じて潜水夫という意味もあるのだとか。

潜水艦に「潜水夫」という名前をつけてみたというわけか。

しかし流石にこの名前は変だとアメリカ海軍も思ったらしく、
1911年、
就役して8年目に「A-1」という名前に変えられました。

「プランジャー」級の二号艦以降は、海洋生物の名前がつけられました。
のちにそれが潜水艦の命名基準になりますが、この時は
「グラムパス」(イルカの一種ハナゴンドウ)も「パイク」(カワカマス)も、
「プランジャー」→「A-1」に倣い「A-3」「A-5」と名前を変えられました。

A-3となった「グランパス」は1906年、サンフランシスコ大地震が起こった時に
被災者の救援に大活躍した、という記録が残っているそうです。

この写真で2隻が繋留されている場所、葦の茂みがあったりして、
まるでボート漕ぎ場にしか見えないわけですが、実はこれメア・アイランドの
「インディペンデンス・ドック」で1904年の4月に撮られたものです。

なぜ「インディペンデンス・ドック」という名前かというと、ここは
初代「インディペンデンス」(帆船)が1857年から1914年まで
ずっと繋留されていた母港だからです。

写真の潜水艦の右側に、家のようなものが見えますね?
これ、実は「インディペンデンス」の艦尾なのです。

れが帆船「インディペンデンス」の晩年の姿です。
メア・アイランドで1890年代に撮られた写真だそうですが、これを見ると
どうして艦尾が「家みたい」なのか、お分かりになりますね。

ここには「インディペンデンス」の展示もあったので別の日にご紹介します。

「カール・ヴィンソン」CVN-70

写真はサンフランシスコの市街をバックに航行する「カール・ヴィンソン」ですが、
メア・アイランドにいつ立ち寄ったのかまではわかりませんでした。

閉鎖するまで彼女はサンフランシスコのアラメダ基地を母港としていたので、
その間のドック入りはメア・アイランドで行なっていたのかもしれません。

1963年の写真なので白黒でよくわかりませんが、これは
原子力潜水艦「パーミット」SSN-594が、搭載していた
SUBROC(核弾頭搭載の対潜用ミサイル)を撃ったところです。

この画面の右上に写っているのは、もしかしたら
潜水艦の中の時計ではないでしょうか。

サンマテオブリッジらしき橋が見えるのでおそらくアラメダだろうと思われます。

現在のアラメダは海軍が撤退した後も開発されず、当時の建物が
そのままにあってゴーストタウン化しています。

ここからはUSS「カリフォルニア」のコーナーです。
歴代艦長の名前が記されたボードは、艦内にあったものでしょう。

「カリフォルニア」は1916年10月25日にメア・アイランド海軍工廠で起工しました。
写真左は「キール・レイイング」と呼ばれる起工の儀式。
船の「背骨」となるキール(竜骨)ができた時をもってキール・レイドを行います。

現在の軍艦からはキールそのものは無くなったのですが、
慣習的にキールと呼ぶ部位・場合も残っているということです。

1919年11月20日に進水を行いました。
進水台を滑り降りて、ナパ川の沖に「船出」した「カリフォルニア」。
ナパ川の川幅はあまり広くないのですが、進水後対岸にぶつかる心配はなかったようです。

下はシャンパンの瓶を舳先で割ろうとしている瞬間です。

進水式の写真が当時にしてはたくさん残されている理由は、
シャンパンを舳先で割る役目をした「スポンサー」である知事の娘が
自分でも写真を撮っていたからだそうです。

進水の後タグボートに押される「カリフォルニア」。
進水する艦を上から写した写真は初めて見る気がします。

日本では支鋼切断に槌を使い、これが進水式の記念となりますが、
画面の木槌は「Gavel」といい、裁判長が打ち付ける木槌にもこの言葉を使います。

「カリフォルニア」が解体される時に、デッキの木材で作られたそうです。

画面下のサーベルのような金属には「USS CALIFORNIA」と刻印がありますが
説明がないので何かはわかりませんでした。

「解体された「カリフォルニア」の艦体の金属で作ったものかもしれません。

 

艤装の段階で戦艦である「カリフォルニア」にとって、最も重要な
主砲を取り付けている最中の珍しい写真も残されていました。
「マサチューセッツ」のように、巨大なバーベットを備える主砲は14インチ、
艦首側に6門、艦尾側に6門の計12門を備えていました。

