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兄弟艦(きょうだいぶね)駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」〜バッファロー&エリー郡海軍軍事博物館

2021-01-09 | 軍艦

エリー湖岸に偶然見つけた海軍&軍事公園の展示から、
今日は最後の係留展示となる駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」をご紹介します。

まず、「ザ・サリヴァンズ」の係留されている位置ですが、潜水艦「クローカー」の後方岸壁、
ミサイル巡洋艦「リトル・ロック」の内側となります。

「リトル・ロック」の艦内見学のためには、「ザ・サリヴァンズ」から乗って
「クローカー」経由で降りてくるというコースとなっているようです。

「ザ・サリヴァンズ」、ただいま絶賛修復修理中。
中共ウィルスによる閉鎖の期間、多くの博物館や展示場は
再開に向けて内部を改装したり修復したりしているようです。

それではまず、当博物館の説明翻訳から参ります。

USS The Sullivans 

廃止されたU​​SS「ザ・サリヴァンズ」は、第二次世界大戦で使用された
米国駆逐艦の最大かつ最も重要なクラスである「フレッチャー」級駆逐艦の好例です。

 

バッファロー海軍公園の「フレッチャー」級駆逐艦DD-537は、
第二次世界大戦で使用された米国駆逐艦の最大かつ最も重要なクラスでした。

USS「サリヴァンズ」は、アイオワ州ウォータールーの5人の兄弟にちなんで名付けられました。
海軍で複数の人物にちなんで名付けられた唯一の軍艦です。

彼女は1943年に就役し、太平洋戦争で初戦デビューを行いました。
8機の日本軍の飛行機を撃墜し、硫黄島と沖縄を砲撃し、
アメリカのパイロットと乗組員を艦の燃焼や沈没から救いました。

彼女はまた、朝鮮戦争とキューバミサイル危機の間に行動をおこないました。

USS「サリバンズ」は1965年に廃止され、功績のあるパフォーマンスによって
合計11のバトルスターを獲得しました。

現在はバッファローウォーターフロントに係留されている歴史的建造物です。

艦内見学では、310人の乗員とともに彼女が

「ティンカン・セイラー」

としての役割を果たした様子がわかります。
彼女はまた、一緒に亡くなった5人のサリバンの息子たちへの追悼と記憶の場でもあります。

この記憶は、彼女のモットーである「We Stick Together!」に裏付けられました。

DD-537

長さ: 376.6フィート (114.76m)
ビーム: 39 .8フィート (12.09m)
ドラフト:  17.9フィート(5.41m)
排水量: 2,100ロングトン(2,080トン)

兵装: 5インチ/ 38口径砲 4門 3インチ/ 50口径砲1門 ツイン40mm機関砲2基
   ディプス・チャージ(爆雷)
人員: 310名

ところで、これを確認するためにウィキペディアを見たところ、
全長が153.9m、とあったので、どういうことだ!とびっくりして
最後まで読んだら、同名の軍艦でした。

ミサイル駆逐艦 USS「ザ・サリヴァンズ」DDG-68

 

 


● サリヴァン兄弟

軍艦二代にわたってその名前を残す「ザ・サリヴァンズ」とはどういう兄弟でしょうか。
なお、英語では家族、兄弟を表す時「ザ」をつけなくてはいけないので、
本艦を単に「サリヴァンズ」と称するのは間違いとなります。

ザ・サリヴァンズはアイオワのウォータールーに住む
アイルランド系の移民の夫婦に生まれた男ばかり5人の兄弟です。

左からジョージ、マット、アル、フランク、ジョー
 

なお、長男から順番に

長男 ジョージ・トーマス 27歳(1914年生)二等掌砲手

次男 フランシス・ヘンリー "フランク" 26歳(1916年生)操舵手

三男 ジョセフ・ユージーン "ジョー"  24歳(1918年生)二等水兵

四男 マディソン・アベル "マット" 23歳(1919年生)二等水兵

五男 アルバート・レオ "アル" 20歳(1922年生)二等水兵

この頃は多産の家は珍しいことではなかったのかもしれませんが、
7年間の間に子供を6人産み続けたカーチャンとか、そのうち5人が
男ばかりだったこととか、その5人が全員海軍に入ったこととか、
しかもその5人が5人とも同じフネに乗っていたために
そのフネがやられて全員戦死してしまったこととか、
 
