ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ヘローキャスティング~MINEX・掃海隊機雷戦訓練@伊勢湾

2016-02-11 | 自衛隊

MINEX、というのを「ミネックス」と読んでいる方、ぜひともたった今から
「マイネックス」と読むようにしていただければ幸いです。
掃海隊機雷戦訓練のことをマイネックスと呼ぶのは、機雷の「Mine」からきているのです。
つまり

Minesweeping Execise」

の略語だったんですね。
ショートスティと言われる掃海、そしてPAP投入による機雷掃討と
報道陣に見せる訓練が順調に進み、ヘリコプターから海中に
EOD(水中処分員)が進入して機雷に爆薬を仕掛ける、という想定の

ヘローキャスティングが次に行われることになりました。

甲板に出ると、ヘリが飛び立ったあとの掃海母艦の「ぶんご」が、
どおおお~んといった風情でその雄大な姿をダウンウォッシュの向こうに見せています。

 

はい、こんな感じ。
掃海母艦「ぶんご」、そして今回1機のみ参加のヘリMH-53E、模擬機雷、
そして水中処分員の作業を見守り時に支援するボート。

これらが一気にフレームに収まる位置に配されております。

あとからわたしたちは「ぶんご」に乗り移ったのですが、そのときに
掃海隊司令である岡海将補が、このときのことについてこうおっしゃっていました。


「わたしたちの(ぶんご)方から『いずしま』がヘリの向こうに見えているので、
写真を撮ると、ヘリの後ろにぶんごがちょうど写ることになるなと思ったのですが、
あれは逆光でしたね・・・失礼いたしました」

なんと、掃海隊司令は、ヘリのバックに「ぶんご」が控えるというアングルで
写真を撮ることまで気を遣って「ぶんご」を操舵させていたということなのです。

このときに、「いずしま」船上でも、「逆光ですねー」と第1掃海隊司令が
気を遣う発言をしていたので、わたしはとにかく海上自衛隊がこのような場合、
カメラ写りまでを考えてくれていることを知って驚愕しました。

しかし、それに対しプロのカメラマンであるミカさんは

「いえ、逆光もそれなりにいい写真が撮れるんですよ」

とこちらも気を遣った慰め?をしていました。
まあ、わたしのレベルでは逆光は逆光にすぎないできですが(笑)、それでも
現場のこのときの迫力はお伝えできるのではないかと思います。



これも逆光でシルエットにしか見えませんが、待機しているゴムボート。
EODのウェットスーツを着た4人の隊員が乗っています。



後で「ぶんご」に乗り移ってから、わたしはヘリコプターのダウンウォッシュを
生まれて初めて至近距離で体験したのですが、それはすさまじく、
ちょうどヘリの移動する部分だけが白く細かいしぶきが立ち上がっています。
ヘリも気を遣ってボートの上空は飛ばない模様。



ボートを望遠レンズで狙ってみました。
見た目より特に舳は深いので、濡れることは無いでしょうが、
それでも2月の海の上、ボートの上で風に吹かれっぱなしというのは
実に厳しい労働環境であるとしか言いようがありません。

ちなみに、ウェットスーツの下は完璧に普通の恰好だそうです。
全く水を通さないんですねえ。



もう一度ズーム。
ボートの周りに波型にロープがめぐらされているのは、海中から上がるとき
ここをつかんで自力で体を持ち上げるためのものです。
エンジンには「TOHATSU」と書かれていますが、トーハツ株式会社は
船外機、消防ポンプなどを製作している会社で、戦時中には
2ストロークガソリンエンジンを主力とし、軍の発電用エンジンを主に生産、
軍管理工場となっていたこともあります。

海上自衛隊との関係は海軍時代からのものでしょうか。




さて、訓練海域に到達したヘリがホバリングし、
ワイヤーが下されました。



まず最初の水中処分員が降りてきます。


 
前回と今回の掃海隊訓練見学の合間に、わたしは習志野の降下初めで
陸自のヘリからの降下を見学し、それについて少し知るところとなったのですが、 
その知識によると、この降り方は「リぺリング」(一般でいうラぺリング)にみえます。

両足でロープを挟み、手で体を保持して滑り降りるやり方に見えますが、
やはりいざという時の危険を考えてファストロープ方式かもしれません。



ファストロープはリぺリングより安全だとはいえ、まあでも
・・・・これを見る限り、万が一落ちたら結構おおごとかもしれない。

やはり水中処分員の仕事は大変危険なものであり、 日頃から彼らは

トレーニングで体を作り、厳しい訓練で鍛え上げて事故のないようにしているに違いありません。

そんな掃海隊のモットーとは、

「適切な判断力、俊敏な行動力で任務を果たして必ず帰還

です。 

 




そして二人目が降下。
白いヘルメットがとても目立ちます。

「どうして必ず二人一組で行うのですか」

横にいた第1掃海隊司令にうかがったところ、

「三人だとケンカになるからです」

えっ!それはあまりに斬新な角度からのご意見。

「というのは冗談で(冗談だったんかい) 、安全のためですね」

一人で行っていて、なにか・・・・たとえば海中で貝に脚を挟まれたとか、
(それはないか)とにかく助けが必要になる状況が起きたとき、
迅速に状況を外部に伝えるためにも、二人一組で行うということのようです。



前回は遠くて全く見えなかったのですが、今回ははっきりと、
海に入った水中処分員が二人、機雷に近づいていくのが撮れました。



一人が機雷に炸薬を仕掛けているという設定。
必ずもう一人は離れた位置でそれを見守るようです。



その様子を、ボートの上のEODはひとりが写真に撮り、(かな?)
一人は名簿らしき紙になにやら記入していました。

「もしかしたら点数をつけているんですか?」

と聞いてみましたが、今回は点数はつかないようです。



こういう、浮いている機雷の処分を、浮遊・浮流機雷処分というそうです。
こういう機雷の処理はタンクも背負わず、シンプルな格好で行います。

これ、何していると思います?

機雷はそれが触れると爆発を起こす「触角」を持っています。
触角が爆発を起こす衝撃は約数キロと言われています。
人が触って決して爆発しないという数値ではないため、
慎重に爆薬(だいたいペットボトルの大きさ)を装着します。

二人一組で行うのは、一人が装着を行い、一人は援護・警戒役です。
 
この写真は機雷に取り付きながらも周りを見回しているように見えますが、
必ず作業前に周囲の警戒をすることもルーチンになっているそうです。



そして、導火線に着火を済ませたら、数分の間に安全地帯まで泳ぐか、
ヘリに再び揚収してもらって、爆破を見届けます。
訓練なので機雷を爆破することはされませんが、海上にいる支援船では、
残り時間をちゃんと計って任務が成功したかどうかチェックしています。

何か失敗して、制限時間が過ぎたら、松岡修造のような人に

「はい今死んだ!今君爆発に巻き込まれて死んだよ!」 

とか怒られてしまったりするんでしょうか。


ファストロープで釣り上げられるEOD。



一組目がすんだあと、もう一度ヘリはその海域を一周します。
「ヘリが現場に着くところからヘローキャスティング」ってことなんでしょうか。



二組目、最初のEODの降下。



いくら海水とはいえ、ダウンウォッシュの霧の中に降りていくのは
最初は恐怖感があるのではないかと想像します。
なにしろ、ものすごいんですよ。ダウンウォッシュの風力って。(経験談)



海の上に降りるや否や、全速力のクロールで泳いでいくEOD。
基本平泳ぎや横泳ぎしている場合ではないってことでよろしいでしょうか。

 


一人目が機雷にたどり着きました。



二人目も降下し現場に到着。



そのとき、支援船の上のEODがなにやら声を掛けました。



と思ったら、船の上の声をかけていた人が飛び込んだ!



なぜか機雷の周りに人が三人いる状態。
何があったのか、わたし程度の知識ではさっぱりわかりません。

第1掃海隊司令!三人飛び込んでますよ!?これケンカにならないんですか?




なんか忘れ物でも届けにいったとか・・・?



飛び込んだ人はすぐにボート上に上がり、支援の人は遠くから見ています。



支援船の上の人は、文字通り訓練の際に必要とならば
いつでもこうやって海中に入り支援を行うようです。



ところで、この画面上をご覧ください。
訓練海域を堂々と漁船が突っ切っていきます。
これ、いいのか(笑)

平成23年、呉基地所属の掃海艇「みやじま」が夜間錨泊中、
見張りを怠った地元の漁船に衝突された事件がありました。
これは広島海難審判において漁船に過失があるとし、漁船の操縦士を
一か月の業務停止にするという判決がでたのですが、判決において

「みやじまは 守錨当直員が見張り不十分で、このことに気付かず、長栄丸に対し、
汽笛による注意喚起信号を行うことなく、その左舷前部に長栄丸の船首が衝突した。」

とし、自衛隊側の見張り不足も注意されております。
しかも、状況は

「訓練海域は、安全に訓練を実施するために漁船の操業を制限して設けられた
補償海面と称する海域内にあり、訓練終了後錨泊する際も、
同海面内に錨地が指定されていた。 」


だったのにですよ?
そういう場所で錨泊しているときにぶつかって来る相手に見張り不十分って、
自衛隊側にずいぶん厳しくない?


この写真の漁船だって、訓練海域の目と鼻の先をかすめるように通過していってるし、

訓練海域を借りるのに、なにやら自衛隊がずいぶん漁協に下手にでなてくては
いけないような風潮といい、これといい、なんかおかしくないですか?


と、わたしがたった一人で怒りに燃えていると(笑)「いずしま」はくるりと向きを変えました。

どうやらヘローキャスティングの見学時間(15分)は終わり、
1130から「ぶんご」に移譲する準備に入るようです。
今日は前回のような波のうねりもなく、問題なくラッタルを掛けることができるでしょう。

やった!今日こそは掃海母艦で海自のカレーが食べられるぞ!
とこおどりしたわたしでしたが、この予想は外れることになります。


続く。





PAP-104Mk.5引き揚げ〜MINEX・掃海隊機雷戦訓練@伊勢湾

2016-02-10 | 自衛隊


掃討具PAP-104が無事海中に投下されました。
わたしたちは第1掃海隊司令に促されて食堂に戻ります。



食堂の入り口には暖かい缶コーヒーが用意されていました。

自衛隊という組織で飲み物を何度か出されて気づいたことですが、
出される飲み物は常に選択の余地なくコーヒーです。
アメリカ海軍はあの通りですし、唯一の例外であるイギリス海軍を除いては、
世界的に海軍というのは圧倒的にコーヒー派なのではないかと思われます。

このときに用意されていたのも甘い缶コーヒーとそうでもない缶コーヒーの二択です。
コーヒーには絶対に甘みをつけない主義のわたしもこうなっては
比較的甘くないという方を選ぶしかありません。
缶コーヒーなど何年ぶりかというくらい久しぶりでしたが、冷え切った体に
暖かく甘い缶コーヒーは殊の外美味しく感じました。




小さな食堂には、コンパクトにいろんなものが備えられており、
テレビのモニター、神棚、プリンターなどがまとめて置いてあります。

テレビ台に「常勝軍団」とありますが、他の掃海艇の例に漏れず、
「いずしま」もまた、「一家」として訓練やソフトボール大会など、
各艇対抗の勝負に勝つべく常日頃から研摩しているのでありましょう。

しかも「常勝軍団」の下にある金色のプレートには、なんと

「平成27年度機雷戦部隊戦技 優秀艦艇」

とあるではないですか。
そういえばミカさんが「いずしま」に乗ることが決まったことを教えてくれたとき、

「いずしまは今優秀艦艇に選ばれてイケイケなんですよ」

というようなことを言っておられたような覚えが・・。
27年度の戦技といいますと、もしやそれは先日の日向灘の結果?
日向灘のときに座乗した「えのしま」も優秀な艇だったということですが、
もしかしたらメディアに公開されるのは、優秀だからということでもあるのかな。

 

ちなみにこれも掃海艇らしく極限に小さな神棚にはちゃんと
賽銭箱も備えられています。(写真を見て気づいた)
小さな鏡の御神体、立てかけられたお守り札には
○山神社、と書かれています。

もしかしたら名前の元になった「出島」(いずしま)にはこのような
名前の神社があるのかなと思ったのですが、そうでもなさそうです。

「出島」と書くと長崎県出島ということになってしまうのですが、
「いずしま」の命名由来となった出島は、宮城県の女川に近い
小さな島で、面積 2.68km、周囲 14km、
人口 はわずか 450人という小さな島だそうです。