「アウトフィッティング」、つまり艤装中の「カリフォルニア」。
左の写真は艤装を完成して艦飾を施しているように見えますがどうでしょうか。



1921年8月10日に初代艦長H・J・ジーグメイアー大佐の指揮下就役。
就役後は太平洋艦隊の旗艦となりました。

写真が不鮮明で人が豆粒にしか見えませんが、主砲にびっしりと
水兵が座っているのにご注目。

機関室。
ボイラーの前に立つ下士官の帽子が昔風です。

ジェネレーターエンジン。

兵員の食事を作るギャレーです。

「ファイン・ダイニング」というのは、司令官あるいは艦長、
士官たちのためのテーブルクロスにシルバーのカトラリーを並べた
正式なダイニングキッチンです。

もちろん彼らも毎日ファインダイニングで食事をとるわけではありません。

ファインダイニングで使用されていたシルバー。
クロスに描かれている熊は「カリフォルニア」のシンボルです。

就役後、太平洋艦隊の旗艦になった「カリフォルニア」が
サンフランシスコを出発するところ。

「カリフォルニア」のマスコットベア、「プルーンズ」さん。
1920年には本当に艦上で熊を飼っていたことがあるのはわかっているそうですが、
その後いつどうなったのかについては不明だそうです。

「カリフォルニア」が熊をマスコットにしているのは、
カリフォルニア州旗に描かれた熊のシンボルにあやかってのことです。

これがカリフォルニア州旗。
カリフォルニア・グリズリーは今では絶滅しています。

USS「カリフォルニア」は代々その艦旗に熊を採用します。
1974年に就役した原子力巡洋艦 CGN 36「カリフォルニア」
原子を表すマークと熊さんのコラボレーション。

現役の「カリフォルニア」、原子力潜水艦 SSN 781の熊は
大迫力すぎて怖いレベル(笑)

戦艦の上で幾ら何でも熊を飼う余裕というか場所があったとは
とても思えない・・・と思ったら犬もいたらしい。

画面上から、「カリフォルニア」進水式のプログラム。

真ん中の黄色い本は「カリフォルニア」記念写真集。一冊25セント。

その下は「カリフォルニア」」乗艦記念パンフレット。

右側上の真っ黒に錆びてしまった金属にリボンが付いたものは、
青い箱の中の錆びていないメダルと同じものだと思われます。
メダルの上部にスリットが入っていてリボンを通すようになっていますが、
これが何を表すのか、わかりませんでした。

メダルには「カリフォルニア」のシンボル、州旗と同じデザインの
熊が刻印されています。

当時アメリカの政党だった自由党(リバティ・パーティ)の議員たちが乗り込んで、
何か政治的なイベントを行ったようですね。

自由党は1950年代には消滅した政党です。

「カリフォルニア」の艦歴にとって最も重大な記事は、
真珠湾攻撃で炎上する「カリフォルニア」とそれを伝える新聞の見出し。


「カリフォルニア」はパールハーバーで『バトルシップ・ロウ』の
一番端に繋留していたため、
他の弩級戦艦と共に日本海軍の攻撃を受けた。

当時『カリフォルニア』の防水は完全ではなく、大きな損害を受けた。
08:05に爆弾が命中し対空砲の弾薬が誘爆、およそ50名が戦死した。
もう一発の爆弾は船首部分に命中した。
懸命なダメージ・コントロールの努力にもかかわらず、
カリフォルニアは浸水し水面上に上部構造を残して着底した。

この攻撃で乗組員の98名が戦死し61名が負傷した。

 

「カリフォルニア」は浮揚されたあと乾ドック入りし、
そこで自力航行できるまでに修復されてから
ピュージェット・サウンド海軍工廠に向かいました。

 

廃棄されるまで、艦内の毀損部分に掲げてあったらしい銘板です。

「1941年12月7日 0758、
USS カリフォルニアはフォックス3バースに繋留されていたが、
敵の放った2発の魚雷が左舷に命中した時、同じ左舷に爆弾があり、
その穴から海水が浸入した為ゆっくりと三日後に沈んだ」

「カリフォルニア」はピュージェットで装甲強化、安定性向上、
対空砲増設および火器管制システム装備の大改修を受け、
なんと戦線復帰を果たしています。

真珠湾攻撃で着底した戦艦をなんとしてでも生き返らせることは、
アメリカの意地と矜持がかかっていたというところかもしれません。