ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

第1ドライドックのバルブ〜横須賀歴史ウォーク

2016-06-11 | 博物館・資料館・テーマパーク

ここ横須賀人文・自然博物館には、明治時代、製鉄所やドックが出来上がり、
まだ「お雇い外国人」
であったヴェルニーや医官のサバチエが滞在していた頃の
横須賀が
ジオラマ模型になって展示されていました。

説明はわたしがあとから付け加えたものです。

これ、横須賀に詳しい人が見たら「ああ、あそこ!」とわかりますね。
第一号ドックとその隣のドックは今もそのままあるので、
それを起点に考えていただければよくわかるかと思います。



さらに大きな地図で見ていただくと、ヴェルニー公園が画面手前、
海軍機関学校のあったのは今ショッパーズプラザとなっているところですね。
冒頭画像では「兵学校」と現地の説明にあった通りタイプしましたが、
これは海軍機関学校のことで、1893年から震災で倒壊するまでここにありました。
 
ヴェルニーと医官であり植物学者でもあったサバチエの官舎は、
現在の米軍基地内、だいたいCPOクラブのあたりではないでしょうか。

冒頭画像で「大畑町」とあるあたりには、現在
海軍カレーの「ウッドアイランド」があります。

 

こちらはフランス海軍が1873年に独自に測量して製作した地図。
当時の横須賀の地形と造船所の配置が細かく記されています。
原図はフランス防衛資料館にあり、全く同じ地図を
フランスのヴェルニーの子孫が持っているのだそうです。 



横須賀軍港の絵図とその向こうは完成したドライドックですね。



開国前の横須賀。




こちらは1889年(明治22)に日本で作られた横須賀地図。
建物の素材によって地図が色分けされているというもので、
赤で描かれた部分は「煉瓦造りの建物」。
ひとところに集中しており、その部分にドックがあるのがわかります。
全般的に色い部分が多いですが、これは木造家屋です。

横須賀製鉄所は、まずここに「船台」を作ることから事業が始まりました。
ドライドックが完成してから、横須賀製鉄所が成した役割は

●船の修理と造船・・・「清輝」建造、外国船の修理

●西洋式灯台の建造

●技術研究と教育・・・造船所内に技術養成校黌舎(こうしゃ)があった

●工業機械や部品の製造・・・富岡製糸場、生野鉱山などで使われた


ちなみに、横須賀製鉄所で最初に進水式を行った船は「横須賀丸」で、
この写真もヴェルニーは所蔵していたようです。



海軍省の辞令、と説明にありますが、辞令というよりは
「よく仕事したので特別手当をあげます」
という感謝状のような気がするのですが・・・。

海軍と皇居造営のどちらもの関わった人物に出されたものです。

明治政府の一大事業の一つに皇居造営がありました。
煉瓦造りの宮廷や赤坂離宮を含む工事です。

横須賀製鉄と横須賀海軍の出身者はここでも大変優遇され
指導的な立場で関わりました。

「金25円下賜」とあるのは関わったのが皇居だからでしょう。



左、ご存知フランソワ・レオンス・ヴェルニー。
横須賀製鉄とドックの建造事業で「首長」であったヴェルニーに対し、
右側の人物は「副首長」で、ジュール・ティボディエ。
ティボディエはのちにヴェルニーの妹と結婚して義理の弟になりました。



技術学校黌舎(こうしゃ)の卒業生。
黌舎(こうしゃ)は、ヴェルニーら技術者をフランスから招聘したため
すべての教育がフランス語で行われ、大変レベルが高かったということです。

この写真の左側、川島忠之助は、のちにジュール・ベルヌの

「八十日間世界一周」

を翻訳して出版したことで有名になりました。
気のせいか立ち居振る舞いや洋服の着こなしもフランス風です。




横須賀製鉄所第1号ドライドック設計図。
100分の一図で、「船渠図」となっています。



第1号ドライドックの揚水ポンプ室設計図。
サインされているのは

「L.Neut et Dumont 」

で、「1869年6月20日 パリにて」という字も見えます。
フランスの会社がポンプ設備を納入したということなんですね。

 

こちらはドライドックのバルブ設計図。

「水防戸之図」「水防戸枠之図」

などという文字が読めます。 



そのバルブの現物がここに残されていました。
このバルブ、いつまで使われていたと思われますか?

なんと2011年、このブログが始まった次の年ですよ。関係ないけど。
1871年から2011年まで、なんと140年のあいだ、ドックで現役だったのです。
ドライドックの仕組みというのが実にシンプルで、完成されていたため、
当時のバルブが問題なく使えていたということなんだろうと思いますが、
それにしても堅牢に作られていたのだなあと感心するばかりです



こちら説明の写真を撮るのを忘れてなんだかわからないのですが、
(何しろ時間がなかったので)内部が煤けているようにみえますし、
土中に埋まっていたものかもしれません。(適当)





海軍省の設置した標柱。
「横須賀軍港界域標」「明治三十三年二月十三日」とあります。
この標柱は、現存する最も古い「鉄筋コンクリート造りの構造物」です。

最も古い鉄筋コンクリート建造の建物は佐世保の
佐世保鎮守府ポンプ場だったのですが、失われました。
現在の最古級は横須賀の走水にある水道施設だそうです。



観音崎灯台に使われていた「横須賀製銕所」の赤レンガ。



赤レンガを作るための「型」。
この規格はヴェルニーがフランスから伝達したサイズによるものです。
樫の木でできており、これはレプリカです。



煉瓦積みの方法を図解で示した書物。
「フランス積み」の手法が海軍兵学校にも使われたのは、
横須賀がこういった技術の最初の輸入先だったからであろうと思われます。



 「ヨコスカ製銕所」と刻印があります。

「銕」というのは「くろがね」と打つと出てきますが、
「てつ」とも読みます。
つまり「せいてつしょ」ですね。 

横須賀軍港建造にまつわる資料がここほど充実しているところもありますまい。
もし興味を持たれたら、ぜひ一度足を向けてみてはいかがでしょうか。



 


リチャード・バード少将と「ハイジャンプ作戦」

2016-06-10 | アメリカ

空母「ホーネット」博物館にあった「フィリピン・シー」コーナーに
展示してあった「BABYSAN」というカートゥーンについて調べたら
それに一項を費やしてしまい、またしても今回、「フィリピン・シー」を
描こうとして、「フィリピン・シー」が参加した「ハイジャンプ作戦」
の司令官リチャード・バード少将のドレスジャケット姿を見つけてしまったので、
すべての予定を変更してバード少将の少佐時代の絵を描いてしまいました。
右上の星二つは、最終的にリア・アドミラルであったことを表します。

Richard Byrdで画像検索すると、エスキモーのようなフードを被った
バード少将の写真が出てくるかと思います。


バードが少佐の時に指揮した「ハイジャンプ作戦」とは、終戦後、

海軍によって行われた南極探検作戦です。
なぜ海軍がこんなことをしたのか、もしかしたら日本との戦争が終わって、
することがなく、次なる敵のソ連が台頭してくるまで「自分探し」でもしていたのか、
と穿ったことをつい考えてしまうのですが、それはともかく、
この作戦、調べれば調べるほど結構大変なものだったことがわかりました。 

アムンゼンと南極到達を争ったスコットがイギリス海軍中尉であり、
我が日本の白瀬矗が陸軍輜重中尉だったように、極地探検には多くの
陸海軍人が名前を残しており、だからこそこの頃アメリカ海軍は、
このような作戦を行うことにしたのでしょうか。

しかも、このときのアメリカ海軍は、不確かな情報ながら
とんでもないことをやらかしていたという噂さえありましたよ。



wiki的にいうと、ハイジャンプ作戦は、アメリカ海軍が1946年から
1年にわたって行った南極観測「作戦」でした。
目的は、

恒久基地建設の調査

合衆国のプレゼンスの提示

寒冷地における人員・機材の動作状況の確認・技術研究

ということになっています。

参加艦艇は13隻の艦船と多数の航空機。
バード少佐は、このうち空母「フィリピン・シー」に座乗して

その全体指揮を執りました。
「フィリピン・シー」は単艦行動を行い、航空機輸送が任務です。

ここで(本来本題の)「フィリピン・シー」について少し。



空母「ホーネット」の「フィリピン・シー」コーナーにあった巨大な模型。


 
ふざけたセイラーもいますが、これはご愛嬌。
ってかアス比が全く違うっつの。



94飛行隊(戦闘機)は、ヴォートF4U-4コルセアの部隊で、1952年まで
「フィリピン・シー」の艦載戦闘部隊でしたが、
この後戦闘機を「パンサー」に変えられています。

しかしこの白い軍服を着ていると皆男前に見えるねえ。

ところでこの写真を見て気付くのは、アメリカ海軍の「正しい椅子の座り方」

というのは自衛隊とは全く違うということです。
皆一様に脚を足首でクロスし、手は揃えて膝の真ん中(というか股間?)
に、左手を上にして置く。

偶然でなければ、これは米海軍で公式に決まっているポーズらしいのです。

海上自衛隊は(陸空もね)脚は少し開いて爪先は真っ直ぐ前方に向け、
両手は拳にして各々の膝の上に軽く乗せるというのが正しい姿勢です。
(今まで観察してきたところによると)
日本人的にはこの写真のような座り方ってなんだかお行儀悪く見えますね。



機体の穴からこんにちは。



とふざけられるような事故ならいいんですが、こりゃやばい。
その「パンサー」、F9Fで、派手にネットを突き破った事故例。
スペックでは劣っていたこのパンサーを、腕利きのパイロットが
MiGを撃墜するくらい使いこなしていたというのはたいへんご立派ですが、
やはり着艦にはこのようなことも多々あったようです。

アメリカ海軍は、空母の離着艦で今日のように事故がなくなるまで、
それこそ数知れない犠牲の上にその技術を積み重ねてきました。

今日の事故率になるまで、米軍はそれこそ40年以上を費やし、

文字通り搭乗員の亡骸を超えてここまでやってきたわけです。
そのことひとつ取っても、昨日今日そういうことをやりだしたばかりの中国海軍には
これだけの技術の昇華の前には後塵を拝すどころか後ろ姿を見ることもできまい、
先日ある元海幕長がおっしゃっていましたが、まったくもってその通りだと思います。

この写真の状況は、ネットを越してしまっているので、
アレスティングワイヤーが利かない状態のままネットを張るも失敗したようです。
パイロットが無傷だったのはなによりです。


 
フライトデッキの一部が、製造板と一緒に飾ってありました。

さて、「ハイジャンプ作戦」の話に戻りましょう。

この作戦に際し、アメリカ海軍は東海岸(ノーフォーク)と

西海岸 (サンディエゴ)から、別々に部隊が出動しています。
南極における調査箇所も、それぞれ西南と東南、というように別を担当しました。
それだけでなく、「中央隊」というのまであって、また別の箇所を調査しています。

このうち、事故による殉職者を出したのは東部グループでした。

作戦中、USS「パイン・アイランド」から海上に降ろされたPBM飛行艇は、
航空写真を撮るために飛び立ちましたが、そのうちクルー8名を乗せた
「ジョージ・ワン」が雪上にクラッシュしてしまいます。

「ジョージ・ツー」が捜索に向かったとき、「ジョージ・ワン」の翼には、


「LOPEZ HENDERSIN WILLIAMS DEAD」

と三人のクルーがすでに死亡していることを知らせるメッセージがペイントされていました。
そのうち二人は墜落によって死亡したのではなく、凍死だったそうです。


このような殉職者を出したこの作戦でしたが、全体としては多数の航空機投入による
航空写真を一挙に撮ることによって、成功を見たとされています。

このときのバードが出した提言というのは、

「米国が南極からの敵対国の侵入の可能性に対する保護の措置をとるべきである。
現実として、次の戦争の場合には、南極や北極経由で攻撃される可能性がある。」

というものでした。
このミッションにおける観察と発見の最も重要な結果は、極地が、
米国の安全保障における潜在的な効果を持っているということです。

世界は驚異的なスピードで縮小しており、その距離によって
海洋、および両極は安全性を保証されていた時代は終わった、
という海軍軍人としての彼の警告だったのでしょうか。



