ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

独立記念日の花火と退役軍人の心的外傷

2015-07-11 | アメリカ

こちらではインディペンデンス・デイというより「ジュライ・フォース」という
呼び方をするのが一般的なアメリカ独立記念日。
毎年この時期にはわたしはアメリカの東部にいるのですが、キャンプが休みなので
大抵はホテルで1日ゴロゴロして、時々テレビをつけて恒例の
「ホットドッグ大食い選手権」を見るという程度の過ごし方しかしたことがありません。

しかし、今回は7月5日にアメリカを出国することになったので、ジュライフォースの日、
ローガン空港の近くのホテルに移動しながら、おそらく「初めて」この日を肌で感じました。



ノーウォークのおされホテル「ゼロ」をチェックアウトした後、
ニューヘイブン大学(仮名)に立ち寄り、構内の美術館を二つはしごして、
息子を呼び出して様子を聞きました。

洗濯の順番がなかなか回ってこないことと、朝が早いこと以外は
困った様子もなく、楽しくやっているようでした。
サマースクールのイベントは、いくつかの選択肢から選ぶことができるのですが、
息子は「ニューヨークでピザを食べるツァー」「タングルウッド音楽祭鑑賞」
を選んだと言っていました。
ミュージカルを見るツァーもあって、演目は「レ・ミゼラブル」だったそうです。

ニューヘイブンから以前の「ナワバリ」であるウェストボローに帰ってきて、
ここでいつものホテルに一泊だけしました。
1年ぶりに訪れたら、食器、コーヒーメーカーからエキストラベッドのリネン類まで、
皆フロントに言って貸し出してもらうシステムになっていたのでびっくり。

中国人に盗られたから?



次の日は、勝手知ったる地域で台所小物やTシャツなどの服を買い、
いつものホールフーズでランチを食べて名残を惜しみました。(わたしはまたすぐ来ますが)

 

今年もホールフーズのケーキコーナーには、ジュライフォースのための
星条旗カラーのケーキが多数。
だから青とか赤のクリームは食欲をそそらないんだよ!



といくら日本人が叫んでも、アメリカ人がこれを止める気配は全くありません。
むしろホールフーズだから「この程度」でおさまっているのであって、巷には
ケーキ全面に赤や青はもちろん蛍光色まで駆使して毒々しい絵が描かれたケーキがあふれます。



移動してホテルに一旦荷物を預け、ニューベリーストリートに行くことにしました。
前を走っていた車のマツダマークがミミズクさんに・・・・。



朝から昼にかけて雨が降ったりしたので心配したのですが(実はあまりしてませんが)
この時間にはすっかり晴れ、しかも湿気がなくなって綺麗な青空が広がりました。

ニューベリーストリート沿いの教会、 Church of the Covenantは1865年の建立です。



ここニューベリーストリートではすべてのお店がセンスを競っています。
ものすごく高級感のあるラルフ・ローレン。



隣にはニューイングランド歴史協会があります。

 

ニューイングランドだけでなく、アフリカンアメリカンの歴史協会も併設しています。
ここは、希望者に「先祖調べ」をしてくれるサービス(有料)もしています。
テレビで宣伝もしていますし、俳優や有名人のご先祖をチェイスして、
本人も知らなかった家のドラマに感極まって泣いたり、という番組もあります。
歴史の短い国ですが、先祖がいつどこから来たかも含め、ルーツにこだわる人も多いのかもしれません。



スペインのキャンパーのウィンドウは、ニューイングランド、独立記念日、
ときてなぜかロブスターをフィーチャーしております(笑)

バルタン星人かとおもた。



中国語と韓国語がない各国語併記って、ここだけの話ですがなんて清々しいんでしょう。



日が暮れてきました。



アートショップのウィンドウを見て歩くだけでも美術館気分です。
おそらくアフリカ系のアーティストの作品だと思われ。



黒猫が青く描かれているのは萩原朔太郎の影響です(嘘)



ホテルに帰る前に軽く夕食を食べておこうということになり、
角にオープンテーブルを出しているインチキずし(多分)、
「スナッピースシ」に怖いもの見たさで入ってみました。
ニューヨークで寿司田のお高いお寿司を食べた後、ここに入ることで、
今年もアメリカ寿司事情についてレポートする用意が整いました。

右手を歩いているカップルは、お洋服のトーンを合わせています。



アメリカ人は熟年夫婦でも愛情表現を惜しみませんが、さすがに
手をつないで通りを歩くカップルは少数です。
ちなみに彼らはかなりの年の差カップルでした。



スナッピー・スシの向かいは、前にも写真をあげたことのある
世界で一番格調高い建物にあるコールハーンです。
アパートを丸ごと買い取って全フロア売り場にしています。
コールハーンはアメリカでもとくに高級ブランドという位置付けではないのですが、
こんなところに入っていると敷居が高く見えてわたしは入ったことがありません(笑)



向こうからおまわりさんの自転車警備隊の軍団が通り過ぎました。
おそらくこの数ブロック向こうのチャールズリバー沿いで
大々的に行われる独立記念日の花火大会の警備に行くものと思われます。



スバッピースシのテーブルの横の植え込みには黄色い山吹のような花が植わっていました。



通りに面したテーブルに座っていると、行き交う人々を観察したり、
大音響でカーステレオを鳴らしながら通り過ぎる車(必ず若いアフリカ系男が乗ってる)
や、上空の飛行体を眺めたりという楽しみがあります。

食事の間ずっと上空をぐるぐると回っていたヘリコプターがありました。



花火の警戒のために出動した州警察のヘリです。



かと思えばこんなアド・プレーンも。
映画「ゲット・スマート」でスティーブ・カレルが飛行機と車のチェイスを行うシーンあって、
その飛行機が「スイサイド・ホットライン」(自殺防止ホットライン)というバナーを
引っ張っていたのが我が家的には大受けでしたが、これは一体?



「DIGってなに?」

「まさか、これも自殺の隠語とか」

「花火大会の客にそんなこと呼びかけるってことはなくない?」

帰って調べてみたら、DIGには深い意味はなく文字通り「掘る」ことで、
庭の芝生でもなんでも、土中にはいろんな管(電気やガスとか)が埋まってるので、
当社に掘る前に電話したら何があるかちゃんと調べてあげますよ、という宣伝でした。 



ふわふわと飛行船も飛んでいます。
ジンのアドバルーンですが、この「眼」のせいで大変なアイキャッチとなり、
皆が立ち止まって写真をとっていました。
真っ青な空とレンガの建物との取り合わせはまるでマグリットの世界です。




わたしは豆腐サラダ、TOは野菜ズシと軽く食事を済ませ、駐車場まで
のんびりと歩いて戻りました。



信号待ちの人々は皆チャールズリバーの河原を目指しています。
バドワイザーのビールのケースや、クーラーボックス、シートを持った人たちも。



赤白青の「星条旗ファッション」で来ている人も多数。
この女の子たちは国旗をマントにしてしまいました。



ホテルに帰ってテレビをつけると、花火大会の中継が始まっていました。
挨拶やめんどくさいセレモニーなど一切なく(あったかもしれませんが)
ただ、音楽とともに打ち上げられる花火を楽しみましょうという企画。
メインスポンサーはアメリカのデパート、メイシーズでお届けしています。



陸海空海兵隊、その他軍組織の制服を着た軍人たちが旗をずっと掲げていました。



今年の演奏はアメリカ空軍軍楽隊。
どうも毎年持ち回りで行われるようです。
軍楽隊の演奏するのは国歌的なものをアレンジした曲や、マーチなど。
歌手もカントリー、ポップスと何人かが出て交互に演奏を行います。

チャイコフスキーの序曲「1812年」は、おそらく日中に行われたのでしょう。



軍楽隊の演奏に合わせて、チャールズリバーに浮かんだ4隻の船から、
全くシンクロした花火が惜しみなく上がります。



両岸には人が詰めかけているので、川の上に浮かべた船から花火を打ち上げるのは
大変理にかなっているというか、たくさんの人が鑑賞することができます。
ただ、秋田大曲の花火大会というおそらく世界一の花火大会を見慣れた私たちには
東海岸一規模の大きい有名な花火大会とはいえ、この程度?と思ってしまったのも事実です。

実際にその場にいたら盛大でさぞ盛り上がるのだとは思うのですが。

それはそうと、7月4日の朝のニュースで、こんなのを見てしまいました。
実際に戦闘を体験した退役軍人が、未だにPTSDに悩まされていて、
花火の破裂音でそれが再発し、トラウマを深くするため、近所の人たちに
花火を遠慮してもらいたい、とお願いする家族が現れた模様。



これは、右側の男性が花火の音で思い出す戦闘の時の銃声、爆撃音が
いかに生々しいものであるかをインタビューで語っているところなのですが、
日本人のわたしが聞いていてもあまり知的な受け答えをする人ではないなという印象でした。

だからどうということではありませんが(笑)アメリカにおいてベテランを

下にも置かぬ扱いというか、腫れ物に触るようなというか、尊重の度を越して、彼らに対して
否定的なことを言えない空気があるらしいとわたしなどかなり昔から感じてきました。
それに便乗する「モンスターベテラン」という言葉が嫁の表情からついよぎってしまいます。

しかしそういう発言はここアメリカでは公の場はもちろん、私的にもタブーとなっています。

チャールズリバーのメイシーズ提供の花火ならともかく、地域の花火大会なんて
せいぜい1年に一回、1時間くらいのものなのに、こんな大騒ぎするくらいなら
その間ヘッドフォンで音楽聞いてれば?
と思うのはわたしが日本人だからでしょうか。

だいたいそんなことを言い出したらチャールズリバー沿いに退役軍人は住めないってことになります。


「アメリカン・スナイパー」で、ベテランのPTSDが社会的問題であるということが
アメリカではクローズアップされたばかりです。(彼らもそれに便乗したのかもしれません)
確かに当人たちにとってそれは深刻な問題なのかもしれませんが、
自分ひとりのために地域の花火を控えろ、
というのは、いかに言ったもん勝ちで、
ベテランの言うことには逆らえない雰囲気の
アメリカでも、賛否の分かれるところではないかと思われます。 


それよりわたしはやはりこの日にニュースでやっていた

「アメリカ全土で毎年この季節花火が原因で亡くなる人の数」

があまりにも多いので(忘れたけど10人20人じゃない)そっちの方が問題だと思いました。
それこそ、花火で亡くなった人の家族は確実に花火がトラウマになると思うけど、
はたして、

「花火で亡くなった人の遺族が住んでいるので、この地域で花火をしないでください」

なんてことを言い出す家族がいたら、世間はどう思うかってことですね。




 


ノーウォークの「ホテル・ゼロ」〜言った者勝ちの国

2015-07-10 | アメリカ

息子を学校に落としたあと、わたしたち夫婦は、ニューヘイブンから
車で約1時間ニューヨークのある南に走ったところにある、ノーウォークに到着しました。
ニューヘイブンがボストン(ウェストボロー)から2時間ですから、空港からだと
だいたい4時間弱車で行ったところということになりましょうか。

ここに5日間の宿を取ることに決めた理由は、ニューヘイブンとニューヨークから
どちらも1時間とちょうど真ん中にあったからで、せっかくなので滞在中、
ニューヨークのイントレピッド博物館(空母イントレピッドを展示している)に
ぜひ取材のため(って感じですよね最近)行ってみたかったからです。

息子を見送ったあと、わたしたちはインターステート95を南下し、
ノーウォーク(Norwalk)に到着しました。



高速から降りると、東部には全くよく見るタイプの郊外型の街並みが続きます。
信号待ちの時にふと右側の窓から上を見ると、ヘアサロンの2階の窓に猫発見。



鼻筋の通った猫さんです(笑)

この猫のヘアサロンから1分も行かないところに、予約したホテル、
「ゼロ・ディグリーズ」、通称「ゼロ」がありました。
レジデンスイン、ヒルトンハウス、コートヤードマリオットなど、全国展開の
だいたいどんな内装かわかってしまうホテルはいくらでもありましたが、
当ホテルはいわゆる「デザイナーズホテル」であるらしいことで、
せっかく久しぶりで夫婦での滞在をするのだからと、思い切って選んだのでした。



ホテルのロビーもこのようにモダンなスタイルです。

期待できそうでしょ?



