ピッツバーグにある「兵士と水兵のための記念博物館」の展示より、
太平洋戦線における関連のものをご紹介しています。
■天使の棺とレディラック
いかにも素人っぽいピンナップガール風ペイントは、
「レディ・ラック」とあだ名されたUSS「サンゲイ」(SangayAE10)
のマスコットで、原画は二等水兵のメル・ツィマーマン君が描いたものです。
「サンゲイ」という艦名を目にするのはこれが初めてですが、
AEすなわち「給兵艦」(munitions carrier)つまり補助艦なので、
その名前が知られていなくても当然かと思われます。
補助艦艇、特に補給艦は撃沈した時の効果が大きく、しかも
掩護がついていなければ反撃されないので狙われやすく危険で、
しかも防御が脆弱なので一旦敵の砲火が当たると、
粉々に吹き飛ばされる危険性がつきものだったことから、
乗員たちは自嘲的に「天使の棺」とあだ名をつけていました。
ピンナップガール風の天使(のつもり)の後ろには
Angel's Coffin、とありますので、乗員たちはせめて彼女に
守護天使になってもらおうとしたのでしょう。
ここにある「レディ・ラック」は、「サンゲイ」が退役し除籍されてから
ジャック・クリフォードという元乗員が上から描き直したものです。
艦の一部とかではなく、どこかに飾ってあった絵のようですね。
描き直すことに決まってからか描き直してからか、
クリフォード氏はオリジナルを描いたツィマーマン氏をずっと
探し続けていたのですが長年果たせず、おそらくインターネットのおかげで
ようやく巡り会うことができたのは、65年後のことでした。
プロならいざ知らず、見るからに素人の絵を上から描き直したからって
そこまで気に病むこともなかったのでは、と側からは思いますが、
(そしてそんなに気にするなら描き直ししなければ良かったのではとも)
まあ、本人的にはなんとしても一言いいたかったんでしょう。
2010年、クリフォード氏はこの絵をSSMMに寄贈しました。
ところで、絵の上にわざわざ舫をあしらっているわけですが、写真を見ていて、
これは女性の胸部分を隠すためにわざわざ垂らしてあることに気がつきました。
学校の児童なども頻繁に見学にくることからちょっとこれはね、
という話になるも、上から何か貼ったりすれば製作者を「冒涜」するとになる。
(しかも制作した二人はヴェテランです)
そこで苦肉の策として、雰囲気を出すためのディスプレーを装い、
さりげなく部分を見えないようにしたというところでしょう。
■ 戦艦「オクラホマ」の時計
まず、8時6分を指して止まっているこの時計は、
かつてUSS「オクラホマ」のギャレー(ダイニングルーム)にかかっていたものです。
1941年12月7日、日本軍が行った真珠湾攻撃によって、パールハーバーに停泊していた
戦艦「オクラホマ」は三発の魚雷を受け、横転する形で沈没しました。
横転した甲板の主砲のマウントの向こうに、3人の水兵の姿が見えます。
たまたま横転の時に甲板にいて、奇跡的に命存えた幸運な男たちです。
艦体の横転とほぼ同時に、20名の士官と395名の下士官兵が死亡しましたが、
そのほとんどがデッキより下の階にいた人々でした。
警報がもう少し早く伝わっていれば、そのうち半分くらいは
甲板に出ることによって助かっていたかもしれません。
甲板にいた80名ほどの乗員は航空機が接近してきた時、
対空砲への配置のためスクランブルをかけましたが、
発射ロックが甲板の下にあったため使用することができませんでした。
甲板階にいて助かった乗員たちは、となりの「メリーランド」に
係留索を伝って移動し、対空戦闘に参加したということです。
攻撃が終わってから甲板より下にいた人々の救出が始まり、
このときの港湾関係者の英雄的な救助作業によって
32名が生還することができました。
艦体にヒットした魚雷は九発、そのいずれもが
ほとんど同じ区域に突き刺さることによって、艦体は大きく傾き、
その結果瞬時にして横転することになったのです。
さっそく引き揚げ作業が始まり、その間艦内から
なんらかの価値がありそうなものが取り外され持ち出されたわけですが、
そのうちの一つがこの時計でした。
そしてそれらの引き揚げ品がどうなったかというと、最終的に
業者に買い取られ、この時計はペンシルバニア州アルトゥーナの