東日本大震災では20mの津波により島民25名が犠牲になりました。
震災後島民が全て島外に避難し、復興は進まないままですが、
漁業関連施設からもとどおりになりつつあるということです。

掃海艇「いずしま」と実際の「出島」とが、名前以外で何か
関係を持っているのかどうかについては今回わかりませんでした。

「出島」の話ではありませんが、食堂に東日本大震災のときに、掃海隊が
どのような活躍をしたのかを伝える写真がパネルにされていました。

あの震災で、多くの自衛隊員が現場で捜索に当たりました。
ある程度の時間が過ぎたときから、それは「救助」から「遺体捜索」へと
なっていったわけですが、特に掃海隊の救助活動、それに続く遺体捜索活動は
その壮絶な体験から多くの掃海隊部隊隊員がメンタルダウンしたと聞いています。

中でも二十歳にも満たない若い男の子がこのような現場をみたという話を聞いたときに、
わたしは思わず彼らに向かって、手を合わせて拝みたいような気持ちにさせられました。

「行方不明者捜索」「行方不明者水中捜索」・・・・・
この写真はおそらくその苛酷さの片鱗も伝えていないのだろうと思います。




食堂の壁に掛けられていた「いずしま」のスペック。
TYPE-2093とは掃海艇本体に搭載されている機雷探知機で、
可変深度式のソナーとなります。
これは矢印で指された上部構造物前端の甲板室内に設置されており、
ウィンチによって300メートルの深度まで吊下げることができます。

防衛省の資料によりますと、巻上機製作は日立製作所。

予算は「204百万円」と謎の記載がされていました。



「いずしま」の構造についてブリーフィングで第1掃海隊司令が説明したとき、
この食堂の壁を指差して、

「縦に沢山の梁があるでしょう」

と指摘していました。
言われてみると、縦の梁はほぼ30センチおきにびっしりと張り巡らされています。
木だけでできている掃海艇の強度を高めるための仕様なのだそうです。

そしてこの梁のくぼみを利用して、棚を作ってしまうという工夫が(笑)
棚に置かれたウォータークーラーは、落下防止のひもがかけられています。


さて、「常勝軍団」の上に映し出されたソナーの画像を指差し、
第1掃海隊司令が説明をしてくれました。



映像をカメラに切り替えると、おお、何か見えてきた。
PAP-104はソナーでまず探知しますが、それは類別用ソナー
(クルップ・アトラス社製AIS 11高周波ソナー )です。


そして、機雷識別用ビデオカメラの映像がこれです。

前回、赤いコードを電源だと言ってしまったのですが、
あれは電源コードではなく、光ファイバーケーブルでした。
ファイバースコープってことでよろしいでしょうか。

なお、PAP-104の電源は内蔵電池となっています。

そしてカメラがとらえた機雷(のつもりの物体)は。



なんか図工の時間にデッサンする石膏模型みたいな形ですが、
認識しやすいように色は白、縁には何か貼ってあります。
これは模擬機雷なのですが、画像検索してもこの形のものは
「いずしま」の甲板に置いてあったという写真が一つ見つかっただけでした。

これも「いずしま」が設置したものかもしれません。
設置して自分で回収する予定ってことなんでしょうか。

PAPは沈底機雷、係維機雷のどちらにも対応でき、画像で識別したら
あとはその形状によって掃討のやり方を選んでGO!です。
沈底型には100キロの爆雷で爆破、係維機雷は搭載したカッターでワイヤを
切り離し、その後掃討しますが、その際、先ほど控えていた水中処分員が、
爆薬を取り付けたりするということなのかもしれません。


さて、PAPが送ってくる画像を確認したら、次は揚収です。

模擬機雷は比較的近くに沈んでいたらしく、わたしたちが食堂から
甲板にもう一度上がると、程なくPAPが泳いで帰って来ました。
 



いつも不思議なのですが、いつの間にクレーンのフックをかけるのでしょう。
気がついたらすでにつり下げるためのフックが本体に結合しています。

舷側に立っている二人の隊員は何をしているかというと・・・・・、
なんと一人が使用しているのは前回話題になった「さすまた」ではないですか。

海から引き上げるとき、急な波に煽られてPAPが揺れ、船体に当たることのないように
さすまたで抑えているんですね。

右側の隊員の持っている棒は、先にやはりフックが付いており、
PAPのノーズ付近に引っ掛けて引き寄せる道具のようです。





この高さになったらもうさすまたの出番はありません。
ロープをかけて動揺に備えつつ、クレーンが設置台の上に運んでいきます。



無事に台の上に乗っけることができました。
海から引き上げたあとは潮水を拭ったりするのかと思ったのですが、
意外にも自然乾燥派でした。

まあ、いつも甲板の上で潮に吹かれているから、いまさら一緒か。


このPAP-104という掃討具、なんと1968年にはその原型の開発が始まっており、
今のMk.5ができたのはもう30年も前のことだそうです。
「いずしま」の就役は2003年のことですから、ずいぶん「とうのたった」掃討具を
搭載したものだなという気もしますが、そもそもこの「すがしま」型そのものが
前にも書いたようにイギリスの「サンダウン型」をベースにしているため、
その「サンダウン」級が搭載していた情報処理装置・機雷探知機・機雷処分具の3点セット
どれにももれなくついてくるという大人の事情があったようです。




さて、PAP-104投入、模擬機雷掃討(のつもり)、そして揚収が無事終了しました。
本訓練に携わった隊員が、また再び艦尾に整列して訓練終了の合図。

EODの三人は本来ならば海に飛び込まなくてはならなかったのでしょうか。
いずれににせよそんな事態にならなくて何よりです。


さて、この一連の訓練には約1時間45分を要しました。
この後、11時からは、ヘリからEODが海中にリペリング(海自もこういうの?)
あるいはファストロープで侵入する(って陸自みたい)、
ヘローキャスティングが行われます。 


続く。


 


”PAP"投入〜MINEX・掃海隊機雷戦訓練

2016-02-09 | 自衛隊

係維掃海具が投入され、それが引き揚げられました。
報道関係者に配られた資料によると、この部分に

掃海:ショートスティ

と記されています。
オロペサ型掃海具を投入し、どのように曳航するかを展示して
その後短時間で引き揚げたから「ショートスティ」なのかなと思ったのですが、
どうやらそうではなく、このような掃海の方法をそのように称するようです。

ちなみに個人ブログではときおり「ショートステイ」と書かれているようですが、
自衛隊的に正確な用語は「ショートスティ」であるようです。



われわれの乗った「いずしま」から見ていると、「えのしま」がこちらに向かって
近づいてきて、少し後ろを追走する形で航行を始めました。
「えのしま」というと、前回の日向灘での掃海隊訓練でメディアツァーが行われ、
わたしが乗せていただいた掃海艇です。

「今曳航した掃海具で切り離した機雷を『えのしま』が処理したんです」

えっ?

そもそも機雷らしきものが見えなかったんですがそれは。
もしかしたら、「切り離したという設定」「処理したという設定」
だったのでしょうか。



掃海具を回収し終わった後、関わった全員がまた甲板に整列です。
作業の区切りごとにこうやって整列及び確認を行うんですね。



解散になるや否や、カポックを脱いでたたみ始める人あり。



今曳航していた掃海具で使われていた切断機でしょうか。
ちなみにこの切断機ですが、防衛省の資料から図を見つけてきました。



緑にペイントされている部分は『安定版』。
肝心の切断器は鉤型になった部分の奥にある「ピン」なんですね。 



さて、ショートスティという掃海が終了した後は、
「掃討」の展示となります。
「いずしま」の「掃討具」はこの黄色いPAP-104 Mk.5機雷処分具。

この写真は「ショートスティ」が始まる前に撮ったもので、この機雷処分具
「パップ」本体のあちこちにブルーのテープを貼り付けているところ。
海中に投じた時の保護のためのテープでしょう。 




左舷船尾近くの画像です。
PAPというのは水中カメラと機雷探知機(ソーナー)を搭載した掃討具ですが、
今点検しているのはそれに接続する電源であろうかと思われます。




続いてPAPの各部分の作動確認が始まりました。
ちょうど艦橋後ろ甲板の左舷側に立っていたわたしの後ろで、
点検をしている隊員との通信が始まりました。

どうも通信内容を聞く限り、わたしの後ろでこの作動が行われており、
後ろの隊員が例えば推進プロペラを回した、といえば、
PAPの横に立つ隊員がそれが作動していることを報告するという感じです。

PAPの両舷に付けられたプロペラはこんなに可愛らしいのに、
この航走体を海中で自在に動かす力を持っているようでした。
プロペラのケースには海中の浮遊物を巻き込まないようにネットが張られています。 




こちら、PAPのノーズ付近の目盛りを確認中。磁石でしょうか。



さて、甲板上ではまたしてもお色直しをして隊員集合。
このようにしょっちゅう服を変えるのもわたしたちには謎でした。



そこに潜水服のEODが登場。
PAPによる掃討のときにはEODの出動もあるってことなんでしょうか。
キリッ!といった風情で手袋をはめてスタンバイです。 



ふと海面に目をやると、手前の「えのしま」、向こう側に「のとじま」がいました。
むむ、妙に接近しているが、これには何か意味が・・・?



この間を利用して、宇都宮司令は報道陣に掃海訓練中は、隊員たちが
このフル装備で何時間でも待機し、食事・休憩はもちろん仮眠もこのヘルメットをかぶって
甲板で行う(触雷の危険に備えて)というのがいかに大変なことか
わかってもらうために、報道の人にヘルメットをかぶってもらっています。

「重たいですね・・・」

というより、かなりサイズ的にきつそうに見えるがどうか。 

 

1隻の掃海艇にはEOD(水中処分員)は3人乗っていると聞いたことがあります。
キツイので昨今なり手が少なく「絶滅危惧種」(ミカさん談)となりつつあるEODですが、
女性で配置を熱望して夢を叶える人がいたり、逆に新聞でインタビューされていた

「1000時間を目前に体を壊して残念だけど引退した」 

という人がいるという具合に、この仕事に情熱を持って取り組む人もいるのです。
彼らの給与体系について聞いたことはありませんが、危険手当は出るのでしょうか。



さて、いよいよPAP104Mk. 5の海中投入がはじまります。
まず、先ほどの浮標投入の時に使ったのより大きな左舷側のクレーンから
出てくるワイヤを確保。

もうこのころには亀爺効果で、報道陣が皆下に降りています。
上からの方が作業がよくわかると思うんだけどな^^ 



クレーンのアームがうぃーんと動いていって、パップ本体の上に。

 

ロープがピンと張られました。
ロープ先のフック部分を本体に当てないように慎重にクレーンを動かします。

 

ものすごく分厚そうなゴム手袋をつけた隊員が、フックの先を本体に引っ掛けます。
パップの本体に「GROSS 890kg NET 570kg」と書いてありますが、
このあいだのS-10掃海具より軽く、クロマグロよりふた回り大きな感じですか。 



パップを吊り下げるワイヤは鋼鉄製です。
ところで、このパップにペイントされた白い矢印。
わたしはてっきり前回の「えのしまくん」のようなオリジナルペイントだと思ったのですが、
「とよしま」「つのしま」など、他の「すがしま」型掃海艇のどのPAPを見ても
同じ矢印があるので、これは単に「こちらが前」という印ではないかと思われます。

ちなみに、阪神基地隊所属の掃海艇「つのしま」のPAPには、さりげなく
阪神タイガースのトラがでかでかとペイントされているのですが、
万が一他球団ファンの乗員がいたらこれは辛かろう(笑) 



PAP投入にはEODが関わるようです。
万が一何かあったら飛び込んで追いかけるとかか?



