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輸送艦「ジェネラル・ネルソン・M・ウォーカー」と落書きプロジェクト〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-04-27 | 歴史

写真とパネルの展示で状況を説明してきたハインツ歴史センターの
特別展「ベトナム戦争」ですが、ここで初めてオブジェクト展示が現れました。

海兵隊と陸軍の戦闘が主体のイメージであるベトナム戦争展で
最初にどーんとでてきたのが軍艦の兵員用バンク(ベッド)でした。

英語では「Berthing Unit」と表記されています。

兵士たちに与えられた救命ジャケットなども。

■ 輸送艦「ウォーカー」

アメリカ軍の軍人はこの、

USNS「ジェネラル・ネルソン・M・ウォーカー」

のような第二次世界大戦時代の「トゥループ船」でベトナムに輸送されました。

USNSとはUnited States Naval Shipのことで、米海軍海上輸送司令部に所属する
高速戦闘支援艦、病院船、事前集積船などの補助艦艇に付けられる接頭辞です。

これらの艦船は現役ではあるが「就役」という扱いではなく、軍人ではなく
海軍に雇われた民間人によって運用されているのが大きな特徴です。

これから「ナーバル」がなくなるとUSS (United States Shipとなり、
こちらが海軍軍艦であるというのがなんか不思議な感じですね。

まずこの「ウォーカー」についてさらっと解説しておきます。

USNS「ジェネラル・ネルソンM.ウォーカー」は44年2月、
「アドミラル・H・T・メイヨー」という名で海軍輸送艦として就航し、
1946年に陸軍輸送隊の一部になりました。
改名されたのもこの時です。

1965年8月に海軍に再取得され、海軍船籍簿に復帰した「ジェネラル・ネルソンM.ウォーカー」は
ベトナム戦争に運用するため再活性化されました。

さて、そのベトナムへの軍人の輸送ですが、西海岸の港から出航し、
南ベトナムのダナン、またはクイニョンまで、3週間の船旅が行われます。

「ウォーカー」には3,500名の海兵隊員とG.I.がひしめき、そのほとんどが
慣れない艦上生活で船酔いに苦しみました。
ウォーカーの乗員となった彼らは愛情を込めて?

「ボートピープル」「ウォーカー・ベイビー」

などと呼ばれたそうです。
ボートピープルのどこに愛があるのかという気もしますが。

 

この「ベーシングユニット」(停泊ユニット)は「ウォーカー」艦内の装備です。
キャンバス地はこの船でベトナムに運ばれた若い男性たちの落書きだらけです。

「ベトナム・スージー」は「ハローG.I.」とささやき、
その横には「ベトナムにようこそ」

この落書きをした男性のほとんどはまだベトナムを経験していなかったはずですが・・・。

しかし、ベトナム・スージー嬢に髭を描いた奴は誰だ!

カンバスに書かれた落書きはこの艦が輸送に使われていた間、
このバンクの「主」となった何人かの所有者が記念として残したものです。
落書きをちょっと拾い読みしてみましょう。

6/ 8/ 67 ベトナム フィラデルフィア ペンシルバニア

「THE GOOD TOWN」

この「良い街」はもちろん出身地であるフィラデルフィアのことでしょう。

ちなみに、「フィラデルフィア」をカタカナのまま読んでもアメリカ人には通じません。
「古豆腐屋」と「どう」にアクセントをつけて発音するのが一番近いかなと思います(´・ω・`)

「上陸日 1967年10月28日

我々は『約束の地』にやってきた」

「約束の地」とは、ヘブライ語聖書に記されているところの
「神がイスラエルの民に与えると約束した土地」のことですが、
もちろんこれは自嘲というか皮肉でそう言っているだけと思われます。

「ここに寝ている奴は〇〇で眠る!
彼の魂に安息あれ!」

次のバンクの主に予言めいたものを残し、ちょっとした
「嫌がらせ」をしているというのも・・・・。

「このバンクは『死のベッド』です。
ここで眠る奴はベトナムで死ぬだろう。
気を付けろ
お前に残された時間は短い、とても短い!!」

また、一人が

「RFK(ロバート・ケネディのこと)を大統領に」

と書くと、別の人が

「RFKはLBJ(ジョンソン)のベトナム政策を受け継がないだろう」

ロバート・ケネディはジョンソン政権での司法長官でしたが、
ベトナム戦争に対しては段階的拡大の停止を主張していました。

兄が自らの政権下で進めた南ベトナムへの「軍事顧問団」(という名の派兵)の
大幅増員でしたが、ロバートはJFKが暗殺前には停止を意図していたと知っていたのです。

このバンクの主二人(かどうかは確かではありませんが)は、そのことをもって
RFKにわらをもすがる期待をかけていたのかもしれません。

できれば、自分がベトナムで死ぬ前になんとか潮目が変わってくれないかと・・・。

真ん中の得体の知れない物体はどうも横顔のようです。

第9機関部隊?

R・T・ディフェルディナンド上等兵(P.F.C.)