・・・・・・・・とにかくどれ一つとっても実現の確率が低すぎて
突っ込みどころ満載という珍しいことばかりではあります。

 

 

● 「唯一の生存者政策」

だからこそ海軍も、彼らの死をレガシーとして扱い、
その名前が遺されることになったのでありましょう。
その死はその後のアメリカ海軍の運用にも影響を与えました。

たとえば戦争局は「ソール・サバイバー・ポリシー」(唯一の生存者政策)を定め、
このことは映画「プライベート・ライアン」の題材として取り上げられています。

この政策は、サリヴァン兄弟の死後、1948年に制定されましたが、それ以前にも
家族の唯一の生存者が現役から免除される例はあったそうです。

たとえば、1944年、立て続けに息子(双子含む)5人を戦死で失った
ボルグストローム兄弟の両親は、申し立てによって末の息子の徴兵を
正式に免除させることに成功したという事例です。

また、チャールズ、ジョセフ、ヘンリーの3人のビュートホーン兄弟の場合、
長兄のチャールズが1944年にフランスで戦死し、ジョセフが1945年に太平洋で戦死した後、
イタリアの陸軍空軍に勤務していたヘンリーは陸軍省から帰国を命じられています。

 

「プライベート・ライアン」の直接のモデルになったニーランド兄弟の場合は、
4人の兄弟のうち1人を除くすべてが戦死したとされていたところ、
米陸軍空軍の長兄であるエドワード・ニランド技術軍曹は、
後にビルマの捕虜収容所に収容されていたことが判明しています。

 

サリヴァン兄弟の件と同様、ボルグストロム兄弟、ビュートホーン兄弟の件は、
どちらも「唯一の生存者政策」の成立に直接寄与することになりました。

最近の例では、2004年、イラクで戦死したジャレッド・ハバードの兄弟である
ジェイソンとネイサンが陸軍に入隊後、ネイサンがヘリコプター事故で亡くなり、
これを受けて軍当局はジェイソンに帰還を命じたということがありました。

アフガニスタンでも、ワイズ兄弟のジェレミー、ベン、ボーのうち、
ネイビーシールズのジェレミーが自爆テロで死亡、つづいて
衛生兵だったベンが重傷を負い死亡したのち、ボーに帰国命令が出されました。

この法案の適用は、生き残った本人が要求し申請することができ、
その対象は下士官兵、士官のいずれを問いません。

ただし、本人が家族の死亡の通知を受けた後であっても自発的に
再入隊または自発的に現役を延長した場合はこの資格を放棄したとみなされます。

 

● サリヴァン兄弟の最後

さて、彼らの経歴を見てここからもわかるように、長男と次男は
兄弟に先駆けて海軍に入隊しており、三男から以降3人は
同時に(1942年1月3日)海軍入りして階級が同じです。

三男以降の3名が海軍に入った時期を考えるに、彼ら兄弟は
日本との開戦を知り、兄二人に続き国のために海軍で敵と戦うのだ、
と話し合ってそれを決めたのだと思われます。

そして、5名は全て同じ軍艦、

軽巡洋艦 USS 「ジュノー」

に乗り組むことを志望しました。

兄弟全員が一つの艦に乗ることの危険性を海軍はよくわかっていたはずですが、
サリヴァン兄弟の熱意に負けたのか、これも一つのアピールになると考えたのか、
最終的に海軍はこれを許し、5人のサリヴァンは「ジュノー」乗組となりました。

 

 

軽巡「ジュノー」は1942年8月からガダルカナルに展開していましたが、
1942年11月13日、伊号潜水艦26の魚雷攻撃による弾倉爆発が原因で沈没しました。

このとき、フランク(次男)ジョー(三男)マット(四男)の3名は爆発で即死しています。

ジョージとアルを含む「ジュノー」乗員のうち約100名は海に逃れていましたが、
軽巡洋艦USS 「ヘレナ」艦長と機動部隊指揮官は、生存者の望み薄い海域で
日本の潜水艦の攻撃にさらされることを躊躇い、捜索を行わなかったうえ、
沈没を知っていたB-17爆撃機の乗組員は、無線封止命令を受けていたため、
数時間後に着陸するまで、生存者確認の報告を提出できませんでした。