尾翼にはロープを通す穴が空いていて、こちらには繊維のロープが通されます。
海中に投じる時に安定させるためのロープでしょうか。

「掃海艇の仕事は索を捌くこと」

と奇しくも伺ったことがありますが、何をするにしてもこうやって
ロープやワイヤを扱うそのやり方は、昔からあまり変わっていません。
掃海艇乗りを「最後の船乗り」と呼ぶのもここから来ています。



先ほどお立ち台で掃海具曳航を指揮していた隊員さんが今回も指示して、
クレーンがPAPを持ち上げました。
持ち上げながらも3箇所に取り付けられたロープを3人が保持しています。



クレーンが海の上にPAPを運んでいきます。
相変わらず3箇所のロープは保持されたまま。

注意していただきたいのは船尾に立っている隊員のところから出ている
釣竿のような赤いコードの通る長い棒で、これはPAPにとっての命綱、電源です。

上の方の写真で確認していただければわかりますが、最初の頃、この角に
テレビカメラが立って、ここから投下を撮ろうとしていたのです。
おそらく作業に際して「(邪魔なので)どいてください」とか言われたんだろうなあ。 

もちろん自衛官は何も言わないけど、きっとメディアのカメラが入るとき、
彼らはかなりうざいというか、イラッとしているものではないかと思います。 



とか言ってたら後ろからまた近づいて撮ってるよ(笑)

でさー、それだけやって撮った映像、番組でちゃんと使ってもらえたの?
いつも思うけど、目の色変えて人を押しのけて自衛官にウザがられながら
真ん前に陣取ったにしては、どの媒体も扱いは小さいし、写真もせいぜい小さいのが1枚。
それが仕事だからと言ってしまえばおしまいですが・・。



さて、この写真では、PAPの後部につながっているコードを

ガイドに沿って伸張して行っているのだと思われます。
こうしてみると今にも落ちそうなくらい体を乗り出して行う作業ですね。

 

電源コードがピンと張ってしまわないように撓ませたようです。
いよいよ海中に投入の瞬間。



もしかしたら、EODはこの作業中何かあったらすぐ飛び込もうと思ってる?



PAPを海中に投下したワイヤが外されました。
どこでどうやっているのかは現場ではわかりませんでしたが、
どうやら遠隔操作でフックを外すことができる仕様のようです。



海中に放たれたパップくん、お尻から出たコードだけで元気に泳ぎだしました。

「この後は、食堂でパップが写しだす映像を見ます」

宇都宮司令が皆に声をかけ、一同はぞろぞろと階下に降りて行きました。


続く。 

 


係維掃海具投入〜MINEX・掃海隊機雷戦訓練@伊勢湾

2016-02-08 | 自衛隊


さて、われわれを乗せた掃海艇「いずしま」は無事出港し、
第1掃海隊司令がレクチャーを行う間、訓練海域に到達しました。
配られた資料によると、出港が0800、訓練開始は0900となっています。



「いずしま」に入るなり撮った士官室の写真。
相変わらず子供部屋みたいな木の温もりを感じさせるインテリアですね。

先般行われたレクチャーのなかで、第1掃海隊司令が、

「この『いずしま』は木でできているのですが、そのせいか、
鋼鉄の護衛艦などより乗っていて不思議と疲れないんですね」

と面白いことをおっしゃっていました。
地面の振動が伝わるのならともかく、海の上に漂っているのに
人間の体に伝わる感触が違うとは・・・・。

船体が小さいので動揺が大きく、それで「キツイ」という海自隊員の話を
前回取り上げたのですが、動揺のことがなければ、掃海隊員は
こちらの仕様の方が「体に優しい」「楽」と捉えているようなのです。

また、木のフネのメリットは意外なところにもあって、後で運用長とお話しした時に、

「冬でも護衛艦に比べると水が暖かいんですよ。
米を研ぐ時には本当に助かります」

という証言もいただきました。
手でお米を研ぐのは比較的少人数の掃海艇だけで、護衛艦であれば
米研ぎ器兼用炊飯器を使うのではないか?と思ったのですが、
この方が護衛艦の炊事作業をされていたころにはなかったのかもしれません。


さて、レクチャーの後、一同は甲板に上がって取材活動開始しました。




まず最初に行われるのは係維掃海です。
右舷に固定されている白い魚雷の形のものは係維具で、
オロペサ型経緯掃海具といいます。



これから行うのは図の上で説明されている掃海。
オロペサ型では白い部分は「掃海浮標」つまり「浮き」で、これを投下して引っ張り、
錘から出た糸の先にふわふわと浮かんでいる機雷の糸を、
掃海具に取り付けられたカッターで切断し、切り離します。



こうしてみると結構大きなものですね。


このオロペサ型掃海具は、「すがしま」型掃海艇のMSC-Mine Sweeper Coastal」
では両舷から展開されるのが常ですが、今回の訓練では、
「こうしています」ということを見せるためなので、
説明図のように二つの掃海具を引っ張るのではなく、「片方だけ」の曳航となります。

 

オレンジの旗など、必要な道具がハッチから出されています。
「いずしま」型は後甲板が大きくないのですが、こういう道具を
収納しておくスペースは階下にたっぷりと取られています。

水を湛えられたポリバケツがありますが、これは
使用したカッターなどを洗浄するためのものでしょうか。

ポリバケツの前には白いカッターが糸に結びつけられて置いてあります。
このカッターが、上の説明図における赤と緑の三角で表されるもので、
実は「経緯掃海具」とは、小さなこの部品を指して言います。 

 

見ていたら「いずしま」のEOD、水中処分員がウェットスーツで登場。
背中には「爆発物処理班」と書いてあり、物々しさを感じます。

ピンクのメガホンの人は、笑顔でミカさんと歓談中。

 

掃海具のフロートには目立つ蛍光グリーンの旗が取り付けられました。
お気づきかと思いますが、いつの間にか作業する隊員が全員テッパチとカポックを付けています。
赤いヘルメットをつけるときは「危険作業」のときであると聞いたことがありますが、
機雷戦になると、途端に全員がこのスタイルに早変わりします。



「緑の旗オッケー!」(かどうかは知りませんが)

甲板で実際に作業する乗員だけでなく、このときには
艦橋で操舵する隊員たちも全員がテッパチとカポックを着用しています。

理由はもちろん・・・・万が一の爆発に備えてなんですね。

昔、朝鮮戦争の掃海のときに、爆破の瞬間艇内にいて殉職した隊員がいたことから、
(具体的にはどういう状況だったかというと、爆破そのものに巻き込まれたのではなく、
爆破の際室内の構造物に体を打ち付けられて、というものだったらしい)
作業に当たるときには、必ず艦橋以外は外に出ることになっているそうです。 



フロートは後甲板中央に位置するワイヤリールに係留し曳航されます。
ワイヤの繰り出しチェック中?

ちなみに、このデッキには報道陣のカメラがずらっと並んで撮っていたので、
わたしは彼らの後ろからカメラを出して撮りあとでトリミングしました。



報道陣の後ろには第1掃海隊司令が立って説明をしてくれています。
司令が切断器の説明をすると、下では今から付けるカッターを持ち上げ・・、



わかりやすいようにこちらに向けて見せてくれました。
緑の部分はどうやら「羽」に過ぎず、機雷の糸をカットするのは
ちょうど隊員が右手で抑えている部分の「刃」ではないかと思われますが、
それにしてもこんなニッチな部分で糸をうまく切ることができるのでしょうか。

カッターの深さを沈降器で安定させているとはいえ、
うまくワイヤだけを切るのには相当な熟練の技術を要するのではないかと思うのですが。



さて、作業の準備が整ったところで、作業に当たる隊員が集まってきました。


 
もう一度報道陣に向けてカッターを見せてくれました。
ん?なんかさっきのカッターと大きさが違うぞ。
説明が聞こえなかったのでこの事情は分からず(T_T)



ちゃんと置く場所が決まっていて、決して甲板に転がしっぱなしにはしません。
こういうものも紐が結び付けられ、固定がされています。



掃海長の作業指示を受けるために全員がこうやって整列する模様。
今この写真に写っているのは17名ですから、写っていない人数も含め
「いずしま」の乗員の半数がこの作業に当たるということになります。



掃海長の話が終わり、いよいよ作業開始。
皆が持ち場に向かいます。



さて、そこで船尾の「お立ち台」みたいなところに立ったピンクのメガホンの人。
おそらくここは全体の作業進行を見張る役目の人が立つのだと思いますが、
後で聞いたところ、この隊員さんは別のフネ(たしか掃海母艦)への
転勤が決まっていて、最後の訓練となるので「立たせてもらった」そうです。

掃海艇最後の訓練になる者にちょっとした花を持たせるという配慮だったのでしょうか。
小さな組織である掃海艇ならではの人間らしい「情実」采配、
さすがは「一家」を標榜する家庭的な職場だけのことはあります。



さて、いよいよ掃海浮標が海面に降ろされます。



フロートを降ろす前に曳航するワイヤーをなんかしています。



どこから出してきたのか、フロートを押すための”さすまた”登場。
このさすまたについて、とりあえずぐぐってみたところ、世のなかには
「さすまた専門店」なるものが存在していましたorz
HPのポスターが実に斬新だ・・・(汗)

「さすまた」を漢字で書くとなんと「刺股」。
なんとも禍々しい漢字を書くものだと思いますが、これ武器なんですね。
「できるだけ大勢(の人数)で行ってください」って、ということは
大勢のためさすまたを備えておけ(どこに?)とでもいうのか・・・。

それはともかく、さすまた専門店で買ったのかどうかは知りませんが、
掃海艇にはさすまたが装備してあるということだ。_φ( ̄ー ̄ )

ところで、わたしたちがこの光景を見ていてあっとおどろいたのは、
画面左下ですよ。
いつの間にか、おるでー!亀爺が^^

「うーん・・・・相変わらずですなあ」

とりあえずこれもクレーンを使ったりする危険作業だと思うんですが、
我が道を行きまくるおじさんならば、

退かぬ!媚びぬ!省みぬ!


ってとこですか。



クレーンが掃海浮標を持ち上げ、固定具から浮き上がりました。

しかし、それにしても(怒)
どうしてたかがフロートをそんなに近くで撮らなくてはならんのかおじさん。
こうやって上階から取ればさすまたとか(笑)クレーンの全体像とか、
作業の様子がよくわかるというのに・・・・。

それにだね(怒)

万が一そのさすまたの人が出動する事態になった場合、あなたは
自分が邪魔になるかもしれないとちらりとでも考えたことはあるかね?



クレーン稼働の号令がかかり、ゆっくりと浮標は海上に出されていきます。
浮標だからきっと中身はなく、何トンもあるものではないでしょうが、
それでも慎重に動かすのは当然です。

わたしの位置からは海中に投下される瞬間は撮れませんでしたが、
とりあえず浮標は無事に海の上に放されました。



今日が最後の「お立ち台」勤務である隊員さん、かっこいいぞ。

フロートは船の後方に見えています。



あれあれ、船の真後ろを付いてきていた浮標がなぜか左舷側にやってきました。

それにしても、係維掃海というのは短いワイヤでおこなうものだな、
とこの写真を見て思った方はありませんか?
これは訓練を展示しているので特にそうだということでしたが、
レクチャーの時、わたしが質問の時間に

「係維掃海の時、掃海具の切り離す機雷と掃海艇の距離はどれくらいですか」

と聞いたところ、本番もそんなに距離のあるものではないそうです。
いかに掃海艇といえども近くでワイヤを切り離すのは危険ではないのか、
と思っての質問でしたが、どうやらその心配はなさそうで、

「切り離した後は銃などで掃討して処理します」

ということでした。



なんか変なものが浮標の前に浮かんできたぞ。



これは、この図で言うところのOtterだと思われます。
オッターって・・・カワウソですよね?

ミカさんの知り合いのEODの自衛官はスキンヘッドで
(別件でこのブログに偶然登場したこともあり)

「ウェットスーツを着ていたらまるでカワウソ」

だということですが、なんたる偶然か。
じゃなくて、こちらのカワウソはどうも役目的に
カッターを水中に安定させるためのものではないかな?

海自の用語集によるとこれは「展開器」だそうですが、この役目はいわば
水中凧であり、曳航にともなって生じる水流を受けて揚力を発生することで、
掃海索をノの字型(片舷展開の場合)あるいは八の字型(両舷展開の場合)
に、左右数百メートルにわたって展開するためのものだそうです。




さて、係維掃海具の引き上げが次いで行われたのですが、

そこでまたわたしは件のおじさんの行動にイラつかされることになります。


続く! 