ロビーで使用できるパソコンはもちろん?アップルの最新型。




時計を兼ねたコーナーの装飾。

全くおなじものが、10メートル向こうにあるのが謎。



ルーフトップに上がってみると、このようなくつろぎコーナーが併設されていました。

ちなみに巨大なチェスの駒は、重くて持つだけで大変です。
このほか、卓球台とビリヤード台などもありましたが、雪深いこの地方、

冬場はここはどうなっているのか気になります。



さて、最初に通された部屋は、HP通りのおしゃれな内装でなかなかです。
ただし、駐車場に面していて景色ははっきり言って最低です。

「5日も泊まるんだから部屋変えてもらおうか」

TOが言いました。
もしわたし一人なら決してこういうときに交渉しません。
外の景色が多少悪かったとしても一人なら別に平気だし、それより何より、
フロントに行って交渉して荷物を運び直して、という面倒なことをするくらいなら、
我慢した方がずっと気が楽だという性格によるものです。

しかし、連れ合いはこういうとき必ず粘り強く交渉するのが趣味(?)で、
過去、何回もフロント係と、時として喧嘩寸前となっても自分の要求を伝えてきた百戦錬磨。
我が夫ながらその熱意には呆れることすらあるのですが、彼によると
これもまたゲームのような感覚だそうで・・・・。

部屋の電話を取るなり彼は眺めのいい部屋が空いていたら変えて欲しいと頼み、
交換できる部屋のキイを取りにフロントに行きました。



そして変えてもらった部屋。
おお、少なくとも窓からは緑が見えておる。



今度の部屋は眺めはこんな感じでまあまあです。

「ここでいいんじゃない?」

ということで、荷物を運び込み、運んできたカートをTOが返しに行っている間。



洗面所をチェックしたわたしは思わず絶句しました。
(一人なのでずっと黙っていましたが心情的表現)

バスタブがないのです。

アメリカのホテルには時々あるのですが、アメリカ人というのは
お風呂に浸からなくても一向に平気な人種で、
バスとはつまりシャワーを浴びることだったりするんですね。
わたしの知り合いでアイルランド系アメリカ人の女性と結婚した人は、

「僕はお風呂に首まで浸かりたいと思うのだけど、彼女はその感覚がわからないらしい」

と実に悲しそうに言っていたことがあります。
日本人の中でも特に風呂好きのわたしとTOが、5泊の宿泊期間
全くお風呂に浸かることなく生きていけるとでも?

「シャワーしかないんだけど」

「・・・・・」

運び込んだ荷物をそのままに、即座にもう一度フロントに向かう彼(笑)
しばらく待っていると、フロントのお姉さんと一緒に帰ってきました。

「今度こそいい部屋に変えてもらったから。フロントの人が荷物を運ぶのを手伝ってくれるって」

どうして今回はフロントの人が来たのだろうと少し不思議ではありましたが、
ともかく彼女の案内で「三度目の正直」の部屋を見たわたしたちは思わず嘆声をあげました。



なんと、いきなりコーナースイートに昇進です。



バスタブはもちろん、シャワーブースと別に存在することを確かめます。



ベッドはキングでしたが、実際に寝てみたところマットレスが大変よくて、
日本のホテルのように片側で寝返りを打たれたら起きてしまうというようなことはありませんでした。

アメリカの夫婦は一つのベッドで寝るのが普通なので、マットレスの方も
そのニーズに応じて機能が発達しているのかと思われました。



広い部屋にはこんなおっしゃれーなワードローブがあり、デザインが装飾にもなっています。



扉を全部開けたところ。
下には冷蔵庫、上には金庫が収納されいています。



そして問題の景色は・・・・・!?



ホテルの前には川が流れ、川沿いに電車の線路が走っているのですが、
さっの部屋は線路だけが見えており、この部屋は川の滝の部分の正面に作られていました。

「すごーい!これコーナースイートでしょ」

「言ってみるもんだねえ」

「あきらめたらそこで終わりだったのね」

後で調べたらこのホテルで一番いい「キングスイート」であったことがわかりました。
値段はわかりませんでしたが、少なくともこんな部屋に5泊していたら、
大変な出費となっていたことだけは確かです。



このホテルのもう一つの特色は、ちゃんとしたレストランが併設されていること。

アメリカのホテルで実は大変これは珍しいことなのです。
もちろんレストランがあるホテルはいくつもありますが、大抵は
宿泊者の便宜のためだけにあるようなもので、味は二の次三の次なのが普通ですが、
ここはちゃんとしたレストランで、ディナーを食べるためによそから人がやってくるレベルです。

イタリアンですが、ローカルグリーンをふんだんに使ったサラダなどもおすすめだそうです。



グリーンピースの冷たいスープには、たっぷりハーブが浮かせてありました。




わたしの頼んだスキャロップのサラダ。




TOは珍しくビーフステーキを頼んでみました。

ステーキなのにハンバーガーのように出てくるのがアメリカ風。



二人で一つデザートを頼んでみました。

イチゴとベリーがメインで、小さなパンナコッタが付いています。
ただ、これは失敗でした。
なぜかこのパンナコッタ、牛乳ではなくヤギのミルクを使用していて、
ヤギや羊のミルクが何より嫌いなわたしは一口も食べられませんでした。 

というわけで、食住について大変ラッキーなホテル滞在となったわけですが、
あらためてこの国では何も言わないことには始まらないというか、
黙っていても何も手に入らないというか・・、
つまり、言ったもの勝ちの国であることを再認識しました。
どうりで押しが強くて主張する声が大きな人ばかりの国になるわけだ。 

よその国からやってきて無茶苦茶なことを言っている外国人を、
我々はつい「みっともない」という目で見てしまうものですが、実際にアメリカのように
声が大きいと大きいなりの見返りがなまじある国がある限り、世界各地において
ああいう民族運動が止むこともないのだろうなと、ふと思いました。

まあ、日本人がそういうとき世界的基準でおとなしすぎるだけで、
ホテルの部屋を変えてもらうくらいはワールドスタンダードの範疇かもしれませんが。 



おまけ*今回初めて見てウケた便利グッズ。
下のスロットにベーグルを入れて、上の部分をがしゃんとやると、
ベーグルが綺麗に二つに切れる、

「ベーグル・ギロチン」

いかにもアメリカ人の考えそうなツール。というかこれ欲しい(笑)

 


教育航空隊訪問記~基地全景

2015-07-09 | 自衛隊

関東近郊にある海上自衛隊の教育航空隊訪問記、続きです。

P-3Cの内部見学、消防車で放水体験、そして管制室見学。

いずれも、サマーフェスタの基地祭でもちょっとやそっとでは体験できない、
ちょっとだけディープな部分の見学をさせていただくという、貴重な体験でした。
それというのも、この訪問が基地司令の海将のご招待によるものであったからです。

自衛隊というところは基本的に来るものは拒まずという機関です。
その活動について国民に対し、広く理解を深めてもらうということを任務の一つにしているので、

基地祭や様々なイベント、海自なら艦艇公開、体験航海などで、せっせと内部を公開します。

しかし、誰でもかれでも飛行機のコクピットに乗せるわけにもいきませんし、
機密の多い航空管制室の中も、身元がはっきりしている人でないと入れません。

これは自衛隊が国防組織であるからには当然の対応で、どこからどこまでを
身分のはっきりした人に見せ、どこからどこまでは一般公開でもOK、ということは
自衛隊の内規できっちりと決まっているのではないかとも思われました。


潜水艦の追っかけをしている人がおそらく写真をいろいろとあげすぎて、
自衛隊から指導が入ったというお話もありましたが、それは潜水艦が特別だからで、
本当の軍機は、招待されたイベントや体験公開の参加者の目に触れるようなところにはない、

ということを現役の自衛官に確かめておきました(笑)

ところで冒頭の写真は、当基地に展示保存してあるかつての使用機です。

映画ではよく零戦の役をすることで有名な(似てませんけどね) 、

T-6 テキサン ノースアメリカン。

現地の説明にはSNJとなっていますが、これはT-6の海軍型です。
日本は航空自衛隊と海上自衛隊にT-6を導入していますが、
空自にはT-6Gが167機、空自には海軍型のSNJが48機配備されました。

そこでん?と思ってしまったのですが、SNJ海軍型というのは、
空軍型と何が違うかというと、おそらくですけど着艦フックがつけられるかどうか?
着艦フックなど金輪際必要にならない海上自衛隊に、どうしてノースアメリカンは
わざわざ空自と違う海軍型テキサンを売ったかってことです。

空自も海自も中等練習機としてしかこの機体を必要としていないので、
別に空自と海自で導入飛行機の機種を変える必要などなかったはずなんですけどねえ・・。




Bー65練習機

BはボーイングではなくビーチクラフトのBですね。




SNB型練習機

計器飛行や航法の練習の段階で使われたと言いますから、
現在徳島の基地で使用されているTC-90の前身ということでしょうか。

愛称は「べにばと」だったそうですが、きっと誰も使ってなかったと思う(笑)



V-107 バートル

防衛省は「しらさぎ」と名前をつけたそうですが、案の定だれもそう呼ばず
「バートル」と呼んでいたそうです。

海自はこれを機雷掃海ヘリとして運用していましたが、空自は救難ヘリ、
陸自は多用途で運用しており、日航機墜落の時には救難に出動しました。




この一帯は、今時都会では見ることのない田園地帯のような草地が残っています。
航空機の展示してある場所の向こうにはこんな風景が・・・。
黄色い花がまるでマネの印象画のように広がり、思わずシャッターを切りました。



さて、管制室の見学を終えた我々は、階段で一段降りて、展望台へ。
ここは管制室と違って、サマーフェスタなどでも入っていい(かもしれない)場所です。

案内してくださった広報室長の2尉は、


「わたしは江田島に行った時、(おじさんだったので)
若い人と一緒に訓練するのが大変でした」

とおっしゃっていました。
これは部内選抜のB幹部であったという意味ですかね。



その2尉が、

「フォークのようなエプロンの向こうを見てください。
あそこで飛行機の洗浄を行います」

とおっしゃる方向を見ると、 




水を噴射するノズルらしいものが設置された部分があります。


「海の上を航行してきたP-3Cをあそこで洗います」

「水洗いをするのは海面近くを飛ぶUS-2くらいのものだと思っていましたが」

「P-3Cも行います。鉄の塊が海の上を飛ぶので錆びてしまいますから」

「もちろんその後自然乾燥なんかさせませんよね?」

「手で拭きます」

「機体の上も?」

「はい、手が届かなくて大変なんですよ」

本当か。




基地司令の海将は現役のパイロットですが、過去一度だけ、ひやりとした経験をお持ちだそうです。
その詳細については、もしかしたら公開するべきではないかもしれないので書きませんが、
そんなときにも機長はまず機体をなんとか無事に着陸することを考えるのだそうで、

クルーは脱出することより機体にとどまることを選ぶかもしれないとおっしゃっていました。

機内の割と目立つところにパラシュートが装備されており、その数がどう見ても少なかったので

「ちゃんと人数分あるんですよね?」

と質問して笑われたわたしですが、実際にパラシュートを使用するという決断は
最悪の場合にも選択される可能性が低い、というP-3Cの「思考形態」のせいなのかどうか、
訓練生の降下訓練は行われないのだそうです。


それって怖くないか?