しかも!
この報告は他の保留中の事務処理と混じってしまい、数日間放置されていました。

数日後、本部はようやく生存者報告に気づき、捜索を命じましたが、
この間海上の「ジュノー」の生存者(多くが重傷を負っていた)は
空腹、喉の渇き、そして繰り返されるサメによる襲撃にさらされることになり、
沈没から8日後、カタリナ捜索機が救出できた生存者はわずか10名でした。

この生存者の報告によって、生き残っていたサリヴァン家の兄弟のうち、
海に逃れたアル(五男)は翌日溺死し、長男のジョージは4〜5日生きていた、
ということがわかっています。

彼らの語ったジョージの最後というのは、つぎのようなものでした。

「漂流中の高ナトリウム血症とおそらく兄弟を失った悲しみから
譫妄(せんもう)を起こし、『悲しみのあまり精神に異常をきたし』
自ら筏の柵を乗り越えていき、それっきり乗員は彼の姿を見ることはなかった」

戦争中なのでこれは仕方のないことだったかもしれませんが、
海軍は敵に情報を与えることになるため「ジュノー」の喪失を発表しませんでした。

しかし、息子たちから全く手紙が届かなくなったのを不審に思った両親が
人事局に何度も問い合わせをするようになります。

 

そしてある朝、五人の兄弟の父親であるトムが出勤準備をしていると、
軍服を着た3人の男性(副司令官、医師、および兵曹)が訪れ、
そのうち士官が父親にこう口を開きました。

「あなたの息子さんについてお知らせしなければならないことがあります」

「誰についてですか」(”Which who?")

士官はこう答えました。

「お気の毒ですが5名全員です」


長くなったので二日に分けます。

 



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4 Comments

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これがほんとのNavy Mom (Unknown)
2021-01-09 09:11:18
>長男 ジョージ・トーマス 27歳(1914年生)二等掌砲手
>次男 フランシス・ヘンリー "フランク" 26歳(1916年生)操舵手
>三男 ジョセフ・ユージーン "ジョー" 24歳(1918年生)二等水兵
>四男 マディソン・アベル "マット" 23歳(1919年生)二等水兵
>五男 アルバート・レオ "アル" 20歳(1922年生)二等水兵

ほとんど九年間妊娠し続けですやん。お母さんを駆逐艦の名前にすべきですね。
返信する
「ザ・サリヴァンズ」 (お節介船屋)
2021-01-09 10:35:51
初代
米駆逐艦中最多数「フレッチャー」級175隻の1艦でベツレヘム社で1943年9月竣工、1974年除籍されました。
条約の制約を受けなかったためスペースに余裕があり、主兵装を犠牲にしないで機銃等増強出来ました。凌波性能も良好で実用性が高く、全艦1942~44年に竣工し、第2次世界大戦中期以降主力駆逐艦として活躍、戦後も対潜護衛艦として使用、外国海軍にも譲渡されました。
要目
基準排水量2,110t、全長114.73m、幅12.07m、吃水4.19m、缶4基、蒸気タービン2軸、60,000馬力、速力37.8kt、兵装12.7㎝単装両用砲5基、40㎜連装機銃1基、20㎜単装機銃6基、53.3㎝5連装魚雷発射管2基、爆雷投射機6基、爆雷投下軌条2条、乗員336名