 


出港とレクチャー~MINEX・掃海隊機雷戦訓練@伊勢湾

2016-02-07 | 自衛隊

というわけで、時間厳守の自衛隊が

7:20~7:25 移動 場所*松阪港~桟橋 備考*徒歩 

と予定表に書いてある通り(笑)、きっちり7時20分になってから
一同は徒歩でフェンスのところから乗艦する「いずしま」に向かいました。
乗艦は7:30分で、これも1分の狂いもなく始まったのはさすがです。



ラッタルの前で乗艦を待つ人々。

本日参加の報道は20人強、わたしとミカさんは「一般人」枠での参加です。
報道にはわたしの「天敵」である地方紙のC紙やH紙、そうでもないY紙などで、
前回より場所が中央寄りであることから御大のAそしてM紙など、
どんな態度で臨み、どんな記事を書いてくれるのかある意味楽しみしていた
両紙からの参加がなかったのは(ネタ的にも)残念でした。

今検索したところ、「伊勢経済新聞」という地元の経済誌が
当日の訓練についてわりとしっかりした記事を書いていました。

伊勢湾で大規模機雷処理訓練

「海将補 岡浩さん」とか「ぶんご航海科の福江信弘さん」など、
自衛官に階級をつけない書き方は如何なものかとは思いましたが。


伊勢経済新聞の記事を読んでいただいてもおわかりのように、
今回の機雷戦訓練は10日間にわたって行われます。
この日の訓練はちょうど中盤にかかったころであり、いずれの訓練も
このころにメディアツァーを行うのかもしれないと思いました。

参加艦艇は全部で21隻、人員は約1,100名で前回より少しだけ小規模です。

掃海母艦は「ぶんご」だけ、掃海艇は全部で15隻。
掃海艦2隻、掃海管制艇2隻が参加艦艇の陣容であり、これに
ヘローキャスティングを行うMH-53E(機体番号29)が1機だけ参加します。


何度かご説明している通り、伊勢湾は掃海隊の定期訓練がこの時期に行われ、
それは陸奥湾(7月)、日向灘(11月下旬)とともに訓練機雷を使った訓練で、
実機雷を使った、つまり本当に機雷を掃討して爆破処理を行う訓練としては、
毎年6月の硫黄島の訓練が年1度行われています。 


それにしても、この4箇所の訓練海域を見て気付くのは、

伊勢湾(伊勢神宮のお膝元)
日向灘(海軍時発祥の地である美々津神社がある日向)
陸奥湾(霊場恐山を擁する下北半島から臨む湾) 
硫黄島(日米の激戦地であり未だ多くの魂が眠る)

と言った具合に、どれも霊的な因縁の深い地域であることです。
ここで行うことが長年の間に決まってきた経緯はわかりませんが、
決して偶然の結果ではないとも言い切れないものを感じます。



一旦食堂に案内された我々は、出港をごらんくださいということで
皆とりあえず艦橋に上りました。

「いずしま」はもちろん初めてです。
というか、前回の「えのしま」と比べてさらに艦内が狭いのに驚きました。



赤と青に別れたツートーンの艦長椅子。
「いずしま」の艇長は「えのしま」と同じく3佐が務めますが、
一般の自衛艦で「2佐」の印となっている赤青は、掃海艇・艦では3佐です。

他の掃海艇と同じく30名少々の乗員が乗り組んでおり、すべてを
この単位で行うので、まるで艇長を家長とする「一家」のような雰囲気です。
ある意味家族より一緒にいる時間が長く、お互いのことを知る間柄かもしれません。



本日この「いずしま」に座乗しメディアへの広報を務めるのは、
第1掃海隊司令、宇都宮俊哉2等海佐。
赤いストラップは掃海隊群においては司令官の印として2佐が着用します。


出港準備のときには司令も艦橋で作業を見守ります。

 

出港ラッパを吹く瞬間を撮るために、わたしはずっとここで彼の一挙一動を見張っていましたが、
なんか色々とあるらしく、ラッパを持っては戻し、吹きそうになってはやめ、
の繰り返しで一向にその瞬間がやってきませんでした。

出港の「今!」というのがどういう状態なのか、門外漢にはわかりませんが、
何かがどうかなって「今しかない」瞬間というのがどうもあるようでした。

出港ラッパ吹鳴のとき、ラッパ奏者は左手でマイクを吹き口に当てます。
手前で動画を撮っているのはミカさん。
この瞬間にこれほどこだわって撮っていたのはわたしたちだけでした。 



出港ラッパの後はするするといった感じで「いずしま」は岸壁から離れていきます。

「えのしま」との大きな違いは、全体的なサイズであり、この
後方を臨む眺めでありましょう。
「えのしま」は艦橋甲板から後ろがすとんと見えたものですが、
こちらは煙突が二本屹立していて、後ろの眺めはその間から確保します。

これ以前の掃海艇は掃海具を展張したりする関係で、船尾甲板に広さが要求されましたが、
本型では掃討重視の艇とされたため、そちらはあまり重視されなくなったのです。


上記の伊勢経済新聞の記者も書いていますが、
(多分この取材をしているときにわたしも近くにいて二人で話を聞いていた)
ペルシャ湾派遣において海上自衛隊の掃海部隊は大変評価されました。
以前当ブログの「ペルシャ湾の帽触れ」というエントリで書いたことがあるように、
他の国は小さな掃海艇は輸送してきていたのに、彼らは掃海艇で現地までいったのです。

「よくまあこんな小さな船でここまでやってきたな!」

海外の掃海部隊は一様にまずそれに驚きました。
そして戦後の朝鮮戦争のときに行った掃海技術を駆使して、難しい海域を
啓開した海自掃海部隊には惜しみない賞賛が各方面から上がったと言います。

しかしながら、当の海自部隊にとってはマンタ機雷などのステルス機雷は初体験で、
この対処に困難を極め、技術の立ち遅れを認識することになったのも事実でした。

この経験から、英国製の「サンダウン」型を土台に作り上げたのがこの
「すがしま」型掃海艇であったということです。

「サンダウン」級より排水量を大きくすることは許されなかったため、
居住性を確保する目的で船首楼の部分はかなり延長されているそうです。



この眺めは、二本煙突にすることによって艦橋からの視界を確保している
この「すがしま」型の特徴的なものだということができますが、
こうやってみると後方の眺めはともかく、肝心の左右の眺めが悪いですよね?

初めて採用された二本煙突ですが、運用されてからやはりそのような意見が出たため、
次世代の「ひらしま」型からは煙突は1本に戻されました。
 


出港と同時に信号旗が降ろされたり揚げられたりし、
乗員はきびきびと信号旗の紐を固定します。
これらすべて一瞬の間に行われ、多くない乗員が一人の無駄もなく
各自の持ち場を粛々と務める様子はいつ見ても感嘆するしかありません。

彼らにとってはルーチンですが、初めて見るものには全てが日頃の
たゆまぬ訓練の成果であると思えます。



出港した「いずしま」は灯台の立つ突堤の横を通過しました。
突堤の中も外も、まるで湖のような凪で海面には漣しか見えません。



「いずしま」と刻印された鐘。
時鐘は掃海艇でも時間ごとに鳴らされるのかもしれませんが、
前回、今回を通じて耳にすることは一度もありませんでした。
もしかしたら気がつかないだけだったのかもしれません。



出港後、第1掃海隊司令である宇都宮2佐が、取材・見学者に
船内の食堂で説明を行うので降りてくださいと促しました。



機雷戦訓練の概要においては、前回「えのしま」で受けたレクとほぼ同じですが、
今回説明に当たった宇都宮2佐も、実に軽妙に自分の言葉で語る方でした。
一般的に話のうまい人が多いイメージのある海自ですが、特にこの方は
ツボを得た喋りで、説明を受ける側の集中を途切れさせませんでした。

まずは今回の伊勢湾訓練が行われる訓練海面を地図上で示します。
訓練海域は3マイル ×6マイルなので大体5km×10kmの範囲でしょうか。

松阪港からは8マイル、つまり12キロで行動海面に達するので、
巡航速度が14ノットの「すがしま」型だと40分で到達することになります。


レクチャーは現行の掃海艇・掃海艦についての説明も行われましたが、
その中で面白いなと思ったのは、

「(えのしま型は)もはや大きさからいっても掃海”艇”というより”艦”ですが、 
まあいろいろと事情がありまして”艇”を名乗っております」

と言われたことでした。



ヤフーニュースの記事中、ペルシャ湾掃海についてこんな記事がありました。

第1掃海隊司令二等海佐の宇都宮俊哉さんは
「ペルシャ湾では最も困難だと言われ、どこの国もやりたがらなく
最後まで残っていたMDA-7とMDA-10の海域を難なく掃海した時には、
『お前らすごいな』と各国から言われた。
私たちの実力が認められ、隊員の自信にもつながったいい経験をすることができた」
と明かす。

ここで書かれている「MDA-7とMDA-10」の海域、というのは
上のレクチャー中に示された海図で濃いピンク色で示された部分です。


このことについて記者が宇都宮司令に質問に来ていた時、
わたしはたまたま真ん前におり話に参加させていただきました。

わたし「難しい海域とおっしゃいますがどう難しかったんですか」

司令「潮流がこの部分は大変早かったんです」

わたし「日本は派出が遅れて最後に到着したわけですが、その時には
各国の掃海隊は簡単なところをさっさと済ませて帰ってしまっていたんですね」

お節介かとは思いましたが、せっかくペルシャ湾掃海について興味を持ち
聞きに来ていた記者に補足させていただくつもりの発言でした。

 

映し出すスクリーンが歪んでいたのでこんな画像になりましたが、
こ れ が 昨年の平成26年9月、広島湾で見つかった魚雷です。
航空用魚雷なので、呉空襲の時に米軍艦載機から放たれたものかもしれません。



こちらは同年5月に行われた機雷処理。
山口県の山陽小野田市市埴生漁港沖で米国製機雷を処理した時の水柱です。
左下のバッテンは取り付けられた爆薬です。

今回の取材陣には女性が一人もいなかったせいか(笑)前回のような
空気読まない質問が出ることはなく、最前列で聞いていたわたしにも
宇都宮司令の言葉のたびに軽く「ほお!」とか感嘆詞があがるなどの様子で
取材していた人々が実に熱心な態度で臨んでいるのがよくわかりました。

記者の一人が、未だに機雷や魚雷が見つかっている原因を聞いていましたが、
ほとんどの機雷、魚雷は投下されてから長い間泥中に埋もれているのだけど、
時間が経って何かの原因で表面に現れてくることがあり、それで今でも
定期的に見つかって、このように掃海隊によって処理されているのです。


そして、こういう掃海活動を今日も行っている海上自衛隊掃海隊というのは
平和な日本で唯一現実に「戦い続けている」部隊でもあるのです。



続く。


 


MINEX(海上自衛隊掃海隊・機雷戦訓練)再び

2016-02-06 | 自衛隊

アメリカに行く直前にこれは発病したなと思ったとき、
アメリカに行くことより何より、心配したのがこちらでした。
そう、わたしは帰国して中2日の休み後、前回の日向灘に続き、またしても
掃海隊の訓練「MINEX」に同乗させていただくことになっていたのです。

帰ってきた夜は咳はもちろんのことまだ明らかに熱の残る状態で、
とにかく次の日は何もせず寝ていることに集中しました。
インフルエンザくらいでは医者はもちろん薬も飲まずに治す派なので、
まるで野生動物のようにひたすら寝てなんとか出発日を迎えます。


今回の掃海隊訓練は例年そうであるように、伊勢湾で行われました。

伊勢、と聞いた途端、それは久々に伊勢神宮にお参りせねば!と
わたしとTOの中で意見の一致を見たため、前日に到着して、一日、
伊勢神宮参拝を執り行いました。

また後日お伝えするつもりですが、伊勢神宮に造詣が深く、
お参りについての「作法」に詳しい現地の知り合いに連絡を取って
正しいお参りを伝授していただき参拝を敢行する、という
予定をがっつりと組み込むことになったため、何が何でも当日までに
わたしは元気になっておかなくてはならないのです。


正直前日と伊勢に向かう新幹線+近鉄の車内では心もとなく、

前日掃海隊訓練に行くことをご報告した関係者へのメールには
最後に「逝ってきます」とおもわず書いてしまうほど悲壮な気分でしたが、
やはり神に手を合わせ祈りを捧げるというのは不思議なもので、
お参りのために境内を約2時間強歩きまわっているうちに、
いつの間にか気分はすっかり良くなり、完治したと言える状況になりました。



当日朝、松阪駅の前に三重地本の車が迎えに来てくれるので、
ホテルは駅前のAUというビジネスホテルにしました。
前日夜はおなじみ掃海隊の「専属カメラマン」であるミカさんと、
ホテル最上階のレストラン(というより飲み屋さんみたいな)でご飯。