バード少将は、海軍軍人でしたが、実際探検家としての活動の方が有名でした。

兵学校を出てから艦隊勤務をしていたバードは、第1次世界大戦までに
飛行機の操縦資格を取り、それだけでなく、ナビゲートシステムを
発明して、のち極地探検にそれを生かしています。

1926年には、北極上空をフォッカーで飛行するという試みにより
名誉勲章を得るとともに、国民的英雄にもなっています。
わたしが描いたのは、おそらくこのころのバード少佐でしょう。

このようにスマートでハンサムなネイビーパイロットが、前人未到の
冒険飛行を成功させたのですから、さぞかし国民は熱狂したと思われます。


もっとも、このときバードは北極点に到達していなかった(したと思ったが間違い)
という噂はその直後からあったようです。
同乗した飛行士が、この冒険からわずか数カ月後「実は北極点には達していない」

と告白し、後日それを翻すなど、その真実は闇に包まれたまま論争だけが残っています。

1927年、大西洋横断飛行に二回目の支援を行った後、彼は最初の南極探検を行います。
「ハイジャンプ作戦」のときが彼にとって最初の南極ではなかったってことですね。
このときと7年後の1934年には、彼は5ヶ月を南極でたった一人、越冬しています。
先ほどの「アローン」という自叙伝は、このときのことを回顧したものです。

このとき、バードは狭いところでストーブに当たり続けたため、
一酸化中毒を起こして混迷状態に陥るという事故に遭っています。

彼の無線の異常さに異変を察知したベースキャンプの隊員たちが、
心配してアドバンスキャンプに飛行機で迎えに行くという騒ぎになりました。
その救助隊の出動も第一次は失敗して、第二次救助隊がたどり着いたとき、
そこにはぐったりとしたバード少将が倒れていたということです。




ちなみにバードは史上最年少の41歳で少将となっています。


第二次世界大戦中はヨーロッパ戦線に赴いていたそうですが、
どういうわけか1945年9月2日の降伏調印のときは東京にいて、
ミズーリ艦上で行われた降伏調印式に立ち会ったりしています。


そして、もうひとつ不思議なことがあります。

「ハイジャンプ作戦」の10年後、すなわち、1955年に海軍は「ディープフリーズ作戦」
という南極観測隊を送り、その隊長にアメリカ海軍はバード少将を指名しているのです。


しかし、よく考えていただきたいのですが、これって少将の亡くなる直前ですよね。


いくらエキスパートでも、67歳の老人を南極探検の隊長にするか?


というのがまずわたしの疑問。
なぜこの作戦の隊長がバード少将でないといけなかったのでしょうか。

このときバードは1週間だけ南極で過ごすというミッションをこなしたそうですが、
そんな短期間の「作戦」でアメリカ海軍はいったい何をしようとしたのか?

ちなみに「ディープフリーズ作戦」の1年後、バード少将は亡くなりました。
南極に行かなければもう少し長生きできたのでは、とおもうのはわたしだけ?



さてさらに、ここで皆さんには眉に唾をつけて読んでいただきたいことがあります。

南極上空を飛行中に、原野や森林・河川が見られる地域に
マンモスのような動物が歩いているのをバード少将は目撃した」

さらには


「バード少将は作戦終了後海軍病院に入れられ、目撃した事実を
一切口外しない事を軍から誓約させられ、真実を一切語らずに没した」

などという、それなんてムー?
みたいな噂まで「ハイジャンプ作戦」にはまつわっているのです。

(それがもっともらしく書いてあるサイトは、ハイジャンプ作戦を
”北極点に行った”などと言っている時点でもう信憑性アウトだと思いますが)


そこであらためて、なんでこの時期アメリカは

南極に行かなければならなかったのか、という疑問がわいてきます。

米海軍は1958年頃(バード少将の死んだ年)、南極点に向けて
弾頭装備のICBMを海軍艦船から撃った、という噂もあり、南極探検は
実はこれをするための調査だった(だから1週間ですんだ)のでは、とか、
終戦直後に南極を偵察したのは、ナチスの秘密基地があるという情報もあり、
そのために、送り込むのが軍隊でなければならなかったともいわれています。

 いずれにしてもその理由は現在も明らかになっていませんし、表向きには
「ハイジャンプ作戦」は観測と対ソに備えた訓練ということになっています。




亡くなったとき、彼は多分自分でも覚えていないくらいの叙勲をされており、
メダルにその肖像が描かれる米海軍の4提督(サンプソン、デューイ、パーシング)
の一人であり、海軍軍人として彼に与えられた栄誉はそれは輝かしいものでした。

それにしては「アドミラル」なのにどうして死ぬまで少将だったのか、
史上最年少の41歳で少将になってから、なぜ一度も進級することがなかったのか、
死んでも階級がそれ以上上がらなかったのはなぜか。

これも不思議といえば不思議です。
(サンプソンも少将なのでは海軍的にはそういうこともあるのかもしれませんが) 


もしかしたらですが、この男前の少将が、「アメリカの闇」を
南極点の上に見てしまったという噂に関係しているのでしょうか。





 


横須賀戦前戦後〜横須賀歴史ウォーク

2016-06-09 | 博物館・資料館・テーマパーク

横須賀ウォークで見た横須賀人文・自然博物館の展示、続きです。
横須賀に関わる歴史も自然もまとめて展示してあるので、
ナウマン象がいたかと思ったらペリーの座った椅子もあるといった具合で、
1日がっつりと見学すれば横須賀そのものがわかってしまうという仕組み。

で、ナウマン象の横に巨大なジオラマがあってですね、これが何かというと、



いま話題の?南海トラフがどう走っているかを説明しているのです。
この赤いランプの線が南海トラフですね。
この模型だと随分駿河湾から内陸に食い込んで伊豆半島を横切っています。
んー、これまぢでしょうか。

トラフとは深さ6,000mまでの海底の溝のことで、それ以上は『海溝』となります。
トラフというだけなら単に地形の名称に過ぎないのですが、
これが『南海トラフ』となると水深4,000mの、非常に活発で大規模な地震発生帯です。
模型の部分、駿河湾内にあるのは『駿河トラフ』とも言われています。

一定の年数ごとに地震が起こっているので、それでいうと、

「30年以内にM8〜9の地震が起きる確率は60〜70%」

逆に言うと起きない確率は30〜40%「も」あるわけですが、
まあこの数字をみると決して楽観できないですよね。
で、国の立ち上げた中央防災会議の評価によると、
もし南海トラフを震源とする地震が起こった場合、

この南海トラフ巨大地震による被害については、超広域に
わたる巨大な津波、強い揺れに伴い、西日本を中心に、
東日本大震災を超える甚大な人的・物的被害が発生し、
我が国全体の国民生活・経済活動に極めて深刻な影響が生じる、
まさに国難とも言える巨大災害になるものと想定される。

だそうで・・・・。
これによると駿河トラフは伊豆半島を分断して横須賀沖まで来ているので、
横須賀もそうなれば甚大な被害を受ける、ということでこの模型となったのでしょうか。


先日瀬戸大橋の耐震性について関係者からいただいた説明をしたとき、

「(安心なのは)岡山くらい?」

と書いたところ、専門家であるその方から即座に

岡山で危険視されている断層としては、四国を通る中央構造線と長尾断層、
兵庫県との県境から北部に伸びる山崎断層帯、北東部の那岐山断層帯、
そして広島県境付近の長者ヶ原ー芳井断層ぐらいで、岡山市付近には大きな断層がない」

という詳細な説明をいただきました。

わたしが岡山といったのは決して地震学を学んだというようなことではなく、
単に当の岡山県人が口を揃えてそれを言っていたからです。

しかも、津波に対しても四国が防波堤の役割になっており、広島のように
大雨における土砂災害もほとんどない、とくれば、これはもう

「首都は岡山に移転させてはどうか」

と彼らがいい気になって(笑)いうのも無理はないというものです。
実際にも岡山には移住してくる危険地域の人が少なくないということです。



横須賀地方で漁業を営んでいた民家が再現されていました。
横浜の「馬の博物館」にも、馬と一緒に生活をしていた民家が
そっくりそのままどこからか移築されて再現されていましたが、
これも本当に人が住んでいたのに違いありません。

一般に漁民の暮らしは貧しく、このような家を建てられるのはごく少数でした。



土間部分は台所でもあったらしく、カマドがあります。
それにしても夏はともかく、昔の日本人は寒い家に住んでいたんだなと思います。
急いでいて写真を撮り損ねましたが、この周辺には漁民が冬に着た作業着、
目の詰まったいかにも重たそうな綿でつくった着物が展示されていました。



この地域で行われていた地引網漁法がジオラマです。
野比村(現在の野比)では「ウチマエ」といって、
大抵は親戚同士6〜7軒にひとつ地引網を持って操業していました。

三浦半島ではこのようにしてイワシ漁が行われていました。
見張りがイワシの群れを見つけると法螺貝を吹いて農作業をしている
ウチマエの仲間に知らせ、漁が始まったのです。



これ、なんだと思います?
木でつくった臼砲の模型なんですが、誰が作ったかというと浦賀奉行所の与力。
ただしこの与力がモデラーだったというわけではありません。

当時の横須賀の奉行所は海の最前線防御をになっていたので、同心や与力というのは
常に最新の情報を手に入れ、防衛について対策を練る過程で、
このような武器装備の模型を作る必要もあったのかと思われます。

いまいち模型の必要性というのも理由がわかりませんが。

この模型の不思議なところは、作られてから関東大震災、そして戦災があったのに
喪失することなく今日に形をとどめていることだそうです。



戦前の横須賀。久里浜海水浴場です。
横須賀は鉄道の敷設とともにいち早く近代化され、賑わった街でした。
繁華街も発達し、東京や横浜などの流行もいち早く入ってきました。
都市化が進む一方で、久里浜、、馬堀、大津、鴨居などでは都会から
海水浴に訪れる客でにぎわい、竹田宮別邸や団琢磨など財界人の別荘、あるいは
井上成美大将の別荘なども建てられました。(井上は晩年そこに住んだ)




「武功しるこ」「三笠最中」・・・。
やっぱり戦前らしいねえと感心してしまうのですが、よく考えたら今だって
自衛隊お菓子で「撃!せんべい」とかチョコチップクッキー 「来るなら来い!」
とか「オスプレイ せんべい」カステラ戦車饅頭「 ロックオン 10式戦車」
カステラ戦車まんじゅう「 弾 90TK」「ストロングパイ 火力」とか、
「ヒトマル戦車まんじゅう 10TK」、ロシアンルーレットクッキー「 状況開始!」
 栄養ドリンク 「元気バッチリII」  自衛隊限定 「弾 」ドロップス、
緑茶「整列休め」、戦車クッキー 「10TK 烈炎轟」とか、「 隊員さんのサブレ」とか、

・・・・あるよね。(呆)



横須賀には戦前「海洋少女団」というシースカウトがありました。
もちろん今も横須賀海洋少年団は存在するのですが、どうもこれらは
戦前の海洋少年団とは全く関係ない、という立場のようです。

中央のキャプションにはこう書かれています。

 少女ながらも夢といたづらな感傷とを払って、戦時下日本の現実を直視し、
海を知り海に挑まうと、横須賀信證女学校(現在の信証学苑)
海洋少女団の
少女たちは毎週二回軍艦「春日」の甲板に氾濫して
鴎と競う海洋訓練を
つゞけてゐます

 午前八時軍艦旗掲揚、綱領斉唱につゞいてただちにその日の訓練が開始されます

潮風もなんのその、炎天直下もなんのその、短艇漕法に分列行進に

また手旗信号に少女たちは海洋制覇の希望を大きく展げてゆきます
 砲塔の重みを載せて高くつけられた喫水線をさかひに海に浮んだ城の
巨大な胴体と、海を実践してはつらつと動く海国の少女たちの姿とは、
軍港横須賀の碧(みどり)の洋上に脈々と生きて力強く頼母しいかぎりでもありました


右ページ左下は、水兵さんから舫の結び方を教わっており、
その右側は手旗信号の訓練を受けている様子なのですが、水兵さん、
女学生を教えるこの仕事、かなり楽しかったのではないかって気がします。

海洋少女団は戦況の悪化に伴い、昭和20年の6月に解散となりました。
戦後の「海洋少年団」は、戦前のものとは無関係という立場のようですから、
このときに「海洋少年団」も消滅したということになります。

それからわずか1ヶ月後、軍艦「春日」は横須賀港の空襲で爆撃をうけ、
大破着底したまま終戦を迎え、11月になってから除籍処分になっています。



さて、というわけで終戦となりました。
横須賀には米海軍が進駐してきます。
かつての鎮守府には米海軍の司令官が居住することになります。



これは当時日本に進駐したアメリカ軍の工兵隊の記念アルバムの1ページ。
アメリカ工兵隊は自らを「SEABEES」(海の蜂)と誇りを込めて呼んでいましたが、
その「海の働き蜂」たちが初めて日本に上陸した瞬間です。
工兵隊らしく港でもないただの岩礁に上陸用の足場を自分で作っていますね。

これは昭和20年8月30日の写真です。



「30時間Kレーションだけで食いつなぎ、一睡もしなかった」

ということですが、別にこっちはそんなことお願いしてないのよ?

