南北戦争に参加した全ての軍人たちを顕彰するために
1910年代からここピッツバーグに作られた、
ソルジャーズ&セイラーズ・メモリアル&ミュージアム、
略称SSMM、最初に誰もが足を踏み入れるのは、
「ゲッティスバーグ・ルーム」
です。
ここにはSSMMの壮麗な建物の歴史を物語る写真もありますが、
最も目を引くのがこの
アレキサンダー・ヘイズ准将(1819-1864)
の巨大な肖像画です。
ヘイズはペンシルバニア州出身で、この近くの墓地に墓所があるのですが、
南北戦争前、土木建築技師となってピッツバーグ市内に架かる
橋梁建設のプロジェクトに関わったことからこの特別な扱いになったようです。
ヘイズは士官学校の成績が25人中20位だったということですが、
その当時は一学年がそんなに少なかったというわけですね。
ちなみにその後南北戦争が起こり軍役に復帰した彼は
ゲティスバーグの戦いで戦功を挙げましたが、
ポトマック軍との戦いでミニエ銃の弾を頭に受けて亡くなりました。
44歳で准将というのもすごいですが、この写真どう見ても44歳には見えません。
これが「ゲッティスバーグの間」でございます。
絨毯は時々取り替えて天井も塗装し直していると思いますが、
オーク製の凝ったパネル壁面は昔の写真に写っているそのままです。
開館10日後の写真。掛けられている絵も変わっている模様。
この部屋は元々共和国大陸軍(南北戦争の退役軍人)のメンバーのための会議室でした。
部屋の真ん中にある展示物は、「パレードキャノン」(Parade Cannon)。
祝砲などを撃つための大砲というのが定義でしょうか。
パレードといえば、今年の7月4日、ジュライフォースのパレードは
どこも中止になり、花火だけの建国記念日となったところが多かったようです。
それこそアメリカ建国以来初めての事態ではなかったでしょうか。
ゲッティスバーグの間には二つだけ展示があります。
もう一つがこれ、
Limber and Artillery Chest
リンバー=前車というのは、大砲のの架尾や砲弾車(caisson、ケーソン)、
などの後部を支えて、牽引を容易にするため2輪の荷車のことを指します。
どう見ても4輪だが、とおっしゃるあなた、確かにそう見えますが、
実は前車はやはり2輪なのでございます。
この1860年当時の前車とケーソン(砲弾車)、
左側が前車で2輪、やはり2輪の砲弾車と組み合わせて4輪で使用します。
つまり写真は、向こう側の2輪がリンバーで、こちらの「武器箱」は
2輪の車と一体型になったものであるということです。
南北戦争の英雄たちの写真・・・なのですが、我々日本人には
よっぽど有名な軍人でもない限り聞いたこともない名前ばかりです。
この人たちはペンシルバニア州から北軍に参加した将官です。
左から、
デビッド・グレッグ准将 農場主、外交官
退役後一般人の生活があまりにつまらないので、もう一度
軍隊に入れてくれ!と頼んだけど断られた人。
ストロング・ビンセント准将 弁護士(ハーバード卒)
ミシガン軍との戦いで弾丸が太腿の付け根を貫通しその後死亡。
享年26歳(それで准将って・・)
サミュエル・W・クロウフォード将軍 軍医
軍医として軍隊に参加しながらいつのまにか指揮官になっていた人。
ジョン・F・レイノルズ少将 職業軍人
北軍で最も尊敬された上級指揮官の1人。
ゲティスバーグの戦闘開始直後に戦死。
レイノルズが首を撃たれた瞬間が版画化されていました。
ほとんど即死状態だったということです。
さきほど「日本人はほとんど名前を知らない」と言い切りましたが、
この4人についてはちゃんと日本語のWikiもあり、どうやら
南北戦争に詳しければ知っているというくらい有名であることがわかりました。
南北戦争当時ここピッツバーグのアレゲニー郡には1814年から100年間
アーセナル(武器弾薬庫)があったのでその関係の資料が集められています。
奥の版画にも描かれているように女性が弾薬を巻く仕事に携わっていました。
男性軍人が監督を務め、作業室は「ラボラトリー」と称していたそうです。
右奥に見えるのが彼女らの「巻いた」弾薬カートリッジ。
南北戦争で北軍が使用した砲弾(Artillery Shell)の断面です。
ここアレゲニー武器弾薬廠で生産されたものです。
炸薬で破裂すると、内部に仕込まれた小球が飛び散って
破壊的なダメージをもたらすというわけでなかなかエグいです。
このケースには当時の衣装や装備などが収められています。
当時の士官たちのイケてる軍隊生活の一コマ。
ピッツバーグにはリベラルアーツのDuquesne universityという大学があります。
フランス語式にSは無音で「デュケイン」と読むのですが、この語源は
独立戦争前に入植してきたイギリス人とフランス人(+インディアン)の間で起こった
フレンチ・インディアン戦争(1754〜63)に遡ります。
その戦場となったのが現在のピッツバーグで、その名前も
当時のイギリスの首相だったウィリアム・ピット(小ピット)に由来しているのです。
ピット
このときイギリス軍バージニア民兵隊を指揮したのは21歳のワシントン少佐。
ポトマック川を上ってフランク・ロイド・ライトの「フォーリングウォーター」のある
フランス軍の「デュケイン砦」を目指したという話が残っています。
その後デュケインは地名として使用されるようになり、この写真の
「デュケイン・グレイ」はこの地域で米西戦争の際結成された歩兵隊の名称で、
制服のグレイが名称に取り入れられています。
色や肋骨服のデザインはウェストポイントの制服に通じるものがありますね。
エポーレット付きの肋骨服にサッシュという正装をした
ジェームズ・S・ネグリー准将(1826-1901)
地元の出身で(ピッツバーグ大卒)、「ストーンズリバーの戦い」では
北軍の勝利に大きな働きをした軍人です。
こちらは1850年ごろ、つまり南北戦争の前のドレスユニフォームで
名称は「ピッツバーグ・ブルー」といいました。
袖章から、軍楽隊のメンバーの制服であることがわかります。
この頃は戦前ということもあり、制服はこのサッシュ(帯)
に見られるように装飾的で軽い着心地を追求する傾向がありました。
ドレスユニフォームの肩に付けるこのような飾りの房を
「エポーレット」(フランス語で”肩”)といいます。
上のシルバーのものは1812年製であることがわかっており、
1850年製の金色のケース入りエポーレットと比べると素朴な作りです。
どちらも初級士官のドレスユニフォームのためのものです。
1800年ごろからペンシルバニアではマスケット銃の生産を行っていました。
この図は、1836年に発行されたマスケット銃による銃撃に必要な
「11のステップ」を図にした歩兵のドリルのためのマニュアルです。
ドラム型の「キャンティーン」つまり水入れです。
ドラム形状の側面は、「スターブ」と呼ばれる木片でできており、
周りを鉄のバンドで固定されています。
内部に水が注がれると、木が膨張してしっかりと密閉されます。
木製のキャンティーンは1800年から1850年くらい、南北戦争前まで
兵士たちの間で使用されていました。
このキャンティーンには「SNY」とペイントされた跡があり、
ニューヨークステイトの意味だということです。
手前の銃はフレンチモデルの42型パーカッションピストルということですが、
ちょっとググったら普通に売買されていてちょっとびびりました。
安いのは100ドルから上は天井知らず?(とはいえせいぜい1000ドルくらい)
どれも説明を読んでみると、普通に使用できるみたいなんですよね。
まことについでながら、同じサイトで日本の鎧兜を扱っていました。
兜付きでスタート3000ドル。安いのか高いのか。
続く。