ホテルはビジネスと言いながら気を遣った作りで、ありがちな殺伐さもなく
ぐっすり眠ることができました。
駅前の集合時間に間に合うようにホテルの部屋を出ます。



朝日が昇ったばかりの松阪港には、すでに681の「すがしま」、
そして向こう側に我々が乗り込む「ししじま」がいます。

地本の車は港湾に巡らされたフェンスの外側に停められ、なぜか
そこから先に入る許可がもらえないので皆外側で全員揃うのを待ちました。

日向灘の時のように車で来ることを許されないのは、自衛隊と地元港湾との
話し合いの中で、許可されなかったということのようです。

日向灘は毎年11月末、伊勢湾は2月初旬、陸奥湾は7月、と
掃海部隊の訓練はだいたい定期的に場所も期間も決まっているのですが、
その時期になると自動的にいつ行ってもオーケー、ということではなく、
やはり毎回毎回、そのために掃海部隊は地元と交渉をし、どちらかというと

「許可をいただいて訓練海域を確保させてもらう」

という立場なのだと聞いたことがあります。
それもなんだかすっきりしない話で、アメリカ海軍は少なくともそんな苦労は
しなくてもすむんだろうなとやりきれない思いを持たざるを得ないわけですが、
とにかくそういう立場なので、訓練にまつわることで地元を怒らせたり、
迷惑をかけたり、ということは自衛隊としては避けたいことなのです。



しかし、この港で車両乗り入れ一切禁止、となってしまった経緯は、
やはりというかなんというか、かつて訓練取材のため乗り付けてきた報道の車が、
こういった
朝から(7時です)お仕事している港湾内の作業車の邪魔になるような
駐車をして地元を怒らせた、ということがあったとかなんとか。(噂です)


ちなみにこのドーザのおじちゃんはミカさんのお馴染みさんで、

このときも手を振ったら向こうから振り返してくれました。
どこにいっても気さくに声をかけ、仲良くなってしまう彼女の才能は
わたしには到底持ち合わせない天性のもので、 心底羨ましい限りです。



とにかくまあ、港湾内の立ち入りすら一般人の恣意的なものを許さない、
なんとかいう規則に則って皆はおとなしく柵の外で待っていたのですが、
やっぱりいるんだな。勝手に中に入り込んで写真撮る報道が。

同じホテルに泊まっていたらしく、ロビーで名簿のチェックをしていた
シュッとしたイケメンの広報幕僚が、彼らに

「まだ中に入るな」

と注意して外に連れ戻すためにわざわざ中に入っていきます。
まったく・・・・・、小学生じゃないんだから小学生じゃ。 



ほーら怒られた(笑)

しかしそれにもかかわらず、堂々と手前から中に入っていく人影あり。
まるで学級崩壊したクラスの小学生みたいです。
幕僚も諦めたのか呆れたのか、もう何も言いません。 

「ダメだって言われてる端からああやって入るとは・・」

「なかなかフリーダムですね」

わたしとミカさんがその人影を確認すると、このブログではすっかりお馴染み、
前回ヘローキャスティングにもっと近づけといってみたり、2時半には港に着けと
帰港時間を指示したり、その他にもいろいろ(怒)あったあのおじさんではないか。

あまり書くと参加者の少なさから特定されそうなんで書きませんが、
今回もねえ・・・いろいろあったんすよ。いろいろと(怒)



しかし、入るなと言われて連れ戻されている人がいるのに自分だけはオッケー、
とばかり堂々とやりたいことをやって憚らない、貴様一体何者?

ミカさんとわたしが朝っぱらから嫌な予感に暗い目を交わしていると、
フリーダム爺はまた別なるフリーダム爺を呼ぶもので、こんどは別爺が
ちょろちょろと埠頭に入っていくではありませんか。

「なんかあのおじさんも”本日の地雷”っぽいなあ」

機雷戦訓練だけに・・・誰がうまいこといえと。



連れ戻されている報道二人の後ろではラッタルの積み込みが始まっていました。
つまりこれからすぐに「すがしま」は出港するということなのです。



わたしとミカさんはフェンスの外から「すがしま」を撮りました。
出港準備の進む「すがしま」の後ろが朝焼けで染まっています。



朝焼けの松阪港、この辺にいる渡り鳥の(名前忘れた)大群が通り過ぎました。
それにしても、なんて穏やかな海なのでしょうか。

今回のMINEX、参加前にわたしは散々この訓練の過酷さについて脅かされていました。

「寒いなんてもんじゃない、船の上は北海道にいるより寒くて辛い」

その言葉に文字通り震え上がったわたしは、年末遭遇したエーグルのバーゲンで
膝丈のがっつりフード付きの防水ダウンコートと同色の防寒用スカートを
裏起毛付きのパンツと重ねて着用し、ロングブーツにニットのレッグウォーマー、
念のために無印良品で買った携帯用のダウンジャケットをコートの下に着込み、
まさに着ぶくれられる限り着ぶくれた、ふくら雀状態で(上記ホテルの鏡の写真)
なおかつ今回クパチーノのアップルに買い物に行った時に見つけた、
手編みのニットのスヌードを大小二枚重ね、手袋も二枚重ね、
風邪の病み上がりなのでマスクを着用という前代未聞の厚着で臨みました。

まあ確かにこの装備が功を奏したと言えなくもないですが、この朝の時点で
わたしはなんだか暖かいな、と感じていたのです。
こんな格好をしているから当然とはいえ、それはそうと風が全くないのはどういうこと?

「きょうはベタ凪らしいですよ」

ああそうですか。でも船が動けば風も吹くよね?

寒さをクリアしても
わたしにはもう一つ懸念材料がありました。
船酔いです。

前回は掃海母艦との間にラッタルをかけられないくらい海がうねって、
ついにわたしはライトに船酔いを体験したわけですが、
また酔って多少なりとも隊員の方々にご迷惑をかけるのではと心配したわたしは、

コメント欄で教えていただいた酔い止め薬を手に入れる暇がなかったので、
アメリカで「ホメオパシー」を謳ったシーシック・レメディを買ってきていました。

字が小さくて読むのがめんどうなので息子に読んでもらったところ、

「気分が悪くなったら飲むんだって」

「なってからじゃなくて、ならないようにしたいんだけど」

「無理。なってから飲んだら治るって書いてある」

いや、だから船酔いっていうのはなった時にはもう遅いのであって(怒)
薬を飲もうとする前に多分中からいろいろ出てきちゃうんですけど。

「急いで飲めば押し戻せるんじゃね?」

それは嫌だ(笑)

それにしても、なんなのか。ホメオパシー。
わたしは「プラシーボ効果」と同義みたいに思っていたフシもあるのですが、
なってから飲む薬のプラシーボ効果って、まったく意味なくない?

とりあえず、ぎりぎりまで不精したためアメリカの自然食品店で
船酔いの薬を買うしかなかった自分を叱ってやりたい。



ところで、掃海艇の船酔いというのは海自隊員の中でも有名みたいですね。

掃海隊経験者のこの某掲示板での告白が、その凄さを物語っています。


あのー掃海艇経験者ですが、ガブッた時はハンパじゃありません。 

護衛艦の大きさで揺れが違うとか言われてますけど 
掃海艇の揺れは次元が違います。 
正面から大波食らうと、掃海艇は宙に浮くんです!! 
「フワッ・・・ドッス~ンメリメリメリ!!!」 
と船体はキシみまくり、身体も何かに捕まってないと床や構造物に打ち付けられて 
非常に危険です。 

私は吐きそうになり居住区からラッタルを上がって便所に駆け込もうとしたのですが 

その時も、ラッタルに手を掛けた瞬間波に乗り上げ、 
身体ごと床に抑え付けられたかと思うと船体が波の谷間に落ち、身体は宙に浮いて 
上層の食堂へ自然に上がった事がありました。 
あまり信じてもらえないでしょうが、本当にジェットコースター気分を 
一晩中味わいました。 

ちくごクラスにも乗った事あるけど、小さくても護衛艦と言うだけあって 

20度以上のロールでもそんなに気になりませんでした。 
ゆきクラスなんか常にフラットで天国でした。 
オレみたいに小さいフネからデカイフネへ順番に転勤して行くと 
身体もラクで良いけど、逆パターンは 体力的、精神的にもかなりシンドイと思われます。 



まあ、こんなコンディションの時に報道関係者のツァーは行わないでしょうが(笑)

とにかく、早朝のこの暖かさ、ベタ凪の噂。
心配するだけしながら臨んだ当日ですが、どうやらどちらも大したことなさそうです。

もしかしたら前日のお伊勢参りのご利益かな?
とチラッと思ったのですが、前日の「伝道師」は、

「神様に参るというのは自己の利益を求めるためにではありません。
自分の道を間違わないように自然の導きを心の声に聴くためです」

とおっしゃっていたっけ。



さて、ようやく中に入って乗艦することになりました。
柵の中に入るのを許された時、ちょうど「すがしま」が出港です。

写真を撮るために一直線に走っていくミカさんの勇姿(右端)



美しい・・・。

「すがしま」は「すがしま」型の1番艦。


竣工が1999年で17年経っているのですが、やはり木でできた掃海艇は
ライフサイクルが20年くらいなので、もうしばらくしたら1番艦から
退役していくのかもしれません。

「えのしま」などのFRP素材だと、寿命は30年くらいに伸びるそうです。


さて、乗艦が始まりました。


続く。 



 


女流飛行家列伝~デル・ヒン「親娘パイロット三代」

2016-02-05 | 飛行家列伝

母から娘へ、娘から孫へ・・・・・。

と言えば、まるでパールのネックレスか日本なら着物を想像しますが、
西海岸の女流飛行家デル・ヒンが伝えたのは

「空を飛ぶ喜び」

でした。
1946年、戦後飛ぶことを始めたデルは、1996年、飛行家人生の
50周年記念を迎えます。
この間彼女は飛行家として

パウダー・パフ・ダービーに出場

飛行教官として何百人もの生徒を教える

二人の州議会議員のパイロットを務める

など、商業パイロットとして順調なキャリアを積んできました。
レースに出場して上位賞を狙ったり、ましてやアクロバット飛行をして
ショウに出る、
というようなタイプの飛行家ではありませんが、
堅実に50年間というもの、
事故を起こすこともなく空を飛び続けたわけです。

飛行機を操縦する人口の多いアメリカでは、
特に傑出したエピソードがあるわけでもありません。
ただ、長いパイロット人生、こんなフライトもありました。



一度、彼女はモントレー郡の保安局パイロットの代行で、
サリナスからオハイオまで、
つまり西海岸から東海岸まで
女囚を移送する仕事を引き受けました。


大陸横断は、ジェット機によるボストン―サンフランシスコ間所用時間は
現在民間機でだいたい5時間40分。
国際線ほどではありませんが、決して短い距離ではありません。
何しろアメリカは大きいですから、国内で三カ所の時差変更があるのです。

わたしも毎年東海岸から西に向かうと、たとえファーストでも、
(ユナイテッドなどにはビジネスがなくファーストかエコノミー、そしてエコノミープラス)
食べ物のまずさと居住性の悪さについたときには疲労困憊してしまいます。


女囚たちは移送ですから、手錠をしたまま乗り込んできます。
もちろん引率の女性警官はついていたでしょうが、
こんなに長い時間、手錠をしているとはいえ囚人ばかりの乗客を乗せて、
万が一の事態が起これば、
ニコラス・ケイジの映画「コン・エアー」の再現です。


「コン・エアー」は1997年作品ですから、こちらの方が後なのですが。

ちなみに、以前「コンエアー」は、S-2の派生型、カナダのコンエアー社が開発した
「コンエアー」(ファイアーキャット)のことなのか?
と、何も調べずにどこかに書いたことがあるのですが、 違いました。

コンエアー、というのは、実在する
アメリカ連邦保安局の空輸隊の名称なのです。


コン、って、英語では「詐欺」とか「騙す」とか、そういう職業?
の人間のことなんですが、
この意味なんですかね。
直訳すれば「空気詐欺」とか「空だまし」とか?