Kレーションとはこのようなしろもの です。
写真を見る限りどれもマッチ箱みたいで、主食はビスケット。

これは大食漢のアメリカ人には辛かったろうなあ・・。




軍港だった街は進駐軍がきて姿を変えていきました。
これは市の振興協議会が発行した「あの施設は今」シリーズのようですが、
これでざっと見ると

海軍防備隊→市立長井中学校(中右)
     →東京電力久里浜発電所(上)
     →日魯漁業(株)久里浜支所(中段左)

海軍工廠造機部→東京芝浦電気横須賀工場(下段中二枚)

となったようです。



この地図は、かつて陸海軍が使用していた土地が、
現在どのように使われているかを色分けしたものです。
まず緑は「公共施設」となった部分。
保護区域だったり、公園になっている国や自治体の所有地です。
それによると猿島も公共地となっていますね。

赤が民間の産業施設になった部分。
左上の赤の多い部分はかつて追浜飛行場のあったところで、
現在はほとんどが日産の所有地となっているようです。

そして紫の部分が防衛省、つまり自衛隊の所有地となっている部分。
黄色の米海軍使用地にくらべて、肝心の横須賀港に紫がほとんどないというね・・。

紫部分の多いところは防衛大学校、武山駐屯地など。
公共の部分には横須賀刑務所や久里浜少年院になったところもあります。

防衛省の技本、艦艇装備研究所って、少年院のとなりなんですね・・・。
     


汐入にあった海軍の下士官集会場などは、進駐軍が来てから「EMクラブ」となり、
なんと平成2年までその名前で使われていたのだそうです。

映画館やゲームルームを備えた社交・娯楽設備で、多くのアメリカ人や日本人が集まり、
催し物も多彩に行われました。
ここまで「日本人立ち入り禁止」にならなくてよかったです。

昭和20年代に行われたバレエにオペラ、コンサート、映画鑑賞会のパンフレット各種。 




アメリカの民間人が横須賀市内で開いていたお店
「ピーターの店」のメニュー。

「今日のオススメ」のなかに「あげたカエルの足」があります。
「legs」なので両足ってことですかね。
カエルの足「だけ」って、どんなでかいカエルだよ。

・・・あ、もしかして「足がたくさん」?それもなんか嫌だな。


ちなみにお値段は400円。

デザート付きのコースが1000円の時代なので、結構なお値段です。 


 

こちらは市内の洋食レストランのメニュー。
ビーフステーキが400円なので、カエルの足がいかに高いかわかる(笑)

チキンライス、ハヤシライス、カレーライス、オムライスが皆150円。
「ハムライス」ってあるけどこれなんだろう。

デザートはありませんが(デザートメニューは別っていう感じの店じゃないし)
「センベイ=Wafer」が100円です。
アメリカ人対象らしく英語が中心のメニューですが、センベイは
今アメリカでは「rice cracker」で通用しております。

「Mochi」「Sake」「Sushi」「Nappa」「Edamame」「Fuji apple」

みんな日本語でそのまま通じるようになるとは、
さすがにこのころの日本人には想像できなかったのではないでしょうか。



続く。

 


「トミー(立石斧次郎)ポルカ」〜横須賀歴史ウォーク

2016-06-07 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、横須賀ウォークの合間に昼ご飯を食べるために立ち寄った
横須賀人文・自然博物館でまたしても独自に走り回って写真を撮り、
そこから結構いろんなことを知ることができたのが嬉しいわたしです。
万永元年の遣米使節団のイケメン侍が柳原白蓮のお爺さんだったなんて、
こんなことでも調べなければ一生知らないままでした。

まあ、知ったからってそれがどうしたって話ですが。

さて、その使節団の目的のメインは条約の調印だったわけですが、
日本政府の目的は主にアメリカの工業施設、造船所、製鉄所を知ることでした。



遣米使節団の目付役だった小栗忠順がその後横須賀の
製鉄・造船業の勃興に大きな役割を果たしたことからも、
このとき彼らがアメリカで見聞きしたものがどれだけ
日本の工業化にダイレクトに役だったかってことですね。

で、下の写真は1865年に寄稿された横須賀製鉄所ですが、
使節団の渡米が1860年であったことを考えると、
猛スピードで明治政府は近代化を推し進めていたのがわかります。

この説明によると一行は「メーア島の造船所」を見学したとのことです。
サンフランシスコにメーア島なんてあったかしら、と調べてみると、

Mare Island Naval Shipyard(メアアイランド海軍造船所)

というのがサンフランシスコ市の対岸にあるバレーホにあったようです。
バレーホは住んでいるときにもナパバレーに行く途中に通り過ぎるだけだったので、
全くそういうのがあることも知りませんでした。

咸臨丸はアメリカに到達したときにまずサンフランシスコ湾の第9突堤に
停泊したということですが、ゴールデンブリッジ公園には日本人が建てた
咸臨丸の碑があるのだそうです。
バレーホには海軍歴史博物館もあるということですし、
今度サンフランシスコに行ったら見てきますかね。

そしてその後咸臨丸はメアアイランドの造船所で修理を行ったとのこと。
それにしてもこの写真のキャプションですが、

「サンフランシスコでもメーア島の造船所を見ていた!
ワシントン滞在中に、幕府は海軍を構成し、造船所を作りたいと
目的を公表していた!」

なんか博物館の解説文にしては妙に躍動的というか変な文章というか(-。-;


ところで冒頭の絵皿は、咸臨丸がアメリカに渡った1860年を
日米交流元年として、その100年後の1960年に作られたものです。

さて、全権団は咸臨丸ではなくアメリカの艦船で渡米をし、別の米艦船で帰ってきました。
咸臨丸は全権団に随行する形で出航し、太平洋を渡ってサンフランシスコに到着。
つまり全権団は安全な?アメリカの艦船に乗り、咸臨丸渡航は完全に
「初挑戦」を目的としていました。

もっというなら別に行っても行かなくても良かったってことになるのですが、

それでも条約を締結に行くのに相手国の船で往復して終わり、では
日本という国の強さを相手に示すことはできない、条約を批准するにあたって
決して向こうから甘く見られてはいけない、という駆け引きがあったればこそ、

咸臨丸という日本の船はとりあえず太平洋を越える必要があったわけです。

実際は、太平洋を初めて長期航海する咸臨丸の日本人船員たち(勝海舟含む)は、
航海中船酔いで倒れてしまい(そりゃそーだ)、航海になれたアメリカ人船員が
ほとんど操舵をしてアメリカに着いたという話もあるのですが、とにかく
咸臨丸(と勝海舟)はそれを成し遂げ、使節団の象徴として歴史に残ることになりました。



ところで、世の中には「勝海舟と咸臨丸」が象徴としてクローズアップされ、

何かにつけてそれを中心に使節団が語られることを良しとしない人(たち?)
がおりまして、この方(たち)は

「咸臨丸を教科書から外す会」(仮名)

というのを作り、「咸臨丸病の日本人」の目をさますべく啓蒙活動しておられます。
”本末転倒の持ち上げられ方”をされる勝海舟と咸臨丸の実態はこうこうだった、
これに対しまるで添え物のような全権使節団をどちらもちゃんと評価せよ!と。

ご興味のある方は検索すればサイトが出てくるのでご一読されればと思いますが、
とにかく、あらゆる刊行物、新聞記事、教科書に「咸臨丸と勝海舟」をいう文字を
見つけてはそれは違う!これは間違い!とこまめにツッコミを入れておられます。
たとえば、

「初めてのサムライ、アメリカで熱烈歓迎」

という写真の前のページに勝海舟がアップで載っていたので、

「これでは咸臨丸でアメリカへわたった勝海舟らが
大歓迎を受けている、と(読んだ人は)理解(誤解)する」


また、遣米使節一行と従者がワシントンやニューヨークの町中で歓迎される写真は

「よほど知ってる人でなければ咸臨丸の勝海舟が
ワシントン・ニューヨークで歓迎されたと(見た人は)錯覚する」

冒頭の絵皿は、日米修好通商条約100年記念のものですが、
このときに同じ図柄で発売された記念切手に対しても
「遣米使節が乗っていない咸臨丸」など切手にするな!と怒り心頭のご様子。

まあ、気持ちもなんとなくわからないではありませんが、この人(たち)は一体
何と戦っているのだろうか、と失礼ながら少し不思議に思います。
咸臨丸と勝海舟ばかりがほめそやされ、遣米使節団が割を食っているってことなんでしょうか。
今日の我々は遣米使節団によって通商条約が結ばれ、彼らがアメリカで視察したものが
日本の近代化に大きな役割を果たしたということをよく知っていると思うのですが。

おそらく、その方(々)がこの博物館に来たら、この日米100年記念の絵皿を見て

「咸臨丸には遣米使節は乗っておらんかったんだ!それを・・それを・・っ!」

と館員に食ってかかったりしちゃうんでしょうか。考えたくはありませんが。




歴史の真実をあくまでも追求する、これは大事なことだし、学者であれば

一生それを追い求めてしかるべきでしょう。
そしてその主張と啓蒙活動にわたしはなんら意を挿むものではないのですが、
それでもあえて言わせていただくと・・・。

たとえば遣米使節の象徴として何かをこのように絵皿にするとしたら、
逆に咸臨丸を差し置いて使節が乗ったアメリカの艦船を描くのは果たして妥当でしょうか?
(彼《ら》は製鉄所にずらりと並んだ遣米使節をその象徴にせよと言っている模様)

たとえ勝海舟が船酔いで役立たずだっただろうが、使節団が乗っていまいが、
このときの遣米の象徴にするために日本政府は日本の船をアメリカに遣ったのですし、
それはれっきとした史実で動かしようのないことだと思うのです。

あ、そうそう、以前目黒の幹部学校に表敬訪問に伺ったとき、
学校長である海将にいただいたメダルには確か咸臨丸が刻まれてたなあ・・。

この人(たち)はこういうときにも学校長にメダルを叩きつけ

「咸臨丸には遣米使節は乗ってなかったんですよお!」

っていうんだろうか。考えたくもないけど。
というわけで、なんでこの人(たち)が咸臨丸と勝海舟を目の敵にするのか
いまいちわからないままですが、とにかく話を先に進めることにしましょう。



さて、未知の国ジャパーンから来た77人のサムライは、アメリカ人の好奇心を掻き立て、
滞米中常に人々に取り囲まれていたといいますが、とくに、そのなかで
アメリカ人(特に女性)の”アイドル”になった日本人がいました。



アメリカ女性に囲まれてモテモテのサムライがいますね。

これがトミーこと立石斧次郎でした。
養父の立石徳次郎は長崎出島の通辞(通訳)で、斧次郎も長崎にあった
学校で英語を学んだといわれます。

当時17歳の斧次郎は渡米の途にある船のなかでもペット的存在でしたが、
アメリカに着いてからは特にアメリカ女性のアイドルにもなります。
かれは、きょうびのロックスター並みにファンがいたそうです。

'Tommy,' as he was known, was especially popular
with American women, treated "like a present-day rock star”.