ちなみに、これも見学の時に聞いたのですが、P-3Cの事故で有名なものは、
硫黄島に着陸した機のパイロットが、
脚が出ないまま着陸してしまったというものです。
平成4(1992)年3月31日、車輪の出し忘れ警報装置をオフにしていたときに
運悪く(運じゃないか)車輪を出し忘れていたのにもかかわらず、そのまま着陸してしまいました。

乗員は幸い全員無事だったそうですが、着地の瞬間、さぞかしみんな心臓が縮んだでしょう。
胴体着陸の凄まじい衝撃と機体が地面をこする音の後、摩擦で機体に火がついたんですから。

おそらく乗員は翼の上に出ることができるハッチから脱出したのだと思われますが、
その後翼から地面まで飛び降りたんでしょうか。(結構高かったような気がしますが)

とにかくこの事故で100億円の機体・装備がスクラップになってしまったという話でした。


「パイロットはその後・・・?」

「退職しました」


この事故も、慣れから来るうっかりミスから来るものだったので、
情状酌量の余地もなかったということでしょうか。



展望台からの眺め。

広い基地の中には自動車教習所が見えます。
自動車免許をお給料をいただきながら取れる自衛官はお得かもしれない。

人生の必要悪みたいなものだからねえ、自動車学校に通う日々とそのためのお金は。

ちなみに、自衛隊で車の教習することを「教練」というそうです。



こちらも見渡す限り自衛隊官舎です。

たしかここに見えている建物のどれかが女子隊員棟だったと思う。
ちょうどこのとき12時少し前だったのですが、青い作業服の一団が
訓練を終えて隊舎に帰っていくところが写っています。

なお、写真に写っていませんが、今体育館を建て替えているそうです。




これは展望台に掲示されていた写真。
左の奥の地平線にうす~く見えているのが筑波山で、右側が取手市街となります。

「筑波山ヨーソロ~」

といって飛んだのは霞ヶ浦航空隊ですが、P-3Cでもヨーソロ言うんでしょうか。




平成26年3月の大雪の日、当基地はこんなことになっとりました(笑)
エプロンには基地所有の航空機が全機綺麗に並んでおります。

除雪車らしき車が出されたり、飛行作業のない隊員総出で雪かきしたり、
なんか大変だったみたいですけど、作業は結構楽しかったんじゃないかしら。(他人事)
それにしても、一面雪で覆われた滑走路とエプロン、さぞかし綺麗だっただろうな。



続く。



 


航空教育隊訪問記~航空管制室の「神棚」

2015-07-08 | 自衛隊

この日航空教育隊基地を見学して心から驚いたのは、いかに航空教育群司令直々のご招待だったといえ、
到着から退出までの段取りが恐るべき精密さで組まれ、それに伴い各配置の隊員たちがきっちりと動いて、
すべての物事が滞りなくスムースに運んでいったことです。

たとえばP-3Cのコクピットで写真部隊隊員に操縦席に座った写真を撮ってもらいましたが、
その移動の途中、案内の方が

「先ほどの写真ですがもう出来ているみたいなので、後でお見せします」

と報告までしてくれました。

「えっ、さっき撮ったばかりなのに」

「仕事が早いのが自衛隊ですから(笑)」


こういう、すでに隊内の規定で決まっているらしい「見学者迎撃作戦」においては、
警衛を通過する瞬間から始まって、応接室にお茶を運んでくれるWAVEさんの人選まで(笑)、
いかに自衛隊という組織が「広報」を任務の柱の一つにしているかをうかがわせました。 

自衛隊は「モニター制度」といって、一般人に自衛隊の見学を通じて内部に触れてもらい、
その体験を自分なりの方法でアピールしてほしい、という取り組みをやっています。
地本ごとに行われることが多いようですが、いずれもその目的は、
ソーシャルメディアネットワーク 、つまりブログやSMSで広めてもらうことです。
(けっして”2ちゃんねる”のことではないと思います)

また、HPによると、近隣の中学生の「職場体験」の支援なども行っていて、
当基地にある様々な職種を子供たちが体験する、ということもあったそうです。

基地広報活動

というわけで、基地訪問記をここに上げることは、ご招待してくださった海将と、
現地でお世話になった皆様へのお礼を兼ねていると信じて、続きとまいりましょう。



消防車で思いっきり放水して水撒き作業に従事した後、
我々を待ち受けていた任務は、管制塔の視察であった。

というわけで、わたしたちは4人乗ったらもう定員のような小さなエレベーターに乗り込み、
管制塔を登って行きました。
そこで、こういうことには滅法気がつくつもりのわたし、広報室長がいうより早く、

「写真は禁止ですね?」

と確信を持って確かめると、やはり管制室は一切撮影禁止とのこと。
そりゃそうだわ、管制室にはすべての通信を司る通信機器があるわけだから。

李下に冠を整さず、というわけで、別に指示されたわけではありませんが、
わたしは自主的にカメラをバッグにしまい、管制室に入りました。




当基地の管制塔は、去年の1月、現在のもの(右側の白いビル)が完成したばかり。
それまでは、赤白チェッカー模様の、昭和37年築の管制塔を使用していました。

旧管制塔はすでに撤去されていてありません。
わたしたちが上がったのは管制室なのでもちろん一番上階になりますが、
その一階下、ガラスの窓が4面に貼られた部分が展望のための回廊です。
サマーフェスタなどの一般公開のときには、ここには入ることができます。

さて、エレベーターから降りると、そこは明るい管制室でした。
冷暖房完備だと思いますが、直射日光がガラスを通じて照りつけるため、
きっとそういうガラスではない旧管制塔の勤務は大変だったと思われます。


管制室には窓際のスイッチの並ぶテーブルを前に、3人の管制官が配置されています。
彼らはわたしたちが入っていても振り返らず、ひたすら基地上空と滑走路の目視を続けており、
その後ろには一人の自衛官が「見張りの見張り」のために座っていました。

つまり、「見張りをしている自衛官を見張っている係」?
多分3人の上官であると思われます。
わたしたちに説明をしてくれたのは、また別の、最初からここにいた自衛官(士官)で、
もしかしたらわざわざそのためにいてくれたのかという気もしますが、
説明で驚いたのは、彼らの任務は航空機が稼働していない時にも、
誰かが必ずこの管制塔から見張りを続けている、ということでした。

うーん、この任務、大変じゃないか?
しかも、後ろからずっと上官が見ているので、

「つれーわー昨日飲み過ぎてつれーわー」

みたいな馬鹿話は絶対にできません。

わたしたちが管制塔にいる時間には航空機の離発着は全くありませんでしたが、
もしかしたら離発着のない時間だったからこそ見学できたのかな。



旧管制塔は塔そのものがチェッカー模様でしたが、新管制塔は、
さすがに海自一の高さを誇るだけあって、チェッカーは控えめにごく一部に塗られているだけです。

高い管制塔からだと、見張りの隊員は少しだけ体力的にラクになったりするんでしょうか。
管制塔を備えたビルは他の機能も満載で、たとえば先ほど写真を撮ってくれた隊員が、
撮った写真をプリントアウトして、ホルダーにいれる、という作業を行う部屋もここにあります。

そして今回検索していて当基地の管制室のこんな記事が見つかりました。
産経新聞の「国民の自衛官」に選ばれた管制官です。

国民の自衛官 横内拓也1等海曹

この記事に、管制室のパネルも写っています。
わたしたちが見学した時に、この自衛官もいた・・・・と思う。


航空基地というのは、近隣の飛行場との連携を密に取ることが必要です。

この基地の周りにはどんな飛行場があるかということは、把握されていて、
いざという時の誘導を互いに行うということになっているという話もありました。

わたしたちが滞在している間、一度だけ管制官がマイクに向かってどこかと通信していましたが、
やはりそれは英語で行われていました。
自衛隊内でも航空管制の全世界共通語で通信は行われるんですね。


ところで、共通といえば、自衛隊の航空隊と一般の飛行場が
同じ場所を使用しているという例があります。

徳島阿波おどり空港

そんな名前の空港があったのか、と驚きましたか?
たった今わたしも驚きました。
もちろん「鬼太郎空港」や「きときと空港」や「やまねこ空港」や「パンダ空港」、
(まさかと思うでしょうが皆実在します)「ウルトラマン空港」(検討中)
という類の、「愛称」というやつですが(奇を衒えばいいってもんじゃないぜおい)
それはともかく、この徳島飛行場は民間と自衛隊の施設がそれぞれ置かれている、
いわゆる「軍民共用」空港で、この日見学した航空教育群隷下の

「第202教育航空隊」

先日説明したTC-90で計器飛行などを学ぶ「パイロットの第二段階」過程の部隊があります。
去年のことですが、

管制官の指示に従って徳島空港に着陸しようとした羽田発の日本航空機(ボーイング767-346型機)
が着陸寸前で滑走路内にいた車両の存在に気がつき着陸をやり直すトラブルが発生した。
この際一度車輪が滑走路に接しており、車との距離はわずか800メートルほどだった。
乗員乗客に怪我はなく、その25分後に無事着陸した
管制官は滑走路に車両が入ることを許可したおよそ10分後に旅客機に着陸を許可していたことが判明した


という事故があったとwikiには書いてあります。

これを読んだだけでは管制官の所属はわかりませんが、どうやら海自の管制官であったらしく、
しかも日曜ということで一人で管制業務に就いていたということがミスに繋がり、
これを朝日新聞などは「重大インシデント」として

通常は4人態勢の管制官が当時、1人しかいなかったこともわかり、
空港の利用者らは離着陸への不安を募らせた。

などと、相変わらずの「不安を募らせる人って本当にいたんですか?」な記事を書いています。
軍民共用で自衛隊に一般の航空を嫌々使わせてやってる、と言いたげですな。

もちろん言い逃れのできないミスには違いありませんが、その昔、
自衛隊の航空機はたとえ緊急時であっても民間航空に着陸できなかったそうですね。
実際に非常時になって、わざわざ遠くの基地を目指した空自のF-4が
燃料切れで墜落した事故なども起こったことがあるそうです。

そんな時代を考えると、徳島空港のような運営が行われるようになったことは、
軍運用に対する理屈抜きの忌避感は全時代的なものとなってきたのかという気もしますが、
しかし自衛隊はやはり何かあると、普通のインシデントよりも重く見られがちというか、

「ホラ見たことか」

といった調子のメディアのおかげで、事故があるたびに基地司令に全面飛行停止を申し入れる
「赤旗を購読している付近市民」がわいて出てくるわけです。
彼らが事故を起こしたどんな航空会社にも「全面飛行停止」を申し入れているなら
それもまた筋の通った主張と言えないこともないのですけどね。

