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「バトル・ベイビー」第99歩兵師団 バルジの戦い〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

2020-12-12 | 歴史

ピッツバーグにある兵士と水兵の記念博物館展示のご紹介です。

■アメリカ陸軍第99歩兵師団

次に現れたケースは、

第99アメリカ陸軍歩兵師団(99th Infantry Division)

の制服や身の回り品などの展示です。
ハンガーにかけられた各種制服の右肩にあるインシグニア(部隊章)は
ブルーチェッカーズ。

US 99th Infantry Division.svg

我が航空自衛隊の入間基地には赤のチェッカーを部隊章とする
点検飛行隊「フライトチェッカー」が存在しますが、
こちらのチェッカーはチェックはチェックでも「王手」を意味します。

99 RSC DUI.jpg

しかしなんというか、歩兵部隊にしては軽やかなイメージですよね。

カーキの制服を着たマネキンの後ろにあるのは、どうも
この第99歩兵師団内のラジオ放送のお知らせである模様。

音楽をかけたり軽いおしゃべりをしたりという娯楽目的で
木曜の夜にだけ放送していたらしいことがわかるのですが、
さて、これはどこの駐屯地で放送されていたものなのでしょうか。

それは今回調べてなんとなくわかることになります。

ブルーチェッカーのみなさんのお荷物拝見、というわけで、
実際に使用されていたトランクに当時の所持品が並べられています。

タバコ(キャメル)は防湿防止のため専用ケースに入っています。
タオル、剃刀、靴墨にブラシ。
どこの国も靴をきれいにしておくことには熱心だったんですね。

小冊子はユダヤ教の聖典に、戦争省発行のファーストエイドの方法。
左側にはシラミ用?殺虫剤(青い缶)THINSというのはクラッカーでしょうか。

その下は下着の類なのですが、第99歩兵はヨーロッパ戦線に派出されたので、
ウールでできた防寒用の下着が半分くらいを占めています。

 

■ ストックラス少佐とヨーロッパ戦線のパイロット

 

次のケースにはパイロットの所持品が収められています。

ウィングマークのついたこの制服は、

ジョン・M・スタックラス(Stuckrath)大尉

の遺品です。
陸軍航空隊の戦闘機パイロットとして、イギリスにおいて
最も危険かつそれゆえ崇敬されていた任務を行ったスタックラスは
若干22歳でこの階級に昇進しました。

P-38ライトニング、続いてP-51マスタングの戦闘機乗りとして、
スタックラスはイギリスから海峡を超えてフランスとドイツに飛び、
そこで1944年7月までにドイツ軍機を二機撃墜、多数を撃破し
そのたび無事に海峡を戻ってくることができました。

ラバウルからガダルカナル島まで戦闘機で飛んで戦闘を行い、
撃墜されなければまたラバウルまで戻っていた太平洋戦線における
あの台南航空隊のことを思い出しますが、イギリスから海峡を超えて
戦闘機で往復する(しかも向こうで戦闘してくる)のは危険以前に
大変な集中力と体力を要するものだと推察されます。

彼が若くしてフライングクロス勲章を授与され、22歳で大尉になったのは
それに対する功労賞であったのは明確です。

まずどうしてここに彼の軍服があるかというと、彼が
ピッツバーグ出身であったからです。

これはP-51マスタングのコクピットに座るスタックラス大尉ですが、
コクピットの下に二つのクロス(鉤十字ではなく鉄十字を描いている)
をマーキングして二機ドイツ機を撃墜したことを表す彼の愛機は

「ピッツバーグ・キッド」

とおそらく彼自身のことであろうと思われる名前がついています。
自分自身でも22歳はキッドと呼ばれてもいいいう自覚だったんでしょうね。

スタックラス大尉のパイロット「ログ」ブック、
(勤務表みたいなものだと思います)、帽子があります。

自転車に乗った三人組は大尉とは関係ない人たちのようですが、
飛行場では自転車が交通の足だったとして紹介されています。

こちらもストックラス大尉グッズです。
ヘッドフォンに航空メガネ、航空手袋は肘までの長さ。

スタックラス中尉が大尉に昇進した時に
ヘッドクオーターから送られてきた通知も残されています。
1944年7月22日の日付で、

Let Lt to Capt

JHON M. STUCKRATH, 07521 51

「中尉から大尉への承認を命ずる」

がこんな簡単な文言で、しかもA4の普通用紙一枚に書かれているとは・・・。
しかしストックラス本人にとってはこれはやはり感激だったらしく、
このA4の昇任通知は彼の遺品として遺されていました。