なんと、かれのことを歌った「トミーポルカ」なる曲まであったとか。

TOMMY POLKA



Wives and maids scores are flocking 
Round that charming little man,
Known as Tommy, witty Tomy,
yellow Tommy, from Japan

奥様方もお女中も、群れをなし
チャーミングな小さな男のまわりに群がるよ
その名はトミー、賢いトミー、黄色いトミー、
トミーは日本からやってきた(エリス中尉訳)

なんだか対等な人間扱いという感じがあまりしないのはなぜだろう。
まあとりあえず、アメリカ人はこのように彼を愛していたようです。

”ロックスター”といっても、そこは当時のアメリカのことですから
熱狂するといってもせいぜい全米から手紙が殺到するというレベルでした。
どうして77名のサムライの中で、彼だけがこんなにもてはやされたかというと、
どうもその理由は本人のキャラクターにあったようです。

全米を熱狂させたファースト・イケメン・サムライ



写真を見るとイケメンとはとても言い難いトミーですが、
関西で言う所の「いちびり」で、クラスに一人はいる明るい人気者、
という当時には、とくにサムライには珍しいキャラクターが、
アメリカで発揮され、アメリカ人に歓迎されたようですね。
本人も異国で信じられないくらいのモテぶりにさらにハッチャケてしまったようで、

「アメリカ女性と結婚してアメリカで暮らしたい」

てなことを思わず口走ってしまっています。
さらにトミーは笑顔が素晴らしく、当時のアメリカ人によるとたいへん
着こなしのセンス、着物の色使いが良かったということも書かれています。

しかし、いかにモテても「この人と結婚したい」という果敢なアメリカ女性は
どうやら一人もいなかったらしく、トミーの要望は言っただけに終わり、
彼は遣米使節が帰国の途に着くとおとなしく一緒に日本に帰っています。



それにしても気になるのは、人生最大の「モテ」をすべて
アメリカで使い果たしてしまった(笑)
彼のその後です。
日本に帰ってから、トミーは江戸にあるアメリカの公使館(昔の大使館?)に
通訳として就職し、同時に英語の教師としてたくさんの生徒を教えました。 

彼はいわゆる王政復古、1868年に江戸幕府を廃絶し新政府樹立の時、
戊辰戦争では反新政府側について戦い、脚を怪我した、というようなことも
アメリカでは報じられたようです。
その後彼は東京に戻り、名前を「ナガノケンジロウ」と変えて、
新政府側の逮捕を逃れました。
ちなみにこのときに、同じ遣米使節の目付役であった小栗忠順は、
薩長への徹底抗戦を唱えて斬首されています。

そんなトミーが、またアメリカに行く日がやってきました。
1872年、岩倉具視を正使とした岩倉使節団の107名の一人として
アメリカとヨーロッパ訪問に加わったのです。
そのとき、1843年生まれのトミー、29歳。
17歳のときにはモテモテだったトミーですが、岩倉使節団のときの
訪米でまたモテモテだったかどうかは話題になっておらず、
それどころかwikiの「岩倉使節団」の錚々たるメンバーの中では
通訳だったトミーは「その他」扱いで名前も出てきません。(T_T)

トミーも名前を載せてやってくれ。

さて、無事岩倉使節団での任務を果たし日本に帰ってきたトミー、
「北海道開拓のための産業省のオフィサー」
と英語ではなっているので、これは北方開拓のために作られた
開拓使という官庁のことで、省と同格の中央官庁に官吏として
就職したということのようです。


ところが彼の職歴はそこで終わらず、語学堪能を見込まれて(多分)
1887年から1889年まで、ハワイの移民局の最高責任者として当地にいました。
YouTubeの「トミーのポルカ」に出てくるトミーと洋装の家族写真は、
そのときに家族同伴でハワイに赴任していたのではないかと思わせます。
このときトミー44〜46歳。

その後、トミーは順調に出世をして、1891年には大阪高裁の公式通訳になり、
1917年1月13日、64歳で生涯を終えました。


彼は生涯、アメリカでの一時期を振り返っては

「あのときの俺、なんであんなにもてたんだろう」

と不思議に思っていたであろうことは容易く想像されます。
誰にも人生一度は訪れるモテ期とはいえ、全米を巻き込んだとなると、
スケールが大きすぎて、彼自身にもよくわけがわからなかったのではないでしょうか。

一つ言えることは、トミーは間違いなく、史上もっともたくさんの
アメリカ女性を夢中にさせた日本男性だったであろうということです。


続く。 

 
 


 


京都夢芝居・蛍と鷺の宿

2016-06-06 | お出かけ

さて、前回、金毘羅宮から京都に向かう途上、瀬戸大橋を渡り、
その耐震構造についてふと疑問を呈したところ、さっそく詳しい方から
瀬戸大橋の耐震性についてコメントをいただきました。

瀬戸大橋の耐震性については、まず、過去に起こったM8.0の地震
(昭和21年の南海地震)を想定した耐震設計基準が構造に取り入れられており、
さらには兵庫県南部地震のような直下型地震や東北地方太平洋沖地震クラスの地震についても、
発生後すぐに検討に入り、損傷を想定して補修がなされているということです。

さすがに損傷が全くないということではないようですが、
少なくとも倒壊など重篤な損害によって通行が不可能になることだけはなく、
またわたしが不安を感じた「海に車が投げ出される」という可能性も、
ちゃんと車の重心などを考慮したシミュレーションによるとまず心配ないそうです。

今の日本で地震に対して安全なところなどないわけですが(岡山くらいかな)、
このように日本の企業がいざというときに際しての備えを
持てる技術の粋に留まらずたゆまぬ進化を怠らないということを知ると、
どんな災害に襲われて傷ついても日本は必ず立ち上がる、と頼もしく思いますし、
地震災害国である日本がここまで発展したのも、こういった技術に表される
生存のための知恵を昔から重ねてきた先人の努力の賜物であろうと誇らしくもあります。



さて、無理矢理話をつなげると、日本の誇り、といえば京都ですね。
少なくとも誇り高い京都の人たちはそう思っているに違いありません。
昨今では観光客が増えすぎて風情がなくなったと言われている京都ですが、
まだまだ京都の人はその誇り高さゆえに「京都らしい頑固さ」を守り抜いていて、
それがまた京都が愛される理由となっているように思えます。

前回は町屋の宿という、逆説のようですが「新しい京都」に宿泊したのですが、
今回は直球も直球、ど真ん中の老舗料理旅館に泊まりました。
今なお美しい水の流れを誇る白川沿いの宿です。

白川というのは比叡山に源があり、その流れはちょうど祇園で鴨川に合流します。
前回の京都でお話しした「高瀬川」ほどの水深はなく、せいぜい5〜10センチで、
「白川」の名前の由来は、流域一帯が花崗岩を含む礫質砂層で構成されており、
川が白砂(石英砂)に敷き詰められているように見えるからと言われています。

追悼式の後、5時間の高速運転の末に京都にたどり着いたとき、
わたしは疲労困憊して口を聞くのも億劫なくらいでしたが、
到着してからすぐにお風呂をいただいてさっぱりしたところで、
ここの自慢の京料理が部屋に運ばれてきました。



メニューはまだ若い女将さんが毛筆で手書きしたもので、
一品ずつ一枚の紙に書かれており、運んでくるたびにそれをめくっていきます。
京都といえば鱧、ということで最初に出てきた刺身と鱧の湯通し。



説明を聞いたけどなんだったか忘れました。
「冷たい味噌汁」のようなもので、真ん中の豆板のような寒天のようなのは
麩的なものであったという気がします。



賀茂茄子をくりぬいて入れ物にした茄子と牛ロースの「炊いたん」。
外国人客も多いので肉も普通に使います。
外側の茄子の皮は苦味があり美味しくなかったので残しました。
実は疲労のせいであまり食欲がなかったというのもあります。

こういうのがダメな外国人には専用メニューもあるそうですが、
この辺も京都が変えざるをえなかった部分かもしれません。



竹をくりぬいた入れ物の底1センチにジュンサイ的なものが入っていました。
おちょこ1杯で足りるものをわざわざ竹の筒二本に入れる。遊び心ってやつですか。



蛍が見られるのは夜9時ごろからということだったので、夕食後
浴衣に羽織姿のままで外に出てみました。



白川沿いの店は古い料亭あり、カウンター式に新しくしつらえた小料理屋あり、
カラオケ店まであるようで、外に音が聞こえてきていたのがご愛嬌でした。
これが昔なら三味の音であったりしたのでしょうか。



外国人が増えたというのは少し街を歩いただけで実感されます。
たとえばこの神社の裏手には、白人系の若いカップルがバックパックを背負ったまま
この時間だというのに地面に座り込んでいました。
まさかホテルを取らずに来たのでしょうか。



しばらく歩いて行くと橋の上から川面に鷺の姿を発見。
鷺だけでなくよく見ると川面を無数の蛍が飛び回っています。
残念ながら蛍の写真などどうやってとって良いか分からず、
この写真も真っ暗なところに当てずっぽうでカメラを向けてシャッターを押したら
なんとか写っていたといういい加減なものなですが、それでもよくみると
水面に幾つかの「蛍の光」が認められます。

「鷺って蛍食べちゃわないのかな」

「料亭の魚の切れ端もらって食べてるんだから虫なんか食べないだろ」

後から聞くと、鷺は魚の他には貝などを見つけて食べるそうです。




そのあと、すっかり最近京都の夜に詳しくなったTOが、この並びにある
一軒の町屋のようなところに入っていきます。



お座敷に通されて出てきたのは果物のジュースでした。
なんと京都のバーというのはこういう町屋だったりします。



芸者さんの名札が玄関先に並べてある置屋の玄関。



明けて翌日、早速部屋の窓から外を見てみます。



声明のような声が聞こえたのでみてみると、虚無僧のような姿の一団が
一人一人の間を空けながら歩いてゆっくり通り過ぎるところでした。
朝、こんな光景が見られるのは日本でも京都だけでしょう。



虚無僧の写真を撮っていてふと気づくと、部屋のすぐ下に
鷺が一羽、もの待ち顏で待機していました。
鷺には「おーちゃん」という名前があって、名前の由来は一本足で立っていることから
一本足打法の王選手の「おー」なんだそうです。

「鷺って何羽いるの」

「五羽くらいいるらしいよ」

「どれが”おーちゃん”とか、どうやってわかるんだろう」

「とりあえず全員”おーちゃん”って呼ばれてるらしい」

なぜ5羽いるということがわかったかというと、ある日ある時、
5羽の鷺が一堂に会しているところが目撃されたのだそうです。

女将さんによると、くちばしや脚の色が年齢によって違うので、
ある程度は見分けられるということでした。



魚の身の切れ端をやるようになってからおーちゃんたちは口が肥え、
他のものなど見向きもしない贅沢な鳥になってしまったそうです。
というわけで、彼らの仕事は朝に夕に、時間通りに餌をくれる旅館の前で
こうやって時間を潰すこととなって現在に至ります。



厚かましいおーちゃんになると、勝手口にヅカヅカと入ってきて
「魚おくれやすー!」と主張するツワモノもいるそうです。

また、川岸から川床、川床から人家の屋根と、縦横無尽に飛び回るのですが、
そのときなんとも言えない禍々しい鳴き声をあげるのでした。

「鷺いうのは姿は美しいですが声があまりよろしおまへんなあ」

とは女将さんのお言葉。



その女将さんのお給仕で朝ごはんを頂きました。
その時に出た話題ですが、京都の小麦消費量は全国一高く、
特にパン好きな市民なのだそうです。
京都の料亭などで出るこのような食事とはうらはらに、京都人は
どんな年配の人であっても朝ごはんはパンとコーヒーか紅茶。
早起きして近くの行きつけのパン屋にパンを買いに行くところなど
まるで姉妹都市であるパリっ子みたいです。