ここでお話を伺った管制官によると、夜中も二人で管制業務を行うそうですが、
全く飛行機が飛ばないこの時間にも二人で行うことになっているのは、

もしかして徳島の事故を受けてのことなのかもしれないと思ったり。


ところで、この管制室には中型のテレビが置いてありました。
テレビの下にデカデカと

「情報収集中」

という紙が貼ってあったので、情報収集って何ですか、と聞くと、

「テレビを見ることです」

ここでテレビを見てるのは朝ドラを見逃したからじゃないんだからね!
情報を収集するためにつけているんだからね!と言う意味ですねわかります。
たとえば事故などが起こって、情報を収集するような時しかこのテレビのスイッチが
入れられることはないと、こういうことだったんでしょうか。

テレビが置いてあると、娯楽のためとしか思わない一般人に向けての説明です。
っていうか、こんなことまで釈明しなきゃいけない自衛隊って、大変。

言い訳といえば(って言ってないか)、この最新設備を備えた管制室の隅にも、
ちゃんとありましたよ。



神棚が。
管制室の中は神棚といえども写真を撮ることができなかったので、
この神棚はそこのではなく司令室のデスクの上に鎮座していたものですが、
護衛艦ももちろん、海自は管制室にも置くんですね。神棚を。

護衛艦の場合は海軍からの慣習ですし、船に艦内神社があるのは一般的なことですが、
管制室や司令室にあるというのは、やはりこれも海軍伝承でしょうか。

空自には「飛行神社」があって安全祈願をしているそうですが、どんな時代になっても
どんなに手を尽くした後でも、人智の及ばない部分に対し人はせめても祈りを捧げるものです。
ここで説明の方が妙に「配慮」を感じさせる説明をしました。

「もちろんキリスト教の人間だっていないわけではありませんし、
拝むことが行われているというものでもないのですが」

みたいな。
わたしは海軍伝統を知っての上で話題にしたつもりですが、向こうにすれば
相手の正体は皆目わからないので、とりあえずこんな腰の引けた説明をするのかなと思いました。

考えたら、普通見学に来る人間は、航空管制室の神棚なんか話題にしないでしょうし、
広報室長が言質を取られまいと警戒したとしても仕方がないことかもしれません。

わたしは己が基地見学を終えた後、「自衛隊に神棚が!政教分離がフンダララ」
とか言い出す基地の外の人ではないことをなんとかその場で証明するべく、

「護衛艦のなかにも艦内神社があって隊員は分祀した神社にお詣りにいったりしますね。 
たとえば『いせ』の乗組員は先日伊勢神宮に参拝したそうですし」

などという話題を振って説明これ努めたつもりでしたが、その意図、わかってもらえたかな~。



続く。 

 

 

 




ボストン美術館〜「北斎」とミイラ

2015-07-07 | アメリカ

ボストンにある「ファイン・アーツ・ミュージアム・ボストン」に
家族三人で訪れたときのご報告、後半です。



現代美術のコーナーを通り抜けて印象派の部屋に。
ガイドも何も見ずに歩いていると、時系列も何も無茶苦茶な鑑賞をすることになりますが、
それもまあ何度も来ているため気分が変わっていいよねということで、
あえて無茶苦茶に歩き回ってみました。

モネの「睡蓮」ですが、日本に来れば立ち止まることも許されないくらい人が押しかけるこの絵も、
常設であるボストン美術館では前に立ち止まっている人すらいません。



題名はみませんでしたが、確かピサロの作品だったかと。
こういう作品を見ると、印象派の画家たちが描きたかったのは「光の色」だったんだなあとあらためて思います。



モネの「ラ・ジャポネーズ」とドガの「踊り子」が一緒に見えている空間。
「ラ・ジャポネーズ」はアメリカでも「ジャパニーズ・ガール」などと翻訳されず、
フランス語のままで知られています。

この辺りにやたら人が多いなあと思ったら、「ラ・ジャポネーズ」の前で
パフォーマンス的解説が行われる時間を待っていたようです。



キュレーターと思しき女性が、絵とそっくりの打ち掛けを持った女性と一緒に現れ、
今からこの絵についてのレクチャーを約15分行います、と告げました。
わたしはきいていたかったのですが、閉館まであまり時間がなかったことと、
他に見たいものがあったので、泣く泣くパスして次を急ぎました。

しかし、去る前に打ち掛けの仕様をチェックしたところ、これは日本の着物の織りなどではなく、
おそらくこの美術館の製作室が絵とそっくりになるようにパッチワークしたもので、
本来ならば金糸銀糸の縫い取りであろう部分に妙な素材が使われていて、
日本人の目には「いやこれは打ち掛けではないだろう」というものになっていました。

まあ、展示説明用ですし、本物の絹織物などもったいなくて使えませんけどね。

どうも、マネがモデルにどのような着せ方をして絵を描いたかなど、
残されている文献を元に説明をしたようです。 




部屋を去る前に撮った、マネの「音楽家たち」(多分)






彼女らはアメリカ絵画のコーナーにあった肖像。
黒いサッシェを斜めに垂らしたのは画家の注文でしょうか。



前ボストン美術館の正面の写真をアップしたときに気づいた方がおられるかもしれませんが、
わたしたちが行ったとき、美術館では「北斎」を特集していました。

「みてみて、北斎だって!」

わたしたち三人驚喜。
ボストン美術館には、日本に滞在していたことのあるボストン出身のビゲローは、
フェノロサとともに「大森貝塚」のモースの講演を聞いて日本に興味を持ち、
来日の際浮世絵などの作品を買い集め、ボストンに持ち帰りました。

北斎の版画もその一環で、こういった日本の芸術作品を海外に流出させたことが
非難されることもあるのだそうですが、そもそも当時の日本には、浮世絵などを
芸術作品として保護するなどという感覚がなく、ゴミ同然に扱われていたので、
むしろ彼らがアメリカに送ってくれたからこそ後世に残されたと考えたほうが良さそうです。

民主党政権の時、ノムヒョン政権時代から要求されていた「朝鮮王室儀軌」返還に
気前よく応じた(フランスは拒否している)ということがありましたが、これらのものもまた、
当時の朝鮮ではゴミ扱いされていたため、日本で保管したという構図なのです。
これは日本政府がアメリカに「北斎やら浮世絵やら盗んだものを返せ」というようなもので、
民主党が返還に応じたのは、アメリカが日本に浮世絵コレクションを返すようなものだったんですね。

民主党のやったことがいかに異常なことだったかわかっていただけるでしょうか。 



「北斎」の展示は、2年前「サムライ!」というテーマで展示されていた
同じ地下のフロアーで行われていました。

「葛飾北斎(1760〜1849)は日本の国内外で最も知られている」

という冒頭の一文に続いて、北斎の芸術的価値、そして1892年に、ボストン美術館は
世界で初めて北斎の展示を行った美術館になったことなどが書かれています。



三味線や琴は直接北斎とは関係ありませんが、浮世絵、ことに遊郭などを描いたものに
こういった楽器が登場することから、実物が展示されているようです。



当世の人気役者とその女房の肖像。
プロマイドのようなものだったのでしょうか。



熱心に細部を眺めている人がいた、吉原遊郭の図。
「火の用心」の札がリアルです。



金竜山仁王門の図。
参拝の人々で賑わっているのが描き込まれています。



この赤富士に「凱風快晴」という題が付いているとは知りませんでした。
英語の題名は「Fine wind, Clear Weather」となっていました。



「北斎漫画」
相撲取りの生態を描いたページですが、解説には「漫画」の定義と、
今日の日本のマンガのルーツはここにあるということが書かれています。




面白かったのは、北斎の絵をこのように立体的に切り出して展示していたこと。
説明はありませんが、喧嘩している人とそれを見物する人、
「いやーねー」と眉をひそめるご婦人といったところでしょうか。 




植物&鳥類図鑑のように、「鵙」「翠雀」(るり)、「蛇苺」
などとちゃんと説明が添えられています。




「桜花に鷹」



「牡丹にアゲハ」



「紫陽花にツバメ」




さて、北斎は怪談絵を多く残していますが、それもここにありました。
版画なので、ここにあるのが唯一のものではなく、同じものが東京にもあります。

「百物語 さらやしき」

おなじみ歌舞伎で知られた番町皿屋敷、有名なお菊さんの幽霊。
蛇をイメージしたらしい胴体に皿が巻き付いています。

お菊さんは美人の妻だったという設定ですが、どんなに美人でも幽霊になるとこうなるという、

北斎のうがった解釈による表現でしょうか。

ちなみに、カップルで鑑賞していた女性の方が、これを見て、

「ゴースト・・・スケアリー!」

と低くつぶやいていました。
向こうの人にはこういうの本当に怖く見えるんだろうなと思います。



「百物語 お岩さん」

「四谷怪談」のお岩さん。
毒を飲まされて目が片方潰れたのが一般的な?お岩さんですが、
北斎は目を大きく開き提灯になったお岩さんです。
これも北斎ならではの表現だったのでしょうか。




「百物語 笑いはんにゃ」

これは怖い。
鬼の顔はともかく、右手に持った子供の生首が怖い。



「百物語 しうねん」

それよりもっと怖いと思ったのがこれ。
題名が「しうねん」つまり「執念」。

位牌と線香立て、お供物にまとわりつく蛇。
どんな物語があるのか、じわっとくる怖さがあります。



「百物語 こはだ小平次」

木幡小平次というのは江戸の売れない役者で、やっと幽霊の役をもらったのですが、
旅先で妻の密通相手に殺されてしまったという、ついていない人。
妻と密通相手を「うらめしや〜」するために蚊帳から顔を出してみました。

もらった役が死んだ後で役に立ったというところです(ちょっと違う?)



当時の版画の制作工程が示されていました。
何回も色を変えて重ねていくやり方であの華麗な色使いがなされたのです。 



それも、色のパートごとに何枚も原板を重ねていくというやり方。
現場のモニターでは、今も同じやり方で版画制作をする日本人が
実演している様子を放映していました。



展示場を出たところのミュージアムショップにも人がたくさん。
全体的にどこも混雑することのないこの美術館で、こんなに人がいたのは
この展示場だけだったような気がします。
アメリカ人(に限らず)北斎は世界中の人々にとって大変関心が深いものなのだと実感しました。

もしかしたら、日本で開催するよりずっと盛況だったかもしれません。(笑)

写真はショップで売られていた「HACHIKO」(ハチ公)の物語の本、
向こうは「SADAKO」つまり原爆症で亡くなった「折り鶴の少女」貞子さんの本です。



ショップのモニターではなぜか「ハウルの動く城」が放映されていました。

宮崎駿の作品はとりあえず全てここで買えるようです。



日本で着ていたら勘違いされそうな浮世絵のTシャツ。



どう見ても中国的なセンスの「北斎をイメージしたデザインの洋服」。
わかっとらん。
というか、誰が着るのかこんな配色の服を。



北斎コーナーを出て、最後に一つだけ、息子が観たことがない古代エジプトを観て帰ることにしました。
途中で見つけたアメリカ大陸で発見された「ネズミのポット」。



ドーンと入り口でお迎えしてくださる大理石像。
遠近感を感じさせるためか、スネから下が異様に長く、頭を小さく作ってあります。



今回ふと目を留めたセクシーなビーズのドレス。
なんと、実際に発掘されたものを復元したものであることがわかりました。



クフ王の墓に埋葬されていた女性のミイラが身につけていたもので、
本体はこんなことになってしまっていたのですが、



ミイラの周囲に金でできたビーズが散らばっており、どうやらこれを
この形に縫い直したということのようです。
すごい根気のいる作業だったと思われ。



ミイラコーナーで少しウケたおそらく内臓入れ。



この時代も絵画は平面的なものしか残す技術がなかったので、
こういった彫塑にリアリズムが感じられるものがあります。
こんな人がいたんだろうな、と思われる表情の男性像。