というのは、スタックラス大尉は戦後も空軍に留まり
飛行を続けていましたが、1950年に機体の事故で殉職しているのです。

死亡した時はまだ28歳の若さでした。

■ バルジの戦い

さて、お次のケースなのですが、いきなりクリスマスツリーがデター、
と思ったらこれはヨーロッパ戦線で地雷処理を行っていた
アメリカ軍歩兵のお仕事ぶりを再現したものでした。

いやー、寒そうですね。

ちょうど兵士の足元に(窓枠で隠れてしまっていますが)
地雷の実物(対戦車地雷らしい)がおいてあります。

機雷処理といえば、わたしなどこんなスェーデン映画を思い出します。

「Under Sandre」(砂の下)というオリジナルを「ヒトラーの忘れ物」という
捻りも含みもないタイトルにしてしまう配給会社のセンスのなさにはがっくりですが、
それはともかく、ナチスが埋めていった地雷なんだからお前らが命かけて除去しろ、
と置き去りにされていたドイツ兵(といっても少年ばかり)が投入され、
その結果バンバン死んでいったという実話を映画化した作品です。

戦争の引き起こす憎しみの連鎖は人間の残忍性に免罪符を与えるものになる、
というやりきれない真実が描かれていて妙に心に残る映画でした。

さて、このブースの上には連合国軍とドイツ軍の間に繰り広げられた大規模戦闘、
「バルジの戦い」Battle of the Bulgeについてこう書かれています。

「1944年12月16日、ドイツ陸軍は20万の兵力を以てアルデンヌに攻勢をかけた。
アルデンヌは山岳地で峡谷を擁した地形で攻勢をかけてくるのはありえない、
考えられていたため、連合国軍はここを『ブレイクイン』つまり保養所にしていた」

そう、先ほどの第99歩兵連隊がラジオ放送などを行っていたのは
この保養所だったのではないかとわたしは思うわけです。

実はヒトラーの号令で装甲部隊にアルデンヌを突破させるべく
ドイツ陸軍は戦線の裏側で虎視淡々と準備をしていたわけですが、
地形が地形なので誰しもすっかり安心し、連合国側ではここを

「幽霊戦線」

などと呼んでいたというのです。

もっとも、連合国軍の中にも慎重な人はいて、たとえば
情報将校だったベンジャミン’モンク’ディクソン少佐などは、

「ドイツ軍が西に向かって反撃を開始する準備をしている可能性がある」

ということを警告するレポートを提出したりしていたのです。
ちゃんとエビデンスがあっての報告でしたが、ところがどっこい、
この報告は

「クリスマスシーズンが近づいていたため」

上司によって無視、というか揉み消されました。
ちなみにその無視した中にはオマール・ブラッドレーという人もいました。


12月14日、ディクソンは再び、

「ドイツ軍はアルデンヌで攻撃を開始する」

と確信を持って警告を行い、ドイツ軍が使用できないように
付近の
線路を爆撃することを要求したのですが、空軍戦闘軍団の
カール・スパーツもまた彼の要求を拒否したのでした。

そして、気の毒にディクソン少佐は、

「少佐、貴官は疲れてるんだよ・・・ちょっと静養してきなさい。
パリできれいな女性を眺めながらカフェオレを飲むとかして」

「しかしこんなことをしているうちにもドイツ軍は!」

「まーまーいいからいいから。
おい、ディクソン少佐をさっさとお連れしろ」

「やめろおお!」

「ディクソン少佐、よいクリスマスを!」(^^)/~~~(^^)/~~~

という具合に追っ払われてしまったのです。しらんけど。

 