いや、やっぱり「convoy」(護送するの意)の「con」かな。


この「コンエアー」部隊で使用されているのは専用輸送機の

C-123K

おそらくデルが操縦したのも、この飛行機であったと思われます。

専用機ですから、新幹線で犯人を移送する「新幹線大爆発」のように、
手錠でずっとケイジと、じゃなくて刑事と犯人が手をつないでいる、
ということはなく、
ちゃんと「囚人専用機」として、
がっつりコクピットは客室(客じゃないけど)
と隔離されているはずです。

まあでも、怖いですよね。堅気の女性なら(笑)

コンエアーのパイロットがすべてそうであるように、
彼女にもこのとき銃を持つことが認められており、それを勧められました。
しかし、彼女は銃の保持
を断ったそうです。


もしかしたら単に銃が使えなかっただけなのかもしれませんが、
飾りにしても、とりあえず
持っていることで、囚人たちにたいする
「アピール」になるのは確かですから、
堅気の女性であれば、
一応は持っておこうとするかもしれません。


彼女が銃を持たなかったのは、逆に「あなたたちを信用している」
ということを彼女らの良心に訴えるつもりがあったと思われます。

しかも6時間弱の長いフライトの間、彼女は1時間半だけとはいえ、
全員の手錠を外させ、彼女らにそのときスナックとお茶の
「機内サービス」を行ったそうです。


このスナックがなんだったかなのですが、
snickerdoodle というシナモン味のシュガークッキーでした。
お茶は、おそらくアメリカ人なので、全員選択の余地なくコーヒーだったと思われます。


さて、1929年に行われた女性ばかりの長距離飛行レース、
「パウダー・パフ・ダービー」については、
これまでこのシリーズで何度もお話ししてきました。
このレースは、戦後、1947年にかつてのレースをトリビュートして再開されます。
再開に際してもっとも中心になったのは、あのジャクリーヌ・コクランでした。

デルは1955年、このパウダーパフ・ダービーに、
娘のキャロルと共に出場しました。

娘は母の飛ぶ姿を見て同じように飛行家を目指したということです。
もしかしたら、母親自身が教えたのかもしれません。


お子さんをお持ちの方はよく御存じだと思うのですが、
子供というのは必ずしも親のやっていることを
そのまま踏襲しようとはしないものです。

息子を二代目にしようとして腐心している会社の経営者を
わたしは一人ならず知っていますし、

せっかく開業した医院や弁護士事務所も、
子が後を継いでくれなくて困っているという話もしょっちゅう見聞きします。


卑近な例で言うと、わたしの母は華道の師範の資格を持っていますが、
小さい時から彼女が花を活けているのを毎日のように見ていながら、
わたし自身(わたしの姉妹も)、一度たりとも
その世界に興味を持ったことは無く、いまだに何の知識もありません。

お宅はお嬢さんがおられるから、あなたは教えがいがあっていいわねえ」

などという話が華道仲間から出ると、母はいつも恐縮するように

「いいえ、誰も興味すら持ってくれないの」

と言うのが常だったということです。(ごめんねお母さん)


そして親の因果が子に報い、わたしの息子も、わたしが弾けるのだから
当然のように弾けるだろうと習わせたピアノは嫌がってすぐやめてしまい、
別の楽器(チェロとドラム)に行ってしまいました。

ですから、このように、娘が母親のすることを同じようにするどころか、
その娘、つまり孫娘も、同じ道を選んだというこのHIN家の女たちは、
むしろ世間的に稀少と言ってもいいのではないかと思われます。


冒頭画像は、おばあちゃまと一緒に愛機の手入れをする、孫娘ゲイル。
彼女と祖母は、彼女の母と祖母がともに飛んだパウダーパフ・ダービーの
ちょうど20年後の1975年、二人でまたしてもこのパウダーパフに出場しています。


このパウダーパフですが、1977年に、コスト、保険料の高騰、
そして何よりスポンサー企業が減少したため終了し、
19年の歴史を閉じました。

しかし、女性だけの飛行レースはその後エアレースクラシックにひきつがれています。


ゲイルにその後娘が生まれ、彼女がひいおばあちゃんとこのエアレースを飛んだ、
という話は今のところ伝わっていませんが、可能性は十分にありそうです。




ところで、こんなアメリカという国、旅客機のパイロットに女性は普通にいます。

先日のアメリカ行きから羽田に帰ってきた時、わたしの横をユナイテッドの
(ということはわたしが乗ってきた飛行機がそうだったのか?)機長と、
女性のクルーがカートを引っ張って通り過ぎました。

はて、機長とフライトアテンダントがこんな風に並んで歩くだろうか、
と思ったとき、彼女の制服の袖に金の線が4本入っているのに気付きました。
4本線、つまり彼女も機長職ということになります。

確か我々の飛行機は男性パイロットがアナウンスしていたので、
機長が二人のシフト、いわゆるダブルパイロットというやつだったんでしょうか。

機長が二人で飛ぶというのは、一般的にどちらかが PIC(第一指揮順位機長)で、

①新しい路線を飛ぶための訓練をする場合
②機長が査察操縦士から定期審査を受ける場合
③機長が余って副操縦士が足りない場合
④長距離線で機長2名と副操縦士1名の組み合わせで交代しながら飛ぶ場合

のどれかである、(ヤフー知恵袋の回答による)ということですが、
どちらにしてもこのスカートの制服を着た女性が機長であるというのは
さすがはアメリカだなあとわたしは感嘆の目つきで彼女の後ろ姿を見送りました。 



 


 


アメリカで寝てきた

2016-02-04 | アメリカ

といっても差し支えないくらい、今回の滞在は悲惨でした。
そもそも渡米直前にディズニーランドで風邪をもらい(この風邪も
目の前を通った子供が口を覆わずに嫌な咳をした瞬間、あ、今うつったな、
とはっきり分かった)、それが発病したのが出発前日。
明らかに高熱が(しかも計らなかったけど38度以上)出ているのに
よりによってユナイテッドのプラスクラスとはいえエコノミー、
夜中の12時過ぎに出発という踏んだり蹴ったりな旅程です。

そもそもマイレージ特典の期限が近づいていて使うためというのが目的の一つ。
1月中に使わないと西海岸2往復分が失効してしまうと思っていたので、 
ここしかないという日にわたし一人で渡航する予定を立てたのですが、
後から考えたらマイレージを購入でもすれば期限は伸ばせたのよね・・・。


まあ、行くなら行くで用事もあることだし、程度の理由だったので、
この体調不良は気は楽だったけどとにかく堪えました。



サンフランシスコ空港から車で10分くらいにあるマリオット系のチェーンホテルで、
ベッドはキング、部屋はリクエストで一階にしてもらいました。
多少なりともまともなホテルで良かったと思ったのは、ベッドのシーツが良かったことです。

特に着いてすぐの夕方から翌日の夕方4時まで、ほとんどをこのベッドの上で
わりと苦しみながら寝たり起きたりを繰り返していた病人にとっては、
シーツが安いホテルのザラザラしたものでない、エジプト綿のツルツルであっただけで
この綿の肌触りには救われたという感じでした。

少し元気になってからは、当ブログに上げるためのエントリを添削しながら
テレビを見ていましたが、前回にはなかった新番組もできていました。
やはりサバイバルものですが、全裸の男女では冬場に見たくないという声でもあるのか、
三人の太った男がインストラクターと一緒に限界にチャレンジするというものです。
(誰得)



元気になってから、ホテルにちゃんとしたレストランがあることに気づき、
夕ご飯を食べに来てみました。
まだ5時でオープンしたばかりなのでわたししかいません。
テレビではウィンタースポーツの放映をしていましたが、



合間にアメリカ海軍のかっこいいコマーシャルをガンガンやっていました。
テレビで自衛隊の宣伝ができるようになって初めて普通の国よねえ、
とこんな広告をみながらわたしは思うのでした。

ところでこの地図って、日本が完璧に字の影に・・・(怒)



こんなものしか食欲がわかなかった、チャイニーズチキンサラダ。
こちらで言う所のこれとは、甘い酢のようなドレッシングがかかった
チキンサラダのことで、必ずナッツや揚げた「揚げ」などのパリパリする
ものが歯ごたえのために混入している、という代物です。

他に何も食べていなかったのでゆっくり咀嚼しながらそれでも4分の3は食べました。
(だいたいアメリカで出てくるものをわたしは全部食べられた試しがない)
決しておいしいとは言えませんでしたが、体力をつけるためには食べなくては。

三人の太った男のサバイバルで、インストラクターに言われて体力温存のために
無理やり虫を食べさせられて

「うええええ!これまずい!ゲロマズ!」

と唸っていたおっさんの姿がなぜか浮かびました。



今回はレンタカーにもトラブルがありました。
着いてみると予約しておいたはずの車、ありません。
あとからわかったのですが、夜中の12時過ぎに出発してアメリカ時間の前日夕方到着、
という変則便だったため、TOがレンタカーの予約をカード会社に頼む際、
間違って1日あとを予約してしまったのです。

「明日の夕方からなら車借りられますが」

とデスクは言うのですが、この体の状態で明日生きていられるかどうかもわからないのに
わざわざタクシーで車を借りに来れるかどうかさらに自信がありません。
しかも、今日借りられるクラブメンバー枠の車はもうない、と係はぬかしやがります。

背に腹は変えられん!と割引のない車を借りて、次の日、熱をおして
もともとの予約の車に交換に来ました。

長くもない滞在でまったくなにやってんだか。



しかも翌日からずっと雨の降りっぱなし。
夏の間の記憶しかもはやない息子に雨だったというと「へえ!」と
驚いたくらい、夏の間雨の降らないのがカリフォルニアですが、
この時期は雨期でもあるので、結構な確率で雨に遭遇します。
サンフランシスコに住んでいたある年のクリスマスには、
すごい大雨の上台風が来て街路樹が倒れたこともあります。

とにかく、寝ているばかりで日程が終わってしまっては死んでも死にきれないので、
わたしは3日目にして初めて外に出ました。
これも目的の一つである、友人の店に行くためです。

彼女はわたしが日本に帰ってから知り合うようになったコンサイメントショップの
オーナーで、去年の夏行くと、

「来年の3月にはリタイアしてフロリダに行くからこれでお別れね」

と言っていました。
そのときはグッドラック、といって別れを惜しんだのですが、メールが来ていたので
リタイア前に買い物に行ってあげたらさぞ喜ぶだろうな、
と思いついたのが、今回の旅行のもう一つの理由になりました。

電話もメールもせずいきなり現れたわたしに、彼女は驚きながら喜んでくれました。



「かぜなの?辛そうね」

うつしてはいけないと直前にドラッグストアにマスクを買いに行くと、
この50枚入りの大箱しか売っていませんでしたが、(これがアメリカ)
とにかくマスクをして入店すると、

「いい心がけね。みんな風邪ひいてるけどマスクしないの」

確かに店内で盛大に咳をしているひとがいる・・・(−_−#)
しかし日本人と違ってアメリカ人はほんとマスクしませんな。
もしディズニーでもらっていなかったとしても、彼女の店でうつってたと思う。

最後のご祝儀買い物という意味もあって、わたしが最後に選んだのは
新品のヴィトンのヴェルニ、シャネルのジャケット、ロロピアーナのワンピース。



旅行鞄以外のモノグラムのバッグは好きではないので一つも持っていませんが、
このヴェルニタイプならエンボスだけで色は単色。
深い深いバーガンディが最近のわたしの「トレンド」なのでピンときました。
今までに彼女から買った幾つかの洋服やバッグとともに、これからも
彼女の思い出となってわたしと一緒に年を取ってくれるでしょう。

ところで、この店では買い物しながらあれこれとおしゃべりするのが楽しかったのですが、
今回わたしは気になっていたことをアメリカ人の代表として彼女に聞いてみました。

「ねえ、ちょっと聞きたいんだけど、アメリカ人ってドナルド・トランプの事どう思ってるの?」

「トランプ?」

彼女は肩を震わせてイヤイヤをするような仕草をしながら「Ewwww!」と叫び、

「嫌だわ。大っ嫌いだわ。この辺の(サンフランシスコ市内)人だって
誰も支持してないのに、一体アメリカ人の誰が支持してるのかさえわからない」

「実際誰が支持してんだろう」

「そりゃ、頭の悪い人たちとか黒人やヒスパニックじゃない?」

「でも移民反対してなかった?」

「これから入ってくるのはね。今いるのはもう関係ないし」

まったく話に加わっていなかった他のお客さんも怒り出しました。

「本当にあれがアメリカの次の大統領になったらアメリカはもう終わるわ。
だいたいねえ、あのヘアがキモいのよ!!!」

予想通りの返事です。

「日本では、もしあれが大統領になるようならアメリカ人はバカだなって言ってるよ」

「そうでしょ?ああなんとかしてやめさせたい。
つい昨日もね、サラ・ペイリンとのディベートから逃げたのよ。勝てないから」

「ヒラリーはどう?」

「もちろんトランプよりはマシだし、頭もいいけど、あの女は嫌い。
あれが知り合いだったらできるだけ口聞きたくないレベル」

そういえば車のステッカーに

「もし妻がヒラリーだったら俺だってクリントンと同じ事をする」

と書かれていたのを見た事があるなあ。
いわゆる悪妻の見本ってやつですか。

しかし、トランプはきっといろいろとスキャンダルもあるはずなのにまったくそれが
出てこないのは不思議なくらいで、つまりメディアの応援も、得体の知れない支持層も、
すべてお金を持っているから、と皆は諦めているということみたいです。