一番手前がミイラ本体で、それをその向こうのに入れ、最終的には一番向こうの棺に。
ミイラもマトリョーシカみたいになっていることが判明。



ミイラのあるエジプトコーナーは、興味深いものが多いものの、
見学の後どっと疲れるというか、気力が奪われるというか、
軽く暗い気分になってしまうのが常なのですが、(なぜでしょうか)
そこから出た部屋にこんな「かるーい」絵があって、なぜかほっとしました。

お墓にお花を供えている白いドレスの美女なので、なんか意味があるはずですが、
それでもこの明るい光を描いた色彩は土色のエジプトコーナの後には
一種の資料剤のような役目となってくれました。


それにしても、北斎の世界的評価の高さに驚いた今回のボストン美術館見学でした。





ニューヘイブンの大学キャンパスに息子を見送る

2015-07-06 | アメリカ

さて、わたしが毎年夏になるとアメリカに滞在しているのは
息子がこの期間米国民に混じってサマースクールに参加するからで、
例年この期間、わたしはいつものキッチン付きホテルでまったりと過ごし、
エントリ制作をしたり買い物をしたり、美術館巡りをする充電期間にしているのですが、
今年は少し状況が変わりました。

というのも、息子が全寮制のサマースクールに初めて参加することになったため、
とりあえず彼の面倒を見るという大義名分がなくなってしまったのです。
しかも今年はいつも行っている勝手知ったる地域ではなく、
ボストンをずっとニューヨークよりに
行ったところにあるニューヘイブンという場所。

初めての場所で1ヶ月一人でホテル暮らしというのも如何なものか、と思っていたところ、
ちょうどというかたまたまというか、台湾に外せない用事が出来ました。

というわけで、わたしたち一家は、揃ってボストンに行き、そこから
車でニューヘイブンまで移動して息子を学校に放り込んだら、
あとは夫婦で少しの間滞在してから日本に帰国し、成田から台湾に向かうことになったのです。

ボストンに到着して3日目。
慣れ親しんだ地域からニューヘイブンに移動する日がやってきました。
車で高速を行くこと2時間で到着です。



去年のサマースクールはボストンのウェルズリーカレッジという女子大で行われましたが、
今年はグレードが上がったのでこのニューヘイブン大学(仮名)で行われることになりました。

ここに来るのは実は初めてではありません。
昔、TOが留学のための夏季語学講習をボストンで受けていた時、
志望校の一つとしてこの大学の教授と話をしたいというので、わたしが運転して
ここまできたことが一度あるのです。 

わたし自身のことではないので自慢でもなんでもありませんが(笑)、
その後TOはこの大学からも合格のお返事をいただいております。

大学の事務局から電話がかかってきた時、わたしも横にいて聞いていたのですが、


「オー、リアリー? グレイト!グレイト!」

と彼が興奮して言ったのをよく今でも覚えています。
結局TOはここではなく、ボストン・ケンブリッジにある大学に行くことを決めたのですが、
彼としてはどちらに行くか、かなり悩んでいたようです。

「どっちがいいと思う?」

と聞かれたのでわたしは、

「ニューヘイブン大学(仮名)の方が何だか通っぽくていいと思う」

と無責任な返事をしたのですが、結局この大学のあるニューヘイブン(New Haven)は、
大学を除く地域が「ニューヘブン」というくらい貧困地域に手厚い税制を敷いているせいか、
実はあまり環境がよろしくなく、家族で住むには如何なものか、という理由で止めになりました。

まあその他にも、卒業後のアラムナイ・ネットワークの強さとか、彼なりに考えた理由はあったようですが。

とにかく、今回たまたま息子の学校がここになったことで、それ以来初めて
わたしたちは大学キャンパスを訪れることになったのでした。



ジャケットにレジメンタルタイ、白いコットンパンツにジャケットと同色の靴。
街角を歩いている人もさすがは名門大学と思わせる只者ではなさ。
ちなみに彼はこれもアメリカ人にはどちらかというと少数派のメガネ着用でした。



キャンプのチェックインは、アメリカらしく、ドロップオフ方式です。
車で指定されたあたりを走っていると、目立つオレンジのTシャツをきたスタッフが
歩道に立っていて、車を寄せると窓越しに「ここまで車で行ってください」と書かれた紙をくれます。
車の列に並ぶと、ここがチェックインする場所のようで、女性のおまわりさんが、
(大学警察の警官。アメリカの大学は警察組織を持っている)ロータリーに車を誘導しています。



泊まりのキャンプなので、皆トランクなどを持って降りると、
スタッフがモッコのような手押し車に荷物を載せて、各自の部屋まで運んでくれるのです。



ゴミを運んでいるのではなく、キャンパーの荷物を手押し車に載せています。



息子によると、ドミトリーもこの建物にあるとのことでした。



車から降りていく息子を迎えてくれるスタッフ。

 

後から息子が送ってきた宿舎の内部。
これはどういうことかというと、6月にはこの大学の4年生が卒業していき、
彼らのいた部屋は9月になって新入生が入って来るまで空いています。
大学としては、夏の間もそこを遊ばせないため、こういうサマースクールに
施設を貸し出すというわけです。



さすがは東部アイビーリーグの雄として名高い大学、
米国史上三番目に古い、1701年の創立時に建てられた校舎がいまだに健在です。
1701年ったら、日本では元禄初期ですよ。

クリントン夫妻、ブッシュ、ケリー、チェイニー、フォードなどの政治家、
映画関係ではポール・ニューマン、メリル・ストリープ、ジョディ・フォスター、
シガニー・ウィーバーなどもここの出身です。



街をうろうろしている人たちにアフリカ系が多いのもニューヘイブンの特徴で、
保守的なボストンケンブリッジの人々は、

「あそこは黒人が多いから治安が悪い」

などとさらりと言ったりします。
最初にボストンに行ったとき、MITの教授のお宅に夕ご飯に招かれたのですが、
そこにいた大学関係の人たちも本人たちは差別しているという意識もなく、
「事実だから」といった感じでこのようなことを言っていました。

確かにケンブリッジ近辺には労働階級ですら、驚くほどアフリカ系がいません。 
中華系も、最近の「中国イナゴ」はともかく、西海岸に比べると少数派です。

保守的といえば、全米ナンバーワンの大学といえばハーバードですが、当大学は


「ハーバードが世俗化したから」

という理由でつくられたという経緯があったそうです。
ちなみにここができてしばらくして、「世俗化したから」という理由で
つくられた大学が、プリンストン大学です。

今でもこの順番で後者に行くほどリベラルな傾向があるのはそのせいだという話です。



これは大学の近くにあったアパートメントで、おそらく大学関係者が住むところでしょう。
アメリカの国旗を筆頭に、イギリス、フランス、イタリアの旗ときて、
一番右がなぜか韓国国旗(笑)

おそらくここは昔日本の旗があったものと思われますが、近年日本からの留学生が減り、
大学内での両国の比率が逆転したとき、韓国系が大騒ぎして付け替えたのでしょう。
あんな人口の少ない国なのに、皆国内から逃げ出すようにアメリカにやってきて、
留学ついでに移住もしてしまおうという人間ばかりなのでこういう現象も多々あります。



お腹が空いたので、このアパートメントの向かいにあるヴェジタリアンレストランで
遅いお昼ゴハンを食べました。
ローストベジタブルのひよこ豆添えは、見た目はなんですがかなり美味しかったです。



車を近くのパーキングに入れ、チェックインしたあとすることのない息子を
迎えに構内に少し入ってみました。

キャンプの受付テーブルが外に並べてあります。
この日はアメリカには珍しく、朝からまとまった雨が降る1日で、このときも
実は細かい雨がひっきりなしに降っていたのですが、アメリカ人的には
こういうのは雨のうちに入らないので傘をさす人など全くいません。



「バースデイケーキ」とは?

 

今は海外旅行中でも簡単に電話でお互い連絡が取れるので本当に便利です。
息子に電話すると、今別に何もしていないというので呼び出しました。



大学全体がこのような壮麗な石造りの建物ばかり。
この大学にも出身者が作った「秘密結社」がいくつも存在し、有名なのは

スカル・アンド・ボーンズ

というもので、映画にも時々取り上げられるようです。
秘密結社の置かれている建物は、「窓がない」と言われています。

建物の形がどれも教会風なのは、建造物を寄付する人たちがそれを希望したからだとか。



息子が出てきたので、三人でまず近くの本屋に行きました。
そこで欲しいといった本を2冊ほど買ってやり、スターバックスでお茶を飲もうとしたら長蛇の列。
アメリカ人のスターバックス好きははもはや信仰です。
今いるホテルはいわゆるデザイナーホテルで、いけてる内装とスタイリッシュな雰囲気が売りなのですが、

「スターバックスのコーヒーが24時間飲めます」

というのをセールスポイントの一つにしていました。

それはともかく、息子が「あまり長い時間部屋を空けたくない」というので、
スターバックスは諦めて、こちらでは全米展開しているベーカリーカフェ、
「パネーラ」で休憩しました。
息子はわたしたちと違い何も食べていなかったのですが、

「もうすぐクックアウト(野外でバーベキューのディナー)なのでちょっとにしとく」

と、サンドイッチをTOと分け合って食べました。

「一人の部屋と違ってルームメイトがいるんだから、ちゃんと起きたらベッドをメイクするのよ」

「わかってるよ」

「歯磨きは絶対にいい加減にしないように」

「わかってるって」

「くれぐれもあの日本人は変な奴だと思われるようなことはしないでね」

「たとえば?」

「朝はやく起きて『きえええ!』とか気合いを入れたり棒で素振りしたり、床で瞑想してたり」

「しねーよ。てかどんな日本人だよそれ」

「あああ心配だ」

「大丈夫だって。アメリカ人の中で暮らすのはママよりずっと俺慣れてんだから」 

「そういやそうでした」

そんな「心配するおかんと息子の会話」をしていたと思ったら、きっぱりと

「もう行くよ。トロイ(ルームメイト。ドイツ系らしい)も一人だし」

と立ち上がって、少しだけ緊張した様子でドミトリーに入って行きました。
わたしたち夫婦にとって息子の初めての「独り立ち」だったわけですが、
いつの間にかこんなに成長したんだなあと感慨を深くしながら、ニューヘイブンを後にしました。

こうやって子供は親の元から離れていくんですね。
 


 


ボストン美術館~カフェのブランチと「自己満足系アート」

2015-07-05 | アメリカ

例年ボストンにはわたしと息子だけでくるのですが、今年は初めて
TOが夏休みを前倒しして一緒に飛行機に乗ってきました。
これは息子が参加するサマースクールが初めての場所となるからなのですが、
着いて3日間はフリーだったので、ボストン美術館に家族で行きました。



入場料は大人25ドルですが、17歳以下は無料です。
25ドルというのは物価の安いアメリカでは高めの値段設定ですが、
一度来館すれば何日か以内であれば同じチケットで二度入場できるシステム。

定期的に4時半の閉館時間が週末の夜9時までに延長され、しかもその日は
あらゆる入館者が無料だったり、一般市民の呼び込みにいろんな努力をしています。

さて、今回の訪問は、到着してから息子の学校が始まるまでの3日間、
家族で予定がフリーとなっていたところ、TOの

「去年夕食を食べた美術館のレストランでまたご飯を食べたい」

という強い希望により実現しました。
家族三人で行動できるのはこのときだけなので、ボストン美術館には乳児の時以来行ったことのない息子に
ここの膨大なコレクションを観せてやりたかったというのもあります。