ここだけの話ですが、京都人とパリ人はプライドが高く「いけず」なところもそっくり。



おーちゃんのいた川がカウンター越しに見える部屋で、晩にはバーにもなります。
朝ごはんは前日に白飯かおかゆかが選べます。

 

ランチョンマットには女将さんが朝方したためた一筆が。
こういう気遣いが京都に泊まる楽しみでもあります。



部屋に帰って簾越しに外を見ていたら、結婚式のフォトセッションらしく、
着物姿の男女がポーズを取っていました。

「いつも通り気楽にお願いします」

という声に、すかさず女性がVサインしていました。
今の女の子というのはVサインしないと写真が撮れないのか(笑)



そうかと思ったらだらりの帯の舞妓さんコスプレも通ります。
なぜ本物でなくコスプレといいきるかというと、本物の舞妓さんが街を歩くのは
お座敷の仕事がかかった夜だけで、こんな朝から人前に出没しないものだからです。
また「一見さんお断り」のお店にいることが多いので、京都市内で普通に見かけるのは
観光客の扮した「なんちゃって舞妓」。

そもそも京都市民でも、本物の舞妓を見かけることはほとんどないといわれます。



チェックアウトは11時。
このあと夜の大阪空港発の飛行機に乗るまで、わたしと息子は
わたしの神戸の実家に車で、TOは京都で用事という段取りです。

八坂神社は遠目に見ても中国人とわかる団体で溢れかえっています。



北白川のドンクでお茶にしました。
女将さんいうところの「京都人はパン好き」を表すかのように、
日曜の朝のひと時をベーカリーフェで楽しむ人たちでいっぱい。

ドンクの駐車場の監視カメラにはツバメが巣を作っており、
巣の上からぽわぽわした頭が二つ三つ出たり入ったりしていました。
お客さんの頭に”落し物”をしないように、お店はおしゃれなカゴを設置(笑) 



TOを進々堂の近くで降ろし、高速に向かいます。
久しぶりに京大の前を通ってみたら、妙に綺麗な建物が〜!!!
なんでも近年、(というか前に来てからすぐ)食堂の補修と新棟の建設が完成したそうです。



さて、もういちど「おーちゃん」のことについて書いておきます。
チェックアウトのころ、なんとなく玄関先でおーちゃんを眺めていたら、
板さんが中から出てきて黙ったままぽいぽいと魚の切れ端を放り込み始めました。

板さんは客に愛想をしない決まりでもあるのか、「おはようございます」といっても
何の返事もなく、おーちゃんについての説明もなし。
さすがは京都の名門料亭の板前である、と妙なところで感心しつつも見ていたら、
通りがかりの中国人のおばちゃんにえさやりが見つかってしまいました。

またこの人たちの格好がすごいのよ。
赤、黄、青、緑、黒、ピンクが体のそこかしこに配された洋服を全員が
まったく同じような着こなし?で纏っていて目がチカチカするうえ、
実際にも口々に何かを口走り、うるさいのなんの。

わたしたちは鷺を見ると鷺の写真を撮るわけですが、この人たちはなぜか
鷺をバックに必ず自分たちが写っている写真を撮りたがります。

突進してくる電車の線路に足を乗せて自撮りしていて、

その電車にはねられた中国人の女の子がいたそうですが、
彼らの自撮り好きをみると、さもありなんと納得してしまいました。



おーちゃんに投げられた魚の切れ端を狙ってカラスもやってきて
横から魚身をかすめ取るのですが、おーちゃんはおっとりしているのか
魚身の多くが下流に流れて行ってしまいます。

案外白川の流れって早いんだなあ、とふと下流を見ると、なんとそこには
『おーちゃん2号」がいて、流れてきた魚身をおいしくいただいていました。



おーちゃん1号とともに写っているのは鴨の親子。
彼らもおーちゃんに投げられた魚を当てにしているようです。



みていると、誰が合図を出したのか全員で下流に流れていきました。

「おー流れてる流れてる」

「省エネモードで移動してるわけね」


蛍と鷺、ついでに鴨の川流れと京都の初夏を満喫する旅。
いつも京都に来ると、なにかとてもよくできた舞台装置のなかに紛れ込んだような、
唯一無二の「京都」(外国人からみると”日本”)という名の芝居に
エキストラ出演しているような、
非日常感を味わうことになります。

「なんちゃって舞妓体験」を試みたり、結婚式でまるでドレスのような色合いの
着物を着て紋付袴の彼氏とVサインで写真を撮る人たちも、
その登場人物となって芝居に積極的に加担しようとしているのに違いありません。



 


日系アメリカ人二世~「メリルの匪賊」と「アーロン収容所」

2016-06-05 | 日本のこと


 


日系二世部隊であるMIS(Military Intelligence Service) 、
14人の諜報部は、そのうち一人だけが白人の部隊で、
ビルマ戦線では「マローダーズ」のために任務についていました。

この写真はMISのヘンリー・ゴウショ軍曹と、「マローダーズ」のウェストン中尉。
ゴウショ軍曹も日系人収容所からMISに参加した組で、戦線で娘の誕生を知りました。
戦後は、1977年に「レンジャー・ホールオブフェーム」にその名を加えられています。





日系米人シリーズを書くために、山崎豊子の「二つの祖国」をもう一度読みましたが、

改めて思うのは、我々が想像するよりずっと、彼ら二世は「日本」に対して複雑な、
むしろ愛憎で言えば「憎」の側が勝った感情を持っていたのではないかということです。

日本人の両親から生まれても日本を見たことがなく、日本人というだけで
酷い差別を受けてきた上、アメリカ的には「スニーキーアタック」である
真珠湾攻撃によって一層自分たちの立場を悪くした日本。


アメリカが自分たちを非人道的に扱うのは「日本のせい」だと、むしろ

自分たちの不幸の責任を「日本」にすり替えて憎悪するものすらいたのではないかと。

日系人の中には、日本がミッドウェーで負けたというニュースを知らず、
快進撃を続け、そのうち勝つに違いないと期待を続けた者もいる、
と小説ではかかれていましたが、それは少数派ではなかったのか、と、
たとえば占領後の日本で、占領軍の先に立ち、

日本人に侮蔑的に振る舞う二世などの話を聞いて思わずにはいられません。

特に戦後の日本側の媒体で、この日系二世が良く描かれることは稀ですが、
特にアメリカ政府が日系人に対する迫害などを謝罪してからというもの、

アメリカ側からこの視点で日系アメリカ人を描くことはタブーでもあるようです。

前述の傲慢で無礼な日本人に対する態度、そして東京裁判における稚拙な日本語が
裁判の進行を甚だしく妨げた、などということはあくまでも日本側からの視点で、
現在のアメリカでは日系二世たちはアメリカのために日本やドイツと戦った
アメリカ合衆国のヒーローということになっています。



どうもわたしは日本人のせいか、442部隊は素直に賞賛できても、MIS、

特に沖縄で宣撫工作を行った日系二世兵士たちに対しては、感情的な部分で
「よくそんな立場に立てたなあ」というか、虎の威を借る狐を見るような、

わずかな嫌悪を交えずには見ることができないのですが、この複雑さもまた、
当事者である彼らが一番苦しめられたジレンマそのものでもあるのでしょう。





ところでみなさんは「メリルの匪賊」という言葉を聞いたことがありますか?

ない?それでは「メリルのマローダー」は?

「マローダーなら知ってるよ、飛行機の名前になっているし」

と思った方はわたしと全く同じです。


「メリルの匪賊」、というキャッチフレーズが日本では全く知られていないのも、

このビルマ戦線で苦労した、フランク・メリル隊長以下第5307編成部隊についての逸話が
日本では有名に成るべくもない(どうでもいい?)ものであったからに他なりませんが、
アメリカでは「Merrill's Marauder's」という映画にまでなっています。

Merrill Marauders (Original Trailer)

ビルマ戦線では、アメリカも結構大変だったんですねよくわかります。(適当)
映画では状況が悪くなって、隊の中で仲間割れして殴り合いなんかになってますね。

戦況を簡単に説明しておくと、もともとイギリス領だったビルマに日本が侵攻し、
イギリスを追い出して全土を制圧していたのですが、これを取り戻すために連合軍が、
終戦までに多大な犠牲を払ったというのがビルマの戦いの全容です。



「メリルの匪賊」というのは、1943年に日本の補給線を断つための戦闘に、
ブーマに投入された第5307隊のニックネームですが、
これは戦後になって、隊長だったメリル准将自身がつけたものです。

自分の名前をちゃっかり入れたあだ名を後からつけていることにご注目ください。

それはともかく、ジャングルに展開した「マローダーズ」は、重機も戦車もなく、
1000マイル以上を歩いて進軍し、日本の陸軍第18部隊と戦い、
これを倒してシンガポールとマラヤを散々苦労して制圧しました。


この戦いにおいては日系アメリカ人二世が多大な功績を上げたわけですが、
その働きはメリル将軍(最終)の言葉に要約されています。

「君たちがいなかったらどうなっていたかわからない」

はあそうだったんですか。

諜報部隊の二世たちには、その勇気と武功を評価され、
全員にブロンズスターメダルが与えられています。



真ん中、フランク・メリル将軍。
なんだかフライングタイガースのシェンノートみたいな人ですね。




このときのMISの隊長は、ウィリアム・ラフィン大尉といい、日本語学者でした。
父親がアメリカ人、母親が日本人で、1902年、日本生まれです。
日米が開戦となった時に彼らは日本にいましたが、収監を経て国外追放となります。
アメリカに帰国することを余儀なくされた彼は、ニューヨークに着いたその足で
MISへの入隊を決めています。

彼の場合は母の国から拒絶された思いが、日本と戦うことになることも承知で
軍へとその身を駆り立てたのでしょう。

隊長としてメリルの「マローダー」に配属された彼ですが、 乗機が零戦に撃墜され、
1944年5月にビルマのブーマで戦死しました。



ところで、日本はビルマ方面作戦に参加した303,501名の日本軍将兵のうち、
6割以上にあたる185,149名が戦没し、帰還者は118,352名だけでした。

この地で捕虜になった日本軍の将兵には、連合軍による非人道的な報復が行われました。
 敗戦により捕虜になった日本兵が大多数だったため、連合軍は、勝手に

「降伏日本軍人」(JSP) という枠を設け、(捕虜とすると扱いが国際法に準じるから)
国際法に抵触しないギリギリで、現場ではリンチまがいのことも行われ、
この結果、半数が収容所の労務で死亡しました。



終戦になっていため、本来は条約により、多くの日本兵を一年以内に帰国(帰還)

させることが決まっていたにもかかわらず、英国軍主体の東南アジア連合国軍 (SEAC)
日本兵から「作業隊」を選び、意図的に帰国を遅らせました。

兵士の労役の賃金は、連合国(英国)からは支払われず、日本政府が負担しています。


それだけではありません。


連合国軍は秩序の維持の為と称して、暴力・体罰を用いたり、銃殺を行いました。

窃盗などの軽い犯罪であっても処刑されたり、泥棒は即時射殺されたりしました。

連合国軍兵士は、日本兵に四つん這いになることを命じ、一時間も足かけ台にしたり、
トイレで四つん這いにさせてその顔めがけて小便をしたり、
タバコの火を日本兵の顔で消したり、顔を蹴ることも楽しんで行いました。