ここでバルジの戦闘について遡って説明しておきます。

ノルマンディ上陸作戦後イケイケで進撃していた連合国軍ですが、
マーケット作戦に失敗したあとは以降戦線が膠着していました。

そこで第三帝国総統アドルフ・ヒトラーは

「アルデンヌを装甲部隊に突破させ連合国軍の退路を遮断し、
補給地でもあるアントウェルペンを占領する」

という大作戦をぶち上げたのです。
誰もここから攻めてくるとは思わないアルデンヌの森を突破すれば
連合国を押し返すことも可能であろうと。

これはヒトラーにとって「ダンケルクの戦い再び」であり、
彼とドイツ第三帝国にとっての「最後の賭け」でした。

Bundesarchiv Bild 146-1971-033-01, Alfred Jodl.jpgヨードル少将

しかし、立案を命名されたアルフレート・ヨードルは、

「攻勢に必要な兵力を集めることができない」

として代わりに局地的攻勢計画を提案しました。

自分を軍事の天才であると自認するヒトラーはこの代案を拒否、
さらに軍人のシビアな目で見てこの作戦は絶望的、と判断した
西方総軍司令官ルントシュテット、ヴァルター・モーデル少将の進言と代案を悉く退け、
大規模作戦計画「ラインの守り作戦」を強行することにしました。

侵攻作戦でなく防衛作戦であると思わせるために歌の題名を取って名付けられた
「ラインの守り作戦」には、VI号、V号戦車を1036輌投入することになりましたが、
肝心の兵力、燃料、そして砲弾も全く集めることができませんでした。


アメリカ軍もアメリカ軍で、なまじドイツの状況分析がある程度正確なため、
そんな状態のドイツ軍がよもや戦線を突破してくるとは全く考えなかったのです。

 

しかも、本項最初にご紹介した第99歩兵師団は、
それまで小競り合い程度の戦闘経験しかなく、

「バトル・ベイビー」👶

という可愛らしくもなさけないあだ名がついていたうえ、

Middleton.Troy.ThreeStars.jpgミドルトン少将

トロイ・ミドルトン少将指揮する第8軍団の第8軍団の第106歩兵師団、
第9機甲師団にいたっては戦闘経験全くなし、師団長も実戦経験なしという状態。

こうして両軍の状況を俯瞰してみると、どっちが勝っても、というか
どっちも勝てない要素だらけの先の見えない戦闘だったことがわかりますね。

そして12月16日がやってきました。
ドイツ軍は予定より2週間遅れたというものの、霧に乗じて攻撃を開始し、
全勢力を一度にアルデンヌにぶちこんできました。

侵攻するドイツ軍

この一斉砲撃に指揮官の判断ミスがかさなり、第106師団は
退却が遅れ、包囲された後降伏を余儀なくされ、さらには
最終的に一万二千名もの兵を失うという大損害を被りました。

投降するアメリカ軍兵士

しかしここで善戦したのが「バトルベイビー」第99師団でした。
アルデンヌ攻勢が終了したのち、その強固な防御ついて
第5軍団司令官からこのような賛辞を贈られ表彰されています。

「第5軍団部門を突破してムーズ川に侵攻しようとする敵の計画を​を阻止した
諸君らの働きに、わたしはこころからの感謝と賞賛を表明する」

 

しかしながら、最初にアルデンヌにドイツ軍が一斉砲撃してきたという
第一報を受け取りながら、ブラッドレーは当初このことを重視しなかったといいます。

ミドルトンに対しても、

「金輪際ドイツはアルデンヌを抜けてこない」

と断言していたこともあって、ドイツ軍の砲撃によって
我が軍に相当な被害が出たことを知らされると、激怒して

「あのクソ野郎どもはこんな余力をどこに隠していやがったんだ」

と口汚く怒鳴ったそうですが、つまりは自分の予想の裏をかかれ、
恥かいて怒り倍増という感じだったんでしょう。

部下が優秀でよかったですね(棒)

■ 偽アメリカ人部隊事件の余波

そのブラッドレー将軍ですが、以前わたしは当ブログ上で、

「イリノイ州の州都を聞かれた捕虜の将官が"スプリングフィールド"と
正しく答えたのに、質問する人が勘違いしていて大変なことになった」

といううろ覚えの話を書いてしまったことがあります。

正しくはその将官はこのブラッドレー将軍のことで、状況はというと、
将官は捕虜になったのではなく、バルジ戦線において、米軍内部に
完璧な英語を話すドイツ人で構成する
偽米軍部隊が潜入していたのが発覚し、
それを受け各所で
憲兵の尋問が厳しく行われるようになった中起こった出来事でした。