世界地理や歴史が得意科目で、学校で習った歴史的薀蓄を教えたがる息子には
ちょうどいい時期であったとも言えましょう。

余談ですが、最近聞いた息子の薀蓄で「知らなかった!」と感心したのが

「グレートブリテンって、大英帝国とか訳されてるけど、偉大とかいう意味じゃなくて、
ブリテン島の大きい方(スモールブリテンもあるらしい)だから、フランス人がそう呼んだだけ」

ということでした。
自分の国をグレイトなんて公称してしまう国っていったい、
と大英帝国のことを思っておりましたが、ちょっとした誤解だったということになります。
(ところで戦後になって自分の国に「大」とかつけてしまうお隣の国っていったい・・) 

余談はさておき、昔ルーブル美術館とオルセー美術館で

「もう”絵が”(子供は一文字の言葉を覚える時”火”=”ひが”、”血”=”ちが”ということがある)
のあるところいや~~」

とごねた1歳半の息子も、今や世界地理に関しては「負うた親」に蘊蓄を講義する立場。
素直に美術館行きを承諾し、

「オレ、アフリカ美術とか観たいな」

というくらいの成長ぶりです(T_T)



というわけで、いつ行ってもどこに何があるか把握できないボストン美術館。
こういうのはローマ文化でしたっけ?
今回は階段を上って二階から見学を始めたので、さらにわけがわかりません。



これはヘレニズム文化、ギリシャ彫刻というものですよね。
しかし、この時代、絵画のリアリズム手法が発明されていなかったため、
人々が彫刻にそれを求めたということが、この作品などを見てもよくわかります。

この時代の芸術が後世に遺されたのも素材のおかげです。



人物像が多いこの時代のもので珍しく鶏の彫刻。



髭を生やしていたことまでリアルに表現されている「似顔像」。



歩いて行ったら、絵画修復室が公開されているコーナーがありました。
さすがはアメリカ。
この日は日曜だったので、作業をしている人はおりませんが、巨大な宗教画が
修復作業中のものとして展示してありました。



磔刑にされたキリストを降架しているの図。
それにしても大きい。
上部に四角い穴が2箇所空いていますが、この部分を今制作しているということでしょうか。

天井から降りてきている掃除機のホースのようなものは部屋の2箇所にあり、
作業中の作品を乾かすか、あるいは埃がつかないようにするものかと思われます。



階段の踊り場ホールにはフルコンサートピアノがありました。
当美術館は篤志家が何億も出仕するような欧米の文化に支えられているので、
このピアノ(おそらくスタインウェイ)もそういった寄付で賄われたものかもしれません。



中世の宗教美術コーナーにあった普通のおばちゃんらしき人の胸像。
目鼻のバランスが悪いので、もしかしたらこのおばちゃんの知り合いが作ったとか、
何しろプロの手によるものではないことは確か(だと思う)



こちらの中国美術のコーナーにあった立像も、正面からはともかく
横から見るとバランス悪くてこの通り。
まあこれも表現の範囲かもしれませんが。

展示作品が多いボストン美術館には、突っ込みどころ満載の
「世が世なら駄作?」と疑ってしまうものも時たまあります。



去年も写真をアップした現代アートのセクションにある「雲と飛ぶ人」。
この吹き抜けには全部で5人くらい飛んでいます。



そこに本日ブランチの予約を取ったレストランがあります。
裏口から、ピアノとベースのデュオが準備しているのが見えました。
生演奏付きとはついています。

パフォーマーはジャズピアニストで、「マイ・シェリー・アムール」などの
S・ワンダーのナンバーもやっていましたが、本業はバッパーらしく、
「ハニーサックルローズ」「ワン・フォー・マイ・ベイビー」などを演奏していました。

アメリカに来て「ジャズの発祥の地だなあ」といつも思うのは、こういうレストランでも、
たとえショッピングモールやノードストロームのフロアでも、

下手な人は見たことがない

という事実です。
日本では場の華やぎに女の子を投入するようなところでも、アメリカではまずそれはありません。
下手な人はプロになれないというだけなのですが、日本ではそうでもないので(笑)



レストランの窓からは向かいの現代アートの壁画が鑑賞できます。
この日は日曜のブランチでしたが、店内は閑散としていました。



付け合わせのブレッドにコーンブレッド(甘みのないパウンドケーキのようなパン)
がついているのがいかにもアメリカ。



メニューは「2course」「3course」とあり、前菜、メイン、デザートから2つか3つ選びます。
わたしは前菜とメインの2courseで、グリーンカレー風スープを前菜に頼みました。



TOが頼んだサラダ。



わたしのメインはサーモンです。
全員でお皿を回しましたが食べきれませんでしたorz



息子のエッグベネディクト。
一人分なのに二つついてくるあたりがアメリカです。

「これ一人で全部食べちゃうアメリカ人って・・・」

「だから太るんだよ」



TOの頼んだステーキ。
アメリカで肉を選ぶことなど滅多にありませんが、頼んでみたそうです。
彼らが日本の肉を食べて

「今まで我々の食べていたのはゴム草履であった」

と驚くのがよく分かる味気なさでした(笑)
調理そのものは悪くなかったんですがね。



デザートはラズベリーアイス。
一人分に3スクープって・・・。



TOの頼んだチョコレートケーキ。
何も申しますまい。

というわけで、アメリカにしては美味しいけど、日本からきたばかりの日本人には
色々とこれも突っ込みどころの多いブランチでした。



すっかり満足して、鑑賞の続きを向かいの現代アートから始めました。
小さな洗面所で身なりを整える人。
配管までむやみにちゃんと再現されているリアリズム。



裸婦のブロンズ像が壁に張り付いておりました。
下で写真を撮る人も含めて「アート」ってことで。

それにしても、これは何を表現したかったのか。



お盆の上に生首が三つ載っているの図。
と思ったら左の生首には足がついています。



無印良品に「人間をダメにする椅子」という製品がありますが、それと同じです。
あちらは椅子ですが、こちらは芸術作品で、かつ「座ってもい椅子」。
どうも作者は、座っている人も込みで作品だといいはっているようです。 

作品紹介に「座ってください」と書いてありましたが、それを作品といってしまいますか。
これ、単なるクッションというものなんじゃ・・・。



こういった抽象アートの「イタさ」について去年友人の絵本作家が一言で 

「 自己満足だよね」

とバッサリ斬ってくれたので安心したという話をしましたが、去年、

「自分とそっくりの人形を吊るし、棒でたたいて破壊し、中から
血(のつもりの赤い粉)や内臓(のつもりの造りもの)などが出てくる」

パフォーマンス系アートなど、その典型といったところ。
今回はその同じスペースで、画像のようなビデオが放映されていました。
女の人の顔に糸をきつくぐるぐる巻きにしていき、それを外して彼女の顔に
ほら、糸の跡がついてますよ、という芸術です。

・・・自己満足だよね。


続く。
 


 



 


航空教育隊訪問記~自衛隊で放水作業に従事するの巻

2015-07-04 | 自衛隊

さて、首都圏のある地方に実在するここ航空教育群隷下の航空教育隊。
P-3Cで訓練を行う教育隊を抱えるこの基地で、ついにP-3Cのコクピットに座ったあと、
わたしたちはまたしても隊員の運転してくれる車で、歩いても3分くらいの距離を移動し、
次の見学場所に向かいました。

それが、前回も予告したように、運航隊の地上救難班が運用する「基地内消防署」です。
おそらく正式には何かもうちょっとちゃんとした名称があるのだと思われますが、
そこまでわからなかったので一応わかりやすくこう言っておきます。



車から降りて歩いて行くと、遠目に見てもシャキッと姿勢の良い3名が、
こちらを向いて直立不動の姿勢で待機しているではありませんか。
いったいどこでどうオペレーションを行っていたのかは最後まで謎のままでしたが、
もしかしたら移動何分、見学は何分で切り上げて、ここの到着するのは1130ごろ、
みたいな予定がきっちり立てられていて、わたしたちは知らずにその予定に添って行動していたのか?

何より、誰か基地を表敬訪問することになったときの行程表が、どうやら昨日今日決まったのではなく、
おそらく基地開設以来自衛隊の内規みたいなのできっちりと定められていたらしいことが、
この、どこにいってもちゃんと担当隊員が待機しているのを見て確信した次第です。


しかし、直立不動の3人に見つめられながら結構な距離を歩いて行くのはなんだか照れくさかったなあ。




わたしたちが20メートルの距離に近づいた時、一番左の色の違う制服の隊員が掛け声をかけ、
「敬礼!」

∠(`・ω・´)ビシッ! ∠(`・ω・´)ビシッ!  ∠(`・ω・´)ビシッ!

と敬礼でお迎えしてくれました。
ふおおおお~。かっこいい。

嗚呼しかし、これは写真に撮らねば!とカメラを構えた途端終わってしまったので、


「あの、スミマセン、もう一回敬礼していただけませんか」


と無理やりもう一度ポーズをさせてしまった、空気読めないわたしです。
せっかくびし!と決めたのに、こんなこと言われたら士気も下がりますよね。
すみませんでした反省してます。

ところで、この3人、松本龍三日大臣のいうところの「長幼の序」通り(笑)
左から階級順に並んでいるわけですが、青い制服の二人が左が2曹、右3曹。
一番左の方の階級は「准士官」、つまり旧軍の特務士官だと思われます。

この紺色の作業服が他であまり見たことがないのは、これがどうやら

次世代型難燃防災服上衣 8,762円(税込9,462円)
次世代型難燃防災服ズボン8,762円(税込9,462円)

という(値段が書いてあるのは販売サイトを見つけたから)、消防隊の特別衣服であるからと思われます。

ちなみにこのサイトは

消防人のための服装アイテム専門店 消防ユニフォーム 火の用心

というものでした。




彼らに近づきながら抜かりなくずらりと並んだ消防車の写真も撮るのだった。



ふとフィールドを眺めやると、遠くに訓練中らしき隊員たちと消防車、給水車が止まっています。
右側に見えているのは模擬火災を起こす消火練習用のダミーですが、今日の訓練は終了したのでしょうか。



アップにしてみる。

作業着の上にたすき掛けの白いパンツを着用しているのが練習生でしょうか。
上記サイト「消防人のための(中略)火の用心」では見つからなかったのですが、
これも難燃性の防火仕様がされている衣装なのかもしれません。

ところで、消防車に書いてある「第三術科学校」という文字。
この基地には、航空機の整備、基地運用、施設工事に関する技術を学ぶ「第三術科学校」もあります。
この練習生たちは術科学校生で現在「運用」の「基地救難」を勉強しているんですね。




そして、第3術科学校で学んだ後、運航部隊基地救難班に配属された場合、
同じこの基地に勤務するという人もいるわけです。

イベント用のパネルをここでも出してくれていました。
近隣消防との合同訓練も行っているんですね。
万が一天災などで大規模火災が起こったとき、消防と連絡をとって対処するためです。

真ん中の「夜間救難消火訓練」では、夜間に特化して訓練を行っている様子。
昼と夜では色々と違うこともあるのでしょう。
素人考えでは、夜の火事の方が恐ろしいような気がします。