また、『戦場にかける橋』などで知られる泰緬鉄道を敷設した
「鉄道隊」に対する英国軍の報復について、
「アーロン収容所」の著者会田雄次はこんな話を聞いたそうです。


「イラワジ川の中洲には毛ガニがいるが、カニを生で食べるとアメーバ赤痢にかかる。
その中洲に鉄道隊の関係者百何十人かが置き去りにされた。
英国軍は、降伏した日本兵に満足な食事を与えず、飢えに苦しませた上で、
予め川のカニには病原菌がいるため生食不可の命令を出しておいた。

英国人の説明では、あの戦犯らは裁判を待っており、狂暴で逃走や反乱の危険があるため、
(逃げられない)中洲に収容したと言う。
その日本兵らの容疑は、泰緬国境で英国人捕虜を虐待して大勢を殺したというものだが、
本当なのかはわからない。
その中洲は潮が満ちれば水没する場所で、マキは手に入らず、飢えたらカニを食べるしかない。
やがて彼らは赤痢になり、血便を出し血へどを吐いて死んでいった。

英国軍は、毎日、日本兵が死に絶えるまで、岸から双眼鏡で観測した。
全部死んだのを見届けると、

「日本兵は衛生観念不足で、自制心も乏しく、英軍のたび重なる警告にもかかわらず、
生ガニを捕食し、疫病にかかって全滅した。まことに遺憾である」

と上司に報告した。


会田にこのことを伝えた人物は、

「何もかも英軍の計画どおりにいったというわけですね」

と話を締めくくったそうです。


この収容所の地獄から生きて帰ってきた会田雄次は、「アーロン収容所」という著書で
日本が手本とした英国のヒューマニズムは英国には無かったとする主旨を著し、

「少なくとも私は、英軍さらには英国というものに対する
燃えるような激しい反感と憎悪を抱いて帰ってきた」


「イギリス人を全部この地上から消してしまったら、世界中がどんなにすっきりするだろう」

「(もう一度戦争した場合、相手がイギリス人なら)女でも子どもでも、
赤ん坊でも、
哀願しようが、泣こうが、一寸きざみ五分きざみ切りきざんでやる」


と怨嗟の思いを書き残しています。



さて、終戦後日本からビルマを取り戻し、そこで散々日本人捕虜に虐待しておいて、
東京裁判では人道に対する罪と称して日本を「有罪」にしたイギリスはじめ連合国は、

最終的にはアジアから撤退し、アメリカも中国における足場を失いました。


ビルマは1948年に独立を達成しましたが、戦後、同国と最も良い関係を築いたのは、
アメリカでももちろんイギリスでもなく、戦後補償をきちんと行い、
合弁事業によって国家の振興に協力し、
戦争により破壊された鉄道通信網の建設、
内陸水路の復旧や、沈船の引き上げなど、
2億ドル(720億円)の戦争賠償と
5,000万ドル(180億円)の経済協力を行った日本でした。


ネ・ウィンをはじめとするBIA出身のビルマ要人は日本への親しみを持ち続け、
大統領となった後も訪日のたびに南機関の元関係者と旧交を温めたと言われます。
1981年4月には、ミャンマー政府が独立に貢献した南機関の鈴木敬司
旧日本軍人7人に、国家最高の栄誉である、

「アウンサン・タゴン(=アウン・サンの旗)勲章」

を授与しています。



日系二世たちは国家から忠誠の踏み絵を踏まされ、その結果、
選びとった祖国アメリカのために命を捨てて戦いました。

なんどもわたしが言うように、戦争に「どちらが正しい」はありません。

しかし、彼らが忠誠を誓ったアメリカはじめ連合国の大義は、少なくとも
ビルマやインドネシアなどアジア諸国において戦後否定されるという結果となったのです。




自分たち日系人が結果として、日本を叩き潰す、すなわち

大国側に立って植民地支配と人種差別を維持するための戦いを幇助していたこと

を、大抵の二世兵士たちは、おそらく考えてみることもなかったでしょう。



彼らのなかには、米国における日系人の立場を悪くした真珠湾攻撃を起こした国として
日本を純粋に憎み戦った者がいたかもしれないし、ラフィン大尉のように
「日本から裏切られた」という苦衷の思いで戦った者もいたでしょう。



日系アメリカ人たちは、激しい人種差別の中、よきアメリカ国民になるため、
祖国のために血を流し、遅かったとはいえ戦後それが国家から認められるに至りました。
しかしその祖国は、皮肉なことに、戦後、1966年に人種差別撤廃条約が締結されるまで、
日本がかつて国連で提唱した「人種差別撤廃提案」を拒否したこともある差別大国だったのです。



どれくらいの日系アメリカ人たちが、アメリカという大国の二面性を表す

この痛烈な皮肉に気づきながら、その旗のもとに戦っていたのでしょうか。






「高松から京都まで車で1時間半」

2016-06-04 | お出かけ

高松は金刀比羅神社境内において行われた掃海殉職者追悼式も
無事に終了しました。
前日の予行演習のとき、わたしは自衛隊広報の方に説明を受けていたのですが、

「5月の最終土曜日にこうやって追悼が行われているということを
少しでも多くの人に知っていただきたいのですけどね」

とおっしゃったので、わたしも微力ながらここでお伝えできることもあろうかと
追悼式の様子もできるだけ写真に撮り掲載いたしました。
無論、黙祷や追悼の言葉、国旗掲揚や儀仗隊の弔銃発射の間は列席者に徹し、
写真も献花のときに撮るなど、近くに座っている人たちと同じようにしたつもりでしたが、
某雷蔵さんから「正式な追悼式列席者が写真を撮るのは如何なものか」とのご意見を賜り、
それもごもっともなご指摘であると思った次第です。

後から考えると式の間は海自のカメラマンやふりかけさんが写真を撮っておられましたし、
何人かの追っかけ?的な人も式の間ずっとあちらこちらで撮影をしていたわけですから、
何もわたしが無理をしておじさんたちの頭越しに写真を撮る必要もなかったのですが、
そこでつい立場を弁えずに頑張ってしまい、反省することしきりです。



さて、式終了後車を停めていた観光センターまで自衛隊のバスで送ってもらい、
そのあとはわたし、会長、ふりかけさん、自衛官の母4人でお昼を食べました。
昨日タクシーで連れて行ってもらった「神椿」ですが、ナビに入れると
このナビがとんでもない農道みたいな細道を走らせた上、遠回りをさせるので
2回も現地の人に道を聞く羽目になりました。

写真は神椿に行くためだけにある細い道で、車がすれ違えないので
5分くらいの信号で交互通行しています。

イノシシが出没いたします、ご注意くださいと書いてありますが、
イノシシが出たからといってどう注意せよというのか。



駐車場から神椿に行くのにはこの「えがおみらい橋」を渡っていきます。
どう考えても神椿のためだけにあとから山の山麓同士をつないだらしい橋。
よくまあ一軒のレストランのためにここまでするものだと思います。

入り口にも書いてありましたがここは車の通行は禁止されています。
空中にワイヤで吊ってある橋らしいので重量をかけられないのでしょう。



橋の途中から下を眺めると、道のない深い森の緑が鬱蒼としています。



新日鐵とサカコーという会社が施工を行ったというプレートあり。

「COR-TEN鉱床材」(コルテンこうしょうざい)

なる耐候性鉱床(鉱物の濃集隊)を「奉納」したとあります。
つまりここも金刀比羅神社の関係ということになりますね。
ちなみにコルテンというのは無塗装で使用しても天候によって錆びることがないので、
塗装がいらず補修費用の多大な節約になるというのが謳い文句です。



昨日海自の幹部がここで食事をしていましたが、それは追悼式の恒例だそうです。
ここでは資生堂オリジナルのレトルト食品など物販も行っており、
ふりかけさんは「ここでしか買えない」というオリジナル香水を購入しておられました。

「階段を上がって汗をかいたしお風呂に入れなかったので・・」

「・・・その香水の使い方は少し間違ってると思う・・」

香りをかがせてもらったところ、昔母親の使っていた化粧品のような
懐かしい雰囲気の匂いがしました。



金刀比羅神社との関係をなにやら放映していましたが、食事をしていて
ほとんど見ることはできませんでした。
ただ、この金刀比羅宮の権宮司、琴陵泰裕氏は先ほどの追悼式において
背広姿で追悼の辞を述べたばかりだったのですぐに気づきました。

大変お若い方です。
調べたところ権禰宜は日本水難共済会という会にも関係しておられるようで、
というのも金刀比羅宮は昔より海の神様とされているからでしょう。
それが広く認知されるようになったのは、塩飽の廻船が金毘羅大権現の旗を掲げて

諸国を巡ったことに由来するといわれています。

境内には古来から海自関係者の奉納物が多く見られ、これこそが
海上自衛隊総会殉職者の追悼式の場としてここが選ばれた理由だと思われます。

ちなみに、これはふりかけさんがお聞きになったそうですが、
この式典が「慰霊祭」ではなく「追悼式」であるというのも厳格には間違いで、
 「慰霊祭」は、慰霊式とは別に、非公開で前日に行われているのだそうです。

「慰霊祭」とは別に「追悼式」を行うようになった経緯には

「海上自衛隊が神式の慰霊祭を行うのは如何なものか」

との指摘があったから(どこから?)ということだそうです。



さて、ここは資生堂パーラーでありますので、壁には創業当時の
銀座の資生堂パーラーの写真がかけられています。
こちら、大正8(1919)年の外観。
この年、第1次世界大戦の終結に関するパリ会議が行われ、ローザ・ルクセンブルグが
虐殺され、日本では関東軍が設置され、やなせたかしが生まれています。

開業1902年と言いますから、日本海海戦のまえにはもうあったんですね。



昭和10(1935)年の内観。
1928年(昭和3年)には「資生堂アイスクリームパーラー」と改称し、
本格的な洋食レストランとなりました。
メニューには、カレーライスやオムライスなどがあり、モボ・モガや新橋芸者衆など、
当時のイケてる若者が集まる一方、いわゆる昔からの上流階級を顧客に持ち、
「成功率の高いお見合いの名所」でもあったそうです。



ビーフカツレツ(昔の人はビフカツといった)やチキンライス、
カレーライスなどいかにも洋食屋といったメニューの中から、
本日のランチを選択しました。



サラダ、肉、魚に小さなカレーライスという組み合わせ。


 
デザートは二種類から選べたので、クリームブリュレを選びました。

ブリュレが緑に見えるのは、確かオリーブオイルの関係だったと思います。 



わたしと自衛官母、自衛官母と会長、会長とふりかけさんは初対面でしたが、
追悼式に出席(自衛官母は”息子が参加したこともあるので是非一度見てみたかった”とのこと)
するという目的を同じくする者同士で話は弾み、あっという間に時間が過ぎました。

入るときに地面を濡らしていた小雨もすっかり止んでいます。



レストランの敷地内にあるお寺のような建物に皆が注目しました。
ふりかけさんがわざわざ前まで見にいったところ倉庫だったそうです。



「なぜこんな立派な、というかお寺の御堂のような倉庫が・・」

とそのときは訝しんだのですが、この写真を見て謎が解けました。
「神椿」は金刀比羅宮の本殿まで上がる坂道の途中に位置し、
山道を登っていく人からこの倉庫はよく見えるのです。
そこに倉庫然として無粋な建物を建てることを良しとせず、
わざわざこのような、しかも年代を経ているかのような建築にしたのでしょう。

もともと「神椿」を金毘羅宮の中に建てるということは、金毘羅宮の中の人が
資生堂に依頼する形で決まったということらしいので、ここまでの気配りも
当然かと思われます。



その後はわたしと会長、ふりかけさんと自衛官母の二台の車に分かれ、
わたしは会長を琴平駅で降ろしてそのまま瀬戸大橋を渡りました。

なぜか。

実はこの後わたしは1年前から予約を取っていた京都の宿に
夜までに行かねばならなかったのです。
白河沿いにある料理旅館で、一年前のホタルの季節に泊まったTOが
大変良かったので家族で泊まるためにその頃から予約をしていたのでした。