2代
アーレイ・バーク級フライトⅠ 21隻中の1艦、フライトⅡ7隻、フライトⅡA48隻(2艦建造中)、フライトⅢ3隻建造中と77隻以上となる現代の最強のイージス艦です。
「ザ・サリヴァアンズ」は1997年4月竣工でこのクラス艦齢の古い順から近代化改装が実施されておりBMD能力も付与されています。フライトⅠの2艦が2017年衝突事故をおこしましたが修理されました。
要目
満載排水量8,364t、全長153.8m、幅20.3m、吃水6.7m、ガスタービン4基、2軸、100,000馬力、速力32kt、兵装トマホーク、スタンダードSAM,発展型ジー・スパロー、アスロック用VLS2基90セル、ハープーン4連装2基、127㎜単装砲1基、20㎜CIWS2基、324㎜3連装魚雷発射管2基、乗員286名
参照海人社「世界の艦船」No496,873
返信する
ジュノーCL-52 (お節介船屋)
2021-01-09 11:24:15
アトランタ級軽巡11隻中の1艦でした。
アトランタが1941年12月竣工、最終艦フレスノが1946年11月竣工で「ジュノー」はフェデラル造船所で1942年2月竣工で1942年11月13日戦没しました。アトランタも戦没しました。
本級は艦隊防空軽巡で米海軍唯一の対空軽巡でした。ただ水雷戦隊旗艦としても使用を想定し、8番艦まで魚雷発射管を装備していました。逐次魚雷発射管を撤去、40㎜機銃を増備しましたがスペース不足で主砲の一部を撤去した艦もありました。
防空艦としてやや過小でしたが任務上太平洋戦線に投入されました。
要目
基準排水量6,000t、満載排水量8,100t、全長165m、幅16.2m、吃水6.6m、缶4基、蒸気タービン2軸、75,000馬力、速力33kt、兵装12.7㎝連装両用砲8基、28㎜4連装機銃3基、20㎜単装機銃8基、53.3㎝4連装魚雷発射管2基、装甲水線89㎜、防御甲板51㎜+51㎜、砲塔38㎜、司令塔95㎜、乗員戦時810名
参照海人社「世界の艦船」No464、578

ジュノー戦没の第3次ソロモン海戦はガタルカナル奪回をめざした日本陸海軍が第38師団の兵力と物資を11隻の輸送船で強硬上陸を図ろうとし、指揮官第11戦隊司令官阿部少将のもと戦艦「比叡」「霧島」以下軽巡1隻、駆逐艦15隻が米海軍カラガン少将指揮の重巡2隻、軽巡3隻、駆逐艦8隻と激突し混戦の海戦であるが海戦そのものは一方的な敗北ではなかったのですがその後の三川第8艦隊重巡「鳥海」「衣笠」等や第2艦隊近藤中将の重巡「愛宕」「高雄」戦艦「霧島」等もキンケード少将指揮の空母「エンタープライズ」やガ島からの空襲、リー少将指揮の戦艦「ワシントン」「サウスダコタ」等との戦いで日本軍は多くの犠牲を出し、ガ島奪還は阻止されました。
参照新人物往来社「太平洋戦争海戦全史」
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ペイント中 (お節介船屋)
2021-01-10 10:15:13
「ザ・サリヴァンズ」 の艦首で塗装中ですが中段に作業用ロープが張ってあります。
オーバーハングしていますので艦首には数段ペイント用の足場を取り付けたり、舷側にロープでぶら下がりして塗装しますが取り付けたり引き寄せたりするためのパッドアイがあらかじめ設置されていました。
艦橋、格納庫回りや煙突周辺にもパットアイやペイントステージやハンドレールが取り付けてありました。
これらは乗員が頻繁に使用していましたが現在は塗装が造船所や業者工事で外注が多くなり新しい艦から段々設置されないようになっています。

イージス艦の事が出てきましたので昨今の我が国のイージースアショア代替問題ですがほぼイージス艦となるようです。
アメリカ海軍が採用したSPY-1の後継のSPY-6ではなくイージースアショアで発注したSPY-7を艦載型として搭載することとなるとの事です。
米海軍はアーレイバーク級のフライトⅢの建造中のDDG-125「ジョンH・ルーカス」から数段探知能力が優れるSPY-6が搭載され2022年竣工します。当然試験やバグ処理や耐久性等は実施されていますがSPY-7 はスペイン等が採用する予定ですがレーダー本体のみで戦闘システムにはイージースシステムの派生型のSCOMBA(イージース・ベースライン9C相当)ですがまだ計画段階で出来た艦はありません。
SPY-7を艦載し試験や改正やバージョンアップ等は米海軍からの情報や提供、連接等が得られず、自前での実施となり発注したレーダーばかり固執していると追加予算や苦労を海自が負担する事となるのではとの発議が自民党国防部会や海自OBから出ています。
防衛省からは性能が良いと意見ですが艦載の問題点や長期使用のバージョンアップや試験負担や戦闘システム等についての発信がありません。
イージスアショア採用時の検討や艦載化について再検討し、海自や米海軍の知見を加味して国民に説明の要があると思います。
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