そして除籍機を使って、機体を切り刻んでの訓練。

「これはいつもできるというわけではないんでしょうね」

「はい、除籍した飛行機が手に入った時だけですから、何年に一回かですね」

「そんなでしたら隊員はさぞ盛り上がりそうですね」

「そうですね(笑)」

もしかして無茶苦茶やっていいのでひゃっはー状態?
いや、「士気が上がる」とでも言っておきますか。



ちなみにこの消火作業訓練用の建屋ですが、



後で登った管制塔の途中階からみたこの部分。
下からバーナーかなんかで火が出せる仕組みにでもなっているのかもしれません。




説明は2曹くんがしてくれました。
こういう「広報活動」も自衛隊にとって重要な任務の一つですから、
外部の人に自分の任務と運用についてわかりやすく説明するというのも、
修行の一環として一番若い人にやらせるという方針なのかと思われました。

わたしたちに見せてくれるために、2台の消防車が駐車してあって、
小さい方がこの

救難機材運搬車

直接放水する機能はありませんが、ホースや必要な用具の数々を搭載して、
消防車と共に行動します。
搭載しているのは、

高所救助機材

空気呼吸器

レスキューツール カッター、スプレッター

スペースジャッキ

などの他、12名の人員も輸送します。これは大事ですね。



そしてこちらがいわゆる放水車。


救難消防車 IB型

というのが正式名称です。
なんかその辺の消防車よりスタイルがモダンなような・・・・。

「なんだかデザインとかオシャレな気がするんですが・・」

「デザインはイタリア製でエンジンはドイツ製です」

それははっきり言って最強の組み合わせ?
それを日本の自衛隊が運用しているんだからこれはもう怖いものなしだ(何が)。



そして巷の消防車には決して付いていないのが、おなじみ桜に錨のマーク。
しかし、海上自衛隊の所属であることが嫌でもわかるという位置にありますね。



放水ノズルは二つ装備しています。
メインのノズルがこれ。



もう一つがこんなところに。
そしてここにもでかでかと存在を主張する桜に錨。



車体の脇にあるホース収納場所を見せてもらいました。
車から放水するだけなく、人力でホースを現場に持っていくということももちろんするようです。
下の方には拡声器も用意されていますね。



この車体が運用され始めてまだ間もないそうですが、それでも掃除が行き届いているのか
昨日買ってきたようにどこもかしこもピカピカに磨き上げられ、整理されていました。
「粉末ホースリール」という文字がありますが、



このタンク、化学物質対応の(つまり消火器の中身)粉末が貯蔵されています。

ここまで説明を受けた時に、

「乗って見られませんか」

と願っても無いご提案をいただきました。
乗る乗る、乗りますとも。



消防車の運転席に座ったのはもちろんのこと生まれて初めての経験です。
運転席は正確には2曹の座っている席ですが。
内部からフロントガラス越しに見える放水ノズルを見ながら説明を受けます。

「最大射程(ターレット)は87mとなっていますので、だいたいここから撃てば
あの辺まで水をかけることができます」

「撃ってみた~い」

わたしが何気なく発した一言。
その瞬間2曹くんは待ってましたとばかりに

撃ってみたい、ですか。(厳かに)それでは実際に撃ってみましょう」

(大変いいノリの隊員さんでした。素晴らしい)

しかしわれわれにとっては思ってもなかったプレゼント。
ええ~ほんとですか~やった~など、いい大人がはしゃぐはしゃぐ。



わたしの席の右側に、大きな丸いレバーがありました。
赤いボタンが見えていますが、レバーで向きを操作、赤いポッチで放水です。



まず、作動の際、前面パネルを操作して準備を行ってから。



まだ保護シールが剥がしていないモニターには、今水がどこまで来ているか?
みたいなことが図で示されます。
準備完了ですかね?



「はい、動かしてみてください。それでは、押してください」



WOOOOSH!

デタ━━━━m9( ゜д゜)っ━━━━ッ!!




散々あちこちに飛ばしてみましたが、車より後ろにはかからない模様(そらそうだ)

「それでは、今度は下のノズルから水を出してみましょう」




さっきの大きな丸いレバーの後ろに小さめのレバーがありました。



デタ━━━゜(∀)゜━━━!!

心なしかこちらの方が放水が広がっているような、と思ったら、



これも調整できるのでした。



わたしが散々遊んだ後、こんどはTOに席を交代することに。


「あ、ちょっと待ってください、外から写真撮りたいので」

座席から降りて、TOの放水作業を妻として見守ることに。
水を出す前に、必ず隣の2曹くんがアナウンスで報告をするのですが、
外では上司がこうやってOKマークを出していたことが判明しました。



上から出してる出してる。




下からも出してる出してる。
この日は暑かったのですっかり打ち水気分です。

「おかげさまでちょっと涼しくなった気がしますね」

と隊員さん。
というわけで、すっかり地上救難班への理解を深めた基地見学です。

消防車から水を出すのは理屈抜きに爽快でした。



ところで当基地では、サマーフェスタが近々予定されているはずですが、

そこではこの消防車の試乗も過去行われていたようですので、これに行けば
わたしがやらせてもらった放水ももしかしたらできるかも?

興味のある方はぜひサマーフェスタに足を運んでみてください。(お礼代わりに広報活動)




続く。



航空教育隊訪問記~「世界一いやらしいP-3C部隊」

2015-07-03 | 自衛隊

関東某所にある航空教育隊に司令のご招待を受けて見学に行ってきた話、続きです。

Previously Nei-koi (ネイ恋・前回までのあらすじ)

人生で最初のP-3C内部見学に加え、操縦席に座って操縦桿を握り写真を撮ってもらうという、
この上ない名誉な瞬間を味わい、思わず人生で最初のVサイン写真を撮ったエリス中尉であった。

←証拠写真

P-3Cにいつまでも乗っていたいのは山々でしたが、案内してくださる自衛隊にも
時間の都合というか予定がございます。
後ろ髪を引かれる思いで機体から降り、次の場所に向かいます。



「今3機くらい上がっている」と現場の方はおっしゃっていましたが、
エプロンに出ているのが見る限り3機、1機はこの格納庫でお尻だけ出しています。

このP-3Cの尻尾の部分ですが、マッドブームというもので、鉄の塊である潜水艦が
航行することで生じる磁場の乱れをつかむ磁気探知機(MAD)です。


ところでハンガーの両脇に大きな字で「火気厳禁」と書いてありますね。
海将と後ほどお話をした時に、特に強調されていたのですが、
P-3Cを練習機として運用するこの基地にとって火災の発生が「一番怖いこと」となっています。
(伏線)



わたしたち二人の見学者のために、わざわざ倉庫から一般公開用の看板を出してくれる海上自衛隊。
横を通り過ぎようとする案内の広報室長に、

「あ、説明が・・・」
「あー、あれはたいしたものじゃないんですが」

いや、見せようよ。そのために出してあるんだから。
近づいて抜かりなく写真を撮ってきました。

P-3Cというのは知らない方のためにいうと、対潜哨戒機です。



機内を見学したときに一番興味があったのは、ソノブイを投下する部分はどうなっているかでした。
昔、P-3Cの下部にソノブイ落下用の穴が無数に空いているのがトライポフォビアのわたしには
甚だ苦手、というようなしょうもない話で盛り上がったことがありましたが、
ソノブイ落下の操作は、ちょうどその真上にあたる部分で行われていることを知りました。
つまり下から入れて上で落とす。シンプルなものだったんですね。

飛行機であるP-3Cがどうやって潜水艦を見つけられるのかというと、前述の

MAD
敵が発する電波を手がかりに位置を特定する電波探知装置(ESM)
捜索用レーダー
熱源を探知する赤外線暗視装置


そしてこのソノブイです。



ソノブイ=音響ブイという意味のこの筒のようなものを海中に落とし、音響で潜水艦の位置を知り、

場合によっては対艦ミサイルで攻撃ィ~!となるわけですが、この索敵と攻撃において、
日本のP-3C部隊は


「世界一嫌らしい部隊」

といわれるくらい優れているのだそうです。

P-3C部隊の訓練は、これも海将から伺ったのですが、前もって潜水艦隊と打ち合わせて、
何月何日の何時頃、どの海面付近で、と大雑把に決めておき、
当日そこをうろうろしている潜水艦をP-3Cが索敵するという形で行われます。
優秀な海上自衛隊の潜水艦部隊からも、我がP-3C部隊は


「アメリカ海軍と比べても、逃げるのが難しい」

と評価されるものだというから頼もしいですね。

同じ機材を使っていても、「嫌らしい部隊」になれるかどうか、というのは、
ひとえに隊員の練度にかかってくるわけですが、
アップデートされた最新のハイテク機器を搭載しているにもかかわらず、
潜水艦の索敵というのは 「最後は人間の目がものを言う」ものだと言われています。


P-3C部隊は2人の操縦士、警戒・監視に必要な情報を集約して指示を出す戦術航空士(TACCO)、
音響やレーダーなど、情報を分析する対潜員らで構成されます。

チーム11人の共同作業で敵潜水艦を捜索し、追い詰め、場合によってはこれを攻撃するのですが、
こういった、レーダーや音響のデータを分析して敵潜水艦を見分ける技術は、
徒弟制度で人から人へ伝えられる「マニュアルには書けない部分」が大きく、
こういう職人芸的な分野は日本人が得意とするところだからという説もあります。

「一度発見した潜水艦を見逃すなんてことがあれば恥ずかしくて基地に帰れない」


というくらい、一般的にP-3C部隊の技量は高いレベルを維持しているようですが、
ここで気になったことが・・・・・。

今、日本の、尖閣の近海には海底の深度を探査する船が出没しているそうです。
これはおそらく、尖閣付近に潜水艦を航行させようとしているためと言われていますが、
現在、 東シナ海南部をカバーする第5航空群(那覇航空基地)には
全国各地のP-3C部隊がローテーションで応援に駆け付けているそうです。

報道には出てきませんが、 実際に彼らはそこで中国の潜水艦と遭遇しているのでしょうか。

対潜哨戒機ですが、P-3Cの任務には捜索と救難も含まれます。
この絵は、ゴムボートに乗っている人が「help」「help」と小文字で囁いているの
ちょっとウケたので、ついアップにしてしまいました。

2014年の3月、千葉県野島崎沖で中国船籍漁船が火災を起こしました。
まず海上保安庁が出動して現場を確認し、甲板に人が取り残されていたため、
海上自衛隊航空集団司令官に対して災害派遣要請がなされ、厚木基地第4航空群のP-3Cと、
岩国基地第31航空群のUS-2が出動しています。


このときP-3Cは付近で捜索を行い、US-2を南鳥島に進出させて救助を試みましたが、
海象不良により救出活動ができませんでした。
中国漁船の船員17人は同じ中国の漁船に全員救助されたものとみられるということですが、
中国政府がそれに対して謝意を表明したかというと 、もちろんNOです。

あの辛坊治郎氏の救出の時もまず海保の巡視船と哨戒機、
そしてP-3Cが出て、US-2が実際の救出に当たりました。
辛坊氏を助け上げたUS-2の乗員が密かに?表彰されたという話ですが、あの二人のために
海保と海自の連携でおそらく中国漁船のときと同じくらいの航空機、
船が出されているので、どうせするなら全員に表彰を、とわたしは思ったものです。
 



話が逸れました。


エプロンの一番端には、一機、消防車を横に待機させている風のP-3Cが。

「あれは、もう退役した機体なんですよ。
訓練生の整備やなんかのために”何をしてもいい”機体としておいてあるんです」


無茶苦茶やって壊してしまってもいいってことですね。
自衛隊では除籍した飛行機などはリサイクルとでもいうのか、廃物ならではの訓練、
例えば救助部隊が壁を切断したりする訓練に利用するらしいです。



これはTC-90であると先ほど司令室で伺ったばかりのような・・・。

この機体での訓練は第二段階の徳島で行われるのですが、これは色が違うので、
計器飛行の訓練のためにもしかしたらここにあるのかもしれません。

TC-90はP-3Cの前課程の使用機ということになりますが、徳島からここに来た時に、
こちらでも訓練を行ったりするのかな?