当初追悼式の出席はこのため諦めていたのですが、

「ホタルを見るのが目的だから追悼式が終わってから一人で来ればいい」

と言われて、あまり考えもせず車が便利だろうとレンタカーを借りました。
ふりかけさんが、

「京都までなら電車で瀬戸大橋を渡って新幹線で行ったら早くて楽じゃないですか」

というので、わたしは

「車で行くと案外早いらしいので。1時間半くらい?」

と軽く答えました。
この「1時間半」というのがいったいどこから出てきてそう思ったのか、
後からわたしは自分でも悩むはめになるのですが、この辺の地理に詳しい方なら
高松市から京都市まで車で1時間半で行けるわけがない、と驚かれるでしょう。

わたしがその1時間半が5時間の間違いであることに気がついたのは、
瀬戸大橋を渡りきってすぐにでてきた道路標識に

「神戸まで160キロ」

と書いてあったのを見たときでした。
家族にも料亭の女将さんにも笑われ呆れられたのですが、
どうやらわたしは四国と淡路島の距離感を取り違えていたようです。
(淡路島でも1時間半は無理だという説もありますが)

しかもたったひとりで5時間高速をレンタカーで運転する(おまけに車はインプレッサ)
という自分の運命に絶望した途端、運転する人ならお馴染み、
あの、高速走行中における「耐えられない眠気」が襲ってきました。

一瞬ふっと意識が飛んで恐ろしくなったわたしはつぎの休憩所に飛び込み、
駐車場で10分仮眠を取り、その後は不思議なくらい元気になって
無事日が暮れると同時に京都に到着したのです。



瀬戸大橋を車で渡ったのは初めてでした。
当たり前ですが延々と海の上を高速道路が連なっています。
日本の橋梁技術ってすごいなあと感動しつつも、一方で
橋のガードレールがあまりにも低いので、

「もし今地震が来たら、まず確実に車ごと海に落ちるであろう」

という不安が拭いきれず、一応海側ではなく内側の車線を走りました。
瀬戸大橋の地震対策ってどうなってるんでしょうね。 




 


第65回掃海殉職者慰霊式 於金刀比羅神社

2016-06-03 | 自衛隊

掃海母艦「ぶんご」艦上のレセプションから一夜が明けました。
疲れのせいでぐっすり安眠することができ、爽やかな目覚めです。



ホテルの窓からまずはカーテンを開けて「ぶんご」を確認。
今回一応持ってきた望遠レンズを初めて出動させて撮ったのがこれ。
「ぶんご」の「秘密の喫煙コーナー」に幹部らしき人影アリ。

あとでふりかけさんに見せると、

「一人でタバコを吸える貴重なスペースなんですよね」

艦隊勤務は常に狭い空間、他人と肌触れ合わさんばかりの日常の連続ですから、
束の間でも一人になれる時間は大変貴重なものなのでしょう。



後ろの「くめじま」艇上も撮っておきました。
掃海艇の朝の作業が粛々と行われている模様。



向こうの「みやじま」には「◯飛奮闘」というピンクのバナーが見えます。



「くめじま」の後甲板。
掃海作業が始まれば戦場と化すこの後甲板も、今は静かな朝の時間です。



わたしが泊まっているホテルクレメントでふりかけさんと朝ごはんを食べました。
お約束のスカレーくんとピーコさん、金魚2匹と食事の記念撮影。

ちなみにさすがはうどん県だけのことはあって、朝のビュッフェにうどんがあり、
それがやたら美味しかったです。



追悼式参加者には、当日の朝観光センター駐車場から
シャトルバスが出ることが通知されています。
車をここに駐めていけるので安心です。

皆が固まっているところは喫煙所で、陸自の幹部が何人かいます。



シャトルバスは、追悼式会場に比較的近い駐車場まで連れて行ってくれます。
毎年参加している地球防衛会の偉い人は、

「降りたら階段は全くありません。平地です

と力強く言い切っていましたが、実際は階段を下って行くことになりました。
去年のことをすっかり忘れてんじゃねー(笑)


 

摂政宮殿下御野立所という石碑あり。
「野立て」とは「のだち」と読み、 旧陸軍などの演習において
天皇陛下が休息される野外の展望所のことを指します。

この石碑は、大正11年(1922)11月18日に、昭和天皇が陸軍特別大演習に際し、
攝政宮として軍を御統監された記念として建てられたものです。
この一帯を青葉丘といい、天皇陛下は青葉丘から演習を視察されました。

記念碑の文字は、当時の第11師団長陸軍中将 向西兵庫が揮毫しました。



墨痕も鮮やかな追悼式会場立て札。




「あゝ航路啓開隊」掃海殉職者顕彰碑顕彰碑建立の由来

として、戦後日本近海に敷設された機雷の由来から掃海隊の活動、
そして掃海隊員の殉職などが説明してあります。
写真は昭和24年5月23日、触雷沈没したMS27号。
MSとはマインスイーパー(機雷掃海)のことです。
  


中村屋利兵衛さんの寄贈した立派な灯籠の横にあるのは掃海母艦「はやせ」の錨。

 


掃海母艦「はやせ」は昭和46年竣工、ペルシャ湾掃海で
日本の掃海部隊の名前を世界に轟かせただけでなく、阪神大震災、
北海道南西沖地震にも出動し成果を上げてきました。

この錨は金刀比羅神社に奉納されたという形です。

会場入り口の受付で名前を名簿と照合し、テント下の自分の名前の書かれた椅子に着席。
なんと、このわたしの名前までがちゃんと印刷されて椅子に貼ってありました。
いったい誰がこんな席割りを考えるのか・・・。



関係者が集まるまで、というか偉い人が来るまでは皆比較的気楽な姿勢。
音楽隊も雑談したり軽くさらったりして過ごしています。



掃海隊群司令に挨拶に行く海上保安庁第6管区の偉い人。
第6管区は高松など香川に2つ、愛媛に4つ事務所を持っています。
定義としては瀬戸内海を管轄する管区のようですね。



端っこにさりげなくふりかけさんが写っております。
この二人の神官は、いつもは神宮に奉納してある霊名簿を
追悼碑前に奉安するためにここまで持ってきたのです。



自衛官席が全部埋まり、式の開始を待っている状態の音楽隊指揮者。
1等海尉です。



掃海隊群の幹部たち。彼らも全員1尉です。



陸自の偉い人と海自の幕僚たち。
後ろの方には専任海曹や副官なども。
空自の制服がありませんが、つまりこの近くに基地がないってことでしょう。



慰霊碑に一番近いテントの下が殉職隊員たちのご遺族です。
広報の自衛官によると、参加されるご遺族の数は年々減少しており、
79名の殉職者に対して今年の参加者はわずか14名でした。

去年などは若い人もいたそうですが、今年は40代が最弱年といったところです。



慰霊碑の最も近くに座るのは主催である呉地方総監。
地方総監の隣は遺族の方で、



膝に遺影を持っての追悼式参加でした。
水兵姿の若者が着ているのは、戦後の自衛隊の制服か、
それとも海軍の水兵であったころのものか、どちらでしょうか。



そして追悼式が始まりました。
・・・・・が、わたしはなまじ正式に招待されての参加であったため、
前後左右にずらりと防衛団体や元自衛官のおじさまたちに固められ、
このような位置から式を見守ることになってしまいました。

まだ幸いだったのはそれほど地位が高くないため、前列でなかったことです。
向かいに自衛隊の高官が並んでいるのにカメラを構えるなどできません。
 
まあ、後ろの席であっても式が始まってからは立ったり座ったり、
献花を行ったりと式進行の合間に撮るのも憚られましたので、
これは本当に昨日の予行演習で写真を撮っておいてよかったと思います。

 

神官によってここに運ばれてきた霊名簿は、呉地方総監の手で
慰霊碑の前に奉納され、式の進行をそこで見守ります。



儀仗隊の写真も遠慮してほとんど撮れませんでした。



黙祷に続き3名ほどが追悼の辞を述べ、儀仗隊の弔銃発射が終了。
もちろんこの間、カメラは置いたままです。

ふりかけさんは実は招待されてテントに座ることになっていたのですが、
前日の予行演習の時に、彼女が

「椅子に座ったまま写真を撮ってもだいじょうぶなんですか』

と聞くと、係の自衛官が

「だいじょばない!」

と一言でそれを否定したため(笑)、彼女は椅子は最初から用意せず、
式の間じゅうカメラマンに徹して会場を音もなく静かに、
どこにいたかもわからぬくらいご自分の気配を完璧に消した状態で仕事しておられました。

ちなみに彼女によると、「女性自衛官マニア」はこの日もきっちり来ていたそうです。



ようやく写真を撮れる雰囲気になったのが献花が始まってから。
市ヶ谷の地球防衛会総会の後のパーティでご挨拶させていただいた幕僚副官。
海幕長はこの追悼式には参加しないことが決まっており、
副官は海幕長の代理での出席です。



まだ着任したばかりの掃海隊群司令、湯浅海将補。



岡群司令の前の掃海隊群司令だった徳丸元海将補。
父上は掃海隊に従事しており、触雷した掃海艇にほんの偶然で乗らずに殉職を免れた、
ということを、水交会で行われた壮行会の時に直接お聞きしました。

艦艇出身であった自分が掃海隊群の司令になったというのも、偶然というよりは
運命だと思う、とおっしゃっておられたのが印象的でした。



慰霊碑の反対側には掃海隊群の海曹と海士が整列しています。
今空席になっているのは、呉水交会の人々が献花しているからです。

わたしはこのとき地球防衛会の会長と二人で献花を済ませていました。
会長の動きに合わせようと横目で様子を伺っていると、献花のあとなぜか
何もせずにしばらく固まっていたのでどうしたのかと思ったら、あとから

「危なかった。献花の後、いつもの癖で二礼二拍手一礼しそうになった」



こちらの幹部も式が始まる前からじっと直立のまま。
立っているのはいつものことでなんでもないのでしょうけれど、鼻がかゆくなったり、
こういうところに立っていて蚊に刺されたりしたら辛いだろうなあ・・・。
もちろん雨が降ったら屋根のないところに立っている彼らはずぶ濡れです。

この日の式典の間、現地は曇り空でしたが、ついに雨は降りませんでした。
例年直射日光が差して大変暑いということなので、もしかしたら今年は
しのぎやすく彼らにとっても楽な追悼式であったのではないでしょうか。



陸自の制服を着ているのは地本勤務の隊員です。



続いて貫禄満点、幕僚の皆さん。 



献花の一番最後は「幹部・海曹・海士代表」でした。
献花を行う時、かならず遺族、列席者に一礼を行い、終わってからも礼をします。
一番前列に座っている人たちはその都度答礼で頭を下げていました。



追悼式が終了。
これだけの人数が献花を行ったことになります。
供物は魚、野菜、果物などで、魚は生の鯛でした。



会場を出て階段を上ったところに甘酒を売っている店があります。
会長が飲みたいというのでわたし、ふりかけさん、ふりかけさんの知人で
ご子息が自衛官という方の4人で冷やし甘酒をいただきました。
甘さ控えめで案外さらっとしていておいしかったです。



このころは結構雨が降っていたので、大門の軒下で甘酒を楽しんでいると、
自衛官が二人やってきました。

「毎年これを楽しみにしているんですよ」



あまりにものんびりしすぎて、シャトルバスにのる参加者はもういませんでした。
はたしてバスが来てくれるのかどうか心配していたのですが、
この呉音楽隊の隊員たちと同じバスに乗ることになりました。

式次第には「追悼演奏」があり、音楽隊は

「掃海隊員の歌」

「海ゆかば」

などを演奏しましたが、なぜかこの日一度も行進曲「軍艦」が流れませんでした。


バスを待っている間、わたしはひとりの隊員に、献花の時に何回もリピートして
演奏されていた大変印象的な曲の題名を訪ねてみました。

「”ロマネスク”です」

ロマネスク/Romanesque 
 


吹奏楽の世界では有名なジェイムズ・スウェアリンジェンの手による佳曲で、
品格があり憂愁を帯びたメロディは、日本の戦後の海を啓開し、
斃れた男たちの魂を悼みその偉業を讃えるに相応しいと思われました。