偽アメリカ兵はドイツ軍の制服を下に着ており、ほとんどがスパイとみなされ
(厳密には違うのですが)射殺されましたが、彼らは鹵獲したジープや
M-10に似せて改造したパンターまで用意して偽装していたということです。

アメリカ軍内に瞬く間にその噂は広がり、自衛のための検問が
あちこちで行われることになったのですが、
どんな下々の庶民でも知っていることでないといけないので、
特に兵への質問内容は勢い映画娯楽やカートゥーン関係ばかりとなりました。
怖い顔をした憲兵が

「ミッキーマウスのガールフレンドの名前は?」

とか、

「ポパイの好きな缶詰の中身は?」

なんていう質問を真面目にしている様子はちょっとイングロリアスバスターズです。
ブラッドレーはそういう状況の中、憲兵にシカゴの州都を聞かれ、

「スプリングフィールド」

と答えたのに、憲兵がシカゴだと勘違いしていたため(案外この間違い多いらしい)

「ちょっと・・・こちらへ」

と連れて行かれ、短期とはいえ勾留を受ける羽目になったというわけです。
っていうか、質問する方もシカゴの州都と自軍の司令官の顔くらい覚えておけよって話ですが。

 

■包囲

この間、ドイツ軍は「シュテッサー作戦」と称する空挺降下作戦を投入しましたが、
輸送機のパイロットが経験不足で、空挺団が効果地点に到着できず、
失敗して捕虜になっています。

ドイツの奇襲が功を奏し、二日目にしてアメリカ第28歩兵師団が
壊滅寸前であることを知ったパットンは、直ちにアメリカ陸軍第101空挺師団、
第82空挺師団をベルギーのバストーニュに急行させました。

ここでいろいろあり(詳細は省略)バストーニュ防衛を行うアメリカ軍は
ついにドイツ軍に包囲されてしまいます。

その時ドイツ第XLVII 装甲軍団司令官リュトヴィッツの降伏勧告をもたらした
ドイツ軍の伝令に対し、第101空挺師団師団長代理、アンソニー・マコーリフ准将

「NUTS !」

と答えたといういかにもアメリカ人大好きそうななエピソードが残されています。

アメリカ人はよく「あほか」みたいなニュアンスでナッツを使うのですが、
日本の媒体ではこれを「たわけ!」と訳していることが多いようです。


意味がわからない風だったドイツの伝令に対し、第327グライダー連隊長

「地獄へ落ちろという意味ですよ^^」

と説明したそうですが、その後、クレイトン・エイブラムス中佐率いる
第3軍の救援部隊が到着し、クリスマスの翌日に第326工兵隊を救出、
27日には第101空挺師団との接触にも成功し、一緒になってドイツ軍を撃破しました。

エイブラムスの名前は戦車、M1エイブラムスに残されています。

M1A2 tanks at Combined Resolve II (14069815848).jpgサービス画像

このころのドイツ軍は、軍の内部で燃料を取り合ったり、
空軍を投入するも、レーダーを避けようとして低空飛行していたら
味方が連合軍だと勘違いして皆高射砲でやられてしまったり、
無線封鎖を解除したので連合軍に位置を特定されて反撃されたり、
とにかくお先真っ暗のぐだぐだでしたが、全体で見ると
損失はそうたいしたことがない、といってもいい状態に止まっていました。

そこでドイツ軍上層部は被害をとどめるべく作戦停止と撤退を進言しましたが、
負けず嫌いのヒトラーがそれを許さず、徹底抗戦を続けさせたため、
結局バストーニュの包囲は破られ、ドイツ軍は大損害を受けることになります。

1月23日にバルジの戦いは停戦となりましたが、ドイツ軍はこの戦いで
当初の目的であった主導権奪還に失敗し、
戦力を致命的に消耗し、
ドイツが戦争に勝利する可能性は完全に潰えることになったのでした。

 

ところで「バルジ作戦」は映画にもなっているようですが、マコーリフ准将の
「ナッツ!」のシーンはあったんだろうか、と思ってデータを見ると、
そもそもマコーリフ准将らしきキャストがありませんでした。

 

続く。