ダウニングタウン ペンシルバニア

そして

「ザ・ファビュラス・フューリーズ」(素晴らしき復讐の女神)

シャロン・プランク

というのはおそらくガールフレンドか意中の人の名前でしょう。

67年10月29日 ベトナム

ロイ・アダム シュイルキル・ヘブン ペンシルバニア

小さく「ブレンダ、愛してる!」「Twice!」

とあります。

「ベトナムに送られる兵士たちは、彼らの心の小さな断片、
彼らの魂の小さな断片を残したかったのだと思う」

と、自身が「ウォーカー」に乗ってベトナムにわたったとき
20歳だったベテラン、ジェリー・バーカー氏はこのように説明しました。

「ジェネラル・ネルソンM.ウォーカー」は、タコマ、サンフランシスコ、
サンディエゴなどの西海岸の港から兵士と海兵隊をベトナムに輸送しました。

5,000マイル以上の航海は18日から23日続きました。

入隊した男性は、ほとんどが10代後半で、船の低層の
混雑した停泊区画にある帆布の二段ベッドで寝起きをし、
そして・・・・落書きをしました。

彼らが落書きをしたのは主に往路でしたが、時には復路のものもあります。

当然ですが、士官寝室は上部のメインデッキにある小さくて快適な部屋で、
彼らの区画には落書きはほとんど残っていませんでした。

長い航海は船酔い、不安、退屈を引き起こしましたが、一部のものは
その中でもリラックスしてユーモアを共有する方法を見つけました。

救命艇の訓練、勉強会、教会の礼拝、映画、音楽、読書、そして仲間との会話。
それらは彼らの果てしなく終わりがないかに思える長い航海中、どんなに役立ったことでしょう。

トランプ、ロザリオ。

そしてヒッチコックのスリラー小説など。
「神経質でない物語」でいいのかな。

これは19歳だったゲイリー・ペトロンが「ウォーカー」に持ち込んだギターです。

そしてダッフルバッグ。
彼はいつもギターを手にしていたそうです。

彼は帰還後ベトナムのことについて一切語りませんでした。
しかし、歳をとって亡くなる少し前の2012年、彼は一人、
故郷のアルバニー(NY)で行われていた
「ウォーカー展」を訪問しました。

そして彼は最後のその1週間、訪問者にベトナムでの思い出を語り続けました。

「ウォーカー」がベトナムに近づくほど、特に空気の循環がほとんどない
低層の区画では、艦内は猛烈な暑さになりました。

喫水線の上の部隊区画の開いた舷窓は、それらの停泊エリアに新鮮な空気を提供しました。

壁にわざわざ書くことかしら、という気がしますが。

「わたしを含め、おそらく80%が地図でベトナムがどこにあるか
指差すこともできなかっただろう」

艦内は混雑し、 朝食、昼食、夕食ごとに長い列ができました。
キャンディー、タバコ、その他の身の回り品を購入できる店に到達するために、
果てしもなく長い列がいつもできていました。

「ウォーカー」は補給のためよく沖縄に立ち寄りましたが、出航までの数日間、
短期間の上陸と「自由」が与えられ、兵士たちは休暇を楽しみました。

 

アメリカがベトナムへの船での兵員輸送をストップしたのは1968年のことです。
そのかわり、輸送には飛行機が使われることになります。

このバンクは、1997年に立ち上がった

「ベトナム・グラフィティ・プロジェクト」(ベトナム落書きプロジェクト)

が廃止前の輸送艦からこれらを取得し、資料として残しています

 

■ ベトナム・グラフィティ・プロジェクト

バージニア州に本拠を置く非営利組織である「ベトナムグラフィティプロジェクト」。
バージニア州の有志によって「ジェネラル・
ネルソンM.ウォーカー」内の
歴史的なベトナム戦争の遺物を保存するため
に1997年に設立されました。 。


草の根ボランティアプロジェクトとして、落書きで刻まれたバンクベッドの
キャンバスなどを集め、全国の博物館に配布することを支援するためです。

受け取ったのは、スミソニアン博物館(ここに展示してあるもの)のほか
米国議会図書館、
兵役博物館、州および地方の歴史協会などです。


2005年、「ウォーカー」はテキサス州ブラウンズビルで廃艦処分になったため、
プロジェクトのボランティアは何百もの落書きでマークされた帆布を回収しました。


そして、その後、実際に「ウォーカー」などに乗ってベトナムに行った兵士や海兵隊員を探し、
インタビューをし、証言を集めています。

特務士官、ジム・リーダーは、「ウォーカー」がサンフランシスコを出港した
1967年10月10日、家族に艦上から別れを告げるというとき、
自分がどこにいるか見つけやすいようにと、フライトジャケットを手にしました。

レスキューの時、視認性をあげるために裏地にはオレンジがあしらわれています。

出航が始まった時、ここぞとジャケットを裏返し、それを振ろうとして
後ろからどっと笑い声が上がったので振り向いたジムが見たものは・・・

仲間のパイロット全員がジャケットを裏返して振っている光景でした。

 

 

続く。