軍放出店に行きついたというわけです。
仮にもパールハーバーで日本軍に沈められた戦艦の装備品なのに、
この雑な扱いってどうなの、とわたしなど思ったりするわけですが、
時計の出自がわからなくなるようなことにはならず、その後
朝鮮戦争から帰還してきたドン・ヘラーという人に贈られ、
彼はこれを保持していましたが、2012年に当博物館に寄付しました。
Galley CS OKLA
と手書きが見えるこれも「オクラホマ」艦内から引き揚げられたものです。
残念ながら詳しい説明の写真を撮るのを忘れてしまったのですが、
「オクラホマ」のギャレーにあったものに違いありません。
CSというのC〇〇〇〇ment Shipというオクラホマのあだ名だと思われます。
「オクラホマ」で亡くなった何人かは、後の駆逐艦に名前を残しました。
→USS イングランド(DE-635)、USS イングランド(DLG-22)
チャールズ・M・スターン少尉
イングランド少尉も、オースティン少尉も、他の乗員の救助に力を尽くし、
その結果自分が命を失うという英雄的な最後を遂げています。
「オクラホマ」の人々の最後などを具に調べてみると、
その悲惨さに、そりゃアメリカ人がリメンバーパールハーバーと
憎しみを滾らせたところで仕方あるまいと思わず首を垂れてしまうわけですが、
その恨み忘れまじと作られた世論を煽るためのプロパガンダポスター、
「12月7日を忘れるな!」
の上に、電報と水兵さんの写真が貼ってあります。
この人の名前はアンドリュー・マーツェ(Marze)。
USS「ペンシルバニア」に乗っていたガンナーズメイト(掌砲兵曹)でした。
12月7日の真珠湾攻撃のとき、「ペンシルベニア」は乾ドックに入渠中でした。
しかし真珠湾の艦艇や施設に襲い掛かる日本海軍の九九式艦爆や九七式艦攻に対して
対空砲火を撃っています。
入渠中だったため雷撃は受けませんでしたが、激しい機銃掃射に見舞われ、
爆弾が9番砲塔に命中し、また搭載してあった魚雷発射管が爆発で吹き飛び、
結局幹部を含む15名の戦死者と14名の行方不明者、38名の負傷者を出しています。
真珠湾攻撃のニュースを受けた時、マーツェ水兵の家族は
愛するアンディが無事かどうかを知るのに必死でした。
ここにある二枚の電報のうち最初のものは、
マルツェの運命の不透明さがその質問に色濃く現れています。
「Where is Andy? Honolulu? Pittsburgh?」
家族はアンディがホノルルにまだいるのか、ピッツバーグにまだ乗っているのか、と
とにかくそれだけを送信したのでした。
12日後、当時彼と一緒に海軍基地内の住宅に住んでいた妻のドリスが
こんな身も蓋もない短い返事を寄越しました。
”Andy Killed Andrea and I returning soon."
(アンディがアンドレアを殺したのでわたしはすぐに帰ります)
わけわからん。
アンドレアって誰?
アンディが無事であることだけはわかりますが。
■日本が降伏勧告を受け入れた日
さて、冒頭に挙げたこの黄色いペーパーですが、
真ん中の文章をご覧ください。
”THIS IS IT----------------”
これは1945年8月11日1520、USS「サラトガ」が受け取った電報です。
大西洋艦隊駆逐艦
というテンプレートの用紙に、
合衆国は、連合国の最高司令官が日本を統治するという条件で、
日本の降伏の申し出を受け入れることに同意した。
これは天皇の権威を通して数分前に秒単位まで正式に発表されたものであり、
バーンズ(ジェームズ・バーンズ国務長官)は4ヶ国の連合国、
米国、ロシア、大英帝国、中国を代表してこの申し出を行ったものである。
バーンズ氏は天皇が連合国総司令官の支配下に置かれて初めて
4連合国は幸福を受け入れるだろうと述べた。
そしてそのあと「ジスイズイット・・・」がくるわけです。
これは今風に言うと、
「ktkr」
「キター♪───O(≧∇≦)O────♪」
と言う感じでしょうか。
公式にソースが発表されて数分後にはこの電報が世界中を駆け巡りました。
打電の最後に()をして、
(現時点でジャップの故郷から25マイル離れたところ航行中)
とありますが、これは伝言を受け取った艦隊のヘッドがそこにいたと言うことでしょうか。
続く。