いいのか。そんなやつが大統領になって。




今日は帰る、という日、サンフランシスコは素晴らしいサンフランシスコ晴れでした。
初めて室内プール付きのこんな庭のあるホテルであることを知るわたし。



目的のもう一つ、改装相成ったアップルストア(本社)に行ってTシャツを買う。

前日「明日息子に頼まれているのでアップルのシャツ買いに行くんだ」
というと、彼女が

「あーわかる、わたしも頼まれるのよねー。
ただのTシャツなんだけどなんで?っていうんだけど、なんかみんな欲しがるの」

まあ、世界のどこにもアップルストアはありますが、Tシャツを売っているのが
世の中でここだけだからでしょうな。



一昨年前までの方がサイズもデザインにもバリエーションがあったのに・・・。
各Tシャツの背中には「ワン・インフィニティドライブ」の住所入りです。



グッズももっといろいろ面白いものがたくさんあったのに、改装後は
ほとんどなくなってしまって、一体何のためだったのか・・・。



アップルの改装には少しがっかりしてしまいました。
今回、わたしがいた頃にはスーパーボウルが行われていたようです。



少し早めに空港に着きました。
チェックインゲートの前のコーナーでは、日本の民芸品を展示してありました。
元気なら見て回りたかったのですが・・・。



招き猫が「Beckoning Cats」であることを初めて知ったサンフランシスコ空港。



今回の目的の(なんだかいろいろと目的があったのね)もうひとつ、
サンフランシスコ空港に新しくできていたカードラウンジに行ってみること。
今回のように病気にもかかわらずクラスラウンジが使えないというときも、
とりあえずここさえあればある程度の食事と休憩場所が得られるので貴重です。

 

ターミナル3という国内線にあると聞いていたのでどう行くのか謎でしたが、
チェックインの時にカウンターの親切な黒人のお兄さんに聞いたところ、
インターナショナルGとターミナル3は廊下で繋がっていると教えてくれました。

「あのラウンジはとてもいいよ!楽しめると思う」



受付ではカードを見せるだけで、アメリカでは信じられないくらい丁寧に

「いつも当社のご利用ありがとうございます」

と三つ指付かんばかりのにこやかさでお迎えいただき(笑)、
お酒ならシャンペンでもなんでもお好きなだけお楽しみいただけますし、
WiFiはお使いになりますか?でしたらパスワードはこちらです、と
至れり尽くせりの(アメリカにしては)サービスの良さ。



さすがに寿司職人はいなかったけど、いつも温かいスープやキリッと冷えたサラダが食べられると。



スープはとても美味しかったですが、他のものはこれも「アメリカにしては」
という注釈付きのお味でした。



トイレタリーはTOTOだ!
これは褒めてつかわす。



もっと早く来てここにずっといてもよかったかな、というくらい居心地は良かったです。
ちなみに窓ガラスの下は第3ターミナル。



壁にはトニー・ベネットの録音の時のフォトが飾ってありました。
何の録音かって? もちろん!

「I Left My Heart In San Francisco 」



さようなら、サンフランシスコ。またすぐ帰ってくるよ。
今度はもう少しマシな状態で(笑)


 


「いずも」に乗った日

2016-02-02 | 自衛隊


思いがけないご縁のおかげで、話題のDDH、「いずも」の就役・引渡し式に
出席し、その海自艦としての旅立ちを見届けたわたしですが、
今回ふとしたことで中に足を踏み入れることに成功しました。

ただし、ただしです(笑)

今回は一般公開などという開かれた機会とは関係なく、
用事で中に入る人にくっついて行って、ついでに艦長にご挨拶させていただいた、
というゲリラ的訪問だったので、内部の写真などは何もありません。

遡ることその前日、わたしは今になって去年のイベント参加を取り計らっていただいた
ある方に、そのお礼のお土産を渡すために会って会話をしておりました。

その会話中、たまたまその何日か前に見たニュース、

「いずも」の艦長からRR艦長にだるまのプレゼント」

というツィッターを受けて報じられた写真を見たことを思い出し、
吉野艦長をご存知であるその方に報告するためにその話をしたところ、

「明日いずも行きますので来られますか?」

というお誘い。
その方が用事で「いずも」に行くことが、その次の日に決まっていたというのです。
だるま贈呈の話をわたしが思い出さなければ、その方も次の日に
「いずも」に乗ることを思い出すこともなく、つまりこんな機会はこなかったでしょう。

わたしはつくづく自分のこういうことに対してだけ妙に嗅覚の利く体質と、
この偶然と、そして人脈ともちろんこの方に、感謝したのでありました。



次の日、車で行くことも見越して早めに出たため、1時間前についてしまいました。
車を道沿いのコインパーキングに駐めていつものスターバックスで待機。
もうすっかりおなじみになったスターバックスからの眺めですが、
最初に来た時にはそれは感激したものですよ。

今は、お、前に「ひゅうが」の定位置だったところが今は「いずも」なんだな、
などとちょっとした変化がわかるようになって、少し嬉しい。



季節が冬なのであまりゴミが吹き溜まっていない季節とはいえ、やはりよくよく見ると
いろいろと打ち上げられているのだった。

水際ではせっせとカモさんが羽繕いしています。

「いずも」へは横須賀駅で待ち合わせてから行く約束になっています。
ゆっくり港を見ながら歩いて行くことにしました。



いつもの海自潜水艦が繋留されている米軍側のドックには
「おやしお」型の潜水艦がいました。



ちょうどその対岸に当たるところに、現在のドックの位置を示した写真が。
昔米軍基地見学ツァーを終えてから、かなりこのドックについては
説明するために勉強しました。

まだ慶応年間に我が日本では最初のドライドックを持っていたということがわかり、
驚かされた記憶があります。

慶応三年のドライドック

上のエントリによると(笑)、この三つのドックのできた順番は
第1(1871年)、第3(1874年)、第2(1884年)となっており、
できた順番ではなく、場所で番号を割り振っています。




現在と比べると他の建物がないためまるで生け簀のような状態に見えますが、
右側が第1ドックで、どちらも現在入渠中の写真です。



俯瞰で見た第1、第2ドックの写真もパネルに掲載されていました。
上のエントリにもありますが、第1ドックの建設に大きく関わったのが
この公園に名前を残している若きフランス人技師、ヴェルニーで、関東大震災のとき
ドックがびくともしなかったのも、彼の仕事が確かだったからということです。

誠実に事業にあたり、外部の雑音に一切耳を貸さずに業者を選定したことが
150年にわたっていまだに現役であるドックの完成を実現させました。




横須賀軍港巡りの土産物屋さんでも買えるこの古地図、横須賀港のかつての姿です。
ちゃんと三つのドライドックも描かれていますね。

昔、ヴェルニー公園の対岸には、のちの横須賀造船所、横須賀製鉄所がありました。
慶応元年に鍬入れ式が行われてから、次々と施設が付加されていき、
横須賀の町とともにこの地域は一台工業地帯として発展していくことになります。

この工場は日本の工業の先駆けにおいてモデルケースとなり、ここで
近代工業の基礎だけでなく、例えば日曜休日制や労働時間の決まり、
メートル法、集団検診など、近代化のさまざまな「初めて」が形となりました。

この絵は明治14年に発行された当時の横須賀の地図で、これ自体が印刷されて
お土産になっていたといいますから(つまり今と同じ)進んでますね。



艦番号63の「ステザム」さんが係留中。
アーレイバーク級のミサイル駆逐艦ですが、そういえば姉妹艦の
艦番号89、「マスティン」には観艦式に参加していただきました。
操舵も危なっかしい韓国の駆逐艦のうしろをがっつりと固め、
遅れないようにおらおらと煽って進ませてくれてご苦労様なことでした。
(わたしがいったんじゃありませんよ?)

そういえばここはいつも「マスティン」さんの定位置だと思っていましたが、
いつも同じところに泊めるとは限らないようです。



これは曳船ですが、どうも日本の曳船ではないみたい。
一応共同運行なので、曳船も共用ということが多いとは思うものの、
やはりあちらは「ロナルド・レーガン」なんかの超弩級の出入港など、
他所には決して任せられない!という部分はかなりあるのに違いありません。
 


ああ、10月の観艦式の時、3回のうち2回はここから出航したのだわ。
防衛団体の賀詞交換会でお会いした防衛省の情報にお勤めの制服の方は、
わたしが「3回行った」というのは、「通算3回行った」という意味だと思っていて、

「1回目はむらさめ、2回目はあたご、3回目は・・」

と話し出すと、

「え、それはもしかして今年の観艦式のことですか?」

とえらいこと驚かれてしまいました。
全日行った人は少なくともわたしが知ってるだけであと3人はいましたが何か。

とにかくここには今「きりしま」がいます。

ところで本ブログのプロフィールが「174」の「きりしま」だと思っておられる方、

こちらは読者のmizukiさんがプレゼントしてくれたもので、 
よく見ると艦番号は「1.74」、「きりしま」ではなく実は「ちびしま」なのです。
念のため。



そんなことは今はよろしい(笑)
待ち合わせは横須賀駅前、相手の方は着くなりスカレー君を激写。
ついでにわたしも撮ってみました。



気になっていた、スカレーが捧げ持つカレーも激写。
これ、ものすごくちゃんとしてませんか?
まるでロウのサンプルみたい。
長年ささげ持たれているせいで埃がたまり、ご飯が黒ずんでいる以外は
ちゃんとビーフカレー(じゃがいも入り)であることまでわかります。


さて、スカレーの撮影を終わり、二人で門の中に入りました。



入る直前にヴェルニー公園の端っこから撮った写真がこれ。



門を入ってから柵の合間からもう一度「いずも」の姿を一枚撮って、警衛に向かうと、
入場のための手続きをする前に、海自迷彩の警衛隊員が近づいてきて、

「先ほどそこから写真を撮っておられましたが」

えっ?(ドキドキ)

「門を入ってからは写真撮影禁止なので撮らないでください」

ヽ(`Д´)ノ ウワァァァン!! だめだったんかい!