何かのプロペラ越しに(あれ?これ何だったっけ)ヘリが飛んでいるのが見えました。
これも司令室に飾ってあった模型にあった、TH-135ですね。
前回も書きましたが、報道用、ドクターヘリとして大変広い範囲で利用されているこのTH-135、
原型は ユーロコプター EC 135(Eurocopter EC 135)といい、ユーロコプター
(現
エアバス・ヘリコプターズ)社が生産する双発の汎用ヘリコプターです。

リンク先を見ていただければ分かりますが、汎用ヘリコプターという分類は
そのものが軍用ヘリコプターの分類の一つです。

計器飛行に対応しているので、海上自衛隊ではこれを第二段階の練習機として
計器飛行(有視界飛行が不可能な時に計器のみで航空機の姿勢、高度、位置および針路の測定を行う)
の訓練を行っています。 



このヘリを見て、案内の2尉が、

「消防局のヘリコプターが訓練をやっています」

と言っていたような覚えがあります。



夏場はだいたいこの地域は「ガスって」遠景が見えませんが、

寒い頃は富士山まで見えることがあるそうです。
今日はこの通り、スカイツリーもうっすらとその形がわかる程度にしか見えません。



さて、先ほど伏線として

「P-3Cは特に火災に注意しなければいけない」

と司令が言ったという話をしましたが、わたしたちがこのあと連れて行っていただいたのは、

エプロンの端にある、「運航隊」でした。

運航隊という(わたしにとって)聞きなれない言葉ですが、何をするところだと思います?

航空管制、気象、地上救難、写真

以上が運航隊の任務となり、さきほどP-3Cで写真を撮ってくれた隊員さんは
この運航隊写真班の隊員ということになります。

われわれがこのあと見学したのは、
地上救難班

地上救難班の任務は文字通り、基地で起こりうる災害の際の救難活動です。
特に火災、と強調したのは、救難班の最も重要な任務が火災発生時の出動だからで、
これはどういうことかというと、当基地で運用されている

消防車の操縦席に乗せてもらう

というこの日のメインイベントがわたしたちのために予定されていたのでした。
消防車の運転席?
もしかしたら水をホースでぶわーっと撒いたりさせてもらえる?


続く。



 


航空教育隊訪問記~P-3Cの操縦席に座った

2015-07-02 | 自衛隊

航空教育隊訪問記、続きです。
基地に到着し、海将に少し説明を受けた後、わたしたちは運転手付きの車
(運転してくれたのはWAVEさんだった)で滑走路に移動しました。

 

飛行基地って本当に広い。
滑走路とは関係のないところでもこんな広さです。
号令台のある緑の芝生は、大きく奥行きを見せて広がっております。

さすがは昔ゴルフ場があったというだけのことはあり、この芝も、
その当時からのものなのでしょう。

「ところどころに、ここはバンカーだったんだなというような場所があります」

と海将。
それにしても1920年代にゴルフをする人など、外国人でなければ社会の上層のごく一部、
政財界の大物かあるいは華族皇族といった人々だったと思われます。



車で移動しながらすべてのものをこの目に焼き付け、あわよくば写真も撮ろうと
注意を払っていたわたしの目に、グラウンドの一角が止まりました。
どうやら訓練生が何かグループで行うようです。
うーん、匍匐前進とかかな?

そのとき、裸眼視力2.0のわたしの目は、同時にその中に二人の女子隊員がいることを認めました。

「女性も一緒に訓練受けるんですか」

同乗していた案内の広報室長に聞くと、

「たいていの訓練は男女一緒に行いますね」

そのときわたしが思い当たったことがありました。

「陸自を描いた『ライジング・サン』という漫画があるじゃないですか。
あの中で、男性の自候生のチームに女性が二人入っていて、
わたしは漫画ならではの創作だと思っていたのですが、あれは『ある』んですね」

「今は普通にありますねー」

そうだったのか。
それじゃあの漫画みたいに、同じ訓練生に好意を持ったりとかいう話もありそうだなあ。 



車はエプロンに到着。
そして、車の窓からはP-3Cの姿が見えてきました。
車内でいきなり本気のシャッターを切り出すわたしに、案内の2尉は、

「写真なら近くで撮っていただけますから」

と言いました。
もしかしたらわたし、逸ってますか~?

しかしこの写真でご注目いただきたいのは機体の右下。
もうすでに二人の隊員がわたしたちの到着のために待機しています。

一人はおそらく内部の解説をしてくれる教官であろうと思われますが、もう一人は?



車から降りて(あまり近くに車は留めない模様)歩いて行くとき、
向こうに駐機しているP-3Cから、訓練が終わったらしく人が降りてきているのが目に入りました。



「赤い帽子をかぶっているのが練習生です」


という説明を受けて改めて見ると、皆お揃いの赤いキャップに青のイヤフォンをつけています。
ここにはいないようですが、女性の練習生もいるのでしょうか。

「いますよ。今は固定翼、回転翼関係なく女性の操縦はいます」

そういえば、この少し前に陸自の1佐と一緒に一席を囲んだ防衛協会の
理事長という方は、はじめてCH-47チヌークに乗ったときのことを、

「チヌークって、後ろ閉めないんですよ。
開きっぱなしのまま、うるさいからといってイヤフォンを渡されるんですが、
こわいなあと思いながら飛行が終わって、操縦席を見たら座っていたのが
女性だったんで・・・ええ・・・」

と言葉を濁したのですが、どうもこの後は「余計怖くなった」と言いたかったらしい。

失礼ですよね? 

男の人は、「女だから運転下手」なんてよく言います。
確かに女性には気の利かない空気読めない運転をする人が多いのは確かですが、
少なくとも自衛隊に入って操縦者になりたいと希望する女子に、そんな
ドンくさい人はいないと考えてもいいんじゃないですかね。

男性の志望者だって、志望しても全員がなれるわけではなく、毎回

「(脱落することを考えて)少し多めに採用します」

とのことです。
やはり適性というのは気力とやる気だけでは如何ともしがたいものなのですね。 



ブルーのキャップをつけて階段を上っていくのが教官でしょうか。

向こうではすでに整備隊が作業を行っています。
遠目でも作業しているのは年配の隊員に見えます。

ちなみに、実用課程といわれるここで訓練を受けるのは23週間。
例えば防衛大学校を出て操縦し課程に進んだ場合、ここでウィングマークを取るのは
だいたい遠洋航海から帰ってきて2年目の2等海尉になってから程なくということになります。

高校卒業後、航空学生として進めば、入隊してから4年目に1等海曹になりますが、
だいたいその頃、実用機課程を卒業するということになります。

年齢でいうと、防大卒がだいたい26歳、航空学生が23~4歳といったところでしょうか。
航空学生の場合は、その後江田島の幹部候補生学校に行き、1ヶ月の遠洋練習航海も行います。

操縦資格を取って実地部隊に入っているのになぜ今更遠洋航海?と思うわけですが、
このあたりも海自ならではの理由があるに違いありません。



左のほうにも一機駐機していました。
この基地で運用されているP-3Cは10機だということですが、このときも
3機くらい上がっている、という話でした。



さあ、それではいよいよ、P-3Cの中に入っていきます。



出てきました。

いや、わたしも内部の写真が撮れるとは思っていませんでしたがね。
わたしが気を遣って最初に「写真はどこまでとってもよろしいんですか」と聞くと、

「飛行機の内部に入るときにはカメラをお預かりします」

ということでした。
うーん、やっぱり厳しい。
今のカメラは撮っていないふりをしてずっと動画が撮れたりするから、
そういう不埒な行為を未然に防ぐためにもカメラは取り上げてしまうに限ると。

やはり実用機なので、アビオニクスとか、情報に関する部分は部外秘なんですね。

わたしは実
はこのとき、ニコンを預かってもらったのですが、小さなカメラバッグには
先ほどまで室内を取っていたSONYのデジカメが入っていたのでした。
まあ、バッグを開ける気もさらにデジカメを出す気もないので黙っていましたが、
考えたら、今の人たちはだれでも携帯を持っていて写真を撮れるので、
あえて「預かる」のは、手持ちのカメラ、という規定があるのかと思われました。


というわけで、内部の写真はありませんが、中に入ったことのないほとんどの方のために、
色々と思い出してみますと、
まず中はとりあえず広いです。

昔はまっすぐ立って歩けなかった長距離用飛行機もあったという話ですが、

どんな背の高い人でも天井に頭をぶつけることもなく歩けて、食事のスペースさえありました。
入って右手にはちょっとした調理スペースがあって、お湯を沸かしたり、食べ物を収納したりできます。

気になるトイレですが(え?気にならない?)、旅客機のと全く同じような大きさのものがあり、
中を覗くとなぜか「用途」が「大」に限定されていました。
よくわかりませんが、訓練飛行中にそんな用途で使用する豪快な練習生っているんですかね。
それと、「大」しかダメなら「小」はどうせよと。


P-3Cは11人で運用します。
内訳は操縦士2名、戦術航空士1名、武器員などの航空士8名というのがその内訳で、
戦術航空士はパイロット二人の後ろに席があります。


ところで、今回実際に乗り込む前に知っておけばよかったと思った雑学が一つ。
なおそらく日本の運用しているP-3Cだけだと思うのですが、機内にはどこかに

「鉛筆削り」

があるという話です。
確かに上空では鉛筆が一番確実に使える筆記具だと思うのですが、
なぜ鉛筆削りが「標準装備」なのか。
よっぽど上空で鉛筆が折れて困った隊員からの要望が多かったとか?

それがどこにあるのか、今となっては知るべくもなく、この話を読んだとき

「ああ、乗る前に知っていればどこに鉛筆削りが備えてあるのか教えてもらえたのに」

と歯噛みをしてってほどではありませんが、何しろ残念に思いました。
どなたがご存知ありませんかね?

っていうか、今度元海幕長にお会いしたら聞いてみようかなっと。

ところで、機内に乗り込み、コックピットのとこらまで説明を聞きながら行くと、

コーパイの席にすでに誰かが座っています。
誰?

実は彼は当基地の写真隊隊員でした。
カメラの持ち込めない機内ですが、せっかく見学に来てくださった方の
記念にとわざわざ自衛隊は写真を撮るためのカメラマンを動員してくれたのです。

いやもうこれは、感激しましたですよ。
しかも彼はわたしたちが車でそちらに向かう頃からエプロンに待機していて、
先に乗り込んで陽射しの照りつける暑い暑い操縦席で待っていてくれたのですから。



で、何枚か撮ってもらったうちの一ポーズ、わたしは今までの生涯でおそらく
最初で最後のVサインをしました。
日頃ディズニーリゾートなどで、カメラを向けると脊髄反射でVサインをしている女子を
生暖かい目で見てしまうこのわたしが、です。

「ママにしては珍しいね、Vサインしてる」

息子がこの写真を見せるとこう言ったのですが、わたしの中では無理もないことだったのです。
初めてのP-3Cでいきなり操縦席に座って記念写真ですよ。
おまけにここに来るまで海自の車でまるで防衛大臣のような下にも置かぬ扱い、
これが「勝利」でなくて何でしょうか。

続く。