ただ、この日一度も行進曲「軍艦」が演奏されることがなかったのはなぜだったのか。
わたしはいまでもすっきりしない気分でその理由を考えています。




続く。
 


「ぶんご」艦上レセプション~第65回 掃海殉職者追悼式

2016-06-01 | 自衛隊

さて、呉地方総監乗艦後、車を無事に埠頭に停めることができ、
ここでわたしは招待券を持っている地球防衛会長と落ち合い、
さらに少し開場を待つことになりました。

 

「ぶんご」の後ろには掃海艇が2隻。
690の「みやじま」(すがしま型10番艇)と730の「くめじま」(うわじま型5番艇)です。
どちらも木製で、「くめじま」は退役が間近ということでした。



さすがは海上自衛隊、時間きっちりでないと発動いたしません。
皆この位置から乗艦の許可が出るのを待ちました。
周りを見回すと、レセプションの招待客だけでなく、明らかにマニアの類に属すると
思しき人、たまたま通りかかった観光客などもいました。

招待者は青いテントで受付をして名札を付けるのですが、
大勢に紛れて招待されていない人が忍び込んだりできそうです。
(でもちゃんとチェックしていると思うので変な考えを起こさないように)
 


ラッタルの下の一団の海士くんたちは、 偉い人が来たとき
全員でお迎えの列(と列という)を作るために集合している模様。



というわけで、開場になったのでさっそく乗艦を行いました。
まだ食べ物には覆いがかけられたままです。



格納庫の中がいわゆる「上座」にあたり、市長や国会議員などの名前が
立食なのにテーブルに書いてあります。



偉い人テーブルに近づいてみました。
なんかすごく気合の入った飾りがある~。
人参をカットした「掃海隊群」と海上自衛隊のマーク。
一体どうやってカットしたのかいぶかしむレベルです。



かぼちゃを半分に切って太鼓橋とキュウリの欄干。



人参を丸々一本飾り彫りした塔の飾り。
なんと、かぼちゃで作った塔の屋根には小さな人参のランタンがぶら下がっています。
「ぶんご」のキッチンには、この飾りのためのマニュアルが受け継がれているのでしょうか。
ただ一夕の宴に何時間か人の目を楽しませるだけのために、どれだけの労力が
このかぼちゃと人参の「風景画」に込められているのか・・・。

わたしは激しく感動し、この偉業を後世に伝えるために写真を撮り、
ここに発表することにしました。

それにしても、宴会が終わった後、この野菜は一体どうなるのだろうか。



わたしがかぼちゃと人参の飾り彫りに大いに感動しているうち、宴会が始まり、
まず呉地方総監が挨拶を行いました。

わたしは一緒にいた人がこの辺にいる偉い人に軒並み挨拶を行ったため、
ついでというかおまけという形で名刺をまるで手裏剣のように配りました。



開場で振る舞われている日本酒はおなじみ「千福」。
練習艦隊の艦上レセプションではお土産に紙パックの千福がもらえました。

先日、海軍食生活研究家の高森直文氏のお話を聞く機会がありまして、
そのときに氏の新著である「海軍と酒」を購入したのですが、それによると、
遠洋航海(練習艦隊)で日本酒を積んで赤道を越えたとしても品質に変化のないように
海軍が呉にある千福酒造に

「西洋に日本酒のうまさを紹介しようとしているのに腐るようでは具合が悪い」

と依頼して、明治末期には遠洋航海にも全く劣化しない保存法を編み出し、
遠洋航海先の友好行事(このような艦上レセプション)にも

「芳醇ヨク品質優良ニシテイササカモ変化ヲミトメズ」

と海軍を感謝せしめたという歴史を持っているということを知りました。

わたしの同行した方は日本酒を愛でる会の全国組織会長だったりして、
紙パックの酒はあまり認めない、という厳しい舌をお持ちのうえ、
千福は「甘すぎる」ということであまりお好きではないということでした。



そして、海上自衛隊といえばカレー。
カレーは大小二種類のお椀が用意されていて、好みで量を選ぶことができます。



こちら小さい方のお椀。
福神漬け好きなんですが、あまりにも真っ赤だったのでらっきょうだけにしました。
で、これをごらんになればお分かりかと思いますが「ぶんご」オリジナルは
なんとひき肉のカレーなんですねー。

ひき肉の大きさに全ての野菜類も細かく刻まれており、さすがの美味しさでした。
「かしま」のカレーもそうでしたが、艦艇カレーは決してその期待を裏切りません。



呉海自カレーとして出品したようですね。
カレー皿をあしらった「呉」という字の横のSH60が可愛い(笑)



らっきょうの横に海自の装備であるカメラはけーん。
なんとレンズフードとスピードライトに自衛隊マークが。

海自はNIKONが多いと言っている中の人もいましたが、カメラマンの好みで
Canon派もそれなりにいるようです。
しかしこんなところにカメラ置いて大丈夫なのか。



屋台の焼き鳥屋。
さりげなく「味自慢」「うまい!」などと書いてあります。
焼き鳥、なぜか食べるのを忘れました。



そんなおり、港には「第1こくさい丸」という船が入ってきました。
国際フェリーという会社ですが、航路は小豆島と高松を往復しているだけです。
ちなみに、同じ航路を就航している第32こくさい丸は、キリンが屹立しています。

アップにしてみましたが、従業員しかいないように見えます。
そもそも小豆島と高松間に1日8便の船が必要なのか?という気もしますが、
小豆島って2万8千人も住んでいるらしいので通勤通学の足が必要なんでしょう。



自衛艦旗降納が行われるため、皆が艦尾に集まりました。
かなり前から用意して、身じろぎもせず発動を待ちます。

 

掃海艇などなら一人で足りるのかもしれませんが、「ぶんご」ともなると
5人のラッパ隊が必要です。

瀬戸内海に浮かぶ島々は夕靄に霞み、 たった今落ちた陽の名残が
薄暮の空を薄く紅色に染めています。



「♪ど~そ~ど~ど~み~ ど~そ~ど~ど~み~ 
み~み~そ~ み~み~そ~ み~どみそ~そ~み~どどど~
そ~そそそ~そ~み~ど~み~ど そ~そそそ~そ~み~ど~み~ど以下略」

喇叭譜「君が代」が吹鳴されます。
5人の合奏であるせいか、息継ぎが必要なせいか、フレーズの切れ目を
必要以上に長く取っていたのがとても印象的でした。






なみに、谷村政次郎氏の著「海の軍歌と禮式曲」によると、
この「君カ代」は明治18年に制定された喇叭譜の第1号で、
昭和29年の海上自衛隊発足に際し、軍艦旗と同じ図柄の自衛艦旗が採用されたとき
同時に復活したものです。

ちなみに海上自衛隊は幸運にも海軍の「君カ代」を受け継ぐことができたのですが、
陸空では、警視庁音楽隊(しかも陸軍出身者)が”急遽”作曲した喇叭譜を使用しています。
しかもこの「戦後喇叭譜君が代」、作った本人が


「お座なりで今でも気がとがめる。あれは作り直すべきだった」

と言っていたという・・・。




後甲板には掃海具を使った機雷掃海のジオラマが展示してあります。
機雷の繋留を曳航した掃海具で切断し浮かせて処分する係維掃海。


 
こちらは「総合掃海」とあります。



いくつもの凹みがあるのがリアル。
係維式係維式触発機雷といって、糸で海中をふわふわしており、
船にぶつかって角のような部分が当たると炸薬が衝撃で爆発します。



沈底式機雷といって海底に沈めておけば、船が通った時の音、磁気、
そして水圧の変化を感知して爆発するというものです。

これが爆発した時の船への影響はすさまじいもので、船体には
大きな力とともにねじれの力がかかるので、場合によっては
瞬時にして船体が真っ二つになることもあるということです。



艦尾から後ろにいるくめじまとみやじまを望む。
電飾の灯が点灯されました。
掃海艇はどうやら今日一般公開されていたようです。



基本立食ですがすっかりテーブルに落ち着いて飲み食いする人もあり。
パーティ文化のあるアメリカなら皆が歩き回っていろんな人と会話するのですが、
日本人のパーティはどうも知っている人と話し込む傾向にあります。

そんな中、掃海隊群司令になったばかりの湯浅海将補は副官とともに
会場をくまなく歩いて皆にまんべんなく話しかけておられました。



自分の若いときの話を熱心に語るご老人と、相槌を打ちながら
それを聞いてあげている若い自衛官の図。
「僕は復員省にいて」という言葉を小耳に挟み、近づいて内容を聞こうとしましたが、
それ以上は残念ながら解読(暗号じゃないけど)不可能でした。



このころすっかり日は沈みましたが、まだ少し雲が朱く染まっています。



屋台はもう一つ、てんぷらがありました。
わたしは実は昨年のお正月に山の上ホテルのてんぷらコースをいただいて
あまりのヘビーさに直後からまるまる一日気持ちが悪くなったということがあって、
それ以来てんぷらというものを避けてきたのですが、これを見て
ふと食べてみたくなり、エビとさつまいもをいただいてみたところ、
無事トラウマを払拭することができました。

やはりてんぷらは揚げたてに限ります。

それを言うなら山の上ホテルは目の前で揚げたのをすぐ食べたわけですが、
とにかく量が多すぎ、しかも最後までてんぷらしかでてこないという
「てんぷら地獄」でした。


後から聞くと、ごま油は結構体に負担が大きいそうです。 




すっかり日が落ちて大変いいムードです。
宴会もそろそろ終わりが近づいてきました。



てんぷら屋さんも店じまいモード。



気がつけばいつの間にか「蛍の光」が流れていました。
ふりかけさんが

「去年はあったのに今年は呉音楽隊の生演奏がなかった」

となんども残念そうに言っていたのですが、後から聞くと
これもまた熊本の地震に配慮した自粛であったということのようです。

さて、というわけで「最後の最後に、写真を撮りながら退場する」
というふりかけさんに先立って、「ぶんご」を降りることにしました。
おなじみ、龍が機雷をむんずと掴んでいる掃海隊群のマークのマットを踏んで。



退出するお客さんに手など握られちゃったりしている湯浅掃海隊群司令。
わたしが艦上レセプションに呼んでいただいたときの練習艦隊司令は
ほかでもないこの湯浅海将補でした。

海上自衛隊の人事の不思議なところで、(あくまでも素人視線で)
前々群司令の徳丸海将補もご自身から「わたしは艦艇出身で」と聞きましたし、
この方も掃海畑の方ではありません。

全くその世界(掃海というのは本当に特殊だと感じます)について
知らずに海自での経歴を重ねてきた自衛官が、ある日突然
群のトップになる、というのもなんだか解せないものです。(素人視線で)

素人にはわからない理由あってのことなのでしょうけど。



皆が一度にラッタルを降りると、妙な振動があってとっても妙な感覚です。
その振動に揺られながら降りていくと、ラッタルの最後の段は結構地面から高くて、
レセプションのために昼間とは違うサンダルを履いていたわたしは
飛び降りるのに少し怖い思いをしました。

一番下で危険がないか見張っている海曹の方に

「ちょっと危なかったですね」

とさわやかに声をかけられながら「ぶんご」 を後にします。



車まで戻ると、「みやじま」「くめじま」が電飾で闇の中に
その姿を仲良く浮かび上がらせていました。
停泊中には体験航海も行われたと聞いた気がします。



「ぶんご」と舫杭にかけられたもやい。
カップルがデートらしい風情でやってきて、男性の方が女性に

「あの後ろのハッチが開くんだよ」

と指差して教えてあげていました。



明日の朝の集合時間と場所を打ち合わせてふりかけさんをホテルに送り、
わたしも部屋に帰ってきました。
「ぶんご」と掃海艇たちの電飾が形作る大小3つの三角形が埠頭の闇に浮かんでいます。

さあ、明日はいよいよ掃海殉職者追悼式本番です。


続く。