まあ、一般公開でもない平常営業?日だったんで、当然ですか。

連れの方はというと、警衛の窓口に手続きの紙を書いてわたしたあと、

「これ持っててください」

と言われたのをそのままカウンターに置いていたところ、

「これ持っててくださいって言ったでしょ?風で飛ぶんですよ」

とおじさんに叱責されておられます。
うーん、一般公開の時のあの、誰でも来るものは拒まず、
私たちに何でも聞いてください、のウェルカムでフレンドリーな顔とは
若干様子の違う自衛隊のそっけない一面を見た気がしますな。

とは言うても警衛の受け付けは自衛隊でなく警備会社社員だったんですけどね。
しかもこちらは防衛団体の視察でも偉い人のお招きというわけでもなく、
名義上は「いずも」艦内の部との打ち合わせ?というか商談?というか。

警備会社の係がぞんざいに対応してもまあ、当然ってこった。


桜のマークの付いた黒い車で送ってもらったり、赤いリボンをつけていたり、
一般公開以外ではそんな訪問ばかりをしていて、自衛隊という組織の一面しか知らない
わたしにとって、ある意味「普通」を知る上で大変興味深いものでありました。


というわけで、一切の写真を禁じられてしまったわたしは、同行の方の

所用のためにまずは担当部署に行くことになりました。

あの日、磯子の造船会社でその真ん前に立ち、皆の乗艦を見送った、まさにその
同じハッチから入っていくと、そこから艦内をまた何段も上へ上へと登っていく
あの懐かしい苦行を経て、士官食堂に通されました。

その方の用事が終わるか終わらない頃・・・・・、
「いずも」艦長キタワァ.*・゜゜・*:.。..。.:*・゜(n‘∀‘)η゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*!!!!!☆



〜会見終了〜




終わって埠頭を歩いている時、


「なんか・・・表沙汰にはできない話ばかりでしたね」

と思わず呟いてしまうほど、その話の中身は「うちわ」でした。
人事であの人がどうなったとか今あそこの船がどうなっているとか、
今となってはわたしにもわりと理解できるレベルの話ではありましたが、 
とにかく特定ではないにしろ、守秘義務のないわたしでも他言無用な話ばかり。 

かろうじて、部屋の隅にあっただるまの話題から、わたしがここにくる

きっかけとなった「ロナルド・レーガン」の艦長と吉野艦長のニュースが
話題になったことくらいかな。ここで書けるのは。

「面白いおじさんでしたよ〜」

吉野艦長はそういってボルト大佐のカタカナ表記の名刺を見せてくれました。
クリス・ボルト大佐は、アメリカ海軍の空母艦長の他の例に漏れず航空出身、
EC-2ホークアイのパイロットをしていました。
艦長の話によると、ボルト大佐、元々はアストロノー志望だったそうです。

アポロ計画の昔から海軍のパイロットが宇宙飛行士になる例はいくつもあって、
それを目指すために海軍に入るという道もあるということなんですね。

いろいろあってそれは実現しなかったボルト大佐ですが、今は

 

「でもそのかわりにこんな大きな船の艦長になれたからいいもーん」(曲訳)

と豪語して現在の空母艦長という職に満足しておられるようです。
めでたい。 

士官食堂のテーブルに座って話をしている時、ちょうど艦内に
自衛艦旗降納のためのラッパが響きました。

「今でも現役ですね」

吉野艦長が笑いを含んで指摘したのでわたしは初めて気がついたのですが、
隣の同行の方は、椅子に座ったまま姿勢を正しておられました(笑)
(かつての士官である)

歩くのが早いとか、海軍5分前を旨とするとか、アイロンがけとか、
いろいろと身にしみついてしまったかつての習慣の一つなのでしょうか。
海自に一度でも身を置いたことのある人には、このラッパが吹鳴されるとき、
少なくとも背中を丸めていることはできないらしいと言うことがわかりました。



さて、艦長にお暇を告げ、出口まで送っていただいたのですが、
帰りはハッチとは違う「偉い人専用階段」から降りることになりました。
ここが「正門」にあたるので、表札に当たる艦名の書かれた看板があります。

「いせ」の看板が伊勢神宮の式年遷宮のおさがりを使ったものであるように、
ここの看板も当然のように2013年に式年遷宮された出雲大社のお下がりです。
式年遷宮と「いずも」の進水式はほぼ同じ時期だったということなんですね。
つまり、このころからこの年に進水する新鋭艦の名前は決まったのだろうと思いました。

「いずも」の文字も出雲大社の宮司の筆によるものだと聞きました。




ヤマタノオロチの剣をあしらった「いずも」のマークの横には、
初代「出雲」と現在の「いずも」が描かれた比較図があります。

「出雲」の戦没年を見てもしやと思ったのですが、やはり「出雲」は
昭和20年7月24日の呉空襲で、米軍艦載機の攻撃により着底していました。
「出雲」というと、日露戦争であの上村彦之氶将軍が乗った船で、蒜山沖海戦では
沈没した敵艦のリューリックの乗員を救ったことで有名だった船です。

 



上でクリス・ボルト大佐のプロフィールを開けてみた方は、この写真との
ある共通点に気がつかれませんか?
そう、右に行くほどだんだんわかりにくくなっていますが「ス マ イ ル」です。

なんでも、この写真を撮る時に、三役?の写真はアメリカ海軍のように
スマイルで撮ることにしよう、ということになったのだそうです。
さすがに本格的に歯を見せてはいませんが(ハルゼー除き米海軍は歯見せが基本)。
 

 


ここまでご案内くださったのはもしかしたら真ん中の副長さんだったかもしれません。
写真を撮る時間も待っていただき、さらには

「わたし!引き渡し式の時にハッチの前で見送らせていただきまして!」

と全く意味のない自己アピールを聞いていただいてありがとうございました。
おまけに、偉い人専用階段から我々が降りる時には、そこにいた全員が
びしい!と敬礼で見送ってくださって・・・・。

基地隊の入り口での普通扱いもそれはそれで新鮮でしたが、肝心の「いずも」の方々に
最後をこのようなお見送りで締めていただけると、やっぱり今日も海上自衛隊は
期待を裏切らないいつものスマートなネイビーだったなと嬉しくなるのでした。



 







車上から撮るサンフランシスコ

2016-02-01 | アメリカ

というわけで、サンフランシスコからなんとかかんとか帰ってまいりました。


住んでいた時期も含めて毎年月単位で過ごしている町なので、すっかり

第二の故郷のようになってしまっているこの土地ですが、
同じアメリカでも随分特異な土地柄であると思われているようで、
いつ行っても、とくにベイエリアはアメリカ人観光客だらけです。

今日は、移動する車のフロントガラスを通じて見たサンフランシスコ、
という限られたテーマでお送りします。



ゴールデンゲートブリッジを後方に臨むハーバー横の車道。
この右側前方には芝生の緩衝地帯が広がっており、ここでよく
テレビや映画の撮影が行われています。
たくさんのヨットのマストが林立していますが、坂の途中に住み、
ハーバーに自分がオーナーであるヨットを持つのが、サンフランシスカンの
一つのステイタスでもあります。

自転車のほとんどは観光客向けのレンタサイクルのようです。



ご存知チャイナタウン。
昨今サンフランシスコも中国人の観光客が増えておりますが、なぜか
中国語が通じるチャイナタウンに押し掛けたりするようです。

サンフランシスコのジャパンタウンというのは、単にモールの名称ですが、
チャイナタウンは名実ともにそこに中国が展開している居留地です。
チャイナタウンはGGBのようにサンフランシスコの名所?ではあります。

桑港のチャイナタウンって言う渡辺はま子の歌もありましたし。



でも、いまも、そして多分昔もチャイナタウンってこんな歌の中身みたいな
ロマンチックなところじゃないのよね。

建物は西洋風なのに生活様式が中国な人たちが街並みを作り上げ、

歩道は得体の知れない油で黒ずんでベタベタしているし、変な匂いはするし、
町を歩けばレストランの客引きがよってきてうざいし、下手すると
バッグに後ろから手を突っ込まれそうで、(偏見じゃありません)
わたしたちは住んでいる間、そして日本に帰ってからを通じて2度しか来ていません。

そのうちの一度、店の漢字の看板でわかったのですが、どうもここでは
中国元が堂々と流通している模様(笑)



カリフォルニアストリート、というのはサンフランシスコの坂で最も有名な、
「ケーブルカーが空へと登っていく」という歌でも歌われた坂がありますが、
このフェアモントホテルは、その坂の頂点にあります。
今回、この道向かいにあるインターコンチネンタルが安かったのですが、
女性一人でダウンタウンに泊まるのは何かと危険があるため、あえて空港近くにしました。

結果、今回のホテルは空港近くのオフィス街(隣がウォルマートの支社)で、
夜中の三時でも飛行機の爆音がする以外は大変良い環境。
朝の5時に火災警報で叩き起こされた(本当に火事だったらわたしはたぶん
肺炎か何かになって死んでいたと思う)以外は何の問題もないそこそこのステイでした。



フェアモントホテルを過ぎると、ここから急激な坂が始まります。
真ん中にケーブルカーの線路がありますが、雨の日にこの上を走るのは
スリップしそうで無茶苦茶怖いです。

 

左手に見えるとんがったビルが、SFのランドマークともなっている
トランスアメリカ・ピラミッド。

駐車している車の前輪が皆右側に向いていることにご注目。
坂道に止める時、サンフランシスコでは必ずハンドルを路側帯に向けて切り、
万が一車が動き出すことがあっても敷石で止まるようにしておかなくてはなりません。

これは東から西に移住する時に受けなおした自動車免許(アメリカの免許は州ごとに
別の交通法規があるので受け直さなくてはならず、それが州民のIDにもなる)の
取得試験で出される問題になるくらい有名な、SF市の法律になっています。

わたしもこれは合理的だと思うので、坂道に止めるときにはいまでも実行しています。 





道の左手にはチャイナタウンのゲートでもある建物が見えます。
茶色い建物の一階に確か東洋人経営のコインランドリーがあって、

家探しの旅行中利用しましたが、ひでえところでした(笑)

断じて思いますが、アメリカ人の持っている「東洋人は綺麗好き」

「だからクリーニング屋」というイメージは、全て戦前の
日系アメリカ人1世が額に汗して作り上げた実績を中韓系が戦後
横取りしているだけで、彼らの衛生観念なんて、居住地を見れば一発でわかります。



いきなりゴールデンゲートブリッジの写真。
橋を渡り、パーキングから橋とサンフランシスコの街を眺め、(夏でもたいてい寒い)
降りたところでUターンしてもう一度渡って帰ってくる。
観光客のほとんどはこのコースで GGBを観光します。



この日は(上とは別の日)、霧が濃く、ブリッジの上半分が全く見えませんでした。



もう一度ダウンタウン。
左にチラッと見えるのが通称バンカメ、バンクオブアメリカンビル、
向こう側はちょうどケーブルカーのターンテーブルの前のビルで、
格式高く見えますが実はショッピングモール。1階はGAPだったりします。




この手のお店についての事情は全くわかりませんが、なぜか
「マッサーヂ」という日本語があるので、経営者は間違いなく
日系ではない(中華系かコリアン系)であると思われます。

ホームページによると、

美しくて素晴らしいプロフェッショナルのアジアンガール(コリアン、
タイ、ベトナム、チャイニーズ、ラテン)があなたをお待ちしています。
ここから(ログイン)女の子を指名できます。

ってことなので、本当にマッサーヂなのかまた別の話なのかは
さっぱり見当がつきませんが、とにかく日本人がいないのはわかった。



基本的にアメリカの大都市のダウンタウンは皆こんな感じ。
100年越えの古いビルを中だけリノベーションして使い続けたり、
そうかと思ったら超近代的なオフィスビルがその横に屹立していたりします。

地震のある地域ですが、日本のようにビルをしょっちゅう壊すことはせず、
建築にも厳しい規制があって、景観を重視しています。



今回病気を押して出かけた時の「車上ショット」。
道向こうの建物の一角が、昔住んでいたことのあるタウンハウス。

外国人で現地の慣習や近所付き合いについての作法も知らない身には、
そういった住人の多い賃貸式のタウンハウス(その町全部が同じ業者の賃貸で、
町の中には公園やグロッサリー、住人なら無料のジムやパーティルームがあり、
一軒家か高層住宅かも好みで選べる)はありがたかったです。



夏の間サンフランシスコ市内で息子をキャンプに行かせていた頃は、
この中の業者刈り上げコンドを月単位で借りていたものですが、
ちょうど今映っているところにも一夏住んだことがあります。

懐かしいなあ・・・。

このタウンハウス、向かいに今でもゴルフ場があるのですが
(わたしもTOもゴルフと無縁なので意味なかったのですが、もしやるならば
値段的にも毎朝ジム感覚で通えるくらい安かったらしい)
昔この部分もゴルフコースだったのを、1940年住宅地にしたということです。

全米で2番目に大きな一所有者のもつ賃貸地域のコミュニティということです。

Parkmaced, San Francisco

ここも、サンフランシスコへの移転が決まって家探しに来た時、
わたしが車を走らせていてふと直感が働いて決めた住居でした。
ちなみに今住んでいる家も、わたしの直感で決めたものです。
自慢ではありませんが、わたしのこういう住地を決める際の直感はわりとあたります。



サンフランシスコには南に向かうフリーウェイ、108と280が二本並行して走っており、
これが通勤や輸送、移動の動脈となっています。
こちらは280で、海岸寄りの山中を走る道。
こちらの方が空いていることが多いので、シリコンバレーから空港に向かう時には
急がば回れで確実なこちらを使います



今回のサンフランシスコ滞在は雨季のため雨が続いたのですが、
帰る日にはとてもいい天気になりました。
いわし雲と夏雲が一挙に出てくるという妙な気候です。

こちらは101ですが、反対車線は大事故が起こっていて、
片付けが済むまで大変な渋滞だったようなので、このときも
空港へは280で向かいました。


今回の滞在についてはまた別項でご報告させてください。